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'''国鉄分割民営化'''(こくてつぶんかつみんえいか)とは、[[中曽根康弘]][[内閣]]が実施した[[政治改革]]。[[日本国有鉄道]](国鉄)を[[JR]]として6つの地域別の旅客鉄道会社と1つの貨物鉄道会社などに分割し[[民営化]]するものである。これらの会社は[[1987年]][[4月1日]]に発足した。 |
'''国鉄分割民営化'''(こくてつぶんかつみんえいか)とは、[[中曽根康弘]][[内閣]]が実施した[[政治改革]]。[[日本国有鉄道]](国鉄)を[[JR]]として6つの地域別の旅客鉄道会社と1つの貨物鉄道会社などに分割し[[民営化]]するものである。これらの会社は[[1987年]][[4月1日]]に発足した。 |
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このほか同時期に[[日本電信電話公社|電電公社]]や[[日本専売公社]]を含めた[[公共企業体|三公社]]の民営化が[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]によって進められ |
このほか同時期に[[日本電信電話公社|電電公社]]や[[日本専売公社]]を含めた[[公共企業体|三公社]]の民営化が[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]によって進められた。 |
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== 承継法人 == |
== 承継法人 == |
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その一方で、[[1981年]](昭和56年)、[[鈴木善幸内閣]]は諮問機関として[[第二次臨時行政調査会]](第二次臨調、[[土光敏夫]]会長)を設け、国鉄改革など財政再建に向けた審議を行わせた。さらに[[1982年]](昭和57年)[[2月5日]]、自民党は「国鉄再建小委員会」([[三塚博]]会長)を発足させた。 |
その一方で、[[1981年]](昭和56年)、[[鈴木善幸内閣]]は諮問機関として[[第二次臨時行政調査会]](第二次臨調、[[土光敏夫]]会長)を設け、国鉄改革など財政再建に向けた審議を行わせた。さらに[[1982年]](昭和57年)[[2月5日]]、自民党は「国鉄再建小委員会」([[三塚博]]会長)を発足させた。 |
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第二臨調では、第四部会([[加藤寛 (経済学者)|加藤寛]]部会長)で国鉄改革の実質的な審議が行われた。審議するだけでなく、加藤部会長は「国鉄解体すべし」(『[[月刊現代|現代]]』1982年4月号)、[[屋山太郎]]参与は「国鉄労使国賊論」(『[[文藝春秋_(雑誌)|文藝春秋]]』1982年4月号)を発表するなど、分割民営化を前提に活発に情報発信を行った。同年[[7月30日]]、第二次臨調は基本答申で「国鉄は5年以内に分割民営化すべき」と正式表明し、国鉄そのものの消滅へと大きく舵を切った。鈴木内閣は[[9月24日]]、答申に従って分割民営化を進めることを閣議決定した<ref>国立社会保障・人口問題研究所 [http://www.ipss.go.jp/publication/j/shiryou/no.13/data/shiryou/souron/4.pdf 【1982 年 9 月 24 日】行政改革大綱 閣議決定 今後における行政改革の具体化方策について(行政改革大綱) 〔昭和 57 年 9 月 24 日閣議決定〕]</ref>。自民党内<ref>[[ロッキード事件]]で離党していた田中角栄は、民営化を含めた事業拡大は必要としつつも、分割は反対という立場であった。[[早坂茂三]]『田中角栄回想録』</ref>でも、運輸[[族議員|族]]の[[加藤六月]]、[[田村元]]など、分割民営化反対論は少なくなかったが、同年[[11月27日]]に発足した中曽根内閣は、積極的に分割民営化を進めて行くことになる。 |
第二臨調では、第四部会([[加藤寛 (経済学者)|加藤寛]]部会長)で国鉄改革の実質的な審議が行われた。審議するだけでなく、加藤部会長は「国鉄解体すべし」(『[[月刊現代|現代]]』1982年4月号)、[[屋山太郎]]参与は「国鉄労使国賊論」(『[[文藝春秋_(雑誌)|文藝春秋]]』1982年4月号)を発表するなど、分割民営化を前提に活発に情報発信を行った。同年[[7月30日]]、第二次臨調は基本答申で「国鉄は5年以内に分割民営化すべき」と正式表明し、国鉄そのものの消滅へと大きく舵を切った。鈴木内閣は[[9月24日]]、答申に従って分割民営化を進めることを閣議決定した<ref>国立社会保障・人口問題研究所 [http://www.ipss.go.jp/publication/j/shiryou/no.13/data/shiryou/souron/4.pdf 【1982 年 9 月 24 日】行政改革大綱 閣議決定 今後における行政改革の具体化方策について(行政改革大綱) 〔昭和 57 年 9 月 24 日閣議決定〕]</ref>。自民党内<ref>[[ロッキード事件]]で離党していた田中角栄は、民営化を含めた事業拡大は必要としつつも、分割は反対という立場であった。[[早坂茂三]]『田中角栄回想録』</ref>でも、運輸[[族議員|族]]の[[加藤六月]]、[[田村元]]など、分割民営化反対論は少なくなかったが、同年[[11月27日]]に発足した中曽根内閣は、積極的に分割民営化を進めて行くことになる。1985年12月に発足した[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|第2次中曽根改造内閣]]では、前記の自民党国鉄再建小委員会会長だった三塚博を[[運輸大臣]]として入閣させている(1986年の[[衆参同日選挙]]に伴い退任)。 |
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それまでに累積した債務に掛かる利子がさらに雪だるま式に債務を増やしていく悪循環に陥ってしまったことから、[[1982年]][[8月2日]]の運輸省の1983年度概算要求の中で、債務補填の見返りとして職員の新規採用停止などが確認された。なお、[[1985年]]のみ「民営化後の幹部候補生」として大卒者のみ採用、翌年は再び大卒を含め採用中止した。 |
それまでに累積した債務に掛かる利子がさらに雪だるま式に債務を増やしていく悪循環に陥ってしまったことから、[[1982年]][[8月2日]]の運輸省の1983年度概算要求の中で、債務補填の見返りとして職員の新規採用停止などが確認された。なお、[[1985年]]のみ「民営化後の幹部候補生」として大卒者のみ採用、翌年は再び大卒を含め採用中止した。 |
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巨額の累積債務を、民営化して経営改善したJR各社の負担や国鉄資産の売却、これに国からの税金投入などで処理することは、国鉄分割民営化の大きな目的であった。ただし、中曽根首相はその後、国鉄分割民営化の真の目的は、労働組合の解体にあったと述べている。 |
巨額の累積債務を、民営化して経営改善したJR各社の負担や国鉄資産の売却、これに国からの税金投入などで処理することは、国鉄分割民営化の大きな目的であった。ただし、中曽根首相はその後、国鉄分割民営化の真の目的は、労働組合の解体にあったと述べている。 |
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累積債務37兆円に達していた。意図的な虚報であるという主張も分割民営化に反対した労働組合側からなされているが<ref> 佐藤達也 |
累積債務は37兆円に達していた。意図的な虚報であるという主張も分割民営化に反対した労働組合側からなされているが<ref> 佐藤達也『国鉄民営化の疑惑 100兆円資産の研究』1986年 第三書館</ref>、利払いだけでも年1兆円を超えるなど、実際にはバブル時代に急激に土地が上昇した時期に資産を売却しても到底債務を解消できる額ではなかった。 |
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=== 国労の解体 === |
=== 国労の解体 === |
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分割・民営化反対論者からは「国家的[[不当労働行為]]」<ref>[[佐藤昭夫]]『国家的不当労働行為論―国鉄民営化批判の法理』</ref>と批判をする人もいた。また国労・全動労・動労千葉所属組合員などによると、当時の国鉄職員局次長(葛西敬之)は国労など分割・民営化反対労組解体が不当労働行為に該当することを認識しつつ、法の抜け穴を利用して「うまくやる」といったと主張している<ref>[[1986年]][[5月21日]]、動労新幹線各支部三役会議で葛西敬之が「私はこれから、(国労の)[[山崎巌_(労働運動家)|山崎]]の腹をブンなぐってやろうと思っています。みんなを不幸にし、道連れにされないようにやっていかなければならないと思うんでありますが、不当労働行為をやれば法律で禁止されていますので、私は不当労働行為をやらないということで、つまり、やらないということは、うまくやるということでありまして…」。と挨拶したという。</ref>。葛西はこの発言を否定しており、のちの不当労働行為の有無を争った裁判でも、事実かどうか裁判所の判断は分かれている<ref>[http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/E7CB85134F2C65C249256A57005AEFF8.pdf 昭和61(ワ)7204等 国鉄清算事業団担務指定損害賠償 平成6年08月26日 大阪地方裁判所]</ref><ref>[http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20090706105134.pdf 平成16(ワ)27670 損害賠償等請求事件(通称 鉄道建設・運輸施設整備支援機構職員再就職差別損害賠償) 平成20年1月23日 東京地方裁判所]</ref><ref>『[[月刊労働運動|労働運動]]』2012年10月号 [http://www.k-center.org/gekkan/backnumber/1210.htm 特集 11・4全国労働者総決起集会へ! --国鉄1047名解雇撤回!]</ref>。 |
