「ホーエンリンデンの戦い」の版間の差分
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'''ホーエンリンデンの戦い'''(ホーエンリンデンのたたかい、{{lang-fr-short|Bataille de Hohenlinden}}、{{lang-de-short|Schlacht bei Hohenlinden}})は、[[1800年]][[12月3日]]に行われた[[フランス革命戦争]]における戦闘の一つ。 |
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[[バイエルン選帝侯領]]の首都[[ミュンヘン]]から東へ30kmの{{仮リンク|ホーエンリンデン|en|Hohenlinden|label=ホーエンリンデン}}の地において、[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|マリー・モロー]]率いるフランス軍が、[[ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ|ヨハン大公]]指揮下の[[ハプスブルク帝国|オーストリア]]軍に対して勝利を収めた。本戦闘後の追撃作戦でも更に20,000名以上の捕虜を得ながら首都[[ウィーン]]まで迫る勢いを見せてオーストリアの戦意を挫いており、[[フランス革命戦争]]の中で最も輝かしい勝利を上げた戦いとして名高い。この戦いの結果、両国は[[リュネヴィルの和約]]を締結し、フランスと講和したオーストリアが脱落した事で[[第二次対仏大同盟]]は崩壊した。 |
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== 背景 == |
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1798年12月に[[第二次対仏大同盟]]が結成され、交戦状態に入ったフランスとオーストリアはドイツ方面とイタリア方面で攻防を繰り広げていた。[[ナポレオン・ボナパルト]]の活躍で1800年6月にイタリア方面の戦いはフランス側の勝利に終わった。ドイツ方面でもマリー・モローが快進撃を見せて、オーストリアに接するドイツ南部[[バイエルン選帝侯領|バイエルン領]]の[[ミュンヘン]]にまで迫っていた。戦況の不利を悟ったオーストリアが休戦を求めると、国内での懸案が生じていたフランス側も応じる姿勢を見せたので、1800年7月15日に両国の間で休戦協定が結ばれ戦いは一旦終結した。 |
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しかし、11月12日に休戦協定は破られる事になり、新しい司令部を据えて軍隊を再編し[[バイエルン選帝侯領|バイエルン領]]の兵力も加えたオーストリア軍は、[[ミュンヘン]]周辺に布陣していたフランス軍への攻撃を開始した。まずミュンヘン北東60kmの[[ランツフート]]の地でフランス軍の最北翼を撃破したが、その後の軍事行動にもたつきが見られフランス軍に作戦調整の猶予を与える事になった。 |
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12月1日、[[ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ|ヨハン大公]]指揮下のオーストリア軍は[[ミュンヘン]]東70kmの[[ミュールドルフ・アム・イン郡|ミュールドルフ]]に向かい、当地に布陣していたフランス軍のポール・グルニエ部隊と交戦した。グルニエは西へ後退し、ミュンヘン東30kmのホーエンリンデンの地で[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|マリー・モロー]]本隊と合流した。これを追うオーストリア軍もホーエンリンデンに向かって進撃した。あらかじめ作戦を立てていたモローは四本の街道が通るホーエンリンデンの森林地帯を決戦の場に定めて各師団を南北に展開した。こうして12月3日早朝に両軍の間で戦端が開かれる事になった。<gallery mode="packed" heights="160"> |
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ファイル:Jean-Victor Moreau.jpg|モロー |
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ファイル:Painting of Archduke Johann of Austria at 18 years of age.jpg|ヨハン大公 |
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== 戦闘 == |
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[[ファイル:Battle of Hohenlinden, by Schirmer.jpg|サムネイル|両軍の動き]] |
