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{{出典の明記|date=2013年8月}}
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[[ファイル:ICC CWC 2007 team captains.jpg|thumb|[[ブレザー]]を着たクリケットの選手たち]]
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'''洋服'''(ようふく)とは、西洋服の略で、[[西洋]]風の[[衣服]]のこと<ref name="koujien">広辞苑第6版「洋服」</ref>。英語の ''western clothes'' におおむね該当する<ref>プログレッシブ和英中辞典【洋服】</ref>。ヨーロッパの[[服飾]]に起源を持つが、[[列強]]各国の各地進出に伴なって、[[アメリカ大陸]]や[[オセアニア]]等の[[植民地]]をはじめ、世界各地で広く用いられ、[[19世紀]]末以降の[[近代化]]とともに、[[中国]]や[[日本]]等でも使用されるようになった。この過程で、[[日本語]]や[[中国語]]、[[朝鮮語]]において、伝統的な衣服([[日本]]の場合[[和服|和服・着物]])に対する概念として、これらの西洋起源の衣服が「洋服」と呼ばれるようになった<ref name="nipponica">[[辻ますみ]]「洋服」『[[日本大百科全書]]』</ref><ref name="kokushi">[[中山千代]]「洋服」『[[国史大辞典]]』</ref>。それ以前には、オランダ(阿蘭陀)から来た服という意味で'''蘭服'''(らんふく)<ref>『学生服の秘密』7頁。</ref>、'''[[南蛮]]服'''(なんばんふく)、'''[[紅毛]]服'''(こうもうふく)と呼ばれていた<ref name="kokushi" />。洋服は各地の[[民族服|伝統的な服飾]]の要素も取り入れながら発展し、[[民族服]]の形成・変化にも影響を与えた。現在では、[[背広]]や[[ドレス]]、[[シャツ]]と[[ズボン]]や[[スカート]]の組み合わせ等の他、[[アメリカ合衆国]]を中心に発展した簡素な[[Tシャツ]]、[[ジーンズ]]等が世界中で使用されている。今日の日本では、洋服が一般的になったため、単に「服」といえば洋服を、「着物(きもの)」といえば[[和服]]を指すことが多い。何百年も前から人々は自分を表す為に洋服又被服を纏ってきた。
'''洋服'''(ようふく)とは、西洋服の略で、[[西洋]]風の[[衣服]]のこと<ref name="koujien">広辞苑第6版「洋服」</ref>。英語の ''western clothes'' におおむね該当する<ref>プログレッシブ和英中辞典【洋服】</ref>。[[ヨーロッパ]]の[[服飾]]に起源を持つが、[[列強]]各国の各地進出に伴なって、[[アメリカ大陸]]や[[オセアニア]]等の[[植民地]]をはじめ、世界各地で広く用いられ、[[19世紀]]末以降の[[近代化]]とともに、[[中国]]や[[日本]]等でも使用されるようになった。この過程で、[[日本語]]や[[中国語]]、[[朝鮮語]]において、伝統的な衣服([[日本]]の場合[[和服|和服・着物]])に対する概念として、これらの西洋起源の衣服が「洋服」と呼ばれるようになった<ref name="nipponica">[[辻ますみ]]「洋服」『[[日本大百科全書]]』</ref><ref name="kokushi">[[中山千代]]「洋服」『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』</ref>。
それ以前には、[[オランダ]](阿蘭陀)から来た服という意味で'''蘭服'''(らんふく)<ref>『学生服の秘密』7頁。</ref>、'''[[南蛮]]服'''(なんばんふく)、'''[[紅毛]]服'''(こうもうふく)と呼ばれていた<ref name="kokushi" />。洋服は各地の[[民族服|伝統的な服飾]]の要素も取り入れながら発展し、[[民族服]]の形成・変化にも影響を与えた。現在では、[[背広]]や[[ドレス]]、[[シャツ]]と[[ズボン]]や[[スカート]]の組み合わせ等の他、[[アメリカ合衆国]]を中心に発展した簡素な[[Tシャツ]]、[[ジーンズ]]等が世界中で使用されている。今日の日本では、洋服が一般的になったため、単に「服」といえば洋服を、「着物(きもの)」といえば[[和服]]を指すことが多い。何百年も前から人々は自分を表す為に洋服又被服を纏ってきた。


