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「ルクレツィア・ボルジア」の版間の差分

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{{基礎情報 皇族・貴族
{{Infobox 人物
| = ルクレツィア・ボルジア
|名=ルクレツィア・ボルジア
|各国語表記={{lang|it|Lucrezia Borgia}}
|ふりがな =
|家名・爵位=[[エステ家]]
|画像 = Dossi dossi, lucrezia borgia, 1518 circa02.jpg
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|画像=Lucrezia Borgia.jpg
|画像説明 =
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|画像説明=[[バルトロメオ・ヴェネト]]が1510年ごろに描いたルクレツィアの肖像画。
|出生名 =
|続柄=
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1480|4|18|no}}
|称号=シニョーラ・ペーザロ=グラダーラ<br />ビシェーリエ公妃、サレルノ公子妃<br />フェラーラ公妃、モデナ=レッジオ公妃
|生誕地 =
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1480|4|18|1519|6|24}}
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|死没地 =
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|国籍 = {{ITA}}
|出生日={{birth date|1480|4|18|df=y}}
|別名 =
|生地=[[イタリア]]、[[スビアーコ]]
|職業 =
|死亡日={{death date and age|1519|6|24|1480|4|18|df=y}}
|著名な実績 =
|没地=[[イタリア]]、[[フェラーラ]]
|埋葬日=
|埋葬地=
|配偶者1=ペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァ
|配偶者2=ビシェーリエ公アルフォンソ・ダラゴーナ
|配偶者3=フェラーラ公[[アルフォンソ1世・デステ|アルフォンソ・デステ]]
|子女=ビシェーリエ公ロドリーゴ・ダラゴン<br />フェラーラ公[[エルコレ2世・デステ|エルコレ2世]]<br />枢機卿イッポリト2世<br />アレッサンドロ<br />エレオノーラ<br />マッサロンバルダ候フランチェスコ<br />イザベラ・マリア
|父親=ローマ教皇[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]
|母親=[[ヴァノッツァ・カタネイ|ヴァノッツァ・デイ・カタネイ]]
|役職=
}}
}}
[[File:LucSig.png|thumb|280px|1519年3月にルクレツィアが義姉のマントヴァ候妃[[イザベラ・デステ]]に宛てた書簡に記されたサイン。]]
'''ルクレツィア・ボルジア'''({{lang-it-short|Lucrezia Borgia}}、[[1480年]][[4月18日]] - [[1519年]][[6月24日]])は、[[ルネサンス|ルネサンス期]]の[[ボルジア家]]出身のフェラーラ公妃。ロドリーゴ・ボルジア(後の[[教皇|ローマ教皇]][[アレクサンデル6世_(ローマ教皇)|アレクサンデル6世]])とその愛人[[ヴァノッツァ・カタネイ|ヴァノッツァ・デイ・カタネイ]]の娘で、兄弟にロマーニャ公[[チェーザレ・ボルジア]]、ガンディア公[[フアン・ボルジア|ホアン・ボルジア]]、[[ホフレ・ボルジア]]がいる。


ルクレツィアの出身家である[[ボルジア家]]は、[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]がその著書『[[君主論]]』で言及した、冷酷な統治者の好例とされた一族である。ルクレツィアの父のローマ教皇アレクサンデル6世は、政治腐敗と不品行に堕落したルネサンス期ローマ教皇の典型例だといわれている。このような一族に生を受けたルクレツィア「[[ファム・ファタール]]」として波乱の運命をたどり、その生涯や肖像は多くの美術作品、小説、映画に取り上げられている。
'''ルクレツィア・ボルジア'''('''Lucrezia Borgia'''、[[1480年]][[4月18日]] - [[1519年]][[6月24日]])は、[[イタリア]][[ルネサンス]]期の女性で[[教皇|ローマ教皇]][[アレクサンデル6世_(ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]の娘。政略結婚に翻弄されたヒロインとして知られる。兄は軍人で悪名高い政治家でもある[[チェーザレ・ボルジア]]。他の同母兄弟には[[フアン・ボルジア|ホアン・ボルジア]]、[[ホフレ・ボルジア]]がいる。


ルクレツィアの生涯はほとんど知られておらず、父や兄弟がめぐらせた政治的陰謀にルクレツィアが関わっていたかどうかは分かっていない。ただし彼らが自分たちの政治的野心のために、ルクレツィアを重要人物や権力者と結婚させようとしたことは間違いない。ルクレツィアはその生涯で、ミラノの支配者一族スフォルツァ家のカティニョーラ伯ジョヴァンニ・スフォルツァ ([[:en:Giovanni Sforza]])、ビシェーリエ公アルフォンソ・ダラゴーナ ([[:en:Alfonso of Aragon]])、フェラーラ公[[アルフォンソ1世・デステ]]と結婚している。アルフォンソ・ダラゴーナはナポリ王[[アルフォンソ2世 (ナポリ王)|アルフォンソ2世]]の庶子で、ルクレツィアをアルフォンソと結婚させた兄チェーザレ・ボルジアが、後に政治的利用価値がなくなったアルフォンソを暗殺させたのではないかともいわれている。
== 生涯 ==
ルクレツィアは、ロドリーゴ・ボルジア(後のローマ教皇アレクサンデル6世)とその[[愛人]][[ヴァノッツァ・カタネイ]]の間に生まれた[[庶子]]である。[[修道院]]で少女時代を過ごす。父に非常に愛されていた娘だったという。


== 幼少期 ==
[[1493年]]、13歳で[[ミラノ]]公[[ルドヴィーコ・スフォルツァ|イル・モーロ]]の甥で[[ペーザロ]][[伯爵]]の[[ジョヴァンニ・スフォルツァ]]と結婚する。しかし、ジョヴァンニと不仲のルクレツィアはローマに戻ってしまう。父ロドリーゴは、ジョヴァンニは性的不能で結婚は無効と宣言したが、実際にはルクレツィアが幼い事を理由に、父が寝室を別にする事を命じたためである。寝室を一度も共にしていない、つまり性行為をしていない結婚(「白い結婚」という)だと無条件に離婚・再婚できるため、これを狙ったものと思われる。無論ジョヴァンニは非常に憤慨し、父親や兄との[[近親相姦]]の罪があるとしてルクレツィアを訴えた。この一連の騒動に嫌気がさしたルクレツィアは[[1497年]]の6月、[[ドミニコ会]]修道院にこもってしまう。しかし、そこでスペイン人従者のペドロ・カルデロンと恋に落ち、彼の子を妊娠してしまう。兄のチェーザレはペドロが口答えしたことに激怒し、彼を殺してしまった。[[1498年]]の[[3月6日]]、ルクレツィアは[[インファンテ・ロマーノ]]を出産。この子供は父親の戸籍に入れられた。
{{See also|ボルジア家}}
ルクレツィアは1480年4月18日に[[ローマ]]近郊の[[スビアーコ]]で生まれた。父は後に[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]としてローマ教皇に即位するロドリーゴ・ボルジアで、母[[ヴァノッツァ・カタネイ|ヴァノッツァ・デイ・カタネイ]]は、ロドリーゴの数多いる愛人の一人だった。