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オーストリア軍は四個の大縦隊に分かれて北から南に並ぶ四本の街道を進み、フランス軍が待ち受けるホーエンリンデンの森林地帯に侵入した。ヨハン大公の本営は北中翼ラトゥール部隊の後方を進んでいた。なお[[ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ|ヨハン大公]]は、兄である皇帝[[フランツ2世]]の都合で司令官に据えられた未経験の若者で、実際の作戦立案は参謀長ウェイロザーが行っていた。 |
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対するフランス軍司令官[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|マリー・モロー]]は配下の6個師団を北から南に配置して、北方面の指揮をポール・グルニエに任せた。モロー自身は南方面の指揮を取り手元にオープール騎兵師団を置いて予備とした。両軍の布陣は以下の通りだった。 |
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'''オーストリア軍''' 総指揮[[ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ|ヨハン大公]] 総兵力60,000名 |
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: '''北翼''' キーンマイヤー部隊(16,000名) |
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: '''北中翼''' ラトゥール部隊(11,000名) |
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: '''南中翼''' コロラット部隊(12,000名+バイエルン兵8,000名) |
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: '''南翼''' リーシュ部隊(13,000名) |
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'''フランス軍''' 総指揮[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|マリー・モロー]] 総兵力55,000名 |
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: <small>ポール・グルニエ部隊 合計24,000名</small> |
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: '''北翼''' バストゥール師団(6,000名) |
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: '''北翼''' ルグラン師団(8,000名) |
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: '''北中翼''' [[ミシェル・ネイ|ネイ]]師団(10,000名) |
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: <small>マリー・モロー本隊 合計29,000名+オープール騎兵師団(2,000名)</small> |
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: '''南中翼''' [[エマニュエル・ド・グルーシー|グルーシー]]師団(9,000名) |
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: '''南翼''' リシュパンス師団(10,000名) |
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: '''南翼''' デカーン師団(10,000名) |
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[[ファイル:Le général Moreau devant Hohenlinden - Ernest Meissonier.jpg|サムネイル|戦場を調べるモロー]] |
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事前に周囲の地形と積雪による街道の状態を調べていた[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|モロー]]は、北中翼と南翼の敵進軍速度が鈍る事を予測しており、更に陽動を用いる事で敵到着の時間差を広げて各個に撃破する作戦を立てていた。 |
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12月3日早朝、[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|モロー]]は各師団に前進を命じ、まず午前7時に南中翼の[[エマニュエル・ド・グルーシー|グルーシー]]師団とコロラット部隊が激突した。グルーシーは倍以上の兵力相手に頑強に抵抗し、またコロラットも友軍の戦線が揃うまでの過度な突出を避けていた。北翼のキーンマイヤー部隊は積極的攻勢に出てバストゥール師団を押し込み、ルグラン師団の防衛線まで到達して激しく交戦した。北中翼の[[ミシェル・ネイ|ネイ]]師団はやや前進して北翼を支援する態勢を取った。南翼のリシュパンス師団はコロラット部隊の南側面を突くように移動を始め、デカーン師団もその後に続いた。 |
