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「ジェシー・リバモア」の版間の差分

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ちなみにリバモアは[[現金]]ではなく代わりに株価が上昇した暁に利益を得られる[[新株予約権]]を受け取るといった形で報酬を受け取っていた。
ちなみにリバモアは[[現金]]ではなく代わりに株価が上昇した暁に利益を得られる[[新株予約権]]を受け取るといった形で報酬を受け取っていた。


彼に関する著書に''[[:w:Reminiscences of a Stock Operator|Reminiscences of a Stock Operator]]'' (株式投資家の回想)がある。晩年のリバモアが生涯を回想する自伝の形式をとっているが、経済ジャーナリストの[[:w:Edwin Lefèvre|エドウィン・ルフェーブル]]によるフィクションである。相場書の古典とされており、現在まで定期的な再出版が続いている。また日本語にも翻訳されている<ref>邦題「欲望と幻想の市場」 東洋経済新報社 1999年 ISBN-10:4492061118</ref>。
彼に関する著書に''[[:w:Reminiscences of a Stock Operator|Reminiscences of a Stock Operator]]'' (株式投資家の回想)がある。晩年のリバモアが生涯を回想する自伝の形式をとっているが、経済ジャーナリストの[[:w:Edwin Lefèvre|エドウィン・ルフェーブル]]によるフィクションである。相場書の古典とされており、現在まで定期的な再出版が続いている。また日本語にも翻訳されている<ref>邦題「欲望と幻想の市場」 東洋経済新報社 1999年 ISBN 4492061118</ref>。


==エピソード==
==エピソード==
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==参考文献==
==参考文献==
* ジェシー・ローリストン・リバモア 『孤高の相場師リバモア流投機術ー大恐慌を売り切った増し玉の極意』 パン・ローリング 2007年12月 ISBN13:978-4-7759-3041-0
* ジェシー・ローリストン・リバモア 『孤高の相場師リバモア流投機術ー大恐慌を売り切った増し玉の極意』 パン・ローリング 2007年12月 ISBN 978-4-7759-3041-0
* エドウィン・ルフェーブル 『欲望と幻想の市場 伝説の投機王リバモア』 東洋経済新報社 1999年4月15日
* エドウィン・ルフェーブル 『欲望と幻想の市場 伝説の投機王リバモア』 東洋経済新報社 1999年4月15日
* リチャード・スミッテン 『世紀の相場師 ジェジー・リバモア』 角川書店 2001年
* リチャード・スミッテン 『世紀の相場師 ジェジー・リバモア』 角川書店 2001年

2016年11月15日 (火) 15:37時点における版

ジェシー・ローリストン・リバモア(Jesse Lauriston Livermore、1877年7月26日 - 1940年11月28日)はアメリカの著名な投機家、相場師である。「ウォール街のグレートベア」という異名をもつ。

概要

マサチューセッツ州シュルーズベリー出身。

農業を継がせようとしていた父に反発し、母の手助けにより14歳で家を飛び出し、ボストンで株仲買店の小僧になった。生まれつき数理の才に恵まれたリバモアは、ここで独自にティッカーテープを読んで、相場変動の特性を探るようになっていたが、15歳のとき年上の同僚から合百(店が客に、実際の株式の値動きに賭けさせる賭博)に誘われ、3ドル12セントを儲けた時から投機家へと足を踏み出すことになる。彼は『無鉄砲な少年相場師(boy plunger)』の異名が付くほど合百の店を相手に勝ち続け、ついにはどこの店も彼を相手にしなくなった。そこで1897年ニューヨーク証券取引所に発注する実際の株取引を開始するが、6ヶ月足らずで破産する(1度目の破産)。これは彼自身が後に語ったところによると、合百では注文が店頭で即刻執行されるのに対し、当時は電信を使っていたためにタイムラグがある本物の株取引の違いによるものであった。しかし、もぐりの証券会社の裏をかいて金を巻き上げ、復活する。

1900年10月、ネティ・ジョーダンと1度目の結婚。翌1901年、強気の相場に乗り5万ドル(現在の貨幣価値で20億円程度)の資産を作る。1906年、世界経済の情勢を分析して、この5万ドルを空売りに投じる。株価が下落するという読みは正しかったものの仕掛ける時期が早すぎたため、直後の株価の反騰の波に飲まれ、5月に2度目の破産。妻・ネティのために購入した高額の宝石類を質入して投機につぎ込むという頼みを断られたことをきっかけに、夫婦仲は悪化し別居が始まった。

1907年、2度の破産から立ち直り、100万ドル(現在の貨幣価値で200億円)の資産を保有するようになるが、「コットン・キング」の異名を持つパーシー・トーマスの勧めでコットン市場にも手を出すようになる。しかし1908年、コットン相場の大暴落で綿花の買い占めに失敗、莫大な負債を抱えることになる。

負債を抱えながら投機を続けることに限界を感じたリバモアは、債権者一人ひとりに「再起したら必ず負債は返す」と約束してまわった上で1915年2月18日、破産を申請、受理される(3度目の破産)。

