コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

半田良平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

半田 良平(はんだ りょうへい、1887年明治20年)9月10日 - 1945年昭和20年)5月19日[1])は、日本歌人

来歴・人物

[編集]

栃木県上都賀郡北犬飼村深津[1]鹿沼市深津)出身[2]。北犬飼東尋常小学校(現・鹿沼市立津田小学校)、姿川尋常高等小学校(現・宇都宮市立姿川中央小学校)卒[1]宇都宮中学在学中に下級生の千葉省三と親交を結ぶ。短歌欄の投稿を通じて松村英一植松寿樹らと知り合い、窪田空穂を中心に結成された十月会に参加。旧制第二高等学校を経て東京帝国大学英文科を卒業[1]。同大学院に進学するも、現役補充兵として召集されたため、退学[1]。その後、空穂主宰の短歌結社である「国民文学」の中心的人物となり、中学の英語教師のかたわら短歌評論などを多く書いた。松尾芭蕉小林一茶といった江戸俳諧や、香川景樹など近世歌人を主な研究対象とした[3]アーサー・シモンズ翻訳も行った。私生活では、1914年に芳賀郡長沼村(現・真岡市)の石崎美好と結婚し、3男2女をもうけた[1]。3人の息子は全員が病死や戦死のため、良平より先に亡くなっている[1]

1943年肋膜炎を患い、以後入退院を繰り返し、療養中の1945年3月にかかった風邪が致命傷となり、5月19日に死去、満58歳没[1]。墓所は生家から西へおよそ300メートルのところにあり、妻と3人の息子と一緒に眠る[1]。没後刊行された『幸木』で1949年に日本芸術院賞を受賞したが、栃木県出身の人物がこの賞を受賞するのはこれが初である[1][2]。半田は、「鹿沼が誇る偉大な歌人」と称される。2017年、半田の生誕130周年を記念し、「半田良平生誕130年記念事業実行委員会」が設立された。2021年10月4日、北犬飼コミュニティセンター(鹿沼市上石川1465-4)に「半田良平コーナー」が設置された[2]

歌碑

[編集]

栃木県には半田良平の歌碑が7基(うち1基は墓碑)あり、うち5基が鹿沼市にある[1]。鹿沼市内の碑はすべて良平没後に建てられたもので、生前に建てられたのは宇都宮市にある1基のみである[1]。残る1基は那須塩原市にあるが、いつ誰が建立したのか不明である[1]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 半田良平 年譜”. 半田良平生誕130年記念事業. 鹿沼市教育委員会事務局文化課 (2018年3月). 2021年11月23日閲覧。
  2. ^ a b c 半田良平コーナーを開設しました”. 鹿沼市教育委員会事務局文化課 (2021年10月1日). 2021年11月23日閲覧。
  3. ^ 日本国語大辞典, 美術人名辞典,デジタル大辞泉,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版. “半田良平とは”. コトバンク. 2020年11月24日閲覧。