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吉田善彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉田 善彦
(よしだ よしひこ)
生誕 吉田 誠二郎[1]
1912年10月21日
東京府荏原郡
死没 (2001-11-29) 2001年11月29日(89歳没)
東京都世田谷区
国籍 日本の旗 日本
著名な実績 日本画
代表作 「藤咲く高原」、「春雪妙義」、「飛鳥日月屏風」
流派 吉田様式
運動・動向 圜丘会(1941年)
火曜会(1954年)
受賞 文部大臣賞(1973年)
日本芸術院恩賜賞(1978年)
内閣総理大臣賞(1981年)
毎日芸術賞(1982年)
選出 日本美術院院友(1941年)
日本美術院同人(1964年)
日本美術院評議員(1978年)
日本美術院理事(1987年)
活動期間 1937年 - 1981年
影響を受けた
芸術家
速水御舟[1][2]
小林古径[1]
安田靫彦[1]
影響を与えた
芸術家
林功[2]

吉田 善彦(よしだ よしひこ、1912年大正元年)10月21日 - 2001年平成13年)11月29日)は、東京都出身の日本日本画家教育者[1]。本名誠二郎[1]

吉田様式

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生涯に渡って強い影響を受けた速水御舟の教えである古典から学ぶ姿勢と、1940年(昭和15年)より開始された法隆寺金堂壁画修復事業に模写担当者として先人の傑作に触れた経験をもとに、「一度彩色で描いた上に金箔でヴェールを被せ、その上にもう一度色を置き再度描き起こす」という独自技法を確立した[1][2]。この技法により、柔らかな光を持つ日本画を生み出した[2]

略歴

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老舗の呉服屋の次男として1912年大正元年)10月21日、東京府荏原郡大崎町(現東京都品川区)に生まれる[1]

小学校時代に南画家中田雲暉に絵画の手ほどきを受ける[1]。1929年(昭和4年)より速水御舟に師事[1][2][注釈 1]

1935年(昭和10年)腸チフスにより速水が急逝[3]。同年以後小林古径に師事する[1]

1937年(昭和12年)、幸三郎の助力によって完成した「もくれんの花」が第24回日本美術院展覧会(院展)に初入選[1]

1940年(昭和15年)2月、第49回院展出品作「富士月明」が文部省買上作品に決定[4]。同年より法隆寺金堂壁画模写事業に参加、橋本明治の助手として第9号大壁(弥勒浄土図)と第11号小壁(普賢菩薩像)を担当、模写作業のため奈良へ転居[1]

1941年(昭和16年)、速水御舟遺門の同志9名と圜丘会を結成[1]。同年日本美術院院友に推挙[1]

1942年(昭和17年)、法隆寺金堂壁画模写事業安田班として安田靫彦監修の元、6号壁を仕上げる[5]

1944年(昭和19年)応召義務により応召、太平洋戦争終結後となる1946年台湾より復員[1]。復員後は再度法隆寺金堂壁画模写事業に従事[注釈 2]

1954年(昭和29年)東京世田谷区に戻り、安田靫彦門下生による火曜会に参加[1]。1957年より1963年にかけて4作が院展奨励賞、1962年第47回院展出品作「滝」が日本美術院次賞を受賞、これらにより1964年(昭和39年)日本美術院同人に推挙[1]

1964年(昭和39年)より東京芸術大学講師、のち1968年(昭和43年)助教授、1969年(昭和44年)教授となり1980年(昭和55年)まで教職に就く[1]

1970年(昭和45年)には東京芸術大学第三次中世オリエント遺跡学術調査団の模写班に参加、トルコカッパドキアへ赴く[1]

1973年(昭和48年)、第58回院展「藤咲く高原」が文部大臣賞受賞[1]。同年、イタリアローマを始めとするイタリア国内壁画の研究を手掛ける[1]

1976年(昭和51年)6月10日より27日までの期間、宮川寅雄を団長、中川一政を名誉団長とする、美術家代表の訪中としては9年ぶりとなる中国文化交流使節日本美術家代表団に脇田和中根寛高山辰雄加山又造平山郁夫と共に参加、北京を始めとする中国各都市巡遊行を行った[7][8]

1978年(昭和53年)、第63回院展「春雪妙義」が日本芸術院賞恩賜賞受賞[1][9]。同年、日本美術院評議員就任[1]

1981年(昭和56年)、第66回院展「飛鳥日月屏風」が内閣総理大臣賞受賞[1]。同作は翌1982年(昭和57年)1月、第23回毎日芸術賞も受賞[10]

1982年(昭和57年)2月、朝日新聞社より『吉田善彦画集』出版[11]

1986年(昭和61年)、東京芸術大学名誉教授[1]。翌1987年(昭和62年)、日本美術院理事就任[1]

2001年平成13年)11月29日、肺炎により東京都世田谷区の病院で死去、享年89[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 速水は吉田のいとこであった吉田幸三郎の義弟という縁があった[1]
  2. ^ このとき修復された壁画は1949年の法隆寺金堂火災により焼失し現存しない[1][6]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 吉田善彦”. 東京文化財研究所 (2015年12月14日). 2016年8月4日閲覧。
  2. ^ a b c d e 吉田善彦・林功-受け継がれる日本画の美-メナード美術館、2011年4月。 NCID BB06043481http://museum.menard.co.jp/exhibition/ex_past/ex1103/ 
  3. ^ 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「速水御舟」(2016年8月4日)、
  4. ^ 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「文部省の買上作品決定」(2015年11月20日)、2016年8月4日閲覧。
  5. ^ 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「安田靫彦」(2015年12月14日)、2016年8月4日閲覧。
  6. ^ 文化財防火デーの契機となった法隆寺金堂火災”. 東京消防庁. 2016年8月4日閲覧。
  7. ^ 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「中川一政」(2015年12月14日)、2016年8月4日閲覧。
  8. ^ 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「美術家代表団の中国訪問」(2015年11月20日)、2016年8月4日閲覧。
  9. ^ 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「日本芸術院賞決定」(2015年11月20日)、2016年8月4日閲覧。
  10. ^ 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「毎日芸術賞決定」(2015年11月20日)、2016年8月4日閲覧。
  11. ^ 『吉田善彦画集』朝日新聞社、1982年2月。ASIN B000J7QJO0 

外部リンク

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