「ビル・モンロー」の版間の差分
J Country Woman (会話 | 投稿記録) m →参考: Category:カントリー・ミュージックの殿堂入りの人物カテゴリ追加 |
|||
156行目: | 156行目: | ||
{{DEFAULTSORT:もんろお ひる}} |
{{DEFAULTSORT:もんろお ひる}} |
||
[[Category:アメリカ合衆国の歌手]] |
[[Category:アメリカ合衆国の男性歌手]] |
||
[[Category:カントリー・ミュージシャン]] |
[[Category:カントリー・ミュージシャン]] |
||
[[Category:ブルーグラス]] |
[[Category:ブルーグラス]] |
2016年11月12日 (土) 01:16時点における版
ビル・モンロー | |
---|---|
出生名 | ウィリアム・スミス・モンロー |
別名 | ブルーグラスの父 |
生誕 | 1911年9月13日 |
出身地 | アメリカ合衆国 ケンタッキー州 ロウジン |
死没 | 1996年9月9日 |
ジャンル | ブルーグラス |
職業 | ミュージシャン |
担当楽器 | マンドリン |
活動期間 | 1930年代~1996年 |
共同作業者 |
Grand Ole Opry (1939 – 1996) The Monroe Brothers Blue Grass Boys |
著名使用楽器 | |
マンドリン en:Gibson F5 |
ビル・モンロー(Bill Monroe, 1911年9月13日 - 1996年9月9日)はブルーグラスとして知られる音楽スタイルの確立に寄与したアメリカ人音楽家である。ブルーグラスの名は、彼のバンド名en:Blue Grass Boysから採ったもの。モンローは60年間、歌手・演奏者・作曲者・バンドリーダーとしての経歴を持ち、「ブルーグラスの父」と評される。
若年期
モンローはケンタッキー州ロウジンの農家の8人兄弟の末っ子として生まれた。父はジェームス・ブキャナン・モンロー(James Buchanan"Buck"Monroe)、母はメリッサ・ヴァンディバー・モンロー(Malissa Vandiver Monroe)。母とその兄弟ペンドレトン・ヴァンディバー(Pendleton"Pen" Vandiver)はどちらも音楽に関心が強く、モンローとその兄弟たちは、家庭内で音楽に親しみながら育った。
彼の兄たち、バーチとチャーリーは既にそれぞれフィドルとギターを自分の楽器にしていたため、家族でセッションするときは、ビルには小さく、望まないマンドリンが残された。彼はのちに、マンドリンの複弦で8本ある弦を4本取り除いて単弦にして弾かされたので、大きい音で演奏することができなかったと回想している。
母親はビルが10歳の時に亡くなり、その6年後には父親も亡くなった。兄弟たちが生まれ故郷を離れたため、彼は、叔父であるペン・ヴァンディバー(Pen Vandiver)と約2年間生活した。彼は、叔父がローカルダンスの際にフィドルを弾くとき、いつも伴奏していた。この時の経験が、のちにモンローの最も有名な曲の一つである"Uncle Pen"(1950年レコーディング、1972年のアルバム収録。伝統的なフィドル・チューンの楽曲)を生むこととなる。
またもう一つ、彼の音楽人生に影響したのは、ブルースを彼にもたらした黒人音楽家、アーノルド・シャルツ(en:Arnold Shultz)であった。
プロミュージシャンとしての経歴
1929年、モンローは、兄弟のバーチ、チャーリーと石油精製所で働くためインディアナへ引っ越した。そして友人のラリー・ムーア(Larry Moore)と共に音楽グループMonroe Brothersを結成、地元のダンス会やハウスパーティーで演奏した。バーチとラリーはすぐにグループを辞めたが、ビルとチャーリーはデュオとして活動を続け、ついにTexas Crystalsの支援を受け、最初はインディアナ、それからローワ、ネブラスカ、サウスカロライナ、ノースカロライナのラジオ局で、1934年から1936年の間、演奏して生活するようになった。
1936年、RCA VictorがMonroe Brothersとレコーディングの契約を締結した。彼らのゴスペル"What Would You Give In Exchange For Your Soul"はいきなりヒットをとばし、1936年から1938年の間に、VictorのBluebirdのため、60曲をレコーディングした。