[[縫製]]技術から見ると、[[和服]]が直線に[[裁断|裁った]]生地を縫い合わせるのが基本であるのに対し、洋服は身体の形状に合わせて曲線的に裁った生地を縫い合わせるのが基本である。
[[縫製]]技術から見ると、[[和服]]が直線に[[裁断|裁った]]生地を縫い合わせるのが基本であるのに対し、洋服は身体の形状に合わせて曲線的に裁った生地を縫い合わせるのが基本である。
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[[ファイル:TokugawaYoshinobu.jpg|thumb|[[ナポレオン3世]]から贈られた司令官服を着る[[徳川慶喜]]]]
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[[File:Japanese Upper class children 1920.jpg|thumb|1920年(大正9年)、資産家の子供たち。]]
[[16世紀]]、[[ポルトガル]]や[[スペイン]]から[[キリスト教]][[宣教師]]等が[[日本]]に渡来すると、日本でも西洋風の服飾(南蛮服)が見られるようになった<ref name="nipponica" /><ref name="kokushi" />。[[織田信長]]は西欧の服や鎧を着ることも好んだことが知られている。[[江戸時代]]、日本は[[鎖国]]政策を敷いたため、基本的には人々が西洋風の衣服を目にすることはなかったが、[[長崎]]の[[出島]]に駐留する[[オランダ人]]等の服装は、出島以外でも、[[オランダ商館|オランダ商館長]]の江戸参府等を通じて目にすることができた。
[[16世紀]]、[[ポルトガル]]や[[スペイン]]から[[キリスト教]][[宣教師]]等が[[日本]]に渡来すると、日本でも西洋風の服飾(南蛮服)が見られるようになった<ref name="nipponica" /><ref name="kokushi" />。[[織田信長]]は西欧の服や鎧を着ることも好んだことが知られている。[[江戸時代]]、日本は[[鎖国]]政策を敷いたため、基本的には人々が西洋風の衣服を目にすることはなかったが、[[長崎市|長崎]]の[[出島]]に駐留する[[オランダ人]]等の服装は、出島以外でも、[[オランダ商館|オランダ商館長]]の江戸参府等を通じて目にすることができた。


[[1858年]]の[[日米修好通商条約]]により各地の[[港]]が開かれると、役人や[[通訳]]などの直接[[外国人]]と交渉をする立場の人間を中心として、洋服を着用するものが現われた。[[江戸時代]]には[[キリスト教]]に対する[[禁教令]]により、洋服を着ることは忌避されたが、幕末に至り[[軍備]]の西洋化を進める[[藩|諸藩]]や幕府では、西洋式の[[軍服]]を導入した。[[1864年]]、[[禁門の変]]を理由に[[長州]]征伐の兵を挙げるに際しては、[[軍服]]を西洋式にすることを決め、[[小伝馬町]]の商人である[[守田治兵衛]]が2000人分の軍服の製作を引き受け、試行錯誤しながらも作り上げた。日本においての洋服の大量生産は、記録に残る限りこれが初だとされる。この頃、最後の将軍[[徳川慶喜]]が[[ナポレオン3世]]から贈られた[[司令官]]服を着用した写真が残っている。また[[長州]][[奇兵隊]]の兵も西洋式の軍服を着ていた。
[[1858年]]の[[日米修好通商条約]]により各地の[[港]]が開かれると、役人や[[通訳]]などの直接[[外国人]]と交渉をする立場の人間を中心として、洋服を着用するものが現われた。[[江戸時代]]には[[キリスト教]]に対する[[禁教令]]により、洋服を着ることは忌避されたが、幕末に至り[[軍備]]の西洋化を進める[[藩|諸藩]]や幕府では、西洋式の[[軍服]]を導入した。[[1864年]]、[[禁門の変]]を理由に[[長州]]征伐の兵を挙げるに際しては、[[軍服]]を西洋式にすることを決め、[[小伝馬町]]の商人である[[守田治兵衛]]が2000人分の軍服の製作を引き受け、試行錯誤しながらも作り上げた。日本においての洋服の大量生産は、記録に残る限りこれが初だとされる。この頃、最後の将軍[[徳川慶喜]]が[[ナポレオン3世]]から贈られた[[司令官]]服を着用した写真が残っている。また[[長州]][[奇兵隊]]の兵も西洋式の軍服を着ていた。