破産が確定して精神的に開放されたリバモアは再び市場で勝ち始め、1917年に債権者達に負債を完済する。

同年10月に長年別居していたネティと離婚し、ショー・ガールだったドロシー・ウェントと出会って2度目の結婚。2児をもうける。

1929年9月4日世界恐慌の引き金となった暗黒の木曜日に向けた空売りを行ない、1億ドル(現在の貨幣価値で4000億円)以上の利益をあげる。10月24日、リバモアは大量の売りポジションを持っており、もし彼がこのまま売り続ければNY市場は本当に崩壊しかねない状態であった(リバモアは売り買いが上手くいっている時にさらに積み増すピラミッディングを得意とした)。ついにJ・P・モルガンがリバモアにわざわざ使いをよこし、市場を救済するため、これ以上の売りは行わないよう要請してきた。これを受け翌10月25日の朝、リバモアは猛然と買い戻しに入り、主要なあらゆる株をも買い捲る行動に出た。これをきっかけに市場の流れは変わり、暴騰相場が始まった。銀行家達は、リバモアの愛国的な行為に感謝した(彼は愛国心から買いに回った訳ではなく、銀行団が資金提供に合意したとの情報を得て買いへの転向を決めたという説もある。実際リバモアは、買った株を同日密かに売り抜けており、本当の暴落はこの後始まった)。

1932年9月16日、不倫が元で別居していたドロシーと離婚。離婚後しばらくしてハリエット・メッツ・ノーブルと出会い、1933年3月28日に結婚。ハリエットの結婚は4度目であり、しかも彼女の前夫たちはみな自殺していた。

1934年3月5日、4度目の破産。

1940年3月、息子ジェシー・ジュニアの勧めから『How to Trade in Stocks』を著すが評判はいま一つであった。同年11月28日ニューヨークホテルの一室で「どうしようもない。事態は悪くなるばかりだ。私は戦うのに疲れた。もう続けていけない。私にはこれしか方法がない。私は君の愛には値しない。私は失敗者だ。本当にすまないが私にはこれしか方法がないのだ」と書かれた遺書を妻に残し、ピストル自殺を遂げた。晩年はうつ病を患っていた。

彼が死に際して残した信託と現金は500万ドルにのぼっていた。

投機手法など

トレンドに従うという所は後世まで一貫しているが、年代や時期に応じて異なった手法を取り、数多くのトレードにおける失敗から開発改良を行っていた。

初期における手法は合百における超短期の売り買いを繰り返す。いわゆるスキャルピングという手法であった。しかしながらニューヨーク取引所における現物株式の投資ルールと、発注後即時約定され手数料も少ない合百の証拠金取引とでは取引所の方が1回辺りの売買手数料が多く、また約定のタイミングもブローカーによるタイムラグが生じてしまっていた為、失敗する。再度合百に戻り証拠金取引でスキャルピングを続けて再起を図る。

その後ニューヨーク取引所へ復活を果たした際にはファンダメンタルズ(経済指標となる貿易統計や会社の財務状態といった内面情報、株式市場全体の様子、政治情勢)を元にした長期的な上昇と下落の予測を元にしたトレンドフォロー型のトレーディングスタイルへと変えていく

また、カリフォルニア大地震が起こる前にユニオン・パシフィック株(鉄道株の主力銘柄であり、日本で言う所の東京電力株のような存在)を大量に売り込み、実際に大地震が起きて暴落する。 といった常人ではなしえない鋭い感性が根底となるトレーディングも度々行ったようである。

増し玉を使ったトレード手法も行っているが、ピラミッティングについてはあえて自身では否定しており、時間差やそのトレンドを確認した上での分散投資であると指摘している。 フィリップス・フィッシャーの様に成長株はいつ買っても良いが、1度で全て買わずに、時間をあけて買って行くという手法に近いものがある。

人生の後半にかけては株価操縦にも携わっていた。現在と比すると当時は、株価操縦の違法性が低かった。 当時の株価操縦と現在における仕手行為は似て非なるものであり、行為そのものの違法性はあくまでもグレーゾーンの域を出る事はなく、安値で放置されている株式を、経営者やオーナーの依頼を受けて売り捌くビジネスといった見方もできる。 ちなみにリバモアは現金ではなく代わりに株価が上昇した暁に利益を得られる新株予約権を受け取るといった形で報酬を受け取っていた。

彼に関する著書にReminiscences of a Stock Operator (株式投資家の回想)がある。晩年のリバモアが生涯を回想する自伝の形式をとっているが、経済ジャーナリストのエドウィン・ルフェーブルによるフィクションである。相場書の古典とされており、現在まで定期的な再出版が続いている。また日本語にも翻訳されている[1]

エピソード

カクテルオールド・ファッションドを非常に好んでいたエピソードが知られる。バーテンダーは彼が座ると注文を待たずに作ったという。

脚注

  1. ^ 邦題「欲望と幻想の市場」 東洋経済新報社 1999年 ISBN 4492061118

参考文献

  • ジェシー・ローリストン・リバモア 『孤高の相場師リバモア流投機術ー大恐慌を売り切った増し玉の極意』 パン・ローリング 2007年12月 ISBN 978-4-7759-3041-0
  • エドウィン・ルフェーブル 『欲望と幻想の市場 伝説の投機王リバモア』 東洋経済新報社 1999年4月15日
  • リチャード・スミッテン 『世紀の相場師 ジェジー・リバモア』 角川書店 2001年

外部リンク