コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「田川飛旅子」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目: 1行目:
'''田川 飛旅子'''(たがわ ひりょし、[[1914年]][[8月28日]] - [[1999年]][[4月25日]])は、[[俳人]]。本名・博。[[東京]]出身、府立六中(現[[東京都立新宿高等学校]])を経て[[東京帝国大学]]工学部卒。戦後は[[古川電池]]技師長、役員として勤務した1940年、[[加藤楸邨]]の「[[寒雷]]」創刊に参加楸邨に師事。1946、[[澤木欣一]]ら「[[風 (雑誌)|風]]」創刊二号よ参加同人。1973「陸」を創刊・主宰。[[現代俳句協会]]幹事長、同副会長を歴任。第3回清山賞、第10回[[現代俳句協会大賞]]を受賞。句集に『花文字』『外套』『植樹祭』『邯鄲』『山法師』『薄荷』『使徒の眼』など
'''田川 飛旅子'''(たがわ ひりょし、[[1914年]][[8月28日]] - [[1999年]][[4月25日]])は、東京出身の[[俳人]]・[[工学者]]。本名・博。[[東京]]豊多摩郡渋谷町(現[[渋谷区]])生まれ。1933年に日本メソジスト協会中央会堂にて[[洗礼]]を受けた。府立六中(現[[東京都立新宿高等学校]])、[[第一高等学校 (旧制)|一高]]を経て1940年に[[東京帝国大学]]工学部卒。卒業と同時に[[古川電池]]に入社し電池製作所に配属。戦後に同技師長、役員として勤務。工学者とては『電池及蓄電池』(1953著書があり、1961[[東京大学]]から[[博士号]]を受けている

一高在学中に短歌に興味を持ち「[[アララギ]]」に入会、[[土屋文明]]に師事。また中学の時より画家耳野卯三に油絵を習い、1938年「妹の像」で[[光風会]]に入選している。古川電気入社した1940年、同僚に勧められて飛旅子の俳号で俳句を始め、同年10月に加藤楸邨の「[[寒雷]]」創刊号に投句、「寒雷集」巻頭を取る(二席が[[永田耕衣]]であった)。この巻頭を生涯の誇りとした。1946年、[[澤木欣一]]らの「[[風 (雑誌)|風]]」創刊二号より参加、同人。1947年、[[古沢太穂]]らとともに「寒雷」同人。1973年「陸」を創刊・主宰。1979年、『加藤楸邨全集』編集委員を担当。[[現代俳句協会]]幹事長、同副会長を歴任。第3回清山賞、第10回[[現代俳句協会大賞]]を受賞。

代表句に「遠足の列大丸の中とおる」など([[大丸]]はデパートの名)。鋭くメカニックな観察と乾いた叙情を特徴とする。60歳代で彫刻家[[ジャコメッティ]]に傾倒し、物をあるがままに見る態度をさらに強くした。[[川柳]]などからも学び、「非常口に緑の男いつも逃げ」などのおかしみのある無季句も作っている。

== 句集 ==
*花文字(1955年、風発行所)
*外套(1965年、風発行所)
*植樹祭(1971年、自然社)
*邯鄲(1975年、卯辰山文庫)
*山法師(1980年、卯辰山文庫)
*薄荷(1982年、現代俳句協会)
*使徒の眼(1993年、角川書店)


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*兜太編 『現代人101新書館、2004
*稲畑汀、大岡信、鷹羽狩行監修 『現代俳句大事典三省堂 2005
*「[http://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E5%B7%9D%E9%A3%9B%E6%97%85%E5%AD%90 田川飛旅子]」 デジタル版 日本人名大辞典+Plus、kotobank
*「[http://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E5%B7%9D%E9%A3%9B%E6%97%85%E5%AD%90 田川飛旅子]」 デジタル版 日本人名大辞典+Plus、kotobank



2015年2月18日 (水) 11:32時点における版

田川 飛旅子(たがわ ひりょし、1914年8月28日 - 1999年4月25日)は、東京出身の俳人工学者。本名・博。東京府豊多摩郡渋谷町(現渋谷区)生まれ。1933年に日本メソジスト協会中央会堂にて洗礼を受けた。府立六中(現東京都立新宿高等学校)、一高を経て1940年に東京帝国大学工学部卒。卒業と同時に古川電池に入社し電池製作所に配属。戦後に同技師長、役員として勤務。工学者としては『電池及蓄電池』(1953年)の著書があり、1961年に東京大学から博士号を受けている。

一高在学中に短歌に興味を持ち「アララギ」に入会、土屋文明に師事。また中学の時より画家耳野卯三に油絵を習い、1938年「妹の像」で光風会に入選している。古川電気入社した1940年、同僚に勧められて飛旅子の俳号で俳句を始め、同年10月に加藤楸邨の「寒雷」創刊号に投句、「寒雷集」巻頭を取る(二席が永田耕衣であった)。この巻頭を生涯の誇りとした。1946年、澤木欣一らの「」創刊二号より参加、同人。1947年、古沢太穂らとともに「寒雷」同人。1973年「陸」を創刊・主宰。1979年、『加藤楸邨全集』編集委員を担当。現代俳句協会幹事長、同副会長を歴任。第3回清山賞、第10回現代俳句協会大賞を受賞。

代表句に「遠足の列大丸の中とおる」など(大丸はデパートの名)。鋭くメカニックな観察と乾いた叙情を特徴とする。60歳代で彫刻家ジャコメッティに傾倒し、物をあるがままに見る態度をさらに強くした。川柳などからも学び、「非常口に緑の男いつも逃げ」などのおかしみのある無季句も作っている。

句集

  • 花文字(1955年、風発行所)
  • 外套(1965年、風発行所)
  • 植樹祭(1971年、自然社)
  • 邯鄲(1975年、卯辰山文庫)
  • 山法師(1980年、卯辰山文庫)
  • 薄荷(1982年、現代俳句協会)
  • 使徒の眼(1993年、角川書店)

参考文献

  • 稲畑汀子、大岡信、鷹羽狩行監修 『現代俳句大事典』 三省堂 2005年
  • 田川飛旅子」 デジタル版 日本人名大辞典+Plus、kotobank

関連文献

  • 『田川飛旅子読本』 角川書店、1995年

外部リンク