利用者‐会話:オクヤマ

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プレビュー機能のお知らせ[編集]

投稿時、中央のボタンを押すとプレビューできます。

こんにちは。ウィキペディアへのご寄稿ありがとうございます。

オクヤマさんが同じ記事に対して短時間に連続して投稿されているようでしたので、プレビュー機能のお知らせに参りました。投稿する前に「プレビューを表示」のボタンを押すと、編集結果を先に見ることができます。詳しくはHelp:プレビューを表示をお読みください。

これを使うことで

などをあらかじめチェックし、修正してから投稿していただくことにより、同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点については、同じ記事への連続投稿を減らすの項目に説明がありますので、よろしければお読みください。また、ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますので、あわせてお読みいただけると幸いです。ご理解とご協力をよろしくお願いします。なお、もしすでにご存じのことでしたら、悪しからずお願いいたします。--EULE会話2018年1月28日 (日) 10:47 (UTC)[返信]

どうも、はじめまして。『へうげもの』は最終巻が発売されたので、ネタが多くつい連続投稿を重ねてしまいました。あと、肥後蜂須賀氏は、蜂須賀正勝がその子孫という伝承があるという事項をネット検索して、幾多かヒットしたので、これもつい連続投稿を重ねてしまいました。以後は気をつけたいと思います。--オクヤマ会話2018年1月28日 (日) 11:09 (UTC)[返信]

このアンケートを通してウィキメディアンとしてのご意見、ご感想をお寄せください。[編集]

WMF Surveys, 2018年3月29日 (木) 18:32 (UTC)[返信]

お知らせ: このウィキメディア・アンケートでご意見を聞かせてください[編集]

WMF Surveys, 2018年4月13日 (金) 01:30 (UTC)[返信]

あなたのフィードバックが重要です:ウィキメディア財団のグローバル調査ご協力への最後のお願い[編集]

WMF Surveys, 2018年4月20日 (金) 00:39 (UTC)[返信]

出典追加のお願い[編集]

はじめまして、桜螺旋と申します。釜茹でに書き加えられた記述の出典がわからず困っています。出典を書き加えることは可能でしょうか。--桜螺旋会話2018年7月22日 (日) 06:58 (UTC)[返信]

こんにちは。できるかぎり出典を付け加えました。--オクヤマ会話2018年7月22日 (日) 07:34 (UTC)[返信]
確認しました。ありがとうございます。--桜螺旋会話2018年7月28日 (土) 11:05 (UTC)[返信]

リダイレクトの削除依頼について[編集]

依頼に出されたリダイレクトへの「標準名前空間からのリンク」が修正されていません。修正されない限り、リダイレクトは削除されません。--KAMUI会話2018年11月26日 (月) 21:16 (UTC)[返信]

「標準名前空間からのリンク元の修正」していただいてありがとうございます。お手間をおかけして申し訳ありませんでした。--オクヤマ会話2018年11月30日 (金) 09:37 (UTC)[返信]

劉梁の記事について[編集]

こんにちは。劉梁の記事を修正していただいてありがとうございます…と言いたいところなのですが、口幅ったいことを申し上げに参りました。単刀直入に失礼しますが、脚注の3.と4.とで同内容を別表現で注釈してどうなさりたいんでしょうか。それから『三国志』魏書王衛二劉伝裴注所引『文士伝』にはどう書いてあるでしょうか。「文士傳曰:楨父名梁,字曼山,一名恭。少有清才,以文學見貴,終於野王令。」とあり、劉楨の父の名が梁という表現ですので、劉楨が劉梁の「子」であるとは表現されていないんです。ですから劉テイ (建安七子)の脚注1.のほうも厳密には誤りです。表現が違うだけで意味的には同じことですが、括弧をつけると引用のように思われるので、やはり問題ですかね。--Nagaichi会話2019年4月17日 (水) 00:03 (UTC)[返信]

