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{{Infobox 犯罪者|subject_name=<span style="font-size:90%;">セオドア・ジョン・カジンスキー</span><br />Theodore John Kaczynski|image_name=Theodore Kaczynski.jpg|image_size=250px|image_caption=逮捕時のカジンスキー(1996年)|date_of_birth={{生年月日と年齢|1942|5|22}}|place_of_birth={{USA}}、[[イリノイ州]]<br />[[エバーグリーンパーク]]|date_of_death=|place_of_death=|alias=ユナボマー|charge=爆弾の運搬、郵送及び使用、殺人|conviction=殺人罪|penalty=仮釈放なしの8回分の[[終身刑]]|status=服役中|occupation=数学者|spouse=|parents=|children=}}'''セオドア・ジョン・カジンスキー'''(Theodore John Kaczynski、[[1942年]][[5月22日]] - )は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[数学者]]であり[[テロリスト]]、アナーキズムに関する著作もある<ref>{{cite book|author1=Sue Mahan|title=Terrorism in Perspective|url=https://books.google.com/?id=UB-wwaFMrqkC&pg=PA222|year=2007|publisher=Sage Publications|isbn=978-1-4129-5015-2|quote=...{{nbsp}}Kaczynski was a disenchanted mathematics professor turned anarchist|author2=Pamala L. Griset|df=mdy-all}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.fbi.gov/pressrel/speecAffidavit of Assistanthes/solomon020608.htm|title=Major Executive Speeches|accessdate=2016-12|last=Solomon (Special Agent in Charge, Miami Division)|first=Jonathan|date=February 6, 2008|work=Federal Bureau of Investigation|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161227060612/https://www2.fbi.gov/pressrel/speeches/solomon020608.htm|archivedate=December 27, 2016|deadurl=yes|df=mdy-all}}</ref><ref>{{cite book|last1=Hassell|first1=Maria R|title=A New Understanding of Terrorism: Case Studies, Trajectories and Lessons Learned|url=https://books.google.com/books?id=uvVqrhVDtp0C&pg=PA40|date=July 9, 2009|isbn=978-1-4419-0115-6|last2=von Hassell|first2=Agostino|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160124164000/https://books.google.com/books?id=uvVqrhVDtp0C&pg=PA40|deadurl=no|archivedate=January 24, 2016|df=mdy-all}}</ref>。数学に関しては神童であったが<ref>{{cite web|url=http://www.thecrimson.com/article/2012/5/21/ted-kaczynski-unabomber-math/|title=Theodore J. Kaczynski|accessdate=2017-8|last=Song|first=David|date=May 21, 2012|website=The Harvard Crimson|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170810173231/http://www.thecrimson.com/article/2012/5/21/ted-kaczynski-unabomber-math/|archivedate=August 10, 2017|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>、1969年に大学のキャリアを捨てて、自給自足に近い原始的な生活をしていた。FBIのコードネームから'''ユナボマー'''とも呼ばれる。
{{Infobox 犯罪者
| subject_name = <span style="font-size:90%;">セオドア・ジョン・カジンスキー</span><br />Theodore John Kaczynski| image_name = Theodore Kaczynski.jpg
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| image_caption = 逮捕時のカジンスキー(1996年)
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| alias = ユナボマー
| charge = 爆弾の運搬、郵送及び使用、殺人
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}}
[[ファイル:Unabomber-sketch.png|thumb|ユナボマー事件の容疑者として公開されていた似顔絵]]
'''セオドア・ジョン・カジンスキー'''(Theodore John Kaczynski、[[1942年]][[5月22日]] - )は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[数学者]]、[[テロリスト]]。「テッド・カジンスキー」「ユナボマー」などとも呼ばれる。


[[1978年]]5月から[[1995年]]にかけて、全米各地で現代科学技術に関わりのある人々をターゲットにした連続爆弾事件を起こして3人を死亡させ、23人に重軽傷を負わせた。彼は革命を開始するつもりであり、工業化を批判するとともに原始的な生活の復活を目指す[[アナキズム|アナーキズム]]を称揚した現代社会批判も行っている<ref>{{cite book|author1=Gautney|first1=Heather|title=Protest and Organization in the Alternative Globalization Era: NGOs, Social Movements, and Political Parties|url=https://books.google.com/?id=lDD1AXpeoW4C&pg=PA199|year=2010|isbn=978-0-230-62024-7|quote=...{{nbsp}}claimed to be from 'the anarchist group calling ourselves FC|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。
== 概要 ==
[[1978年]]5月から[[1995年]]にかけて全米各地の大学と航空業界および金融関係者に爆発物を送りつけ、3人が死亡、29人以上が重軽傷を負った事件を起こし、「'''ユナボマー'''(Unabomber、'''Un'''iversity and '''A'''irline '''Bomber'''を短縮した[[造語]])」の名で呼ばれる。のちにカジンスキーから『[[ニューヨーク・タイムズ]]』と『[[ワシントン・ポスト]]』に送られた犯行声明「Industrial Society and Its Future」(「産業社会とその未来」、通称「'''ユナボマー・マニフェスト'''」)により、これら一連の事件の目的が明らかとなる。FBIによる捜査では史上最長となった事件である。