[[明治政府]]は[[欧化政策]]をとり、その一環として[[伊藤博文]]は[[宮中]]での洋服着用を推進した。[[1872年]]の太政官布告339号(大礼服及通常礼服ヲ定メ衣冠ヲ祭服ト為ス等ノ件)により、[[男性]]については、ヨーロッパの宮廷服にならった[[大礼服]]などが定められた。またその前年の[[1871年]]の[[散髪脱刀令]](太政官399号)により髪型も従来の髷から散切り頭が一般にも広まった。以後、[[警官]]・[[鉄道員]]・[[郵便夫]]等の制服、また教員の服装などが西洋化した。制服の製造またその払い下げ品を扱うところから、洋服の仕立て屋や貸し出し店が各地にできた。[[大正時代]]に[[サラリーマン]]層が成立すると、公の場では少なくとも[[男性]]は洋装をし[[ネクタイ]]を着用するのが当たり前となった。しかし、自宅に戻ると[[和服]]を着て過ごす人も多く、職業によっては仕事の際にも和服を着用した。
[[明治政府]]は[[欧化政策]]をとり、その一環として[[伊藤博文]]は[[宮中]]での洋服着用を推進した。[[1872年]]の太政官布告339号(大礼服及通常礼服ヲ定メ衣冠ヲ祭服ト為ス等ノ件)により、[[男性]]については、ヨーロッパの宮廷服にならった[[大礼服]]などが定められた。またその前年の[[1871年]]の[[散髪脱刀令]](太政官399号)により髪型も従来の髷から散切り頭が一般にも広まった。以後、[[警官]]・[[鉄道員]]・[[郵便夫]]等の制服、また教員の服装などが西洋化した。制服の製造またその払い下げ品を扱うところから、洋服の仕立て屋や貸し出し店が各地にできた。[[大正時代]]に[[サラリーマン]]層が成立すると、公の場では少なくとも[[男性]]は洋装をし[[ネクタイ]]を着用するのが当たり前となった。しかし、自宅に戻ると[[和服]]を着て過ごす人も多く、職業によっては仕事の際にも和服を着用した。だが洋服は和服よりも防寒性、活動性に優れるため、明治期に開拓が本格化した[[北海道]]では洋服がいち早く普及した。


一方、[[女性]]の洋装化は遅れ、[[上流階級]]では[[鹿鳴館]]の舞踏会で着用されたほか、[[1886年]]に女性の[[大礼服]]などが定められたが、一般には[[和服]]が着用された。大正時代に入ると、[[大正デモクラシー]]の影響下、[[モボ・モガ|モダン・ガール(モガ)]]や、バスの女車掌などの[[職業婦人]]は洋服を着た。また、[[1923年]]の[[関東大震災]]では、身体の動作を妨げる構造である[[和服]]を着用していた女性の被害が多かったことから、翌[[1924年]]に「[[東京婦人子供服組合]]」が発足し、女性の服装の西洋化を目指す運動が盛んになった。[[1927年]][[9月21日]]には、同組合主催により、当時の銀座[[三越]]において日本国内初の[[ファッションショー]]が開催される。これは一般から[[デザイン]]を募ったファッションショーでもあった。また、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]にあった「[[白木屋 (デパート)|白木屋]]」デパートにて発生した大規模火災で、和装の人々に被害が多かったという認識が示されたことも相まって、従業員の服装を西洋式に改める百貨店が増加した。
一方、[[女性]]の洋装化は遅れ、[[上流階級]]では[[鹿鳴館]]の舞踏会で着用されたほか、[[1886年]]に女性の[[大礼服]]などが定められたが、一般には[[和服]]が着用された。1908年、東京新橋駅構内に、洋装の花売り娘(14歳)が現われ、評判となった<ref>報知新聞1908年6月1日</ref>。大正時代に入ると、[[大正デモクラシー]]の影響下、[[モボ・モガ|モダン・ガール(モガ)]]や、バスの女車掌などの[[職業婦人]]は洋服を着た。また、[[1923年]]の[[関東大震災]]では、身体の動作を妨げる構造である[[和服]]を着用していた女性の被害が多かったことから、翌[[1924年]]に「[[東京婦人子供服組合]]」が発足し、女性の服装の西洋化を目指す運動が盛んになった。[[1927年]][[9月21日]]には、同組合主催により、当時の銀座[[三越]]において日本国内初の[[ファッションショー]]が開催される。これは一般から[[デザイン]]を募ったファッションショーでもあった。また、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]にあった「[[白木屋 (デパート)|白木屋]]」デパートにて発生した大規模火災で、和装の人々に被害が多かったという認識が示されたことも相まって、従業員の服装を西洋式に改める百貨店が増加した。


