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{{Infobox scientist
[[Image:antoine_lavoisier.jpg|thumb|200px|right|アントワーヌ・ラヴォアジエ]]
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[[Image:David - Portrait of Monsieur Lavoisier and His Wife.jpg|thumb|200px|right|[[ジャック=ルイ・ダヴィッド|ダヴィッド]]による、ラヴォアジエとその妻マリー・アンヌ・ピエレット・ポールズ=ラヴォアジエの肖像画。([[1788年]])]]
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'''アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ'''(Antoine-Laurent de Lavoisier, [[1743年]][[8月26日]] - [[1794年]][[5月8日]])は[[フランス]]、[[パリ]]出身の[[化学者]]である。[[酸素]]の発見者で、「近代化学の父」といわれる。
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}}
[[ファイル:David - Portrait of Monsieur Lavoisier and His Wife.jpg|thumb|250px|right|[[1788年]]、[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]によって描かれたラヴォアジエと[[妻]]{{仮リンク|マリー=アンヌ・ピエレット・ポールズ|en|Marie-Anne Pierrette Paulze}}の肖像画([[:en:Portrait of Antoine-Laurent Lavoisier and his wife]])]]
[[ファイル:Lavoisier decomposition air.png|thumb|250px|マリー=アンヌが描いた実験図。A側の方を熱してAは[[水銀]]、Eは空気である]]
[[ファイル:SeimiKaisouChemistry.jpg|thumb|250px|[[宇田川榕菴]]により描かれた『舎密開宗』。[[蘭学]]として伝わったラヴォアジエの水素燃焼実験図]]
[[ファイル:Lavoisier humanexp.jpg|thumb|250px|[[呼吸]]と燃焼の実験]]
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[[ファイル:Lavoisier cour Napoleon Louvre.jpg|thumb|[[1853年]]、{{仮リンク|ジャック=レオナール・マイエ|en|Jacques-Léonard Maillet}}によって作られたラヴォアジエ([[ルーヴル宮殿]])]]
[[ファイル:Antoine lavoisier color.jpg|thumb|250px|ラヴォアジエ]]
[[ファイル:Lavoisier und Nemours.png|thumb|250px|[[:en:Éleuthère Irénée du Pont]]によって描かれたラヴォアジエとマリー=アンヌ]]
'''アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ'''([[フランス語]]:'''Antoine-Laurent de Lavoisier'''、[[1743年]][[8月26日]] - [[1794年]][[5月8日]])は、[[フランス王国]][[パリ]]出身の[[化学者]]。[[質量保存の法則]]を[[発見]]、[[酸素]]の[[命名]]、[[フロギストン説]]の打破により新しい[[化学用語]]を用いて[[近代科学]]に導いたことから「'''[[近代科学]]の[[父]]'''」と称される{{sfn|世界大百科事典|1972|p=246}}<ref name="kotoba1">[http://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%83%9C%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A8 ラボアジエとは] - [[コトバンク]]、2013年3月27日閲覧。</ref>{{sfn|ロイド|2012|p=411}}。


[[1774年]]に[[体積]]と[[重量]]を[[精密]]にはかる[[定量実験]]を行い、[[化学反応]]の前後では[[質量]]が変化しないという質量保存の法則を発見<ref name="kotoba1"></ref>{{sfn|大宮|2005|p=42}}{{sfn|臺、鈴木|2008|p=184}}。また、[[ドイツ]]の化学者、[[医師]]の[[ゲオルク・シュタール]]が提唱した当時支配的であった[[フロギストン説]]を退け、1774年に[[燃焼]]を酸素との[[結合]]として説明した最初の人物で、[[1779年]]に酸素(実際は[[水素イオン]])を「''oxygène''」と命名した{{sfn|万有百科大事典|1974|p=642}}。
== 来歴 ==
[[1774年]]、精密な[[定量実験]]を行い、[[化学反応]]の前後では質量が変化しないという[[質量保存の法則]]を発見した。また、当時は[[燃焼]]を物質に含まれているフロギストンが空気中に出ていく現象であるとする[[フロギストン説]]が支配的であったが、[[1777年]]に燃焼が物質と酸素が結合することであると説明した。1776年以来、砲兵工廠で大砲用の火薬を改良し、その生産量を増やすなどの貢献した<ref>参考文献欄『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ 460ページ</ref>。


しばしば酸素の発見者と言及されるが物質としての酸素自体の発見者は[[1775年]][[3月]]に[[イギリス]]の[[自然哲学者]]、[[教育者]]、[[神学者]]の[[ジョゼフ・プリーストリー]]に[[優先権]]があるため、厳密な表現ではない<ref name="wakewakaran">{{Harvnb|Kuhn|1996|pp=53–60}}; {{Harvnb|Schofield|2004|pp=112–13}}. 進展中だった化学革命の中で他にもイギリスの自然哲学者、教育者、神学者のジョゼフ・プリーストリーや[[スウェーデン]]の化学者、[[薬学者]]の[[カール・ヴィルヘルム・シェーレ]]が酸素の発見者であるとされるため正確に特定することは困難だが、化学史的ではプリーストリーが酸素の発見者である。しかし「酸素」と命名した人物はラヴォアジエである。なお[[アメリカ]]の[[科学史]]家の [[トーマス・クーン]]は『[[科学革命の構造]]』の中で[[パラダイムシフト]]の概念で説明しようとした。</ref>。なお、[[化学史]]的に酸素の発見者はプリーストリーである{{sfn|桜井|2009|p=65}}。
1787年、フランスの科学者[[クロード・ルイ・ベルトレー]]らとともに、物質の命名法を確立し、[[元素]]を定義付け、また、水の成分が酸素と水素であることを発表した。ただ、これは彼に先立って英国人の[[ヘンリー・キャヴェンディッシュ]]が既に発見していたが、かなりの変人だったキャヴェンディッシュはラヴォアジエの発表に何の関心も優先権も主張しなかったため、ラヴォアジエに優先権が発生することとなった。