1971年からカジンスキーはモンタナ州リンカーン郡近郊の人里離れた小屋に移り住んでいる。電気水道とは無縁の隠遁生活を始める一方で、サバイバル技術を磨き、自給自足を実現しようとした。しかし小屋の周囲にあった原野が破壊されるのを目の当たりにしたカジンスキーは、自然の中で暮らすだけではだめだという考えにいたり、1978年に爆弾事件を起こし始める。1995年には[[ニューヨーク・タイムズ]]に手紙を送り、もし同紙か[[ワシントン・ポスト]]が自分の論文『産業社会とその未来』を掲載するのであれば「テロ活動をやめる」ことを約束した。この論文のなかで、爆弾事件が極端な行動であることは認めつつ、[[産業社会|大規模な集団化]]を前提とする現代科学技術に人間の自由と尊厳が蝕まれていることを知らしめるためには必要だったという主張を行った。
== プロフィール ==
カジンスキーは1942年、[[シカゴ]]郊外の[[イリノイ州]][[:en:Evergreen Park, Illinois|エバーグリーンパーク]] に[[ポーランド]]系の2世移民として生まれる。
父親はソーセージ工場の労働者であった。少年期はセオドアの[[名前の短縮型|愛称]]であるテッド、またはテディという愛称で呼ばれ、内向的ではあるが、高い知能を持つ勉強好きな少年で小学校5年での[[知能指数|IQ]]が167もあった。子供の頃の彼は、他人の感情を理解できず、友達と遊ぶような子ではなかった。飛び級をしたが、いじめの対象になっていた<ref>http://murderpedia.org/male.K/k/kaczynski.htm</ref>。また他人に触られることを極端に嫌がったり、音に非常に敏感であったため、医学者のJ. Arturo Silvaの論文では[[アスペルガー症候群]]であったと書かれている<ref>http://www.autismwebsite.com/crimetimes/05c/w05cp13.htm</ref>。


カジンスキーは[[連邦捜査局|FBI]]の歴史において最も捜査に予算と時間のかかった容疑者でもある。彼の正体が明らかになるまで、FBIはこの事件を「大学・航空機爆弾犯」の頭字語である'''ユナボム'''(UNABOM '''Un'''iversity and '''A'''irline '''Bom'''ber)というコードネームで呼んでおり、次第にメディアはカジンスキーのことをユナボマーと呼ぶようになった。FBIと[[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]]の[[ジャネット・レノ]]の後押しで『産業社会とその未来』が活字化されたことをきっかけに、弟のデイヴィッド・カジンスキーがその文体の特徴に気づいて通報を行い、カジンスキーの逮捕にいたった。
学業は天才的な優秀さで、地元で知らぬ者はいないといわれた。15歳の時には、上級数学コースを高校で受講しており、[[ラプラス変換]]などを勉強していた<ref>http://www.jcs-group.com/enigma/fascination/kaczynski.html</ref>。[[飛び級]]により、16歳で[[ハーバード大学]]に進学した。学生時代、とりわけ学寮の寮生の間では、彼との会話を思い起こせないでいるほど印象の薄い学生だった。大学時代、[[CIA]]の前身機関でスパイ養成を行っていた心理学者・[[ヘンリー・マリー]]教授による行動心理実験の被験者となり、この時受けた心理的拷問体験や、隔離入院の経験が、後の犯行心理の奥底にあるといわれる。ハーバードの最後の年の成績は、Math 210のクラスでB、Math 250のクラスでBであり、3.12のGPAで卒業した。この時20歳であった。この成績は、グレードインフレーションがなかった時代とは言え、[[ハーバード大学]]に飛び級で入学した割には良くなかった。そのためか、[[シカゴ大学]]、[[カリフォルニア大学バークレー校]]、[[ミシガン大学]]の大学院には合格したが、ファイナンシアルエイドやティーチングアシスタントのポジションは最初、どこの大学院でも得られなかった。しかし最終的には[[ミシガン大学]]の大学院でティーチングアシスタントのポジションが得られたので、ミシガン大学の大学院に入学することにした<ref>http://www.michigandaily.com/content/he-came-ted-kaczynski-he-left-unabomber</ref>。


1996年の逮捕以降、カジンスキーは公選弁護人の解任を求めていたが認められなかった。彼は自分のことを正気だと考えていたが、弁護士は死刑を回避するために、被告人の精神錯乱を主張していたからである。1998年には[[司法取引]]が成立し、彼がすべての罪を認めることと引き換えに、[[仮釈放]]なしの[[終身刑]]が言い渡された。
ミシガン大学で数学の修士号とPh.Dを取得。1967年に、25歳で[[カリフォルニア大学バークレー校]]の[[助教]]に就任した。カリフォルニア大学バークレー校では学部生に、[[位相幾何学]]や[[関数空間]]を教えていた。


== 生い立ち ==
[[File:Young theodore kaczynski.jpeg|thumb|カリフォルニア大学バークレー校の助教だった頃のカジンスキー]]


