「エマーヌエル・フォイアーマン」の版間の差分
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{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照--> |
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{{Portal クラシック音楽}} |
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| Name = エマーヌエル・フォイアーマン<br/>Emanuel Feuermann |
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'''エマーヌエル・フォイアーマン'''('''Emanuel Feuermann''', [[1902年]][[11月22日]] [[コロミヤ]] [[:en:Kolomyia|Kolomyia]] - [[1942年]][[5月25日]])は現在の[[ウクライナ]]出身の[[ユダヤ系]]で、[[オーストリア]]→[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[チェリスト]]。芸術的・年齢的に[[パブロ・カザルス]]に次ぐチェロの巨匠として期待されたが、若くして亡くなった。 |
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| Img = Emanuel Feuermann Scan10003.JPG |
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| Img_capt = エマーヌエル・フォイアーマン |
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| Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> |
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| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> |
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| Background = classic |
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| Birth_name = Emanuel Feuermann |
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| Alias = |
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| Blood = <!-- 個人のみ --> |
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| School_background = ウィーン音楽アカデミー |
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| Born = [[1902年]][[11月22日]] {{RUS1883}}(現・{{UKR}}) コロミヤ |
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| Died = {{死亡年月日と没年齢|1902|11|22|1942|5|25}} {{USA1912}} [[ニューヨーク]] |
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| Origin = {{AUT}}→{{USA1912}} |
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| Instrument = <!-- 個人のみ --> |
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| Genre = コンサート |
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| Occupation = チェリスト、[[教育者]] |
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| Years_active = [[1914年]] - [[1942年]] |
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| Label = [[パーロフォン]]<br>[[EMI]]<br>[[RCAレコード|RCA]]<br>[[日本コロムビア]]<br>[[テレフンケン]] |
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| Production = |
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| Associated_acts = |
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| Influences = |
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| URL = |
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| Current_members = <!-- グループのみ --> |
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| Past_members = <!-- グループのみ --> |
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| Notable_instruments = ダビッド・テヒラー1741年製<br>ドメニコ・モンタニアーナ1735年製<br>デ・ムンク・ストラディバリウス1730年製<br>マッテオ・ゴフリラー1720年製 |
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'''エマーヌエル・フォイアーマン'''('''{{Lang|en|Emanuel Feuermann}}''', [[1902年]][[11月22日]] - [[1942年]][[5月25日]])は、[[ロシア帝国]]出身の[[オーストリア]]および[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[チェリスト]]。 |
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幼少時から公開の演奏会に出演し、成長して名教師とうたわれたチェリストの[[ユリウス・クレンゲル]]の門下となるが、伝統的なクレンゲルの奏法は継承せず新たに台頭してきた[[パブロ・カザルス]]の奏法に追従して独自の奏法に磨きをかけた<ref name="n1">[[#野澤 (1)]]</ref>。20世紀前半を代表するチェリストの一人として、また芸術的および年齢的にカザルスに次ぐチェロの巨匠として期待されたが、[[第二次世界大戦]]中に若くして亡くなった。 |
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日本語表記では、「'''エマヌエル・フォイアマン'''」と音を伸ばさない表記も見られる。 |
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==生涯== |
==生涯== |
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エマーヌエル・フォイアーマンは1902年11月22日、[[イースター・エッグ]]で名高い[[ロシア帝国]](現・[[ウクライナ]])の{{仮リンク|コロミヤ|en|Kolomiya}}に生まれる。両親はアマチュアの音楽家であり、特に父は[[ヴァイオリン]]と[[チェロ]]の演奏に長け、また兄のジグムントも音楽的才能を認められていた。フォイアーマンが5歳となった1907年に一家は[[ウィーン]]へと移り住むが、これはあくまで兄ジグムントのデビューを控えてのものであった。ウィーンにおいてフォイアーマンは、9歳のころから当時[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]の首席チェリストで[[アルノルト・ロゼ]]主宰の{{仮リンク|ロゼ弦楽四重奏団|en|Rosé Quartet}}のメンバーでもあった{{仮リンク|フリードリヒ・ブックスバウム|en|Friedrich Buxbaum}}に師事するようになる<ref name="t176">[[#高橋]] p.176</ref>。1914年2月の11歳のときに[[フェリックス・ワインガルトナー]]指揮のウィーン・フィルと共演し、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]の[[チェロ協奏曲第2番 (ハイドン)|ニ長調協奏曲]]で正式にデビューを飾る<ref name="t176"/><ref name="campbell">[[#Campbell]]</ref><ref group="注釈">1912年説も存在するが、野澤は1912年説は「誤りらしい」とする([[#野澤 (2)]])。</ref>。また、1912年にはカザルスのウィーン・デビューのリサイタルを聴く機会を得て感銘を受けた<ref name="t176"/>。 |
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[[イースター・エッグ]]で名高いウクライナ(当時は[[ロシア]]領)の[[コロミヤ]]に生まれる。7歳の時に一家で[[ウィーン]]に移住する。初めは[[ピアノ]]を習っていたが、やがて父親から[[チェロ]]を教わるようになる。[[1912年]]([[1913年]]、[[1914年]]説あり)に[[フェリックス・ワインガルトナー]]指揮のウィーン交響楽団と共演(共演者には異説もある)して正式にデビューを飾り、「天才少年」として注目されるようになる。その後、[[ライプツィヒ]]の高等音楽院で名教師の[[ユリウス・クレンゲル]]に師事。[[1918年]]には16歳にして[[ケルン]]音楽院の教授陣に加わり、それと平行してギュルツェニッヒ管弦楽団(現在はケルン・フィルハーモニー・ギュルツェニヒ管弦楽団)の首席チェリストの座に就いた。 |
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[[第一次世界大戦]]真っ只中の1917年、フォイアーマンは[[ライプツィヒ]]に赴き、高等音楽院に入学してクレンゲル門下となる。クレンゲルは「私が面倒を見てきた者たちの中で、これほど才能に恵まれた者はいなかった・・・・・・神の恵みを受けた芸術家にして愛すべき若者」とフォイアーマンを絶賛している<ref name="t176"/><ref>[[#Morreau]] p.13</ref>。ライプツィヒ滞在中の1919年、チェリストの[[フリードリヒ・グリュッツマッハー]]の甥で[[ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団|ギュルツェニヒ管弦楽団]]の首席チェリスト、またギュルツェニヒ音楽院の教師であったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・グリュツマッハーが亡くなり、クレンゲルはフォイアーマンをその後任として推薦した<ref name="campbell"/>。フォイアーマンは10代ながら音楽院で教鞭をとり<ref name="t176"/>、ギュルツェニヒ管弦楽団首席指揮者の[[ヘルマン・アーベントロート]]の指名により管弦楽団の首席チェリストに就任した<ref name="t176"/><ref name="campbell"/>。ライプツィヒおよび[[ケルン]]時代にはほかに、ブラム・エルダーリンク主宰の弦楽四重奏団のチェリストを務めたり、兄ジグムントおよび指揮者でピアノにも長けた[[ブルーノ・ワルター]]と短期間ながらピアノ・トリオを組んだりもした。1923年にウィーンに戻ったあとは、[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]国内や成立間もない[[ソビエト連邦]]など海外でリサイタルを開き、ソリストとしてのキャリア固めを行った<ref>[[#高橋]] pp.176-177</ref>。1927年には[[イギリス]]にデビューし、[[ヘンリー・ウッド]]に絶賛される<ref name="campbell"/>。 |
