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== 歴史 ==
== 歴史 ==
今日我々は、この歌を歌う民族によってこの歌がどこに由来するかを推測することが出来る。この歌は、ギリシア人、トルコ人、アラブ人、ユダヤ人たちの間で聞くことができる。つまり、[[オスマン帝国]]の支配領域で生まれた、という説明である。説のひとつは現在の[[トルコ]]と[[ギリシア]]の国境地方のある所で、すなわち、セラーニク([[テッサロニキ]])と[[イスタンブル]](コンスタンティノープル)の間のどこかで生まれた、とする。この歌は、他の歌、例えばウスクダラ(Üsküdar’a Gider İken)、カティナキ・モウ・ヤ・セナ(Κατινάκι μου γιά σένα/Katinaki mou ya sena)などと同様に、ギリシアやトルコ(オスマン帝国内)で流布した。また、各地のユダヤ人社会によっても拾われ、そこからも広まった。 誰が元々この歌を書いたのかは歴史の中に埋もれ、失われている。トルコ人とギリシア人はともにこの歌を自分たちのものであると主張しており、彼らの無限の論争はいつ果てるとも知れない。また我々は、この歌がいつ書かれたかも正確に突き止めることが出来ない。19世紀以降であるとは考えられている。
今日我々は、この歌を歌う民族によってこの歌がどこに由来するかを推測することが出来る。この歌は、ギリシア人、トルコ人、アラブ人、ユダヤ人たちの間で聞くことができる。つまり、[[オスマン帝国]]の支配領域で生まれた、という説明である。説のひとつは現在の[[トルコ]]と[[ギリシア]]の国境地方のある所で、すなわち、セラーニク([[テッサロニキ]])と[[イスタンブル]](コンスタンティノープル)の間のどこかで生まれた、とする。この歌は、他の歌、例えばウスクダラ(Üsküdar’a Gider İken)、カティナキ・モウ・ヤ・セナ(Κατινάκι μου γιά σένα/Katinaki mou ya sena)などと同様に、ギリシアやトルコ(オスマン帝国内)で流布した。また、各地のユダヤ人社会によっても拾われ、そこからも広まった。 誰が元々この歌を書いたのかは歴史の中に埋もれ、失われている。トルコ人とギリシア人はともにこの歌を自分たちのものであると主張しており、彼らの無限の論争はいつ果てるとも知れない。また我々は、この歌がいつ書かれたかも正確に突き止めることが出来ない。19世紀以降であるとは考えられている。


1930年頃、ギリシャの都市部には西欧の大衆音楽が流入していた。一方、[[トルコ]]領となった[[小アジア]]から[[ギリシャとトルコの住民交換|住民交換]]によりギリシャに移住してきたギリシャ正教徒が[[アナトリア]]の様々な音楽的伝統を持ち込んでもいた。こうした音楽の交配から[[レベティコ]](レンベティコ/レベティカ/レンベティカ)という新しいギリシアの大衆音楽が芽生えていた。
1930年頃、ギリシャの都市部には西欧の大衆音楽が流入していた。一方、[[トルコ]]領となった[[小アジア]]から[[ギリシャとトルコの住民交換|住民交換]]によりギリシャに移住してきたギリシャ正教徒が[[アナトリア]]の様々な音楽的伝統を持ち込んでもいた。こうした音楽の交配から[[レベティコ]](レンベティコ/レベティカ/レンベティカ)という新しいギリシアの大衆音楽が芽生えていた。
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ほとんどの初期のレベティコの歌と同様、ミシルルーの実際の作曲家は判明していない。エジプトで1919年にこの曲を[[サイード・ダルウィーシュ]]が「ビント・ミスル」(アラビア語で「エジプト娘」を意味する)の題で録音したことがあるらしい<ref name="originals">{{cite web|url=http://www.originals.be/en/originals.php?id=8080|title=Misirlou|publisher=The Originals|author=Arnold Ryphens|accessdate=2015-07-04}}</ref>。
ほとんどの初期のレベティコの歌と同様、ミシルルーの実際の作曲家は判明していない。エジプトで1919年にこの曲を[[サイード・ダルウィーシュ]]が「ビント・ミスル」(アラビア語で「エジプト娘」を意味する)の題で録音したことがあるらしい<ref name="originals">{{cite web|url=http://www.originals.be/en/originals.php?id=8080|title=Misirlou|publisher=The Originals|author=Arnold Ryphens|accessdate=2015-07-04}}</ref>。