== 生涯 ==
熱が物質であるという[[カロリック説]]には肯定的であった。[[酸]]の元は[[酸素]]であると考えて(実際は水素イオン)、この名称をつけた。
=== 出生から学生時代 ===
1743年8月26日、フランス王国パリに裕福な[[弁護士]]である父の元に生まれるが、ラヴォアジエが5歳の頃に[[母]]を失い[[叔母]]の元で育てられた{{sfn|万有百科大事典|1974|p=641}}。


[[1754年]]より[[1761年]]まで[[:en:Collège des Quatre-Nations|マザラン学校]]で[[化学]]、[[植物学]]、[[天文学]]、[[数学]]を学ぶ。[[修辞学]]や[[哲学]]に於いてその後は父の[[職]]を継ぐべく[[法律家]]を目指した。
[[1789年]]、ラヴォアジエは『化学原論』を出版し、33の元素表を示し、近代化学の革命を成し遂げた。


1761年からは[[パリ大学]][[法学部]]に進学して[[1763年]](あるいは[[1764年]])に[[弁護士試験]]に[[合格]]して[[高等法院 (フランス)|高等法院]][[法学士]]となるが在学中に同国出身の[[天文学者]]である[[ニコラ・ルイ・ド・ラカーユ]]、[[博物学者]]の[[ベルナール・ド・ジュシュー]]からは植物学を学び、以前からラヴォアジエ家と親交があった<ref name="yahoo1">{{Yahoo!百科事典|ラボアジエ|author=吉田晃}}。</ref>博物学者、[[鉱物学者]]の{{仮リンク|ジャン=エティエンヌ・ゲタール|en|Jean-Étienne Guettard}}からは[[地質学]]と[[鉱物学]]を、化学者の{{仮リンク|ギヨーム=フランソワ・ルエル|en|Guillaume-François Rouelle}}からは化学を学んで[[自然科学]]に興味を持つようになる{{sfn|世界大百科事典|1972|p=246}}{{sfn|万有百科大事典|1974|p=641}}。また、法学部に[[在籍]]しているにも関わらず化学の[[講義]]を聴講したり<ref name="kotoba1"></ref>、ゲタールと共にフランスの[[地質図]]作成に協力した{{sfn|世界大百科事典|1972|p=246}}。
== 人物 ==
1743年パリの有資産家商人の息子として生まれた。優れた教育を受けることができた。父親の勧めもあり法律を学び、パリ高等法務院の弁護士になった。1766年『都市の街路に最良な夜間照明法』が科学アカデミーから表彰された。1767年イギリス人のキャベンディッシュが引火性の気体「[[水素]]」を発見した。この発見からラヴォアジェの関心は水の組成に向けられた。


その後もゲタールと[[アルザス=ロレーヌ]]など[[旅行]]して各地を回った際、各地方の[[石膏]]に関心を示して[[比較研究]]をしたことがラヴォアジエが最初の研究であった{{sfn|世界大百科事典|1972|p=246}}。この石膏に関する研究は後にラヴォアジエの特記すべく定量実験の兆しである推測ではない確実な実験が重視されている{{sfn|万有百科大事典|1974|p=642}}。
裕福な生まれだったにもかかわらず、実験器具を買う費用が必要だったことから、市民から税金を取り立てて国王に引き渡す「徴税請負人」の職業に就き(1768年)資産を有効に運用しようとした。1771年、徴税請負人の長官ジャック・ポールズの娘マリー・アンヌ・ピエレット・ポールズと結婚した。子どもはできなかった。妻のマリー・アンヌは夫の役に立とうと英語、ラテン語、イタリア語を学び、系統学的な化学や絵画の描き方などを習得した。そして最新の英語論文や手紙を夫のためにフランス語に翻訳し、実験の際には非常に細かい点までスケッチし、記録に残した<ref>{{Citation|last1=川島 |first1 = 慶子 |coauthors= |year=2006|title= ラヴワジエ夫人:化学革命の女神か? |journal=サイエンスネット |publisher=数研出版 |volume= |issue= 26|pages=6-9 |doi = |url = http://www.chart.co.jp/subject/rika/scnet/26/Sc26_2.pdf |format =PDF|accessdate = 2011-02-04 }}</ref>。