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[[1923年]]ごろからはウィーンを本拠地にソリストとしての活動を活発化させ、オーストリア国内や[[ドイツ]]はもちろんのこと、[[イギリス]]や[[ソビエト連邦|ソ連]]などに演奏旅行をしている。[[1929年]]からはベルリン高等音楽院の教授となり、[[齋藤秀雄]]などを教えた。教授としての名声以上に彼の名を高めたのは、[[ヨゼフ・ヴォルフシュタール]]([[ヴァイオリン]]。[[貴志康一]]の先生)、[[パウル・ヒンデミット]]([[ヴィオラ]])とともに結成した「100万ドル・トリオ」であった。ヴォルシュタールの早すぎる死([[1931年]])の後は[[シモン・ゴールドベルク]]をメンバーに加えて活動を続けたが、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の登場は彼の生活を一変させた。彼はベルリンでの職を辞しなければならなかった。ベルリンの職を辞した翌年の[[1934年]]には初来日を果たしている。 |
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1929年、フォイアーマンは[[ベルリン芸術大学|ベルリン高等音楽院]]の教授となる。1933年までの[[ベルリン]]時代は、フォイアーマンのキャリア中最も重要な時期に位置付けられる<ref name="t177">[[#高橋]] p.177</ref>。ソリストとしてはヴァイオリンの[[フレッシュ・カーロイ|カール・フレッシュ]]、[[シモン・ゴールドベルク]]およびヨゼフ・ヴォルシュタール、作曲家であり[[ヴィオラ|ヴィオリスト]]としても重要な[[パウル・ヒンデミット]]と弦楽三重奏団を組み、その他[[ヤッシャ・ハイフェッツ]]、[[ウィリアム・プリムローズ]]、[[アルトゥール・ルービンシュタイン]]などと共演を果たした。教職面では[[齋藤秀雄]]<ref group="注釈">齋藤はクレンゲルにも師事している([[#高橋]] p.176)。</ref>を含む弟子の指導にあたった。齋藤がフォイアーマンから[[ヨハン・セバスチャン・バッハ|J.S.バッハ]]の楽曲を学んだ時のこと、フォイアーマンは楽典通りの奏法を齋藤に押し付けようとせず、時に迷いを見せることもあった<ref name="t179">[[#高橋]] p.179</ref>。齋藤はこのことから、「バッハを奏くためには考えなくてはいけない。自分で解釈をつけない」ことを学んだ<ref name="t179"/>。しかし、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ]]の台頭はユダヤ系のフォイアーマンのポストに危機を与えることとなる。[[ナチ党の権力掌握]]後の1933年4月3日、フォイアーマンはベルリン高等音楽院を解雇され、ゴールドベルクやヒンデミットとともに[[ロンドン]]に移らざるを得なかった。 |
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[[1935年]]からはアメリカを事実上の本拠地にして活躍。1月には[[ブルーノ・ワルター]]指揮の[[ニューヨーク・フィルハーモニック|ニューヨーク・フィル]]と[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]のチェロ協奏曲ニ長調作品101を演奏してアメリカ・デビューを飾り、[[1938年]]5月には[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]指揮の[[BBC交響楽団]]と共演し、[[リヒャルト・シュトラウス]]の「[[ドン・キホーテ (交響詩)|ドン・キホーテ]]」を演奏した(同年10月には[[NBC交響楽団]]でも同曲を演奏)。また[[アルノルト・シェーンベルク]]からチェロ協奏曲(原曲は[[ゲオルク・マティアス・モン]](Georg Matthias Monn)のチェロ協奏曲)を献呈されている。室内楽の面でも、最初は[[ブロニスワフ・フーベルマン]]、[[アルトゥール・シュナーベル]]とトリオを組んだが、[[RCA]]の企画により[[ヤッシャ・ハイフェッツ]]、[[アルトゥール・ルービンシュタイン]]と新たな「100万ドル・トリオ」を結成した。[[1941年]]には[[フィラデルフィア]]のカーティス音楽院と[[カリフォルニア州]]でマスタークラスを開き、多くのチェロを学ぶ学生を教えた。[[1942年]][[5月11日]]、アメリカの[[市民権]]を得て晴れてアメリカ国民となったが、直後に腹痛を訴え入院。手術自体は簡単なものであったが、術後に[[腹膜炎]]を発症し[[5月25日]]に急逝した(現在で言う[[医療事故]]だったとも言われている)。 |
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ドイツ語圏の音楽界から半ば締め出されたフォイアーマンは、主にイギリスおよびアメリカなど英語圏での活動に重きを置く。1934年秋には日本を訪れて東京と名古屋、関西でリサイタルを開催<ref name="n1"/>。アメリカの地を踏んでからは、まず[[フレデリック・ストック]]指揮の[[シカゴ交響楽団]]と共演<ref name="n2">[[#野澤 (2)]]</ref>、次いで1935年1月2日と4日にはワルター指揮の[[ニューヨーク・フィルハーモニック|ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団]]の定期演奏会でハイドンのニ長調協奏曲を演奏した<ref name="t177"/><ref>[[#宇野]] p.413</ref>。この1935年はフォイアーマンにとっては公私ともに様々な出来事があり、ケルンでエヴァ・ライフェンベルクと結婚してウィーンに居を構える<ref name="t177"/>。[[アルノルト・シェーンベルク]]からはチェロ協奏曲<ref group="注釈">原曲は[[マティアス・ゲオルク・モン]]のチェロ協奏曲</ref>を献呈され、12月7日に[[トーマス・ビーチャム]]の指揮を得て初演した<ref name="t177"/>。1936年4月に再度日本を訪問し<ref name="n1"/>、1937年にはウィーンの居を引き払って[[チューリヒ]]に移る<ref name="t177"/>。ところが、1938年3月13日の[[アンシュルス]]はフォイアーマンをヨーロッパ大陸から離れさせることとなった。[[ブロニスラフ・フーベルマン]]とともに[[イギリス委任統治領パレスチナ|パレスチナ]]にいったん移り、さらにアメリカに移って腰を落ち着けることとなった。 |
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クレンゲルに学んだものの19世紀以来の伝統的奏法には馴染まず、カザルスの奏法を間接的に受け継いで独自の奏法を編み出していった。戦後生まれのチェリストの多くは、彼の奏法を基本として学んでいると言われている。また、ハイドンのニ長調協奏曲は他人の手が加えられた版で演奏されることがほとんどだったこの時代、彼はハイドンが書いたとおりのオリジナル版で演奏し、以後ニ長調協奏曲はオリジナル版で演奏されることが多くなっていったと言われている。 |
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アメリカに落ち着いたフォイアーマンは、1941年から[[フィラデルフィア]]の[[カーティス音楽学校]]と[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]で教鞭をとるが、エヴァ夫人によれば、フォイアーマンはカーティスのポストを非常に喜んでいた<ref name="t178">[[#高橋]] p.178</ref>。カーティスでは、のちに[[ボザール・トリオ]]のメンバーとなる{{仮リンク|バーナード・グリーンハウス|en|Bernard Greenhouse}}や[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]率いる[[NBC交響楽団]]に在籍した{{仮リンク|アラン・シャルマン|en|Alan Shulman}}といったチェリストの指導にあたった。ソリストとしてもトスカニーニとの共演やハイフェッツ、ルービンシュタインとのいわゆる「100万ドル・トリオ」の結成など活発に行ったが、かつての盟友ヒンデミットが自身のチェロ協奏曲の初演を[[グレゴール・ピアティゴルスキー]]に委ねたことは、ヒンデミットとの仲を冷ますのには十分であった<ref>[[#Morreau]] p.227</ref>。1942年5月11日、フォイアーマンは[[アメリカ合衆国の市民権|アメリカ市民権]]を取得してアメリカ国籍となったが<ref name="t178"/>、直後に[[痔]]の手術を行った際に合併症で[[腹膜炎]]を併発させ、5月25日[[ニューヨーク]]で世を去った<ref name="campbell"/><ref name="fag">[[#Find a Grave]]</ref><ref>[[#Morreau]] pp.260-262</ref>。39歳没。墓は[[ニューヨーク州]][[ウエストチェスター郡 (ニューヨーク州)|ウエストチェスター郡]]{{仮リンク|ヴァルハラ (ニューヨーク州)|en|Valhalla, New York|label=ヴァルハラ}}のケンシコ墓地にある<ref name="fag"/>。 |
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==フォイアーマンと日本== |
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フォイアーマンは1934年10月と[[1936年]]4月の二度来日している。 |
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;最初の来日 |
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「チェロで「[[ツィゴイネルワイゼン|チゴイネルワイゼン]]」を弾く」などと喧伝されたが、レコードでその名を知っていたファンを除けば一般的人気はほとんどなく(当時の日本で一番名が知られていたチェリストはカザルスであり、次に知られていたのは[[モーリス・マレシャル]]であった{{要出典|date=2008年2月}})、リサイタルのチケットの売れ行きも芳しくなかった。特に[[10月4日]]の初日の観客は300人だったと言われている。しかし、最初のリサイタルを聞いた人たちによる[[口コミ]]で評判が広まっていき、チケットの売り上げも上昇していったというエピソードがある。リサイタルの他、[[NHK交響楽団|新交響楽団]]と2度の共演を行っている。 |
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;2度目の来日 |
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前回来日時の評判があったにもかかわらず、やはり不入りが目に付いたという記録もある。リサイタルの他、新響、および[[東京フィルハーモニー交響楽団|中央交響楽団]]との共演もあった。 |
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==使用楽器== |
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なお、日本での来日演奏家によるレコーディングが珍しかった時代に、日本コロムビアにレコーディングをしている('''レコーディング'''を参照)。 |
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1929年より前の使用楽器は不明であるが、1929年以降は4基の名器を使用している。1929年に[[ローマ]]で{{仮リンク|ダビッド・テヒラー|en|David Tecchler}}の1741年製のチェロを購入<ref name="m340344">[[#Morreau]] pp.340-344</ref>。1932年には{{仮リンク|ドメニコ・モンタニアーナ|en|Domenico Montagnana}}の1735年製を入手し、このチェロは後年「フォイアーマン」と命名されて[[スイス]]のコレクターが所蔵している<ref>{{cite web | publisher = Cozio | title = ID: 2637, Type: cello | url = http://www.cozio.com/Instrument.aspx?id=2637 | accessdate = 2013-07-31 }}</ref>。イギリスのチェリストである[[スティーヴン・イッサーリス]]も「フォイアーマン」の名を冠されたチェロで演奏しているが、このチェロは{{仮リンク|デ・ムンク・ストラディバリウス|en|De Munck Stradivarius}}の1730年製で、[[日本音楽財団]]が所有してイッサーリスに貸与されているものである<ref name="m340344"/>。その他、{{仮リンク|マッテオ・ゴフリラー|en|Matteo Goffriller}}の1720年製も所有しており、フォイアーマンの没後は[[ヨーゼフ・シュースター (チェリスト)|ヨーゼフ・シュースター]]および{{仮リンク|ヤッシャ・シルバーステイン|en|Jascha Silberstein}}が所有した<ref>[http://www.cembaldamour.com/artistsbios.html], Cembal d'amour artist biography for Jascha Silberstein accessed July 31, 2013</ref>。 |