分割・民営化反対論者からは「国家的[[不当労働行為]]」<ref>[[佐藤昭夫]]『国家的不当労働行為論―国鉄民営化批判の法理』</ref>と批判をする人もいた。また国労・全動労・動労千葉所属組合員などによると、当時の国鉄職員局次長(葛西敬之)は国労など分割・民営化反対労組解体が不当労働行為に該当することを認識しつつ、法の抜け穴を利用して「うまくやる」といったと主張している<ref>[[1986年]][[5月21日]]、動労新幹線各支部三役会議で葛西敬之が「私はこれから、(国労の)[[山崎巌_(労働運動家)|山崎]]の腹をブンなぐってやろうと思っています。みんなを不幸にし、道連れにされないようにやっていかなければならないと思うんでありますが、不当労働行為をやれば法律で禁止されていますので、私は不当労働行為をやらないということで、つまり、やらないということは、うまくやるということでありまして…」。と挨拶したという。</ref>。葛西はこの発言を否定しており、のちの不当労働行為の有無を争った裁判でも、事実かどうか裁判所の判断は分かれている<ref>[http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/E7CB85134F2C65C249256A57005AEFF8.pdf 昭和61(ワ)7204等 国鉄清算事業団担務指定損害賠償 平成6年08月26日 大阪地方裁判所]</ref><ref>[http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20090706105134.pdf 平成16(ワ)27670 損害賠償等請求事件(通称 鉄道建設・運輸施設整備支援機構職員再就職差別損害賠償) 平成20年1月23日 東京地方裁判所]</ref><ref>『[[月刊労働運動|労働運動]]』2012年10月号 [http://www.k-center.org/gekkan/backnumber/1210.htm 特集 11・4全国労働者総決起集会へ! --国鉄1047名解雇撤回!]</ref>。 |
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国労は、サービス低下を理由に国民に分割・民営化反対を主張した。政府側は、ヤミ休暇やヤミ休憩、ヤミ超勤、酒気帯び勤務の常態化、服装規定違反などに代表される民間企業ではあり得ない怠惰な労働環境の維持であると訴え、マスコミ(特に[[産経新聞|サンケイ]])は相次いで国労批判のキャンペーンを張っ |
国労は、サービス低下を理由に国民に分割・民営化反対を主張した。政府側は、ヤミ休暇やヤミ休憩、ヤミ超勤、酒気帯び勤務の常態化、服装規定違反などに代表される民間企業ではあり得ない怠惰な労働環境の維持であると訴え、マスコミ(特に[[産経新聞|サンケイ]])は相次いで国労批判のキャンペーンを張った。[[1970年代]]、国労や動労が中心となって起こした、いわゆる[[遵法闘争]]は国鉄のサービスの低下につながり国民の怒りを買い、[[上尾事件]]や[[首都圏国電暴動]]などが起こるという事態まで起きており、職務怠慢といえる事故も多発した。また国労は、動労と内々に交わしたスト戦術の放棄すら大会で決められないなど組織内の路線対立が顕著で、意思統一が困難な状態に陥っていた。これらの結果として、国労の主張に対しては利用者・一般国民から十分な賛同は得られなかった。 |
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== 分割方法 == |
== 分割方法 == |
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== 経過 == |
== 経過 == |
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[[日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派|革マル派]]を除く[[左翼]]陣営が結束して反対。[[1985年]][[11月29日]]には[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]が[[国電同時多発ゲリラ事件]]を起こして[[首都圏 (日本)|首都圏]]ほかの[[国電]]を1日麻痺状態に置いたが、中曽根内閣の決意は変わらなかったばかりか、逆に国民世論は国鉄の分割・民営化を強く支持する結果となった(分割民営化そのものには反対だった日本共産党などもこのような犯罪行為は批判した<ref>元々、日本共産党は[[日本共産党第6回全国協議会]]以降暴力革命放棄の路線で現在に至っており、左翼過激派や[[日本社会党]](現・[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]])系の所謂「[[新左翼]]」とは敵対関係にあった。</ref>)。[[公明党]]・[[民社党]]は自民党案に賛成し、社会党は分割に反対(民営化は容認)、[[日本共産党]]は分割・民営化そのものに反対した。 |
[[日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派|革マル派]]を除く[[左翼]]陣営が結束して反対。[[1985年]][[11月29日]]には[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]が[[国電同時多発ゲリラ事件]]を起こして[[首都圏 (日本)|首都圏]]ほかの[[国電]]を1日麻痺状態に置いたが、中曽根内閣の決意は変わらなかったばかりか、{{要出典範囲|逆に国民世論は国鉄の分割・民営化を強く支持する結果となった|date=2013年7月}}(分割民営化そのものには反対だった日本共産党などもこのような犯罪行為は批判した<ref>元々、日本共産党は[[日本共産党第6回全国協議会]]以降暴力革命放棄の路線で現在に至っており、左翼過激派や[[日本社会党]](現・[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]])系の所謂「[[新左翼]]」とは敵対関係にあった。</ref>)。[[公明党]]・[[民社党]]は自民党案に賛成し、社会党は分割に反対(民営化は容認)、[[日本共産党]]は分割・民営化そのものに反対した。1986年7月6日に実施された[[衆参同日選挙]]で自由民主党が圧勝し、社会党をはじめとする野党が惨敗したことで、分割民営化の遂行が事実上決まった。 |
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国労は1986年10月9日に臨時大会を開き、五十嵐中央執行委員率いる非主流派(旧社会党系左派)と、徳沢中央執行委員率いる反主流派(共産党系)が足並みを揃え、激論の末採決に持ち込まれ、投票の結果は分割・民営化反対が大多数を占めた。結果として山崎俊一委員長は退陣に追い込まれ、後任として盛岡地方本部から六本木敏が選出された(修善寺大会)。山崎率いる主流派である分割・民営化容認派(右派)は国労を脱退し、やがて鉄産総連を結成した。この修善寺大会をきっかけに国労は分裂し、力を大きく失った。鉄産総連結成は、JRに採用されるための次善の策として、社会党側の働きかけもあったとされる。一方で、全面対決一本槍の六本木体制や国鉄の労使関係に失望し、職場単位で脱退が相次ぎ、国労からは分割民営化までの間に国鉄そのものを退職した人を含めて20万人以上の組合員が脱退、合理化により職員(社員)の総数も大幅に減少しているものの少数組合に転落した。国労は労働組合の原点である、末端組合員の生活や雇用不安を無視し、[[イデオロギー]]闘争に終始したことで結果的に自滅した。 |
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⚫ | 上記の通り、分割民営化議論に先立って1980年に成立した国鉄再建法に基づき、当時すでに[[輸送密度]]の低い不採算路線の廃止が進められていた。[[1981年]]より、3次にわたって廃止対象となる[[特定地方交通線]]の選定が進められ、最終的に83線が選定された。沿線住民などの反対があったが、[[1983年]]の[[白糠線]]を皮切りに、45路線が廃止([[バス (交通機関)|バス]]転換)、36路線が[[第三セクター]]化、2路線が[[私鉄]]に譲渡され鉄道として存続した。この措置は分割民営化が正式に決定されても継続され、民営化後の[[1990年]]、[[北近畿タンゴ鉄道宮津線|宮津線]]の第三セクター・[[北近畿タンゴ鉄道]]への転換、[[鍛冶屋線]]、[[大社線]]の廃止を最後に、各路線の処遇は決着した。かつての「[[赤字83線]]」廃止に比べると、かなり順調に廃止が進んだと言える。 |