1938年にMonroe Brothersが解散したのち、ビル・モンローはThe Kentuckiansをアーカンソーのリトル・ロックで結成したが、たった3か月しか続かなかった。そこで彼はアトランタ、ジョージアに行き、最初のBlue Grass Boysを ギター、クロー・ディビス(Cloe Davis)、フィドル、アート・ウートン(Art Wooten)、ベース、エイモス・ギャリーン(Amos Garren)と結成した。
1939年10月、彼はGrand Ole Opryの創設者であるジョージ・ヘイ(George D Hay)にJimmie Rodgersの"Mule Skinner Blues"をエネルギッシュに披露して印象付け、Grand Ole Opryのレギュラー出演のためのオーディションに通った。この曲はモンローがほかの7人のメンバーと、1940年RCA Victorの最初のソロレコーディングセッションの際に録られたものである。この時までに、Blue Grass Boysはギター・ボーカル、クライド・ムーディ(Clyde Moody)、フィドル、トミー・マグネス(Tommy Magness)、ベース、ビル・ウェスブルックス(Bill Wesbrooks)というメンバーになっていた。
速いテンポと楽器の妙技というブルーグラスの特徴は、早い時期の曲にさえ見られるが、モンローは既に、彼のグループのサウンドで、そういった音楽を試行錯誤していたのだ。ちなみに彼は、Victorのレコーディングではリードボーカルをすることは滅多になく、Monroe Brothersでやっていたようにハイ・テナーでのコーラスを好んでいた。
1945年のセッションでは、アコーディオンをフィーチャーしたが、すぐにこれをバンドから外した。
重要なのは、1942年、モンローがバンジョー弾きのディビッド・エイクマン(David "'Stringbean" Akeman)をBlue Grass Boysに加えたことだ。エイクマンは比較的旧式のスタイルで演奏し、楽器ソロでフィーチャーされることも滅多になかった。
モンローの1946年以前のレコーディングは、彼がやってきた弦楽器バンドの伝統と、次いで起こる音楽的な革新の間でのスタイルの移り変わりを表すものであったといえる。
ブルーグラスの起源とスター・モンローの最盛期
モンローの音楽にキーとなる発展は、1945年の12月、ノースカロライナの天才的なバンジョー弾きアール・スクラッグス(Earl Scruggs)がBlue Grass Boysに加わったことで起こった。スクラッグスは独特の3本指でのピッキングスタイルで演奏し、すぐさまOpryの聴衆の間でセンセーショナルを巻き起こした。
彼は、普段"Cedric Rainwater"の名の下に活動しているボーカル・ギター、レスター・フラット(Lester Flatt)、フィドル、チャビー・ワイズ(Chubby Wise)、ベース、ハワード・ワッツ(Howard Watts)を含む完成度の高いグループに加わった。振り返ってみれば、Blue Grass Boysのこの顔ぶれは"ブルーグラスバンドの祖"と言われ、爆発的なテンポ、凝ったボーカルハーモニーの編曲、マンドリン、バンジョー、フィドルでのソロや"ブレーク"による、楽器の熟練した印象的な演奏を含んでいることから、モンローの音楽がついにブルーグラスを特徴づけるすべての要素を持ったのだと言える。
この時点で、モンローは残りのキャリアの間、彼のトレードマークとなるマンドリン、1923年GibsonF5モデル"Lloyd Loar"を手にしている。
1946年と1947年に、Blue Grass Boysで28曲がレコーディングされ、すぐにブルーグラスにおける古典となった。その中には"Toy Heart"、"Blue Grass Breakdown"、"Molly and Tenbrooks"、"Wicked Path ofSin"、"My Rose of Old Kentucy"、"Little Cabin Home on the Hill"そして、モンローの最も有名な曲である"Blue Moon of Kentucky"などがある。後にモンローはこの曲をエルヴィス・プレスリーがロックとしてのカバーすることを承認している。元々ワルツのようなスローバラードの曲で、実はプレスリーのカバーの後、途中からより速い4拍子に転じる曲にアレンジしなおしてヒットしたのだった。