こんにちは。ついでにお久しぶりです。上記に述べているように意味は同じでも表現が違うようですね。閲覧する方々の誤解を受けないように考えて、修正しておきました。--オクヤマ会話2019年4月17日 (水) 02:16 (UTC)[返信]
確認しました。お手数を取らせました。ありがとうございます。--Nagaichi会話2019年4月20日 (土) 11:46 (UTC)[返信]
どういたしまして。あと、高彪 (漢)の記事で、出典にある文献を中国語風の《》を日本語風の『』に変えていまい、申し訳ありません(記事に表示したのは、それなりに理由があったのですね)。--オクヤマ会話2019年4月21日 (日) 03:34 (UTC)[返信]

劉封について[編集]

私は三国志に明るくないので詳しくは知りませんが、『水経注』が趙一清や沈家本を引くとも思えませんので、それらは全部『三国志集解』所引なのではないでしょうか。--Rasalghul会話2019年4月21日 (日) 03:59 (UTC)[返信]

こんにちは。劉封の記事を中国語版を自己流に訳しました。『水経注』に関しては清の趙一清がほとんど注引しているようです。沈家本はあくまでも「劉封は寇恂の子孫の可能性はない」と述べているのみです。『三国志集解』に関しては、劉封が『三国志』蜀志劉封伝では、長沙郡羅県の人であるのに対して、南郡枝江県の人であると述べています。私は劉封の中国語版の記事で「劉封が寇恂の子孫の可能性がある」という出典があったので、それで記してみました。--オクヤマ会話2019年4月21日 (日) 04:14 (UTC)[返信]
中国語版の翻訳であるとしたら要約欄にその旨記した方がいいでしょう。ともあれ、「『水経注』が引く」は誤りということですかね。原文が注を引いたらループしてしまいますし。あと、「趙一清の持論は可能性があるとはいえない」も正確な引用ではない、ということになってしまいますよね。原文で趙一清の名前を出していないなら。中国語版では「沈家本曰:寇恂封雍奴侯,其后有徙封者,无可考。」で、趙一清の名前は出ていないように思われます。別に意訳でもいいのですが、その場合文末に(大意)とでも明記しておいた方がいいのでは。全体として、翻訳にあたって出典を全てチェックするのは確かに大変なのですが、オクヤマさんの場合失礼ながら、まず実際に出典をご覧になっていただいた方がよいのではないかと思いました。--Rasalghul会話2019年4月21日 (日) 04:24 (UTC)[返信]
これは失礼しました。念のために改めて中国語版の劉封の記事を見ました。たしかにRasalghuさんがおっしゃるように趙一清は『水経注』を引用してませんね。また、沈家本も趙一清のことは触れずに「趙一清の持論は可能性があるとはいえない」とは述べておらず、原文を完全に理解していなかった私の凡ミスです。お手間をかけました…--オクヤマ会話2019年4月21日 (日) 04:42 (UTC)[返信]
横から失礼します。『三国志』蜀書劉彭廖李劉魏楊伝で「劉封者本羅侯寇氏之子」と言っていることに対しての盧弼『三国志集解』巻40冒頭の注釈の大意は次のとおりです。
『春秋左氏伝』桓公13年に「楚の屈瑕が羅を伐った」とある。杜注は「羅は熊姓の国で、宜城県西山にあった。後に南郡枝江県に徙された」という。『漢書』地理志には長沙国(の節)に「羅(県)」(の記述)がある。応劭は「楚の文王が羅子を枝江からここに徙した」という。『続漢書』郡国志には南郡(の節)に「枝江は、侯国であり、もとの羅国である」とあるが、長沙郡(の節)にも「羅」(の記述)がある。『水経注』江水は「枝江は、もとの羅国であり、おそらく羅は移転したのであろう。羅の故居は宜城西山にあり、楚の文王がまたこれを長沙に移したものである。今の羅県がこれである」とする。