楠部彌弌
楠部 彌弌(くすべ やいち、1897年(明治30年)9月10日[1] - 1984年(昭和59年)12月18日[1])は、日本の陶芸家。京都市東山区生まれ[1]。本名は彌一[1]。釉薬を磁土に混ぜて何度も塗り重ね、独特の深い色あいを生む「彩埏」の技法で知られる[1]。
略歴
[編集]1897年(明治30年)楠部貿易陶器工場を経営する楠部千之助の四男として生まれる[1]。1912年(明治45年)京都市立陶磁器試験場付属伝習所に入所し、1915年(大正4年)に卒業する[1]。1918年(大正7年)八木一艸、河村己多良らと赤土社を結成する[1]。同社は1923年(大正12年)に自然消滅するが、翌年彌弌は「百仏飾壷」をパリ万国博覧会に出品し、受賞[1]。1927年(昭和2年)八木一艸らと「耀々会」を結成する一方、帝展初入選を果たす[1]。1933年(昭和8年)帝展に出品した「青華甜瓜文菱口花瓶」が特選を受賞[2]し、彌一を彌弌と改名する[1]。1937年(昭和12年)パリ万博で受賞[1]。
戦後の1948年(昭和23年)京都工芸作家団体連合展を組織し、日展をボイコットしたことがあったが、1951年(昭和26年)芸術選奨文部大臣賞を受賞した[1]。1953年(昭和28年)青陶会を結成して指導にあたるとともに、伊東陶山らと搏埴会を結成する[1]。1954年(昭和29年)日本芸術院賞を受賞[1][3]。1962年(昭和37年)日本芸術院会員となる[1]。
1969年(昭和44年)京都市文化功労者[1]、1972年(昭和47年)毎日芸術賞[1]・文化功労者[1]、1975年(昭和50年)京都市名誉市民[1]、1978年(昭和53年)文化勲章受章[1]。1982年(昭和57年)、日本新工芸家連盟会長に就任[要出典]。
1984年(昭和59年)12月18日、慢性腎不全のため京都で死去[1]。従三位に叙せられる。
脚注
[編集]関連項目
[編集]日本芸術院賞受賞者 | |||||||||||||||||
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太字は恩賜賞受賞者。名跡は受賞時のもの。表記揺れによる混乱を避けるため漢字は便宜上すべて新字体に統一した。 |