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==賞賛と人物== |
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==レコーディング== |
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クレンゲルの賞賛を必要以上に裏付けるわけではないが、フォイアーマンは短い人生の中でクレンゲル以外からも多くの賞賛を受けた。ハイフェッツはピアティゴルスキーと長く共演しているにもかかわらず「100年に一度の才能」と称え<ref>[[#Morreau]] p.x.,266</ref>、ルービンシュタインもまたカザルスと比較した上で「全世代を通じて最も偉大なチェリスト」と称えた<ref>[[#Morreau]] p.x.</ref>。ハイフェッツとルービンシュタインからの評価を「100万ドル・トリオ」で組んでいたことを踏まえて差し引いても、アメリカにデビューした際の評論家の賞賛もまた素晴らしく<ref>[[#Morreau]] pp.123-125</ref>、1938年に[[BBCプロムス|プロムス]]に客演した際にも雑誌『{{仮リンク|ストラッド|en|The Strad}}』の評論家レイド・スチュワードは「私はもはや、今生きているチェリストの中でカザルスを除けばフォイアーマンが最上位であることに疑うことない」と評価した<ref>[[#Morreau]] p.186</ref>。早すぎる死は多くの音楽家に惜しまれ、葬儀にはトスカニーニやフーベルマンのほか[[ルドルフ・ゼルキン]]、[[アルトゥル・シュナーベル]]、[[ミッシャ・エルマン]]、[[ジョージ・セル]]および[[ユージン・オーマンディ]]といったそうそうたる顔ぶれが参列した<ref>[[#Morreau]] p.266</ref>。 |
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機械録音時代の1920年代からスタートし、死の間際までの約20年間(生涯のほぼ半分に相当)に多くの録音がある。大きく3つの時期に分けられる。近年はオーパス蔵などから音質を向上させた復刻CD、グリーンドア音楽出版からSP盤の響きに近づけたCDが発売されている。 |
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;前期 |
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メインは技術的制約等もありほとんどは小品であるが、初代「100万ドル・トリオ」とレコーディングした[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[セレナーデ|セレナード]]作品8やヒンデミットの三重奏曲、[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]の[[チェロ協奏曲 (ドヴォルザーク)|チェロ協奏曲]]がある。 |
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;中期 |
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前述のハイドンのニ長調協奏曲や日本録音のほか、ベートーヴェンの[[チェロソナタ]]や「[[魔笛]]」[[変奏曲]]などをレコーディングし、一番充実していた時期とも言える。 |
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;後期 |
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この時代の録音の評価は割れている。代表的なのは2代目「100万ドル・トリオ」とのベートーヴェンの[[ピアノ三重奏曲第7番 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲「大公]]」のレコーディングだが、フォイアーマンの個性が前面に出た演奏というわけでもない。どちらかといえばRCAの意向が前面に押し出された企画的なレコーディングが多い。2代目「100万ドル・トリオ」もその一つである。前述のトスカニーニ・NBC響との「ドン・キホーテ」など、ライヴ録音も少々ある。 |
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ところが、場所を2回訪問した日本に移すと、そこは名声で地位を確立していたヨーロッパやアメリカとは違っていた。1934年の最初の来日時には[[パーロフォン]]に入れた録音が一部の評論家から好評を得ていたが、一般世間におけるフォイアーマンの知名度はいま一つであったのか[[九段会館|軍人会館]]でのリサイタル初日は300名と不入りであった<ref name="n1"/>。しかし、評判が[[口コミ]]によって伝えられると徐々に聴衆の入りもよくなり、[[日比谷公会堂]]における11月14日の告別演奏会ではリサイタル初日の10倍の聴衆が訪れたと伝えられた<ref name="n1"/>。もっとも、二度目の来日となった1936年の来日時においても前回公演の実績があったにもかかわらず、聴衆の出足はもう一つであった<ref name="n1"/>。日本におけるフォイアーマンの一般的な人気はさておいても、1934年来日時の聴衆の数の増加については当時の新聞に「彼が宣伝によらず、実力で得た尊き数」、「この勝利は、彼が真の芸術家であったことによる」と賞賛されている<ref name="n1"/>。 |
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===主な録音一覧=== |
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*[[ヨハン・ゼバスチャン・バッハ|バッハ]]:「[[G線上のアリア]]」([[1924年]]、アコースティック録音) |
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エヴァ夫人や、[[フリッツ・クライスラー]]など数多の演奏家と共演を重ねたRCA専属ピアニストのフランツ・ルップは、フォイアーマンがソロでの練習を好んでいなかった一方で、室内楽やオーケストラとの共演を控えた練習においては、細かいところまでしっかり練習をしたと回想している<ref name="t178"/>。 |
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*[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]:「[[オルフェオとエウリディーチェ]]」より「[[精霊の踊り]]」([[1934年]]) |
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*[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]:[[ディヴェルティメント]]変ホ長調([[1941年]]) |
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==フォーイアマンと日本== |
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*ベートーヴェン:[[チェロソナタ第3番 (ベートーヴェン)|チェロソナタ第3番]](1934年、[[マイラ・へス]]との共演)、「魔笛」の主題による7つの変奏曲(1934年)、セレナードニ長調Op.8(1934年)、「魔笛」の主題による12の変奏曲([[1939年]])、[[ピアノ三重奏曲第7番 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲第7番「大公」]](1941年、2代目100万ドル・トリオ) |
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[[File:Hideo Saito Scan10005.JPG|thumb|right|150px|弟子の齋藤秀雄]] |
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*[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]:[[アルペジョーネ・ソナタ]](1934年)、[[ピアノ三重奏曲第1番 (シューベルト)|ピアノ三重奏曲第1番]]D.898(1941年、2代目100万ドル・トリオ) |
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前述のように日本においては、フォイアーマンの名声と聴衆の入りがあまり一致しなかったが、フォイアーマンと日本との間には浅からぬ縁がある。 |
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*[[フレデリック・ショパン|ショパン]]:[[華麗なるポロネーズ]](1939年) |
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*[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]:[[ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 (ブラームス)|二重協奏曲]](1939年) |
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音楽評論家の藁科雅美によれば、フォイアーマン来日前夜の日本におけるチェリストの知名度は「それまではチェロといえばカザルスひとりといった感じ」であり、「ピアティゴルスキーをはじめ、[[ガスパール・カサド|カサド]]、[[モーリス・マレシャル|マレシャル]]、フォイアマンなど、カザルスの次の世代のチェロ奏者が次々とデビューしたのがこの時代」であった<ref>[[#歌崎]] p.144</ref>。フォイアーマンはヨーロッパにおいては当初は前述のようにパーロフォンにレコーディングしており、日本においては日本パーロフォンがその窓口となっていたが、日本パーロフォンは1931年に[[日本コロムビア]]に吸収合併されて、その成り行きでフォイアーマンも日本では日本コロムビアからレコードが発売されるようになった<ref>[[#歌崎]] pp.168-172</ref>。日本コロムビアのチェロ部門のレコードにおいてフォイアーマンは、藁科が言うところの「カザルスの次の世代」が一堂に会したラインナップの一角を占めたが、日本コロムビアのチェロ部門のレコードそのものがカザルスを擁した「[[日本ビクター|ビクター]]に比べるとちょっと弱い感じ」であり、「会社の売り方の問題もあったのか、ビクターのアーティストのようなパンチ力や広がりがない感じ」でもあった<ref>[[#歌崎]] p.252</ref>。さらに藁科は「コロムビアのチェロは、どちらかといえばカサドの方が人気があり、カザルスに次ぐ人として尊敬されていました」と証言している<ref name="u339">[[#歌崎]] p.339</ref>。以上に名前を挙げたチェリストのうち、カザルスとカサドは[[太平洋戦争]]前には来日せず、フォイアーマンのほかに1935年と1937年に来日したマレシャル、1937年に来日したピアティゴルスキーの3人を太平洋戦争前に生きた音楽ファンは楽しむことができた<ref name="n1"/>。レコードコレクターのクリストファ・N・野澤は「三者三様の音楽」と表現し、フォイアーマンについては「難曲をこともなげにさらりと弾き通してしまうのは印象的」と回想する<ref name="n1"/>。太平洋戦争前の日本では音楽の世界においても、藁科曰く「何といっても精神主義の時代で、技巧的なものは演奏家でも作曲家でも馬鹿にされて」<ref name="u339"/>おり、フォイアーマンも来日時の売り文句の一つ「チェロで『[[ツィゴイネルワイゼン]]』を弾く」<ref name="t176"/>にあるように技巧派として扱われていたが、これについても野澤は作家でレコード評論家の[[野村胡堂|野村あらえびす]]の指摘を引用して、フォイアーマンの技巧は「技巧のための技巧という感じが全くなく、自然の流れの中に技巧が生かされ、自在な表現で聴衆を魅了した」とし、「古典のハイドン、ロマン派のシューベルト、ブラームス、さらにユダヤ色濃厚なブロッホなどを完全に弾き分けて、単に楽譜通りに弾く無味乾燥な演奏ではない」と論じている<ref name="n2"/>。 |