== ルクレツィアの容貌 ==
次いで[[1498年]]に[[ナポリ王国|ナポリ]]王[[アルフォンソ2世 (ナポリ王)|アルフォンソ2世]]の息子[[アルフォンソ・ダラゴーナ]]と結婚する。2人の夫婦仲は良かったという。しかし[[1500年]]にアルフォンソは[[暗殺]]される。兄チェーザレ・ボルジアの指図とも言われる。当時の情勢から、次に手を結ぶ相手とルクレツィアを政略結婚をさせたいためであったという(離婚はできないため。ただし「白い結婚」は例外)。
[[File:Dossi dossi, lucrezia borgia, 1518 circa02.jpg|thumb|200px|2008年11月に、[[メルボルン]]のヴィクトリア国立美術館が[[ドッソ・ドッシ]]が描いたルクレツィアの肖像画だと発表した作品<ref>{{cite web |url=http://www.brisbanetimes.com.au/news/national/ngvs-renaissance-mystery-woman-revealed/2008/11/25/1227491534785.html |title=NGV's Renaissance mystery woman revealed |publisher=Brisbane Times|accessdate=2013-09-25}}</ref><ref>Maike Vogt-Luerssen: ''Lucrezia Borgia: The Life of a Pope's Daughter in the Renaissance'', 2010, ISBN 978-1-4537-2740-9, pp. 90–91.</ref>。]]
ルクレツィアは膝まで届く豊かな金髪と美しい容貌の持ち主で、角度によって色が変わって見えるハシバミ色の瞳と美しく盛り上がった胸、そしてその生来の優雅さから「天女」と呼ばれており<ref>George R. Marek ''The Bed and the Throne: the Life of Isabella d'Este'', Harper & Row, 1976, ISBN 978-0-06-012810-4 p.&nbsp;142</ref>、ルクレツィアの容姿は当時のイタリアで非常に高く賞賛されていた。ほかにも「口はやや大きく、その歯は美しい白色に輝いている。ほっそりとした首は魅力的で、胸は完璧に均整が取れている」とする評価もあった<ref>''The Times'' Arts section page 14, 31 January 2011</ref>。


2008年11月に、[[メルボルン]]のヴィクトリア国立美術館が所蔵していた、作者もモデルも不明だった『少女の肖像』が[[ドッソ・ドッシ]]の真作で、描かれているのはルクレツィアであると美術館が発表した<ref>[http://www.theage.com.au/articles/2008/11/25/1227491521109.html NGV's Renaissance mystery woman revealed], ''[[The Age]]'', 25 November 2008, retrieved on 25 November 2008.</ref><ref>[http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/visual_arts/article5227710.ece Only known painting of Lucrezia Borgia discovered in Australian gallery] ''[[The Times]]'', London, 25 November 2008</ref><ref>[http://www.abc.net.au/news/stories/2008/11/25/2429076.htm Infamous Renaissance woman subject of mystery portrait] – Australian Broadcasting Corporation 26 November 2008, retrieved on 26 November 2008.</ref><ref>[http://www.smh.com.au/news/entertainment/arts/gallery-unveils-portrait-of-infamy/2008/11/25/1227491546419.html Gallery unveils portrait of infamy], ''[[The Sydney Morning Herald]]'', 26 November 2008, retrieved on 26 November 2008.</ref><ref>[http://www.theage.com.au/national/portrait-of-renaissance-femme-fatale-lucrezia-borgia-found-at-ngv-20081125-6hh9.html Portrait of Renaissance femme fatale Lucrezia Borgia found at NGV], ''[[The Age]]'', 26 November 2008, retrieved on 26 November 2008.</ref>。このヴィクトリア国立美術館の発表が正しければ、現存する唯一のルクレツィアの肖像画である可能性がある。しかしながら、ヴィクトリア国立美術館の発表に対する疑問の声もあがっている<ref>[http://www.theage.com.au/news/entertainment/arts/art-detective-says-the-brother-did-it/2008/11/26/1227491634890.html Art detective says the brother did it], ''[[The Age]]'', 27 November 2008</ref>。他にもルクレツィアの肖像画ではないかといわれてきた絵画作品は数点存在する。なかでも、[[バルトロメオ・ヴェネト]]が半裸の女性を描いた『フローラ』は、昔からルクレツィアの肖像画だとされてきたが、現在ではこの説を採る研究者はいない。
[[1501年]]、[[フェラーラ]]公[[エルコレ1世・デステ]]の長男[[アルフォンソ1世・デステ]]と3度目の結婚。当時、フェラーラはルネサンスの文化が花開いた都市の1つであり、宮廷には各地から文学者や芸術家などが集まっており、ルクレツィアはサロンの女主人として優雅に振舞った。彼女の従妹[[アンジェラ・ボルジア]]も女官として着いて来ていた。しかし、吝嗇家の傾向がある舅のエルコレ1世と浪費家のルクレツィアとは金銭感覚が合わず、彼女の大勢のスペイン人侍女達への手当てと家計の費用を巡って議論になった。あまりにも家計に関する議論が絶えないため、彼女がクララ会修道院にこもってしまったこともあるという。


== 結婚 ==
詩人[[ピエトロ・ベンボ]]と浮名を流したこともあったらしい。しかし、この程度の浮気は夫の顔を潰さぬ程度なら当時の社交界では大目に見られていたようである。また、義姉の[[イザベラ・デステ]]の夫[[マントヴァ]]侯[[フランチェスコ2世・ゴンザーガ]]とも不倫関係にあり、このことを知ったイザベラはただ2人を軽蔑しただけだったという話もある。2人の不倫関係の真偽の程は定かではないが、ルクレツィアとフランチェスコが親しかったのは確からしく、[[1504年]]に幽閉されたチェーザレ釈放の協力をルクレツィアがフランチェスコに頼んだこともある。


=== ジョヴァンニ・スフォルツァとの結婚 ===
[[1502年]]にルクレツィアは妊娠したが、彼女の体調が悪いのを知ったチェーザレは、[[7月28日]]にミラノにいる[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]を訪ねた後、変装して突然彼女に会いにやって来た。[[9月5日]]にルクレツィアは女児を死産。その間もずっとチェーザレはルクレツィアに付き添い、物語や冗談などで彼女をはげました。
[[File:Bartolomeo Veneto 001.jpg|thumb|left|200px|[[バルトロメオ・ヴェネト]]が描いた『フローラ』。ルクレツィアの肖像画だと考えられていたことがある。[[シュテーデル美術館]]所蔵。]]
1491年2月26日に、ルクレツィアと[[バレンシア王国|ヴァレンシア王国]]の貴族でヴァル・ダヨラ領主ドン・チェルビーノ・ホアン・デ・サンテーリャスとの間に婚約の取り決めがなされた。しかしながらこの婚約は、デ・サンテーリャスよりも高位のプロシダ伯ドン・ガスパーレ・アヴェルサとルクレツィアとの結婚話が持ち上がったために、二カ月足らずで破棄されている<ref>{{cite book|last=Bellonci|first=Maria|title=Lucrezia Borgia|year=2000|publisher=Phoenix Press|location=London|isbn=1-84212-616-4|page=18}}</ref>。その後、1492年にルクレツィアの父ロドリーゴが[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]としてローマ教皇に選出されると、アレクサンデル6世は、自身の権力基盤の強化を求めてイタリア諸国の権力者たちとの結びつきを深めようとした。アレクサンデル6世はルクレツィアとアヴェルサとの婚約を白紙に戻し、当時[[ミラノ]]を支配していた[[スフォルツァ家]]の一員の、[[ペーザロ]]の[[シニョリーア|シニョーレ]]でカティニョーラ伯ジョヴァンニ・スフォルツァ ([[:en:Giovanni Sforza]]) とルクレツィアとの婚約を整えた<ref>{{cite book|last=Bellonci|first=Maria|title=Lucrezia Borgia|year=2000|publisher=Phoenix Press|location=London|isbn=1-84212-616-4|page=23}}</ref>。ジョヴァンニはコスタンツォ1世・スフォルツァの庶子であり、1493年6月12日にローマでルクレツィアと結婚した。


結婚後しばらくするとボルジア家はスフォルツァ家と距離を置き始め、ローマ教皇宮廷内でのジョヴァンニの立場も微妙なものとなっていった。そしてアレクサンデル6世は、ルクレツィアを通してのさらなる有力者との政治的同盟を求めて、秘密裏にジョヴァンニの暗殺を命じたといわれている。一般によく知られている説では、兄チェーザレから夫ジョヴァンニの暗殺計画を聞かされたルクレツィアがジョヴァンニに警告し、ジョヴァンニはローマから逃げ出したとされている。
[[1503年]]に父アレクサンデル6世、[[1507年]]に兄チェーザレが死去。ルクレツィアは1519年、6月に未熟児の女児を出産したが[[産褥熱]]にかかり、[[6月22日]]に教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]に宛てて手紙を書いた後、6月24日に母子共に死去した。