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⚫ | 上記の通り、分割民営化議論に先立って1980年に成立した国鉄再建法に基づき、当時すでに[[輸送密度]]の低い不採算路線の廃止が進められていた。[[1981年]]より、3次にわたって廃止対象となる[[特定地方交通線]]の選定が進められ、最終的に83線が選定された。沿線住民などの反対があったが、[[1983年]]の[[白糠線]]を皮切りに、45路線が廃止([[バス (交通機関)|バス]]転換)、36路線が[[第三セクター]]化、2路線が[[私鉄]]に譲渡され鉄道として存続した。この措置は分割民営化が正式に決定されても継続され、民営化後の[[1990年]]、[[北近畿タンゴ鉄道宮津線|宮津線]]の第三セクター・[[北近畿タンゴ鉄道]]への転換、[[鍛冶屋線]]、[[大社線]]の廃止を最後に、各路線の処遇は決着した。かつての「[[赤字83線]]」廃止に比べると、かなり順調に廃止が進んだと言える。この路線の整理は分割民営化とは無関係に始まったものであったが、民営化会社がこれらの不採算路線をほとんど引き継がずに発足する結果をもたらした。しかし、当時からほとんどの優等列車が経由していた伊勢線(現[[伊勢鉄道]])が第三セクターへ転換されたりした一方、これらよりも利用率が低いにも関わらず、独立した路線名を持っていない他の線区の支線であったがために廃止を免れる区間があったりと、廃止路線の選定については当時から「実態に一致しない」との声もあった。なお、既存の民間運輸事業者に譲渡された2路線([[下北交通]][[下北交通大畑線|大畑線]]、[[弘南鉄道]][[弘南鉄道黒石線|黒石線]])はその後赤字の増加などで廃止された。第三セクター化路線も2006年4月全廃の[[北海道ちほく高原鉄道]]を皮切りに[[神岡鉄道]]・[[三木鉄道]]・[[高千穂鉄道]]が利用者の減少に伴う赤字の増大や自然災害による被災などを理由に全線廃止、[[のと鉄道]]は路線の大半を廃止している。黒字を計上しているのは大都市圏に近く条件に恵まれた[[愛知環状鉄道]]などごく一部に限られており、各社に給付された転換交付金も金利低下による運用益の減少などで大きく目減りしている。 |
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1986年11月には、国鉄改革関連8法([[日本国有鉄道改革法]]、[[旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律]]、[[新幹線鉄道保有機構]]法、[[日本国有鉄道清算事業団]]法、日本国有鉄道退職希望職員及び日本国有鉄道清算事業団職員の再就職の促進に関する特別措置法、[[鉄道事業法]]、日本国有鉄道改革法等施行法、地方税法及び国有資産等所在市町村交付金及び納付金に関する法律の一部を改正する法律)が成立し、法的に分割民営化する準備が整った。 |
1986年11月には、国鉄改革関連8法([[日本国有鉄道改革法]]、[[旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律]]、[[新幹線鉄道保有機構]]法、[[日本国有鉄道清算事業団]]法、日本国有鉄道退職希望職員及び日本国有鉄道清算事業団職員の再就職の促進に関する特別措置法、[[鉄道事業法]]、日本国有鉄道改革法等施行法、地方税法及び国有資産等所在市町村交付金及び納付金に関する法律の一部を改正する法律)が成立し、法的に分割民営化する準備が整った。 |
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このほかに、上記した赤字路線の廃止などで余剰職員を多く抱え、なおかつ地域経済の衰退で雇用の機会に乏しい北海道・九州では職員配置の適正化を目的に、余剰職員を本州[[三大都市圏]]の[[電車区]]、駅、工場などに異動させる広域異動(後に東北・中国・四国も対象)が[[1986年]]5月 - 12月に行われ、さらに新会社発足前後には本州3社による広域採用が行われた。特に北海道の場合は、家族を含めて6000人以上が鉄道 |
このほかに、上記した赤字路線の廃止などで余剰職員を多く抱え、なおかつ地域経済の衰退で雇用の機会に乏しい北海道・九州では職員配置の適正化を目的に、余剰職員を本州[[三大都市圏]]の[[電車区]]、駅、工場などに異動させる広域異動(後に東北・中国・四国も対象)が[[1986年]]5月 - 12月に行われ、さらに新会社発足前後には本州3社による広域採用が行われた。特に北海道の場合は、家族を含めて6000人以上が鉄道従業員としての生活を維持していくために異動した。他にも多数の余剰人員が私鉄、私バス、民間企業などに受け入れられている。 |
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== 民営化後 == |
== 民営化後 == |
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⚫ | 民営化が事実上決まった後に実施された[[1986年11月1日国鉄ダイヤ改正]]以降、各地の特性に合わせたダイヤの設定や新型車両の投入が行われたほか、縦割り的なダイヤ設定の解消が図られた<ref>大阪鉄道管理局管内にある[[東海道本線]]と[[山陽本線]]にまたがる[[複々線]]区間は、外側線([[電車線・列車線|列車線]])を本社権限(主に長距離輸送を担う特急や貨物列車)で、内側線(緩行線)を大阪局権限(主に近郊輸送を担う快速や普通列車)で、それぞれが列車の設定を行っていたため、それぞれの線路に速度の違う列車が走行するなど非効率なものであった。 ※当該区間の輸送実態については[[京阪神緩行線]]などを参照。</ref>ことにより、よりニーズに合った列車設定もなされている。なお、国鉄時代は50%値上げや毎年運賃値上げを繰り返したが、民営化後は1997年の消費税率改定を除いて一度も値上げを行っていない。消費税改定時の値上げ時に利用者の少ない三島会社による[[営業キロ|擬制キロ]]などの設定により各社の距離当たりの運賃は均一ではなくなった。増発や新駅設置や駅舎改良は積極的におこなわれた。複線化や電化は、都市近郊で需要の伸張が期待される区間を中心に実施されている<ref>民営化後、距離100kmを超える長大な幹線電化が実施されたのは[[予讃線]]だけである。国鉄時代に電化計画のあった[[高山本線]]は線路改良や車両の更新による非電化での高速化が図られた。</ref>。 |
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⚫ | 既述のように、分割民営化以前に決定された特定地方交通線の整理は民営化から3年以内に完了したが、その後地方ではそれ以外のローカル線についても、部分的に廃止が進められた<ref>後述の鉄道事業法改正以前では、所属上「幹線の一部」であった[[函館本線]][[上砂川支線]]や[[美祢線]][[大嶺駅|大嶺支線]]、代替交通未整備を理由に国鉄時代に廃止対象から除外された[[深名線]]がそれに当たる。また、[[七尾線]]の一部区間については、運営が[[のと鉄道]]に移管(JRは第三種鉄道事業者となる)された(のち2001年に移管区間の半分以上を廃止)。</ref>。[[1999年]]に[[鉄道事業法]]の改正(施行は2000年3月から)により、赤字路線の廃止手続きが簡略化(国の許可が必要であったものが、届出でよくなった)された。法改正以降のJR地方交通線で鉄道として廃止されたのは、現在のところ[[可部線]]の末端部([[2003年]])だけ<ref>このほか、[[富山ライトレール富山港線|富山港線]]が2006年に[[富山ライトレール]]に移管された(一部区間は廃止)。</ref><ref>可部線の廃止区間のうち、[[可部駅]]から[[河戸駅]]までの1.6kmについては電化の上で2015年に鉄道営業が復活する予定。</ref>であるが、JR北海道は[[江差線]]の[[木古内駅]]・[[江差駅]]間につき、2014年5月での廃止届を2013年4月に[[国土交通省]]に提出している。このほか、2009年に災害で運休となった[[名松線]]の末端区間についてJR東海が廃止を地元に打診(その後自治体の協力を条件に存続に変更)したり、2010年4月にJR西日本社長が定例会見で一部のローカル線のバス転換について関係自治体に打診済と述べるなど、一部に廃止を検討する動きが出ている。JR東日本は、運行を休止していた[[岩泉線]]について復旧を断念してバスに転換する意向であると2012年3月に発表した。[[東日本大震災]]で被災した路線のうち、[[気仙沼線]]と[[大船渡線]]は一部の路盤を専用道路に転用の上、[[バス・ラピッド・トランジット]](BRT)で暫定復旧された。被災により運休している気仙沼線・大船渡線・[[山田線]]について、JR東日本は2013年現在、鉄道での復旧を明言していない<ref>[[常磐線]]・[[仙石線]]・[[石巻線]]については鉄道での復旧を明らかにしている。</ref>。また、幹線であっても、[[整備新幹線]]の開業を理由として、第二の国鉄を造らないため赤字になる幹線をJRから経営分離する路線も出てきた。そのため、新幹線開業により観光客やビジネス客が大幅に増加し、地元経済の発展に大きく寄与したが、在来線を利用していた地域住民にとっては、新幹線が開業しても手放しでは喜べないという事態も一部で生じた([[小諸駅]]や[[阿久根駅]]の項目も参照)。 |
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国鉄時代の車両は、長期間、同一形式を大量に製造し続けたため、技術革新やサービスレベルが必ずしも時代に適合しておらず、航空や高速バス、自家用車などの台頭で国鉄の競争力は低下の一途を辿る大きな要因となった。また、全国で使用できる汎用性に重点が置かれたため、個別地域の特性には必ずしも対応していなかった。また、ダイヤ設定は需要が見込める都市近郊であっても長編成列車が1時間に1本程度設定されるのみであるなど、並行する私鉄やバス、自家用車などの頻度や利便性に対抗できる状況ではなかった。これら、需要と供給体制のミスマッチから、北海道や四国、九州などでは「国鉄線不要論」もあったとされる。 |
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⚫ | 民営化後 |
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<!--国鉄時代はこういう人気だったが、-->JR化後は大幅なイメージアップが図られ、就職人気企業ランキングでJRは常に上位に位置している。 |