=== フランス科学アカデミー入会から結婚 ===
1789年フランス革命始まる。ラヴォアジェ三部会の貴族階級の補足代議員となる。
[[1766年]]に[[フランス科学アカデミー]]が『都市の街路に最良な夜間照明法』についての論文を懸賞募集し、ラヴォアジエは最初に著した論文にも関わらず[[1766年]][[4月9日]]に1等賞を得た<ref name="denki">[http://www.ijinten.com/contents/ijin/lavoisier.htm ラヴォアジェ] - [[電気史偉人典]]、2013年3月27日閲覧。</ref>。その後、ゲタールと地質図作成の旅行で集めた[[飲料水]]の[[分析]]した[[結果]]を[[発表]]して<ref name="yahoo1"></ref>[[1768年]][[5月18日]]にフランス科学アカデミーの[[会員]]となった。この頃よりイギリスの化学者、[[物理学者]]の[[ヘンリー・キャヴェンディッシュ]]が[[水素]]を発見し、水や燃焼に興味を示して同年末から翌年[[1769年]]にかけて行われた水をガラス容器に入れて101日間も密閉する「ペリカン<ref>ここでのペリカンは[[鳥]]の[[ペリカン]]ではなく形が鳥のペリカンに似ていることからペリカンと名付けられた[[蒸留器]]を指す。</ref>の実験」で[[水]]が[[土]]に変わるとされる[[四大元素]]説を完全に覆した。


1768年頃よりラヴォアジエ裕福な生まれだったにも関わらず、実験器具を買う費用が必要だったことから、[[市民]]から[[税金]]を取り立てて[[国王]]に引き渡す[[徴税請負人]]の[[職業]]に就き、[[資産]]を有効に運用しようとした。
[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]](1774-1793年)支配時の1791年に国家財政委員に就任し、フランスの金融・徴税制度を改革しようとした。しかし、[[フランス革命]]勃発後の1793年に徴税吏であること、徴税請負人の娘と結婚していたことなどを理由に投獄された。徴税請負人は市民から正規の税に加え、高額な手数料をとったため革命政府の標的とされた。ラヴォアジェ自身はそこまでひどい徴税はせず、むしろ税の負担を減らそうと努力していたが、1793年11月24日に他の徴税請負人と一緒に逮捕される。1794年5月8日の革命裁判所の審判で「水と有害物質をタバコに混入した」との(架空の)罪<ref>「フランス人民に対する陰謀」説もある。(参考文献欄『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ 460ページ)</ref>で死刑とされ、その日のうちに[[ギロチン|断頭台]]で処刑された。


[[1771年]][[12月6日]]、徴税請負人[[長官]]のジャック・ポールズ(''Jacques Paulze'')の[[娘]]である{{仮リンク|マリー=アンヌ・ピエレット・ポールズ|en|Marie-Anne Pierrette Paulze}}とパリにある[[教会]]([[:en:Saint-Roch, Paris]])で[[結婚]]する。二人の間に[[子供]]はできなかったものの妻マリー=アンヌは夫ラヴォアジエの役に立とうと[[英語]]、[[ラテン語]]、[[イタリア語]]を学び、[[系統学]]的な化学や[[絵画]]の描き方などを習得。そして[[アイルランド]]の[[科学者]]である[[リチャード・カーワン]]やプリーストリーの論文や手紙をラヴォアジエのためにフランス語に[[翻訳]]し、実験の際には非常に細かい点まで[[スケッチ]]し、[[記録]]に残した<ref>{{Citation|last1=川島 |first1 = 慶子 |coauthors= |year=2006|title= ラヴワジエ夫人:化学革命の女神か? |journal=サイエンスネット |publisher=数研出版 |volume= |issue= 26|pages=6-9 |doi = |url = http://www.chart.co.jp/subject/rika/scnet/26/Sc26_2.pdf |format =PDF|accessdate = 2011-02-04}}</ref>。
ラヴォアジエが投獄・処刑された理由については、革命指導者の一人で化学者でもあった[[ジャン=ポール・マラー]]が、かつて学会に提出した論文が審査を担当したラヴォアジエによって(彼によれば「実験もせず憶測の内容であったため」)却下されたことの逆恨みによるものであるとも伝えられている。


=== 様々な実験から『化学命名法』出版まで ===
[[天文学]]者の[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]は、ラヴォアジエの死に接して「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年かかるだろう」とその才能を惜しんだ。
[[1772年]]頃には[[貴族]]の[[地位]]を[[買収]]。[[1775年]]頃は[[火薬]]管理の[[監督官]]となり、[[1776年]]以来、[[砲兵]][[工廠]]で[[大砲]]用の火薬を改良し、[[硝石]]の生産量を大幅に増やして火薬の製造力を増大させた{{sfn|ロイド|2012|p=411}}<ref>参考文献欄『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ 460ページ</ref>。そして火薬に[[炭酸カリウム]]を入れると[[火力]]が上がることを発見して[[農家]]に報酬金を支払うことで硝石を作らせた{{sfn|ロイド|2012|p=411}}。このようにラヴォアジエは[[農業]]にも関心を示し、後に[[王立農業学会]]、フランス政府の農業委員会に加わることとなった<ref name="yahoo1"></ref>。


1774年1月に上記の「ペリカンの実験」より化学反応の前後では質量が変化しないことを見出し質量保存の法則を発見{{sfn|松本、佐々木|2010|p=140}}。同年に燃焼を酸素との結合として説明した。なお、ラヴォアジエは[[1773年]][[2月20日]]付けの[[実験ノート]]に「化学に於ける革命になる」と書いた{{sfn|万有百科大事典|1974|p=642}}。
なお、処刑後の人に意識があるのかを実験するため、周囲の人間に「斬首後、可能な限り瞬きを続ける」と宣言し、実際に瞬きを行なったという話があるが、ラヴォアジェの処刑は35分間で28人を処刑する流れ作業の途中で行われ、当時実際に死刑に立ち会った人の記述にそのような話はなく、[[ギロチン#斬首後に意識はあるか|ボーリュー医師]]の1905年の論文をもとに1990年代以降創られた[[都市伝説]]と考えられる。


