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=== 外国公館関係者として初めて原爆ドームに ===
=== 外国公館関係者として初めて原爆ドームに ===
[[1989年]]5月18日、駐日ベルギー大使として広島市に訪問した。外国公館関係者が同市を訪れたのはこれが初めてであった。ノートンはまた、原爆ドーム保存募金に個人的に寄付した<ref>[https://web.archive.org/web/20130709123155/http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20100525103022125_ja ヒロシマの記録1989年5月](2013年7月9日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) ヒロシマ平和メディアセンター</ref>。
[[1989年]]5月18日、駐日ベルギー大使として広島市に訪問した。外国公館関係者が同市を訪れたのはこれが初めてであった。ノートンはまた、原爆ドーム保存募金に個人的に寄付した<ref>[https://web.archive.org/web/20130709123155/http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20100525103022125_ja ヒロシマの記録1989年5月](2013年7月9日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) ヒロシマ平和メディアセンター</ref>。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2017年9月5日 (火) 04:30時点における版

パトリック・バロン・ノートン
Patrick, baron Nothomb
2012年
生誕 1936年3月24日
ベルギーの旗 ベルギー ブリュッセル首都圏地域スカールベーク
国籍 ベルギーの旗 ベルギールクセンブルクの旗 ルクセンブルク(二重国籍)
出身校 ルーヴァン・カトリック大学
職業 外交官
活動期間 1960年 - 2001年
子供 アメリー・ノートン
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パトリック・バロン・ノートン(Patrick, baron Nothomb, 1936年3月24日 - )は、ベルギー王国外交官。第13代駐日ベルギー大使随筆家能楽師でもある[1]

ノートン家はベルギーで代々続く貴族政治家の家系(男爵家)である。首相を務めたジャン=バティスト・ノートン(Jean-Baptiste Nothomb, 在任1841年 - 1845年)や、元外相のシャルル=フェルディナン・ノートン(Charles-Ferdinand Nothomb, 在任1980年 - 1981年)は親類に当たる。ベルギーの小説家のアメリー・ノートンは娘。

略歴

1957年ルーヴァン・カトリック大学法学博士号を取得。1960年から2001年までベルギーの外交官を務めた。2004年、ルクセンブルクの州知事顧問に就任した。

外交官としての経歴

外国公館関係者として初めて原爆ドームに

1989年5月18日、駐日ベルギー大使として広島市に訪問した。外国公館関係者が同市を訪れたのはこれが初めてであった。ノートンはまた、原爆ドーム保存募金に個人的に寄付した[2]

参考文献

  • Dans Stanleyville : journal d'une prise d'otage, Duculot, 1993
  • Intolérance zéro : 42 ans de carrière diplomatique, avec Jean-Marie Mersch, postface d'Amélie Nothomb, éd. Racine, Bruxelles, 2004
  • 「能楽師になった外交官」中公新書、1999年8月 ISBN 978-4121014894

脚注

  1. ^ パトリック・ノートン『能楽師になった外交官』中公新書、1999年8月
  2. ^ ヒロシマの記録1989年5月(2013年7月9日時点のアーカイブ) ヒロシマ平和メディアセンター
外交職
先代
1985年 - 1988年
Marcel Depasse
駐日ベルギー特命全権大使
1988年 - 1997年
次代
1988年 - 1997年
Gustavus Dierckx