「百田光雄」の版間の差分
m カテゴリソートの一部修正 |
m WP:BOTREQ: Category:東京都区部出身の人物新設に伴う貼り変え作業 |
||
88行目: | 88行目: | ||
[[Category:プロレス・エグゼクティブ]] |
[[Category:プロレス・エグゼクティブ]] |
||
[[Category:韓国・朝鮮系日本人]] |
[[Category:韓国・朝鮮系日本人]] |
||
[[Category:東京都出身の人物]] |
[[Category:東京都区部出身の人物]] |
||
[[Category:1948年生]] |
[[Category:1948年生]] |
||
[[Category:存命人物]] |
[[Category:存命人物]] |
2016年6月8日 (水) 05:32時点における版
百田光雄 | |
---|---|
プロフィール | |
リングネーム |
百田光雄 レジェンドヒール百田 |
本名 | 百田光雄 |
ニックネーム |
力道山ジュニア 6時半の男 団塊世代の星 レジェンド・ヒール |
身長 | 173cm |
体重 | 92kg |
誕生日 | 1948年9月21日(76歳) |
出身地 | 東京都港区 |
所属 | リキエンタープライズ |
デビュー | 1970年11月17日 |
百田 光雄(ももた みつお、1948年9月21日 - )は、日本のプロレスラー。リキエンタープライズ所属。元プロレスリング・ノア取締役副社長で、テレビ解説も務めていた。東京都港区出身。力道山ジュニア、6時半の男などのニックネームを持つ。
日本のプロレス界の礎を作った力道山の次男であり、百田義浩の実弟。息子の百田力もプロレスラーである。
来歴
森村学園を卒業後、1968年2月に日本プロレスに入門。デビュー戦は1970年11月17日の新海弘勝戦。
アントニオ猪木が日本プロレスを除名された直後の1972年初旬に、日本プロレスの体質に嫌気を差して日本プロレスを退団して一旦引退[1]。退団後しばらくはリキ・アパートのフロント係やプールの監視員をしながらトレーニングを続け[1]、同年10月に全日本プロレスの旗揚げに参加すると同時に再デビュー。1974年2月にはメキシコに初遠征し(リングネームは「リキドーザン(力道山)Jr」)、帰国後に日本では初めてとなるトペ・スイシーダを公開[1]、ジュニアヘビー級戦線で活躍する。1989年4月、仲野信市を破り世界ジュニアヘビー級王座を獲得。2度の防衛に成功した。また、若手選手の壁として立ちはだかり、「6時半の男」と称され人気を博した。1990年代からは、ジャイアント馬場、ラッシャー木村とトリオ(ファミリー軍団)を組んでの永源遙・大熊元司ら(悪役商会)との試合が中心となり、このカードは「休憩前のメインイベント」といわれるほどの人気を博した。
2000年6月、三沢光晴らとともに全日本プロレスを退団し、ノアに移籍、副社長に就任した。ノアではラッシャー木村、永源遙と「ファミ悪」の流れを汲んだ試合が多く、木村の長期欠場(後に引退)以後は永源とのシングル戦が名物になっている。百田vs永源は2004年7月10日のノア初となる東京ドーム大会の第1試合でも組まれた。
前座での試合が多いものの、2003年12月11日には菊地毅と組んで丸藤正道&KENTAが持つGHCジュニアヘビー級タッグ王座に挑戦、2004年2月15日、新日本プロレス両国国技館大会に乗り込みメインイベントで獣神サンダー・ライガーが持つGHCジュニアヘビー級王座に挑戦。2006年にはGHCジュニアの挑戦者決定時間差バトルロイヤルに参戦、SUWAと抗争を繰り広げるなど、試合に敗れはしたものの健在振りをアピールした。
全日本時代からTV中継(全日本プロレス中継、プロレスリング・ノア中継)では解説も担当している。また「要するに」が口癖で、普段は終始冷静だが、試合中大技が飛び出すと「おおっ!」「あーっ!」という大声を発するという特徴がある。
2004年に韓国で製作され、2006年3月に日本上映された『映画・力道山』に、特別協力として名を連ねている。
ノア離脱以後
2009年7月6日には、三沢の死去に伴い開かれたプロレスリング・ノアの臨時株主総会で同社の相談役に退くことが発表されたが、翌7月7日に同社に辞表を提出した。新社長の田上明は当初辞表を受理せず進退を保留したが、結局7月10日の役員会で辞表が受理された。
