「奈良ドリームランド」の版間の差分
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'''奈良ドリームランド'''(ならドリームランド)は、かつて[[奈良県]][[奈良市]]北部に存在した[[遊園地]]である。[[1961年]][[7月1日]]に開業{{sfn|小川功|2015|p=}}し、ピーク時の1970年代には年間150万~160万人が訪れるなど、県を代表する遊園地として人気を集めたが、娯楽の多様化などで次第に業績が低迷{{sfn|奈良新聞|2016|p=}}。[[2006年]][[8月31日]]に閉園した{{sfn|小川功|2015|p=}}。 |
'''奈良ドリームランド'''(ならドリームランド)は、かつて[[奈良県]][[奈良市]]北部に存在した[[遊園地]]である。[[1961年]][[7月1日]]に開業{{sfn|小川功|2015|p=}}し、ピーク時の1970年代には年間150万~160万人が訪れるなど、県を代表する遊園地として人気を集めたが、娯楽の多様化などで次第に業績が低迷{{sfn|奈良新聞|2016|p=}}。[[2006年]][[8月31日]]に閉園した{{sfn|小川功|2015|p=}}。 |
2017年9月4日 (月) 17:15時点における版
奈良ドリームランド Nara Dream Land | |
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園内 | |
施設情報 | |
キャッチコピー | 奈良の夢の国 |
事業主体 | 日本ドリーム観光(ドリームパーク) |
管理運営 | 日本ドリーム観光(ドリームパーク) |
来園者数 | 160万人(最盛期) |
開園 | 1961年7月1日 |
閉園 | 2006年8月31日 |
所在地 |
〒630-8108 奈良県奈良市法蓮佐保山二丁目1番1号 |
位置 | 北緯34度41分58秒 東経135度49分21秒 / 北緯34.69944度 東経135.82250度座標: 北緯34度41分58秒 東経135度49分21秒 / 北緯34.69944度 東経135.82250度 |
公式サイト |
公式サイト (インターネットアーカイブ) |
奈良ドリームランド(ならドリームランド)は、かつて奈良県奈良市北部に存在した遊園地である。1961年7月1日に開業[1]し、ピーク時の1970年代には年間150万~160万人が訪れるなど、県を代表する遊園地として人気を集めたが、娯楽の多様化などで次第に業績が低迷[2]。2006年8月31日に閉園した[1]。
沿革
開園までの流れ
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第二次世界大戦後、奈良県での米陸軍第25歩兵師団隷下の第64野砲大隊などの進駐が1945年9月24日より行われた。駐屯に際し、当地の厚生省西部国民勤労訓練所(現航空自衛隊奈良基地)や帝国陸軍歩兵三十八聯隊練兵場などが接収された。広大な奈良ドリームランドの敷地はその接収地の一つであり、約10年にわたり連合軍の占領を受けた[3] 。米軍の接収が解除された後、この土地は奈良市の所管となったが、佐保山は1937年5月5日から風致地区に指定されていた為、その活用が問題になった。奈良ドリームランドの構想はその帰結であり、またその開園を条件として奈良市から払い下げられた土地に開園された。[要出典]
松尾國三がアメリカのアナハイムにあるディズニーランドに感激し、ウォルト・ディズニーに直接面会し日本に誘致しようとした事が建設のきっかけである。当初、ディズニーは本気に受け取っておらず、「その時が来たら力になる。」と返事。しかし松尾が技術者を連れて再び訪れた事で松尾の熱意に打たれたディズニーは、ディズニーランドのノウハウ(実際には単なる遊園地経営のノウハウだった)を無償で与え、建設時にもディズニーランド側から技術者を派遣させたという[4]。なお、この無償のノウハウ提供と技術者派遣は日本にディズニーランドを作る目的ではなく、あくまでも日本人が日本に独自の遊園地を作ることに協力するという目的であった[5][6]。
