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文化勲章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文化勲章
文化勲章の正章(右)と略綬(左)
日本の勲章
淡紫
創設者 昭和天皇
対象 文化ノ発達ニ関シ勲績卓絶ナル者
状態 存続
歴史・統計
創設 1937年昭和12年)2月11日
期間 1937年 - 現在
最初の授与 1937年4月28日
序列
上位 桐花章
同位 旭日大綬章瑞宝大綬章・宝冠大綬章
文化勲章の綬
文化勲章を佩用した初代中村吉右衛門1951年昭和26年)受章)
平成25年度文化勲章親授式にて安倍晋三首相と記念撮影をする受賞者。左から医学者の本庶佑、万葉学者の中西進、書家の高木聖鶴、安倍首相、工学者の岩崎俊一、俳優の高倉健

文化勲章(ぶんかくんしょう)は、日本の勲章の一つ。

概要

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科学技術芸術などの文化の発展や向上にめざましい功績を挙げた者に授与される、階級の無い単一級の勲章である[1]。 当時の内閣総理大臣廣田弘毅の発案により[2]1937年文化勲章令昭和12年2月11日勅令第9号)により制定された[3]

意匠

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文化勲章は他の勲章と異なり、制式と図様についても1937年の「文化勲章令」(昭和12年2月11日勅令第9号)により定められている。賞勲局よび造幣局の嘱託であった東京高等工芸学校教授畑正吉デザインした[4]。なお、意匠橘花を基調とするが、これには昭和天皇の意向が反映されている(後述)。

文化勲章は、章、鈕、環、綬の各部から構成されている。

表面はの五弁の花の中心に三つ巴曲玉を配し、裏面は青地に「勲功旌章」と刻む[5]
鈕は橘の葉と実を、それぞれ緑色と淡緑色で表す。
環は金色で小形の楕円とする。
綬の色は淡紫色で、幅は3.7センチメートルに定められている。
略綬
淡紫色で直径1センチメートルのロゼット[5]、同色の翼を付すこととされている。
蓋表に鈕の図と「文化勲章」の字を記す[5]

意匠制定と昭和天皇

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東京朝日新聞記者で長く宮内省記者会に所属した井原頼明は自著『皇室事典』(冨山房、勲章制定の翌1938年(昭和13年)に初版[注 1])で、昭和天皇の意向で意匠桜花から橘花に変更されたことを伝聞として、なぜ橘花なのかを自説として紹介している。

なほ文化勲章の圖案はもと櫻花に配するに曲玉の意匠であつたが、「櫻は昔から武を表はす意味によく用ゐられてゐるから、文の方面の勲績を賞旌するには橘を用ゐたらどうか」との意味の畏き思召を拜し、恐懼した當局では更に案を練って工夫を凝らし、橘花に曲玉を配した意義深い圖案が制定されたと承る。
橘は古來我が國では尊重され愛好せられ、桓武天皇平安京に遷都遊ばされてからは紫宸殿の南庭に用ゐられて右近橘と稱せられ、左近櫻と共に併稱せられて今日に及び、萬葉集にも數多く詠ぜられてゐるところである。垂仁天皇常世國に橘を求められたことよりして、橘は永劫悠久の意味を有してゐるものであり、その悠久性永遠性は文化の永久性を表現するのに最も適するものとの聖慮と拜察される。 — 井原頼明『皇室事典 増補版』冨山房、1979年(昭和54年)。233頁

1976年昭和51年)8月23日那須御用邸における天皇と記者との懇談の際、天皇はこの件について質問を受けた。天皇は意匠制定に関与したことを否定せず、「橘の方は常緑樹でもあるし、『古事記』にも出てくるし、文化と言うのは、生命が長くなければならない、と感じたからです」とその意図を説明した[6]

授与

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2000年11月3日皇居にて第125代天皇(手前左)から文化勲章を授与される筑波大学名誉教授白川英樹(手前右)

親授式が毎年11月3日文化の日皇居宮殿松の間で行われ、天皇から直接授与(親授)される。

1997年(平成9年)から現行の天皇親授に切り替えられたが、それまでは宮中で天皇臨席のもとに内閣総理大臣が勲記と勲章を手交する伝達式の形式で行われていた。そのため、以前は同じく宮中伝達式により授与される旧勲二等と同位に位置づけられていたが、現在では同じく天皇親授により授与される大綬章(旧勲一等)と同位に位置づけられている[注 2]

受章者選考手続き

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文化庁文化審議会に置かれる文化功労者選考分科会の意見を聞いて文部科学大臣が推薦し、内閣府賞勲局で審査したうえ、閣議で決定する[7]。文化勲章受章候補者推薦要綱(平成2年12月12日内閣総理大臣決定、平成2年12月14日閣議報告)によると、文部科学大臣は、“文化の発達に関し勲績卓絶な者”を文化功労者のうちから選考し、毎年度おおむね5名を内閣総理大臣に推薦する。文化功労者以外の者でも必要と認められる場合には選ばれることがある(この場合、併せて文化功労者になる)。