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*[[マックス・ブルッフ|ブルッフ]]:「[[コル・ニドライ (ブルッフ)|コル・ニドライ]]」([[1930年]]) |
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*ドヴォルザーク:[[チェロ協奏曲 (ドヴォルザーク)|チェロ協奏曲]]([[1926年]]、[[1928年]]~[[1929年]]、[[1940年]]) |
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1934年の来日公演ではリサイタルのほか、10月17日の[[近衛秀麿]]指揮[[NHK交響楽団|新交響楽団(新響)]]の第144回定期演奏会に出演して[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]の[[チェロ協奏曲 (ドヴォルザーク)|チェロ協奏曲]]を演奏<ref>[[#NHKsocon1]] p.106</ref>。新響とは「リサイタル初日の10倍の聴衆が訪れた」告別演奏会でも共演し、伴奏ピアニストのフリッツ・キッツィンガーの指揮とピアノによりハイドンのニ長調協奏曲、[[ロベルト・シューマン|シューマン]]の[[チェロ協奏曲 (シューマン)|チェロ協奏曲]]、[[エルネスト・ブロッホ|ブロッホ]]『[[バール・シェム]]』、[[エンリケ・グラナドス|グラナドス]]『スペイン舞曲』、ドヴォルザーク『スラヴ舞曲』、シューマン『トロイメライ』に加え、[[パブロ・デ・サラサーテ|サラサーテ]]『ツィゴイネルワイゼン』を演奏<ref>[[#NHKsocon1]] p.107</ref>。売り文句「チェロで『ツィゴイネルワイゼン』を弾く」を実際に披露した。翌11月15日にもキッツィンガーの指揮でドヴォルザークの協奏曲を放送している<ref name="n1"/>。1936年の来日は4月下旬にリサイタルを開いたあと、近衛の指揮する[[東京フィルハーモニー交響楽団|中央交響楽団]]と共演してハイドンのニ長調協奏曲、[[ルイジ・ボッケリーニ|ボッケリーニ]]の協奏曲、[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]の[[チェロ協奏曲第1番 (サン=サーンス)|チェロ協奏曲第1番]]を演奏<ref name="n1"/>。近衛と中央交響楽団の組み合わせについては、近衛が1935年の内紛で新響から追放されていた影響である<ref>[[#岩野]] p.74</ref>。当初は新響との共演が組まれていなかったが、フォイアーマン自身が新響に在籍していた弟子の齋藤や大村卯七の共演を望んでいたこともあって、その齋藤や大村の尽力によって6月3日の第169回定期演奏会に出演することとなり、伴奏者として帯同していたヴォルフガング・レブナーの指揮で[[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ|C.P.E.バッハ]]のイ長調協奏曲 Wq.172とドヴォルザークの協奏曲を演奏した<ref name="n1"/><ref>[[#NHKsocon1]] p.114</ref>。 |
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*[[リヒャルト・シュトラウス]]:「[[ドン・キホーテ (交響詩)|ドン・キホーテ]]」([[1938年]]、[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]指揮[[NBC交響楽団]]とのライヴ) |
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*[[エルンスト・フォン・ドホナーニ]]:セレナードハ長調(1941年) |
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フォイアーマンは二度の来日で日本コロムビアへのレコーディングを行っている。曲目はディスコグラフィの項へ譲るとして、レコーディング自体の意義について藁科は、同じく日本の楽曲を録音したマレシャルと並べて「外国の有名な人が日本の曲を演奏したという珍しさが先に立っていた」と回想している<ref>[[#歌崎]] pp.118-119</ref>。フォイアーマン自身は日本の楽曲に興味を持ったようであるが、自身のレパートリーに加えたかどうかは不明である<ref name="n1"/>。 |
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;日本録音一覧 |
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*[[滝廉太郎]]([[山田耕筰]]編):荒城の月 |
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==主なディスコグラフィ== |
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*山田耕筰:からたちの花・野ばら・忍路高島(おしょろたかしま) |
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===パーロフォン=== |
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*[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]:「[[無言歌集 (メンデルスゾーン)|無言歌集]]」より「春の歌」 |
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*J.S.バッハ『[[G線上のアリア]]』:管弦楽伴奏:1924年([[アコースティック録音]])<ref name="n2"/><ref name="naxos1">{{Cite web|url= http://ml.naxos.jp/album/WHRA-6042 |title= エマヌエル・フォイアマン - アコースティック録音(1921-1926)&ライヴ録音集(1938-1941)|work= NAXOS Music Library|publisher= Naxos Japan|language=日本語|accessdate=2013-07-31}}</ref> |
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*[[エルネスト・ブロッホ|ブロッホ]]:「ユダヤ人の生活」より「祈り」 |
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*シューマン『夕べの歌 Op.85 No.12』:管弦楽伴奏:1924年(アコースティック録音)<ref name="n2"/><ref name="naxos1"/> |
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*[[バンジャマン・ゴダール|ゴダール]]:[[ジョスランの子守歌]] |
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*ドヴォルザーク チェロ協奏曲第2楽章:管弦楽伴奏(ミヒャエル・タウベ指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団メンバー):1926年(アコースティック録音)<ref name="n2"/><ref name="naxos1"/> |
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*[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]:感傷的な円舞曲 |
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*[[ダーヴィト・ポッパー|ポッパー]]『セレナード』:タウベ(ピアノ):1927年<ref name="n2"/><ref name="naxos1"/> |
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*[[ロベルト・シューマン|シューマン]]:[[流浪の民]] |
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*サン=サーンス『アレグロ・アパショナート Op.43』:タウベ:1927年<ref name="n2"/> |
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*[[アントン・ルビンシテイン]]:ヘ調の旋律 |
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*ヴァレンシン『メヌエット』:タウベ:1927年<ref name="n2"/> |
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*シューベルト:セレナーデ |
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*[[トンマーゾ・ジョルダーニ|ジョルダーニ]]『[[カーロ・ミオ・ベン]]』:タウベ:1928年<ref name="n2"/> |
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*[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]:「[[動物の謝肉祭]]」より「白鳥」 |
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*グラナドス スペイン舞曲第5番「アンダルーサ」:タウベ:1928年<ref name="n2"/> |
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*ヴァレンティーニ:チェロ・ソナタより[[ガヴォット]]と[[アレグロ]] |
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*ドヴォルザーク チェロ協奏曲:タウベ指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団メンバー:1927~1928年<ref name="naxos1"/><ref name="naxos3">{{Cite web|url= http://ml.naxos.jp/album/8.110908 |title= ハイドン/ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(フォイアマン)|work= NAXOS Music Library|publisher= Naxos Japan|language=日本語|accessdate=2013-07-31}}</ref> |
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*ライトン:忘れ得ない君の微笑 |
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*[[マックス・ブルッフ|ブルッフ]]『[[コル・ニドライ (ブルッフ)|コル・ニドライ]]』:フリーダー・ヴァイスマン指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団メンバー:1930年<ref name="n2"/><ref name="naxos1"/> |
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*ショパン:[[夜想曲第2番 (ショパン)|ノクターンOp.9-2]] |
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*シューマン:「[[子供の情景]]」より「トロイメライ」 |
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===イギリス・コロムビア(EMI)=== |
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*バッハ/[[シャルル・グノー|グノー]]:「[[アヴェ・マリア]]」 |
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*[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]] 『[[魔笛]]』の主題による7つの変奏曲』:テオ・ヴァン・デル・パ(ピアノ):1934年<ref name="n2"/> |
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::滝、山田は1934年録音。他は[[1936年]]録音 |