奈良ドリームランド側が一方的にディズニーランドを名乗るためにディズニー側と交渉したが、無論ディズニー側にはそんなつもりもなく、東京ディズニーランド建設の経緯から分かるように、細部にまでディズニーの「イマジニア」がデザイン・設計するこだわりがあるように、ノウハウ提供・一部での技術協力のみで作られたパークがディズニーランドと名乗ることなど無かったのである[5][6]。一方、パーク側によればフランチャイズ契約交渉にはこぎ着けたが、フィー(契約料)で折り合わず破談になったという[4]。
日本人独自のパークを作ることを前提に協力したにも関わらず、奈良ドリームランド側がディズニーランドを模倣し、質の低い施設を勝手に作ったことが、日本でのディズニーランド誘致の障害となった[5][6][7]。東京ディズニーリゾートの運営母体であるオリエンタルランドの代表取締役会長(兼)CEOを務める加賀見俊夫は著書の中で、直接名称を挙げてはいないものの、生前のディズニーが奈良ドリームランドの一件に強い不快感を示し、「日本人は二度と信用しない」とした上で、ディズニーランド側が京成電鉄・三井不動産によるディズニーランド誘致交渉を当初は拒否したため、実現は非常に困難だったと述べている[5][6]。
開園後
千日土地興行(後の日本ドリーム観光、松尾國三代表)の手によって1961年7月1日に開業した。
1993年、ダイエーが日本ドリーム観光を吸収合併し、同グループの「ドリームパーク」が経営していたが、2005年11月に経営再建中のダイエーは非中核事業の整理の一環として「ドリームパーク」の経営権を不動産会社の「テンラッシュ」に譲渡した。
休園日は毎週火曜日(夏・冬・春休み期間は毎日営業)。しかし、2002年途中からは土曜・日曜・祝日のみの営業となり、平日は休園していた(夏・冬・春休み期間とその前後は毎日営業)。
閉園後
跡地について奈良市は渋滞緩和を目的としたパークアンドライド型の観光客向け大規模駐車場に転用することを検討しているが、開発規制区域指定が多重に掛かっている(市街化調整区域にあり、土地利用法がかなり制限され、学校や福祉施設などの公共施設の様な開発しか認められない)、土地の権利が分散しており権利者からの承認を得るのが非常に困難、遊具撤去等の費用がかかる、などの理由により入札を行っても応募者が全く無い状態であった[8][9][10]。 2015年11月10日、改めて「破格の安さ」で公売が行われた結果、大阪市の不動産会社「SKハウジング」1社が応札し、最低見積価格の7億3000万円で落札した[11]。ただし、今後どのように跡地を利用するのかなど、具体的な事は全く未定である。
閉園後も施設・遊具は撤去されず、侵入者が後を絶たなかったため、地元住民や県警が安全対策として工作物を撤去するよう要請していたが、2016年10月より解体工事が開始された[2]。
2004年には同じ奈良市にあった近鉄あやめ池遊園地も閉鎖されており[12]、奈良県内の遊園地は生駒山上遊園地のみとなった。
なお、「ドリームランド」の名前はかつての同グループだったローソンの店名として現在でも残っている[13]。また、奈良交通のバス停の名称としても長らく残っていたが2015年4月1日に「法蓮佐保山三丁目」に改称された[14]。
主なアトラクション・施設
ディズニーランドを模倣したことによりディズニーランドと非常に似たエリア構成になっており、「未来の国」「幻想の国」「冒険の国」「過去の国」「メインストリート」の5つのエリア(開園当時)で構成されていた。また、「潜水艦」「大海賊」「モノレール」など当時では画期的なアトラクションを採用し人気を博した。しかし末期にはアトラクションや売店の休止・廃業が多く、ウルトラマンタウンも閉園前に閉鎖された。施設の追加は敷地の一部の「カプリプール」への転用や、1998年開設の木造ジェットコースター「ASKA」が目立つ程度である。
- アイススケート
- 木製コースターASKA
- アンティークカー
- イベントホール
- ウッディーガーデン
- お城 - 原型は本家ディズニーランドにある「眠れる森の美女の城」。
