「朝比奈正二郎」の版間の差分
Normdaten moved to wikidata |
m WP:BOTREQ: Category:東京都区部出身の人物新設に伴う貼り変え作業 |
||
81行目: | 81行目: | ||
[[Category:日本の昆虫学者]] |
[[Category:日本の昆虫学者]] |
||
[[Category:国立感染症研究所の人物]] |
[[Category:国立感染症研究所の人物]] |
||
[[Category:東京都出身の人物]] |
[[Category:東京都区部出身の人物]] |
||
[[Category:1913年生]] |
[[Category:1913年生]] |
||
[[Category:2010年没]] |
[[Category:2010年没]] |
2016年6月7日 (火) 16:15時点における版
朝比奈 正二郎 | |
---|---|
生誕 |
1913年6月10日 日本 東京都文京区 |
死没 |
2010年11月28日(97歳没) 日本 東京都 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 昆虫学、昆虫分類学、衛生昆虫学 |
研究機関 | 国立予防衛生研究所 |
主な業績 | トンボ、ゴキブリの分類学、生態学的研究 |
プロジェクト:人物伝 |
朝比奈 正二郎(あさひな しょうじろう、1913年6月10日 - 2010年11月28日)は、日本の昆虫学者。トンボやムカシトンボ、ゴキブリなどの分類、生態の研究で知られ、日本蜻蛉学会の設立にも中心的に関わった[1]。国際トンボ学会会長、日本昆虫学会会長、日本衛生動物学会会長、日本動物分類学会会長を歴任[1]。
略歴
1913年、東京都文京区千駄木に生まれる。父は薬学者であり、また地衣類の分類学者でもあった朝比奈泰彦[1][2]。父から昆虫採集の手ほどきを受けて、6歳頃からチョウなどの採集を始め、父の知り合いであった昆虫学者の三宅恒方にも接している[1]。
東京府立六中(現:新宿高校)、成城高校を経て、1935年に東京帝国大学理学部動物学科(現:東京大学理学部)に進学[1]。1938年に卒業し、同年大学院に進学[2]。しかし戦況の変化により、1939年10月より陸軍文官として満州に渡り、軍の活動の傍ら、週末になると昆虫採集を行なっていた[1]。1940年に東京に一時帰還し、同年結婚[2]。その後すぐに満州に戻り、1945年まで当地で過ごした[1]。
1945年にソ連が満州に侵略すると、朝比奈は大連に移り、終戦後にはそこから、家族の疎開先であった静岡県三島市に戻った[1]。そこを研究拠点として、ムカシトンボの形態的研究を進め、その結果をまとめた論文がのちの学位論文となった[1]。
1950年に国立予防衛生研究所に入所し、1952年には同所の部長となった[1]。1953年にはロンドンへ留学し、ロンドン自然史博物館を訪れて、日本の昆虫の分類学的研究などを進めた[2]。同年4月 北海道大学 理学博士 「ムカシトンボの形態学的研究 」。
1956年ごろから日本蜻蛉学会の立ち上げに中心的に関わり、1958年から同会会誌の「TOMBO Acta ontologica」の発行も手がけた[2]。
1979年に国立予防衛生研究所を退官、客員研究員となった[1]。その後もゴキブリやトンボ類の分類学的研究などを進めた。
2010年に東京都で死去(享年97)[2]。
著書、論文
朝比奈は生涯に多数の著書、論文、報文を残しており、特に報文は約1000本を数える[1]。
著書
- 信濃蜻蛉誌 (1955年、東筑摩教育会)
- 日本昆虫分類図説 (1961-62年、北隆館) - 2012年に復刊
- 衛生動物検査指針 (1971年、日本環境衛生センター)
- 基準昆虫分類表 (1980年、北隆館)
- 日本産ゴキブリ類 (1991年、中山書店)
- 滅びゆく日本の昆虫50種 (1993年、築地書館)
論文
参考文献
- 山崎柄根 (2011), “朝比奈正二郎博士(Dr.Syoziro Asahina)を悼む”, タクサ : 日本動物分類学会誌 (31): 1-3