鶴澤寛治
鶴澤 寛治(つるざわ かんじ)は、文楽義太夫節三味線方の名跡。
初代
[編集](生没年不詳)
初代鶴澤友次郎の門下で亀次郎。1750年に大坂豊竹座初出座。宝暦10年(1760年)に寛治を名乗る。花蝶軒・観西翁と称した。
通称を「土橋寛治」。
2代目
[編集](生没年不詳)
初代寛治の門下で儀七が寛政8年(1796年)に2代目寛治を襲名。
3代目
[編集]2代目寛治の門下で初代鶴澤文吾、初代鶴澤八兵衛を経て文化13年(1817年)に3代目寛治を襲名。
4代目
[編集](生没年不詳)
摂州難波村(現在の大阪市)の生まれ、3代目寛治の門下で富造、2代目文吾を経て文政9年(1826年)に4代目寛治を襲名。明治元年に弟子に寛治を譲り寛翁と称した。
「関取千両幟」の櫓太鼓の曲弾きを始めたといわれている。寛永時代の大立者。
通称を「鬼寛治」。
5代目
[編集](嘉永2年(1849年) - 明治17年(1884年)2月5日)本名は大盛寛治郎。
堺の生まれ、鶴澤寛三郎の養子、幼少から三弦に親しみ5代目鶴澤傳吉の門下で初代鶴澤寛治郎、その後傳吉の没後は初代鶴澤清六の門下で明治7年(1874年)頃に5代目寛治を襲名。明治8年(1875年)正月から大阪松島の文楽座で竹本重太夫の相三味線を務める。病が多く、明治14年(1881年)の文楽座が病気で最後の舞台。
6代目
[編集](明治20年(1887年)10月17日 - 昭和49年(1974年)8月20日)本名は白井治三郎。
京都市内の生まれ、明治29年(1896年)に9代目竹澤彌七(当時・鶴澤團六)の門下で初代竹澤團治郎、明治33年(1900年)に2代目鶴澤寛治郎の門下に移り、6代目團六、1937年3月に3代目寛治郎を経て、昭和31年(1956年)1月に道頓堀文楽座「絵本太功記」の尼ケ崎の段で6代目寛治を襲名。
戦後数少ない明治時代の古きよき文楽、浄瑠璃の知る人物として重きをなし3代目竹本津太夫、4代目竹本津太夫の相三味線を務めた。
昭和37年(1962年)に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。昭和44年(1968年)に大阪芸術賞。昭和46年(1971年)に毎日芸術賞。昭和47年(1972年)に日本芸術院賞[1]、名古屋演劇ペンクラブ年間賞。昭和59年(1984年)に上方芸能人顕彰。実子に7代目寛治、女婿が4代目竹本津太夫。
7代目
[編集](昭和3年(1928年)9月27日 - 2018年9月5日[2])本名は白井康夫。京都市出身[3]。
6代目の実子。昭和17年(1942年)に父の門下で寛子。同年初舞台。昭和18年(1943年)に寛弘、昭和30年(1956年)に8代目竹澤團六を襲名。平成13年(2001年)に7代目寛治を襲名。平成11年(1999年)、勲四等旭日小綬章[4]。
平成9年(1997年)に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定[3]。
脚注
[編集]- ^ 『朝日新聞』1972年4月12日(東京本社発行)朝刊、23頁。
- ^ [人間国宝・鶴澤寛治さん死去 89歳 文楽三味線 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180905-00000087-spnannex-ent]
- ^ a b c “鶴澤寛治さん死去=文楽三味線の人間国宝、89歳”. 時事通信. (2018年9月5日) 2018年9月7日閲覧。
- ^ 「受章99年秋の叙勲 県内から67人=奈良」『読売新聞』1999年11月3日