アレクサンデル6世はジョヴァンニの叔父の枢機卿アスカニオ・スフォルツァ ([[:en:Ascanio Sforza]]) に、ジョヴァンニを説得してルクレツィアとの離婚を承諾させることを命じた。ジョヴァンニは離婚を拒絶し、父、兄との[[近親相姦]]の疑いがあるとしてルクレツィアに対する訴えを起こした。これに対しアレクサンデル6世は、ルクレツィアとジョヴァンニの結婚は不完全なものであり、無効であると激しく主張し始めた。ジョヴァンニは離婚の条件として、ルクレツィアの持参金をボルジア家に返却しないことを申し出ている。長引く一連の騒動に反発したスフォルツァ家は、ローマを守っているスフォルツァ家配下の傭兵を引き上げると教皇庁を脅しにかかった。しかしながら最終的にボルジア家の圧力に屈したジョヴァンニが、立会人たちの前で自身が性的不能者であり、ルクレツィアとの[[婚姻の無効|結婚が無効]]だったと認める宣誓書に署名して、ルクレツィアとジョヴァンニとの婚姻が破棄されることとなった。
[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]もルクレツィアの肖像画を残している{{要出典|date=2008年12月}}。


==== ペドロ・カルデロンとの関係 ====
== 人物 ==
[[File:A Glass of Wine with Caesar Borgia - John Collier.jpg|thumb|250px|[[ラファエル前派|ラファエロ前派]]の画家[[ジョン・コリア (画家)|ジョン・コリア]]が1893年に描いた『チェーザレ・ボルジアと一杯のワイン』。左からチェーザレ、ルクレツィア、アレクサンデル6世。イプスウィッチ美術館所蔵。]]
* [[ボルジア家]]には政敵が多く、また美形の一族で兄妹仲が良かったためルクレツィアは兄と[[近親相姦]]を行っているという噂が生まれた。19世紀に作られた歌劇「ルクレツィア・ボルジア」があるほか、ルクレツィアを題材にした小説なども多い。しかし実際のルクレツィアは慈善や福祉に生きた女性であり、領民達からも慕われていたという。
長きに渡ったジョヴァンニとの結婚無効騒動の間に、ルクレツィアがアレクサンデル6世の侍従であるペドロ・カルデロンと性的関係を持っていたのではないかといわれている<ref name=Burchard-328>{{cite book|last=Thurmel|first=Joseph|title=Le Journal de Jean Burchard, Évêque et Cérémoniaire au Vatican|year=1923|publisher=Les Éditions Reider|location=Paris|page=328}}</ref>。ボルジア家を敵視していた人々からは、ルクレツィアが未だ結婚の無効が認められていなかったにも関わらずカルデロンの子供を身篭ったと糾弾された。1497年6月にルクレツィアはサン・シスト修道院に身を隠し、自身の結婚に関する騒動が決着する12月までこの修道院に篭り続けている。1498年2月には、ルクレツィアの情人だといわれていたカルデロンの胴体と侍女パンタシレアの遺体がチベレ川で発見されている<ref name=Burchard-328/>。1498年3月にフェラーラ公国の大使がルクレツィアが密かに子供を出産したと主張していたとも言われているが、この説は複数の情報によって否定されている。ただし、ルクレツィアがビシェーリエ公アルフォンソ・ダラゴーナと結婚する前年に、ボルジア家の邸宅で一人の子供が生まれているのは間違いない。この男子はジョヴァンニ・ボルジアと名づけられたが、歴史家たちからはジョヴァンニではなく「ローマの子供 ({{lang|la|Infans Romanus}})」として知られている。
* [[2008年]][[11月25日]]、[[オーストラリア]]の[[ヴィクトリア国立美術館]]が、同美術館が所蔵していた作者・モデル共に不明だった肖像画が、[[ドッソ・ドッシ]]によるルクレツィアの肖像画であると判明したと発表した([http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2542755/3558208 フランス通信社2008年11月25日])。

* 一般には、ルクレツィアは父や兄の政権闘争に翻弄された悲劇の女性と言う印象が持たれている。しかしながら、要塞都市・[[スポレート]]の長官を務めた記録が残っている事から、実際には芯の強い女性だったようである。
1501年に、ジョヴァンニ・ボルジアに関係する二通の[[教皇勅書]]が出されている。一通目の文書には、ルクレツィアの兄チェーザレが結婚前に他の女性に生ませた庶子がジョヴァンニであることが記されていた。二通目の文書にはジョヴァンニがアレクサンデル6世自身の子供であるという、一通目の勅書とはまったく異なる内容が記されていた。ジョヴァンニはルクレツィアが生んだ子供であるという噂が根強く残っているが、どちらの教皇勅書にもルクレツィアの名前は出てきておらず、ルクレツィアの子供説が立証されたことはない。二通目の文書は長い間秘匿されており、ジョヴァンニはチェーザレの子供として育てられた。チェーザレが[[カメリーノ]]を陥落させた1502年にジョヴァンニはカメリーノ公に任じられており、このことからもジョヴァンニがロマーニャ公チェーザレの最年長の息子だとみなされていたことが分かる。アレクサンデル6世の死後にジョヴァンニはルクレツィアが嫁いだフェラーラを訪れ、二通目の教皇勅書に従って自身とルクレツィアが異母姉弟であるということを受け入れた。

=== アルフォンソ・ダラゴーナとの結婚 ===
ジョヴァンニ・スフォルツァとの婚姻無効が認められたルクレツィアは、ナポリ王[[アルフォンソ2世 (ナポリ王)|アルフォンソ2世]]の庶子アルフォンソ・ダラゴーナ ([[:en:Alfonso of Aragon]])と結婚した。アルフォンソはルクレツィアの兄[[ホフレ・ボルジア]]と結婚していたサンチア・ダラゴンの異母弟でもあった。しかしながらルクレツィアとアルフォンソの結婚生活は短命に終わっている。1488年にアルフォンソと結婚したルクレツィアは1499年に[[スポレート]]の総督に任じられ、この直後にアルフォンソはローマを離れた。ルクレツィアの要望でローマに戻ってきたアルフォンソだったが、1500年に何者かによって暗殺されてしまった<ref>James A. Patrick, ''[http://books.google.ie/books?id=i6ZJlLHLPY8C&pg=PA124#v=onepage&q&f=false Renaissance and Reformation, Volume 1]'', Marshall Cavendish, 2007, p. 124</ref>。アルフォンソの死には、ナポリと対立していたフランスとの同盟関係を強めていたルクレツィアの兄チェーザレが関係しているのではないかといわれている。ルクレツィアとアルフォンソンの間にはロドリーゴ・ダラゴーナ ([[:en:Rodrigo of Aragon]]) が生まれたが、1512年に12歳で夭折している。

=== アルフォンソ1世・デステとの結婚 ===
[[File:Alfonso I d'Este.jpg|thumb|left|バスティアニーノ作といわれているアルフォンソ1世・デステの肖像画。]]
アルフォンソ・ダラゴーナが死去すると、アレクサンデル6世はルクレツィアの三回目の結婚を画策し、1502年にフェラーラ公[[エルコレ1世・デステ]]の嫡子[[アルフォンソ1世・デステ]]にルクレツィアを嫁入りさせた。アルフォンソ1世との間には多くの子供が生まれ、ルクレツィアはルネサンス期を代表する高雅な公爵夫人として尊敬されるようになっていった。1503年のアレクサンデル6世の死去以降、ボルジア家は没落の一途をたどることになるが、ルクレツィアに寄せられる高い評価は終生変わることがなかった。

[[File:Grave of Duke Alfonso I d'Este, Lucretia Borgia, etc. - Ferrara, Italy.JPG|thumb|フェラーラ公[[アルフォンソ1世・デステ]]とルクレツィアの墓碑。フェラーラ。]]
アルフォンソ1世もルクレツィアも、互いに対して貞節というわけではなかった。ルクレツィアは義兄にあたるマントヴァ候[[フランチェスコ2世・ゴンザーガ]]と不倫関係になった<ref>''Lucrezia Borgia: Life, Love and Death in Renaissance Italy'', Sarah Bradford, Viking, 2004</ref><ref>[http://observer.guardian.co.uk/review/story/0,6903,1334580,00.html Observer review of ''Lucrezia Borgia: Life, Love and Death in Renaissance Italy'']</ref>。フランチェスコ2世の妃はルクレツィアの夫アルフォンソ1世の姉で、教養と知性を謳われた[[イザベラ・デステ]]である。ルクレツィアはイザベラと友好関係を築こうとしたが、ルクレツィアと自身の夫フランチェスコ2世との不倫関係を知っていたイザベラからは相手にされなかった。ルクレツィアとフランチェスコ2世の関係が感情的なものではなく官能的、肉体的なものだったことが、両者が交わした書簡によって判明している<ref>Marek, pp.166–67</ref>。この不倫関係はフランチェスコ2世が娼婦から[[梅毒]]をうつされるまで続いた<ref>Marek (1976) p. 169</ref>。

