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2016年11月11日 (金) 03:44時点における版
内海 一郎(うつみ いちろう、1898年(明治31年)5月7日 - 1972年(昭和47年))は、昭和初期に活躍した日本の歌手、舞台演出家。東京府(現:東京都)出身。
浅草オペラ時代には宇津美 清(うつみ きよし)の名で知られていた。妻は同じく歌手の松島詩子。
経歴・人物
1916年(大正5年)に東京音楽学校卒業後、浅草オペラで活躍。彼は浅草オペラでは異色といえる存在であった。1917年(大正6年)、1918年(大正7年)には河合澄子、天野喜久代、千賀美寿一らとともに佐々紅華の東京歌劇座に参画しており、二村定一よりわずか二歳上でありながら実力派であったという。
レコードは宇津美清の時代からニッポノホンで歌劇などを吹き込んでいるが、昭和初期の関西で最大手だったニットーレコードでホットなジャズソングを数多く録音し、レコーディングディレクターも務めた。1928年(昭和3年)12月に発売された『道頓堀行進曲』が大ヒットする。
1940年(昭和15年)、松島詩子と結婚しておしどり夫婦とうたわれ、戦後は舞台演出家としても長く活躍した[1]。
エピソード
妻の松島詩子は彼のことについて、「私がニットーでレコーディングをしてる時、ディレクターが歌についてとても細かく話してくれたのです。この人は歌のことをよく知ってるなあと思ったら、「内海さんは浅草オペラの歌手で『道頓堀行進曲』も歌ったんだよ」と他の人が教えてくれました」と語っている。また松島は1937年(昭和12年)、台詞入りのレコーディングで困り、内海に相談している。
1934年(昭和9年)、当時コロムビア専属歌手だった伊藤久男、淡谷のり子、丸山和歌子の歌がタイヘイレコードにあるのは内海の声掛けからである[2]。さらに伊藤は当時の彼のエピソードについて「内海さんは「関西のタイヘイスタジオで録音すればコロムビアにもわからない」と言っていました。僕のタイヘイでの録音名・内海四郎は、ディレクターの内海さんの提案なんです」と語っていた。
代表曲
- 『銀座行進曲』(1928年12月)
- 『道頓堀行進曲』(1928年12月)
- 『エンゼラミア』(1929年5月)
- 『草津節』(1929年5月)
- 『うるはしの君』(1929年5月)
- 『モンパリ』(1929年6月)
- 『行進曲紐育』(1929年6月)
- 『東京夜曲』(1929年)
- 『蝶々さん』
- 『布晆アロハオエ』
- 『故郷の空』
- 『流浪の旅』
脚注