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国鉄時代は、国から毎年6000億円の補助金を受けていたが、民営化後は逆に国に納税するようになった。 |
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⚫ | 既述のように、分割民営化以前に決定された特定地方交通線の整理は民営化から3年以内に完了したが、その後地方ではそれ以外のローカル線についても、部分的に廃止が進められた<ref>後述の鉄道事業法改正以前では、所属上「幹線の一部」であった[[函館本線]][[上砂川支線]]や[[美祢線]][[大嶺駅|大嶺支線]]、代替交通未整備を理由に国鉄時代に廃止対象から除外された[[深名線]]がそれに当たる。また、[[七尾線]]の一部区間については、運営が[[のと鉄道]]に移管(JRは第三種鉄道事業者となる)された(のち2001年に移管区間の半分以上を廃止)。</ref>。[[1999年]]に[[鉄道事業法]]の改正(施行は2000年3月から)により、赤字路線の廃止手続きが簡略化(国の許可が必要であったものが、届出でよくなった)された。法改正以降のJR地方交通線で鉄道として廃止されたのは、現在のところ[[可部線]]の末端部([[2003年]])だけ<ref>このほか、[[富山ライトレール富山港線|富山港線]]が2006年に[[富山ライトレール]]に移管された(一部区間は廃止)。</ref>である。2009年に災害で運休となった[[名松線]]の末端区間についてJR東海が廃止を地元に打診(その後自治体の協力を条件に存続に変更)したり、2010年4月にJR西日本社長が定例会見で一部のローカル線のバス転換について関係自治体に打診済と述べるなど、一部に廃止を検討する動きが出ている。JR東日本は、運行を休止していた[[岩泉線]]について復旧を断念してバスに転換する意向であると2012年3月に発表した。また、幹線であっても、[[整備新幹線]]の開業を理由として、第二の国鉄を造らないため赤字になる幹線をJRから経営分離する路線も出てきた。そのため、新幹線開業により観光客やビジネス客が大幅に増加し、地元経済の発展に大きく寄与したが、在来線を利用していた地域住民にとっては、新幹線が開業しても手放しでは喜べないという事態も一部で生じた。 |
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別会社になったことによって、JR各社間のつながりは薄れる部分も発生した。分割当初は、会社間をまたがる路線においても、従来どおりの直通運転を行っていたが、ダイヤ改正の回数が重なるにつれて、直通運転を中止し[[接続駅]]での折り返しとする例も発生した。特にJR九州では、2009年3月に会社境界を跨ぐ定期列車が全廃されている(2011年3月に山陽・九州新幹線間で復活)。しかし、日常的に利用する場合、JR会社間をまたがる例は非常に少なく、運転本数がJR化後大幅に増加、わかりやすい等時隔ダイヤ化、駅舎改良や接客設備を大幅に向上した新型車両を大量に投入、50%値上げや毎年のように値上げした国鉄時代と違い、値上げは消費税改定時を除き行われないなど、利用者にはメリットのほうが大きく上回った。さらに会社間をまたがる場合が比較的多い特急列車や新幹線では、現在も会社間をまたがる列車が数多く設定されている。複数の会社をまたがる[[夜行列車]]については、各社の思惑の違いから体質改善がほとんど進まず、また積極的な営業活動も行われなかったために他交通機関への競争力を失い、結果として[[ブルートレイン_(日本)|ブルートレイン]]の廃止が急速に進んだと言う説も一部にあるが、実際には自社線内完結の夜行列車についても同様に廃止が急速に進んでおり、複数の会社にまたがることが理由ではない。新幹線の高速化や航空の発達、格安夜行高速バスや宿泊に特化した低価格ホテルの台頭などが主な理由である。広告・宣伝は、新幹線は別として、それぞれの自社管内への旅行に振り向けられることが多くなったが、ディスティネーションキャペーンなどでは他社管内への広告や宣伝も行われている。 |
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別会社になったことによって、JR各社間のつながりは薄れる部分も発生した。分割当初は、会社間をまたがる路線においても、従来どおりの直通運転を行っていたが、ダイヤ改正の回数が重なるにつれて、直通運転を中止し[[接続駅]]での折り返しとする例も発生した。特にJR九州では、2009年3月に会社境界を跨ぐ定期列車が全廃されている(2011年3月に山陽・九州新幹線間で復活)。 |
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⚫ | 国鉄末期、自立再建が不可能なことが明らかになったことで新職員の採用はできなくなり、JR発足当時も再生できるか不明で、新入社員の採用どころではなかった。採用再開後のJR各社は、社員の年齢構成が30代後半から40代前半(2010年現在で)の中堅社員が極端に少ないという現象を生んだ。そのため、例えば[[運転指令所|運用指令]]に20代の現場採用の職員が配置されるといったことも珍しくなくなったと言われる<ref>[http://railman.seesaa.net/article/28815755.html 疲弊する若手社員] - 鉄道業界の舞台裏メールマガジン 2006年12月3日</ref> |
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⚫ | 国鉄末期、自立再建が不可能なことが明らかになったことで新職員の採用はできなくなり、JR発足当時も再生できるか不明で、新入社員の採用どころではなかった。採用再開後のJR各社は、社員の年齢構成が30代後半から40代前半(2010年現在で)の中堅社員が極端に少ないという現象を生んだ。そのため、例えば[[運転指令所|運用指令]]に20代の現場採用の職員が配置されるといったことも、国鉄時代と比較して珍しくなくなったと言われる<ref>[http://railman.seesaa.net/article/28815755.html 疲弊する若手社員] - 鉄道業界の舞台裏メールマガジン 2006年12月3日</ref>。 |
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国鉄職員の横柄な態度は長らく国民の非難を浴びたが、分割民営化後、「民業となったことで対応は柔らかくなり、ようやくサービス業としての体をなすようになった」といわれた。ただ、鉄道業界全体に共通することではあるが、[[自動券売機]]・都市部を中心とした[[自動改札機]]の普及などによって昔と比べて係員が旅客に相対する場面自体が減少しているという面もあるが、改札や出札などでは国鉄時代と比べ大きく改善した。[[自動券売機]]については国鉄時代から普及している。また、ニーズに合った多様な企画乗車券が発売され利便性が増した。 |
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国鉄時代より激しい競争に晒されていたJR西日本では、ローカル線で日中に[[保線]]を行う |
国鉄時代より激しい競争に晒されていたJR西日本では、ローカル線で日中に[[保線]]を行う際に列車を[[運休]]する<ref>[[2011年]][[3月]]までは、原則として[[代行バス]]も運転しなかった([http://www.westjr.co.jp/hosyu/ JR西日本保守工事に伴う列車運休のお知らせ])。なお、対象となる時間帯は閑散時間帯とされる平日日中で、あらかじめ告知された月1回の実施である。</ref>。[[信楽高原鐵道列車衝突事故]]や[[JR福知山線脱線事故]]などの事故は、市場原理を優先するあまり安全性を軽視したことが遠因ではないかとの指摘がある。これに対しては、国鉄時代でも事故は多発していたこと、統計によれば民営化後に鉄道事故は減少していること、JRグループよりも[[私鉄]]各社の方が事故が少ないことなどから、民営化とは関係ないという反論がある<ref>[http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha02/08/080812_.html 資料]</ref><ref>理論上は、保安装置の技術水準が向上していることを考慮すれば、時代が進むにつれて事故率は自ずと下がってゆくことになる。</ref>。 |
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労働組合では[[全日本鉄道労働組合総連合会]](JR総連)が現場の主導権を握った。後に方針に反発し、労使協調で旧[[鉄道労働組合|鉄労]]系中心、すなわち旧[[民社党|民社]]系中心の[[日本鉄道労働組合連合会]](JR連合)が分裂発足する。どちらも[[日本労働組合総連合会|連合]]に加盟している<ref>JR連合が連合に加盟しようとするとき、JR総連からの反対があった。</ref>。なお、国労は[[全国労働組合連絡協議会 (1989-)|全労協]]に加盟している。 |
労働組合では[[全日本鉄道労働組合総連合会]](JR総連)が現場の主導権を握った。後に方針に反発し、労使協調で旧[[鉄道労働組合|鉄労]]系中心、すなわち旧[[民社党|民社]]系中心の[[日本鉄道労働組合連合会]](JR連合)が分裂発足する。どちらも[[日本労働組合総連合会|連合]]に加盟している<ref>JR連合が連合に加盟しようとするとき、JR総連からの反対があった。</ref>。なお、国労は[[全国労働組合連絡協議会 (1989-)|全労協]]に加盟している。 |
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JR各社に対して各労働組合が[[バブル景気|バブル崩壊]]により、公共交通での先鋭的な労働争議は困難となった。結果としてストや順法闘争の影響力をほぼ皆無にすることは成功した(ただし、国鉄時代は違法であったストライキは民営化によって合法的なものになっているため、ストライキ後に経営側が出す「おわび」からも国鉄時代にあった「違法なストライキ」という言葉が消えた)。唯一の例外が[[動労千葉]]が運転士の多数を組織している房総半島地域であ |
