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2016年6月8日 (水) 04:20時点における版
ばんどう こうたろう 坂東 好太郎 | |
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屋号 | 大和屋 |
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定紋 | 三つ大 |
生年月日 | 1911年5月4日 |
没年月日 | 1981年11月28日(70歳没) |
本名 | 本間健太郎 |
襲名歴 | 1. 澤村健太郎 2. 坂東好太郎 |
出身地 | 東京市神田区連雀町 |
職業 | 歌舞伎役者、映画俳優 |
活動期間 | 1922–79年 |
活動内容 | 時代劇、剣戟 |
父 | 十三代目守田勘彌 |
妻 | 飯塚敏子 |
子 | 二代目坂東吉彌 坂東彌十郎 |
坂東好太郎(ばんどう こうたろう、1911年(明治44年)5月4日 - 1981年(昭和56年)11月28日)は、昭和初期の歌舞伎役者、映画俳優。屋号は大和屋。定紋は三ツ大、替紋は花勝見。本名は本間 健太郎(ほんま けんたろう)。
生涯
東京市神田区連雀町(現在の東京都千代田区神田須田町)に生まれた。父は十三代目守田勘彌、母は町内の富士見湯の娘だった。
数え五つのとき七代目澤村宗十郎に弟子入し、8歳のとき伯父七代目坂東三津五郎の門へ移った。大正11年 (1922)、帝国劇場(または市村座)で澤村健太郎として初舞台を踏み、同13年 (1924) 坂東好太郎を名乗った。昭和5年 (1930)、六代目尾上菊五郎の日本俳優学校を卒業。この頃、四代目片岡我當が座長を勤める新宿第一劇場の『青年歌舞伎』に参加した。
昭和6年 (1931)、20歳のとき、松竹下加茂撮影所専属の映画俳優に転じ、翌年『世直し大明神』でデビューした。以後、林長二郎や高田浩吉とともに「下加茂の三羽烏」と呼ばれ、多くの時代劇映画に出演した[1]。溝口健二監督のもとで田中絹代と共演した『浪花女』(昭和15年)は名作といわれる。
この頃、同じ下加茂撮影所の女優飯塚敏子と結婚し、二代目坂東吉彌と坂東彌十郎を儲けている。
昭和16年 (1941) には『報国劇団坂東好太郎一座』を結成して日本移動演劇連盟に加盟、各地を慰問巡業した[2]。
戦後は、昭和23年 (1948) に大映京都撮影所に入社し、その後同30年 (1955) には日活へ、同33年 (1958) 新東宝、同35年 (1960) 東映へと移籍した。
同35年 (1962) 年9月、八代目坂東三津五郎の襲名披露興行を契機に歌舞伎に戻る。その『口上』の舞台で、十七代目中村勘三郎が、「けーんちゃん」と呼びかけ、好太郎が「はぁーい」と受けて笑わせた。勘三郎は少年期、母親が関係した連雀町の寄席『白梅亭』に入り浸って[3]、町内の好太郎と古馴染みだった。
以後、勘三郎一座ほかの舞台で敵役や老役で活躍した[4][5]。
昭和56年 (1981) 死去、70歳だった。
主な出演作品
映画
- 『蒙古襲来 敵国降伏』松竹京都、1937年
- 『雪之丞変化 闇太郎懺悔』松竹京都、1939年
- 『歌麿をめぐる五人の女』松竹京都、1946年
- 『木曾の天狗』大映京都、1948年
- 『地獄門』大映京都、1953年
- 『孤獨の人』日活、1957年 - 大夫 役(特別出演)
- 『壮烈新選組 幕末の動乱』東映京都、1960年
舞台
- 『薄桜記』 明治座、1980年
出典
- ^ 坂東好太郎の出演映画
- ^ 報国劇団坂東好太郎一座
- ^ 関容子『中村勘三郎楽屋ばなし』、文春文庫(1987) ISBN 9784167457013
- ^ 国立劇場文化デジラルライブラリー「公演記録」>「歌舞伎」>「人名で探す」
- ^ 東映歌舞伎一覧
参考文献
- 『演劇界臨時増刊 新版歌舞伎俳優名鑑』、演劇出版社(1973)
- 『講談社日本人名大辞典』上田正昭ほか監修、講談社(2001) ISBN 4062108496