ギリシア語歌詞による古い録音としては、[[イスタンブル]]生まれで、のちに[[アメリカ合衆国]]に帰化したテトス・ディミトゥリアデス({{el|Τέτος Δημητριάδης}})<ref>{{cite web|url=http://www.recordingpioneers.com/RP_DEMETRIADES1.html|title=Theodotos Demetriades ("Tetos")|publisher=Recording Pioneers|accessdate=2015-07-04}}</ref>によって1927年に[[ニューヨーク]]の[[コロムビア・レコード]]から発売されたものがある<ref name="whosampled">{{cite web|url=http://www.whosampled.com/cover/116565/Michalis-Patrinos-Misirlou-Tetos-Demetriades-Misirlou/|title=Michalis Patrinos cover of Tetos Demetriades' Misirlou|publisher=Who Sampled|accessdate=2015-07-04}}</ref>。
ギリシア語歌詞による古い録音としては、[[イスタンブル]]生まれで、のちに[[アメリカ合衆国]]に帰化したテトス・ディミトゥリアデス({{el|Τέτος Δημητριάδης}})<ref>{{cite web|url=http://www.recordingpioneers.com/RP_DEMETRIADES1.html|title=Theodotos Demetriades ("Tetos")|publisher=Recording Pioneers|accessdate=2015-07-04}}</ref>によって1927年に[[ニューヨーク]]の[[コロムビア・レコード]]から発売されたものがある<ref name="whosampled">{{cite web|url=http://www.whosampled.com/cover/116565/Michalis-Patrinos-Misirlou-Tetos-Demetriades-Misirlou/|title=Michalis Patrinos cover of Tetos Demetriades' Misirlou|publisher=Who Sampled|accessdate=2015-07-04}}</ref>。


その後、1931年に[[イズミル]]出身のミハリス・パトゥリノス({{el|Μιχάλης Πατρινός}})の楽団が「ムスルル」の題でやはりコロムビアからレコードを発売したが、パトゥリノスはそれ以前から[[アテネ]]でこの曲を演奏していたという<ref name="originals"/>。
その後、1931年に[[イズミル]]出身のミハリス・パトゥリノス({{el|Μιχάλης Πατρινός}})の楽団が「ムスルル」の題でやはりコロムビアからレコードを発売したが、パトゥリノスはそれ以前から[[アテネ]]でこの曲を演奏していたという<ref name="originals"/>。

2016年10月18日 (火) 11:20時点における版

ミシルルー』(ギリシア語: Μισιρλού, ラテン文字転記:Misirlou)は今日、以下の5つのスタイルで知られている歌あるいは音楽である。

本来は歌詞が存在するが、インストゥルメンタル化したものが有名である。

題名

ミシルルーギリシア語: Μισιρλού)は、トルコ語ムスルルMısırlı)の借用である。これはムスルMısır, 「エジプト」を意味する。アラビア語مصر ミスル)に、「~出身」を意味する接尾辞~ル(-lı)を加えた語である。したがって、「ミシルルー」は「エジプト出身」という意味にしかならないが、歌詞の内容からエジプト娘の意味であることが明らかである。

英語ではミザルーのように発音する。

歴史

今日我々は、この歌を歌う民族によってこの歌がどこに由来するかを推測することが出来る。この歌は、ギリシア人、トルコ人、アラブ人、ユダヤ人たちの間で聞くことができる。つまり、オスマン帝国の支配領域で生まれた、という説明である。説のひとつは現在のトルコギリシアの国境地方のある所で、すなわち、セラーニク(テッサロニキ)とイスタンブール(コンスタンティノープル)の間のどこかで生まれた、とする。この歌は、他の歌、例えばウスクダラ(Üsküdar’a Gider İken)、カティナキ・モウ・ヤ・セナ(Κατινάκι μου γιά σένα/Katinaki mou ya sena)などと同様に、ギリシアやトルコ(オスマン帝国内)で流布した。また、各地のユダヤ人社会によっても拾われ、そこからも広まった。 誰が元々この歌を書いたのかは歴史の中に埋もれ、失われている。トルコ人とギリシア人はともにこの歌を自分たちのものであると主張しており、彼らの無限の論争はいつ果てるとも知れない。また我々は、この歌がいつ書かれたかも正確に突き止めることが出来ない。19世紀以降であるとは考えられている。