また、ルクレツィアは高名な学者で詩人でもあった[[ピエトロ・ベンボ]]とも関係があったといわれている。1816年にイギリスの[[ロマン派]]詩人[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン卿]]がミラノの[[アンブロジアーナ図書館]]を訪れた。バイロンはルクレツィアとベンボの間で交わされた書簡に感銘を受け<ref name=Spectator>''[http://findarticles.com/p/articles/mi_qa3724/is_200506/ai_n14903124 Viragos on the march]'', ''The Spectator'', 25 June 2005, by Ian Thomson, a review of ''Viragos on the march'' by Gaia Servadio. I. B. Tauris, ISBN 1-85043-421-2.</ref><ref name=Caxtonian>[http://www.caxtonclub.org/reading/2005/oct05.pdf ''Pietro Bembo: A Renaissance Courtier Who Had His Cake and Ate It Too''], Ed Quattrocchi, ''Caxtonian: Journal of the Caxton Club of Chicago'', Volume XIII, No. 10, October 2005.</ref>、ベンボが自宅に飾るために<ref name="Byron Chrono">[http://www.rc.umd.edu/reference/chronologies/byronchronology/1816.html The Byron Chronology: 1816–1819 – Separation and Exile on the Continent].</ref><ref name=Nichol>[http://www.fullbooks.com/Byron2.html ''Byron''] by John Nichol.</ref><ref name="Byron Letter">Letter to Augusta Leigh, Milan, 15 October 1816. ''Lord Byron's Letters and Journals'', [http://engphil.astate.edu/gallery/byron6.html Chapter 5: Separation and Exile].</ref>ルクレツィアの髪の房を手に入れようとしていたはずだと主張している<ref name=Caxtonian />。

<!-- Lucrezia met the famed French soldier, the [[Pierre Terrail, seigneur de Bayard|Chevalier Bayard]] while the latter was co-commanding the French allied garrison of Ferrara in 1510. According to his biographer, the Chevalier became a great admirer of Lucrezia's, considering her a "pearl among women". How much she returned his admiration is unknown.-->
ルクレツィアは1519年に女児を出産したが、産褥の合併症のために6月24日にフェラーラで死去した。ルクレツィアの遺体はコルプス・ドミニ修道院に埋葬された<ref>{{cite web|url=http://www.comune.fe.it/lucrezia/index_ing.htm|title=Ferrara 2002 Anno di Lucrezia Borgia|publisher=Comune di Ferrara|archiveurl = http://web.archive.org/web/20090616102541/http://www.comune.fe.it/lucrezia/index_ing.htm|archivedate =2009-06-16|accessdate =2013-09-25}}</ref>。


== 子女 ==
== 子女 ==
フォンソ1世と間に7人の子を儲けた
クレツィアは、そ生涯で7人あるいは8人の子生んでいる
*女児(1507年、死産)
*[[エルコレ2世・デステ|エルコレ2世]](1508年 - 1559年) - フェラーラ公
*イッポーリト(1509年 - 1572年) - 枢機卿
*アレッサンドロ(1514年 - 1516年)
*エレオノーラ(1515年 - 1575年) - 尼僧
*フランチェスコ(1516年 - 1578年) - マッサ公
*女児(1519年、死産)


* ジョヴァンニ・ボルジア(1498年ごろ - 1548年)。この子供の父親は教皇勅書によるとチェーザレかアレクサンドル6世となっているが、ルクレツィアとペドロ・カルデロンとの間の子供だとする説もある。しかしながら、アレクサンドル6世と未詳の情人と密通で生まれた子供であり、ルクレツィアの子供ではない可能性が高い<ref>Sarah Bradford: ''Lucrezia Borgia'', Penguin Group, 2004, p. 68 and 114</ref>。
== 関連書 ==
* ロドリーゴ・ダラゴーナ(1499年11月1日 - 1512年8月)。アルフォンソ・ダラゴーナとの間に生まれた子供。
* [[マリーア・ベロンチ]]『ルクレツィア・ボルジア』([[1939年]])
* [[エルコレ2世・デステ]](1508年4月5日 - 1559年10月3日)。後のフェラーラ公。
* イッポリト2世・デステ(1509年8月25日 - 1572年12月1日)。後のミラノ大司教、枢機卿
* アレッサンドロ・デステ(1514年 - 1516年)。
* エレオノーラ・デステ(1515年7月3日 - 1575年7月15日)。尼僧。
* フランチェスコ・デステ(1516年11月1日 - 1578年2月2日)。後のマッサロンバルダ侯爵。
* イザベラ・マリア・デステ(1519年6月14日 - 1519年6月14日)。死産の女児で、出産の10日後にルクレツィアも産褥の合併症のために死去した。


ルクレツィア・ボルジアの伝記を書いたイタリア人作家マリア・ヴィッラヴェッキア・ベロンチ ([[:en:Maria Bellonci]]) は、上記の子供以外にもルクレツィアには3人の子供がいたと主張している。一人はアルフォンソ・ダラゴーナの子供で、あと二人はアルフォンソ1世・デステの子供であり、いずれも乳幼児のときに夭折してしまったとする。さらにベロンチは、ルクレツィアは少なくとも4回の流産経験があるとしている。
=== 小説 ===
* [[塩野七生]]『ルネサンスの女たち』
* [[フランソワーズ・サガン]]『ボルジア家の黄金の血』


[[南北戦争|アメリカ南北戦争]]の[[南軍]]の将軍[[P・G・T・ボーリガード]]のように、ルクレツィアが自身の祖先だと主張する有名人は多い<ref>Frances P. Keyes, ''Madame Castel's Lodger'', pp. 40–41.</ref>。ルクレツィアは傍系ながら、現在のヨーロッパの王家の多くと何らかの血縁関係がある。ルクレツィアは孫娘のギーズ公妃[[アンナ・デステ]](後に再婚してヌムール公妃)を通じてスペイン王[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]、ベルギー王[[アルベール2世 (ベルギー王)|アルベール2世]]、ルクセンブルク大公[[アンリ (ルクセンブルク大公)|アンリ]]の先祖にあたる。また、王制が廃止されたポルトガル、オーストリア、バイエルン、ブラジル、パルマ、ザクセンの旧王家の先祖でもある。

== ボルジア城 ==
[[File:Nepi - Rocca dei Borgia 02.JPG|thumb|200px|ルクレツィアに与えられた[[ネーピ]]のボルジア城。]]
イタリアの[[ヴィテルボ県]][[ネーピ]]のボルジア城は、父アレクサンデル6世(当時は枢機卿ロドリーゴ・ボルジア)がルクレツィアに与えた城である。周囲を城壁に囲まれた四角形の広大な城で、城壁の四隅には円塔が建てられている。もともとは12世紀に建築された城であり、15世紀に当時のネーピの統治者だったロドリーゴが増改築してルクレツィアに与えられた。その後、16世紀になってファルネーゼの手によって改装されている<ref>[http://www.francigenalazio.it/en/resource/poi/nepi-rocca-dei-borgia/ ''Borgia Fortress''] (La Via Francigena nel Lazio)</ref>。1798年に[[フランス王国]]軍によって大きな被害を受けて以降、修復されずに現在でも荒廃したままとなっている。

1819年にイギリス人画家[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー]]がネーピを訪れ、ボルジア城のスケッチを描いた。現在この作品はロンドンの[[テート・ブリテン]]が常設展示している<ref>[http://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-the-rocca-dei-borgia-nepi-d14813 ''Joseph Mallord William Turner: The Rocca dei Borgia, Nepi 1819''] (Tate Britain; Turner Bequest CLXXVII)</ref>。