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北中翼のラトゥール部隊と南翼のリーシュ部隊は雪と泥濘の悪路で到着が遅れ、午前10時になってもオーストリア軍四部隊の戦線は揃わなかった。ラトゥールは大軍を進める代わりに小さな分遣隊を各方面に出して支援させる消極的な作戦を取り、リーシュは前方にいるリシュパンス、デカーン両師団の動きを過度に警戒して進軍を遅らせた。この両者の失策はオーストリア軍の敗北を早める事になった。南中翼のコロラット部隊は両隣の友軍が来ない為に敵中に孤立する形となっていた。 |
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[[ファイル:Battle of Hohenlinden March of Richpanse.jpg|サムネイル|リシュパンスの側面攻撃]] |
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午前9時30分、グルーシー師団と交戦するコロラット部隊の南側面をリシュパンス師団が急襲した。このリシュパンスの動きは見事でこの戦い一番の功績とされた。北中翼のネイ師団も、ラトゥール師団の圧力の少なさから南に方向転換してコロラット部隊の北側面を突いた。三方向から攻撃されたコロラット部隊は苦戦し、午前11時にようやくコロラットの南隣に駆け付けて来たリーシュ部隊は、デカーン師団にその進路を阻まれた。 |
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午後12時に大勢は決まり、ネイ、グルーシー、リシュパンスの三師団に包囲されたコロラット部隊は敗走を始めた。それを知った北翼のキーンマイヤーも撤収を決めたが、ルグラン師団の攻撃でその後退移動は困難を極めた。ラトゥールは前方から殺到する敗走兵の姿を見てようやく自軍の非常事態に気付き、後方にあった本営のヨハン大公と共に全軍に撤退を命じた。南翼のリーシュ部隊も南東に向かって退却した。 |
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オーストリア軍戦線の崩壊を確認したモローは全軍に追撃を指示した。フランス軍は壊走するオーストリア兵を追って8,000名以上を捕虜にし、彼らが放棄した70門以上の大砲を鹵獲した。オーストリア軍の死傷者は4,000名以上を数えた。フランス軍は2,000名から3,000名が死傷したとされ、将官ではバストゥールが重傷を負った。 |
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== 追撃 == |
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[[ファイル:Battle hohenlinden memorial.JPG|サムネイル|ホーエンリンデンの戦いの記念碑]] |
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12月3日、ホーエンリンデンから撤収した[[ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ|ヨハン大公]]は自軍の体勢を立て直す為に、[[バイエルン選帝侯領|バイエルン領]]からオーストリア本国に向かう退却行動に移った。これを追撃する[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|マリー・モロー]]は8日までは周囲の動きを警戒して緩やかに軍を進め、9日から一気に追跡の足を速めた。 |
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12月9日、モローの指示でホーエンリンデンの南方に布陣していた後に追撃作戦に加わったフランス軍のクロード・ルクラブ部隊が、オーストリア国境間近の[[ローゼンハイム]]の地でオーストリア軍を捕捉しその側面を突いた。この攻撃は5日間続き、ヨハン大公は苦心の末に国境を越えた後の14日にオーストリア領[[ザルツブルク|ザルツブルグ]]に到達した所でようやくそれを振り切る事が出来た。その後の南下中においてもフランス軍の執拗な追撃は続けられ、およそ300kmに及ぶ距離の中で合計20,000名以上のオーストリア兵を捕虜にした。17日にヨハン大公は首都[[ウィーン]]に辿り着いたが、その軍勢は敗残兵の群れと化しており、兄の[[カール・フォン・エスターライヒ=テシェン|カール大公]]が後を引き継いで守りを固めた。フランス軍はウィーンから80kmの距離まで迫っていた。25日にカール大公が休戦を求め、モローはそれを承諾した。 |
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== 影響 == |