洋服に対して女性が抱いていた感覚的な抵抗感のひとつに、和服とは違い、羽織って袖を通すのでなく「頭からかぶって着る」という着脱方式の違いがあったといい、これは1950年代にも言及されている<ref name="dressmaking">鎌倉書房「[[ドレスメーキング (雑誌)|ドレスメーキング]]」1954年3月号</ref>。
[[1930年代]]後半から[[1940年代]]前半にかけては、[[太平洋戦争]]の戦時体制下の物資欠乏により繊維・衣服の統制が極端に進んだ。[[1940年]]に国民服令によって男性の[[国民服]]が定められた。[[1942年]]からの[[配給#日本|衣料切符制度]]においてスーツの点数が高かったこともあり、流通する衣服の大半が点数の低い国民服となった。女性には和服と洋服を折衷した[[婦人標準服]]が制定されたが普及せず、和服を作り変えた[[もんぺ]]を着用した。戦争による壊滅的な打撃を受けた日本は、敗戦後は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]など[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]からの援助に頼ることになった。食料などと同様、衣料品も不足し、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の放出衣料([[古着]])を通して、洋服が流通し、「占領軍ファッション」として流行した。{{誰範囲|date=2015年3月|[[昭和博物館]]}}は[[昭和]]期の最大の事件は、日本人の洋装化であると述べている。

[[1930年代]]後半から[[1940年代]]前半にかけては、[[太平洋戦争]]の戦時体制下の物資欠乏により繊維・衣服の統制が極端に進んだ。[[1940年]]に国民服令によって男性の[[国民服]]が定められた。[[1942年]]からの[[配給 (物資)#日本|衣料切符制度]]においてスーツの点数が高かったこともあり、流通する衣服の大半が点数の低い国民服となった。女性には和服と洋服を折衷した[[婦人標準服]]が制定されたが普及せず、和服を作り変えた[[もんぺ]]を着用した。戦争による壊滅的な打撃を受けた日本は、敗戦後は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]など[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]からの援助に頼ることになった。食料などと同様、衣料品も不足し、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の放出衣料([[古着]])を通して、洋服が流通し、「占領軍ファッション」として流行した。{{誰範囲|date=2015年3月|[[昭和博物館]]}}は[[昭和]]期の最大の事件は、日本人の洋装化であると述べている。