辞意を示した理由は当初「三沢の後任の社長に小橋建太を推したが認められず、三沢の遺族の要望で田上が社長に就任したこと」としていたが[2]、7月12日に後楽園ホールで開かれたノアの興行に挨拶のため訪れた際には「三沢のお別れ会の日程を仲田龍(元同社取締役統括部長)が独断で勝手に決定し、他の役員は誰も聞いてなかった」「相談役就任は、三沢夫人の委任状を持った早川(早川久夫・同社常務取締役)に言い渡されたが、早川に言われる筋合いはない」「三井営業部長(三井政司・同社取締役)になってから業績が下がったのに昇進している。こんなバカな人事があるか」など、一部の役員を名指しで批判し、役員の間で軋轢があったことを露にした[3]。
今後の身の振り方について、当初フリーのプロレスラーとして現役は続行する考えを示した一方で[2]、後に「引退試合は行いたい」としつつも選手としても身を引く意向と伝えられるなど[4]、現役を続行するかどうかはっきりしない状態が続いていたが、2010年4月に行われる天龍源一郎の自主興行「天龍プロジェクト」への参戦が発表され、当面は現役を続行することが明らかになった[5]。本人はラッシャー木村の持つ現役最年長記録(61歳10か月)の更新を狙っており、「春には引退しようと思っていたけど、7月までやれば(ラッシャー木村が持つ)61歳10か月の最年長記録をクリアできるんです」とその意気込みを語っている[5]。
その他
- 還暦の際のインタビューでニンテンドーDSの脳内年齢測定ソフトで声とテストによる測定をしたところ、声と本体の相性があまりにも悪かったため、「測定不能」となった。
- 9歳の時に父と瀬戸内海でボートで遊んでいた際に岸から500mほどの場所で、突然父に突き落とされ、父は助ける事なく1人で岸に帰ってしまった。父があまりに怖かったため、1時間程かけて泳いで岸に帰った。大人でも海に慣れていなければ波に押されたり方向感覚がわからなくなる海で泳ぐのは大変困難であり、ましてや子供では体力を奪われて溺れてしまう可能性もあったが、本人は「海で泳いでいる怖さよりも、父の方が怖かった」と述べている。
- 怒ると「ジジィをなめんなよ!」と叫ぶ。
- 日本国内で初めてトペ・スイシーダを使用したレスラー、メキシコからトペ・スイシーダを持ち込んだレスラーとして著名である。
- 実息・百田力がノアに練習生として入門するもプロテストに不合格となりデビューには至っていなかったが、2012年5月23日「天龍プロジェクト「R-1」 Request TENRYU PROJECT 7」で百田と対戦した折原昌夫に挑発され、リングに姿をあらわし、これに呼応したことから近いうちにリングデビューを飾る可能性も浮上した、折原のメビウス道場にて修行[6][7]、2013年12月16日に開催された「力道山没50年メモリアル興行“プロレスの力”」にて、リングネームを「力(ちから)」にしデビューした[8]。
タイトル歴
- 全日本プロレス
- 世界ジュニアヘビー級王座:防衛2回(第8代)
- 東京愚連隊
- 東京インターコンチネンタルタッグ王座:防衛0回(第3代、パートナーは力)
得意技
入場テーマ曲
- 「Gonna Fly Now(ロッキーのテーマ)」 メイナード・ファーガソン
著書
- 『父・力道山』(小学館文庫)
脚注
- ^ a b c “馬場さんに誘われ、全日本旗揚げ参加…百田光雄<3>”. YOMIURI ONLINE (2014年12月10日). 2016年4月4日閲覧。
- ^ a b ノアに激震、百田相談役が辞表提出 - 日刊スポーツ・2009年7月8日
- ^ 東京スポーツ・2009年7月14日付 6面
- ^ 百田前副社長が辞任について50分間に渡り激白=ノア - スポーツナビ・2009年7月13日
- ^ a b 4.19天龍プロジェクト旗揚げ、百田光雄も現役最年長記録を目指す - kamipro.com・2010年3月4日
- ^ 格闘技|速報 - スポーツナビ・2012年5月23日
- ^ 力道山の孫 30歳でプロレス挑戦 - プロレスニュース - nikkansports.com・2012年7月20日
- ^ 父・力道山から伝承した「プロレスの力」|コラム|格闘技 - スポーツナビ・2013年11月6日
- ^ “H28.1.3 新木場1stRING大会”. FREEDOMS フリーダムズ プロレス (2016年1月3日). 2016年1月5日閲覧。