- お化け屋敷(洋風・和風あり)
- 外周列車
- キッズバイキング
- ゴーカート
- ジャングル巡航船 - 原型は本家ディズニーランドにある「ジャングルクルーズ」。
- スカイウェイ - 末期は休止。
- スクリューコースター
- スペースライナー - 末期は休止。東京芝浦電気(現・東芝)製の跨座式モノレールで、のちのドリーム開発ドリームランド線のベースになった。
- スワンサイクル
- 展示会会場
- ドリーム神社
- バギーカート
- 馬車鉄道 - 末期は廃止
- ファンタジーコースター
- フライングスインガー
- フラッシュダンス
- プール
- ボブスレー - 原型は本家ディズニーランドにある「マッターホーン・ボブスレー」。
- メリーゴーラウンド
- ラウンドパイレーツ
- 入浴施設
-
外周列車乗り場
-
ジャングル巡航船(冒険の国)
-
スペースライナー初代車両(1961年の東京芝浦電気雑誌広告より)
アクセス
交通手段としては路線バスの停留所があり、JR・近鉄奈良駅と高の原駅(平城山駅)、加茂駅を結ぶバスが経由していた。なお、90年代初期までは大規模な停留所があり(現在のココスと旧フォルクスの場所)、当停留所折り返しの便も存在した(末期も臨時で運行することがあった)。車の場合も、大規模な駐車場を完備していた他、近隣にも民間の駐車場があり、園内の混み具合によって駐車料金が変動していた。いずれにしても駅から遠く、車やバスの利用を余儀なくされたうえ、遊園地前の道路は片側1車線のため繁盛時は周辺道路で大渋滞が発生しており、路線バスの遅延も度々発生していた。
関連項目
出典
参考文献
ニュース
- 内山智彦 (2006年8月29日). “奈良ドリームランドきょう閉園 希代の興行師 夢・・・45年で幕”. 産経新聞 (関西)
- 産経WEST (2014年11月11日). “廃虚の「ドリームランド跡地」、奈良市の公売に入札ゼロ 破格の安さも遊具撤去費を敬遠か”. 産経WEST 2017年4月16日閲覧。
- 産経新聞デジタル (2014年11月11日). “廃墟となったテーマパークの先駆け…どこへ向かう”. 産経新聞デジタル 2017年4月16日閲覧。
- テレビ朝日系(ANN) (2014年11月12日). “「奈良ドリームランド」7億3000万円 入札ゼロ”. オリジナルの2014年11月12日時点におけるアーカイブ。
- 産経WEST (2015年11月10日). “奈良ドリームランド跡地、やっと落札7億3千万円 SKハウジングが再公売で”. 産経WEST 2015年12月1日閲覧。
- 奈良新聞 (2016年9月23日). “遊具類、来月から解体 - 土地利用なお未定/奈良ドリームランド跡地”. 奈良新聞 2017年4月16日閲覧。
文献
- 鈴木良 編『県民100年史』 29 奈良県の百年、山川出版社、1985年。ISBN 4634272903。
- 加賀見俊夫『海を超える想像力-東京ディズニーリゾート誕生の物語』講談社、2003年。ISBN 4-06-211722-3。
- 日本観光雑学研究倶楽部『セピア色の遊園地 君も行った、僕も行った、あの遊園地・レジャーランド』創成社、2005年。ISBN 4794422229。
- 近畿日本鉄道『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』2010年。 NCID BB05245458。
- 中島恵『東京ディズニーリゾートの経営戦略』三恵社、2013年。ISBN 4864871647。
その他
- 高橋政知 (1999年7月17日). “私の履歴書(16)”. 日本経済新聞
- 小川功 (2015年). “遊園地における虚構性の研究”. 2017年4月16日閲覧。
- ローソン. “ローソン 奈良ドリームランド前”. 2017年4月16日閲覧。
- 奈良交通 (2015年3月24日). “路線バスの運行について―平成27年4月1日(水)より―”. 2017年4月30日閲覧。
外部リンク
- 奈良ドリームランドへようこそ - 閉園直前の公式サイトを保存したミラーサイト