== ルクレツィアを巡る噂 ==
[[File:Lucretia Borgia Pinturicchio.jpg|right|thumb|[[ピントゥリッキオ]]が描いた、[[アレクサンドリアのカタリナ]]に扮したルクレツィア。ヴァチカン宮殿ボルジアの間のフレスコ壁画として描かれた。]]
ルクレツィアに関する根強い噂がいくつかある。なかでも、ボルジア家の特徴ともいえる贅沢な宴会に散財する天性の浪費家だったという噂は有名である。さらに、ルクレツィアが父親や兄と[[近親相姦]]の関係にあった、毒殺や暗殺に関与したなどという疑惑も存在している。しかしながらこれらの噂を裏づける証拠は皆無であり、ボルジア家と対立していた人々が主張していたに過ぎない。その他ルクレツィアに関するこのような噂には次のようなものがある。

* ルクレツィアは毒が仕込める中空の指輪を持っており、飲み物に混ぜて相手を毒殺するために頻繁に使用していた<ref>[http://www.guardian.co.uk/netnotes/article/0,,645370,00.html Lucretia Borgia | guardian.co.uk:Philip Pank (5 February 2002)].</ref><ref>[http://www.bbc.co.uk/dna/h2g2/A4350755 BBC – h2g2 – A Brief History of Poisoning, 28 July 2005].</ref>。
* ロンドンの[[テート・ブリテン]]に、[[ラファエル前派|ラファエロ前派]]の画家フランク・カドガン・クーパー ([[:en:Frank Cadogan Cowper]]) の絵画に、ヴァチカンでの公式会合を描いた20世紀初頭の作品が所蔵されている。この作品にはローマ教皇の椅子に座り、アレクサンデル6世の代理として振舞うルクレツィアが描かれている。[[フランシスコ会]]の[[修道士]]がルクレツィアの脚に口付けしている様子などはクーパーの創作によるものだが、ルクレツィアがローマ教皇の代理として権勢を振るっていたことは紛れもない事実である<ref>[http://www.tate.org.uk/servlet/ViewWork?cgroupid=999999876&workid=2837&searchid=9046 Tate Collection | Lucretia Borgia Reigns in the Vatican in the Absence of Pope Alexander VI: Frank Cadogan Cowper 1877–1958 ]</ref>。

== ルクレツィアが登場する作品 ==
=== 伝記 ===
*''Lucrezia Borgia: Life, Love And Death In Renaissance Italy'' by Sarah Bradford; Viking 2004; ISBN 0-670-03353-7
*''Lucrezia Borgia: A Biography'' by Rachel Erlanger; 1978; ISBN 0-8015-4725-3
*''Lucrezia Borgia'' by Maria Bellonci; Phoenix 2002; ISBN 978-1-84212-616-5
* ''The Borgias'' (1971) by Michael Mallett
*''Lucretia Borgia'' (1874?) by Ferdinand Gregorovius (Author); translated in 1903 by John Leslie Garner (Translator)
* ''The Borgias'' by Christopher Hibbert; Constable 2011; ISBN 978-1-84901-994-1

=== 文学作品、戯曲 ===
* 『ルネサンスの女たち』(1969年)。[[塩野七生]]が書いた小説。
* 『ルクレツィア・ボルジア』(1833年)。フランスの文豪[[ヴィクトル・ユーゴー]]が書いた戯曲で、ルクレツィアの生涯をもとにしている。この戯曲に[[ガエターノ・ドニゼッティ]]が作曲し、[[フェリーチェ・ロマーニ]]が[[リブレット (音楽)|台本]]を書きあげて、オペラ作品『ルクレツィア・ボルジア』([[:en:Lucrezia Borgia (opera)]]) が生まれた。初演は1834年12月26日で、ミラノの[[スカラ座]]だった。
* 『ファウストの生涯と行動と地獄落ち』(1791年)。ドイツの作家[[フリードリヒ・マクシミリアン・クリンガー]]が書いた小説で、[[ファウスト]]とルクレツィアの逢瀬など、ボルジア家の人々が登場する。
*『チェーザレ・ボルジアの生涯』(1912年)。イギリスの小説家[[ラファエル・サバチニ]]が書いた、ボルジア家を歴史的に振り返った研究書<ref>{{gutenberg|no=3467|name=The Life of Cesare Borgia}}</ref>。
* 『狐の王子』([[:en:Prince of Foxes]])(1947年)。アメリカの作家サミュエル・シェラバーガー ([[:en:Samuel Shellabarger]]) が書いた時代小説で、ロマーニャ侵攻中のチェーザレ・ボルジアが率いる軍の指揮官アンドレア・オルシニが主人公となっている。この小説をもとに[[オーソン・ウェルズ]]や[[タイロン・パワー]]らが出演する映画『狐の王子』([[:en:Prince of Foxes (film)]]) が、1949年に公開された。
* 『Madonna of the Seven Hills』『Light On Lucrezia』(1958年)。イギリスの小説家[[エリナー・ヒバート]]がジーン・プレイディー名義で書いた小説で、ルクレツィアと一族との愛憎が描かれている。
* 『鏡よ鏡』([[:en:Mirror, Mirror (novel)]])(2003年)。アメリカの小説家グレゴリ-・マグワイアが書いた小説で、ルクレツィアは主人公の若きビアンカの美貌に嫉妬し、ビアンカを殺そうと企てる邪悪な義母として描かれている。

=== その他 ===
* 『ルクレツィア・ボルジア』(1935年)。フランスの映画監督[[アベル・ガンス]]の映画。
* 『ボルジア家の毒薬』(1953年)。フランスの映画監督クリスチャン=ジャックの映画で、ルクレツィアはフランス人女優[[マルティーヌ・キャロル]]が演じている。
* 『[[アサシン クリード ブラザーフッド]]』(2010年)。[[ユービーアイソフト]]のゲームで、ルクレツィアはロドリーゴ、チェーザレとともに敵役として登場する。ゲーム中ではルクレツィアとチェーザレとの近親相関関係が描写されている。
* 『ダーク・シャドウズ』([[:en:Dark Shadows]])(1966年放送開始)。アメリカのテレビドラマで、ルクレツィアは史上もっとも堕落した女性として描かれている。とくに1968年に始まったシリーズでこの傾向が強く描写されている。
* 『[[ボルジア家 愛と欲望の教皇一族]]』(2011年放送開始)。カナダのテレビドラマで、ルクレツィアはイギリス人女優[[ホリデイ・グレインジャー]]が演じている。
* 『[[ボルジア 欲望の系譜]]』(2011年放送開始)。フランスとドイツが共同制作したテレビドラマで、ルクレツィアはドイツ人女優イゾルデ・ディシャウクが演じている。
<!-- 【直接の関係が薄いと判断】
* 『[[ウェアハウス13 〜秘密の倉庫 事件ファイル〜]]』(2009年放送開始)。アメリカのテレビドラマで、ルクレツィアが所有していた宝石をちりばめた櫛が遺物として登場するエピソードがある。
* 『スリーズ・カンパニー』([[:en:Three's Company]])(1977年放送開始)。アメリカのテレビドラマで、スザンヌ・ソマーズ演じるクリッシー・スノウが上司を毒殺するときにルクレツィアに触れている。
-->

== 出典、脚注 ==
{{Reflist}}

== 関連項目 ==
* [[フェリーチェ・デッラ・ローヴェレ]] - ルクレツィアと同じくローマ教皇([[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]])の庶子で、ルネサンス期の女性のなかでもっとも権勢を誇った女性の一人。

== 外部リンク ==
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{{Commonscat|Lucrezia Borgia}}
*[http://www.kleio.org/en/history/famtree/sforza/222.html Lucrezia Borgia: The Family Tree in Pictures]
*{{IMDb character|0078627|Lucretia Borgia}}
*[https://sites.google.com/site/diarioborjaborgia/Home DIARIO DE LOS BORJA BORGIA]

