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上村淳之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
うえむら あつし

上村 淳之
文化功労者顕彰に際して公表された肖像写真
生誕 上村 淳(うえむら あつし)[1]
(1933-04-12) 1933年4月12日
日本の旗 日本 京都府京都市
死没 (2024-11-01) 2024年11月1日(91歳没)[1]
日本の旗 日本 奈良県奈良市
国籍 日本の旗 日本
著名な実績 日本画
受賞 日本芸術院賞
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上村 淳之(うえむら あつし、1933年昭和8年〉4月12日 - 2024年令和6年〉11月1日)は、日本画家。特に花鳥画を能くした[1]。本名は上村 淳(うえむら あつし)[1]。位階は従三位。画業で日本芸術院会員に選ばれ、文化勲章を受章したほか、大学で美術教育にも努め[1]京都市立芸術大学教授(のちに名誉教授)、京都市立美術大学教授・副学長を務めた。愛鳥家であり、作画の参考を兼ねて自宅で数百種類の鳥を飼っていた[1]日本鳥類保護連盟奈良研究所所長。

美人画の巨匠である上村松園(しょうえん)を祖母に、花鳥画の名手上村松篁(しょうこう)を父とする画家の家系で京都市に生まれ、自らは晩年にかけて奈良市に暮らした[1]

生涯

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京都市に生まれ、京都小学校特別科学学級での同級に伊丹十三がいた[2]。1994年(平成6年)に松園、松篁、淳之三代の作品を展示する松伯美術館が奈良市に開館すると館長に就任した[1]。祖母・父に続いて三代ともに文化勲章受章者となった[3]が、画家になることを当初は両親に反対され、「蛙の子は蛙や!」と反発し、美大の試験を「勝手に受けた」という[1]。息子が画家をめざすことに松篁が難色を示したのは、様式を家業のように受け継ぐそれまでの日本画壇のあり方に疑問を抱いていたためである[1]

淳之は、祖母である松園の細密な美人画を見て育ったものの、洋画家小磯良平の描く女性に憧れていた[1]。また父の名声は重くのしかかり、自らの画風を探り、外国の美術館や遺跡を見て回ったこともある[1]。そんな時に、朝のなか佇む鳥を見て、画室に戻り描いた『晨』(しん、1978年[4])をきっかけとして、花鳥画の道へと進むことになった[1]

略歴

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著作、作品集

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テレビ

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 「上村淳之さん死去 91歳 花鳥画の第一人者」『読売新聞』朝刊2024年11月4日(社会面)
  2. ^ 【伊丹十三特集】天才学級のきざなやつ? 「13の顔」を持っていた、伊丹十三さんのこと。”. ほぼ日刊イトイ新聞 (2009年6月12日). 2024年11月17日閲覧。
  3. ^ a b 正木利和 (2022年10月25日). “親子3代で文化勲章の上村淳之さん「父は父、松園さんは松園さん」”. 産経新聞ニュース. 2022年10月25日閲覧。
  4. ^ 国立国際美術館:作品詳細「」(2024年11月17日閲覧)
  5. ^ 京都市文化功労者”. 京都市. 2022年8月19日閲覧。
  6. ^ “高倉健氏ら5人に文化勲章 文化功労者に15人”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2013年10月25日). オリジナルの2013年10月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131026123456/http://www.asahi.com/articles/TKY201310250020.html?ref=reca 2014年5月13日閲覧。 
  7. ^ 秋の叙勲4100人 旭日大綬章に仲井真元沖縄知事ら”. 日本経済新聞 (2020年11月3日). 2023年1月17日閲覧。
  8. ^ “上村淳之さんが死去 温かみある花鳥画で文化勲章、91歳”. 日本経済新聞. (2024年11月3日). https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF023IP0S4A101C2000000/ 2024年11月3日閲覧。 
  9. ^ 『官報』第1363号8頁 令和6年12月9日
  10. ^ "故白井文吾氏に正四位 故上村淳之氏は従三位". KYODO 47 NEWS. 共同通信社. 2024年11月29日. 2024年11月29日閲覧

外部リンク

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