1774年[[4月]]には[[レトルト]]に[[錫]]を入れて加熱し、燃焼によりできた[[錫灰]]の重さを比較する「レトルトの実験」を行い、アイルランドの貴族、化学者の[[ロバート・ボイル]]が提唱した「火の粒子(フロギストン)」が存在しないことを解明{{sfn|松本、佐々木|2010|p=131}}。同年の[[11月12日]]にフランス科学アカデミーで発表した。なお、同年の[[10月]]にプリーストリーがフランスを訪れ、水銀灰を加熱すると気体が出てくる話を聴いた。その後ラヴォアジエは水銀を12日間{{sfn|松本、佐々木|2010|p=132}}加熱し、燃焼は酸素と物質が結合することを発見したが、[[スウェーデン]]の化学者、[[薬学者]]の[[カール・ヴィルヘルム・シェーレ]]が1773年頃に未発表ではあったものの「痛んだ空気」を発見していた。
現在ではパリの市役所にラヴォアジエの功績をたたえ、像が飾られている。

[[1777年]]に燃焼が物質と酸素が結合することであると説明し、[[1779年]]に酸素(実際は水素イオン)を「oxygène」と名付けた。

[[1781年]]にキャヴェンディッシュが水素と酸素を混ぜて水ができた実験に関心を示したラヴォアジエは[[1783年]]にキャヴェンディッシュが行った実験を定量実験を用いて追試し、水が元素でないことを証明し水素を「hydrogène」と名付けた。最初はフロギストン説に肯定的であったラヴォアジエも1783年を機にしてフロギストンに関する論文を著し、フロギストン説を公然に完全否定するようになった{{sfn|万有百科大事典|1974|p=642}}。
[[1782年]]から翌年の[[1783年]]にかけて同国出身の自然科学者、数学者、物理学者、天文学者である[[ピエール=シモン・ラプラス]]と共に[[氷熱量計]]を作り、1777年に実験していた[[動物]]の[[呼吸]]は一つの燃焼であることをを裏付けた{{sfn|世界大百科事典|1972|p=246}}{{sfn|万有百科大事典|1974|p=642}}。

[[1787年]]、ラヴォアジエは同国出身の化学者、医師の[[クロード・ルイ・ベルトレー]]、[[ルイ=ベルナール・ギトン・ド・モルボー]]、{{仮リンク|アントワーヌ・フルクロワ|en|Antoine François, comte de Fourcroy}}と共に新しい化学用語が書かれた『化学命名法』を著す。物質の命名法を確立し、元素を定義付け、また、水の成分が酸素と水素であることを発表した。ただ、これはラヴォアジエに先立って・キャヴェンディッシュが既に発見していたが、かなりの変人で人間嫌いだったキャヴェンディッシュはラヴォアジエの発表に何の関心も優先権も主張しなかったため、ラヴォアジエに優先権が発生することとなった。

同年の1787年はラヴォアジエの所有地である[[オルレアン]]の[[地方議会]]で第三階級代議員として務めていた<ref name="yahoo1"></ref>。

=== 『化学原論』出版から処刑まで ===
[[1789年]]、『[[化学原論]](''Traitè èlèmentaire de chimie'')』を出版し、33の[[元素表]]を示し、近代化学の革命を成し遂げた。13個の[[図版]]はマリー=アンヌが手がけ、第一部には気体の生成分解、第二部は[[塩基]]や[[酸]]、[[塩]]に関する記述、第三部には化学の実験器具とその操作について書かれ、質量保存の法則についての明確な記述が書かれてある{{sfn|万有百科大事典|1974|p=643}}。因みに『化学原論』は出版からその後の10年間、[[ヨーロッパ]]全土で標準的な[[教科書]]とされた{{sfn|世界大百科事典|1972|p=246}}。なお同年、ラヴォアジエは新たに[[窒素]]を[[ギリシア語]]の生命がないと言う意である「azotikos'」に因んで「azote」と名付けた{{sfn|桜井|2009|p=57}}。

同年の1789年に[[フランス革命]]が勃発。当時ラヴォアジエはパリで貴族階級の補足代議員を務めていた。[[1790年]]には各温度を測り、体積の[[蒸留水]]の質量を測定して新しい質量の[[単位]]を決議するため新[[度量衡法]]設立[[委員会]]の委員を務めた。この頃の実験は呼吸と燃焼の関係性を調べる化学ではなく[[生理学]]的な実験に移っていった<ref name="yahoo1"></ref>。

[[1791年]]に[[徴税請負制度]]が[[廃止]]されたが、ラヴォアジエの実力が当時フランスの[[国王]]であった[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]に信頼されて[[国家財政委員]]に任命された。その後フランスの[[金融]]や徴税制度を[[改革]]しようとした。

[[1792年]]、ラヴォアジエは実験に専念するために政府の職業を全て辞任して住居を引っ越した。しかしフランス革命に押されてフランス科学アカデミーも閉鎖となり、ラヴォアジエの呼吸と燃焼に関する生理学的な実験は途中で終わってしまった。

[[フランス革命]]勃発後の[[1793年]][[11月24日]]に革命政府が徴税請負人を市民から正規の税に加え、高額な[[手数料]]をとったため敵視し、全ての徴税請負人が[[指名手配]]された。その後ラヴォアジエは[[自首]]し、徴税請負人の娘と結婚していたことなども理由に[[投獄]]された。だがラヴォアジエ自身はそこまで酷い徴税はせず、むしろ税の負担を減らそうと努力していた。