=== 少年時代 ===
彼に対する専門性の評価は高く、大学の教員であり続けることのみならず、教授への昇進も期待されたほどだったという。しかし、教えたコースの学生からの評価は良くなく、多くのクレームがあった<ref>http://murderpedia.org/male.K/k/kaczynski.htm</ref>。
セオドア・ジョン・カジンスキーは1942年3月22日、[[イリノイ州]][[シカゴ]]に[[ポーランド]]系の移民2世として生まれる。いわゆる労働者階級の家で、母はワンダ・テレサ(旧姓ドンベック)、父はセオドア・リチャード・カジンスキーといった<ref>{{cite web|url=http://articles.latimes.com/1996-04-14/news/mn-58543_1_ted-kaczynski|title=Adrift in Solitude, Kaczynski Traveled a Lonely Journey|accessdate=2016-6|author=Times Staff Writers|date=April 14, 1996|website=Los Angeles Times|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160603130746/http://articles.latimes.com/1996-04-14/news/mn-58543_1_ted-kaczynski|archivedate=June 3, 2016|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。両親は弟のデイヴィッドに、テッドが幼かったときの悲劇を語ったことがある。テッドはひどい蕁麻疹にかかって病院の隔離室に入れられ、ほとんど面会謝絶になって「感情らしいものをみせることがほとんどないときが何か月も続いた」という<ref name="rage">{{cite news |url = https://www.nytimes.com/1996/05/26/us/prisoner-of-rage-a-special-report-from-a-child-of-promise-to-the-unabom-suspect.html |title = Prisoner of Rage – A special report.; From a Child of Promise to the Unabom Suspect |work = [[The New York Times]] |date = May 26, 1996 |author = [[McFadden, Robert D.]] |accessdate = February 4, 2009 |deadurl = no |archiveurl = https://web.archive.org/web/20170809214216/http://www.nytimes.com/1996/05/26/us/prisoner-of-rage-a-special-report-from-a-child-of-promise-to-the-unabom-suspect.html |archivedate = August 9, 2017 |df = mdy-all }}</ref>。また、蕁麻疹の診断をする医者たちが幼いテッドを押さえつけている1枚の写真を本人に見せたときはひどく嫌悪を示した。母によればカジンスキーはケージに入れられていたりして身動きのとれない動物にシンパシーをみせることがあり、おそらくそれは病院で隔離室に入れられていた経験から来ているものだった<ref name="Stranger">{{cite web|url=https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1996/06/16/a-stranger-in-the-family-picture/faa11dd5-6d68-40b1-81cb-60308a541628/|title=A Stranger In The Family Picture|accessdate=2017-8|date=June 16, 1996|website=The Washington Post|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170803010221/https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1996/06/16/a-stranger-in-the-family-picture/faa11dd5-6d68-40b1-81cb-60308a541628/|archivedate=August 3, 2017|first1=Serge F.|last1=Kovaleski|first2=Lorraine|last2=Adams|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。1年生から4年生までカジンスキーはシカゴのシャーマン小学校に通い、教師からは「健康」「順応性あり」と評価された{{sfn|Chase|2004|p=161}}。1952年、弟のデイヴィッドが生まれてから3年後に、家族はイリノイ州{{仮リンク|エヴァーグリーン・パーク (イリノイ州)|en|Evergreen Park, Illinois|label=エヴァーグリーン・パーク}}に引っ越し、テッドはエヴァーグリーン・パーク・スクールに転校した。彼は知能テストでIQ167を記録したため<ref>{{cite web|url=http://www.chicagotribune.com/chi-ted_add009t20080226125454-photo.html|title=The Kaczynski brothers and neighbors|accessdate=2017-8|website=Chicago Tribune|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170817162052/http://www.chicagotribune.com/chi-ted_add009t20080226125454-photo.html|archivedate=August 17, 2017|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>、6年生は飛び級となった。カジンスキーは後にこれが大きな出来事だったと語っている。彼は同級生といるときは社交的でみんなのリーダーでさえあったのに、飛び級をしてからは年上の子と馴染めず、いじめも受けたという<ref>{{cite book|ref=harv|last1=Chase|first1=Alston|title=A Mind for Murder – The Education of The Unabomber and the Origins of Modern Terrorism|url=https://books.google.com/?id=av5iRXPoXZYC&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false|edition=1|year=2004|accessdate=June 15, 2017|publisher=W. W. Norton & Co., Inc.|isbn=978-0-393-32556-0|pages=107–108|location=New York|publication-date=2004|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170819055048/https://books.google.com/books?id=av5iRXPoXZYC&printsec=frontcover&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false|deadurl=no|archivedate=August 19, 2017|orig-year=2003|df=mdy-all}}</ref>。エヴァーグリーン・パークの近隣住民は後にカジンスキー家が「公共心のある人たち」であったと表現していて、ある人は彼の両親が「全てを犠牲にして子供たちを育てていた」とも語っている<ref name="rage" />。テッドもデイヴィッドも聡明な子であったが、テッドはずば抜けて優秀だった。近所の1人は「あれぐらい頭がいい人はいままで見たことがない」と言う<ref>{{cite web|url=https://usatoday30.usatoday.com/news/index/una24.htm|title=Kaczynski: Too smart, too shy to fit in|accessdate=2017-7|author=Staff writer(s)|date=November 13, 1996|website=USA Today|publisher=|df=mdy-all}}</ref>。一方で別の人はテッドが「絶対に単独行動をしたがる」子で「遊ぶことをせず、早々と老人になったような」子供であったと証言している<ref name="rage" />。