慣例として、当年のノーベル賞受賞者が文化勲章未受章の場合にも授けられてきた。この慣例は、未受章者であった江崎玲於奈1973年(昭和48年)に物理学賞を受賞した際翌年受章することになったことに端を発し、それ以降のケースではノーベル賞と同年となった(これが“ノーベル賞受賞で政府が慌てて文化勲章を授ける”ように見える一因である。江崎以前のノーベル賞受賞者は全員が先に文化勲章を受章していた。1994年(平成6年)に文学賞を受賞した大江健三郎は辞退し[8]2019年受章の吉野彰化学賞受賞)[9] は文化功労者にも選ばれていなかった。

しかし2017年(平成29年)に文学賞を受賞したカズオ・イシグロは文化勲章が贈られず、この慣例は破られた[8]。幼年期に母国日本を離れており作品を英語で書いているイシグロが、日本文化への貢献が顕著かどうか解釈が分かれるため、慣例通り文化勲章が授与されるかは注目された[10]。なお、文部科学省はイシグロが文化勲章の選考から漏れた理由をコメントしていない[8]。2018年にイシグロは旭日重光章を受章した。

なお、平和賞は団体が受賞する可能性もあり、かつ「文化に直結しない」という解釈により文化勲章との連動は行われていない[8]1974年(昭和49年)に受賞した第61-63代内閣総理大臣佐藤栄作と、2024年令和6年)の受賞が決まった日本原水爆被害者団体協議会の例がある。

文化功労者との関係

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文化勲章には金品等の副賞は伴わない。これは日本国憲法第14条の規定(勲章への特権付与の禁止)によるものであるが、文化の発展向上への貢献者に報いたいとの意図により、文化勲章とは別制度として1951年(昭和26年)に文化功労者年金法が制定され、前年度までの文化勲章受章者のうち存命者を一律に「文化功労者」として顕彰するとともに、以後も文化勲章受章者は同時に文化功労者でもあるように運用することとした。これにより、文化勲章受章者は、文化功労者年金法に基づく終身年金(現在は年額350万円)が支給される。

制度上は別のものであるとの制度設計であっても、実際の運用上において文化勲章受章者と文化功労者とを完全に同一にすると憲法の規定に抵触するおそれがあるため、文化勲章受章者とは別に、文化勲章受章者以外にも文化功労者として顕彰する者を選定する運用が行われてきた。1979年(昭和54年)度以降は、文化勲章受章者は原則として前年度までに文化功労者として顕彰を受けた者の中から選考するように改められた。

辞退者

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  • 河井寛次郎(陶芸)- 1955年(昭和30年)
    名利を求めない信条を貫いて辞退。河井は自身の作品にも銘を入れないほどこの姿勢に徹底しており、人間国宝芸術院会員への推薦も同様に辞退している。
  • 熊谷守一(洋画)- 1968年(昭和43年)
    「これ以上人が来てくれては困る」と辞退。熊谷は孤高の画家として有名で、来客を一貫して避けていた。
  • 大江健三郎(小説)- 1994年(平成6年)
    ノーベル文学賞の受賞発表を受けて文化勲章の授与と文化功労者としての顕彰が決定したが、「民主主義に勝る権威と価値観を認めない」と文化勲章そのものを否定して受章を拒否した[11]。そして、ノーベル文学賞の授賞式には出席し、スウェーデン国王からノーベル文学賞を直接授与された[12]
    さらに、数々の著名人が叙勲を拒否したフランスレジオンドヌール勲章は拒否せず受章した[13]。レジオンドヌール勲章の叙勲式にも出席し、「最後の作品になろう長編を書き始めた時に、ちょうど200年前に創設された威厳ある章を受章できたのは幸運の予兆で励みになる」とスピーチした[14]
  • 杉村春子(舞台演劇)- 1995年(平成7年)
    「文化勲章は一番大きい勲章で、今後も出演を続けたいのに、もらえばおしまいになるような気がする」「戦争中に亡くなった俳優を差し置いてもらうことはできない」と辞退[15]

公になっている辞退者は以上の4名である。

追贈

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法令は対象者が死去した後に文化勲章を追贈することを禁じてはいない。ただし勲章はその佩用を前提にした栄典であるため、授与は生前の日付(つまり死去日)に遡って行われる。過去に以下の2例の追贈例がある。

  • 六代目尾上菊五郎(歌舞伎)- 1949年(昭和24年)7月10日死去。六代目は歌舞伎役者として初の受章となった。
  • 牧野富太郎(植物学)- 1957年(昭和32年)1月18日死去。牧野は第一回文化功労者のうち文化勲章を受章していない数少ない者のうちの一人だった。

その後半世紀以上にわたって文化勲章の追贈はその例が絶えている。しかし死去した者を叙勲の対象から外しているのかどうかについては公式の発表がなされてはいない。

なお、授与が内定していたにもかかわらず、本人が発表の前に急死したため、結果的に追贈という形になった例が2例ある。

  • 荻須高徳(洋画) - 1986年(昭和61年)10月14日死去。授与は10月初旬には内定していたが、荻須はパリ在住で、10月14日アトリエで制作中に倒れてそのまま死去したため、叙勲決定の連絡はつかなかった。
  • 牧阿佐美(舞踊) - 2021年(令和3年)10月20日死去。授与内定が死没前に行われ、本人に対して政府担当者より内定の伝達が行われたのは死没前日の10月19日であったという[16]

