「ウディ・ガスリー」の版間の差分
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2016年11月12日 (土) 01:07時点における版
ウディ・ガスリー | |
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ギターを弾くガスリー | |
基本情報 | |
出生名 | Woodrow Wilson Guthrie |
生誕 |
1912年7月14日 オクラホマ州オケマー |
死没 |
1967年10月3日 (55歳没) ニューヨーク州ニューヨーク |
ジャンル | |
職業 | シンガーソングライター |
担当楽器 | |
活動期間 | 1930–1956 |
共同作業者 | アルマナック・シンガーズ |
著名使用楽器 | |
ウッドロウ・ウィルソン・ガスリー(Woodrow Wilson "Woody" Guthrie, 1912年7月14日 - 1967年10月3日)は、アメリカ合衆国のフォーク歌手・作詞家・作曲家。14歳のときに家族が離散し、大恐慌の時代に放浪生活を送る。その放浪のなかで、貧困や差別などに翻弄される労働者らの感情を歌にして演奏した。
ボブ・ディランに多大な影響を与えた。
生涯
オクラホマ州オケマーに生まれる。名前は同年の選挙で大統領に選出されたウッドロウ・ウィルソンの名にちなんでつけられた。14歳の時、母親が死去し、一家は離散し17歳だった彼は、アメリカ中を一時雇いの労働者として放浪。バーや労働者のストライキの時の組合の集会などにかかわって小金を稼いだ。19歳のときにテキサスへ行ったが、そこで彼は最初の妻メアリー・ジェニングスと出会って結婚し、3人の子供たちをもうける。しかし彼は、ダストボウル時代の到来とともに、カリフォルニアに移住するオクラホマ州人のオーキー(季節労働者)の後に従って、テキサスに彼の家族を残して旅立った。これらの若い時期の旅行で見た貧困はのちの彼の作品に大いに影響を与え、彼の歌の多くが労働者階級が直面する状態に取材している。
ガスリーは生涯の社会主義者かつ労働組合活動家であり、デイリー・ワーカー紙、人民世界紙に常設コラム「ウディ・セズ」を執筆した。
1930年代中頃に、ガスリーはラジオパートナーであったマクシーン・「左利きのルー」・クリスマンと共に、商業ベースの「ヒルビリー」音楽と伝統的なフォークミュージックの放送演者としてロサンゼルスおよびカリフォルニアにおいて名声を得た。ポピュリスト志向のニューディール民主党員によって所有されていた商業的ラジオ放送局KFVDに出演する一方で、ガスリーは、後にダストボールバラードにまで昇華することになる若干のプロテストソングを書き演奏し始めた。
1935年から1937年まで、カリフォルニアでフォークソングや反体制ソングなどでラジオの人気歌手となり、1939年から1940年にかけてニューヨークに移り住み、左翼とフォークミュージック界に受け入れられた。また彼は彼の最初であろう本物のレコーディングを行った。これは数時間の会話と歌、およびアルバム、ダストボールバラードから成るもので、アメリカ議会図書館に勤務する音楽学者アラン・ロマックスが録音し、ニュージャージー州カムデンのビクター・レコードに収められた。
彼は自叙伝「Bound for Glory」[1]を書き始め、1943年に完成し出版された。
1940年にガスリーは彼の最も有名な歌「我が祖国」(This land is your land) を書いたが、これは、一部は彼の放浪中の経験、また一部はアーヴィング・バーリンの歌「神よアメリカを祝福したまえ」(God bless America)に対する反発によってインスパイアされたものである。ガスリーはバーリンの歌が非現実的で自己満足的であると嫌悪し、ケイト・スミスがラジオでそれを歌うのを聞くことがもう嫌であった。
このメロディーは、1930年頃にカントリー / ブルーグラスのグループ、ザ・カーター・ファミリーによって歌われ最もよく知られたゴスペル「世界が燃える時」に基づいていた。ガスリーは最後の節で階級の不平等を敢然と主張した、彼の反資本主義感が丸出しであるが、この節は後のレコーディングに省かれていることが多い。ガスリー自身も時々省いていたようである。
1941年5月にガスリーは、内務省とボネビル電力管理局から、コロンビア川および連邦ダムの建物に関する歌を書くことを委嘱された。このうち最も知られているのは、「ロールオン・コロンビア」と「グランド・クーリー・ダム」である。
1941年ピート・シーガーやその他の人たちと共に「オルマナック・シンガーズ」(Almanac Singers)を立ち上げる。
ガスリーは元来オルマナック・シンガーズと一緒に反戦の歌を書き歌ったが、結局は彼らは、彼らが関係した共産主義的な周辺人物とともに、反ファシスト運動に参加した。
ガスリーは彼のギターに有名なスローガン「この機械はファシストを死なせる」と書いた。彼は米国の商船隊に加入し、そこで仲間のフォークシンガー、シスコ・ヒューストンと共に徴用についた。その後米国の陸軍にも入った(ただし入営は1945年5月8日で直接の戦闘には携わっていない)。
1944年にガスリーは、フォークウェイズ・レコードのモーゼス・"モー"・アッシュに出会い、続く数年間はそこで「我が祖国」を始めとする何百もの作品を録音した。