JR各社に対して各労働組合が[[バブル景気|バブル崩壊]]により、公共交通での先鋭的な労働争議は困難となった。結果としてストや順法闘争の影響力をほぼ皆無にすることは成功した(ただし、国鉄時代は違法であったストライキは民営化によって合法的なものになっているため、ストライキ後に経営側が出す「おわび」からも国鉄時代にあった「違法なストライキ」という言葉が消えた)。唯一の例外が[[動労千葉]]が運転士の多数を組織している房総半島地域である。また、一部の労組の中枢部に[[過激派]]が食い込んでいるといわれ、その問題が完全に解決できないうちに完全民営化を急いだことについては公安関係からの憂慮もある{{要出典|date=2013年7月}}。 |
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JR総連が多数派の会社では、他労組に移籍した者を戻るように執拗に詰め寄ったり、他労組の者と交流をした組合員を非難糾弾し、退職させた事例もあったとされる<ref>[http://homepage1.nifty.com/JR-RENGO/urawa.htm 奪われたハンドル 検証・浦和電車区事件]。なお、JR総連側はこの事件で懲戒解雇された7人を[[冤罪]]としてJR東日本を相手取り処分取り消しと損害賠償を求める訴えを起こしている |
JR総連が多数派の会社では、他労組に移籍した者を戻るように執拗に詰め寄ったり、他労組の者と交流をした組合員を非難糾弾し、退職させた事例もあったとされる<ref>[http://homepage1.nifty.com/JR-RENGO/urawa.htm 奪われたハンドル 検証・浦和電車区事件]。なお、JR総連側はこの事件で懲戒解雇された7人を[[冤罪]]としてJR東日本を相手取り処分取り消しと損害賠償を求める訴えを起こしている。[[刑事事件]]では第一審・第二審とも有罪が下されているが、民事訴訟では2名について懲戒解雇無効の判決を言い渡した。</ref><ref>http://www.jreu.or.jp/04opinion/pdf/page050.pdf 地位確認訴訟についての見解</ref>。一方、JR連合が多数派の会社においては、他労組に所属する者に対して昇進で差別したり、会社側が行う[[日勤教育]]の内容に隔たりのある事例が報告されている{{要出典|date=2013年7月}}。 |
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2002年5月27日、[[中核派]]幹部や活動家、国労組合員が、同じ国労組合員に殴る、蹴る、首を絞めるなどの暴行をしたとして、10月7日、警視庁公安部は、国労闘争団員2人を含む国労組合員5人と中核派3人を逮捕した。検察は勾留満期の10月28日、8人のうち6人すなわち国労組合員5人全員と中核派1人が起訴され、[[中核派]]2人が釈放された |
{{要出典範囲|2002年5月27日、[[中核派]]幹部や活動家、国労組合員が、同じ国労組合員に殴る、蹴る、首を絞めるなどの暴行をしたとして、10月7日、警視庁公安部は、国労闘争団員2人を含む国労組合員5人と中核派3人を逮捕した。検察は勾留満期の10月28日、8人のうち6人すなわち国労組合員5人全員と中核派1人が起訴され、[[中核派]]2人が釈放された。その翌日の29日、警視庁公安部は国労組合員2人をさらに逮捕した。11月18日、2人とも起訴された。|date=2013年7月}} |
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分割民営化に反対したため採用されなかった国労などの組合員のうち、解雇時まで清算事業団に残った1047名が「国労闘争団」を組織。[[不当労働行為]]であるとして、[[地方労働委員会]]に裁定を申立てた。地労委はJRに救済命令を出したが、JRは拒否して再審査を申立てた。[[中央労働委員会]]でも闘争団側の主張は大部分認められたが、JRは逆に労働委員会を[[東京地方裁判所]]に訴えた。民営化に賛同したJR総連やJR連合も、その経緯から会社側に対し、裁定を受け入れないよう迫った。[[2004年]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]はJRの主張を認め、不当労働行為があってもJRに責任は無い判決が確定した。先鋭化した闘争団と、国労本体との対立も深刻化した(詳細は[[国鉄労働組合]]を参照)。 |
分割民営化に反対したため採用されなかった国労などの組合員のうち、解雇時まで清算事業団に残った1047名が「国労闘争団」を組織。[[不当労働行為]]であるとして、[[地方労働委員会]]に裁定を申立てた。地労委はJRに救済命令を出したが、JRは拒否して再審査を申立てた。[[中央労働委員会]]でも闘争団側の主張は大部分認められたが、JRは逆に労働委員会を[[東京地方裁判所]]に訴えた。民営化に賛同したJR総連やJR連合も、その経緯から会社側に対し、裁定を受け入れないよう迫った。[[2004年]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]はJRの主張を認め、不当労働行為があってもJRに責任は無い判決が確定した。先鋭化した闘争団と、国労本体との対立も深刻化した(詳細は[[国鉄労働組合]]を参照)。 |
2013年7月7日 (日) 01:38時点における版
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国鉄分割民営化(こくてつぶんかつみんえいか)とは、中曽根康弘内閣が実施した政治改革。日本国有鉄道(国鉄)をJRとして6つの地域別の旅客鉄道会社と1つの貨物鉄道会社などに分割し民営化するものである。これらの会社は1987年4月1日に発足した。
このほか同時期に電電公社や日本専売公社を含めた三公社の民営化が自由民主党によって進められた。
承継法人
国鉄分割民営化によって、国鉄はその事業等を以下の12承継法人に承継した。
- 北海道旅客鉄道株式会社(JR北海道)
- 東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)
- 東海旅客鉄道株式会社(JR東海)
- 西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)
- 四国旅客鉄道株式会社(JR四国)
- 九州旅客鉄道株式会社(JR九州)
- 日本貨物鉄道株式会社(JR貨物)
- 鉄道通信株式会社[1]
- 鉄道情報システム株式会社(JRシステム)
- 新幹線鉄道保有機構
- 財団法人鉄道総合技術研究所(JR総研)
- 日本国有鉄道清算事業団
目的
巨額債務の解消
モータリゼーションの進展による地方での国鉄離れや労働コストの急激な上昇により、それまで黒字であった日本国有鉄道は、東海道新幹線の開業した1964年(昭和39年)から赤字に転落した。インフレの防止などを狙って政府が運賃の値上げを抑制していたことや、民業を圧迫するという理由で運輸業以外の他業種への参入ができなかったこともあり、この赤字は増大し続けた。昭和40年代後半にはマル生運動の失敗などから労使関係が悪化して順法闘争やストライキも続発するようになり、特に貨物分野では利用者離れを招いていくことになった。一方で田中角栄首相の日本列島改造論に代表されるように、地方へのローカル線の建設要求は強く、1980年(昭和55年)に新規の建設が凍結されるまで、採算の見込めないローカル線の建設が続けられた。日本鉄道建設公団の発足以降、こうしたローカル線の建設費用は国が負担していたが、営業開始後の赤字は国鉄の負担のままであった。さらに大都市部(特に首都圏)では急激な人口集中によって通勤輸送事情が悪化しており、対策を求められた国鉄では通勤五方面作戦を展開するなどして輸送力の増強に努めたが、これに要する費用には国からの補助はほとんどなく、国鉄の自己負担となっていた。毎年、6000億円以上の補助金が国から交付されていたが、新幹線の建設にも巨額の費用が投じられ、これはそのまま国鉄の債務として積み上がっていった。昭和50年代からは、それまでの運賃抑制分を取り戻すように50%運賃値上げ、毎年運賃値上げが行われたが、これは首都圏の路線や新幹線ですら利用者が減るなど、却って利用者が離れる結果を招いてしまい収支改善にはつながらなかった。
政府は1980年(昭和55年)に、「最後の自主再建プラン」と評された日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)を成立させ、人員の削減や地方の新規路線の建設凍結、輸送密度による路線の区分(幹線・地方交通線・特定地方交通線)とそれに基づく措置(特定地方交通線の国鉄からの分離・バス転換、地方交通線への割増運賃の導入[2])といった施策を盛り込んだ。
その一方で、1981年(昭和56年)、鈴木善幸内閣は諮問機関として第二次臨時行政調査会(第二次臨調、土光敏夫会長)を設け、国鉄改革など財政再建に向けた審議を行わせた。さらに1982年(昭和57年)2月5日、自民党は「国鉄再建小委員会」(三塚博会長)を発足させた。
第二臨調では、第四部会(加藤寛部会長)で国鉄改革の実質的な審議が行われた。審議するだけでなく、加藤部会長は「国鉄解体すべし」(『現代』1982年4月号)、屋山太郎参与は「国鉄労使国賊論」(『文藝春秋』1982年4月号)を発表するなど、分割民営化を前提に活発に情報発信を行った。同年7月30日、第二次臨調は基本答申で「国鉄は5年以内に分割民営化すべき」と正式表明し、国鉄そのものの消滅へと大きく舵を切った。鈴木内閣は9月24日、答申に従って分割民営化を進めることを閣議決定した[3]。自民党内[4]でも、運輸族の加藤六月、田村元など、分割民営化反対論は少なくなかったが、同年11月27日に発足した中曽根内閣は、積極的に分割民営化を進めて行くことになる。1985年12月に発足した第2次中曽根改造内閣では、前記の自民党国鉄再建小委員会会長だった三塚博を運輸大臣として入閣させている(1986年の衆参同日選挙に伴い退任)。