Flatt、Scruggs両者とも1948年初めにモンローのバンドを去り、すぐに彼ら自身でFoggy Mountain Boysを組んだ。そして、1950年代と60年代に"Foggy Mountain Breakdown"、"Cabin on the Hill"、"The Ballad of Jed Clampett"といったヒットを飛ばして商業的に目覚ましい成功を収めている。 モンローはリードボーカルとリズムギターのジミー・マーティン(Jimmy Martin)、バンジョーのルディ・ライル(Rudy Lyle、フィドルにチャーリー・クライン(Charlie Cline)、ボビー・ヒックス(Bobby Hicks)、バッサー・クレメンツ(Vassar Clements)をフィーチャーしてBlue Grass Boysを再編成した。このバンドは、"My Little Georgia Rose""On and On"、"Memories of Mother and Dad"、"Uncle Pen"やインスト曲"Roanoke""Big Mon""Stoney Lonesome""Get Up John"マンドリンフィーチャーの曲である"Raw Hide"など、ブルーグラスの古典の数々をレコーディングした。また、en:Stanley Brothers が一時的に解散していたとき、カーター・スタンリー(en:Carter Stanley)がギターリストとして1951年の短い間、Blue Grass Boysに加わっていた。
1953年1月16日、モンローは車の事故で大けがを負った。彼とBluegrass Boysのベース弾きであるバッシー・リー・マールディン(Bassie Lee Mauldin)がナッシュビルの北でキツネ狩りをして帰ってきているときのこと、ホワイトハウス近くで飲酒運転の車に衝突されたのだった。背中、左手、鼻を負傷したモンローはナッシュビルの総合病院に運ばれた。そして回復して、再開するまで、4か月を要したのだった。
この間、チャーリー・クラインとジミー・マーティンはともにバンドを守っていた。
しかし、1959年後半まで、モンローは商業的な成功という点ではうまくいっていなかった。ロックの興隆とカントリーミュージックの主流に"ナッシュビル・サウンド"が発展してきたということがブルーグラスの発展可能性への脅威を物語っていた。
en:Grand Ole Opryを支えにしながらも、モンローはシングルチャートにおける成果の落ち込み、ライブの要望の減少に直面するなかで、なんとかバンドを守ろうとしていた。
フォークの復活
モンローの運勢は1960年代初頭"フォークの復活"の時期に上昇し始めた。多くの大学生や若者たちがモンローを発見し、彼の音楽スタイルを、伝統的なフォークというより、以前からそう見られていたように、カントリー・ウェスタンのジャンルと捉えた。"bluegrass:ブルーグラス"という言葉はこのころ、モンローやフラットとスクラッグス、the Stanley Brothers、en:Osborne Brothersなどのモンローに似たスタイルのアーティストを指すものとしてはじめてあらわれた。
フラットとスクラッグスはすぐに、儲けられる新たな聴衆を市街や大学キャンパスに見出していたが、モンローは出遅れた。 しかしラルフ・リンズラー(en:Ralph Rinzler、1963年にモンローのマネージャーとなるNew Jersey出身の若いミュージシャン)の影響で、モンローの活動は徐々に、南の伝統的なカントリーミュージック圏を超えて広がっていった。また、リンズラーは長いプロフィールとインタビューを影響あるフォークの雑誌en:Sing Out!に、初めてモンローをブルーグラスの父として載せることに尽力した。また、初めてのブルーグラスフェスが、1965年バージニアで開かれ、モンローはその中心人物であった。
1960年代、モンローの音楽に全国的な人気が出てくると、徐々にミュージシャンが、彼のバンドに新たに加わっていくバックグラウンドとなっていった。
マサチューセッツ州出身のバンジョー、ビル・キース(Bill Keith)とボーカル・ギータリストのピター・ローワン(Peter Rowan)、ニューヨーク出身のフィドル、ジーン・ローウィンガー(Gene Lowinger)、メリーランド州出身のバンジョー、ラマー・グリアー(Lamar Grier)、カリフォルニア州のボーカル・ギターリスト、ローランド・ホワイト(Roland White)とフィドルのリチャード・グリーン(Richard Greene)ら、南部出身ではないミュージシャンがまさにそれである。
晩年
1960年代中頃、フォークの復活が衰退したのちでさえ、ブルーグラスに忠実な聴衆は残っていた。ブルーグラスのフェスは一般的になり、ファンは数日間にわたるパフォーマンスを見るために、長い距離を往った。