母親が回想するテッドは恥ずかしがり屋の子供であり、遊び場に無理やり連れて行っても馴染もうとしなかった<ref>{{cite news|title=A loner from youth|last=Ferguson|first=Paul|url=http://www.cnn.com/SPECIALS/1997/unabomb/accused/early/|accessdate=February 4, 2009|publisher=CNN|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080613131238/http://www.cnn.com/SPECIALS/1997/unabomb/accused/early/|archivedate=June 13, 2008|year=1997}}</ref>。あるとき息子が社会に順応して成長していけるのかと不安に思った母親は、[[ブルーノ・ベッテルハイム]]が校長を務める自閉症の子供のための学校に息子を入れるのを検討したが、ベッテルハイムがまともに説明することなく冷たく教える姿を見て、その考えは捨てた<ref>{{cite book|last1=Karr-Morse|first1=Robin|title=Scared Sick: The Role of Childhood Trauma in Adult Disease|url=https://books.google.com/?id=59zrlWaTgqwC&pg=PT102&lpg=PT102&dq=kaczynski+bettelheim#v=onepage&q=kaczynski%20bettelheim&f=false|edition=2|date=January 3, 2012|accessdate=June 15, 2017|publisher=Basic Books|isbn=978-0-465-01354-8|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170819055048/https://books.google.com/books?id=59zrlWaTgqwC&pg=PT102&lpg=PT102&dq=kaczynski%20bettelheim&source=bl&ots=uV5m7sVChO&sig=JRT_dNr5EMxR63OYnxB4CZii-s4&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwikx8blzsDUAhXEQD4KHeyyCVIQ6AEISDAF#v=onepage&q=kaczynski%20bettelheim&f=false|deadurl=no|archivedate=August 19, 2017|df=mdy-all}}</ref>。1990年に、末期がんと診断されたテッドの父親は、22口径ライフルで自分を撃ち抜いて自殺した。報道に反して、父は精神衛生上の問題を抱えていたわけではなかった。彼はがんを患った末に死ぬのは自分だけでなく家族にとっても苦痛にすぎるだろうと考えたのだった。自ら命を絶つまでの数日間、家族と過ごす彼はとても穏やかで優しく、後から考えれば別れの挨拶の代わりであった<ref>{{Cite book|last=Kaczynski|first=David|title=Every Last Tie: The Story of the Unabomber and His Family|url=https://books.google.com/books/about/Every_Last_Tie.html?id=1_s8CwAAQBAJ&printsec=frontcover&source=kp_read_button#v=onepage&q=theodore&f=false|date=2016-01-08|publisher=Duke University Press|language=en|isbn=9780822375005}}</ref>。
1969年に大学を辞職して実家に戻り、2年後には[[モンタナ州]]の郊外に自らの手で山小屋を作り、電気も水道も通っていない環境で自給自足の生活を始める(ただし家族からの経済的援助を受けたり、雇われ仕事をすることはあった)。


===犯行と逮捕===
=== 高校時代 ===
カジンスキーはエヴァーグリーン・パーク・コミュニティ高校に入学し、そこでも学業優秀であった。マーチングバンドに参加してトロンボーンを演奏し、数学や生物学、コイン研究、ドイツ語などのクラブ活動をしたが、クラスではよそもの扱いであった<ref name="WashingtonPost">{{cite web|url=https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1996/04/07/the-profile-of-a-loner/82b4e96d-4fc1-4b69-82c8-9d95293a2be3/|title=THE PROFILE OF A LONER|accessdate=2017-8|date=April 7, 1996|website=The Washington Post|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170811111033/https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1996/04/07/the-profile-of-a-loner/82b4e96d-4fc1-4b69-82c8-9d95293a2be3/|archivedate=August 11, 2017|first1=Joel|first2=Serge F.|last1=Achenbach|last2=Kovaleski|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref><ref name="ChicagoTribune">{{cite web|url=http://articles.chicagotribune.com/1996-04-16/news/9604160124_1_ted-kaczynski-theodore-kaczynski-briefcase|title=Egghead Kaczynski Was Loner In High School|accessdate=2017-8|date=April 16, 1996|website=Chicago Tribune|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170811104324/http://articles.chicagotribune.com/1996-04-16/news/9604160124_1_ted-kaczynski-theodore-kaczynski-briefcase|archivedate=August 11, 2017|first1=Andrew|first2=Robert|last1=Martin|last2=Becker|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。1996年にかつてのクラスメイトが当時の印象を語っている。「あいつは本当に人間というか、人格のある個人としては扱われていなかった..。言ってみれば、歩く脳みそと思われていたんだよ、ずっと」<ref name="rage" />。この時期に、カジンスキーは数学に特に関心を持つようになり、一日に何時間も勉強をして高度な問題を解いていた。同時に、「かばん少年」と呼ばれていた、科学と数学が好きな生徒同士でかたまるようになった。このあだ名は、彼らが書類かばんを好んで持ち歩いたことからつけられたものだった<ref name="ChicagoTribune" />。メンバーの1人がカジンスキーのことを回想して「彼は学校で一番頭がよかった...知り合いになるまでは本当に物静かでシャイだった。でも一度知り合いになれば、とにかく話好きだった」と語っている<ref name="rage" />。学業に関しては、高校時代は常に同級生から頭一つ抜けていた。数学は上級クラスに入れられたが、すぐにすべての教材を終わらせてしまっている。高校3年生を飛び級し、{{仮リンク|サマースクール|en|summer school}}に参加して15歳で高校を卒業した。彼は学校に5人だけいたナショナル・メリット・スカラシップの最終候補者の1人であり、[[ハーバード大学]]に進学するように勧められて<ref name="WashingtonPost" />、1958年には奨学金を利用して16歳でハーバードに入学する<ref>{{cite book|last=Hickey|first=Eric W.|title=Encyclopedia of Murder and Violent Crime|date=2003|publisher=SAGE Publications|page=268}}</ref>。クラスメイトは後に、このころのカジンスキーがまだ精神的に未熟であったと言っている。「周りが彼を捕まえて、準備ができる前にハーバードに送り込んだんだ...運転免許さえ持っていなかったのに」<ref name="rage" />。
1978年5月28日に[[ノースウェスタン大学]]の[[材料工学]]科教授に小包爆弾を送りつけたのが最初の犯行であり、警察官が負傷する。