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2013年9月29日 (日) 00:50時点における版

ルクレツィア・ボルジア
Lucrezia Borgia
エステ家
バルトロメオ・ヴェネトが1510年ごろに描いたルクレツィアの肖像画。

称号 シニョーラ・ペーザロ=グラダーラ
ビシェーリエ公妃、サレルノ公子妃
フェラーラ公妃、モデナ=レッジオ公妃
出生 (1480-04-18) 1480年4月18日
イタリアスビアーコ
死去 1519年6月24日(1519-06-24)(39歳没)
イタリアフェラーラ
配偶者 ペーザロ伯ジョヴァンニ・スフォルツァ
  ビシェーリエ公アルフォンソ・ダラゴーナ
  フェラーラ公アルフォンソ・デステ
子女 ビシェーリエ公ロドリーゴ・ダラゴン
フェラーラ公エルコレ2世
枢機卿イッポリト2世
アレッサンドロ
エレオノーラ
マッサロンバルダ候フランチェスコ
イザベラ・マリア
父親 ローマ教皇アレクサンデル6世
母親 ヴァノッツァ・デイ・カタネイ
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1519年3月にルクレツィアが義姉のマントヴァ候妃イザベラ・デステに宛てた書簡に記されたサイン。

ルクレツィア・ボルジア: Lucrezia Borgia1480年4月18日 - 1519年6月24日)は、ルネサンス期ボルジア家出身のフェラーラ公妃。ロドリーゴ・ボルジア(後のローマ教皇アレクサンデル6世)とその愛人ヴァノッツァ・デイ・カタネイの娘で、兄弟にロマーニャ公チェーザレ・ボルジア、ガンディア公ホアン・ボルジアホフレ・ボルジアがいる。

ルクレツィアの出身家であるボルジア家は、ニッコロ・マキャヴェッリがその著書『君主論』で言及した、冷酷な統治者の好例とされた一族である。ルクレツィアの父のローマ教皇アレクサンデル6世は、政治腐敗と不品行に堕落したルネサンス期ローマ教皇の典型例だといわれている。このような一族に生を受けたルクレツィア「ファム・ファタール」として波乱の運命をたどり、その生涯や肖像は多くの美術作品、小説、映画に取り上げられている。

ルクレツィアの生涯はほとんど知られておらず、父や兄弟がめぐらせた政治的陰謀にルクレツィアが関わっていたかどうかは分かっていない。ただし彼らが自分たちの政治的野心のために、ルクレツィアを重要人物や権力者と結婚させようとしたことは間違いない。ルクレツィアはその生涯で、ミラノの支配者一族スフォルツァ家のカティニョーラ伯ジョヴァンニ・スフォルツァ (en:Giovanni Sforza)、ビシェーリエ公アルフォンソ・ダラゴーナ (en:Alfonso of Aragon)、フェラーラ公アルフォンソ1世・デステと結婚している。アルフォンソ・ダラゴーナはナポリ王アルフォンソ2世の庶子で、ルクレツィアをアルフォンソと結婚させた兄チェーザレ・ボルジアが、後に政治的利用価値がなくなったアルフォンソを暗殺させたのではないかともいわれている。

幼少期

ルクレツィアは1480年4月18日にローマ近郊のスビアーコで生まれた。父は後にアレクサンデル6世としてローマ教皇に即位するロドリーゴ・ボルジアで、母ヴァノッツァ・デイ・カタネイは、ロドリーゴの数多いる愛人の一人だった。

ルクレツィアの容貌

2008年11月に、メルボルンのヴィクトリア国立美術館がドッソ・ドッシが描いたルクレツィアの肖像画だと発表した作品[1][2]

ルクレツィアは膝まで届く豊かな金髪と美しい容貌の持ち主で、角度によって色が変わって見えるハシバミ色の瞳と美しく盛り上がった胸、そしてその生来の優雅さから「天女」と呼ばれており[3]、ルクレツィアの容姿は当時のイタリアで非常に高く賞賛されていた。ほかにも「口はやや大きく、その歯は美しい白色に輝いている。ほっそりとした首は魅力的で、胸は完璧に均整が取れている」とする評価もあった[4]

2008年11月に、メルボルンのヴィクトリア国立美術館が所蔵していた、作者もモデルも不明だった『少女の肖像』がドッソ・ドッシの真作で、描かれているのはルクレツィアであると美術館が発表した[5][6][7][8][9]。このヴィクトリア国立美術館の発表が正しければ、現存する唯一のルクレツィアの肖像画である可能性がある。しかしながら、ヴィクトリア国立美術館の発表に対する疑問の声もあがっている[10]。他にもルクレツィアの肖像画ではないかといわれてきた絵画作品は数点存在する。なかでも、バルトロメオ・ヴェネトが半裸の女性を描いた『フローラ』は、昔からルクレツィアの肖像画だとされてきたが、現在ではこの説を採る研究者はいない。

結婚

ジョヴァンニ・スフォルツァとの結婚

バルトロメオ・ヴェネトが描いた『フローラ』。ルクレツィアの肖像画だと考えられていたことがある。シュテーデル美術館所蔵。

1491年2月26日に、ルクレツィアとヴァレンシア王国の貴族でヴァル・ダヨラ領主ドン・チェルビーノ・ホアン・デ・サンテーリャスとの間に婚約の取り決めがなされた。しかしながらこの婚約は、デ・サンテーリャスよりも高位のプロシダ伯ドン・ガスパーレ・アヴェルサとルクレツィアとの結婚話が持ち上がったために、二カ月足らずで破棄されている[11]。その後、1492年にルクレツィアの父ロドリーゴがアレクサンデル6世としてローマ教皇に選出されると、アレクサンデル6世は、自身の権力基盤の強化を求めてイタリア諸国の権力者たちとの結びつきを深めようとした。アレクサンデル6世はルクレツィアとアヴェルサとの婚約を白紙に戻し、当時ミラノを支配していたスフォルツァ家の一員の、ペーザロシニョーレでカティニョーラ伯ジョヴァンニ・スフォルツァ (en:Giovanni Sforza) とルクレツィアとの婚約を整えた[12]。ジョヴァンニはコスタンツォ1世・スフォルツァの庶子であり、1493年6月12日にローマでルクレツィアと結婚した。

結婚後しばらくするとボルジア家はスフォルツァ家と距離を置き始め、ローマ教皇宮廷内でのジョヴァンニの立場も微妙なものとなっていった。そしてアレクサンデル6世は、ルクレツィアを通してのさらなる有力者との政治的同盟を求めて、秘密裏にジョヴァンニの暗殺を命じたといわれている。一般によく知られている説では、兄チェーザレから夫ジョヴァンニの暗殺計画を聞かされたルクレツィアがジョヴァンニに警告し、ジョヴァンニはローマから逃げ出したとされている。

アレクサンデル6世はジョヴァンニの叔父の枢機卿アスカニオ・スフォルツァ (en:Ascanio Sforza) に、ジョヴァンニを説得してルクレツィアとの離婚を承諾させることを命じた。ジョヴァンニは離婚を拒絶し、父、兄との近親相姦の疑いがあるとしてルクレツィアに対する訴えを起こした。これに対しアレクサンデル6世は、ルクレツィアとジョヴァンニの結婚は不完全なものであり、無効であると激しく主張し始めた。ジョヴァンニは離婚の条件として、ルクレツィアの持参金をボルジア家に返却しないことを申し出ている。長引く一連の騒動に反発したスフォルツァ家は、ローマを守っているスフォルツァ家配下の傭兵を引き上げると教皇庁を脅しにかかった。しかしながら最終的にボルジア家の圧力に屈したジョヴァンニが、立会人たちの前で自身が性的不能者であり、ルクレツィアとの結婚が無効だったと認める宣誓書に署名して、ルクレツィアとジョヴァンニとの婚姻が破棄されることとなった。

ペドロ・カルデロンとの関係

ラファエロ前派の画家ジョン・コリアが1893年に描いた『チェーザレ・ボルジアと一杯のワイン』。左からチェーザレ、ルクレツィア、アレクサンデル6世。イプスウィッチ美術館所蔵。