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オーストリアは戦意を喪失し、翌1801年2月9日に[[リュネヴィルの和約]]を締結してフランスと講和した。オーストリアが脱落した事で[[第二次対仏大同盟]]は事実上崩壊し、フランスは再び国難を切り抜ける事が出来た。 |
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勝利の立役者である[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|マリー・モロー]]は[[ナポレオン・ボナパルト]]と並ぶ国民的英雄になり、同時に軍事面のライバルと見なされるようになった。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2019年4月22日 (月) 00:53時点における版
ホーエンリンデンの戦い | |
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ホーエンリンデンの戦い | |
戦争:フランス革命戦争・第二次対仏大同盟 | |
年月日:1800年12月3日 | |
場所:バイエルン選帝侯領首都ミュンヘン東30kmのホーエンリンデン | |
結果:フランスの勝利 | |
交戦勢力 | |
フランス共和国 | オーストリア大公国 バイエルン選帝侯領 |
指導者・指揮官 | |
ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー | ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ |
戦力 | |
歩兵 41,990 騎兵 11,805 大砲 99門 |
歩兵 46,130 騎兵 14,131 大砲 214門 |
損害 | |
死傷 2,500 大砲 1門 |
死傷 4,600 捕虜 8,950 大砲 76門 |
ホーエンリンデンの戦い(ホーエンリンデンのたたかい、仏: Bataille de Hohenlinden、独: Schlacht bei Hohenlinden)は、1800年12月3日に行われたフランス革命戦争における戦闘の一つ。
バイエルン選帝侯領の首都ミュンヘンから東へ30kmのホーエンリンデンの地において、マリー・モロー率いるフランス軍が、ヨハン大公指揮下のオーストリア軍に対して勝利を収めた。本戦闘後の追撃作戦でも更に20,000名以上の捕虜を得ながら首都ウィーンまで迫る勢いを見せてオーストリアの戦意を挫いており、フランス革命戦争の中で最も輝かしい勝利を上げた戦いとして名高い。この戦いの結果、両国はリュネヴィルの和約を締結し、フランスと講和したオーストリアが脱落した事で第二次対仏大同盟は崩壊した。
背景
1798年12月に第二次対仏大同盟が結成され、交戦状態に入ったフランスとオーストリアはドイツ方面とイタリア方面で攻防を繰り広げていた。ナポレオン・ボナパルトの活躍で1800年6月にイタリア方面の戦いはフランス側の勝利に終わった。ドイツ方面でもマリー・モローが快進撃を見せて、オーストリアに接するドイツ南部バイエルン領のミュンヘンにまで迫っていた。戦況の不利を悟ったオーストリアが休戦を求めると、国内での懸案が生じていたフランス側も応じる姿勢を見せたので、1800年7月15日に両国の間で休戦協定が結ばれ戦いは一旦終結した。
しかし、11月12日に休戦協定は破られる事になり、新しい司令部を据えて軍隊を再編しバイエルン領の兵力も加えたオーストリア軍は、ミュンヘン周辺に布陣していたフランス軍への攻撃を開始した。まずミュンヘン北東60kmのランツフートの地でフランス軍の最北翼を撃破したが、その後の軍事行動にもたつきが見られフランス軍に作戦調整の猶予を与える事になった。
12月1日、ヨハン大公指揮下のオーストリア軍はミュンヘン東70kmのミュールドルフに向かい、当地に布陣していたフランス軍のポール・グルニエ部隊と交戦した。グルニエは西へ後退し、ミュンヘン東30kmのホーエンリンデンの地でマリー・モロー本隊と合流した。これを追うオーストリア軍もホーエンリンデンに向かって進撃した。あらかじめ作戦を立てていたモローは四本の街道が通るホーエンリンデンの森林地帯を決戦の場に定めて各師団を南北に展開した。こうして12月3日早朝に両軍の間で戦端が開かれる事になった。
-
モロー
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ヨハン大公
戦闘
オーストリア軍は四個の大縦隊に分かれて北から南に並ぶ四本の街道を進み、フランス軍が待ち受けるホーエンリンデンの森林地帯に侵入した。ヨハン大公の本営は北中翼ラトゥール部隊の後方を進んでいた。なおヨハン大公は、兄である皇帝フランツ2世の都合で司令官に据えられた未経験の若者で、実際の作戦立案は参謀長ウェイロザーが行っていた。
対するフランス軍司令官マリー・モローは配下の6個師団を北から南に配置して、北方面の指揮をポール・グルニエに任せた。モロー自身は南方面の指揮を取り手元にオープール騎兵師団を置いて予備とした。両軍の布陣は以下の通りだった。
オーストリア軍 総指揮ヨハン大公 総兵力60,000名
- 北翼 キーンマイヤー部隊(16,000名)
- 北中翼 ラトゥール部隊(11,000名)
- 南中翼 コロラット部隊(12,000名+バイエルン兵8,000名)
- 南翼 リーシュ部隊(13,000名)