1794年5月8日の[[革命裁判所]]の[[審判]]で「水と[[有害物質]]を[[タバコ]]に混入した」との(架空の)罪<ref>「フランス人民に対する陰謀」説もある。(参考文献欄『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ 460ページ)</ref>で[[死刑]]の[[判決]]が下った。しかしラヴォアジエの[[弁護人]]はラヴォアジエの科学上の実績を[[弁論]]したが「[[共和国]]に[[科学者]]は不要である」と[[裁判長]]に指摘され、その日の内に[[コンコルド広場]]にある[[ギロチン]]で処刑された。

ラヴォアジエが投獄、処刑された理由については、革命指導者の一人で化学者でもあった[[ジャン=ポール・マラー]]が、かつて学会に提出した論文が審査を担当したラヴォアジエによって(定量実験を[[モットー]]とするラヴォアジエによれば「実験もせず憶測の内容であったため」)却下されたことの逆恨みによるものであるとも伝えられている。

同国出身の天文学者である[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]は、ラヴォアジエの死に接して「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年かかるだろう」とラヴォアジエの才能を惜しんだ。

なお、処刑後の人に意識があるのかを実験するため、周囲の人間に「斬首後、可能な限り瞬きを続ける」と宣言して実際に瞬きを行なったという話があるが、ラヴォアジェの処刑は35分間で28人を処刑する流れ作業の途中で行われ、当時実際に死刑に立ち会った人の記述にそのような話はなく、[[ギロチン#斬首後に意識はあるか|ボーリュー医師]]の[[1905年]]の論文をもとに[[1990年代]]以降創られた[[都市伝説]]と考えられる。

[[2013年]]現在ではパリの[[市役所]]にラヴォアジエの功績を讃え、[[像]]が飾られている。


== ラヴォアジエの元素表 ==
== ラヴォアジエの元素表 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 ISBN 4-562-03729-6
* フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 ISBN 4-562-03729-6
* {{Cite book|和書 |author= 植村琢 |authorlink= 植村琢 |coauthors= [[崎川範行]]、[[桜田一郎]]、[[水島三一郎]] |editor= [[相賀徹夫]] |others= |title= 万有百科大事典 15 化学 |origdate= 1974-10-20 |url= |format= |accessdate= |edition= 初版 |date= |year= |publisher= [[小学館]] |location= |series= [[日本大百科全書]] |language= 日本語 }}
* {{Cite book|和書 |author=|authorlink=|coauthors=|editor= [[林達夫]] |others= |title= 世界大百科事典 番号 五十音 |origdate= 1972-4 |url= |format= |accessdate= |edition= 1972年版 |date= |year= |publisher= [[平凡社]] |location= |series= [[世界大百科事典]] |language= 日本語 }}
* {{Cite book|和書 |author= 桜井弘 |authorlink= 桜井弘 |coauthors= |editor= 桜井弘 |others= |title= 元素111の新知識 第2版 |origdate= 2009-1-20 |isbn= 978-4062576277 |url= |format= |accessdate= |edition= 第2版 |date= |year= |publisher= [[講談社]] |location= |series= |language= 日本語 }}
* {{Cite book|和書 |author= 大宮信光 |authorlink= 大宮信光 |coauthors= |editor= [[阿部林一郎]] |others= |title= 世界を変えた科学の大理論100 |origdate= 1998-12 |isbn= 978-4537115109 |url= |format= |accessdate= |edition= 第2版 |date= |year= |publisher= [[日本文芸社]] |location= |series= |language= 日本語 }}
* {{Cite book|和書 |author= 松本泉 |authorlink= 松本泉 |coauthors= [[佐々木ケン]] |editor= [[鈴木哲]] |others= |title= マンガ おはなし化学史|origdate= 2010-12-20 |isbn= 978-4062577106 |url= |format= |accessdate= |edition= 第1版 |date= |year= |publisher= [[ブルーバックス]] |location= |series= |language= 日本語 }}
* {{Cite book|和書 |author= 臺靖 |authorlink= 臺靖 |coauthors= [[鈴木敏平]] |editor= [[全国歴史教育研究協議会]] |others= |title= 世界史B用語集 改訂版|origdate= 2008-1-31 |isbn= 978-4634033023 |url= |format= |accessdate= |edition= 改訂版 |date= |year= |publisher= [[山川出版社]] |location= |series= |language= 日本語 }}
* {{Yahoo!百科事典|ラボアジエ|author=吉田晃}}。
* {{Cite web |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |date= |url= http://kotobank.jp/word/ラボアジエ |title= ラボアジエとは |format= |doi= |work= |publisher= [[コトバンク]] |page= |pages= |language= |archiveurl= |archivedate= |accessdate= 2013-3-27 |quote=}}
* {{Cite web |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |date= |url= http://www.ijinten.com/contents/ijin/lavoisier.htm |title= ラヴォアジェ |format= |doi= |work= |publisher= [[電気史偉人典]] |page= |pages= |language= |archiveurl= |archivedate= |accessdate= 2013-3-27 |quote=}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[アメデオ・アヴォガドロ]]
* [[アメデオ・アヴォガドロ]]
* [[元素]]
* [[元素]]
* [[エッフェル塔に名前を刻まれた72人のフランスの科学者の一覧]]
* [[アメリカ合衆国の独立]] - ラヴォアジエは[[外交家]]として[[アメリカ独立戦争]]の際にアメリカの味方をした。


