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*[http://ksa.axisz.jp/DC-3-5015.htm 北日本航空のDC-3に関するHP]
*[http://ksa.axisz.jp/DC-3-5015.htm 北日本航空のDC-3に関するHP]
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*Hawaiian Airlines: A Pictorial History of the Pioneer Carrier in the Pacific Paperback –[[1986年]] ISBN-13: 978-0933126817
*Hawaiian Airlines: A Pictorial History of the Pioneer Carrier in the Pacific Paperback –[[1986年]] ISBN 978-0933126817
*月刊[[エアワールド]]1981年7月号
*月刊[[エアワールド]]1981年7月号
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2017年1月11日 (水) 01:32時点における版

北日本航空(きたにほんこうくう)

  1. 北日本航空(1953年~1964年)は、1953年6月30日北海道で設立された日本航空会社である。英語名は"NORTH JAPAN AIRLINES”略称NJA,後に日東航空富士航空と合併し日本国内航空(1964年4月15日設立)となる。この項目で論述。
  2. 北日本航空(1968年設立)は、宮城県岩沼市に本社があるセスナ機による遊覧飛行を行う航空会社である。運航者略号はKNKである。

概要

1952年GHQによる占領が終了し、日本国内では定期旅客便運航を目的とする航空会社が数多く設立されたが、そのうち北海道内の定期航空便就航を目的に、道出身の操縦士美濃勇一(元満州航空パイロットで飛行時間1万を越えるベテランだった)ら道内の有志で1953年6月30日北日本航空株式会社として設立された。元北海道配電社長の山田良秀を初代社長に迎え、資本金は5,400万円(当時)。本社は札幌に置かれていた。

設立時に定期便の運航を目的として、1955年には中古のダグラス DC-3を戦後の日本で最初に導入し、阿寒号(登録記号:JA5015)と命名していた。しかし運輸省から道内の飛行場が未整備であることを理由に定期旅客免許が取得できず、宣伝飛行及び森林の薬剤散布に使用されるだけであった。1957年7月になって周遊飛行として札幌丘珠空港女満別空港(旧)→西春別空港(航空自衛隊計根別飛行場)→札幌の一方通行の不定期路線(季節運航)でようやく旅客輸送を行えるようになった。

定期航空運航の免許は1962年に取得し、DC-3型機とコンベア240型機で道内路線網をひいたが、航空路の方が速達性が高いとはいえ当時の航空運賃が国鉄(当時)よりも相当割高であったため、慢性的に経営赤字に苦しみ、函館空港経由東京・羽田空港便を開設したが収支改善には程遠い状況だった。1964年には資本金を12億円に増資したがこの頃には航空会社の事故が相次ぎ運輸省から地方の小規模な航空会社にたいし合併など集約で事業内容改善を求める指導が行われ、同年東急グループと資本財または業務提携の関係にあったローカル航空会社富士航空日東航空と合併し日本国内航空となり企業として消滅した。
日本国内航空は三社の事業範囲と中部地方、東日本にかけてローカル路線航路強化を図り日本航空と事業提携後、西日本で密着な航路ネットを敷いていた東亜航空と合併から東亜国内航空のち日本エアシステム(JAS)を経て日本航空インターナショナル(現在の日本航空)に至る。

使用機材

付記

ファイル:Img031C1.jpg
1979年発売日東化学 北日本航空 DC-3プラモデルのパッケージイラスト

DC-3型1955年5月6日(国籍登録記号)登録のJA5015機は1940年5月アメリカン航空納入のダグラスDST型(モデルDST-218B、寝台旅客機)c/n(製造番号)2216[1]米国籍登録記号NC25686でDC-3型シリーズ 原型にあたるモデルの機体で、このDSTモデルの乗降ドアは右側にあった。その後DC-3Aに準じ座席仕様に変更、米国陸軍徴用、パンアメリカン航空ノースカロライナ州のStare Airlinesを経て北日本航空へ、合併後の転売でフィリピンに渡り1997年まで現役だった。2012年マニラ空港敷地内で放置されている機体様子がネットや航空雑誌に掲載された。
1959年12月15日登録、もう一つのDC-3型JA5058機は1941年8月6日製造c/n4806、米国籍登録記号NC33606でハワイアン航空から購入。買取交渉の際「真珠湾攻撃のときゼロ・ファイター(零戦)から銃撃された機体だ。もし墜落した場合はおまえら日本人の責任だ。」とジョーク混じりに云われたという。このエピソードは月刊雑誌航空情報航空ジャーナルなど、戦後の航空事業再開初期を特集した記事多く紹介され、公式の被害記録にはホノルル空港で乗客を乗せ離陸に向けタキシング中被弾、コックピットの一部が燃えたが消し止められ乗員乗客は無事(以上概要略記)、とある。
JA5058機はハワイアン航空で運用中にオリジナルのDC-3A型からヴュー・マスター(Vew Master)またはパノラマ・ウインドウと呼ぶ横長大型風防(窓)に変更改造され遊覧飛行と定期便両方で運行されていた。
北日本航空ではこのハワイアン航空の機体塗装(マーキング)を大変気に入り同社の了承を貰いこのデザインをJA5015機とその後導入したコンベアCV-240型機(JA5068)に施した。
札幌丘珠空港の二代目旧ターミナルビル(1991年まで存在)にあった「軽食喫茶フロンテア」と現ターミナルのレストランを2012年11月まで運営していた(株)北日本航空観光は北日本航空のシンボルマークを引き継ぎ使用していた(資本など関係は不明)。
1979年日東科学からDC-3型の1/100スケールプラモデルが発売された。後期のDC-3A型を模して北日本航空、日本国内航空とTWAの機体を再現できる内容で、スケールモデルとして、イラストに描かれた機体にあるシンボルマークは不正確など欠点は多く前述の通り北日本航空のJA5015とJA5058両機は標準のDC-3A型とは異なりドアの位置、風防の形状や数と位置など独自の特徴を持ちこの模型は実際とは異なったが説明書にある色塗り参考の二面図とデカールは塗装をほぼ正確に再現、1962年以降の北日本航空機塗装様子を立体として把握できる。
この模型のシリーズにはC-47型機のラインナップが有り共通パーツでスキーが付属していた。組立て説明書にはスキーをオプションとしていたが、北日本航空機でスキーを用いた離着陸は無い。

脚注

  1. ^ c/n2217とする資料もある。ここではJoseph F. Baugher(www.joebaugher.com/)「1942 USAAF Serial Numbers (42-50027 to 42-57212)42-56106」を引用した。

外部リンク

参考文献

  • 日本ヒコーキ物語〈北海道篇)著者平木国夫 冬樹社 1980年02月 ASIN: B000J8AI5U