それまでに累積した債務に掛かる利子がさらに雪だるま式に債務を増やしていく悪循環に陥ってしまったことから、1982年8月2日の運輸省の1983年度概算要求の中で、債務補填の見返りとして職員の新規採用停止などが確認された。なお、1985年のみ「民営化後の幹部候補生」として大卒者のみ採用、翌年は再び大卒を含め採用中止した。
巨額の累積債務を、民営化して経営改善したJR各社の負担や国鉄資産の売却、これに国からの税金投入などで処理することは、国鉄分割民営化の大きな目的であった。ただし、中曽根首相はその後、国鉄分割民営化の真の目的は、労働組合の解体にあったと述べている。
累積債務は37兆円に達していた。意図的な虚報であるという主張も分割民営化に反対した労働組合側からなされているが[5]、利払いだけでも年1兆円を超えるなど、実際にはバブル時代に急激に土地が上昇した時期に資産を売却しても到底債務を解消できる額ではなかった。
国労の解体
国鉄労働組合(国労)の解体。国鉄とJRは別会社とし、JRに国鉄職員の採用義務はないものとして、分割民営化に反対した国労組合員を採用しなかった。当時の国労は10万人以上の組合員を抱える日本最大の労働組合であり、野党の日本社会党(現社会民主党)の主要な支持母体である総評の中心的な存在でもあった。その一方、中核派や革マル派などの過激派セクトが組織に入り込み、一部セクトは公然と社会主義革命を主張していた。しかも国労は彼らを自力で排除できなかった(革マル派系の組合員は後に脱退し真国労を結成した[6])。
分割・民営化反対論者からは「国家的不当労働行為」[7]と批判をする人もいた。また国労・全動労・動労千葉所属組合員などによると、当時の国鉄職員局次長(葛西敬之)は国労など分割・民営化反対労組解体が不当労働行為に該当することを認識しつつ、法の抜け穴を利用して「うまくやる」といったと主張している[8]。葛西はこの発言を否定しており、のちの不当労働行為の有無を争った裁判でも、事実かどうか裁判所の判断は分かれている[9][10][11]。
国労は、サービス低下を理由に国民に分割・民営化反対を主張した。政府側は、ヤミ休暇やヤミ休憩、ヤミ超勤、酒気帯び勤務の常態化、服装規定違反などに代表される民間企業ではあり得ない怠惰な労働環境の維持であると訴え、マスコミ(特にサンケイ)は相次いで国労批判のキャンペーンを張った。1970年代、国労や動労が中心となって起こした、いわゆる遵法闘争は国鉄のサービスの低下につながり国民の怒りを買い、上尾事件や首都圏国電暴動などが起こるという事態まで起きており、職務怠慢といえる事故も多発した。また国労は、動労と内々に交わしたスト戦術の放棄すら大会で決められないなど組織内の路線対立が顕著で、意思統一が困難な状態に陥っていた。これらの結果として、国労の主張に対しては利用者・一般国民から十分な賛同は得られなかった。
分割方法
全国一元の組織の国鉄を地域ごとに分割することは、1つの会社の経営規模を小さくして経営層の目が行き届くようにするためのものであった。しかし、全国的に運営されている鉄道を複数の組織に分割することは多大な困難があった。
分割に際して考慮された事項は以下の通りである。
- 1つの大都市において異なる会社へ直通する列車をできるだけ作らない。
- 特急列車のように都市間輸送を行う列車をできるだけ同一会社に含むようにする。
- 1つの路線をできるだけ1社で管轄する。
- 3社以上の会社を経由する列車をなるべく少なくする。
- 通過列車・通過旅客数のできるだけ少ない場所を境界点とする。
一方、考慮しないとされたことは以下の通りである。
- 上下分離方式を採る。
- 既存の鉄道管理局の境界で分割する。
- 新幹線を別会社にする。
- 都市交通のみを別会社にする。
様々な分割地点を案として出しながら、分割される会社の経営規模や要員数などを算出して検討が行われた。特に複雑に線路が絡み合い運行系統が設定されている本州については、2分割、3分割、4分割、5分割など分割する数についても検討され、それぞれにさらに分割点を様々に変えた検討がなされた。分割数を増やすと境界が増えて問題となることや、直通旅客数の多い東海道新幹線を途中で分断しづらいこと、鉄道工場や指令所を共用している東北新幹線と上越新幹線も分割しづらいことなどが勘案され、東京本社の東本州(関東・甲信越以東)と大阪本社の西本州(東海・北陸以西)に2分割とする案が決まったが、超ドル箱路線の東海道新幹線が西本州会社帰属になると東本州会社の収益が西本州会社を下回ると判断されたため、最終的に西本州会社と予定されていた地域のうち東海道新幹線を含む東海地方及び、東本州会社に予定されていた地域のうち山梨県・長野県のそれぞれ南部地域を名古屋本社の別会社とする案が実施されることになった。
さらに、異なる会社へ直通する列車の乗務員の交代、車両の保守管理の担当、車両使用料の精算、運賃の計算と精算、担当する車両基地の割り振り、設備の分割と使用経費の分担など様々な問題に対して、新たなルールの制定が必要となった。
会社間の実際の分割場所は、境界駅の場内信号機外方(駅から見て外側)となった。1つの駅の設備についてはすべて1つの会社で担当するという考え方としたためである。東海道本線来宮駅についても丹那トンネルの中にある東海道本線上りの場内信号機が境界であり、その内方(東京方)がJR東日本、外方がJR東海となるが、トンネル構造物は分割できないため、トンネル全体をJR東海が管理している。[12] なお、東海道本線米原駅は下り場内信号機をJR東海とJR西日本の境界とすると複雑なりすぎることから、東京方下り第一閉塞信号機が境界である。また、亀山駅については、JR東海の管轄駅であるが、駅構内西側にある亀山機関区はJR西日本の路線となる関西本線亀山駅以西を担当していたため、JR西日本に帰属することになった。これは、廃止予定であった伊勢機関区が、この地域におけるJR東海の車両基地を維持するために一転して存続となるという副次的な効果をもたらした。
経過
革マル派を除く左翼陣営が結束して反対。1985年11月29日には中核派が国電同時多発ゲリラ事件を起こして首都圏ほかの国電を1日麻痺状態に置いたが、中曽根内閣の決意は変わらなかったばかりか、逆に国民世論は国鉄の分割・民営化を強く支持する結果となった[要出典](分割民営化そのものには反対だった日本共産党などもこのような犯罪行為は批判した[13])。公明党・民社党は自民党案に賛成し、社会党は分割に反対(民営化は容認)、日本共産党は分割・民営化そのものに反対した。1986年7月6日に実施された衆参同日選挙で自由民主党が圧勝し、社会党をはじめとする野党が惨敗したことで、分割民営化の遂行が事実上決まった。
国労は1986年10月9日に臨時大会を開き、五十嵐中央執行委員率いる非主流派(旧社会党系左派)と、徳沢中央執行委員率いる反主流派(共産党系)が足並みを揃え、激論の末採決に持ち込まれ、投票の結果は分割・民営化反対が大多数を占めた。結果として山崎俊一委員長は退陣に追い込まれ、後任として盛岡地方本部から六本木敏が選出された(修善寺大会)。山崎率いる主流派である分割・民営化容認派(右派)は国労を脱退し、やがて鉄産総連を結成した。この修善寺大会をきっかけに国労は分裂し、力を大きく失った。鉄産総連結成は、JRに採用されるための次善の策として、社会党側の働きかけもあったとされる。一方で、全面対決一本槍の六本木体制や国鉄の労使関係に失望し、職場単位で脱退が相次ぎ、国労からは分割民営化までの間に国鉄そのものを退職した人を含めて20万人以上の組合員が脱退、合理化により職員(社員)の総数も大幅に減少しているものの少数組合に転落した。国労は労働組合の原点である、末端組合員の生活や雇用不安を無視し、イデオロギー闘争に終始したことで結果的に自滅した。
上記の通り、分割民営化議論に先立って1980年に成立した国鉄再建法に基づき、当時すでに輸送密度の低い不採算路線の廃止が進められていた。1981年より、3次にわたって廃止対象となる特定地方交通線の選定が進められ、最終的に83線が選定された。沿線住民などの反対があったが、1983年の白糠線を皮切りに、45路線が廃止(バス転換)、36路線が第三セクター化、2路線が私鉄に譲渡され鉄道として存続した。この措置は分割民営化が正式に決定されても継続され、民営化後の1990年、宮津線の第三セクター・北近畿タンゴ鉄道への転換、鍛冶屋線、大社線の廃止を最後に、各路線の処遇は決着した。かつての「赤字83線」廃止に比べると、かなり順調に廃止が進んだと言える。この路線の整理は分割民営化とは無関係に始まったものであったが、民営化会社がこれらの不採算路線をほとんど引き継がずに発足する結果をもたらした。しかし、当時からほとんどの優等列車が経由していた伊勢線(現伊勢鉄道)が第三セクターへ転換されたりした一方、これらよりも利用率が低いにも関わらず、独立した路線名を持っていない他の線区の支線であったがために廃止を免れる区間があったりと、廃止路線の選定については当時から「実態に一致しない」との声もあった。なお、既存の民間運輸事業者に譲渡された2路線(下北交通大畑線、弘南鉄道黒石線)はその後赤字の増加などで廃止された。第三セクター化路線も2006年4月全廃の北海道ちほく高原鉄道を皮切りに神岡鉄道・三木鉄道・高千穂鉄道が利用者の減少に伴う赤字の増大や自然災害による被災などを理由に全線廃止、のと鉄道は路線の大半を廃止している。黒字を計上しているのは大都市圏に近く条件に恵まれた愛知環状鉄道などごく一部に限られており、各社に給付された転換交付金も金利低下による運用益の減少などで大きく目減りしている。
1986年11月には、国鉄改革関連8法(日本国有鉄道改革法、旅客鉄道株式会社及び日本貨物鉄道株式会社に関する法律、新幹線鉄道保有機構法、日本国有鉄道清算事業団法、日本国有鉄道退職希望職員及び日本国有鉄道清算事業団職員の再就職の促進に関する特別措置法、鉄道事業法、日本国有鉄道改革法等施行法、地方税法及び国有資産等所在市町村交付金及び納付金に関する法律の一部を改正する法律)が成立し、法的に分割民営化する準備が整った。