=== 大学時代 ===
1979年5月9日には再びノースウエスタン大学に爆弾を送り付け、大学院生が負傷する。
ハーバードの初年度は、大学そばのプレスコットストリート8番地に住んでいた。ここは、最も若くて早熟な新入生が、こじんまりと少人数で暮らすために考えられたエリアだった。残りの3年間は学生寮の{{仮リンク|エリオットハウス|en|Eliot House (Harvard College)}}で生活した。同じ寮に住んでいた人間は、彼が人と関わることを避けていて「帰ってくると寮の中を駆け抜けて、自分の部屋に入ったなりドアをばたんと閉める」様子を覚えていた。別の人間はカジンスキーが寡黙でこそあったが、天才と言われていたことには間違いがないと言う。いわく「これはただの一意見だけど、テッドは優秀なやつだった」。さらに別の学生はカジンスキーがこれまでの証言から連想するほど人間嫌いというわけではなかったという。この発言をしたのは、エリオットハウスで当時カジンスキーと食事をしたことのある人間で、彼のことは「とても静かだったけど、人柄は悪くなかった...議論にも加わったし、とびきり愛想がいいというわけじゃなかったけど、友好的だったのは間違いない」<ref>{{cite web|url=http://www.thecrimson.com/article/2012/5/21/ted-kaczynski-unabomber-math/?page=single|title=Theodore J. Kaczynski|accessdate=2017-8|last=Song|first=David|date=May 21, 2012|website=The Harvard Crimson|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170819055048/http://www.thecrimson.com/article/2012/5/21/ted-kaczynski-unabomber-math/?page=single|archivedate=August 19, 2017|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。カジンスキーは1962年にハーバードを卒業し、数学の学位を取得した<ref>{{cite web|url=https://www.bostonglobe.com/metro/2012/05/23/harvard-alumni-directory-contains-bizarre-entry-for-ted-kaczynski-unabomber/Cjhy7Hu4Na7lakHdU7N11J/story.html|title=Unabomber lists self as ‘prisoner’ in Harvard directory|accessdate=2017-9|date=May 23, 2012|website=The Boston Globe|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170901023316/https://www.bostonglobe.com/metro/2012/05/23/harvard-alumni-directory-contains-bizarre-entry-for-ted-kaczynski-unabomber/Cjhy7Hu4Na7lakHdU7N11J/story.html|archivedate=September 1, 2017|first1=Alli|last1=Knothe|first2=Travis|last2=Andersen|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.bbc.com/news/world-us-canada-18198679|title=Unabomber in Harvard reunion note|accessdate=2017-9|author=Staff writer(s)|date=May 24, 2012|publisher=BBC|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170901031938/http://www.bbc.com/news/world-us-canada-18198679|archivedate=September 1, 2017|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref> 。GPAは3.12だった<ref name="michigandaily">{{cite web|url=https://www.michigandaily.com/content/he-came-ted-kaczynski-he-left-unabomber|title=He came Ted Kaczynski, he left The Unabomber|accessdate=2019-1|last=Stampfl|first=Karl|date=March 16, 2006|website=The Michigan Daily|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170114062259/https://www.michigandaily.com/content/he-came-ted-kaczynski-he-left-unabomber|archivedate=January 14, 2017|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。


=== 心理学の実験 ===
同年11月25日にはシカゴからワシントンDCへ向かうアメリカン航空444便の爆破テロを企図した。未遂に終わったものの、12人の乗客が爆弾から噴き出た煙を吸い込んで病院に搬送される事態となり、FBIが連邦犯罪としてユナボマーの捜査を行う最初の事件となった。
カジンスキーは大学2年生の時に、ある心理学の実験に被験者として参加していた。それはハーバード大学の心理学者{{仮リンク|ヘンリー・マレー|en|Henry Murray}}が指導していた研究で、作家のオールストン・チェイスの表現を借りれば「あえて残酷になる心理実験」であった。被験者は、自分の個人的なテーマを同級生とディベートしたり、いま考えている事、やりたい事を小論文にして詳しく書くように言われる。この小論文は匿名の弁護士にまわされ、続くパートでこの弁護士が敵役にまわって、被験者を侮辱するのである。「激烈で、草の根も生えないほど、人格的な欠点をあげつらう」攻撃が、論文に書かれた内容を武器に使って行われ、その間の被験者の反応が電極によってモニターされた。このときの様子は録画され、怒ったり逆上する姿が被験者の前で繰り返し再生された<ref>{{cite web|url=https://www.washingtonpost.com/archive/entertainment/books/2003/03/02/a-dangerous-mind/b003b569-3159-47da-bf95-17bef527f8bb/|title=A Dangerous Mind|accessdate=2018-5|last=Gitlin|first=Todd|date=March 2, 2003|website=The Washington Post|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180508185636/https://www.washingtonpost.com/archive/entertainment/books/2003/03/02/a-dangerous-mind/b003b569-3159-47da-bf95-17bef527f8bb/|archivedate=May 8, 2018|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。この実験は3年間続いたが、その間は週に一度誰かがカジンスキーを言葉でけなしたり辱めた<ref name="moreno">{{cite web|url=https://www.psychologytoday.com/blog/impromptu-man/201205/harvards-experiment-the-unabomber-class-62|title=Harvard's Experiment on the Unabomber, Class of '62|accessdate=2017-12|last=Moreno|first=Jonathan D|date=May 25, 2012|website=Psychology Today|publisher=|archiveurl=https://archive.is/20171221043118/https://www.psychologytoday.com/blog/impromptu-man/201205/harvards-experiment-the-unabomber-class-62|archivedate=December 21, 2017|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref><ref>{{cite web|url=https://medium.com/life-tips/my-brother-the-unabomber-1ea71ea1f7af|title=My Brother, the Unabomber|accessdate=April 9, 2016|website=Life Tips|publisher=Medium|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160409134205/https://medium.com/life-tips/my-brother-the-unabomber-1ea71ea1f7af|archivedate=April 9, 2016|last1=Haas|first1=Michaela|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。カジンスキーがこの実験に参加した時間は200時間に及ぶ。