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*[[ジョヴァンニ・ズガンバーティ|ズガンバーディ]]『ナポリのセレナード』:デル・パ:1934年<ref name="n2"/> |
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*[[フレデリック・ショパン|ショパン]] ワルツ イ短調:デル・パ:1934年<ref name="n2"/> |
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*[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]『[[オルフェオとエウリディーチェ]]』「[[精霊の踊り]]」:デル・パ:1934年<ref name="n2"/> |
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*ベートーヴェン セレナード Op.8:ゴールドベルク(ヴァイオリン)、ヒンデミット(ヴィオラ):1934年<ref name="naxos2">{{Cite web|url= http://ml.naxos.jp/album/CD-1225 |title= シモン・ゴールドベルク100周年エディション 2 - 商業録音集(1932-1951)|work= NAXOS Music Library|publisher= Naxos Japan|language=日本語|accessdate=2013-07-31}}</ref> |
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*ヒンデミット 弦楽三重奏曲第2番:ゴールドベルク、ヒンデミット:1934年<ref name="naxos2"/> |
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*ベートーヴェン チェロソナタ第3番:[[マイラ・ヘス]](ピアノ)<ref name="t177"/> |
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*[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]] アンダンティーノと変奏:ヘス<ref name="t177"/> |
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*ハイドン チェロ協奏曲ニ長調:[[マルコム・サージェント]]指揮[[ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団]]:1935年<ref name="naxos3"/> |
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*シューベルト [[アルペジョーネソナタ]]:[[ジェラルド・ムーア]](ピアノ):1937年<ref name="t177"/><ref name="opk">{{Cite web|url= http://www.opuskura.com/cat_instrumental_j.htm |title= 曲目一覧 独奏&室内楽|work= Opus KURA|publisher= オーパス蔵|language=日本語|accessdate=2013-07-31}}</ref> |
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*[[ツェーザリ・キュイ|キュイ]]『[[オリエンタル (キュイ)|オリエンタル]]』:ムーア:1939年<ref name="n2"/> |
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*[[イサーク・アルベニス|アルベニス]](クライスラー編)『[[タンゴ]]』:ムーア:1939年<ref name="n2"/> |
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*[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]] チェロソナタ第1番:デル・パ<ref name="t179"/> |
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*[[マックス・レーガー|レーガー]] 無伴奏チェロ組曲:1939年<ref name="t179"/><ref name="opk"/> |
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===日本コロムビア=== |
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*[[瀧廉太郎]]([[山田耕筰]]編)『[[荒城の月]]』:キッツィンガー(ピアノ):1934年<ref name="n1"/><ref name="naxos4">{{Cite web|url= http://ml.naxos.jp/album/CD-1075 |title= エマヌエル・フォイアマン - ロスト・フォイアマン 日本録音集 1934, 1936|work= NAXOS Music Library|publisher= Naxos Japan|language=日本語|accessdate=2013-07-31}}</ref> |
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*山田耕筰『[[からたちの花]]』:キッツィンガー:1934年<ref name="n1"/><ref name="naxos4"/> |
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*山田耕筰『野ばら』:キッツィンガー:1934年<ref name="n1"/><ref name="naxos4"/> |
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*山田耕筰『忍路高島』:キッツィンガー:1934年<ref name="n1"/><ref name="naxos4"/> |
|||
*[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]『[[無言歌集 (メンデルスゾーン)|無言歌集 - 春の歌]]』:レブナー(ピアノ):1936年<ref name="n1"/><ref name="naxos4"/> |
|||
*ブロッホ『祈り』:レブナー:1936年<ref name="n1"/><ref name="naxos4"/> |
|||
*[[バンジャマン・ゴダール|ゴダール]]『ジョスランの子守歌』:レブナー:1936年<ref name="n1"/><ref name="naxos4"/> |
|||
*[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]『感傷的な円舞曲』:レブナー:1936年<ref name="n1"/><ref name="naxos4"/> |
|||
*シューマン『[[流浪の民]]』:レブナー:1936年<ref name="n1"/><ref name="naxos4"/> |
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*[[アントン・ルビンシテイン|ルビンシテイン]]『ヘ調の旋律』:レブナー:1936年<ref name="n1"/><ref name="naxos4"/> |
|||
*[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]:『セレナーデ』:レブナー:1936年<ref name="n1"/><ref name="naxos4"/> |
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*サン=サーンス『[[動物の謝肉祭|動物の謝肉祭 - 白鳥]]』:レブナー:1936年<ref name="n1"/><ref name="naxos4"/> |
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*[[ジュゼッペ・ヴァレンティーニ|ヴァレンティーニ]]『チェロソナタ - ガボットとアレグロ』:レブナー:1936年<ref name="n1"/><ref name="naxos4"/> |
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*ウィリアム・トーマス・ライトン『忘れ得ぬ君の微笑』:レブナー:1936年<ref name="n1"/><ref name="naxos4"/> |
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*ショパン ノクターン Op.9 No.2:レブナー:1936年<ref name="n1"/><ref name="naxos4"/> |
|||
*シューマン『トロイメライ』:レブナー:1936年<ref name="n1"/> |
|||
*J.S.バッハ~[[シャルル・グノー|グノー]]『[[アヴェ・マリア (グノー)|アヴェ・マリア]]』:レブナー:1936年<ref name="n1"/> |
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===RCA=== |
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*メンデルスゾーン チェロソナタ第2番:ルップ(ピアノ):1939年<ref name="t177"/> |
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*[[ジョゼフ・カントルーブ|カントルーブ]]『[[オーヴェルニュの歌]]』:ルップ:1939年<ref name="t177"/> |
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*[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]『夢のあとに』:ルップ:1939年<ref name="t177"/> |
|||
*[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]] アダージョとアレグロ:ルップ:1939年<ref name="t177"/> |
|||
*ベートーヴェン 『魔笛』の主題による12の変奏曲:ルップ:1939年<ref name="t177"/> |
|||
*ショパン『華麗なるポロネーズ』:ルップ:1939年<ref name="t177"/> |
|||
*ブラームス [[ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 (ブラームス)|ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲]]:ハイフェッツ(ヴァイオリン)、オーマンディ指揮[[フィラデルフィア管弦楽団]]:1940年<ref>{{Cite web|url= http://ml.naxos.jp/album/8.110940 |title= ブルッフ/グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲/ブラームス:二重協奏曲 (ハイフェッツ)(1934, 1939)|work= NAXOS Music Library|publisher= Naxos Japan|language=日本語|accessdate=2013-07-31}}</ref> |
|||
*[[リヒャルト・シュトラウス]]『[[ドン・キホーテ (交響詩)|ドン・キホーテ]]』:オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団:1940年<ref>{{Cite web|url= http://ml.naxos.jp/album/290826 |title= ユージン・オーマンディ 6 - R. シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」/家庭交響曲(フォイアマン/フィラデルフィア管)(1938, 1940)|work= NAXOS Music Library|publisher= Naxos Japan|language=日本語|accessdate=2013-07-31}}</ref> |
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*ベートーヴェン [[ピアノ三重奏曲第7番 (ベートーヴェン)|ピアノ三重奏曲第7番「大公」]]:ルービンシュタイン(ピアノ)、ハイフェッツ:1941年<ref name="t179"/> |