このほかに、上記した赤字路線の廃止などで余剰職員を多く抱え、なおかつ地域経済の衰退で雇用の機会に乏しい北海道・九州では職員配置の適正化を目的に、余剰職員を本州三大都市圏の電車区、駅、工場などに異動させる広域異動(後に東北・中国・四国も対象)が1986年5月 - 12月に行われ、さらに新会社発足前後には本州3社による広域採用が行われた。特に北海道の場合は、家族を含めて6000人以上が鉄道従業員としての生活を維持していくために異動した。他にも多数の余剰人員が私鉄、私バス、民間企業などに受け入れられている。
民営化後
民営化が事実上決まった後に実施された1986年11月1日国鉄ダイヤ改正以降、各地の特性に合わせたダイヤの設定や新型車両の投入が行われたほか、縦割り的なダイヤ設定の解消が図られた[14]ことにより、よりニーズに合った列車設定もなされている。なお、国鉄時代は50%値上げや毎年運賃値上げを繰り返したが、民営化後は1997年の消費税率改定を除いて一度も値上げを行っていない。消費税改定時の値上げ時に利用者の少ない三島会社による擬制キロなどの設定により各社の距離当たりの運賃は均一ではなくなった。増発や新駅設置や駅舎改良は積極的におこなわれた。複線化や電化は、都市近郊で需要の伸張が期待される区間を中心に実施されている[15]。
既述のように、分割民営化以前に決定された特定地方交通線の整理は民営化から3年以内に完了したが、その後地方ではそれ以外のローカル線についても、部分的に廃止が進められた[16]。1999年に鉄道事業法の改正(施行は2000年3月から)により、赤字路線の廃止手続きが簡略化(国の許可が必要であったものが、届出でよくなった)された。法改正以降のJR地方交通線で鉄道として廃止されたのは、現在のところ可部線の末端部(2003年)だけ[17][18]であるが、JR北海道は江差線の木古内駅・江差駅間につき、2014年5月での廃止届を2013年4月に国土交通省に提出している。このほか、2009年に災害で運休となった名松線の末端区間についてJR東海が廃止を地元に打診(その後自治体の協力を条件に存続に変更)したり、2010年4月にJR西日本社長が定例会見で一部のローカル線のバス転換について関係自治体に打診済と述べるなど、一部に廃止を検討する動きが出ている。JR東日本は、運行を休止していた岩泉線について復旧を断念してバスに転換する意向であると2012年3月に発表した。東日本大震災で被災した路線のうち、気仙沼線と大船渡線は一部の路盤を専用道路に転用の上、バス・ラピッド・トランジット(BRT)で暫定復旧された。被災により運休している気仙沼線・大船渡線・山田線について、JR東日本は2013年現在、鉄道での復旧を明言していない[19]。また、幹線であっても、整備新幹線の開業を理由として、第二の国鉄を造らないため赤字になる幹線をJRから経営分離する路線も出てきた。そのため、新幹線開業により観光客やビジネス客が大幅に増加し、地元経済の発展に大きく寄与したが、在来線を利用していた地域住民にとっては、新幹線が開業しても手放しでは喜べないという事態も一部で生じた(小諸駅や阿久根駅の項目も参照)。
別会社になったことによって、JR各社間のつながりは薄れる部分も発生した。分割当初は、会社間をまたがる路線においても、従来どおりの直通運転を行っていたが、ダイヤ改正の回数が重なるにつれて、直通運転を中止し接続駅での折り返しとする例も発生した。特にJR九州では、2009年3月に会社境界を跨ぐ定期列車が全廃されている(2011年3月に山陽・九州新幹線間で復活)。
国鉄末期、自立再建が不可能なことが明らかになったことで新職員の採用はできなくなり、JR発足当時も再生できるか不明で、新入社員の採用どころではなかった。採用再開後のJR各社は、社員の年齢構成が30代後半から40代前半(2010年現在で)の中堅社員が極端に少ないという現象を生んだ。そのため、例えば運用指令に20代の現場採用の職員が配置されるといったことも、国鉄時代と比較して珍しくなくなったと言われる[20]。
国鉄時代より激しい競争に晒されていたJR西日本では、ローカル線で日中に保線を行う際に列車を運休する[21]。信楽高原鐵道列車衝突事故やJR福知山線脱線事故などの事故は、市場原理を優先するあまり安全性を軽視したことが遠因ではないかとの指摘がある。これに対しては、国鉄時代でも事故は多発していたこと、統計によれば民営化後に鉄道事故は減少していること、JRグループよりも私鉄各社の方が事故が少ないことなどから、民営化とは関係ないという反論がある[22][23]。
労働組合では全日本鉄道労働組合総連合会(JR総連)が現場の主導権を握った。後に方針に反発し、労使協調で旧鉄労系中心、すなわち旧民社系中心の日本鉄道労働組合連合会(JR連合)が分裂発足する。どちらも連合に加盟している[24]。なお、国労は全労協に加盟している。
JR各社に対して各労働組合がバブル崩壊により、公共交通での先鋭的な労働争議は困難となった。結果としてストや順法闘争の影響力をほぼ皆無にすることは成功した(ただし、国鉄時代は違法であったストライキは民営化によって合法的なものになっているため、ストライキ後に経営側が出す「おわび」からも国鉄時代にあった「違法なストライキ」という言葉が消えた)。唯一の例外が動労千葉が運転士の多数を組織している房総半島地域である。また、一部の労組の中枢部に過激派が食い込んでいるといわれ、その問題が完全に解決できないうちに完全民営化を急いだことについては公安関係からの憂慮もある[要出典]。
JR総連が多数派の会社では、他労組に移籍した者を戻るように執拗に詰め寄ったり、他労組の者と交流をした組合員を非難糾弾し、退職させた事例もあったとされる[25][26]。一方、JR連合が多数派の会社においては、他労組に所属する者に対して昇進で差別したり、会社側が行う日勤教育の内容に隔たりのある事例が報告されている[要出典]。
2002年5月27日、中核派幹部や活動家、国労組合員が、同じ国労組合員に殴る、蹴る、首を絞めるなどの暴行をしたとして、10月7日、警視庁公安部は、国労闘争団員2人を含む国労組合員5人と中核派3人を逮捕した。検察は勾留満期の10月28日、8人のうち6人すなわち国労組合員5人全員と中核派1人が起訴され、中核派2人が釈放された。その翌日の29日、警視庁公安部は国労組合員2人をさらに逮捕した。11月18日、2人とも起訴された。[要出典]
分割民営化に反対したため採用されなかった国労などの組合員のうち、解雇時まで清算事業団に残った1047名が「国労闘争団」を組織。不当労働行為であるとして、地方労働委員会に裁定を申立てた。地労委はJRに救済命令を出したが、JRは拒否して再審査を申立てた。中央労働委員会でも闘争団側の主張は大部分認められたが、JRは逆に労働委員会を東京地方裁判所に訴えた。民営化に賛同したJR総連やJR連合も、その経緯から会社側に対し、裁定を受け入れないよう迫った。2004年、最高裁判所はJRの主張を認め、不当労働行為があってもJRに責任は無い判決が確定した。先鋭化した闘争団と、国労本体との対立も深刻化した(詳細は国鉄労働組合を参照)。
少数派に転落した国労は、「国鉄」がなくなった現在でも「国鉄労働組合」を名乗っている。ただし、JRが国労を相手に提訴していた損害賠償を取り下げる条件のため、国鉄の分割民営化を1995年になって認めた。
別会社にすれば特定組合の労働者の排除が認められたことで、偽装倒産[27]による解雇を可能にする前例を残した。また、バブル崩壊後のリストラの先駆となった(日本航空など)。
国鉄の分割民営化はその後の日本道路公団や郵政民営化の手本となった。実際にJR東日本の松田昌士会長が国鉄分割民営化の成功者としての実績が認められ道路公団民営化推進委員に選ばれている。
日本国外からの評価
日本国外では、ル・モンド紙が人活センターを問題にしたことがある[28]。ただ、日本の国鉄民営化に関しては「成功」と認識している場合が多いといわれている[要出典]。特にヨーロッパ諸国では、日本同様、国有鉄道の運営の抜本的改革が必要とされていたが、1988年のスウェーデンを皮切りに、日本の事例も参考にしながら、ドイツやオランダ、イギリスなどの国が、鉄道民営化を果たしている。また、フランスのように国有のままで残っている鉄道事業者についても、民間の経営手法を取り入れるなどの変化が見られる。
ヨーロッパの場合、日本の手法と異なるのは、「上下分離方式」(経営主体を、インフラと列車運行に分離し、前者を国家(あるいはそれに準ずる組織)が保有し、列車運行は会社組織が線路使用料を払って行う)と「オープンアクセス」(列車運行への参入を自由化すること)を採用している点であり、欧州連合 (EU) の指令として実施されているものである。もともと、国際寝台車会社(ワゴン・リ社)やプルマン社、ミトローパ社のような、自前の寝台車や食堂車を持ち、列車運行を行う民間会社が存在した歴史もあって、この様な方式を取り入れやすい地盤があったのかも知れない。[誰?]またこの手法により、鉄道経営を活性化する効果が見られた場合もあり、特に貨物輸送では、多くの事業者が新規参入するなど、その傾向が比較的強いとされている[要出典]。また、イギリスのように分割民営化を行った国もあるが、ドイツのように1社による民営化を行った国もある。
ただし、すべてが上手くいっているわけではない。また、ローカル輸送などの不採算部門の切り捨ては深度化していることや、輸送密度の低い既存在来線の高速化の遅れ、組織の細分化による技術力の低下(このことが結果的に、鉄道車両工業の寡占化を進めたとされる)。
ヨーロッパ諸国のうち、イギリスの場合は、非常に複雑な民営化手法を取り入れたが、株主配当に余裕資金をすべて回して経営者が高額配当を受け取り設備投資を削減した結果(「折れたレール」参照)、後に事故が頻発するなど、設備の劣化が深刻な状態になり、その結果、最近では民営化政策を一部見直して、国家が介入するようになっている。この事例から、「イギリスの国有鉄道の民営化は失敗に終わったのであるから、日本も分割民営化失敗を認めて、国家が介入するべきである」という意見もまれに見られるが、イギリスの鉄道経営や技術水準自体が、第二次世界大戦後から慢性的に悪かったことや、旅客輸送における鉄道のシェアが日本とは比べ物にならないほど低いことなど(「ビーチング・アックス」も参照のこと)、鉄道経営の前提条件に多くの違いがあるため、イギリスでの事例は日本とかなり異なる。なお、イギリスの事例は、「折れたレール―イギリス国鉄民営化の失敗」クリスチャン・ウルマー著に詳しい。
