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「長次郎」の版間の差分

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長次郎の父は[[明]]出身の工人・あめや(「飴屋」「飴八」「阿米也」)、母は「比丘尼」といわれるが詳細は不明である。出自については、かなり身分の低い出身ではないかと推測される以外は未だに不明な点が多いが、祖先は低火度釉の施釉陶器である[[交趾焼]]の技法をもつ人であったとも考えられている<ref name=sasaki180/>。
長次郎の父は[[明]]出身の工人・あめや(「飴屋」「飴八」「阿米也」)、母は「比丘尼」といわれるが詳細は不明である。出自については、かなり身分の低い出身ではないかと推測される以外は未だに不明な点が多いが、祖先は低火度釉の施釉陶器である[[交趾焼]]の技法をもつ人であったとも考えられている<ref name=sasaki180/>。


現存中最も古い作品は、「[[天正]]二年春 寵命 長次良造之」という彫の入った二彩獅子像(樂美術館蔵)である。これは現在の京都市中京区の[[二条城]]北付近の土中から発見されたと伝えるもので、[[2005年]]の十五代・吉左衛門らの調査の結果、一部に緑釉や化粧掛けの白泥が施された上に二彩釉や三彩釉がかけられ、[[中国]]南部の[[華南三彩]]と共通する手法が見られる。なお、この作品については留蓋瓦とする意見があるが、底部形状から否定する見方もあり結論が出ていない。
現存中最も古い作品は、「[[天正]]二年春 寵命 長次良造之」という彫の入った二彩獅子像(樂美術館蔵)である。これは現在の[[京都市]][[中京区]]の[[二条城]]北付近の土中から発見されたと伝えるもので、[[2005年]]の十五代・吉左衛門らの調査の結果、一部に緑釉や化粧掛けの白泥が施された上に二彩釉や三彩釉がかけられ、[[中国]]南部の[[華南三彩]]と共通する手法が見られる。なお、この作品については留蓋瓦とする意見があるが、底部形状から否定する見方もあり結論が出ていない。


後世の記録「宗入文書」([[元禄]]元年([[1688年]]))の伝えるところによると、妻に[[田中宗慶]]の孫娘を迎え、後に宗慶とその長男・田中庄左衛門宗味、次男・吉左衛門'''[[楽常慶|常慶]]'''(後に樂吉左衛門家二代当主)らとともに工房を構えて作陶を行なった。田中宗慶はその苗字から[[千利休]]の縁戚ではないかと想定され、常に利休の側にいた事が知られる。
後世の記録「宗入文書」([[元禄]]元年([[1688年]]))の伝えるところによると、妻に[[田中宗慶]]の孫娘を迎え、後に宗慶とその長男・田中庄左衛門宗味、次男・吉左衛門'''[[楽常慶|常慶]]'''(後に樂吉左衛門家二代当主)らとともに工房を構えて作陶を行なった。田中宗慶はその苗字から[[千利休]]の縁戚ではないかと想定され、常に利休の側にいた事が知られる。

2015年10月10日 (土) 06:03時点における版

長次郎(ちょうじろう、? - 天正17年(1589年))は、安土桃山時代を代表する京都陶芸家楽焼の創始者であり、千家十職の一つ・樂吉左衛門家の初代とされる[1]

略伝

長次郎の創始した楽焼は、最も古い京焼のひとつで、低火度の茶陶である[1]日本中世の伝統的な高火度の陶器とも、中国の陶磁とも異なる独特の焼き物で、侘び茶とともに発展し、もっぱら茶の湯のために造形するという目的の焼き物であるため、日常生活用品の類はつくられない[1]茶碗の他には、香台花入水指などがつくられる[1]

長次郎の父は出身の工人・あめや(「飴屋」「飴八」「阿米也」)、母は「比丘尼」といわれるが詳細は不明である。出自については、かなり身分の低い出身ではないかと推測される以外は未だに不明な点が多いが、祖先は低火度釉の施釉陶器である交趾焼の技法をもつ人であったとも考えられている[1]

現存中最も古い作品は、「天正二年春 寵命 長次良造之」という彫の入った二彩獅子像(樂美術館蔵)である。これは現在の京都市中京区二条城北付近の土中から発見されたと伝えるもので、2005年の十五代・吉左衛門らの調査の結果、一部に緑釉や化粧掛けの白泥が施された上に二彩釉や三彩釉がかけられ、中国南部の華南三彩と共通する手法が見られる。なお、この作品については留蓋瓦とする意見があるが、底部形状から否定する見方もあり結論が出ていない。

後世の記録「宗入文書」(元禄元年(1688年))の伝えるところによると、妻に田中宗慶の孫娘を迎え、後に宗慶とその長男・田中庄左衛門宗味、次男・吉左衛門常慶(後に樂吉左衛門家二代当主)らとともに工房を構えて作陶を行なった。田中宗慶はその苗字から千利休の縁戚ではないかと想定され、常に利休の側にいた事が知られる。

現存する茶会記の記録内容から、天正年間に宗慶を介して千利休と知り合ったと推定される。それまで国内の茶会で主流であった精緻で端正な中国製の天目茶碗などよりも侘びた風情を持つ茶道具を好む利休によって、轆轤(ろくろ)を使わず手捏ね(てづくね)で成形を行なう独自の工法が認められ、のち注文によって茶碗を納めるようになる[1]。楽焼の素地は、決して良質のものとはいえない地元の土を用いており、土を選ばないものであった[注釈 1]

天正17年(1589年)に死去。

代表作

  • 二彩獅子像(天正二年銘):樂美術館蔵、重要文化財
  • 赤楽茶碗 銘「無一物」:頴川美術館蔵、重要文化財
  • 黒楽茶碗 銘「面影」:楽美術館蔵、
  • 黒楽茶碗 銘「勾当」
  • 黒楽茶碗 銘「大黒」:旧鴻池家蔵、現在個人蔵、重要文化財(長次郎七種の一つ)
  • 黒楽茶碗 銘「東陽坊」:旧鴻池家蔵、現在個人蔵、重要文化財(長次郎七種の一つ)
  • 赤楽茶碗 銘「一文字」:旧益田孝蔵、現在個人蔵
  • 黒楽茶碗 銘「俊寛」:三井文庫蔵、重要文化財
  • 長次郎七種

脚注

注釈

  1. ^ 長次郎茶碗の素地は、聚楽第の建設の際に掘り出された土(聚楽土)を用いていたとも伝承されており、「楽家」「楽焼」の名もこの「聚楽」から興ったと伝える

出典

出典

  • 佐々木達夫「楽焼」『日本史小百科 陶磁』東京堂出版、1994年8月。ISBN 4-490-20247-4 

参考文献

  • 永樂善五郎『現代の千家十職』淡交社、1986年12月 ISBN 4473009726
  • 『千家十職 茶の美の創造』(淡交別冊愛蔵版 №21)
  • 三井記念美術館 編『赤と黒の芸術楽茶碗』三井記念美術館、2006年9月
  • 中ノ堂一信編『すぐわかる 作家別やきものの見かた』東京美術、2004年2月