カジンスキーの弁護人は、彼が社会に向けた敵意の原因をこのマレーの実験で駆使された[[マインドコントロール]]に求めている<ref name="making">{{cite news|title=Harvard and the Making of the Unabomber|magazine=The Atlantic Monthly|date=June 2000|last1=Alston|first1=Chase|url=https://www.theatlantic.com/magazine/archive/2000/06/harvard-and-the-making-of-the-unabomber/378239/|accessdate=June 15, 2017|pages=41–63|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140821120634/https://www.theatlantic.com/magazine/archive/2000/06/harvard-and-the-making-of-the-unabomber/378239/|archivedate=August 21, 2014|volume=285|issue=6|dead-url=no}}</ref>。マレーの実験が[[中央情報局|CIA]]の[[MKウルトラ計画]]の一環であったことについては、複数の資料がある<ref name="mindwars">{{cite book|last1=Moreno|first1=Jonathan|title=Mind Wars: Brain Science and the Military in the 21st Century|year=2012|publisher=Bellevue Literary Press, NYU School of Medicine|isbn=978-1-934137-43-7}}</ref><ref name="mkultra">{{cite web|url=http://www.theweek.co.uk/86961/mkultra-inside-the-cias-cold-war-mind-control-experiments|title=MKUltra: Inside the CIA's Cold War mind control experiments|accessdate=December 23, 2017|website=The Week|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171122053010/http://www.theweek.co.uk/86961/mkultra-inside-the-cias-cold-war-mind-control-experiments|archivedate=November 22, 2017|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref><ref name="UNABOM">{{cite web|url=https://www.theatlantic.com/magazine/archive/2000/06/harvard-and-the-making-of-the-unabomber/378239/|title=Harvard and the Making of the Unabomber|accessdate=December 23, 2017|website=The Atlantic|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140821120634/https://www.theatlantic.com/magazine/archive/2000/06/harvard-and-the-making-of-the-unabomber/378239/|archivedate=August 21, 2014|last1=Chase|first1=Alston|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。この実験がカジンスキーの犯行の動機につながったという意見を持っているのも作家のチェースだけではない<ref name="Chase">{{cite book|last=Chase|first=Alston|title=Harvard and the Unabomber: The Education of an American Terrorist|year=2003|publisher=W. W. Norton & Company|isbn=978-0-393-02002-1|pages=18–19}}</ref><ref name="Unabomber">{{cite news|title=Harvard and the Making of the Unabomber|date=June 1, 2000|author=Alston Chase|url=https://www.theatlantic.com/issues/2000/06/chase.htm|accessdate=October 16, 2008|pages=41–65|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080509100519/http://www.theatlantic.com/issues/2000/06/chase.htm|archivedate=May 9, 2008|work=The Atlantic Monthly|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref><ref name="radiolab">{{cite web|url=http://www.radiolab.org/2010/jun/28/|title=Oops|accessdate=2010-9|author=RadioLab|date=June 28, 2010|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100908003140/http://www.radiolab.org/2010/jun/28/|archivedate=September 8, 2010|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref><ref name="shrinks">{{cite web|url=http://www.counterpunch.org/1999/10/18/cia-shrinks-lsd/|title=CIA Shrinks & LSD|accessdate=August 7, 2015|author=Cockburn, Alexander|date=October 18, 1999|work=CounterPunch|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150907020536/http://www.counterpunch.org/1999/10/18/cia-shrinks-lsd/|archivedate=September 7, 2015|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。
1980年6月10日には[[ユナイテッド航空]]の社長に対し、書籍に偽装した爆弾を自宅に送り付け負傷させる。


=== 数学者として ===
1981年10月8日には[[ユタ大学]]に爆弾を送り付けるが警察により解体され未遂に終わる。
[[File:Young theodore kaczynski.jpeg|thumb|カリフォルニア大学バークレー校の助教だった頃のカジンスキー]]1962年にカジンスキーは[[ミシガン大学]]の大学院に入学し、修士(1964年)と博士(1967年)を修了した。ミシガン大学は大学院進学の第一候補ではなかったが、[[カリフォルニア大学バークレー校|カリフォルニア大学バークレイ校]]や[[シカゴ大学]]も受験して合格こそしたものの、教員ポストや資金援助は得られなかったのである。それに対してミシガン大学からは年に2,310ドルの助成金(2018年の20,000ドル弱に相当)と教員ポストのオファーがあったのだった<ref name="michigandaily" />。


ミシガン大学では、[[複素解析]](特に幾何学的関数論)を専攻した。彼の知性と情熱は、教授たちに強い印象を残した。「彼は並大抵の人間じゃなかった。ほかの院生とはまるでちがっていた。自分の研究にとにかく没頭していたんだ。数学における真理の発見に打ち込んでいたよ」とピーター・デューレン教授は言う。「賢いというだけでは足りない」ともう一人のミシガン大学の数学者ジョージ・ピラニアンも言っている<ref name="Ostrom, Carol M">{{cite news|title=Unabomber Suspect Is Charged – Montana Townsfolk Showed Tolerance For 'The Hermit'|date=April 6, 1996|author=Ostrom, Carol M.|url=http://community.seattletimes.nwsource.com/archive/?date=19960404&slug=2322396|accessdate=February 4, 2009|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081227045157/http://community.seattletimes.nwsource.com/archive/?date=19960404&slug=2322396|archivedate=December 27, 2008|work=[[The Seattle Times]]|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。ミシガン時代に、カジンスキーは18の履修科目で5つのB、12のAをとっている。しかし2006年に彼は「ミシガン大学での思い出は楽しいものでは'''なかった'''<!-- 強調原文 -->...単位を(物理学以外は)取れただけでなく、Aがありすぎたのが問題だ。ミシガンではどれだけ基準が低いのか、哀れもいいところだ」と語っている<ref name="michigandaily" />。
1982年5月5日には[[ヴァンダービルト大学]]に爆弾を送り付け、事務員の女性が負傷する。


