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== 参考文献 ==
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*合田一道+犯罪史研究会『日本猟奇・残酷事件簿』[[扶桑社]] [[2000年]] [[ISBN]] 4-594-02915-9
*合田一道+犯罪史研究会『日本猟奇・残酷事件簿』[[扶桑社]] [[2000年]] ISBN 4-594-02915-9
*村野薫『日本の大量殺人総覧』[[新潮社]] [[2002年]] [[ISBN]] 4-10-455215-1
*村野薫『日本の大量殺人総覧』[[新潮社]] [[2002年]] ISBN 4-10-455215-1
*「明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典」、[[東京法経学院|東京法経学院出版]]、2002年
*「明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典」、[[東京法経学院|東京法経学院出版]]、2002年



2016年12月11日 (日) 01:40時点における版

貰い子殺人(もらいこさつじん)とは、不倫もしくは父親不明などといった何らかの事情により育てられない新生児を育てるといって貰い子にし、親から養育費を受け取った後で殺害する殺人である[1]。第二次世界大戦前、特に多く発生した。

概要

第二次世界大戦前の日本では、刑法堕胎は違法とされ、人工中絶も合法化されていなかった。そのため、不倫の子や父親不明の私生児が少なくなかった。特に、不倫の子の誕生は母親にとってはそれだけで離婚理由になるばかりでなく姦通罪で収監される危険があった。また、社会自体が貧しかったため、既に多くの子供のいる家庭では養うことはできない場合も多かった。

これらの事情により、育てられない新生児などを、ある程度の養育費をつけて貰い子、すなわち、里子に出す場合が少なくなかった。しかし、中には養育費目当てで貰い子を引受け、金銭受領後に邪魔になった新生児を殺害する者が存在した。被害者が新生児であるうえに、実親も多くは子供の運命に関心のないことが多かったことから、事件が露見しにくかった。そのため、大量殺人に至った場合も多かった。また、1955年ごろまでの医療技術・医療体制・出産に対する体制では、新生児・乳児の死亡は珍しいことではなかったため、医師も訴え出ればそれほど深く調べずに死亡診断書を書いてしまうことが多く、こうした犯罪の温床になっていた。

現在ではこのような養育費をつけて貰い子にだすことが多くないことと、助産師制度が国家資格化され医療と一体化されたこと、新生児死亡率が極度に下がり不審死と自然死が厳密に判定できるようになったことなどから、同種の犯罪はほとんど発生していない。

具体例

佐賀貰い子殺人事件(1905年発覚)
1902年佐賀市内在住の40代の夫婦が、金目当てで生後6ヶ月の女児を養育費70円で引き取り1年後に餓死させた。ところが、医師が自然死の死亡診断書を書いたので事件は発覚しなかった。これに味をしめた夫婦は、行商人の女とともに、近隣各県から私生児を10円から25円の養育費で引き取っては殺害し土に埋めた。なかには生き埋めにされた新生児もいた。夫婦は逮捕され、被害者は60人よりも少し多いと自供した。1910年6月7日、夫婦に死刑、行商人の女に懲役12年の刑が確定し、夫婦は1913年2月8日に死刑を執行された。事件が発覚した頃、夫婦の蛮行に激怒した住民が夫婦の家を破壊したという[2]
愛知貰い子殺人事件1913年発覚)
愛知県愛知郡在住の40代女性は、1898年より私生児を40 - 50円の養育費と共に引取ると次々と殺害[3]。犯行の足がつかないように2、3人殺すごとに引越しを繰り返し、日露戦争時には夫が出征・死亡するなどして未亡人となった女性の子供が犠牲となった。浮気相手を連れ込むための隠れ家で貰い子を殺害した2人の女性も共犯となり[4]1913年5月までには既に200人ほど殺害していたとされている[3]。子供を40円で預けたある芸妓が子供の顔を見ようと何度も女性の許を訪れたが会うことが出来ず、不審を抱き警察に相談して事件が発覚[3]。3人は1914年10月21日に死刑判決が言い渡され、1915年9月9日に刑が執行[5]
なお、これと相前後して名古屋市熱田界隈で50代の女性ら10人によって32名が貰い子殺しの犠牲となったことが同年6月27日に判明[6]し、同年6月30日滋賀県愛知郡の60代男性ら3名が共謀して9年前から貰い子殺人を繰り返していたことが発覚している[7]
板橋貰い子殺し事件(1930年発覚)
東京の板橋にあった岩の坂地区で貰い子が1年で41人が殺害された疑惑が発覚した。この地区の長屋の住民には、古くから上流階級などの不義の新生児などを貰い、子殺しをしていた者がいたとみられる。容姿の優れた女児と体力のある男児は育て、炭鉱夫や遊女として売ることもあったという[8]。また、わずかな期間で不審な死に方をした新生児もおおかったが、犯罪として実証された事例はほとんどなかったようだという。なお、この事件をスクープしたのは東京朝日新聞三角寛記者であるが、彼の経歴から事実が誇張された可能性もあるという。
川俣初太郎貰い子殺人事件(1933年
東京目黒在住の33歳の男が、「子供やりたし」の広告をみてはその広告の主である産婆の下に行き、何十円かの養育費を受け取ったうえで殺害していた。5年で25人を殺害していたが、その多くは主人が女中に産ませた子供や、働くために子供を手放した職業婦人の子供だったという。男は後に死刑になった[9]
寿産院事件(1948年)
ミルクや食べ物をほとんど与えないなど必要な世話をせず、また、病気になっても治療をしないことによって、1947年1月からの一年間で、預かった112人の嬰児のうち、85人を死亡させた。これらの嬰児の大部分は私生児で、貴族の子も2人いたという。預かり料は嬰児一人あたり最高8400円で、1947年だけで90万円を荒稼ぎしていた。院長の女とその夫と助手の女が殺人罪で起訴され、1948年10月11日、東京地裁は、院長の女に懲役8年、夫に懲役4年、助手の女には無罪を言い渡した[10]

脚注

  1. ^ 村野薫『日本の大量殺人総覧』p69
  2. ^ 明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典 p283
  3. ^ a b c 大阪毎日新聞 1913年6月4日
  4. ^ 大阪毎日新聞 1913年6月12日
  5. ^ 官報. 1915年09月14日
  6. ^ 大阪毎日新聞 1913年6月27日
  7. ^ 大阪毎日新聞 1913年6月30日
  8. ^ ここまで、明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典 p516,p517
  9. ^ 明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典 p158
  10. ^ 明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典 p347, p348

参考文献

関連項目