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==経歴==
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===トルコ時代===
===トルコ時代===
オカーはトルコ1部リーグ([[ターキッシュ・バスケットボール・リーグ|TBL]])でもプレイした経験を持つ。また若くして[[バスケットボールトルコ代表|トルコ代表]]としてもプレイし、[[1997年]]に開催された22歳以下の世界選手権ではトルコ優勝メンバーの一員だった。[[1998年]]には[[w:Tofas Bursa|Tofas Bursa]]でプレイし、その年のリーグチャンピオンの原動力となって活躍した。その後、[[イスタンブル|イスタンブール]]の[[エフェス・ピルゼン S.K.]]に移籍し、[[ユーロリーグ]]に出場するなどした。
オカーはトルコ1部リーグ([[ターキッシュ・バスケットボール・リーグ|TBL]])でもプレイした経験を持つ。また若くして[[バスケットボールトルコ代表|トルコ代表]]としてもプレイし、[[1997年]]に開催された22歳以下の世界選手権ではトルコ優勝メンバーの一員だった。[[1998年]]には[[w:Tofas Bursa|Tofas Bursa]]でプレイし、その年のリーグチャンピオンの原動力となって活躍した。その後、[[イスタンブル|イスタンブール]]の[[エフェス・ピルゼン S.K.]]に移籍し、[[ユーロリーグ]]に出場するなどした。


===NBA===
===NBA===

2016年10月18日 (火) 11:19時点における版

メメット・オカー
Mehmet Okur
現役時代 (ユタ・ジャズ) のオカー
フェニックス・サンズ AC
ポジション PF/C
役職 アシスタントコーチ
基本情報
愛称 "Memo"
トルコ語 Mehmet Murat Okur
国籍 トルコの旗 トルコ
生年月日 (1979-03-26) 1979年3月26日(45歳)
出身地 マルマラ地方ヤロヴァ県ヤロヴァ
身長(現役時) 211cm (6 ft 11 in)
体重(現役時) 119.3kg (263 lb)
キャリア情報
出身 トルコの旗 オヤック・ルノー
ドラフト 2001年 2巡目 38位 ピストンズ
選手経歴
1997-1998
1998-2000
2000-2002
2002-2004
2004-2011
2011
2011-2012
ホベントゥット・バダローナ オヤック・ルノー
トファス S.K. トファス S.K.
エフェス・ピルゼン エフェス・ピルゼン
デトロイト・ピストンズ デトロイト・ピストンズ
ユタ・ジャズ ユタ・ジャズ
Türk Telekom Türk Telekom(トルコ)
ニュージャージー・ネッツ ニュージャージー・ネッツ
指導者経歴
2016- フェニックス・サンズ (選手育成)
受賞歴
Stats ウィキデータを編集 Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten
代表歴
キャップ トルコの旗 トルコ 1999年-2007年
獲得メダル
男子バスケットボール
トルコの旗 トルコ
ユーロバスケット
2001 トルコ 男子

メメット・オクァーMehmet Murat Okur1979年3月26日-)はトルコ共和国の元プロバスケットボール選手NBAユタ・ジャズなどで活躍し、現在はフェニックス・サンズの選手育成担当コーチを務めている。マルマラ地方ヤロヴァ県ヤロヴァ出身。ポジションはパワーフォワードセンター。身長211cm、体重119.3kg。トルコ語の発音に近い「メメット・オクール」と表記される場合がある。

経歴

トルコ時代

オカーはトルコ1部リーグ(TBL)でもプレイした経験を持つ。また若くしてトルコ代表としてもプレイし、1997年に開催された22歳以下の世界選手権ではトルコ優勝メンバーの一員だった。1998年にはTofas Bursaでプレイし、その年のリーグチャンピオンの原動力となって活躍した。その後、イスタンブールエフェス・ピルゼン S.K.に移籍し、ユーロリーグに出場するなどした。

NBA

2001年のNBAドラフトではデトロイト・ピストンズから全体38位指名を受けた。2002年から2シーズン、主にピストンズの控えのインサイドとして活躍。2003-04シーズンにピストンズでNBA優勝を経験し、トルコ出身の選手として初のNBAチャンピオンを経験した。当時から信頼されたインサイドとして好成績を残していた。しかしながら、ピストンズはサラリーキャップの整理と、同シーズン途中にラシード・ウォーレスを獲得していたこともあり、オカーの放出を余儀なくされてしまう。結局、制限付きFAのオカーはシーズンオフにユタ・ジャズと契約(6年間約5000万ドル)。ピストンズはジャズの契約にマッチングを行わず、ジャズへの移籍が成立した。

ジャズに移籍した1年目(2004-05シーズン)は、先発や6thマンとして出場。次第にチームの中心選手の一人に数えられるようになった。

2005-06シーズンは先発に定着したことから出場時間が上昇。平均得点や平均リバウンドなどの成績も前年を上回った。ジャズは前年は26勝しかあげられなかったが、この年は勝率も5割(41勝)にまで復帰。これはオカーの成長によるところが大きいと考えられた。

2006-07シーズンは、NBAオールスターゲームの出場メンバーに選出されるなど飛躍のシーズンとなり、2010-11シーズンまでジャズで活躍した。

2011-12シーズン開幕前の2011年12月にニュージャージー・ネッツに移籍するも、翌年3月にポートランド・トレイルブレイザーズに放出され、バイアウトで解雇された。

2012年11月に引退を表明した[1]

2016年9月13日、フェニックス・サンズの選手育成担当コーチに就任した[2]

プレイスタイル

基本的にはインサイドプレイヤーでセンターとパワーフォワードを兼任することができる。しかしながらシュートタッチが良く、外郭からのシュートも無難にこなす。2005-06シーズンは3Pシュートを80本成功させた。また、ビッグマンながらフリースローも得意としており、成功率はキャリア通算で8割近い数字を残している(センターでの8割という数字は上位に数えられる)。

備考

  • ニックネームは「Memo

脚注

関連項目

外部リンク