1930年頃、ギリシャの都市部には西欧の大衆音楽が流入していた。一方、トルコ領となった小アジアから住民交換によりギリシャに移住してきたギリシャ正教徒がアナトリアの様々な音楽的伝統を持ち込んでもいた。こうした音楽の交配からレベティコ(レンベティコ/レベティカ/レンベティカ)という新しいギリシアの大衆音楽が芽生えていた。

ほとんどの初期のレベティコの歌と同様、ミシルルーの実際の作曲家は判明していない。エジプトで1919年にこの曲をサイード・ダルウィーシュが「ビント・ミスル」(アラビア語で「エジプト娘」を意味する)の題で録音したことがあるらしい[1]

ギリシア語歌詞による古い録音としては、イスタンブール生まれで、のちにアメリカ合衆国に帰化したテトス・ディミトゥリアデス(Τέτος Δημητριάδης[2]によって1927年にニューヨークコロムビア・レコードから発売されたものがある[3]

その後、1931年にイズミル出身のミハリス・パトゥリノス(Μιχάλης Πατρινός)の楽団が「ムスルル」の題でやはりコロムビアからレコードを発売したが、パトゥリノスはそれ以前からアテネでこの曲を演奏していたという[1]

元々、歌はレベティコの様式で、より遅いテンポと異なったキー(調)で、トルコの(あるいはギリシアの)テンポのゆったりしたダンスであるチフテテッリの舞踊のための歌として作曲された。ミシルルーも他のいくつかの歌と同じくレベティコの勃興と共に生まれた曲のひとつである。

1940年代以降ジャズイージーリスニングの様々な楽団が独自の英語歌詞をつけて演奏するようになった。S. Russell、N. Wise、M. Leedsが英語の歌詞を書いている。

1941年に、ニック・ルーバニス(Nick Roubanis, Νίκος Ρουμπάνης, ギリシア系アメリカ人の音楽のインストラクター)は作曲家として自分をクレジット表記しながら、この歌のジャズのインストゥルメンタル版をリリースした。しかし、この曲がニック・ルーバニスによって作詞作曲されたものでないことは明らかである。

1950年代以降は「エキゾチカ」と呼ばれる、異国調を前面に出したラウンジミュージックの一種におけるスタンダードナンバーとなった。1962年にはディック・デイル&デルトーンズの演奏によるサーフミュージックアレンジのミシルルーが全米でヒットしており、このバージョンが今日よく知られている。ディック・デイル版は各国のサーフロック・バンドにカバーされた(1963年ザ・ビーチボーイズのアルバム「サーフィン・U.S.A.」でもカバーされている)。

1994年の映画『パルプ・フィクション』でディック・デイル版が主題曲となり再び広く知られるようになった。

2006年にブラック・アイド・ピーズはディック・デイル版をサンプリングした『パンプ・イット』を発表した。

歌詞

3行目の「ヤー・ハビビ、ヤー・レレリ」は、アラビア語で「ああ私のいとしい人よ、ああ私の夜よ」という意味であり、異国情緒あふれる歌詞になっている。

歌っている歌手(歌詞があるもの)

演奏したアーティスト

その他多数

BGMとしての使用例

映画
ゲーム
その他

他にも数多くのテレビ番組で使用されている。

脚注

  1. ^ a b Arnold Ryphens. “Misirlou”. The Originals. 2015年7月4日閲覧。
  2. ^ Theodotos Demetriades ("Tetos")”. Recording Pioneers. 2015年7月4日閲覧。
  3. ^ Michalis Patrinos cover of Tetos Demetriades' Misirlou”. Who Sampled. 2015年7月4日閲覧。

外部リンク