1967年、モンローはサウスインディアナのビーン・ブロッサム(Bean Blossom)でブルーグラスの年一回のフェスを立ち上げた。そこは、モンローが1951年に購入した公園であり、常々多くの人々を惹きつけていた。Bill Monroe Bean Blossam Bluegrass Festivalは今や、世界でもっとも古い、毎年行われるブルーグラスフェスである。
モンローの晩年の作曲には、インスト曲が多かった。”Jerusalem Ridge””Old Dangerfield””My Last Days on Earth”などである。
また彼は、若い世代のミュージシャンに影響を与え続ける」音楽的創始者として、新たな役割を担うようになっていった。モンローは1980年代に二つのデュエットアルバムをレコーディングした。最初のアルバムはエミルー・ハリス(Emmylou Harris)、ウェイロン・ジェニングス(Waylon Jennings)、Oak Ridge Boysといったカントリーのスターたちとのコラボレーションをフィーチャーし、一方次のアルバムでは、他の有名なブルーグラスミュージシャンと組んだ。1989年のライブアルバムでは、Grand Ole Opryにおける彼の50年記念を祝った。
モンローはなおも、多忙なツアースケジュールをこなし続けた。1990年4月7日、彼は、インディアナポリスとインディアナでウィリー・ネルソン(Willie Nelson)、ジョン・メレンキャンプ(John Mellencamp)、ニール・ヤング(Neil Young)ほか多くのアーティストとパフォーマンスを繰り広げた。
1996年4月、モンローは脳卒中になり、事実上彼のツアーとミュージシャンとしてのキャリアは終焉した。同年9月9日、モンローは亡くなった。
エミルー・ハリスは彼の死後、こう彼について語った。
- “彼(モンロー)が音楽を奏でようとしてできなかった、などということがこれまで決してなかったことを我々は皆知っている。音楽こそ彼の人生だったのだから。”
栄誉と遺産
モンローは1970年にカントリーの殿堂(en:Country Music Hall of Fame)、1971年にナッシュビル作曲家殿堂(en:Nashville_Songwriters_Hall_of_Fame)、1997年ロックの殿堂(初期の影響を与えた)に殿堂入りした。この3つの殿堂入りを果たしたほかのミュージシャンは、ジミー・ロジャース(Jimmie Rodgers)、ボブ・ウィルス(Bob Wills)、ハンク・ウィリアムス(Hank Williams Sr)、ジョニー・キャッシュ(Johnny Cash)しかいない。
また、1991年“ブルーグラスの父”として、国際ブルーグラス殿堂(en:International Bluegrass Music of Honor)に最初の殿堂入りを果たした。さらに、1993年にen:Grammy_Lifetime_Achievement_Award、1995年にNational Medal of Artsを受賞した。
彼の代表曲の一つである”Blue Moon of Kentucky”はブルーグラスだけでなく、ロックやカントリーのミュージシャンによってもカバーされている。特筆すべきは、エルヴィス・プレスリー、ポール・マッカートニー、パッツィ・クライン(en:Pasty Cline)である。
2003年には、CMTがビル・モンローをカントリーミュージックの偉大な40人の16位にランキングした。
彼は、いつも、自身はブルーグラスの父であり、世話人であると自負していた人物だった。
モンローに影響されたアーティスト
モンローのキャリア約60年間にわたり、Blue Grass Boysで活動したミュージシャンは150人以上に上る。彼は、まだ独り立ちする前の若い有望なミュージシャンをバンドに入れて、徒弟となることが多かった。
モンローのバンドメンバーで、卓越していった者の中には、ボーカル・ギターリストのクライド・ムーディ(Clyde Moody)、レスター・フラット(Lester Flatt)、トム・ユーイング(Tom Ewing)、バンジョーのブレイク・ウィリアムズ(Blake Wiliams)、ブッチ・ロビンス(Butch Robins)、アール・スクラッグス(Earl Scruggs)、フィドルのテイター・テイト(Clarence Tater Tate)ケニー・ベイカー(Kenny Baker)、ボビー・ヒックス(Bobby Hicks)らである。
また、フラット・ピッキング・ギターの名手であるドック・ワトソン(Doc Watson)とよく共演していたし、モダンなブルーグラスシンガーであり、マンドリン弾きであるリッキー・スキャッグス(Ricky Skaggs)はビル・モンローに大きな影響を受けた。スキャッグスがモンローと初めてステージに立ったのは、わずか6歳の時であった。