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2013年3月27日 (水) 18:22時点における版

アントワーヌ・ラヴォアジエ
生誕 Antoine-Laurent de Lavoisier
(1743-08-26) 1743年8月26日
フランス王国パリ
死没 (1794-05-08) 1794年5月8日(50歳没)
フランスの旗 フランスパリ
居住 フランス王国
市民権 フランス王国
国籍 フランスの旗 フランス
研究分野 化学哲学経済学
出身校 パリ大学
主な業績 酸素水素窒素命名
質量保存の法則
影響を
受けた人物
ニコラ・ルイ・ド・ラカーユ
ベルナール・ド・ジュシュー
ジャン=エティエンヌ・ゲタール
ギヨーム=フランソワ・ルエル英語版
署名
プロジェクト:人物伝
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1788年ジャック=ルイ・ダヴィッドによって描かれたラヴォアジエとマリー=アンヌ・ピエレット・ポールズの肖像画(en:Portrait of Antoine-Laurent Lavoisier and his wife
マリー=アンヌが描いた実験図。A側の方を熱してAは水銀、Eは空気である
宇田川榕菴により描かれた『舎密開宗』。蘭学として伝わったラヴォアジエの水素燃焼実験図
呼吸と燃焼の実験
燃焼実験
1853年ジャック=レオナール・マイエ英語版によって作られたラヴォアジエ(ルーヴル宮殿
ラヴォアジエ
en:Éleuthère Irénée du Pontによって描かれたラヴォアジエとマリー=アンヌ

アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエフランス語:Antoine-Laurent de Lavoisier1743年8月26日 - 1794年5月8日)は、フランス王国パリ出身の化学者質量保存の法則発見酸素命名フロギストン説の打破により新しい化学用語を用いて近代科学に導いたことから「近代科学」と称される[1][2][3]

1774年体積重量精密にはかる定量実験を行い、化学反応の前後では質量が変化しないという質量保存の法則を発見[2][4][5]。また、ドイツの化学者、医師ゲオルク・シュタールが提唱した当時支配的であったフロギストン説を退け、1774年に燃焼を酸素との結合として説明した最初の人物で、1779年に酸素(実際は水素イオン)を「oxygène」と命名した[6]

しばしば酸素の発見者と言及されるが物質としての酸素自体の発見者は1775年3月イギリス自然哲学者教育者神学者ジョゼフ・プリーストリー優先権があるため、厳密な表現ではない[7]。なお、化学史的に酸素の発見者はプリーストリーである[8]

生涯

出生から学生時代

1743年8月26日、フランス王国パリに裕福な弁護士である父の元に生まれるが、ラヴォアジエが5歳の頃にを失い叔母の元で育てられた[9]

1754年より1761年までマザラン学校化学植物学天文学数学を学ぶ。修辞学哲学に於いてその後は父のを継ぐべく法律家を目指した。

1761年からはパリ大学法学部に進学して1763年(あるいは1764年)に弁護士試験合格して高等法院法学士となるが在学中に同国出身の天文学者であるニコラ・ルイ・ド・ラカーユ博物学者ベルナール・ド・ジュシューからは植物学を学び、以前からラヴォアジエ家と親交があった[10]博物学者、鉱物学者ジャン=エティエンヌ・ゲタールからは地質学鉱物学を、化学者のギヨーム=フランソワ・ルエル英語版からは化学を学んで自然科学に興味を持つようになる[1][9]。また、法学部に在籍しているにも関わらず化学の講義を聴講したり[2]、ゲタールと共にフランスの地質図作成に協力した[1]

その後もゲタールとアルザス=ロレーヌなど旅行して各地を回った際、各地方の石膏に関心を示して比較研究をしたことがラヴォアジエが最初の研究であった[1]。この石膏に関する研究は後にラヴォアジエの特記すべく定量実験の兆しである推測ではない確実な実験が重視されている[6]

フランス科学アカデミー入会から結婚

1766年フランス科学アカデミーが『都市の街路に最良な夜間照明法』についての論文を懸賞募集し、ラヴォアジエは最初に著した論文にも関わらず1766年4月9日に1等賞を得た[11]。その後、ゲタールと地質図作成の旅行で集めた飲料水分析した結果発表して[10]1768年5月18日にフランス科学アカデミーの会員となった。この頃よりイギリスの化学者、物理学者ヘンリー・キャヴェンディッシュ水素を発見し、水や燃焼に興味を示して同年末から翌年1769年にかけて行われた水をガラス容器に入れて101日間も密閉する「ペリカン[12]の実験」でに変わるとされる四大元素説を完全に覆した。

1768年頃よりラヴォアジエ裕福な生まれだったにも関わらず、実験器具を買う費用が必要だったことから、市民から税金を取り立てて国王に引き渡す徴税請負人職業に就き、資産を有効に運用しようとした。

1771年12月6日、徴税請負人長官のジャック・ポールズ(Jacques Paulze)のであるマリー=アンヌ・ピエレット・ポールズとパリにある教会en:Saint-Roch, Paris)で結婚する。二人の間に子供はできなかったものの妻マリー=アンヌは夫ラヴォアジエの役に立とうと英語ラテン語イタリア語を学び、系統学的な化学や絵画の描き方などを習得。そしてアイルランド科学者であるリチャード・カーワンやプリーストリーの論文や手紙をラヴォアジエのためにフランス語に翻訳し、実験の際には非常に細かい点までスケッチし、記録に残した[13]

