池田遙邨
池田 遙邨(いけだ ようそん、1895年(明治28年)11月1日 - 1988年(昭和63年)9月26日)は、倉敷市出身の日本画家。本名は池田 昇一。長男は同じく画家の池田道夫。
経歴
[編集]岡山県浅口郡乙島村(現・倉敷市玉島乙島)に生まれる。紡績会社の技師であった父親の転勤に伴い大阪市に転居。幼少より画才があり、1910年(明治43年)大阪の松原三五郎が主宰する天彩画塾に入門し洋画を学ぶ[1]。1914年(大正3年)第8回文展に水彩画「みなとの曇り日」が入選する。わずか18歳での入選が話題となり天才少年画家として名声を得る。
1919年(大正8年)京都市に移り竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入門し日本画に転向する。同年に第1回帝展に「南郷の八月」が入選。この頃はエドヴァルド・ムンクに傾倒し1923年(大正12年)関東大震災の惨状を描いた洋画風の「災禍の跡」を帝展に出展するが落選。一旦は倉敷に帰郷し、しばらく寺に隠って画作の研究を行う。1926年(大正15年)京都市立絵画専門学校研究科(現・京都市立芸術大学)を卒業。1928年(昭和3年)第9回帝展にて「雪の大阪」が、1930年(昭和5年
第11回帝展で「烏城」が、それぞれ特選となる。
1936年(昭和11年)より1949年(昭和24年)まで京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)助教授をつとめる。1953年(昭和28年)に画塾・青塔社を主宰する。1960年(昭和35年)「波」で日本芸術院賞を受賞。1976年(昭和51年)日本芸術院会員に選任される。
1984年(昭和59年)文化功労者として表彰される。1986年(昭和61年)倉敷市名誉市民となる[2]。1987年(昭和62年)文化勲章を受章する。翌1988年(昭和63年)急性心不全のため京都市にて死去、享年92。
若年より歌川広重に傾倒した。法被姿で広重の足跡を辿り、東海道五十三次を3度も旅した。生涯、自然と旅を愛し全国を旅して回った。晩年は種田山頭火に傾倒し、山頭火の俳句をモチーフに画作を行い、山頭火の姿で旅をした。
脚注
[編集]- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 87頁。
- ^ “秘書課(倉敷市名誉市民)”. 倉敷市. 2022年7月22日閲覧。
関連項目
[編集]- 倉敷市立美術館 - 池田が自作を寄贈しコレクションの基礎となっている
- 岡山県出身の人物一覧
- 日本の画家一覧
外部リンク
[編集]- 池田遙邨 - 京都市立芸術大学芸術資料館
日本芸術院賞受賞者 | |||||||||||||||||
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太字は恩賜賞受賞者。名跡は受賞時のもの。表記揺れによる混乱を避けるため漢字は便宜上すべて新字体に統一した。 |
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