1967年に提出されたカジンスキーの学位請求論文『''Boundary Functions''』<ref name="academicworks">{{cite web|url=http://homepages.rpi.edu/~bulloj/tjk/tjk.html|title=Published [Academic] Works of Theodore Kaczynski|accessdate=July 31, 2015|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150808081823/http://homepages.rpi.edu/~bulloj/tjk/tjk.html|archivedate=August 8, 2015|last1=Bullough|first1=John|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>はサムナー・B・マイヤーズ賞を受賞している。これはミシガン大学で一年に提出された最も優れた数学の博士論文に送られるものだった<ref name="rage3">{{cite news|title=Prisoner of Rage – A special report.; From a Child of Promise to the Unabom Suspect|date=May 26, 1996|author=[[McFadden, Robert D.]]|url=https://www.nytimes.com/1996/05/26/us/prisoner-of-rage-a-special-report-from-a-child-of-promise-to-the-unabom-suspect.html|accessdate=February 4, 2009|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170809214216/http://www.nytimes.com/1996/05/26/us/prisoner-of-rage-a-special-report-from-a-child-of-promise-to-the-unabom-suspect.html|archivedate=August 9, 2017|work=[[The New York Times]]|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。指導教官だったアレン・シールズは「今まで見てきた中でも一番素晴らしかった」といい<ref name="michigandaily" />、審査委員の一人だったマクスウェル・リードは「アメリカでも理解できたり褒めたりできるのは多分10人かそこらだと思う」と語っている<ref name="Ostrom, Carol M" /><ref name="rage3" />。彼はこの論文をもとに2本の雑誌論文を書き、ミシガン大学を去るまでさらに3本を雑誌掲載している<ref name="academicworks" /><ref>{{cite news|title=Meteoric Talent that Burned Out|date=April 5, 1996|author1=Howe, Peter J.|author2=Dembner, Alice|url=http://www.highbeam.com/doc/1P2-8378920.html|accessdate=May 9, 2009|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110501085731/http://www.highbeam.com/doc/1P2-8378920.html|archivedate=May 1, 2011|work=[[Boston Globe]]|lastauthoramp=yes|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。
同年7月2日には[[カリフォルニア大学バークレー校]]に爆弾を送り付け、[[電子工学科]]教授が負傷する。


1967年の後半、25歳のカジンスキーはカリフォルニア大学バークレイ校で、開学以来最年少の数学の助教授となった。彼はこの大学で学部生を相手に幾何学や微積分を教えていた<ref>{{cite web|url=https://thetech.com/2016/11/08/anti-tech-revolution-book-review|title=A neo-Luddite manifesto?|accessdate=2017-8|last=Li|first=Ivy|date=November 10, 2016|website=The Tech|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170810090648/https://thetech.com/2016/11/08/anti-tech-revolution-book-review|archivedate=August 10, 2017|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。学生による授業評価だけをみれば、彼は好かれていたとは言えない。教え方が不親切であるというが学生の印象で、教科書に書いてあることから一歩も出ずに授業をしたり質問があっても答えなかったという<ref name="rage3" />。1969年6月30日にカジンスキーは何の説明もなくこの学校を退職している<ref name="LATimes">{{cite web|url=http://articles.latimes.com/1996-07-21/news/mn-26363_1_doctoral-dissertation|title=Kaczynski's Dissertation Would Leave Your Head Spinning|accessdate=2016-11|last=Crenson|first=Matt|date=July 21, 1996|website=Los Angeles Times|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161104013041/http://articles.latimes.com/1996-07-21/news/mn-26363_1_doctoral-dissertation|archivedate=November 4, 2016|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。当時に数学科の学部長だったJ・W・アディソンは「突然で思いもよらない」辞職だったと語っている<ref>{{cite news|title=On the Suspect's Trail: the Suspect; Memories of His Brilliance, And Shyness, but Little Else|date=April 5, 1996|author=[[Perez-Pena, Richard]]|url=https://www.nytimes.com/1996/04/05/us/suspect-s-trail-suspect-memories-his-brilliance-shyness-but-little-else.html|accessdate=February 4, 2009|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170819055049/http://www.nytimes.com/1996/04/05/us/suspect-s-trail-suspect-memories-his-brilliance-shyness-but-little-else.html|archivedate=August 19, 2017|work=The New York Times|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref><ref>{{cite book|last1=Graysmith|first1=Robert|title=Unabomber: A Desire to Kill|date=1998|publisher=Berkeley Publishing Group|isbn=978-0-425-16725-0|pages=11–12}}</ref>。
1985年5月15日にはカリフォルニア大学バークレー校に再び爆弾を送り付け、電子工学科の大学院生が右手の指4本を失うなどの重傷を負う。


1996年、バークレイ校の副学長だったカルヴィン・C・ムーアは、カジンスキーの「印象的な」博士論文と雑誌論文を振り返り、「もっと出世して、今ごろ学部の上層部の一員になっていたかもしれない」と述べている<ref>{{cite news|title=Kaczynski Ended Career in Math with no Explanation|date=April 6, 1996|author=Morris, Willy|work=[[Buffalo News]]}}</ref>。一方で1996年の[[ロサンゼルス・タイムズ]]に掲載された記事によると、この新聞の取材を受けた数学者は「彼が仕事をした分野は実は今すでに存在しない。彼が仕事をしていた1960年代にはすでにほとんどの理論の証明を終えていたんだから」という。ただし数学者のドナルド・ラングは「もし数学者のままだったら多分何か別の研究対象に移っていただろう」とも言っている<ref name="LATimes" />。
同年6月13日には[[ボーイング]]社の[[オーバーン (ワシントン州)]]の製造部門に爆弾が送り付けられるが、爆弾処理班により解体され未遂に終わる。