巨額債務のその後
国鉄分割民営化の時点で、累積赤字は37兆1,000億円に達していた[29]。このうち、25兆5,000億円を日本国有鉄道清算事業団が返済し、残る11兆6,000億円を、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR貨物、新幹線鉄道保有機構(1991年解散)が返済することになった。経営難の予想されたJR北海道、JR四国、JR九州は、返済を免除された。
国鉄改革最大の目的といわれた巨額債務の解消であるが、結果は成功したとは言い難い。一つには、国鉄時代からの累積赤字は利子が利子を生み膨れあがって行き、利払いだけで年1兆円を超えるなど、手の施しようがない巨額に達していたという事情がある。これについては、赤字額が小さいうちに政府などが援助をしていれば防げた事態である。単年度に限って言えば、国鉄末期の1984年度に既に黒字転換していた[30]のだが、累積赤字を返済するには焼け石に水どころか、利子の返済すら全く足りなくなっていた。
民営化により市場原理を活用したことにより、本業での収益は好転した。また、JRにとっては返済可能な程度に負担額が抑えられたこともあって、返済は順調に進んだ。
一方で、国鉄清算事業団による返済は進まなかった。清算事業団による用地売却は、資産価値は14兆7,300億円といわれていたが、ほぼ半額の7兆7,000億円で売る見積もりを立てているなど、その計画は非常に不自然であった(詳細は日本国有鉄道清算事業団の項目を参照)。実際にはその後のバブルによる地価高騰によりさらに資産価値は上がっており、1988年3月時点で実勢価格は一時期30兆円を下らないと主張する評論家もいた[31]。しかし、用地売却による再開発が地価高騰を悪化させるとする主張がなされた結果、「その地域の地価の異常な高騰が沈静化するまでこれを見合わせる」[32]とする閣議決定などの政治的な介入もあって、売却は予定通り進まなかった。 その後のバブル崩壊によって土地の時価総額が減少するなどもあり、土地が塩漬けにされている期間に利子がかさんでかえって債務総額は増えた。1998年10月22日の清算事業団解散時には、国鉄から引き継いだ時に比べて2兆8,000億円増の28兆3,000億円に達していた。現在、借金返済は独立行政法人・鉄道建設・運輸施設整備支援機構の「国鉄清算事業本部」が清算事業団を承継して行っている。清算事業団解散時にあった28兆3,000億円の借金のうち、16兆1,000億円の有利子債務は国の一般会計に承継、つまり国の借金となった。残る債務のうち、年金等将来費用3兆400億円を国鉄清算事業本部が、厚生年金移換金など7,000億円をJRが、これまでの負担分とは別に返済することになり、その残りは債務免除となった。
参考文献
- 加藤仁『国鉄崩壊』(1986年12月 講談社 ISBN 4062030888)
- 葛西敬之『未完の「国鉄改革」 巨大組織の崩壊と再生』(2001年2月8日 東洋経済新報社 ISBN 4-492-06122-3)
- 葛西敬之『国鉄改革の真実 - 「宮廷革命」と「啓蒙運動」』(2007年7月1日 中央公論新社 ISBN 4120038491)
- 進士友貞『国鉄最後のダイヤ改正 JRスタートへのドキュメント』交通新聞社 2007年 ISBN 978-4-330-96507-9
外部リンク
- 国土交通省「国鉄改革について」
- もう一つの「未完の国鉄改革」(宗方明『もう一つの「未完の『国鉄改革』」―JR東日本革マル疑惑問題を検証する』(2002/6/20 月曜評論社出版・高木書房発売 ISBN 4884715012)より、JR連合サイト)
- 国鉄があった時代
関連項目
- 産業計画会議(1958年7月3日国鉄分割民営化を政府に勧告。国鉄総裁や常務理事がメンバーに含まれ物議を醸した[33][34]。)
- 松永安左エ門
- 日本電信電話公社民営化
- 日本国有鉄道経営再建促進特別措置法
- 日本国有鉄道改革法
- マル生運動
- 吊し上げ
- 松田昌士
- 葛西敬之
- 井手正敬
- 一本列島
- 郵政民営化
- 謝恩フリーきっぷ
- 新自由主義
- 日本航空#経営再建問題 - 日本航空の労働組合
- 旅立ちJR号 - 分割民営化を記念して運転された臨時列車。
- 鉄道警察隊 - 分割民営化に伴い鉄道公安より改編されて発足。
- さよなら大放送 おもしろ国鉄スペシャル - 分割民営化を記念して日本テレビ製作・同系列で1987年3月31日21時(JST)から4月1日1時(同)にかけて生放送された特別番組。
脚注
- ^ 鉄道通信株式会社の基本事業だった固定通信事業を現在も継承しているのはソフトバンクモバイルではなく、ソフトバンクテレコム。(JR電話もソフトバンクテレコムがサービス提供)なお、2002年に無線通信事業をソフトバンクモバイルに事業分割している。
- ^ 実際に導入されたのは1984年(昭和59年)の運賃改訂時である。
- ^ 国立社会保障・人口問題研究所 【1982 年 9 月 24 日】行政改革大綱 閣議決定 今後における行政改革の具体化方策について(行政改革大綱) 〔昭和 57 年 9 月 24 日閣議決定〕
- ^ ロッキード事件で離党していた田中角栄は、民営化を含めた事業拡大は必要としつつも、分割は反対という立場であった。早坂茂三『田中角栄回想録』
- ^ 佐藤達也『国鉄民営化の疑惑 100兆円資産の研究』1986年 第三書館
- ^ 西岡研一『マングローブ』講談社
- ^ 佐藤昭夫『国家的不当労働行為論―国鉄民営化批判の法理』
- ^ 1986年5月21日、動労新幹線各支部三役会議で葛西敬之が「私はこれから、(国労の)山崎の腹をブンなぐってやろうと思っています。みんなを不幸にし、道連れにされないようにやっていかなければならないと思うんでありますが、不当労働行為をやれば法律で禁止されていますので、私は不当労働行為をやらないということで、つまり、やらないということは、うまくやるということでありまして…」。と挨拶したという。
- ^ 昭和61(ワ)7204等 国鉄清算事業団担務指定損害賠償 平成6年08月26日 大阪地方裁判所
- ^ 平成16(ワ)27670 損害賠償等請求事件(通称 鉄道建設・運輸施設整備支援機構職員再就職差別損害賠償) 平成20年1月23日 東京地方裁判所
- ^ 『労働運動』2012年10月号 特集 11・4全国労働者総決起集会へ! --国鉄1047名解雇撤回!
- ^ 来宮駅は営業上は伊東線の駅であるが、東海道本線と伊東線は来宮駅まで並行しており、伊東線来宮駅ホームの脇の東海道本線上に熱海駅で折り返すJR東日本の列車を留置する場所があることから、運転取り扱い上は東海道本線上にも来宮駅があるものとされており、ここまでをJR東日本が管轄している。
- ^ 元々、日本共産党は日本共産党第6回全国協議会以降暴力革命放棄の路線で現在に至っており、左翼過激派や日本社会党(現・社会民主党)系の所謂「新左翼」とは敵対関係にあった。
- ^ 大阪鉄道管理局管内にある東海道本線と山陽本線にまたがる複々線区間は、外側線(列車線)を本社権限(主に長距離輸送を担う特急や貨物列車)で、内側線(緩行線)を大阪局権限(主に近郊輸送を担う快速や普通列車)で、それぞれが列車の設定を行っていたため、それぞれの線路に速度の違う列車が走行するなど非効率なものであった。 ※当該区間の輸送実態については京阪神緩行線などを参照。
- ^ 民営化後、距離100kmを超える長大な幹線電化が実施されたのは予讃線だけである。国鉄時代に電化計画のあった高山本線は線路改良や車両の更新による非電化での高速化が図られた。
- ^ 後述の鉄道事業法改正以前では、所属上「幹線の一部」であった函館本線上砂川支線や美祢線大嶺支線、代替交通未整備を理由に国鉄時代に廃止対象から除外された深名線がそれに当たる。また、七尾線の一部区間については、運営がのと鉄道に移管(JRは第三種鉄道事業者となる)された(のち2001年に移管区間の半分以上を廃止)。
- ^ このほか、富山港線が2006年に富山ライトレールに移管された(一部区間は廃止)。
- ^ 可部線の廃止区間のうち、可部駅から河戸駅までの1.6kmについては電化の上で2015年に鉄道営業が復活する予定。
- ^ 常磐線・仙石線・石巻線については鉄道での復旧を明らかにしている。
- ^ 疲弊する若手社員 - 鉄道業界の舞台裏メールマガジン 2006年12月3日
- ^ 2011年3月までは、原則として代行バスも運転しなかった(JR西日本保守工事に伴う列車運休のお知らせ)。なお、対象となる時間帯は閑散時間帯とされる平日日中で、あらかじめ告知された月1回の実施である。
- ^ 資料
- ^ 理論上は、保安装置の技術水準が向上していることを考慮すれば、時代が進むにつれて事故率は自ずと下がってゆくことになる。
- ^ JR連合が連合に加盟しようとするとき、JR総連からの反対があった。
- ^ 奪われたハンドル 検証・浦和電車区事件。なお、JR総連側はこの事件で懲戒解雇された7人を冤罪としてJR東日本を相手取り処分取り消しと損害賠償を求める訴えを起こしている。刑事事件では第一審・第二審とも有罪が下されているが、民事訴訟では2名について懲戒解雇無効の判決を言い渡した。
- ^ http://www.jreu.or.jp/04opinion/pdf/page050.pdf 地位確認訴訟についての見解
- ^ 鎌田慧 鎌田慧の現代を斬る/JR偽装倒産 - 月刊『記録』1996年8月号
- ^ 『ル・モンド』1986年11月11日
- ^ 「国鉄改革について」
- ^ 立山学『JRの光と影』pp68-69(1989/2/20 岩波書店・岩波新書 ISBN 4-00-430060-6)
- ^ 『朝日新聞』 1988年3月23日号、狩野誠一、「検証JR一年 ―国鉄の分割・民営化はいま 1」
- ^ 「2 清算事業団による債務の処理」 平成10年度運輸白書
- ^ 国鉄は根本的整備が必要である―産業計画会議第4次レコメンデーション(1959年) ASIN: B000JATA1Q, 経済往来社
- ^ 国鉄は日本輸送公社に脱皮せよ―国鉄問題に関する第2次勧告(1968年) ASIN: B000J9R3HA, 経済往来社