フランス軍 総指揮マリー・モロー 総兵力55,000名
- ポール・グルニエ部隊 合計24,000名
- 北翼 バストゥール師団(6,000名)
- 北翼 ルグラン師団(8,000名)
- 北中翼 ネイ師団(10,000名)
- マリー・モロー本隊 合計29,000名+オープール騎兵師団(2,000名)
- 南中翼 グルーシー師団(9,000名)
- 南翼 リシュパンス師団(10,000名)
- 南翼 デカーン師団(10,000名)
事前に周囲の地形と積雪による街道の状態を調べていたモローは、北中翼と南翼の敵進軍速度が鈍る事を予測しており、更に陽動を用いる事で敵到着の時間差を広げて各個に撃破する作戦を立てていた。
12月3日早朝、モローは各師団に前進を命じ、まず午前7時に南中翼のグルーシー師団とコロラット部隊が激突した。グルーシーは倍以上の兵力相手に頑強に抵抗し、またコロラットも友軍の戦線が揃うまでの過度な突出を避けていた。北翼のキーンマイヤー部隊は積極的攻勢に出てバストゥール師団を押し込み、ルグラン師団の防衛線まで到達して激しく交戦した。北中翼のネイ師団はやや前進して北翼を支援する態勢を取った。南翼のリシュパンス師団はコロラット部隊の南側面を突くように移動を始め、デカーン師団もその後に続いた。
北中翼のラトゥール部隊と南翼のリーシュ部隊は雪と泥濘の悪路で到着が遅れ、午前10時になってもオーストリア軍四部隊の戦線は揃わなかった。ラトゥールは大軍を進める代わりに小さな分遣隊を各方面に出して支援させる消極的な作戦を取り、リーシュは前方にいるリシュパンス、デカーン両師団の動きを過度に警戒して進軍を遅らせた。この両者の失策はオーストリア軍の敗北を早める事になった。南中翼のコロラット部隊は両隣の友軍が来ない為に敵中に孤立する形となっていた。
午前9時30分、グルーシー師団と交戦するコロラット部隊の南側面をリシュパンス師団が急襲した。このリシュパンスの動きは見事でこの戦い一番の功績とされた。北中翼のネイ師団も、ラトゥール師団の圧力の少なさから南に方向転換してコロラット部隊の北側面を突いた。三方向から攻撃されたコロラット部隊は苦戦し、午前11時にようやくコロラットの南隣に駆け付けて来たリーシュ部隊は、デカーン師団にその進路を阻まれた。
午後12時に大勢は決まり、ネイ、グルーシー、リシュパンスの三師団に包囲されたコロラット部隊は敗走を始めた。それを知った北翼のキーンマイヤーも撤収を決めたが、ルグラン師団の攻撃でその後退移動は困難を極めた。ラトゥールは前方から殺到する敗走兵の姿を見てようやく自軍の非常事態に気付き、後方にあった本営のヨハン大公と共に全軍に撤退を命じた。南翼のリーシュ部隊も南東に向かって退却した。
オーストリア軍戦線の崩壊を確認したモローは全軍に追撃を指示した。フランス軍は壊走するオーストリア兵を追って8,000名以上を捕虜にし、彼らが放棄した70門以上の大砲を鹵獲した。オーストリア軍の死傷者は4,000名以上を数えた。フランス軍は2,000名から3,000名が死傷したとされ、将官ではバストゥールが重傷を負った。
追撃
12月3日、ホーエンリンデンから撤収したヨハン大公は自軍の体勢を立て直す為に、バイエルン領からオーストリア本国に向かう退却行動に移った。これを追撃するマリー・モローは8日までは周囲の動きを警戒して緩やかに軍を進め、9日から一気に追跡の足を速めた。
12月9日、モローの指示でホーエンリンデンの南方に布陣していた後に追撃作戦に加わったフランス軍のクロード・ルクラブ部隊が、オーストリア国境間近のローゼンハイムの地でオーストリア軍を捕捉しその側面を突いた。この攻撃は5日間続き、ヨハン大公は苦心の末に国境を越えた後の14日にオーストリア領ザルツブルグに到達した所でようやくそれを振り切る事が出来た。その後の南下中においてもフランス軍の執拗な追撃は続けられ、およそ300kmに及ぶ距離の中で合計20,000名以上のオーストリア兵を捕虜にした。17日にヨハン大公は首都ウィーンに辿り着いたが、その軍勢は敗残兵の群れと化しており、兄のカール大公が後を引き継いで守りを固めた。フランス軍はウィーンから80kmの距離まで迫っていた。25日にカール大公が休戦を求め、モローはそれを承諾した。
影響
オーストリアは戦意を喪失し、翌1801年2月9日にリュネヴィルの和約を締結してフランスと講和した。オーストリアが脱落した事で第二次対仏大同盟は事実上崩壊し、フランスは再び国難を切り抜ける事が出来た。
勝利の立役者であるマリー・モローはナポレオン・ボナパルトと並ぶ国民的英雄になり、同時に軍事面のライバルと見なされるようになった。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『ナポレオン秘史―マレンゴの戦勝』, Antonino Ronco著, Giovanni Piazza著, 谷口勇訳, ジョヴァンニ・ピアッザ訳, 而立書房, 1994年3月 ISBN 4880591939
- 『ナポレオン戦争』第2巻,David Chandler著, 君塚直隆ほか訳, 信山社, 2003年1月
- 『歴史群像 NO.66 ナポレオン、戴冠への逆転劇 マレンゴの戦い』,学研パブリッシング,2004年
- 『ナポレオン戦争全史』, 松村劭著, 原書房, 2005年12月 ISBN 4562039531
- 『バイエルン王国の誕生―ドイツにおける近代国家の形成』,谷口健治,山川出版,2003年3月 ISBN 4634648504