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坂東三津五郎 (8代目)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
はちだいめ ばんどう みつごろう
八代目 坂東三津五郎
屋号 大和屋
定紋 三ツ大 
生年月日 1906年10月19日
没年月日 (1975-01-16) 1975年1月16日(68歳没)
本名 守田俊郎
襲名歴 1. 三代目坂東八十助
2. 六代目坂東蓑助
3. 八代目坂東三津五郎
俳名 是真
出身地 日本の旗 日本東京府東京市下谷区二長町[1](現・東京都台東区台東
七代目坂東三津五郎(養父)
兄弟 青柳信雄
妹 中村光子 (二代目中村又五郎夫人)
守田喜子 (九代目坂東三津五郎夫人)
備考
孫:池上季実子

八代目 坂東 三津五郎(はちだいめ ばんどう みつごろう、1906年明治39年)10月19日 - 1975年昭和50年)1月16日)は、日本の俳優歌舞伎役者。屋号大和屋定紋三ツ大、替紋は花勝見。本名は守田 俊郎(もりた としろう)。青年期より敵役老役を得意とし、重要無形文化財保持者(人間国宝)にも認定されたが、フグ毒にあたって急逝した。

生涯

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年譜

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  • 1906年(明治39年) 東京市下谷区二長町に生まれる。生後すぐ、七代目坂東三津五郎の養子に入る。
  • 1913年(大正2年) 市村座『奴凧廓春風』での舞鶴屋小傳三で三代目坂東八十助襲名し初舞台。
  • 1921年(大正10年)11月9日、父三津五郎の市村座脱退に伴い彼も市村座を脱退し翌1922年(大正11年)6月、松竹に移籍する。
  • 1928年(昭和3年)6月 明治座『鞍馬源氏』の牛若丸で六代目坂東蓑助を襲名。
  • 1932年(昭和7年) 劇団新劇場を設立。
  • 1936年(昭和11年) 四代目中村もしほ(十七代目勘三郎)、九代目市川高麗蔵(十一代目團十郎)、五代目片岡芦燕(十三代目我童、歿後に十四代目仁左衛門を追贈)らと東宝劇団に行く。このことが原因で養父・七代目三津五郎からは勘当同然の扱いをされる。東宝では夏川静江とコンビの「宮本武蔵」など新作物で活躍。
  • 1938年(昭和13年)7月 上海戦線で慰問活動。その後、北支、蒙古方面に慰問[2]
  • 1940年(昭和15年)3月、東宝との契約満了につき、松竹に復帰する。5月には角座に出演し関西歌舞伎に籍を置く。
  • 1957年(昭和32年)9月 歌舞伎座『寒山拾得』で養父・七代目三津五郎と久し振りに舞台を共にする。
  • 1962年(昭和37年)9月 歌舞伎座六歌仙容彩』(喜撰)他で八代目坂東三津五郎を襲名。
  • 1966年(昭和41年)5月 日本芸術院賞受賞[3]
  • 1975年(昭和50年)1月16日 京都南座の初春興行『お吟さま』に出演中、好物のトラフグの肝による中毒で急死、68歳没。

人物

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歌舞伎に限らず、近代劇の創始者の一人である小山内薫の影響を受けて、1932年(昭和7年)には劇団新劇場を設立している。その後は東宝劇団関西歌舞伎を経て再び東京に戻った。

孫の十代目三津五郎の回想によると、読書家・博識家で、役作りのために国立国会図書館に連日赴いて資料を探したというほどの勉強家だったという。

坂東流の家元として踊りの稽古はとても厳しいもので、時には殴る蹴るで教えることもあったという[4]。東宝劇団時代には俳優の伊藤雄之助に厳しい態度で臨んで自殺寸前にまで追い込んでいる。ただし「結局は本人のためになる、いわば愛の鞭なのだ」と人に漏らしており、後年伊藤が大成してからは優しくなったという[注釈 1] 。 

母親が老いると毎日欠かさず食事を自ら用意した。口に合うよう苦心していた親孝行ぶりが伝わる[6]

晩年は人間国宝に認定されたりする一方で、その家庭は不遇だった。妻と死別の後再婚した女性が梨園のしきたりをまったく守ろうとしない人物で、これがもとで娘夫婦と次第に不仲となり、女婿の七代目坂東蓑助(九代目三津五郎)や孫の五代目坂東八十助(十代目三津五郎)と舞台を共にする機会は皆無となってしまっていた。書画骨董の蒐集で有名だったが、後述する急死の後、そのほとんどがこの再婚相手によって売却されてしまったという[4]

美食家としても知られ、日頃よりあらゆる美食を楽しんだ。一方で庶民の味には疎かったらしく、孫の十代目三津五郎がまだ少年だった頃、一緒に初めて札幌ラーメンを食べて「世の中にはこのような美味い物があるのか」と驚いていたという[7]

フグ中毒

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八代目三津五郎の急死は、以後「フグ中毒」といえば「三津五郎」の名が必ず例に挙げられるようになるほどの大事件だった。この事件は、危険を承知の上で毒性の高い肝を四人前も平らげた三津五郎がいけなかったのか、フグ調理師免許を持っているはずの板前の包丁捌きがいけなかったのかで話題となった。

裁判では、調理師の予見可能性が争点となった。当時はまだフグ中毒事件を起こした調理師に刑事裁判で有罪判決が下ることは稀だったが、 1980年(昭和55年)4月18日に最高裁判所判決で調理師の有罪が確定した。

出演

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テレビ

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映画

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  • 1937 故郷  伊丹万作監督 ... 和田堅太郎
  • 1939 忠臣蔵 東宝  ... 垣見五郎兵衛
  • 1941 芸道一代男  特作プロ  中村翫雀
  • 1946 歌麿をめぐる五人の女  松竹 喜多川歌麿
  • 1955 水戸黄門漫遊記 幽霊城の佝僂男 東映 原田大輔
  • 1955 修禅寺物語 (夜叉王)
  • 1956 白扇 みだれ黒髪  東映 鶴屋南北
  • 1956 水戸黄門漫遊記 鳴門の妖鬼  東映
  • 1956 新諸国物語 七つの誓い・三部作 高山伊織
  • 1956 侍ニッポン 新納鶴千代 (井伊直弼)
  • 1957 大忠臣蔵  松竹 加古川本蔵
  • 1957 水戸黄門  東映 酒井忠清
  • 1957 若さま侍捕物帳 鮮血の人魚  東映 青山玄蕃
  • 1957 素浪人忠弥 
  • 1957 黄金の伏魔殿 (鳥居燿蔵
  • 1957 鶴八鶴次郎 東映
  • 1957 若獅子大名 東宝 (安藤帯刀)
  • 1958 サザエさんの婚約旅行  宝塚映画 磯野本家の伯父(若松)
  • 1958 眠狂四郎無頼控 魔剣地獄 (兵頭掃部)
  • 1958 忠臣蔵 暁の陣太鼓 東宝 不破数右衛門
  • 1959 ジャン有馬の襲撃  大映 本多上野介正純
  • 1959 かげろう絵図  大映
  • 1959 大学の28人衆
  • 1959 槍一筋日本晴れ 千坂兵部
  • 1959 夜の素顔
  • 1960 遊侠の剣客 つくば太鼓 第二東映 大牟田双学)
  • 1960 森の石松鬼より恐い 東映 (須走りの多蔵(劇場の守衛文吉爺さん))
  • 1960 あばれ駕篭 東映 (市川団十郎)
  • 1961 大江戸喧嘩まつり  第二東映京都
  • 1961 宮本武蔵  東映 池田輝政
  • 1961 鉄火大名 東映 徳川家康
  • 1961 家光と彦左と一心太助 東映 柳生但馬守宗矩)

著書

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共著

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  • 『隈取り 舞台のメークアップ』、森田拾史郎との共著、芳賀書店、1969年
  • 『芸のこころ 心の対話』、安藤鶴夫との対談、日本ソノ書房、1969年/ぺりかん社、1982年/三月書房、2011年
  • 『芸十夜』、武智鉄二との対談、駸々堂出版、1972年
  • 骨董夜話平凡社、1975年、著者の一人

伝記

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家族

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栄典

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脚注

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注釈

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  1. ^ ただし伊藤雄之助は、相手役が蓑助の時は「一興行25日のあいだ、ただの一回も舞台で私のセリフを受けてくれなかったのです。彼は観客に聞こえないような小声で、ただ「大根、大根」というだけなんです。私は棒立ちになって、無様な姿を舞台にさらすのみ」 「蓑助氏は、私につらくあたること自体(結局は本人の為になる『いわば愛の鞭だ』)と言った事を他人から耳にした、(中略)いくら「愛の鞭」だと言っても、鞭をあてられるほうだって理解は出来る。それが愛情によるものか、憎しみによるものか、またホンの慰みのつもりなのか。わからないはずはないのです。おそらく、俊才の名が高い同氏にしてみれば、同じ歌舞伎一門の中から私のような鈍才が生まれたのが、目障りでもあり、腹立たしくもあったのではないでしょうか。」と述べている[5]

出典

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  1. ^ 坂東三津五郎(8代目) コトバンク
  2. ^ 坂東蓑助が移動演劇団呼びかけ『中外商業新聞』(昭和13年8月9日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p338 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  3. ^ 『朝日新聞』1966年4月7日(東京本社発行)朝刊、14頁。
  4. ^ a b 心にうつりゆくよしなし日記「昭和37年 八代目坂東三津五郎襲名披露」2012年6月3日閲覧。
  5. ^ 伊藤雄之助著『大根役者・初代文句いうの助』P.38-40
  6. ^ 食通、食に死す 舌の確かな人が『中国新聞』昭和50年1月17日朝刊、15面
  7. ^ 週刊『人間国宝』、朝日新聞社[要ページ番号]

外部リンク

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坂東 三津五郎(8代目)』 - コトバンク