『水経注』湘水は「汜水はまた西方の羅県の北をめぐっている。(羅県は)もとの羅子国である。(羅子国は)もとは襄陽(郡)宜城県の西にあったが、楚の文王がここに移した。秦が長沙郡を立てると、(羅)県をつくり、水を羅水といった」とする。『大清一統志』は「羅県の故城は、現在の湖南(省)長沙府湘陰県の東北にある」とする。盧弼の考えるに、宜城が羅の故国であり、ひとたび枝江に移り、ふたたび長沙に移ったものである。趙一清は「羅侯は地名である。(『三国志』本)伝は羅国を継承したことを言っているが、寇恂の後裔で羅に封じられたものがいたのだろうか」という。沈家本は「寇恂は雍奴侯に封じられ、その後裔で徙封されたものがいたか、考証できない」という。『続漢書』郡国志は長沙郡の属県を羅としており、侯国であるとは言っていない。つまり羅国の封じられるのは(郡国志の基準となっている)永和5年の後のことである。
Wikipedia中国語版の「劉封」記事の脚注は、ここから『左伝』・『左伝』杜預注・『漢書』地理志・応劭・『水経注』湘水の引用を抜いたものでしょう。盧弼は先秦期の羅国が宜城→枝江→長沙の順で移転したことを述べており、なおかつ永和5年(140年)より後に寇氏が(もちろん長沙の)羅侯国に封じられたと考証しているのです。ここまで誰も劉封が「南郡枝江県の人」だなどとは述べていません。趙一清や沈家本は盧弼の前座のような扱いであり、趙一清や沈家本が口を濁したところについて、「羅國之封在永和五年後也」と断言したところに盧弼の真骨頂があります。
さて、Wikipedia記事でそこまで長々と注釈しろと主張したいわけではありませんし、Wikipedia中国語版が妙なところで「◎」で区切っているのも悪いのですが、現時点での劉封記事の脚註1.と2.はWikipedia中国語版の翻訳の要約としても適切ではないと思います。--Nagaichi会話2019年4月21日 (日) 11:55 (UTC)[返信]
Nagaichiさん、詳細に解説いただきまして、ありがとうございました。つまり、現状の記述は、孫引きの上に、(祖父である『三国志集解』のみならず親である)中国語版の文意が汲めていない、ということになりますね。大本の出典に直接あたることができないということは翻訳にはつきものなのでしょうから、誤訳が発生するのは致し方のないことです(私が行った翻訳にも恥ずかしながら見過ごしてきた誤訳があるはずですから、言い訳がましくも聞こえるでしょうが)。しかし今回の場合、それに加えて「水経注が引く趙一清」をオクヤマさんが「趙一清が水経注を引用して」と、まったく逆に認識しておられるのが気になりました。中国語あるいは漢文の翻訳能力の問題と、日本語の記述を正確に行う能力の両面に問題があるとすれば、この状態で孫引きを行うのは極めて危険です。オクヤマさんには、まずは一旦、編集の手を止めていただき、これまでのご自分の履歴を検証していただきたい。そして、今後は「自分の手元にある」「日本語の文献」を参考にして編集に当たっていただくことを強くお勧めします。--Rasalghul会話2019年4月21日 (日) 12:17 (UTC)[返信]
ご両人とも、詳しい検証と指摘をありがとうございます。いろいろとお手間をかけてしまいました。これからはRasalghulさんのおっしゃるように「『自分の手元にある』「日本語の文献」を参考にして編集すること」に専念します。--オクヤマ会話2019年4月21日 (日) 14:28 (UTC)[返信]
こちらこそ、不躾な物言いにもかかわらず聞き入れていただき、ありがとうございました。オクヤマさんのますますのご活躍を願うものです。--Rasalghul会話2019年4月21日 (日) 14:45 (UTC)[返信]
恐れ入ります。ありがとうございます。--オクヤマ会話2019年4月21日 (日) 15:29 (UTC)[返信]

