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第25歩兵師団 (アメリカ軍)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第25歩兵師団
25th Infantry Division
第25歩兵師団 肩章
創設 1941年8月26日
所属政体 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
所属組織 アメリカ陸軍
部隊編制単位 師団
兵種/任務 歩兵
所在地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ハワイ州スコフィールド・バラックス
愛称 トロピック・ライトニング
エレクトリック・ストロベリー
上級単位 アメリカ太平洋陸軍
第1軍団
戦歴 第二次世界大戦
朝鮮戦争
ベトナム戦争
湾岸戦争
不朽の自由作戦
イラク戦争
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第25歩兵師団(だいにじゅうごほへいしだん、25th Infantry Division)は、アメリカ合衆国陸軍師団のひとつ。1941年、ハワイ師団を母体として編成されたのち、朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争不朽の自由作戦イラク戦争に参加した歴戦の師団である。師団司令部はハワイ州オアフ島ワヒアワスコフィールドバラックスに所在する。

概歴

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太平洋戦争

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ガダルカナルで作戦中の第25歩兵師団の兵士。

第25歩兵師団は、太平洋戦争の開戦に際して、第24歩兵師団とともに、ハワイ師団を母体として創設された。師団は当初、スコフィールド・バラックスに所在していたが、大日本帝国海軍真珠湾攻撃ののち、ホノルル市防衛のため、より沿岸に移動した。

1942年11月より、師団は第14軍団隷下にソロモン諸島の戦いに加わった。11月25日、第1海兵師団を増援して師団はガダルカナル島に到着し、翌年1月10日よりガダルカナル島の戦い、その後ニュージョージア島の戦いに参加した。ニュージョージアにおける日本軍の組織的抵抗が終結した後、8月25日より、師団はニュージーランドにおいて休養・再編制に入った。翌年(44年)2月3日から3月14日にかけて師団はニューカレドニアに移動し、訓練を継続した。45年1月9日、師団はリンガエン湾に上陸し、11日よりルソン島の戦いに参加した。

終戦後、師団は日本に進駐し、主に関西地方に駐屯した。 1947年6月5日昭和天皇が大阪府庁に行幸(昭和天皇の戦後巡幸)した際には、師団の憲兵隊が大阪府庁一帯などを警衛しており、一目見ようと詰めかけた約4万人の市民をコントロールするために空砲を発射する場面もあった[1]

朝鮮戦争

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蔚山近郊で105mm榴弾砲を射撃する第64野戦砲兵大隊

1950年6月25日早朝より、朝鮮民主主義人民共和国軍は大韓民国に対する全面侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。アメリカ極東軍(Far East Command)は、当時九州に駐屯していた第24歩兵師団を初動兵力として投入することとしたが、第24歩兵師団は、大田の戦いで大損害を受け、ほとんど戦闘能力を失ってしまった。第25歩兵師団は、当初、第27連隊を基幹として戦闘団を編制して朝鮮半島に投入していたが、この事態を受けて、師団主力も韓国に移動することとなった。師団は、第1騎兵師団とともに、朝鮮戦争初期のアメリカ陸軍の主力部隊として活躍した。

師団は1954年まで韓国にとどまった後、9月から10月にかけて、ハワイに帰還した。

ベトナム戦争

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1963年初頭、第25歩兵師団からは、ヘリコプターの乗員100名がベトナム軍事支援団に派遣された。65年8月までに、さらに第65工兵大隊C中隊がベトナム共和国に送られ、派遣人数は合計で2,200名となっていた。そして1966年、第3旅団の4,000名が派遣されて、第25歩兵師団は、ベトナム戦争に本格的に戦闘加入することとなった。これらの部隊はカンボジア王国国境付近で活動していたほか、1968年1月末のテト攻勢の際には、サイゴン近郊で防衛にあたった。この際の功績から、師団は、1970年中よりベトナム化を進めており、1971年5月までに完全撤退した。これらのベトナム派遣中、第25歩兵師団からは、22個の名誉勲章者が輩出された。

なお、オリヴァー・ストーンが監督した映画「プラトーン」では、第25歩兵師団の3/22歩兵大隊B中隊が描写の中心的存在となっている。

AOE軽歩兵師団改編と冷戦後体制

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1985年、第25歩兵師団は、軽歩兵師団に改編された。これは、1983年にウィッカム陸軍参謀総長が発表したAOE軽歩兵師団の構想に則ったものであり、重装備の放棄のかわりに直接支援砲兵と航空兵力が強化された。改編は1986年10月1日に完了し、師団は軽歩兵師団と改名された。

師団は湾岸戦争には参加しなかったが、4/27大隊のA, B, C中隊から1個ずつ抽出された小銃小隊がサウジアラビア王国に派遣されて、前方指揮所の警備にあたった。これらの部隊は損害を出すことなく、1991年3月20日にハワイに帰還した。

1995年、陸軍全体の体制縮小に対応し、師団の第1旅団は予備部隊に改編され、アメリカ本土に後方配置されることとなった。

対テロ戦争と旅団戦闘団改編

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モースル市で警戒に当たる第25歩兵師団の狙撃手

2004年2月、師団の第2旅団はイラク共和国に展開し、イラク戦争に参加した。旅団はこの年の終わりにハワイに帰還した。また、2004年3月には第3旅団がアフガニスタン・イスラム共和国に展開して、アフガニスタン紛争に参加した。2/27歩兵大隊および3/7野戦砲兵大隊B中隊が先遣隊としてアフガニスタンに入り、パキスタン・イスラム共和国との国境地帯に展開した。

2005年6月、空挺旅団が師団の4つめの旅団として隷下に加えられた。また第2旅団はストライカー旅団戦闘団、第3旅団は歩兵旅団戦闘団への改編に入った。2006年1月、師団の名前からが取り去られて、師団は再び単なる歩兵師団に戻った。12月15日には、第172歩兵旅団が第1旅団として師団の隷下に入り、ストライカー旅団戦闘団として再編された。

2009年3月、第1, 2, 3旅団はイラクに派遣され、イラクの自由作戦に参加した。一方、第4旅団はアフガニスタンに配備されて、不朽の自由作戦に参加した。

編制

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2022年6月6日以前の編制図
2022年6月6日以降の編制図

第25歩兵師団(1個ストライカー旅団戦闘団、2個歩兵旅団戦闘団、1個空挺旅団戦闘団、1個師団砲兵隊(隷下の砲兵大隊は、それぞれの旅団に割り当てられている。)、1個戦闘航空旅団、1個維持旅団)

師団長

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脚注

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  1. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十』東京書籍、2017年3月30日、339頁。ISBN 978-4-487-74410-7 

関連項目

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