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2016年10月17日 (月) 13:49時点における版

ロビー・ロバートソン
ロビー・ロバートソン(2007年、クロスローズ・ギター・フェスティバルにて)
基本情報
出生名 Jaime Robert Klegerman
Jaime Robbie Robertson
生誕 (1943-07-05) 1943年7月5日(81歳)
出身地 カナダの旗 カナダ オンタリオ州トロント
ジャンル ロック
フォークロック
R&B
民族音楽
職業 ギタリスト
シンガーソングライター
音楽プロデューサー
担当楽器 ボーカルギターピアノベースハーモニカオートハープ、メロディカ
活動期間 1958年-
レーベル ゲフィン・レコード
キャピトル・レコード
429レコード
共同作業者 ロニー・ホーキンス
ボブ・ディラン
ザ・バンド

ロビー・ロバートソン(Robbie Robertson, OC1943年7月5日[1] - )は、カナダミュージシャンシンガーソングライターザ・バンドのメンバーとして活動した後、1987年にソロ・デビューを果たす。

来歴

オンタリオ州トロント生まれ。父はユダヤ人、母はモホーク族インディアン。幼くしてギャングだった父が殺され、ロビーは貧しい環境の中、母親の手で育てられる。7歳のときにギターを覚えやがてロックンロールに熱中し地元のアマチュアバンドでファッツ・ドミノなどの作品に触れる。

1958年ロニー・ホーキンスのバック・バンドであるホークスに加入。はじめベースギターを担当したが、2年後にリードギターに転向する。そのギタープレイは、ホーキンスをして「この子は天才だ!」と言わしめたほどの早熟ぶりであった。ホークスはその後、1965年ボブ・ディランのバック・バンドとなり、ディランから「その後衛的なサウンドによって僕のナーヴァスな腸に触らない唯一の数学的ギタリスト」と評された。そしてザ・バンドと改名して1968年にデビュー。ロビーは、ザ・バンドが1976年に解散するまでリードギターと曲づくりに活躍し、バンドのリーダー的存在となり1975年には彼の作品ばかりをからなる傑作『南十字星』を発表し高い評価を受ける。だが、ロビーの、家にこもる学究肌のライフスタイルは、他のメンバーとの溝を深め、さらにはレコードの作品のクレジットにおいての問題やツアー演奏継続の意見の相違などがからんで、1976年11月のイベント『ラスト・ワルツ』を最後に、ロビーはバンドを脱退する事態となる。

このときドラムスのリヴォン・ヘルムとは絶縁状態となった。リヴォンは「彼のバンドにおける役割は否定しない。彼は重要な触媒であり、ザ・バンドの音楽の歴史に重要な貢献をした。しかし彼がなぜ、あんなふうにすべてを放り出さなくてはならなかったのか、ぼくは今になっても理解できない。」とロビーを非難した[2]

ザ・バンド解散後は、セッション・ギタリストや音楽プロデューサーとして活動。また、1980年公開の映画『Carny』をプロデュースし、脚本制作に協力、俳優としても出演[3]。同年、マーティン・スコセッシの監督映画『レイジング・ブル』の音楽監督を務め、以後、ロビーはスコセッシの監督作品で度々音楽監督としてクレジットされる。

1983年にはザ・バンドが再結成されるが、ロビーは参加しなかった。1985年にはトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズのアルバム『Southern Accents』に、共同プロデューサーの一人としてクレジットされる。そして、1987年にソロ・デビュー作『ロビー・ロバートソン』発表。同作はロビーとダニエル・ラノワがプロデュースを担当し、U2の全メンバーやピーター・ガブリエルトニー・レヴィンテリー・ボジオ等が参加した。1989年には、坂本龍一ビューティ』にもゲスト参加。

1987年、雑誌「ローリング・ストーン」創刊20周年特別号で、ユダヤ系カナダ人とカナダ側モホーク族インディアンの混血であることを明かし、同年発表のソロ・デビュー作『ロビー・ロバートソン』は、この出自について歌ったものであるとコメントした。それまでのロビーを取り巻く音楽環境は、裕福なユダヤ人社会であったため(彼の育った環境は極貧のインディアン社会である)、「私一人で活動しているわけではなかったから、個人的な志向で音楽性を変えるわけにいかなかった」と述べている。以後、インディアンとしての音楽活動を強く打ち出すようになる。

ソロ2作目の『ストーリーヴィル』(1991年)は、ニューオーリンズ音楽からの影響を取り入れた作品で、ミーターズの全メンバーやアーロン・ネヴィルニール・ヤング等がゲスト参加。

1994年、テレビ番組『The Native Americans』の音楽を担当し、サウンドトラック・アルバムは、ロビー・ロバートソン&ザ・レッド・ロード・アンサンブル名義のアルバム『ネイティヴ・アメリカン』として発表された[4]。同作は、インディアンの伝統音楽とテクノロジーを融合した音楽性で、チェロキー族リタ・クーリッジ等が参加。

1998年のアルバム『コンタクト・フロム・ジ・アンダーワールド・オブ・レッド・ボーイ』も、再びインディアンの伝統音楽に影響を受けた作品となった[5]。リタ・クーリッジ、Joanne Shenandoah(後にニール・ヤング等と共演するオナイダ族の女性歌手)等が参加。同アルバムに収録された「サクリファイス」という曲は、インディアン権利団体「アメリカインディアン運動(AIM)」のメンバーで、無実の罪で終身刑服役中のインディアン運動家レナード・ペルティエの電話によるメッセージを曲中に採り入れるという実験的なものとなった。ロビーはこの曲についてこう述べている。「私はライブパフォーマンスはしない。だがスタジオ録音であっても人が人を巻き込むグルーブ感のある音楽は作れると思っている」

2003年、Canada's Walk of Fameに名前が彫られる[6]

同年、ローリング・ストーン誌が選出した歴史上最も偉大な100人のギタリストでは78位[7]、2011年の改訂版では第59位に選ばれている。また、2007年の「歴史上最も過小評価されている25人のギタリスト」においては第20位に入っている[8]

その後、2008年にはザ・バンドとともにグラミー賞特別功労賞を受賞。

2011年、13年振りの新作『ハウ・トゥ・ビカム・クレアヴォヤント』を発表。同アルバムにはエリック・クラプトンが7曲でゲスト参加し、更にスティーヴ・ウィンウッド、ロバート・ランドルフ、トム・モレロトレント・レズナー等も参加した[9]。同年5月にはカナダ勲章を授与されている[10][11]

ディスコグラフィー

ソロ・アルバム

脚注

外部リンク