[[ナイロン]]をはじめ[[化学繊維]]の統制撤廃の後、化学繊維を使用した衣服が作られ始めるのは[[1951年]]頃で、[[繊維産業]]でも[[ビニロン]]やテトロン([[ポリエステル]]の商品名)、[[レーヨン]]などの化学繊維の開発、製造が進んだ。[[既製服]]の製造・販売業も興隆し、[[1960年代]]以降、衣料の大量消費の時代に入る。
[[ナイロン]]をはじめ[[化学繊維]]の統制撤廃の後、化学繊維を使用した衣服が作られ始めるのは[[1951年]]頃で、[[繊維産業]]でも[[ビニロン]]やテトロン([[ポリエステル]]の商品名)、[[レーヨン]]などの化学繊維の開発、製造が進んだ。[[既製服]]の製造・販売業も興隆し、[[1960年代]]以降、衣料の大量消費の時代に入る。
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|ファイル:Okuma Shigenobu 2.jpg|[[アカデミックドレス]]を着た[[大隈重信]]
|ファイル:Okuma Shigenobu 2.jpg|[[アカデミックドレス]]を着た[[大隈重信]]
|ファイル:Major Akiyama.PNG|[[騎兵]]服を着た[[秋山好古]]
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|ファイル:Empress Sadako.jpg|女子の大礼服[[マント・ド・クール]]
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* [[民族服]]
* [[民族服]]
* [[和服]]
* [[和服]]

== 外部リンク ==
*[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1065435 東京洋服商工同業組合沿革史]東京洋服商工同業組合、1942年
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[[Category:服飾]]
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2023年10月17日 (火) 13:50時点における最新版

ブレザーを着たクリケットの選手たち。

洋服(ようふく)とは、西洋服の略で、西洋風の衣服のこと[1]。英語の western clothes におおむね該当する[2]ヨーロッパ服飾に起源を持つが、列強各国の各地進出に伴なって、アメリカ大陸オセアニア等の植民地をはじめ、世界各地で広く用いられ、19世紀末以降の近代化とともに、中国日本等でも使用されるようになった。この過程で、日本語中国語朝鮮語において、伝統的な衣服(日本の場合和服・着物)に対する概念として、これらの西洋起源の衣服が「洋服」と呼ばれるようになった[3][4]

それ以前には、オランダ(阿蘭陀)から来た服という意味で蘭服(らんふく)[5]南蛮(なんばんふく)、紅毛(こうもうふく)と呼ばれていた[4]。洋服は各地の伝統的な服飾の要素も取り入れながら発展し、民族服の形成・変化にも影響を与えた。現在では、背広ドレスシャツズボンスカートの組み合わせ等の他、アメリカ合衆国を中心に発展した簡素なTシャツジーンズ等が世界中で使用されている。今日の日本では、洋服が一般的になったため、単に「服」といえば洋服を、「着物(きもの)」といえば和服を指すことが多い。何百年も前から人々は自分を表す為に洋服又被服を纏ってきた。

縫製技術から見ると、和服が直線に裁った生地を縫い合わせるのが基本であるのに対し、洋服は身体の形状に合わせて曲線的に裁った生地を縫い合わせるのが基本である。

日本における洋服

[編集]
ナポレオン3世から贈られた司令官服を着る徳川慶喜
長州奇兵隊
1920年(大正9年)、資産家の子供たち。

16世紀ポルトガルスペインからキリスト教宣教師等が日本に渡来すると、日本でも西洋風の服飾(南蛮服)が見られるようになった[3][4]織田信長は西欧の服や鎧を着ることも好んだことが知られている。江戸時代、日本は鎖国政策を敷いたため、基本的には人々が西洋風の衣服を目にすることはなかったが、長崎出島に駐留するオランダ人等の服装は、出島以外でも、オランダ商館長の江戸参府等を通じて目にすることができた。

1858年日米修好通商条約により各地のが開かれると、役人や通訳などの直接外国人と交渉をする立場の人間を中心として、洋服を着用するものが現われた。江戸時代にはキリスト教に対する禁教令により、洋服を着ることは忌避されたが、幕末に至り軍備の西洋化を進める諸藩や幕府では、西洋式の軍服を導入した。1864年禁門の変を理由に長州征伐の兵を挙げるに際しては、軍服を西洋式にすることを決め、小伝馬町の商人である守田治兵衛が2000人分の軍服の製作を引き受け、試行錯誤しながらも作り上げた。日本においての洋服の大量生産は、記録に残る限りこれが初だとされる。この頃、最後の将軍徳川慶喜ナポレオン3世から贈られた司令官服を着用した写真が残っている。また長州奇兵隊の兵も西洋式の軍服を着ていた。