様々な実験から『化学命名法』出版まで

1772年頃には貴族地位買収1775年頃は火薬管理の監督官となり、1776年以来、砲兵工廠大砲用の火薬を改良し、硝石の生産量を大幅に増やして火薬の製造力を増大させた[3][14]。そして火薬に炭酸カリウムを入れると火力が上がることを発見して農家に報酬金を支払うことで硝石を作らせた[3]。このようにラヴォアジエは農業にも関心を示し、後に王立農業学会、フランス政府の農業委員会に加わることとなった[10]

1774年1月に上記の「ペリカンの実験」より化学反応の前後では質量が変化しないことを見出し質量保存の法則を発見[15]。同年に燃焼を酸素との結合として説明した。なお、ラヴォアジエは1773年2月20日付けの実験ノートに「化学に於ける革命になる」と書いた[6]

1774年4月にはレトルトを入れて加熱し、燃焼によりできた錫灰の重さを比較する「レトルトの実験」を行い、アイルランドの貴族、化学者のロバート・ボイルが提唱した「火の粒子(フロギストン)」が存在しないことを解明[16]。同年の11月12日にフランス科学アカデミーで発表した。なお、同年の10月にプリーストリーがフランスを訪れ、水銀灰を加熱すると気体が出てくる話を聴いた。その後ラヴォアジエは水銀を12日間[17]加熱し、燃焼は酸素と物質が結合することを発見したが、スウェーデンの化学者、薬学者カール・ヴィルヘルム・シェーレが1773年頃に未発表ではあったものの「痛んだ空気」を発見していた。

1777年に燃焼が物質と酸素が結合することであると説明し、1779年に酸素(実際は水素イオン)を「oxygène」と名付けた。

1781年にキャヴェンディッシュが水素と酸素を混ぜて水ができた実験に関心を示したラヴォアジエは1783年にキャヴェンディッシュが行った実験を定量実験を用いて追試し、水が元素でないことを証明し水素を「hydrogène」と名付けた。最初はフロギストン説に肯定的であったラヴォアジエも1783年を機にしてフロギストンに関する論文を著し、フロギストン説を公然に完全否定するようになった[6]1782年から翌年の1783年にかけて同国出身の自然科学者、数学者、物理学者、天文学者であるピエール=シモン・ラプラスと共に氷熱量計を作り、1777年に実験していた動物呼吸は一つの燃焼であることをを裏付けた[1][6]

1787年、ラヴォアジエは同国出身の化学者、医師のクロード・ルイ・ベルトレールイ=ベルナール・ギトン・ド・モルボーアントワーヌ・フルクロワ英語版と共に新しい化学用語が書かれた『化学命名法』を著す。物質の命名法を確立し、元素を定義付け、また、水の成分が酸素と水素であることを発表した。ただ、これはラヴォアジエに先立って・キャヴェンディッシュが既に発見していたが、かなりの変人で人間嫌いだったキャヴェンディッシュはラヴォアジエの発表に何の関心も優先権も主張しなかったため、ラヴォアジエに優先権が発生することとなった。

同年の1787年はラヴォアジエの所有地であるオルレアン地方議会で第三階級代議員として務めていた[10]

『化学原論』出版から処刑まで

1789年、『化学原論Traitè èlèmentaire de chimie)』を出版し、33の元素表を示し、近代化学の革命を成し遂げた。13個の図版はマリー=アンヌが手がけ、第一部には気体の生成分解、第二部は塩基に関する記述、第三部には化学の実験器具とその操作について書かれ、質量保存の法則についての明確な記述が書かれてある[18]。因みに『化学原論』は出版からその後の10年間、ヨーロッパ全土で標準的な教科書とされた[1]。なお同年、ラヴォアジエは新たに窒素ギリシア語の生命がないと言う意である「azotikos'」に因んで「azote」と名付けた[19]

同年の1789年にフランス革命が勃発。当時ラヴォアジエはパリで貴族階級の補足代議員を務めていた。1790年には各温度を測り、体積の蒸留水の質量を測定して新しい質量の単位を決議するため新度量衡法設立委員会の委員を務めた。この頃の実験は呼吸と燃焼の関係性を調べる化学ではなく生理学的な実験に移っていった[10]

1791年徴税請負制度廃止されたが、ラヴォアジエの実力が当時フランスの国王であったルイ16世に信頼されて国家財政委員に任命された。その後フランスの金融や徴税制度を改革しようとした。

1792年、ラヴォアジエは実験に専念するために政府の職業を全て辞任して住居を引っ越した。しかしフランス革命に押されてフランス科学アカデミーも閉鎖となり、ラヴォアジエの呼吸と燃焼に関する生理学的な実験は途中で終わってしまった。

フランス革命勃発後の1793年11月24日に革命政府が徴税請負人を市民から正規の税に加え、高額な手数料をとったため敵視し、全ての徴税請負人が指名手配された。その後ラヴォアジエは自首し、徴税請負人の娘と結婚していたことなども理由に投獄された。だがラヴォアジエ自身はそこまで酷い徴税はせず、むしろ税の負担を減らそうと努力していた。

1794年5月8日の革命裁判所審判で「水と有害物質タバコに混入した」との(架空の)罪[20]死刑判決が下った。しかしラヴォアジエの弁護人はラヴォアジエの科学上の実績を弁論したが「共和国科学者は不要である」と裁判長に指摘され、その日の内にコンコルド広場にあるギロチンで処刑された。