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*シューベルト [[ピアノ三重奏曲第1番 (シューベルト)|ピアノ三重奏曲第1番]]:ルービンシュタイン、ハイフェッツ:1941年<ref>{{Cite web|url= http://ml.naxos.jp/album/222163 |title= ショパン/ブラームス/シューベルト:ピアノ作品集(ルービンシュタイン)(1932-1946)(クアドロマニア)|work= NAXOS Music Library|publisher= Naxos Japan|language=日本語|accessdate=2013-07-31}}</ref> |
|||
*[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]] [[ディヴェルティメントK.563]]:ハイフェッツ、プリムローズ:1941年<ref name="t177"/> |
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*[[エルンスト・フォン・ドホナーニ|ドホナーニ]] セレナードハ長調:ハイフェッツ、プリムローズ:1941年<ref name="t177"/> |
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===テレフンケン=== |
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*ポッパー『ハンガリー狂詩曲』:[[パウル・クレツキ]]指揮[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]:1932年<ref name="n2"/><ref name="naxos1"/> |
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===放送録音=== |
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*リヒャルト・シュトラウス『ドン・キホーテ』:トスカニーニ指揮NBC交響楽団:1938年10月22日<ref name="naxos1"/> |
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*ドヴォルザーク チェロ協奏曲:レオン・バージン指揮ナショナル・オーケストラル・アソシエーション:1940年1月27日<ref name="naxos1"/> |
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*[[オイゲン・ダルベール|ダルベール]] チェロ協奏曲:バージン指揮ナショナル・オーケストラル・アソシエーション:1940年4月22日<ref name="naxos1"/> |
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*ドヴォルザーク『ボヘミアの森より』:バージン指揮ナショナル・オーケストラル・アソシエーション:1940年11月10日<ref name="naxos1"/> |
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*ドヴォルザーク ロンドト短調:バージン指揮ナショナル・オーケストラル・アソシエーション:1940年11月10日<ref name="naxos1"/> |
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*ブロッホ『[[シェロモ]]』:バージン指揮ナショナル・オーケストラル・アソシエーション:1940年11月10日<ref name="naxos1"/> |
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*ドヴォルザーク チェロ協奏曲:ハンス・ランゲ指揮シカゴ交響楽団:1941年1月9日<ref name="naxos1"/> |
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個々のレコードおよび[[コンパクトディスク|CD]]番号は割愛。日本コロムビア盤は多くは日本国内でのみの販売であったが、ショパン、シューマン、グノーは海外でも販売され、またシューマンとグノーは日本では販売されなかった<ref name="n1"/>。 |
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==脚注== |
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=== 注釈 === |
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<references group="注釈"/> |
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=== 出典 === |
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{{reflist|2}} |
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==参考文献== |
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===サイト=== |
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* {{Cite document | last = Smith | first = Brinton | year = 1998 | title = The physical and interpretive technique of Emanuel Feuermann | publisher = Thesis (D.M.A)--Juilliard School of Music | oclc = 39227313 | url = http://www.cello.org/theses/smith/chap2.htm | accessdate = 2013-07-31 | postscript = <!--None--> |ref= Smith}} |
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* {{Find a Grave|332|accessdate=2013-07-31|ref=Find a Grave}} |
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===印刷物=== |
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* {{cite book |last= Morreau|first=Annette |authorlink= |coauthors= |editor= |others= |title= Emanuel Feuermann|origdate= |origyear= |origmonth= |url= |format= |accessdate= |edition= |series= |volume= |date= |year= 2002|month= |publisher=Yale University Press |location= |language= |isbn=0-300-09684-4 |oclc= |doi= |id= |pages= |chapter= |chapterurl= |quote= |ref= Morreau}} |
|||
* {{cite book |last= Itzkoff|first=Seymour W. |authorlink= |coauthors= |editor= |others= |title= Emanuel Feuermann, Virtuoso. A Biography. With Notes on Interpretation by Emanuel Feuermann and A Discography of Feuermann Recordings by Fred Calland and Seymour W. Itzkoff|origdate= |origyear= |origmonth= |url= |format= |accessdate= |edition= |series= |volume= |date= |year= 1979|month= |publisher=University of Alabama Press |location= |language= |isbn=0-8173-6450-1 |oclc= |doi= |id= |pages= |chapter= |chapterurl= |quote= |ref= Itzkoff}} |
|||
* ''Arnold Schoenberg Correspondence. A Collection of Translated and Annotated Letters Exchanged with Guido Adler, Pablo Casals, Emanuel Feuermann, and Olin Downes,'' Egbert M. Ennulat, The Scarecrow Press, Metuchen (1991). ISBN 0-8108-2452-3 |
|||
* {{Google books|LvRW1syRWToC|Margaret Campbell "The Great Cellists"|ref=Campbel}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[NHK交響楽団]](編)|year=1967|title=NHK交響楽団四十年史|publisher=NHK交響楽団|ref=NHK40}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=高橋昭「エマヌエル・フォイアマン {{small|音楽の様式的把握と完璧なるテクニック カザルスに比肩する今世紀最高のチェリスト}}」|year=1994|title=クラシック 続・不滅の巨匠たち|publisher=音楽之友社|pages=176-179|ref=高橋}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[宇野功芳]]|year=1995|title=名指揮者ワルターの名盤駄盤|publisher=講談社+α文庫|isbn=4-06-256085-2|ref=宇野}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=歌崎和彦(編)|year=1998|title=証言 日本<ruby><rb>洋楽</rb><rp>(</rp><rt>クラシック</rt><rp>)</rp></ruby>レコード史 (戦前編)|publisher=音楽之友社|isbn=4-276-21253-7|ref=歌崎}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=岩野裕一「「日露交歓交響管弦楽演奏会」から焦土の《第9》まで」|year=2000|title=NHK交響楽団全演奏会記録1 戦前・戦中編(1926~1945)|journal=Philharmony|volume = 72|issue= 2|publisher=NHK交響楽団|pages=70-76|ref=岩野}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=NHK交響楽団(編)|year=2000|title=NHK交響楽団全演奏会記録1 戦前・戦中編(1926~1945)|journal=Philharmony|volume = 72|issue= 2|publisher=NHK交響楽団|pages=77-153|ref=NHKsocon1}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=クリストファ・N・野澤「エマヌエル・フォイアマン―日本録音 1934,1936―」|year=2003|title=エマヌエル・フォイアマン Vol.1ライナーノーツ|publisher=グリーンドア音楽出版|ref=野澤 (1)}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=クリストファ・N・野澤「エマヌエル・フォイアマン Vol.3」|year=2003|title=エマヌエル・フォイアマン Vol.1ライナーノーツ|publisher=グリーンドア音楽出版|ref=野澤 (2)}} |
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==関連項目== |
==関連項目== |
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63行目: | 168行目: | ||
