芦原義信
芦原義信 | |
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生誕 |
1918年(大正7年)7月7日 日本 東京府 |
死没 |
2003年9月24日(85歳没) 東京都新宿区 |
国籍 | 日本 |
出身校 |
東京帝国大学(学士) ハーバード大学(修士) |
職業 | 建築家 |
受賞 |
日本建築学会賞作品賞(1960年) 日本芸術院賞(1984年) 文化勲章(1998年) |
所属 | 芦原義信建築設計研究所 |
建築物 |
オリンピック駒沢体育館・管制塔 ソニービル 富士フイルム旧東京本社ビル 国立歴史民俗博物館 東京芸術劇場 |
著作 | 『街並みの美学』 |
芦原 義信(あしはら よしのぶ、1918年7月7日 - 2003年9月24日)は、日本の建築家。ソニービル、東京芸術劇場などの作品で知られる。『街並みの美学』で、いち早く都市景観の重要性を述べた。
略歴
[編集]東京府(現・東京都)生まれ。府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)、旧制成城高校を経て、1942年(昭和17年)東京帝国大学工学部建築学科卒業、技術士官として海軍に入る。
1945年(昭和20年)、坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所。1953年(昭和28年)、ハーバード大学大学院で修士号(M.Arch.)取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所。
1956年(昭和31年)、芦原建築設計研究所を開設。1959年(昭和34年)、法政大学教授。1961年(昭和36年)、工学博士(東京大学)。学位論文の題は「建築の外部空間に関する研究 」[1]。1965年(昭和40年)、武蔵野美術大学教授。武蔵野美大では建築学科の創設に関わった。1970年(昭和45年)、東京大学工学部教授。1979年(昭和54年)、アメリカ建築家協会名誉会員。同年、東大を定年退官。1985年(昭和60年)、日本建築学会会長。1987年(昭和62年)、王立オーストリア建築家協会名誉会員。2003年(平成15年)、東京大学名誉教授。
他に武蔵野美術大学名誉教授。日本芸術院会員。日本建築美術協会会長。
作品
[編集]- 中央公論社本社(東京都中央区京橋、1956年[2])
- 2000年取壊し
- 日光ユースホステル(栃木県日光市、1959年)
- ロビーや設備スペースを核とする左右に宿泊棟を配置した雁行型となっている[3]。周辺敷地に比較的制限のない場所での設計のため芦原独特の平面プランニングとなっている。この当時はまだ珍しかった打ち放しコンクリートと石積みのフォルムは、ニューヨークで師事していたマルセル・ブロイヤーのバウハウス的影響が色濃く残る。また可動式のルーバーなど機械的要素を取り入れた。1999年の廃業後も建物は残されており、売却の上で保存や利活用を求める意見が所有者の日光市に寄せられている[4]。
- 八代市厚生会館(1962年)[5]
- 香川県立図書館(香川県高松市、現・香川国際交流会館、1963年)
- 中央部に書庫を設置しその周囲に閲覧室や事務室を配置する構造だった[6]。図書館の移転により用途を変更。
- 駒沢オリンピック公園総合運動場体育館 ・管制塔(東京都世田谷区、1964年)2004年日本建築家協会25年賞(一般建築部門大賞)[7]
- 武蔵野美術大学(東京都小平市、1964年-)
- アトリエ棟など一連の校舎[8]
- 秀和青山レジデンス - (東京都渋谷区、1964年)
- 日本郵船青山社員倶楽部(東京都港区、1967年)[9]
- ソニービル(東京都中央区銀座、1966年)
- 敷地一杯に建設せず、交差点の角に空地を設け、イベントスペースとして活用している。スキップフロアの構成は、フランク・ロイド・ライトのグッゲンハイム美術館にヒントを得たもの。2017年に新ビルに建て替えのため解体。
- モントリオール万国博覧会・日本館(1967年)
- 日本万国博覧会・イタリア館、オーストラリア館[要出典]、ニュージーランド館(1969年)
- 富士フイルム旧東京本社ビル(東京都港区、1969年)
- 国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市、1980年)
- みずほ銀行内幸町本部ビル(東京都千代田区内幸町、1981年)
- 竣工時は第一勧業銀行本店
- 金沢市文化ホール(石川県金沢市、1982年)
- 東京芸術劇場(東京都豊島区西池袋、1990年)
- 更埴文化会館(長野県千曲市、1990年)
- 岡山シンフォニーホール(岡山県岡山市、1991年)
受賞・栄典
[編集]- 1960年 日本建築学会賞
- 1968年 芸術選奨文部大臣賞
- 1970年 イタリア共和国功労勲章コンメンダトーレ章
- 1979年 毎日出版文化賞
- 1984年 日本芸術院賞[10]
- 1985年 フィンランド獅子勲章コマンダー章
- 1989年 勲二等瑞宝章[11]
- 1990年 日本建築学会賞大賞
- 1991年 文化功労者
- 1998年 文化勲章
著作
[編集]- 外部空間の構成 建築から都市へ(彰国社、1962年)
- 外部空間の設計(彰国社、1975年)
- 建築空間の魅力 私の体験(彰国社、1979年)
- 街並みの美学(岩波書店、1979年)
- 続 街並みの美学(岩波書店、1983年)
- 正・続:同時代ライブラリー、1990年/岩波現代文庫、2001年
- 屋根裏のミニ書斎(丸善、1984年)
- 隠れた秩序(中央公論社、1986年/中公文庫、1989年)
- 東京の美学 混沌と秩序(岩波新書、1994年)
- 秩序への模索 これからの都市・建築へ向って(丸善、1995年)
- 建築家の履歴書(岩波書店、1998年)
家族・親族
[編集]舞踊家の芦原英了は四兄。母方の叔父が画家の藤田嗣治。同じく母方の叔父で嗣治の兄・嗣雄は陸軍軍人・児玉源太郎の四女と結婚している。劇作家の小山内薫は母の従弟、小説家の岡田八千代は母の従妹。長男の芦原太郎、甥の芦原信孝も同じく建築家。
なお小山内薫の係累からは岡田三郎助や立松和平、山中聡や山中崇史らと、児玉源太郎の係累からは木戸幸一や都留重人、広沢真臣や池田勇人らと縁続きになり、さらには鳩山一郎・宮澤喜一・小川平吉・杉本甫・岩崎弥太郎・鎮西清高・松山棟庵らも芦原と縁戚関係になる。
脚注
[編集]- ^ 博士論文書誌データベース
- ^ “ソニービル、中央公論ビルディングなど戦後モダニズム建築を紹介、『芦原義信建築アーカイブ展―モダニズムにかけた夢』”. SPICE. (2017年3月29日) 2021年1月21日閲覧。
- ^ 日光ユースホステル - 芦原建築設計研究所
- ^ “個別資産利活用方針 旧日光ユースホステル” (PDF). 日光市平成29年度利活用対象財産(個別資産利活用方針) (2017年). 2021年1月21日閲覧。
- ^ “市厚生会館の廃止条例を可決 八代市議会”. 熊本日日新聞 (2023年7月25日). 2023年7月25日閲覧。
- ^ 『LIXIL eye No.22 (PDF) 』LIXIL、2020年6月、p.21
- ^ http://www.jia.or.jp/member/award/25years/2004/main.htm
- ^ vol18-s.pdf 日月会
- ^ 新建築1965年12月、P151[1]
- ^ 『朝日新聞』1984年4月5日(東京本社発行)朝刊、22頁。
- ^ 「秋の叙勲 受章者4492人 隠れた功労積み重ねた人にも光」『読売新聞』1989年11月3日朝刊