鈴木翠軒
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鈴木 翠軒(すずき すいけん、1889年〈明治22年〉1月5日 - 1976年〈昭和51年〉9月26日)は、愛知県生まれの書家、文化功労者。旧姓は長尾、本名は春視(はるみ)[1]、翠軒は号[1]。
経歴・業績
[編集]愛知県渥美郡堀切村(現在の田原市堀切町)に生まれる[1]。1903年愛知県立第四中学校(現在の愛知県立時習館高校)を卒業後[1]、1910年愛知県立第一師範学校へ進学[1]。翌年卒業して地元の小学校の訓導となる[1]。1916年文部省習字科検定試験に合格すると、1919年に上京して丹羽海鶴に師事した[1]。この時、比田井天来にも教えを乞う[1]。1932年、『国定甲種小学書方手本』の揮毫者となり[1]、1938年に完成させる。この国定教科書の書風は、その明快な用筆と結体により絶賛され「翠軒流」として世の中に広まった[1]。戦後は、1948年に日展第1回審査員[1]、1950年日本書作院会長[1]などの要職を歴任する一方で、1957年「禅牀夢美人」で日本芸術院賞を受賞[1]。1960年には日本芸術院会員となる[1]。この頃から仮名作品の発表も増え、1966年の「万葉千首」は、不朽の名作とされる[1]。1968年文化功労者[1]、1974年勲二等瑞宝章受章[1]。1976年、心不全のため東京都済生会中央病院で死去。87歳[2]。
弟子としては、中川雨亭(国際アカデミー賞受賞、室戸市名誉市民)が有名である。
略年譜
[編集]- 1916年(大正 5年) - 文部省習字科検定試験合格[1]
- 1932年(昭和 7年) - 国定甲種小学書方手本揮毫[1]
- 1957年(昭和32年) - 日本芸術院賞受賞[1][注釈 1]
- 1958年(昭和33年) - 日展評議員
- 1960年(昭和35年) - 日本芸術院会員[1]
- 1961年(昭和36年) - 日展常務理事
- 1966年(昭和41年) - 勲三等旭日中綬章受章
- 1968年(昭和43年) - 第20回文化功労者[1]
- 1974年(昭和49年) - 勲二等瑞宝章受章[1]
著作
[編集]- 『翠軒先生書談』 赤城出版社、1936年
- 『剪燭帖』 新興日本書道会、1940年
- 『剪燭庵流萍集』 晩翠軒出版部、1942年
- 『人麿三十一歌』 日華書房、1943年
- 『新説和漢書道史』、1945年(伊東参州共著)
- 『書人翠軒』 二玄社、1961年
- 『翠軒楷書帖』 五禾書房、1962年
- 『翠軒近作集』 二玄社、1965年
- 『白妙』 岡村多聞堂、1966年
- 『鈴木翠軒の書』 教育書籍、1983年
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 日本芸術院賞受賞の際、昭和天皇から、「これはどういう書風ですか」との問いかけに、翠軒は、「嵯峨天皇李嶠詩を8年、空海を40年、羲之を40年、良寛を25年習い、これらのものが入り混じっています」と答えたという有名なエピソードがある。[要出典]
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w “田原市博物館|第31回 国民文化祭・あいち2016 秋の企画展 万葉千首完成50年 鈴木翠軒の書 ~万葉の世界~”. www.taharamuseum.gr.jp. 2022年8月20日閲覧。
- ^ 訃報欄『朝日新聞』1976年(昭和51年)9月27日、13版、23面
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 『新説和漢書道史』 - 日本習字普及協会発行 - 鈴木翠軒・伊東参州共著 - 1996年11月(復刊) - ISBN 978-4-8195-0145-3
- 書道専門誌 『墨』 - 芸術新聞社発行 - 1981年10月臨時増刊 近代日本の書