*[[アルトゥール・ルービンシュタイン]] |
*[[アルトゥール・ルービンシュタイン]] |
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*[[グレゴール・ピアティゴルスキー]] |
*[[グレゴール・ピアティゴルスキー]] |
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*[[ユリウス・クレンゲル]] |
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*[[シモン・ゴールドベルク]] |
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*[[パウル・ヒンデミット]] |
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*[[ウィリアム・プリムローズ]] |
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*[[齋藤秀雄]] |
*[[齋藤秀雄]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{Portal クラシック音楽}} |
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* {{DNB-Portal|119289938}} |
* {{DNB-Portal|119289938}} |
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{{Normdaten|TYP=p|GND=119289938|LCCN=n/83/121791|VIAF=66651681}} |
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==参考文献== |
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*高橋昭「エマヌエル・フォイアマン 音楽の様式的把握と完璧なるテクニック カザルスに比肩する今世紀最高のチェリスト」『クラシック 続・不滅の巨匠たち』音楽之友社、1994年 |
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*クリストファ・N・野澤「エマヌエル・フォイアマン―日本録音 1934,1936―」『エマヌエル・フォイアマン Vol.1ライナーノーツ』グリーンドア音楽出版、2003年 |
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{{DEFAULTSORT:ふおいあまん えまぬえる}} |
{{DEFAULTSORT:ふおいあまん えまぬえる}} |
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[[Category:オーストリアのチェリスト]] |
[[Category:オーストリアのチェリスト]] |
2013年8月9日 (金) 23:25時点における版
エマーヌエル・フォイアーマン Emanuel Feuermann | |
---|---|
エマーヌエル・フォイアーマン | |
基本情報 | |
出生名 | Emanuel Feuermann |
生誕 | 1902年11月22日 ロシア帝国(現・ ウクライナ) コロミヤ |
出身地 | オーストリア→ アメリカ合衆国 |
死没 | 1942年5月25日(39歳没) アメリカ合衆国 ニューヨーク |
学歴 | ウィーン音楽アカデミー |
ジャンル | コンサート |
職業 | チェリスト、教育者 |
活動期間 | 1914年 - 1942年 |
レーベル |
パーロフォン EMI RCA 日本コロムビア テレフンケン |
著名使用楽器 | |
ダビッド・テヒラー1741年製 ドメニコ・モンタニアーナ1735年製 デ・ムンク・ストラディバリウス1730年製 マッテオ・ゴフリラー1720年製 |
エマーヌエル・フォイアーマン(Emanuel Feuermann, 1902年11月22日 - 1942年5月25日)は、ロシア帝国出身のオーストリアおよびアメリカのチェリスト。
幼少時から公開の演奏会に出演し、成長して名教師とうたわれたチェリストのユリウス・クレンゲルの門下となるが、伝統的なクレンゲルの奏法は継承せず新たに台頭してきたパブロ・カザルスの奏法に追従して独自の奏法に磨きをかけた[1]。20世紀前半を代表するチェリストの一人として、また芸術的および年齢的にカザルスに次ぐチェロの巨匠として期待されたが、第二次世界大戦中に若くして亡くなった。
日本語表記では、「エマヌエル・フォイアマン」と音を伸ばさない表記も見られる。
生涯
エマーヌエル・フォイアーマンは1902年11月22日、イースター・エッグで名高いロシア帝国(現・ウクライナ)のコロミヤに生まれる。両親はアマチュアの音楽家であり、特に父はヴァイオリンとチェロの演奏に長け、また兄のジグムントも音楽的才能を認められていた。フォイアーマンが5歳となった1907年に一家はウィーンへと移り住むが、これはあくまで兄ジグムントのデビューを控えてのものであった。ウィーンにおいてフォイアーマンは、9歳のころから当時ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の首席チェリストでアルノルト・ロゼ主宰のロゼ弦楽四重奏団のメンバーでもあったフリードリヒ・ブックスバウムに師事するようになる[2]。1914年2月の11歳のときにフェリックス・ワインガルトナー指揮のウィーン・フィルと共演し、ハイドンのニ長調協奏曲で正式にデビューを飾る[2][3][注釈 1]。また、1912年にはカザルスのウィーン・デビューのリサイタルを聴く機会を得て感銘を受けた[2]。
第一次世界大戦真っ只中の1917年、フォイアーマンはライプツィヒに赴き、高等音楽院に入学してクレンゲル門下となる。クレンゲルは「私が面倒を見てきた者たちの中で、これほど才能に恵まれた者はいなかった・・・・・・神の恵みを受けた芸術家にして愛すべき若者」とフォイアーマンを絶賛している[2][4]。ライプツィヒ滞在中の1919年、チェリストのフリードリヒ・グリュッツマッハーの甥でギュルツェニヒ管弦楽団の首席チェリスト、またギュルツェニヒ音楽院の教師であったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・グリュツマッハーが亡くなり、クレンゲルはフォイアーマンをその後任として推薦した[3]。フォイアーマンは10代ながら音楽院で教鞭をとり[2]、ギュルツェニヒ管弦楽団首席指揮者のヘルマン・アーベントロートの指名により管弦楽団の首席チェリストに就任した[2][3]。ライプツィヒおよびケルン時代にはほかに、ブラム・エルダーリンク主宰の弦楽四重奏団のチェリストを務めたり、兄ジグムントおよび指揮者でピアノにも長けたブルーノ・ワルターと短期間ながらピアノ・トリオを組んだりもした。1923年にウィーンに戻ったあとは、オーストリア国内や成立間もないソビエト連邦など海外でリサイタルを開き、ソリストとしてのキャリア固めを行った[5]。1927年にはイギリスにデビューし、ヘンリー・ウッドに絶賛される[3]。
1929年、フォイアーマンはベルリン高等音楽院の教授となる。1933年までのベルリン時代は、フォイアーマンのキャリア中最も重要な時期に位置付けられる[6]。ソリストとしてはヴァイオリンのカール・フレッシュ、シモン・ゴールドベルクおよびヨゼフ・ヴォルシュタール、作曲家でありヴィオリストとしても重要なパウル・ヒンデミットと弦楽三重奏団を組み、その他ヤッシャ・ハイフェッツ、ウィリアム・プリムローズ、アルトゥール・ルービンシュタインなどと共演を果たした。教職面では齋藤秀雄[注釈 2]を含む弟子の指導にあたった。齋藤がフォイアーマンからJ.S.バッハの楽曲を学んだ時のこと、フォイアーマンは楽典通りの奏法を齋藤に押し付けようとせず、時に迷いを見せることもあった[7]。齋藤はこのことから、「バッハを奏くためには考えなくてはいけない。自分で解釈をつけない」ことを学んだ[7]。しかし、ナチの台頭はユダヤ系のフォイアーマンのポストに危機を与えることとなる。ナチ党の権力掌握後の1933年4月3日、フォイアーマンはベルリン高等音楽院を解雇され、ゴールドベルクやヒンデミットとともにロンドンに移らざるを得なかった。
ドイツ語圏の音楽界から半ば締め出されたフォイアーマンは、主にイギリスおよびアメリカなど英語圏での活動に重きを置く。1934年秋には日本を訪れて東京と名古屋、関西でリサイタルを開催[1]。アメリカの地を踏んでからは、まずフレデリック・ストック指揮のシカゴ交響楽団と共演[8]、次いで1935年1月2日と4日にはワルター指揮のニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会でハイドンのニ長調協奏曲を演奏した[6][9]。この1935年はフォイアーマンにとっては公私ともに様々な出来事があり、ケルンでエヴァ・ライフェンベルクと結婚してウィーンに居を構える[6]。アルノルト・シェーンベルクからはチェロ協奏曲[注釈 3]を献呈され、12月7日にトーマス・ビーチャムの指揮を得て初演した[6]。1936年4月に再度日本を訪問し[1]、1937年にはウィーンの居を引き払ってチューリヒに移る[6]。ところが、1938年3月13日のアンシュルスはフォイアーマンをヨーロッパ大陸から離れさせることとなった。ブロニスラフ・フーベルマンとともにパレスチナにいったん移り、さらにアメリカに移って腰を落ち着けることとなった。
アメリカに落ち着いたフォイアーマンは、1941年からフィラデルフィアのカーティス音楽学校とカリフォルニアで教鞭をとるが、エヴァ夫人によれば、フォイアーマンはカーティスのポストを非常に喜んでいた[10]。カーティスでは、のちにボザール・トリオのメンバーとなるバーナード・グリーンハウスやアルトゥーロ・トスカニーニ率いるNBC交響楽団に在籍したアラン・シャルマンといったチェリストの指導にあたった。ソリストとしてもトスカニーニとの共演やハイフェッツ、ルービンシュタインとのいわゆる「100万ドル・トリオ」の結成など活発に行ったが、かつての盟友ヒンデミットが自身のチェロ協奏曲の初演をグレゴール・ピアティゴルスキーに委ねたことは、ヒンデミットとの仲を冷ますのには十分であった[11]。1942年5月11日、フォイアーマンはアメリカ市民権を取得してアメリカ国籍となったが[10]、直後に痔の手術を行った際に合併症で腹膜炎を併発させ、5月25日ニューヨークで世を去った[3][12][13]。39歳没。墓はニューヨーク州ウエストチェスター郡ヴァルハラのケンシコ墓地にある[12]。
使用楽器
1929年より前の使用楽器は不明であるが、1929年以降は4基の名器を使用している。1929年にローマでダビッド・テヒラーの1741年製のチェロを購入[14]。1932年にはドメニコ・モンタニアーナの1735年製を入手し、このチェロは後年「フォイアーマン」と命名されてスイスのコレクターが所蔵している[15]。イギリスのチェリストであるスティーヴン・イッサーリスも「フォイアーマン」の名を冠されたチェロで演奏しているが、このチェロはデ・ムンク・ストラディバリウスの1730年製で、日本音楽財団が所有してイッサーリスに貸与されているものである[14]。その他、マッテオ・ゴフリラーの1720年製も所有しており、フォイアーマンの没後はヨーゼフ・シュースターおよびヤッシャ・シルバーステインが所有した[16]。
賞賛と人物
クレンゲルの賞賛を必要以上に裏付けるわけではないが、フォイアーマンは短い人生の中でクレンゲル以外からも多くの賞賛を受けた。ハイフェッツはピアティゴルスキーと長く共演しているにもかかわらず「100年に一度の才能」と称え[17]、ルービンシュタインもまたカザルスと比較した上で「全世代を通じて最も偉大なチェリスト」と称えた[18]。ハイフェッツとルービンシュタインからの評価を「100万ドル・トリオ」で組んでいたことを踏まえて差し引いても、アメリカにデビューした際の評論家の賞賛もまた素晴らしく[19]、1938年にプロムスに客演した際にも雑誌『ストラッド』の評論家レイド・スチュワードは「私はもはや、今生きているチェリストの中でカザルスを除けばフォイアーマンが最上位であることに疑うことない」と評価した[20]。早すぎる死は多くの音楽家に惜しまれ、葬儀にはトスカニーニやフーベルマンのほかルドルフ・ゼルキン、アルトゥル・シュナーベル、ミッシャ・エルマン、ジョージ・セルおよびユージン・オーマンディといったそうそうたる顔ぶれが参列した[21]。
ところが、場所を2回訪問した日本に移すと、そこは名声で地位を確立していたヨーロッパやアメリカとは違っていた。1934年の最初の来日時にはパーロフォンに入れた録音が一部の評論家から好評を得ていたが、一般世間におけるフォイアーマンの知名度はいま一つであったのか軍人会館でのリサイタル初日は300名と不入りであった[1]。しかし、評判が口コミによって伝えられると徐々に聴衆の入りもよくなり、日比谷公会堂における11月14日の告別演奏会ではリサイタル初日の10倍の聴衆が訪れたと伝えられた[1]。もっとも、二度目の来日となった1936年の来日時においても前回公演の実績があったにもかかわらず、聴衆の出足はもう一つであった[1]。日本におけるフォイアーマンの一般的な人気はさておいても、1934年来日時の聴衆の数の増加については当時の新聞に「彼が宣伝によらず、実力で得た尊き数」、「この勝利は、彼が真の芸術家であったことによる」と賞賛されている[1]。