例外的な授与

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1969年(昭和44年)10月31日、3か月前に人類初の月面着陸を果たしたアポロ11号に搭乗した宇宙飛行士である、ニール・アームストロングマイケル・コリンズバズ・オルドリンの3名が、各国歴訪の一環で来日した。同日午後、総理官邸を表敬訪問したこの3名に対し、佐藤栄作総理は自ら文化勲章を手交した。

彼らにはすでにアメリカ合衆国の最高勲章である大統領自由勲章が授与されていた。また、歴訪した諸外国の中にもそれぞれの最高勲章や高位の勲章を授与した例が多く、日本国政府はその対応に苦慮した。日本の栄典制度では、政府高官や将官でもない彼ら[注 3]に対して勲一等勲二等を授与することは不可能であり、かといって日本の制度に基づいた等級の勲章を授与することは、他国の処遇と著しくバランスを欠くことになるためである。そこで窮余の一策として、単一等級の文化勲章を授与したのである。

彼らに対する授与は、佐藤が閣議で決め文部省は一切関与していない・文化功労者顕彰がされていない・宮中伝達式を行わなかった・外国人に対するものだったことなど、異例ずくめのものであった。しかも、受章者のうち2名(コリンズとオルドリン)が現役軍人であるということから、各方面から批判や疑問の声が沸き起こった。

なお、外国籍の者としてはその後、1978年に理論物理学者の南部陽一郎が、2008年には日本文学研究者のドナルド・キーンが、2014年には物理学者の中村修二が、2021年には物理学者の眞鍋淑郎が受章している。南部は1970年に、中村は2005年に、眞鍋は1975年にアメリカに帰化した日系アメリカ人一世。キーンは在日アメリカ人であったが、受章後の2012年に日本に帰化した。

脚注

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注釈

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  1. ^ 本書の題字と序文は、初版時の現職の宮内大臣と宮内次官が著している。井原頼明『皇室事典』(増補版)、冨山房、1979年(昭和54年)。ISBN 978-4-572-00038-5
  2. ^ 文化勲章は単一級であるため、その位置づけは分かりにくい。長らく「勲一等と勲二等の間」と見られてきた。しかし、現在では他の勲章の「大綬章」並み(かつての「勲一等」並み)と見るむきもある。なぜならば、「大綬章」以上は天皇から渡される「親授」であるところ、文化勲章は創設60年目の1997年(平成9年)以降、親授されているからである。(参照:栗原俊雄著『勲章 知られざる素顔』、岩波新書、2011年。)
  3. ^ アームストロングは既に除隊しており、アメリカ航空宇宙局(NASA)に所属していた。

出典

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  1. ^ 階級のない新勲章が制定される『東京朝日新聞』(昭和12年2月12日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p653 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  2. ^ 文化貢獻者顯彰を首相閣議で提議』.大阪朝日新聞1936年(昭和11年)11月18日
  3. ^ 文化勲章令 - e-Gov法令検索、2019年8月13日閲覧。
  4. ^ 文化勲章 造幣局極祕に謹製』.大阪毎日新聞1937年(昭和12年)2月16日
  5. ^ a b c 文化勲章 - 筑西市デジタルアーカイブ、2023年2月4日閲覧。
  6. ^ 『陛下、お尋ね申し上げます』 1988 p.243
  7. ^ 文化勲章受章候補者推薦要綱(平成2年12月12日内閣総理大臣決定)、勲章及び文化勲章各受章者の選考手続について(昭和53年6月20日閣議了解)。
  8. ^ a b c d 文化勲章イシグロ氏外れる 文科省「コメントを控える」、毎日新聞2017年10月24日 19時15分(最終更新 10月24日 22時36分)。
  9. ^ 吉野氏ら文化勲章=功労者は玉三郎さん 時事通信2019年10月29日
  10. ^ イシグロ氏 文化勲章? 「国家に功績」解釈分かれ、毎日新聞2017年10月13日 07時30分(最終更新 10月13日 07時30分)。
  11. ^ 「大江健三郎さん、文化勲章を辞退 戦後民主主義世代、「国絡みの賞は受けない」」『読売新聞』1994年10月15日夕刊
  12. ^ OBITUARY Kenzaburo Oe: A Nobel Prize Author Who Exposed the Human Condition”. JAPAN Forward. 2023年10月27日閲覧。
  13. ^ 大江健三郎氏 写真特集”. 時事通信社. 2023年10月27日閲覧。
  14. ^ 大江健三郎氏 写真特集”. 時事通信社. 2023年10月27日閲覧。
  15. ^ 「杉村春子さんが文化勲章を辞退 「現役続けたい」」『読売新聞』1995年10月27日朝刊
  16. ^ "文化勲章の報、ベッドの妻は小さく「うん」牧阿佐美さん最後の言葉". 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 26 October 2021. 2021年10月26日閲覧

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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