長きに渡ったジョヴァンニとの結婚無効騒動の間に、ルクレツィアがアレクサンデル6世の侍従であるペドロ・カルデロンと性的関係を持っていたのではないかといわれている[13]。ボルジア家を敵視していた人々からは、ルクレツィアが未だ結婚の無効が認められていなかったにも関わらずカルデロンの子供を身篭ったと糾弾された。1497年6月にルクレツィアはサン・シスト修道院に身を隠し、自身の結婚に関する騒動が決着する12月までこの修道院に篭り続けている。1498年2月には、ルクレツィアの情人だといわれていたカルデロンの胴体と侍女パンタシレアの遺体がチベレ川で発見されている[13]。1498年3月にフェラーラ公国の大使がルクレツィアが密かに子供を出産したと主張していたとも言われているが、この説は複数の情報によって否定されている。ただし、ルクレツィアがビシェーリエ公アルフォンソ・ダラゴーナと結婚する前年に、ボルジア家の邸宅で一人の子供が生まれているのは間違いない。この男子はジョヴァンニ・ボルジアと名づけられたが、歴史家たちからはジョヴァンニではなく「ローマの子供 (Infans Romanus)」として知られている。

1501年に、ジョヴァンニ・ボルジアに関係する二通の教皇勅書が出されている。一通目の文書には、ルクレツィアの兄チェーザレが結婚前に他の女性に生ませた庶子がジョヴァンニであることが記されていた。二通目の文書にはジョヴァンニがアレクサンデル6世自身の子供であるという、一通目の勅書とはまったく異なる内容が記されていた。ジョヴァンニはルクレツィアが生んだ子供であるという噂が根強く残っているが、どちらの教皇勅書にもルクレツィアの名前は出てきておらず、ルクレツィアの子供説が立証されたことはない。二通目の文書は長い間秘匿されており、ジョヴァンニはチェーザレの子供として育てられた。チェーザレがカメリーノを陥落させた1502年にジョヴァンニはカメリーノ公に任じられており、このことからもジョヴァンニがロマーニャ公チェーザレの最年長の息子だとみなされていたことが分かる。アレクサンデル6世の死後にジョヴァンニはルクレツィアが嫁いだフェラーラを訪れ、二通目の教皇勅書に従って自身とルクレツィアが異母姉弟であるということを受け入れた。

アルフォンソ・ダラゴーナとの結婚

ジョヴァンニ・スフォルツァとの婚姻無効が認められたルクレツィアは、ナポリ王アルフォンソ2世の庶子アルフォンソ・ダラゴーナ (en:Alfonso of Aragon)と結婚した。アルフォンソはルクレツィアの兄ホフレ・ボルジアと結婚していたサンチア・ダラゴンの異母弟でもあった。しかしながらルクレツィアとアルフォンソの結婚生活は短命に終わっている。1488年にアルフォンソと結婚したルクレツィアは1499年にスポレートの総督に任じられ、この直後にアルフォンソはローマを離れた。ルクレツィアの要望でローマに戻ってきたアルフォンソだったが、1500年に何者かによって暗殺されてしまった[14]。アルフォンソの死には、ナポリと対立していたフランスとの同盟関係を強めていたルクレツィアの兄チェーザレが関係しているのではないかといわれている。ルクレツィアとアルフォンソンの間にはロドリーゴ・ダラゴーナ (en:Rodrigo of Aragon) が生まれたが、1512年に12歳で夭折している。

アルフォンソ1世・デステとの結婚

バスティアニーノ作といわれているアルフォンソ1世・デステの肖像画。

アルフォンソ・ダラゴーナが死去すると、アレクサンデル6世はルクレツィアの三回目の結婚を画策し、1502年にフェラーラ公エルコレ1世・デステの嫡子アルフォンソ1世・デステにルクレツィアを嫁入りさせた。アルフォンソ1世との間には多くの子供が生まれ、ルクレツィアはルネサンス期を代表する高雅な公爵夫人として尊敬されるようになっていった。1503年のアレクサンデル6世の死去以降、ボルジア家は没落の一途をたどることになるが、ルクレツィアに寄せられる高い評価は終生変わることがなかった。

フェラーラ公アルフォンソ1世・デステとルクレツィアの墓碑。フェラーラ。

アルフォンソ1世もルクレツィアも、互いに対して貞節というわけではなかった。ルクレツィアは義兄にあたるマントヴァ候フランチェスコ2世・ゴンザーガと不倫関係になった[15][16]。フランチェスコ2世の妃はルクレツィアの夫アルフォンソ1世の姉で、教養と知性を謳われたイザベラ・デステである。ルクレツィアはイザベラと友好関係を築こうとしたが、ルクレツィアと自身の夫フランチェスコ2世との不倫関係を知っていたイザベラからは相手にされなかった。ルクレツィアとフランチェスコ2世の関係が感情的なものではなく官能的、肉体的なものだったことが、両者が交わした書簡によって判明している[17]。この不倫関係はフランチェスコ2世が娼婦から梅毒をうつされるまで続いた[18]

また、ルクレツィアは高名な学者で詩人でもあったピエトロ・ベンボとも関係があったといわれている。1816年にイギリスのロマン派詩人バイロン卿がミラノのアンブロジアーナ図書館を訪れた。バイロンはルクレツィアとベンボの間で交わされた書簡に感銘を受け[19][20]、ベンボが自宅に飾るために[21][22][23]ルクレツィアの髪の房を手に入れようとしていたはずだと主張している[20]

ルクレツィアは1519年に女児を出産したが、産褥の合併症のために6月24日にフェラーラで死去した。ルクレツィアの遺体はコルプス・ドミニ修道院に埋葬された[24]

子女

ルクレツィアは、その生涯で7人あるいは8人の子供を生んでいる。

  • ジョヴァンニ・ボルジア(1498年ごろ - 1548年)。この子供の父親は教皇勅書によるとチェーザレかアレクサンドル6世となっているが、ルクレツィアとペドロ・カルデロンとの間の子供だとする説もある。しかしながら、アレクサンドル6世と未詳の情人と密通で生まれた子供であり、ルクレツィアの子供ではない可能性が高い[25]
  • ロドリーゴ・ダラゴーナ(1499年11月1日 - 1512年8月)。アルフォンソ・ダラゴーナとの間に生まれた子供。
  • エルコレ2世・デステ(1508年4月5日 - 1559年10月3日)。後のフェラーラ公。
  • イッポリト2世・デステ(1509年8月25日 - 1572年12月1日)。後のミラノ大司教、枢機卿
  • アレッサンドロ・デステ(1514年 - 1516年)。
  • エレオノーラ・デステ(1515年7月3日 - 1575年7月15日)。尼僧。
  • フランチェスコ・デステ(1516年11月1日 - 1578年2月2日)。後のマッサロンバルダ侯爵。
  • イザベラ・マリア・デステ(1519年6月14日 - 1519年6月14日)。死産の女児で、出産の10日後にルクレツィアも産褥の合併症のために死去した。

ルクレツィア・ボルジアの伝記を書いたイタリア人作家マリア・ヴィッラヴェッキア・ベロンチ (en:Maria Bellonci) は、上記の子供以外にもルクレツィアには3人の子供がいたと主張している。一人はアルフォンソ・ダラゴーナの子供で、あと二人はアルフォンソ1世・デステの子供であり、いずれも乳幼児のときに夭折してしまったとする。さらにベロンチは、ルクレツィアは少なくとも4回の流産経験があるとしている。

アメリカ南北戦争南軍の将軍P・G・T・ボーリガードのように、ルクレツィアが自身の祖先だと主張する有名人は多い[26]。ルクレツィアは傍系ながら、現在のヨーロッパの王家の多くと何らかの血縁関係がある。ルクレツィアは孫娘のギーズ公妃アンナ・デステ(後に再婚してヌムール公妃)を通じてスペイン王フアン・カルロス1世、ベルギー王アルベール2世、ルクセンブルク大公アンリの先祖にあたる。また、王制が廃止されたポルトガル、オーストリア、バイエルン、ブラジル、パルマ、ザクセンの旧王家の先祖でもある。

