「片倉兼太郎 (3代目)」の版間の差分
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1920年(大正9年)3月23日、片倉組が片倉製糸紡績株式会社として法人化されるとともに、取締役に就任する<ref name="日本人名" />。 |
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1934年(昭和9年)1月8日の二代目の逝去にともない、同年、'''三代目片倉兼太郎'''を襲名する<ref name="日本人名" />。翌1935年(昭和10年)、片倉製糸紡績会長に就任する<ref name="日本人名" />(社長は初代の実弟[[今井五介]])。1936年(昭和11年)5月16日、[[片倉財閥]]が経営する写真機材商社[[美篶商会]](1922年創業)の法人化に際し、初代社長に就任、翌1937年(昭和12年)から日本初の[[豆カメラ]]「[[ミゼットカメラ|ミゼット]]」を発売し、豆カメラブームを起こす<ref name="沿革">[http://web.archive.org/web/20040611010640/http://www.misuzu.gr.jp/enkaku.htm 会社沿革] ([[インターネット |
1934年(昭和9年)1月8日の二代目の逝去にともない、同年、'''三代目片倉兼太郎'''を襲名する<ref name="日本人名" />。翌1935年(昭和10年)、片倉製糸紡績会長に就任する<ref name="日本人名" />(社長は初代の実弟[[今井五介]])。1936年(昭和11年)5月16日、[[片倉財閥]]が経営する写真機材商社[[美篶商会]](1922年創業)の法人化に際し、初代社長に就任、翌1937年(昭和12年)から日本初の[[豆カメラ]]「[[ミゼットカメラ|ミゼット]]」を発売し、豆カメラブームを起こす<ref name="沿革">[http://web.archive.org/web/20040611010640/http://www.misuzu.gr.jp/enkaku.htm 会社沿革] ([[インターネットアーカイブ]]、2004年6月11日付)、[[美篶商会|美スズ産業]]、2012年3月15日閲覧。</ref>。1939年(昭和14年)9月、株式会社富岡製糸所(旧官営[[富岡製糸場]])を片倉製糸紡績に合併する。1943年(昭和18年)11月、片倉製糸紡績は、片倉工業株式会社に改称する。 |
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[[1947年]](昭和22年)、片倉財閥は解体指定を受け、三代目兼太郎は公職追放となり、その10日後の同年[[1月15日]]、死去する<ref name="日本人名" />。満62歳没。[[貴族院 (日本)|貴族院]]の[[多額納税者議員]]として、第92回[[帝国議会]]の会期中、在籍死亡であった。勲四等。 |
2017年9月5日 (火) 02:34時点における版
かたくら かねたろう 片倉 兼太郎 | |
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生誕 |
片倉 脩一(かたくら しゅういち) 1884年9月20日 長野県諏訪郡川岸村(現在の長野県岡谷市川岸) |
死没 | 1947年1月15日(62歳没) |
出身校 | 諏訪実科中学校中退 |
職業 | 実業家、資本家、政治家 |
肩書き | 片倉製糸紡績(のち片倉工業)社長、八十二銀行頭取、全国製糸業組合連合会会長、美篶商会初代社長 |
前任者 | 片倉兼太郎(二代目) |
親 | 片倉兼太郎(二代目) |
片倉 兼太郎(かたくら かねたろう、1884年9月20日 - 1947年1月15日)は、日本の実業家、資本家、政治家(貴族院議員)である[1]。1934年、三代目片倉兼太郎を襲名、出生名は脩一(しゅういち)[1]。片倉製糸紡績(現在の片倉工業)会長、八十二銀行頭取、日本蚕種製造社長、諏訪工業社長、美篶商会社長を歴任した[1]。
人物・来歴
1884年(明治17年)9月20日、長野県に片倉兼太郎(二代目)の長男「脩一」として生まれる[1]。父の実兄にして養父の片倉兼太郎(初代)は、伯父にして養祖父に当たる[1][2]。旧制・諏訪実科中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)を中途退学し、片倉組に加わる[1]。
1917年(大正6年)2月13日、初代が死去する[2]。
1920年(大正9年)3月23日、片倉組が片倉製糸紡績株式会社として法人化されるとともに、取締役に就任する[1]。
1934年(昭和9年)1月8日の二代目の逝去にともない、同年、三代目片倉兼太郎を襲名する[1]。翌1935年(昭和10年)、片倉製糸紡績会長に就任する[1](社長は初代の実弟今井五介)。1936年(昭和11年)5月16日、片倉財閥が経営する写真機材商社美篶商会(1922年創業)の法人化に際し、初代社長に就任、翌1937年(昭和12年)から日本初の豆カメラ「ミゼット」を発売し、豆カメラブームを起こす[3]。1939年(昭和14年)9月、株式会社富岡製糸所(旧官営富岡製糸場)を片倉製糸紡績に合併する。1943年(昭和18年)11月、片倉製糸紡績は、片倉工業株式会社に改称する。
1947年(昭和22年)、片倉財閥は解体指定を受け、三代目兼太郎は公職追放となり、その10日後の同年1月15日、死去する[1]。満62歳没。貴族院の多額納税者議員として、第92回帝国議会の会期中、在籍死亡であった。勲四等。
脚注
参考文献
- 『片倉製糸紡績株式会社20年誌』、片倉製糸紡績、1941年