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「ヴォロダリ・グレボヴィチ」の版間の差分

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'''ヴォロダリ・グレボヴィチ'''({{lang-be|Валадар Глебавіч}}、[[1090年代]] - [[1167年]]以降)は、[[ミンスク]]公[[グレプ・フセスラヴィチ|グレプ]]と[[ヴォルィーニ公国]]の公女[[アナスタシヤ・ヤロポルコヴナ|アナスタシヤ]]との間の子である。
'''ヴォロダリ・グレボヴィチ'''({{lang-be|Валадар Глебавіч}}、[[1090年代]] - [[1167年]]以降)は、[[ミンスク]]公[[グレプ・フセスラヴィチ|グレプ]]と[[ヴォルィーニ公国]]の公女[[アナスタシヤ・ヤロポルコヴナ|アナスタシヤ]]との間の子である。


ポロツク・イジャスラフ朝[[:ru:Изяславичи Полоцкие|(ru)]]出身。[[ミンスク公]]:[[1151年]] - [[1159年]]、[[1165年]] - [[1167年]]<ref>[http://web.archive.org/web/20110928173353/http://topclass.narod.ru/genealogy/data/0/71.html {{lang|ru|По данным сайта Генеалогия}}](2011年9月28日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>、[[ゴロデツ公]][[:ru:Городцовское княжество|(ru)]]:1159年 - 1165年、[[ポロツク公]]:1167年。兄弟には[[ミンスク]]公[[ロスチスラフ・グレボヴィチ (ミンスク公)|ロスチスラフ]]がいる。
ポロツク・イジャスラフ朝[[:ru:Изяславичи Полоцкие|(ru)]]出身。[[ミンスク公]]:[[1151年]] - [[1159年]]、[[1165年]] - [[1167年]]<ref>[http://web.archive.org/web/20110928173353/http://topclass.narod.ru/genealogy/data/0/71.html {{lang|ru|По данным сайта Генеалогия}}](2011年9月28日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>、[[ゴロデツ公]][[:ru:Городцовское княжество|(ru)]]:1159年 - 1165年、[[ポロツク公]]:1167年。兄弟には[[ミンスク]]公[[ロスチスラフ・グレボヴィチ (ミンスク公)|ロスチスラフ]]がいる。


1135年もしくは1136年に、[[ポーランド大公]][[ボレスワフ3世クシヴォウスティ|ボレスワフ3世]]の娘・リクサ[[:en:Richeza of Poland, Queen of Sweden|(en)]]と結婚した{{refnest|group="注"|リクサはこの時、[[スウェーデン王]]マグヌス1世[[:en:Magnus I of Sweden|(en)]]の未亡人だった。}}。一説によるとこの結婚は、[[キエフ大公]][[ウラジーミル・モノマフ]]の相続人の一人{{refnest|group="注"|エーリク2世の妻[[:en:Malmfred of Kiev|(en)]]はウラジーミル・モノマフの孫、[[ムスチスラフ1世]]の娘だった。}}である[[デンマーク王]]エリク(イレク)2世[[:en:Eric II of Denmark|(en)]]に対する、[[ポロツク公国]]とボレスワフ3世との同盟を締結するためだったという<ref>[http://www.historisktidsskrift.dk/summary/92_262.html Historisk Tidsskrift] </ref>。
1135年もしくは1136年に、[[ポーランド大公]][[ボレスワフ3世クシヴォウスティ|ボレスワフ3世]]の娘・リクサ[[:en:Richeza of Poland, Queen of Sweden|(en)]]と結婚した{{refnest|group="注"|リクサはこの時、[[スウェーデン王]]マグヌス1世[[:en:Magnus I of Sweden|(en)]]の未亡人だった。}}。一説によるとこの結婚は、[[キエフ大公]][[ウラジーミル・モノマフ]]の相続人の一人{{refnest|group="注"|エーリク2世の妻[[:en:Malmfred of Kiev|(en)]]はウラジーミル・モノマフの孫、[[ムスチスラフ1世]]の娘だった。}}である[[デンマーク王]]エリク(イレク)2世[[:en:Eric II of Denmark|(en)]]に対する、[[ポロツク公国]]とボレスワフ3世との同盟を締結するためだったという<ref>[http://www.historisktidsskrift.dk/summary/92_262.html Historisk Tidsskrift] </ref>。

2017年9月5日 (火) 01:25時点における版

ヴォロダリ・グレボヴィチベラルーシ語: Валадар Глебавіч1090年代 - 1167年以降)は、ミンスクグレプヴォルィーニ公国の公女アナスタシヤとの間の子である。

ポロツク・イジャスラフ朝(ru)出身。ミンスク公1151年 - 1159年1165年 - 1167年[1]ゴロデツ公(ru):1159年 - 1165年、ポロツク公:1167年。兄弟にはミンスクロスチスラフがいる。

1135年もしくは1136年に、ポーランド大公ボレスワフ3世の娘・リクサ(en)と結婚した[注 1]。一説によるとこの結婚は、キエフ大公ウラジーミル・モノマフの相続人の一人[注 2]であるデンマーク王エリク(イレク)2世(en)に対する、ポロツク公国とボレスワフ3世との同盟を締結するためだったという[2]

妻子

妻はボレスワフ3世の娘リクサ。子には以下の人物がいる。

脚注

注釈

  1. ^ リクサはこの時、スウェーデン王マグヌス1世(en)の未亡人だった。
  2. ^ エーリク2世の妻(en)はウラジーミル・モノマフの孫、ムスチスラフ1世の娘だった。
  3. ^ ウラジーミルをヴォロダリの子とする説には、Назаренко А. В. Древняя Русь на международных путях. — С. 589—590.等がある。

出典

参考文献

  • Славянская энциклопедия. Киевская Русь — Московия: в 2 т. / Автор-составитель В. В. Богуславский. — М.: ОЛМА-ПРЕСС, 2001.