エヴァ夫人や、フリッツ・クライスラーなど数多の演奏家と共演を重ねたRCA専属ピアニストのフランツ・ルップは、フォイアーマンがソロでの練習を好んでいなかった一方で、室内楽やオーケストラとの共演を控えた練習においては、細かいところまでしっかり練習をしたと回想している[10]。
フォーイアマンと日本
前述のように日本においては、フォイアーマンの名声と聴衆の入りがあまり一致しなかったが、フォイアーマンと日本との間には浅からぬ縁がある。
音楽評論家の藁科雅美によれば、フォイアーマン来日前夜の日本におけるチェリストの知名度は「それまではチェロといえばカザルスひとりといった感じ」であり、「ピアティゴルスキーをはじめ、カサド、マレシャル、フォイアマンなど、カザルスの次の世代のチェロ奏者が次々とデビューしたのがこの時代」であった[22]。フォイアーマンはヨーロッパにおいては当初は前述のようにパーロフォンにレコーディングしており、日本においては日本パーロフォンがその窓口となっていたが、日本パーロフォンは1931年に日本コロムビアに吸収合併されて、その成り行きでフォイアーマンも日本では日本コロムビアからレコードが発売されるようになった[23]。日本コロムビアのチェロ部門のレコードにおいてフォイアーマンは、藁科が言うところの「カザルスの次の世代」が一堂に会したラインナップの一角を占めたが、日本コロムビアのチェロ部門のレコードそのものがカザルスを擁した「ビクターに比べるとちょっと弱い感じ」であり、「会社の売り方の問題もあったのか、ビクターのアーティストのようなパンチ力や広がりがない感じ」でもあった[24]。さらに藁科は「コロムビアのチェロは、どちらかといえばカサドの方が人気があり、カザルスに次ぐ人として尊敬されていました」と証言している[25]。以上に名前を挙げたチェリストのうち、カザルスとカサドは太平洋戦争前には来日せず、フォイアーマンのほかに1935年と1937年に来日したマレシャル、1937年に来日したピアティゴルスキーの3人を太平洋戦争前に生きた音楽ファンは楽しむことができた[1]。レコードコレクターのクリストファ・N・野澤は「三者三様の音楽」と表現し、フォイアーマンについては「難曲をこともなげにさらりと弾き通してしまうのは印象的」と回想する[1]。太平洋戦争前の日本では音楽の世界においても、藁科曰く「何といっても精神主義の時代で、技巧的なものは演奏家でも作曲家でも馬鹿にされて」[25]おり、フォイアーマンも来日時の売り文句の一つ「チェロで『ツィゴイネルワイゼン』を弾く」[2]にあるように技巧派として扱われていたが、これについても野澤は作家でレコード評論家の野村あらえびすの指摘を引用して、フォイアーマンの技巧は「技巧のための技巧という感じが全くなく、自然の流れの中に技巧が生かされ、自在な表現で聴衆を魅了した」とし、「古典のハイドン、ロマン派のシューベルト、ブラームス、さらにユダヤ色濃厚なブロッホなどを完全に弾き分けて、単に楽譜通りに弾く無味乾燥な演奏ではない」と論じている[8]。
1934年の来日公演ではリサイタルのほか、10月17日の近衛秀麿指揮新交響楽団(新響)の第144回定期演奏会に出演してドヴォルザークのチェロ協奏曲を演奏[26]。新響とは「リサイタル初日の10倍の聴衆が訪れた」告別演奏会でも共演し、伴奏ピアニストのフリッツ・キッツィンガーの指揮とピアノによりハイドンのニ長調協奏曲、シューマンのチェロ協奏曲、ブロッホ『バール・シェム』、グラナドス『スペイン舞曲』、ドヴォルザーク『スラヴ舞曲』、シューマン『トロイメライ』に加え、サラサーテ『ツィゴイネルワイゼン』を演奏[27]。売り文句「チェロで『ツィゴイネルワイゼン』を弾く」を実際に披露した。翌11月15日にもキッツィンガーの指揮でドヴォルザークの協奏曲を放送している[1]。1936年の来日は4月下旬にリサイタルを開いたあと、近衛の指揮する中央交響楽団と共演してハイドンのニ長調協奏曲、ボッケリーニの協奏曲、サン=サーンスのチェロ協奏曲第1番を演奏[1]。近衛と中央交響楽団の組み合わせについては、近衛が1935年の内紛で新響から追放されていた影響である[28]。当初は新響との共演が組まれていなかったが、フォイアーマン自身が新響に在籍していた弟子の齋藤や大村卯七の共演を望んでいたこともあって、その齋藤や大村の尽力によって6月3日の第169回定期演奏会に出演することとなり、伴奏者として帯同していたヴォルフガング・レブナーの指揮でC.P.E.バッハのイ長調協奏曲 Wq.172とドヴォルザークの協奏曲を演奏した[1][29]。
フォイアーマンは二度の来日で日本コロムビアへのレコーディングを行っている。曲目はディスコグラフィの項へ譲るとして、レコーディング自体の意義について藁科は、同じく日本の楽曲を録音したマレシャルと並べて「外国の有名な人が日本の曲を演奏したという珍しさが先に立っていた」と回想している[30]。フォイアーマン自身は日本の楽曲に興味を持ったようであるが、自身のレパートリーに加えたかどうかは不明である[1]。
主なディスコグラフィ
パーロフォン
- J.S.バッハ『G線上のアリア』:管弦楽伴奏:1924年(アコースティック録音)[8][31]
- シューマン『夕べの歌 Op.85 No.12』:管弦楽伴奏:1924年(アコースティック録音)[8][31]
- ドヴォルザーク チェロ協奏曲第2楽章:管弦楽伴奏(ミヒャエル・タウベ指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団メンバー):1926年(アコースティック録音)[8][31]
- ポッパー『セレナード』:タウベ(ピアノ):1927年[8][31]
- サン=サーンス『アレグロ・アパショナート Op.43』:タウベ:1927年[8]
- ヴァレンシン『メヌエット』:タウベ:1927年[8]
- ジョルダーニ『カーロ・ミオ・ベン』:タウベ:1928年[8]
- グラナドス スペイン舞曲第5番「アンダルーサ」:タウベ:1928年[8]
- ドヴォルザーク チェロ協奏曲:タウベ指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団メンバー:1927~1928年[31][32]
- ブルッフ『コル・ニドライ』:フリーダー・ヴァイスマン指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団メンバー:1930年[8][31]
イギリス・コロムビア(EMI)
- ベートーヴェン 『魔笛』の主題による7つの変奏曲』:テオ・ヴァン・デル・パ(ピアノ):1934年[8]
- ズガンバーディ『ナポリのセレナード』:デル・パ:1934年[8]
- ショパン ワルツ イ短調:デル・パ:1934年[8]
- グルック『オルフェオとエウリディーチェ』「精霊の踊り」:デル・パ:1934年[8]
- ベートーヴェン セレナード Op.8:ゴールドベルク(ヴァイオリン)、ヒンデミット(ヴィオラ):1934年[33]
- ヒンデミット 弦楽三重奏曲第2番:ゴールドベルク、ヒンデミット:1934年[33]
- ベートーヴェン チェロソナタ第3番:マイラ・ヘス(ピアノ)[6]
- ウェーバー アンダンティーノと変奏:ヘス[6]
- ハイドン チェロ協奏曲ニ長調:マルコム・サージェント指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団:1935年[32]
- シューベルト アルペジョーネソナタ:ジェラルド・ムーア(ピアノ):1937年[6][34]
- キュイ『オリエンタル』:ムーア:1939年[8]
- アルベニス(クライスラー編)『タンゴ』:ムーア:1939年[8]
- ブラームス チェロソナタ第1番:デル・パ[7]
- レーガー 無伴奏チェロ組曲:1939年[7][34]
日本コロムビア
- 瀧廉太郎(山田耕筰編)『荒城の月』:キッツィンガー(ピアノ):1934年[1][35]
- 山田耕筰『からたちの花』:キッツィンガー:1934年[1][35]
- 山田耕筰『野ばら』:キッツィンガー:1934年[1][35]
- 山田耕筰『忍路高島』:キッツィンガー:1934年[1][35]
- メンデルスゾーン『無言歌集 - 春の歌』:レブナー(ピアノ):1936年[1][35]
- ブロッホ『祈り』:レブナー:1936年[1][35]
- ゴダール『ジョスランの子守歌』:レブナー:1936年[1][35]
- チャイコフスキー『感傷的な円舞曲』:レブナー:1936年[1][35]
- シューマン『流浪の民』:レブナー:1936年[1][35]
- ルビンシテイン『ヘ調の旋律』:レブナー:1936年[1][35]
- シューベルト:『セレナーデ』:レブナー:1936年[1][35]
- サン=サーンス『動物の謝肉祭 - 白鳥』:レブナー:1936年[1][35]
- ヴァレンティーニ『チェロソナタ - ガボットとアレグロ』:レブナー:1936年[1][35]
- ウィリアム・トーマス・ライトン『忘れ得ぬ君の微笑』:レブナー:1936年[1][35]
- ショパン ノクターン Op.9 No.2:レブナー:1936年[1][35]
- シューマン『トロイメライ』:レブナー:1936年[1]
- J.S.バッハ~グノー『アヴェ・マリア』:レブナー:1936年[1]
RCA
- メンデルスゾーン チェロソナタ第2番:ルップ(ピアノ):1939年[6]
- カントルーブ『オーヴェルニュの歌』:ルップ:1939年[6]
- フォーレ『夢のあとに』:ルップ:1939年[6]
- ヘンデル アダージョとアレグロ:ルップ:1939年[6]
- ベートーヴェン 『魔笛』の主題による12の変奏曲:ルップ:1939年[6]
- ショパン『華麗なるポロネーズ』:ルップ:1939年[6]
- ブラームス ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲:ハイフェッツ(ヴァイオリン)、オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団:1940年[36]
- リヒャルト・シュトラウス『ドン・キホーテ』:オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団:1940年[37]
- ベートーヴェン ピアノ三重奏曲第7番「大公」:ルービンシュタイン(ピアノ)、ハイフェッツ:1941年[7]
- シューベルト ピアノ三重奏曲第1番:ルービンシュタイン、ハイフェッツ:1941年[38]
- モーツァルト ディヴェルティメントK.563:ハイフェッツ、プリムローズ:1941年[6]
- ドホナーニ セレナードハ長調:ハイフェッツ、プリムローズ:1941年[6]
テレフンケン
- ポッパー『ハンガリー狂詩曲』:パウル・クレツキ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団:1932年[8][31]
放送録音
- リヒャルト・シュトラウス『ドン・キホーテ』:トスカニーニ指揮NBC交響楽団:1938年10月22日[31]
- ドヴォルザーク チェロ協奏曲:レオン・バージン指揮ナショナル・オーケストラル・アソシエーション:1940年1月27日[31]
- ダルベール チェロ協奏曲:バージン指揮ナショナル・オーケストラル・アソシエーション:1940年4月22日[31]
- ドヴォルザーク『ボヘミアの森より』:バージン指揮ナショナル・オーケストラル・アソシエーション:1940年11月10日[31]
- ドヴォルザーク ロンドト短調:バージン指揮ナショナル・オーケストラル・アソシエーション:1940年11月10日[31]
- ブロッホ『シェロモ』:バージン指揮ナショナル・オーケストラル・アソシエーション:1940年11月10日[31]
- ドヴォルザーク チェロ協奏曲:ハンス・ランゲ指揮シカゴ交響楽団:1941年1月9日[31]
個々のレコードおよびCD番号は割愛。日本コロムビア盤は多くは日本国内でのみの販売であったが、ショパン、シューマン、グノーは海外でも販売され、またシューマンとグノーは日本では販売されなかった[1]。
脚注
注釈
- ^ 1912年説も存在するが、野澤は1912年説は「誤りらしい」とする(#野澤 (2))。
- ^ 齋藤はクレンゲルにも師事している(#高橋 p.176)。
- ^ 原曲はマティアス・ゲオルク・モンのチェロ協奏曲
出典
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- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r #野澤 (2)
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参考文献
サイト
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- クリストファ・N・野澤「エマヌエル・フォイアマン Vol.3」『エマヌエル・フォイアマン Vol.1ライナーノーツ』グリーンドア音楽出版、2003年。