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2016年6月8日 (水) 03:09時点における版

つむら ひろし
津村 博
津村 博
1920年代の写真。
本名 樋村 滋男 (ひむら しげお)
生年月日 (1901-03-21) 1901年3月21日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区小石川地区)
職業 俳優
ジャンル 劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1924年 - 1940年
主な作品
侠艶録
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津村 博(つむら ひろし、1901年3月21日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7][8]。本名樋村 滋男(ひむら しげお)[1][2]

人物・来歴

1901年明治34年)3月21日東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区小石川地区)に生まれる[1][2]

日本統治時代の台湾台北州(現在の中華民国台湾省台北市)に移り、旧制・台北州立台北第一中学校(現在の台北市立建国高級中学)に進学、同校を卒業後、旧制台北高等商業学校(現在の台湾大学管理学院)に進学、同校を1924年(大正13年)3月に卒業している[1][2]。同年、内地に渡り、帝国キネマ演芸の俳優であった根津新[9]の私的門弟になり、根津が同年の後半に東亜キネマ甲陽撮影所に移籍、津村も同行し、同年12月25日[3](12月24日[4])に公開された『海の悲劇』(監督阪田重則)に出演して、満23歳で映画界にデビューした[3][4]

1925年(大正14年)6月には、牧野省三が東亜キネマを退社、御室撮影所を開いてマキノ・プロダクションを設立、津村は、東亜キネマからマキノへ移籍、師の根津は東亜キネマに残った[1][2][9]。翌1926年(大正15年)3月12日[3](3月7日[4])に公開されたサイレントの時代劇映画『臆病武士』(監督富沢進郎)で主役に抜擢され、同社の新進スターとして活動を始める[1][2][3][4]。1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、津村は、嵐冠三郎荒木忍南光明根岸東一郎谷崎十郎阪東三右衛門市川米十郎東郷久義市川幡谷實川芦雁桂武男らとともに「俳優部男優」に名を連ねた[10]。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化したが、1931年(昭和6年)7月、同社の解散とともに退社した[1][2][3][4]。記録に残る最後の出演作は、1930年(昭和5年)10月31日[3](10月15日[4])に公開された『街の洒落男』(監督稲葉蛟児)であった[3][4]

マキノ退社とともに帝国キネマ演芸に移籍、同年6月10日に公開された『嘆きの都』(監督曾根純三)等に出演したが、同社は同年8月28日、新興キネマに改組され、津村は継続的に新会社に入社した[1][2][3][4]。1932年(昭和7年)10月、同社を退社して台湾に戻り、台湾プロダクションを設立し、『義人呉鳳』(監督千葉泰樹安藤太郎)を製作、これに出演した[1][2][4][6]。1933年(昭和8年)には内地に帰って、フリーランサー協会に参加、『決戦高田の馬場』(監督池田富保)等のトーキーに脇役出演する[1][2][3][4]。同年、新興キネマに所属する10歳下の女優・水原玲子(当時23歳)との恋愛事件が発覚、翌1934年(昭和9年)9月には水原は同社を退職せざるを得なくなる、という事件が起きている[11][12]。津村はこれを機に、東京へ移り、1935年(昭和10年)には、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に入社、1940年(昭和15年)ころまで映画に出演した[1][2][3][4]

第二次世界大戦終結後の映画の出演歴はなく、その後の消息は不明である[1][2][3][4]没年不詳

フィルモグラフィ

金!金! 時代篇』『戀を背負ふ男』を同時上映した桜川キネマでの1926年公開時のポスター。後者(下半分)に津村の名が確認できる。

クレジットはすべて「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[8][13]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

東亜キネマ甲陽撮影所

すべて製作は「東亜キネマ甲陽撮影所」、配給は「東亜キネマ」、すべてサイレント映画である[3][4]

マキノプロダクション御室撮影所

特筆以外すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画である[3][4]

帝国キネマ演芸

すべて製作・配給は「帝国キネマ演芸」、すべてサイレント映画である[3][4]

新興キネマ

すべて製作・配給は「新興キネマ」、すべてサイレント映画である[3][4]

  • 何が彼女を殺したか』 : 監督鈴木重吉、1931年9月24日公開 - 三浦工場主
  • 最後の審判』 : 監督印南弘、1931年10月4日公開 - 検事古河健
  • 毒草』 : 監督曾根純三、原作菊池幽芳、1931年10月15日公開 - 花壇翠紅園主吉蔵(主演、「津村宏」表記[3][4]
  • 曙の歌』 : 監督印南弘、原作加藤武雄、1931年11月21日公開 - 友人大川周三
  • 死の餞別 井上中尉夫人』 : 監督木村恵吾、原作・脚本八尋不二、1932年1月7日公開 - 井上中尉(主演
  • 悲しみの天使』 : 監督印南弘、原作中村武羅夫、1932年3月17日公開 - 女学校の音楽教師吉川敬三郎
  • 火の翼』 : 監督高見貞衛、原作加藤武雄、1932年5月15日(5月13日[4])公開 - 里子の許婚鎮郎

台湾プロダクション

サイレント映画である[3][4]

フリーランサー協会

すべてトーキーである[3][4]

日活多摩川撮影所

特筆以外すべて製作は「日活多摩川撮影所」、配給は「日活」、すべてトーキーである[3][4][7]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n キネマ旬報社[1979], p.373.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 津村博jlogos.com, エア、2013年6月3日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 津村博日本映画データベース、2013年6月3日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd 津村博津村宏、日本映画情報システム、文化庁、2013年6月3日閲覧。
  5. ^ 津村博KINENOTE, 2013年6月3日閲覧。
  6. ^ a b c 津村博allcinema, 2013年6月3日閲覧。
  7. ^ a b c d e 津村博日活データベース、2013年6月3日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k 津村博東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年6月3日閲覧。
  9. ^ a b 根津新 - 日本映画データベース、2013年6月3日閲覧。
  10. ^ 1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録立命館大学、2013年6月3日閲覧。
  11. ^ キネマ旬報社[1980], p.637-638.
  12. ^ 大宅尾崎[1933], p.152-153.
  13. ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年6月3日閲覧。
  14. ^ 植民地時代の台湾の記録山形国際ドキュメンタリー映画祭、2013年6月3日閲覧。
  15. ^ 忠臣蔵 天の巻、日活データベース、2013年6月3日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク