吉田源十郎
吉田 源十郎 (よしだ げんじゅうろう) | |
---|---|
生誕 |
1896年3月20日[2] 高知県安芸町[3] |
死没 |
1958年4月4日(62歳没)[1] 東京都世田谷区[1] |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京美術学校[2] |
著名な実績 | 漆芸 |
代表作 | 「梅蒔絵飾棚」(1943年日本芸術院賞)[1] |
受賞 | #制作物参照 |
選出 | 日展参事[1] |
活動期間 | 昭和時代[2] |
影響を受けた 芸術家 | 石井吉次郎[2] |
吉田 源十郎(よしだ げんじゅうろう、1896年3月20日 - 1958年4月4日[2])は、高知県出身の日本の漆芸家[2]。
来歴
[編集]1896年(明治29年)3月20日、高知県安芸町(現安芸市)に生まれる[1][3]。石井吉次郎(別名、石井士口)に師事し漆芸を学んだ[1]。1919年(大正8年)東京美術学校(現東京芸術大学)漆工科選科修了[1]。
1921年(大正10年)東京の上野で開催された平和博覧会に作品を出品、これが注目を集めた[3]。
以後、1928年(昭和3年)、第9回帝展(現日展)で「麦の棚」が初入選[1]、1930年(昭和5年)第11回展「泉の衝立」および1933年(昭和8年)第14回展「トマトの図棚」が特選受賞[1]、1937年(昭和12年)第1回文展(現日展)および1942年(昭和17年)第5回、1943年(昭和18年)第6回で文展審査員を務め[1]、昭和17年度第6回文展出品作品である「梅蒔絵飾棚」は第2回帝国芸術院賞(現日本芸術院賞)を受賞している[1][4]。
この間、1937年(昭和12年)には造幣局嘱託も務めていた[1]。
戦後は1946年(昭和21年)に日本漆工会、日本漆文化協会、国産漆奨励会の三団体統合団体となった日本漆工芸会を主宰[3][5]、自ら会長を務め漆工芸発展に尽力した[1]。1948年(昭和23年)より金沢美術工芸短期大学(現金沢美術工芸大学)教授に就任[2]、また日展の第7回、第12回審査員および参事も務めた[1][3]。
1955年(昭和30年)第11回日展出品作「花の棚」はソビエト連邦国立美術館(現国立ロシア美術館)所蔵となっている[3]。
1958年4月4日、胃潰瘍により東京都世田谷区の自宅で死去、享年62[1]。
制作物
[編集]- 「柘榴之図乾漆硯箱」 - 1925年、東京国立近代美術館蔵[6]。
- 「麦の棚」 - 1928年、第9回帝展入選[1]。
- 「海」 - 1929年、第10回帝展出品作[7]。
- 「梟之圖漆皮彫衝立」 - 1930年、第11回帝展特選[7]。
- 「皮蒔繪二曲屏」 - 1931年、第12回帝展出品作[7]。
- 「トマトの図棚」 - 1933年、第14回帝展特選[1]。
- 「南天棚」 - 1936年、東京国立近代美術館蔵[8]。
- 「梅蒔絵飾棚」 - 1942年、第6回文展出品作、第2回日本芸術院賞[1]。
- 「小瑠璃図手箱」 - 1953年[9]。
- 「花の棚」 - 1955年、第11回日展出品作、国立ロシア美術館蔵[3]。
- 「漆南天棚」[3]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「吉田源十郎」(2015年12月14日)、2018年5月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g デジタル版 日本人名大辞典+Plus. "吉田源十郎 よしだ げんじゅうろう". コトバンク. 2018年5月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 20世紀日本人名事典 (2004年). "吉田 源十郎 ヨシダ ゲンジュウロウ". コトバンク. 2018年5月9日閲覧。
- ^ "歴代授賞者一覧". 日本芸術院. 2018年5月9日閲覧。
- ^ “日本漆協会を主体に漆三団体愈々合流”. 産業経済新聞 (神戸大学附属図書館). (1944年1月28日) 2018年5月9日閲覧。
- ^ "柘榴之図乾漆硯箱". 東京国立近代美術館. 2018年5月9日閲覧。
- ^ a b c 南有里子「官展の美術工芸部門における漆芸平面作品について : 昭和戦前期の山崎覚太郎の活動を中心に」『デザイン理論』第70号、意匠学会、2017年、79-93頁、ISSN 0910-1578、NAID 120006348604、2018年5月9日閲覧。
- ^ "南天棚". 東京国立近代美術館. 2018年5月9日閲覧。
- ^ "藝大コレクション展" (PDF). 東京芸術大学. 2013年. p. 3. 2018年5月9日閲覧。