ラヴォアジエが投獄、処刑された理由については、革命指導者の一人で化学者でもあったジャン=ポール・マラーが、かつて学会に提出した論文が審査を担当したラヴォアジエによって(定量実験をモットーとするラヴォアジエによれば「実験もせず憶測の内容であったため」)却下されたことの逆恨みによるものであるとも伝えられている。

同国出身の天文学者であるジョゼフ=ルイ・ラグランジュは、ラヴォアジエの死に接して「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年かかるだろう」とラヴォアジエの才能を惜しんだ。

なお、処刑後の人に意識があるのかを実験するため、周囲の人間に「斬首後、可能な限り瞬きを続ける」と宣言して実際に瞬きを行なったという話があるが、ラヴォアジェの処刑は35分間で28人を処刑する流れ作業の途中で行われ、当時実際に死刑に立ち会った人の記述にそのような話はなく、ボーリュー医師1905年の論文をもとに1990年代以降創られた都市伝説と考えられる。

2013年現在ではパリの市役所にラヴォアジエの功績を讃え、が飾られている。

ラヴォアジエの元素表

ラヴォアジエは、『化学原論』で、次のものを元素として挙げている。これらの中には、現在元素ではないことが判っているものも含まれている。

分類 元素
自然界に広くあるもの 熱素酸素窒素水素
非金属 硫黄リン炭素、塩酸基(塩素)、フッ酸基(フッ素)、ホウ酸基
金属 アンチモンヒ素ビスマスコバルトスズモリブデン
ニッケル白金タングステン亜鉛マンガン水銀     
ライム(酸化カルシウム)、マグネシア、バリタ(酸化バリウム)、アルミナシリカ

脚注

  1. ^ a b c d e f 世界大百科事典 1972, p. 246.
  2. ^ a b c ラボアジエとは - コトバンク、2013年3月27日閲覧。
  3. ^ a b c ロイド 2012, p. 411.
  4. ^ 大宮 2005, p. 42.
  5. ^ 臺、鈴木 2008, p. 184.
  6. ^ a b c d e 万有百科大事典 1974, p. 642.
  7. ^ Kuhn 1996, pp. 53–60; Schofield 2004, pp. 112–13. 進展中だった化学革命の中で他にもイギリスの自然哲学者、教育者、神学者のジョゼフ・プリーストリーやスウェーデンの化学者、薬学者カール・ヴィルヘルム・シェーレが酸素の発見者であるとされるため正確に特定することは困難だが、化学史的ではプリーストリーが酸素の発見者である。しかし「酸素」と命名した人物はラヴォアジエである。なおアメリカ科学史家の トーマス・クーンは『科学革命の構造』の中でパラダイムシフトの概念で説明しようとした。
  8. ^ 桜井 2009, p. 65.
  9. ^ a b 万有百科大事典 1974, p. 641.
  10. ^ a b c d e 吉田晃「ラボアジエ[リンク切れ] - Yahoo!百科事典
  11. ^ ラヴォアジェ - 電気史偉人典、2013年3月27日閲覧。
  12. ^ ここでのペリカンはペリカンではなく形が鳥のペリカンに似ていることからペリカンと名付けられた蒸留器を指す。
  13. ^ 川島, 慶子 (2006), “ラヴワジエ夫人:化学革命の女神か?” (PDF), サイエンスネット (数研出版) (26): 6-9, http://www.chart.co.jp/subject/rika/scnet/26/Sc26_2.pdf 2011年2月4日閲覧。 
  14. ^ 参考文献欄『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ 460ページ
  15. ^ 松本、佐々木 2010, p. 140.
  16. ^ 松本、佐々木 2010, p. 131.
  17. ^ 松本、佐々木 2010, p. 132.
  18. ^ 万有百科大事典 1974, p. 643.
  19. ^ 桜井 2009, p. 57.
  20. ^ 「フランス人民に対する陰謀」説もある。(参考文献欄『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ 460ページ)

参考文献

  • フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 ISBN 4-562-03729-6
  • 植村琢崎川範行桜田一郎水島三一郎 著、相賀徹夫 編『万有百科大事典 15 化学』(初版)小学館日本大百科全書〉(原著1974年10月20日)。 
  • 林達夫 編『世界大百科事典 番号 五十音』(1972年版)平凡社世界大百科事典〉(原著1972-4)。 
  • 桜井弘 著、桜井弘 編『元素111の新知識 第2版』(第2版)講談社(原著2009-1-20)。ISBN 978-4062576277 
  • 大宮信光 著、阿部林一郎 編『世界を変えた科学の大理論100』(第2版)日本文芸社(原著1998年12月)。ISBN 978-4537115109 
  • 松本泉佐々木ケン 著、鈴木哲 編『マンガ おはなし化学史』(第1版)ブルーバックス(原著2010年12月20日)。ISBN 978-4062577106 
  • 臺靖鈴木敏平 著、全国歴史教育研究協議会 編『世界史B用語集 改訂版』(改訂版)山川出版社(原著2008-1-31)。ISBN 978-4634033023 
  • 吉田晃「ラボアジエ[リンク切れ] - Yahoo!百科事典
  • ラボアジエとは”. コトバンク. 2013年3月27日閲覧。
  • ラヴォアジェ”. 電気史偉人典. 2013年3月27日閲覧。

関連項目


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