ボルジア城

ルクレツィアに与えられたネーピのボルジア城。

イタリアのヴィテルボ県ネーピのボルジア城は、父アレクサンデル6世(当時は枢機卿ロドリーゴ・ボルジア)がルクレツィアに与えた城である。周囲を城壁に囲まれた四角形の広大な城で、城壁の四隅には円塔が建てられている。もともとは12世紀に建築された城であり、15世紀に当時のネーピの統治者だったロドリーゴが増改築してルクレツィアに与えられた。その後、16世紀になってファルネーゼの手によって改装されている[27]。1798年にフランス王国軍によって大きな被害を受けて以降、修復されずに現在でも荒廃したままとなっている。

1819年にイギリス人画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーがネーピを訪れ、ボルジア城のスケッチを描いた。現在この作品はロンドンのテート・ブリテンが常設展示している[28]

ルクレツィアを巡る噂

ピントゥリッキオが描いた、アレクサンドリアのカタリナに扮したルクレツィア。ヴァチカン宮殿ボルジアの間のフレスコ壁画として描かれた。

ルクレツィアに関する根強い噂がいくつかある。なかでも、ボルジア家の特徴ともいえる贅沢な宴会に散財する天性の浪費家だったという噂は有名である。さらに、ルクレツィアが父親や兄と近親相姦の関係にあった、毒殺や暗殺に関与したなどという疑惑も存在している。しかしながらこれらの噂を裏づける証拠は皆無であり、ボルジア家と対立していた人々が主張していたに過ぎない。その他ルクレツィアに関するこのような噂には次のようなものがある。

  • ルクレツィアは毒が仕込める中空の指輪を持っており、飲み物に混ぜて相手を毒殺するために頻繁に使用していた[29][30]
  • ロンドンのテート・ブリテンに、ラファエロ前派の画家フランク・カドガン・クーパー (en:Frank Cadogan Cowper) の絵画に、ヴァチカンでの公式会合を描いた20世紀初頭の作品が所蔵されている。この作品にはローマ教皇の椅子に座り、アレクサンデル6世の代理として振舞うルクレツィアが描かれている。フランシスコ会修道士がルクレツィアの脚に口付けしている様子などはクーパーの創作によるものだが、ルクレツィアがローマ教皇の代理として権勢を振るっていたことは紛れもない事実である[31]

ルクレツィアが登場する作品

伝記

  • Lucrezia Borgia: Life, Love And Death In Renaissance Italy by Sarah Bradford; Viking 2004; ISBN 0-670-03353-7
  • Lucrezia Borgia: A Biography by Rachel Erlanger; 1978; ISBN 0-8015-4725-3
  • Lucrezia Borgia by Maria Bellonci; Phoenix 2002; ISBN 978-1-84212-616-5
  • The Borgias (1971) by Michael Mallett
  • Lucretia Borgia (1874?) by Ferdinand Gregorovius (Author); translated in 1903 by John Leslie Garner (Translator)
  • The Borgias by Christopher Hibbert; Constable 2011; ISBN 978-1-84901-994-1

文学作品、戯曲

その他

  • 『ルクレツィア・ボルジア』(1935年)。フランスの映画監督アベル・ガンスの映画。
  • 『ボルジア家の毒薬』(1953年)。フランスの映画監督クリスチャン=ジャックの映画で、ルクレツィアはフランス人女優マルティーヌ・キャロルが演じている。
  • アサシン クリード ブラザーフッド』(2010年)。ユービーアイソフトのゲームで、ルクレツィアはロドリーゴ、チェーザレとともに敵役として登場する。ゲーム中ではルクレツィアとチェーザレとの近親相関関係が描写されている。
  • 『ダーク・シャドウズ』(en:Dark Shadows)(1966年放送開始)。アメリカのテレビドラマで、ルクレツィアは史上もっとも堕落した女性として描かれている。とくに1968年に始まったシリーズでこの傾向が強く描写されている。
  • ボルジア家 愛と欲望の教皇一族』(2011年放送開始)。カナダのテレビドラマで、ルクレツィアはイギリス人女優ホリデイ・グレインジャーが演じている。
  • ボルジア 欲望の系譜』(2011年放送開始)。フランスとドイツが共同制作したテレビドラマで、ルクレツィアはドイツ人女優イゾルデ・ディシャウクが演じている。

出典、脚注

  1. ^ NGV's Renaissance mystery woman revealed”. Brisbane Times. 2013年9月25日閲覧。
  2. ^ Maike Vogt-Luerssen: Lucrezia Borgia: The Life of a Pope's Daughter in the Renaissance, 2010, ISBN 978-1-4537-2740-9, pp. 90–91.
  3. ^ George R. Marek The Bed and the Throne: the Life of Isabella d'Este, Harper & Row, 1976, ISBN 978-0-06-012810-4 p. 142
  4. ^ The Times Arts section page 14, 31 January 2011
  5. ^ NGV's Renaissance mystery woman revealed, The Age, 25 November 2008, retrieved on 25 November 2008.
  6. ^ Only known painting of Lucrezia Borgia discovered in Australian gallery The Times, London, 25 November 2008
  7. ^ Infamous Renaissance woman subject of mystery portrait – Australian Broadcasting Corporation 26 November 2008, retrieved on 26 November 2008.
  8. ^ Gallery unveils portrait of infamy, The Sydney Morning Herald, 26 November 2008, retrieved on 26 November 2008.
  9. ^ Portrait of Renaissance femme fatale Lucrezia Borgia found at NGV, The Age, 26 November 2008, retrieved on 26 November 2008.
  10. ^ Art detective says the brother did it, The Age, 27 November 2008
  11. ^ Bellonci, Maria (2000). Lucrezia Borgia. London: Phoenix Press. p. 18. ISBN 1-84212-616-4 
  12. ^ Bellonci, Maria (2000). Lucrezia Borgia. London: Phoenix Press. p. 23. ISBN 1-84212-616-4 
  13. ^ a b Thurmel, Joseph (1923). Le Journal de Jean Burchard, Évêque et Cérémoniaire au Vatican. Paris: Les Éditions Reider. p. 328 
  14. ^ James A. Patrick, Renaissance and Reformation, Volume 1, Marshall Cavendish, 2007, p. 124
  15. ^ Lucrezia Borgia: Life, Love and Death in Renaissance Italy, Sarah Bradford, Viking, 2004
  16. ^ Observer review of Lucrezia Borgia: Life, Love and Death in Renaissance Italy
  17. ^ Marek, pp.166–67
  18. ^ Marek (1976) p. 169
  19. ^ Viragos on the march, The Spectator, 25 June 2005, by Ian Thomson, a review of Viragos on the march by Gaia Servadio. I. B. Tauris, ISBN 1-85043-421-2.
  20. ^ a b Pietro Bembo: A Renaissance Courtier Who Had His Cake and Ate It Too, Ed Quattrocchi, Caxtonian: Journal of the Caxton Club of Chicago, Volume XIII, No. 10, October 2005.
  21. ^ The Byron Chronology: 1816–1819 – Separation and Exile on the Continent.
  22. ^ Byron by John Nichol.
  23. ^ Letter to Augusta Leigh, Milan, 15 October 1816. Lord Byron's Letters and Journals, Chapter 5: Separation and Exile.
  24. ^ Ferrara 2002 Anno di Lucrezia Borgia”. Comune di Ferrara. 2009年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月25日閲覧。
  25. ^ Sarah Bradford: Lucrezia Borgia, Penguin Group, 2004, p. 68 and 114
  26. ^ Frances P. Keyes, Madame Castel's Lodger, pp. 40–41.
  27. ^ Borgia Fortress (La Via Francigena nel Lazio)
  28. ^ Joseph Mallord William Turner: The Rocca dei Borgia, Nepi 1819 (Tate Britain; Turner Bequest CLXXVII)
  29. ^ Lucretia Borgia | guardian.co.uk:Philip Pank (5 February 2002).
  30. ^ BBC – h2g2 – A Brief History of Poisoning, 28 July 2005.
  31. ^ Tate Collection | Lucretia Borgia Reigns in the Vatican in the Absence of Pope Alexander VI: Frank Cadogan Cowper 1877–1958
  32. ^

関連項目

外部リンク

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