えーと、何度も申し訳ないのですが、寇恂他の一連の編集について。日本語の文献でないことはこの際いいのですが、趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』天津古籍出版社を本当にお手元にお持ちですか? (別に電子版なら電子版でいいですが)自分の手元にあってすぐにひも解くことができますか? 『北史』巻27列伝15にも『漢魏南北朝墓誌彙編』にも、寇栄の孫の名が寇孟であるとは記載されていなかったりしませんか? 別に私にはオクヤマさんの編集を制限する権限も何もないのですが、ご自分で約束されたことは是非守っていただきたいと思います。寇孟の名前がのっかっている部分を示していただければ、これは私の誤解であることがすぐにはっきりしますので、その際には深くお詫びするものです。しかし、そうでないなら、オクヤマさんを今後信用することができません。--Rasalghul会話2019年4月21日 (日) 22:10 (UTC)[返信]

すみません。あいにく趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』天津古籍出版社は所持しておりません。寇栄の子とされる寇寵と孫とされる寇孟は上谷寇氏中国語版の系譜から記入したものです。詳しい検証がないので、記事から「寇寵」と「寇孟」は消しておきました。申し訳ありません。--オクヤマ会話2019年4月21日 (日) 22:23 (UTC)[返信]
(追記)その他の資料としては、北魏の『魏書』と『元和姓纂』などの資料もあります。--オクヤマ会話2019年4月21日 (日) 22:30 (UTC)[返信]
(再追記)おそらく『元和姓纂』が引く『寇臻墓志』に関する、寇谦之的家世与生平 - 此処開始体験での上谷寇氏の系譜で、「寇寵」と「寇孟」が記載されていました。--オクヤマ会話2019年4月21日 (日) 22:41 (UTC)[返信]
寇孟の名が他の資料にあることは存じていますので結構です。今話しているのはそれ以前の問題です。中文版の記事を参考にするのはいいんですよ。しかし、オクヤマさんの場合、中文版を不完全に引き写して、中文版にある情報を変に捻じ曲げて書いてしまう。それじゃあ、中文版を鵜呑みにするよりもなお悪い状態です。幸いなことに今、電子版でたいていの漢籍は読むことができるんですから、中文版に書いてあることが本当なのかどうか、自分なりに確かめることができます。でも、私やオクヤマさんはおそらく中国語の能力に長けているわけではないので、より確実で安全なのは日本語の文献を調べることです。そういった意味で昨日、自分の手元にある日本語の文献を参考にすることをおすすめしたのです。オクヤマさんはそういう編集に専念すると約束され、私は大変安心しました。それなのに、24時間も経たないうちにまた同じ過ちを繰り返しています。最早これじゃあ、オクヤマさんの言葉を信用しようとしても難しい。是非、なんでそんなことになってしまったのか、本当の所を教えてください。私の言っている意味がよくわからなかったなら、それでいいですからそう言ってください。--Rasalghul会話2019年4月21日 (日) 22:56 (UTC)[返信]
すみません。実は私は『三国志』や『史記』が好きなのを高じて学生時代に第二外国語として中国語の講義を受けていました。もちろん、上記でRasalghulさんがおっしゃることの意味はよく存じていました。しかし、中国史好きの好奇心からつい中国語のサイトを見て編集してしましました。結果的にはある意味「Rasalghulさんがおっしゃることの意味」がよくわからなかったのかもしれません。今、振り返ると私はウィキペディアに深入りしすぎたかもしれません。しばらくは中国語のサイトを見て、これを鵜呑みにせずに早とちりしないで、冷静になって(昨日の約束を蒸し返してしまいましたが)、「自分の手元にある日本語の文献を参考にする」形が無難なのかもしれません。これからは中国語のサイトを見た場合は、RasalghulさんとNagaichiさんに確認することにします。本当に申し訳ありません。--オクヤマ会話2019年4月21日 (日) 23:12 (UTC)[返信]