明治政府欧化政策をとり、その一環として伊藤博文宮中での洋服着用を推進した。1872年の太政官布告339号(大礼服及通常礼服ヲ定メ衣冠ヲ祭服ト為ス等ノ件)により、男性については、ヨーロッパの宮廷服にならった大礼服などが定められた。またその前年の1871年散髪脱刀令(太政官399号)により髪型も従来の髷から散切り頭が一般にも広まった。以後、警官鉄道員郵便夫等の制服、また教員の服装などが西洋化した。制服の製造またその払い下げ品を扱うところから、洋服の仕立て屋や貸し出し店が各地にできた。大正時代サラリーマン層が成立すると、公の場では少なくとも男性は洋装をしネクタイを着用するのが当たり前となった。しかし、自宅に戻ると和服を着て過ごす人も多く、職業によっては仕事の際にも和服を着用した。だが洋服は和服よりも防寒性、活動性に優れるため、明治期に開拓が本格化した北海道では洋服がいち早く普及した。

一方、女性の洋装化は遅れ、上流階級では鹿鳴館の舞踏会で着用されたほか、1886年に女性の大礼服などが定められたが、一般には和服が着用された。1908年、東京新橋駅構内に、洋装の花売り娘(14歳)が現われ、評判となった[6]。大正時代に入ると、大正デモクラシーの影響下、モダン・ガール(モガ)や、バスの女車掌などの職業婦人は洋服を着た。また、1923年関東大震災では、身体の動作を妨げる構造である和服を着用していた女性の被害が多かったことから、翌1924年に「東京婦人子供服組合」が発足し、女性の服装の西洋化を目指す運動が盛んになった。1927年9月21日には、同組合主催により、当時の銀座三越において日本国内初のファッションショーが開催される。これは一般からデザインを募ったファッションショーでもあった。また、日本橋にあった「白木屋」デパートにて発生した大規模火災で、和装の人々に被害が多かったという認識が示されたことも相まって、従業員の服装を西洋式に改める百貨店が増加した。

洋服に対して女性が抱いていた感覚的な抵抗感のひとつに、和服とは違い、羽織って袖を通すのでなく「頭からかぶって着る」という着脱方式の違いがあったといい、これは1950年代にも言及されている[7]

1930年代後半から1940年代前半にかけては、太平洋戦争の戦時体制下の物資欠乏により繊維・衣服の統制が極端に進んだ。1940年に国民服令によって男性の国民服が定められた。1942年からの衣料切符制度においてスーツの点数が高かったこともあり、流通する衣服の大半が点数の低い国民服となった。女性には和服と洋服を折衷した婦人標準服が制定されたが普及せず、和服を作り変えたもんぺを着用した。戦争による壊滅的な打撃を受けた日本は、敗戦後はアメリカなど連合国からの援助に頼ることになった。食料などと同様、衣料品も不足し、GHQの放出衣料(古着)を通して、洋服が流通し、「占領軍ファッション」として流行した。昭和博物館[誰?]昭和期の最大の事件は、日本人の洋装化であると述べている。

ナイロンをはじめ化学繊維の統制撤廃の後、化学繊維を使用した衣服が作られ始めるのは1951年頃で、繊維産業でもビニロンやテトロン(ポリエステルの商品名)、レーヨンなどの化学繊維の開発、製造が進んだ。既製服の製造・販売業も興隆し、1960年代以降、衣料の大量消費の時代に入る。

脚注

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  1. ^ 広辞苑第6版「洋服」
  2. ^ プログレッシブ和英中辞典【洋服】
  3. ^ a b 辻ますみ「洋服」『日本大百科全書
  4. ^ a b c 中山千代「洋服」『国史大辞典
  5. ^ 『学生服の秘密』7頁。
  6. ^ 報知新聞1908年6月1日
  7. ^ 鎌倉書房「ドレスメーキング」1954年3月号

関連項目

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外部リンク

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