彼は1942年にマージョリー・マツィアに求婚し始め、そして1945年に陸軍の賜暇の間に彼女と結婚した。彼らはコニーアイランドのマーメイド通りの家に引っ越して4人の子供たちと住んだ。4人の子供のうちの一人キャシーは4歳で火災で死んだが、このことは彼の重度のうつ病の原因になった。ガスリーの息子のアーロ・ガスリーは彼自身が有名なシンガーソングライターになった。 この期間に、ガスリーは童謡のコレクション「母と子のための好きになる歌」を書き録音した。これらにはアーロが9歳の時に書かれた歌「おやすみなさいリトルアーロ(おやすみなさいリトルダーリン)」を含む。
同時に、ガスリーはまだ時事問題の歌を書いていた。1948年のカリフォルニア州オークランドからメキシコに追放される28人のメキシコ人農場労働者を運んでいる飛行機の墜落事故は、詩「追われ人(ロスガトスの飛行機事故)」をインスパイアした。この詩は10年後にマーティン・ホフマンによって曲がつけられ、この歌はそれ以来ピート・シーガー、ボブ・ディラン、ザ・バード、ドリー・パートンおよびウディーの息子のアーロ・ガスリーのような奏者によってカバーされた。同時期に、やはり移民の出稼ぎ労働者の闘争に共鳴して「実りの牧場」が書かれた。
1940年代後半にはガスリーの健康は悪化しはじめた。そしてハンチントン病の徴候を示して、彼の行動は非常に不規則になった。彼は彼の家族を捨て、ランブリン・ジャック・エリオットと一緒にカリフォルニアに旅行して、そこで3度目の結婚をしてもう1人の子供をもうけた後、最終的にニューヨークに戻った。彼はアルコール使用障害と統合失調症を含む種々の病気と誤診の繰り返しののち、1954年についにハンチントン病(Huntington's Disease)と診断される。ハンチントン病は遺伝性の神経障害であり、ガスリーには母方の家系から遺伝されたものと思われる。病状は途中好転した時期もあるが、入退院を繰り返し、1967年10月3日クイーンズのクリードムーア精神病院で亡くなった。
ガスリーは3回結婚しており、その妻との間に何人かの子どもがいるが、その1人は幼少期に悲劇的な死に見舞われている。子どもたちの中でも比較的知られているのは、やはり歌手としてのキャリアをなしたアーロで、1947年の生まれである。
功績
ガスリーの死までに、彼の作品は新しい聴衆によって発見され、その一部はボブ・ディランを通して紹介されていた。ディランは、ガスリーの人生の最後の年に彼を訪問して彼を「私の最後の英雄」だと描写した。後にディランは5ページの賛辞「ウディ・ガスリーについての最後の考え」を書き、そして彼の最初の同名のアルバム(1962)に「ウディに捧げる歌」を入れた。
1964年に、フィル・オクスのデビューアルバム「オール・ザ・ニュース・ザッツ・フィット・トゥ・シング(歌うに適するすべてのニュース)」に収録されたガスリーの自伝と同名の歌「バウンド・フォー・グローリー(栄光への途上)」は、ガスリーへの賛辞と、いっそう論争の的になっている(特に社会主義的な)ガスリーの歌詞を忘れることをより好んだ近代的な聴衆の間に広がる修正主義と無知に対する批判を含んだ。
1967年にウディの妻マージョリー・ガスリーは支援を受けてハンチントン病と戦うための委員会を設立し、それは後にアメリカハンチントン病協会になった。
1995年に、ウディの娘のノラは英国の歌手ビリー・ブラッグに、彼女の父親が晩年に書いていた歌詞をレコーディングすることについて話をもちかけた。ブラッグはニューヨーク市のウディ・ガスリー・アーカイブにおいて歌詞を研究した後に、バンドWilcoと共に40のトラックを記録した。これらの一部が1998年のアルバム「マーメイド通り」と2000年の「マーメイド通り第2巻」で発表された。これらのアルバムはウディがマージョリーや家族と一緒に住んだコニーアイランドの通りから名前を取った。
彼女は同じくガスリーの未完成の歌の1つ「君が再び歌うのが聞こえる」の詞を使って歌を書くことをジャニス・イアンに話をもちかけた。イアンは、ガスリーの歌詞を若干変え彼女自身の歌詞もいくらか加えた上で、この歌のためにガスリーのスタイルで音楽を書いた。この歌は彼女の2004年のアルバム「ビリーの遺灰」で発表された。
ノラ・ガスリーは同じくパンクバンド、アンタイ・フラッグをアーカイブに招いた。その後、彼らは「Post-War Breakout」をカバーした。また「This Machine Kills Fascists」と呼ばれる歌を書いた。これらの努力はガスリーの音楽に新しい聴衆とファンをもたらした。ドロップキック・マーフィーは、彼らの2003年のアルバム「ブラックアウト」の中で「今夜は灯火管制 (Gonna Be A Blackout Tonight)」と題を付け、彼の未発表の歌をカバーをした。
初めに多くの議論があったけれども、ガスリーの名誉を称える像が彼の故郷オケマーのメイン・ストリートにある記念公園に立っている。またオケマーでは、各年夏に彼の業績を記念して、ウディ・ガスリー・フォーク・フェスティバルが開催されている。それは彼の姉妹メアリー・ジョー・エジモンによって設立されたウディ・ガスリー連盟によって主催されている。
ウディ・ガスリーを題材にした作品
- 映画『ウディ・ガスリー/わが心のふるさと』(第49回アカデミー賞撮影賞、編曲賞受賞作品)
脚注
- ^ 邦訳は中村稔・吉田廸子訳『ギターをとって弦をはれ』、晶文社、1975年
関連項目
外部リンク
- ウディ・ガスリー:秘蔵映像とリバイバル・ソングで綴るラディカルな人生 パート1 動画 日本語字幕付(デモクラシーナウ!ジャパン 2012.07.04)