更に90年代前半にはよくエミル・ハリスとも共演していた。
モンローが作曲家として使用したペンネーム
Joe Ahr; Rupert Jones; Wilbur Jones; Albert Price; James B. Smith; James W. Smith.
ディスコグラフィー
- Knee Deep In Bluegrass - Decca DL 8731 (1958)
- I Saw The Light - Decca DL 8769/MCA 527 (1958)
- Mr.Bluegrass - Decca DL 4080/MCA 82 (1961)
- Bluegrass Ramble - Decca DL 4266/MCA 88 (1962)
- My All Time Country Favorites - Decca DL 4327 (1962)
- Bluegrass Special - Decca DL 4382 (1963)
- I'll Meet You In Church Sunday Morning - Decca DL 4537 (1964)
- Songs With the Bluegrass Boys - Vocalion VL 3702/Coral CB 20099 (1964)
- Bluegrass Instrumentals - Decca DL 4601/MCA 104 (1965)
- Bluegrass Style - Vocalion VL 7-3870/Coral CB 20077 (1965)
- The High Lonesome Sound - Decca DL 4780/MCA 110 (1966)
- Bluegrass Time - Decca DL 4896 (1967)
- Greatest Hits - Decca DL 7-5010/MCA 17 (1968)
- Bill Monroe & Charlie Monroe - Decca DL 7-5066/MCA 124(1969)
- A Voice From On High - Decca DL 7-5135/MCA 131 (1969)
- Kentucky Bluegrass - Decca DL 7-5213 (1970)
- Country Music Hall Of Fame - Decca DL 7-5281/MCA 140 (1971)
- Uncle Pen - Decca DL 7-5348 (1972)
- Bill & James Monroe, Father And Son - MCA 310 (1973)
- Bean Blossom - (1973)
- The Road Of Life - MCA 426 (1974)
- Weary Traveller - MCA 2173 (1975)
- Greatest Hits (1975)
- Sings Bluegrass, Body And Soul - MCA 2251 (1977)
- Bluegrass Memories - MCA 872 (1977)
- Bill & James Monroe, Together Again - (1978)
- Bean Blossom '79 (1979)
- Live Recordings 1956-1969: Off the Record Volume 1, Smithsonian Folkways,1993
- Live Recordings 1956-1969: Off the Record Volume 2, Smithsonian Folkways, 1993
参考
- Rumble, John (1998). "Bill Monroe". In The Encyclopedia of Country Music. Paul Kingsbury, Editor. New York: Oxford University Press. pp. 350-2.
- Smith, Richard D. (2000). Can't You Hear Me Callin': The Life of Bill Monroe, Father of Bluegrass. Little, Brown and Company. ISBN 0-316-80381-2.
- Rosenberg, Neil V., and Charles K. Wolfe (2007). The Music of Bill Monroe. University of Illinois Press. ISBN 0-252-03121-0.