== モンタナ州での生活 ==
同年11月15日には[[ミシガン大学]]の[[心理学]]教授マコーネルに爆弾が送り付けられ、2人が負傷する。
[[ファイル:Unibomber_shack.JPG|代替文=The interior of a wooden cabin|右|サムネイル|カジンスキーの使っていた小屋(ワシントンD.C.の[[ニュージアム]])]]
カジンスキーはバークレイ校を辞めて、イリノイ州ロンバードの両親のもとで暮らしていたが、2年後の1971年には人をさけてモンタナ州リンカーン郡の郊外に小屋を建て、ほとんど金を使わず、電気も水道もない{{仮リンク|質素な暮らし|en|Simple living}}を始めた<ref name="unabomber2">{{cite web|url=http://www.greatfallstribune.com/multimedia/125newsmakers6/kaczynski.html|title=125 Montana Newsmakers: Ted Kaczynski|accessdate=August 28, 2011|work=Great Falls Tribune|archiveurl=https://www.webcitation.org/6HO3lDTO6?url=http://www.greatfallstribune.com/multimedia/125newsmakers6/kaczynski.html|archivedate=June 15, 2013|deadurl=yes|df=mdy-all}}</ref>。単発的な仕事をしたり、家族からいくらかの資金援助は得てはいた<ref name="rage" />。


彼のそもそもの目標は[[自給自足]]であったため、基本的には独力で生活をした。獲物の追い方、食べられる植物の見分け方、[[有機農業|有機農]]業のやり方、[[発火法#回転摩擦式発火法|弓きり式]]による[[火起こし|火おこし]]、そういった原始的な技術を自ら鍛えた<ref name="ef-interview">{{cite news|title=Interview with Ted Kaczynski, Administrative Maximum Facility Prison, Florence, Colorado, USA|date=June 1999|url=http://www.insurgentdesire.org.uk/tedk.htm|work=Earth First Journal!|access-date=March 18, 2009|archive-url=https://web.archive.org/web/20090318135703/http://www.insurgentdesire.org.uk/tedk.htm|archive-date=March 18, 2009|dead-url=yes}}</ref>。街へ行くときは古い自転車を使っていて、地元の図書館のボランティアの話では、古典作品を原書で読む姿をよく見かけたという。リンカーン郡の住人は後に、彼のようなライフスタイルはこのあたりではそれほど珍しくもなかったと語った<ref>{{cite web|url=https://www.nytimes.com/1996/04/05/us/suspect-s-trail-life-montana-gardening-bicycling-reading-exotically.html|title=On The Suspect's Trail: Life In Montana; Gardening, Bicycling And Reading Exotically|accessdate=2015-11|last=Kifner|first=John|date=April 5, 1996|website=The New York Times|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151104225521/http://www.nytimes.com/1996/04/05/us/suspect-s-trail-life-montana-gardening-bicycling-reading-exotically.html|archivedate=November 4, 2015|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。
同年12月11日には[[カリフォルニア州]]サクラメントのパソコン店経営者を爆殺し、初めての死者が出る。


カジンスキーが暮らす小屋の周囲の原野は不動産開発と工業化によって破壊され、自然に囲まれて平和に暮らすのはもはや不可能だと彼は考えた<ref name="ef-interview" />。それに対抗するために、彼は1975年から周辺の工事現場で破壊工作をはじめるとともに<ref>{{cite web|url=https://www.nytimes.com/1999/03/14/us/new-portrait-unabomber-environmental-saboteur-around-montana-village-for-20.html?mcubz=1|title=New Portrait of Unabomber: Environmental Saboteur Around Montana Village for 20 Years|accessdate=2017-9|last=Brooke|first=James|date=March 14, 1999|website=The New York Times|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170904020809/http://www.nytimes.com/1999/03/14/us/new-portrait-unabomber-environmental-saboteur-around-montana-village-for-20.html?mcubz=1|archivedate=September 4, 2017|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>、[[ジャック・エリュール]]などの本を読み、社会学や政治哲学を独学で学び始める。
1987年2月20日には[[ソルトレークシティー]]のコンピュータ店経営者を負傷させる。その際に初めて目撃され、似顔絵が全米に周知されたが1988年から1992年までは全く犯行を行わず、爆弾製造技術を磨いていた。


逮捕後のインタビューで、彼は気に入りの場所を散策していたときに受けた衝撃を思い出している<ref name="ef-interview" />。
1993年6月に犯行を再開し、22日には[[カリフォルニア大学]]の遺伝学者、24日には[[イェール大学]]の[[コンピューターサイエンス]]学科教授に爆弾を送りつけそれぞれ重傷を負わせる。
{{Quotation|平坦でない起伏のある土地で、縁まで行けばそこから崖のように急角度の斜面になっているのがわかるし、滝まで流れ落ちている。私の小屋から歩いて2日はかかる所なんだ。1983年の夏までは、散歩をするならそこ、というような場所だった。その年の夏は私の小屋の周りには人が多すぎて、私にはある程度の平穏が必要だと痛感したよ。あの高台に戻っていつもの場所に行ったら、あの人間たちがちょうどそこの真ん中を通るように道路を建設しているのに気が付いたんだ...。私がどれだけ取り乱したか想像もつかないことだろうね。その時から心に決めたんだ。これ以上自然の中に生きる技術を身に着けるよりも、体制そのものに仕返しをする仕事をするのが先だ、と。つまり、復讐だ。|セオドア・カジンスキー}}
1999年のインタビューでは、社会改革の行く末についても期待を持てなくなった自分を語っている。「人間は低きに流れる傾向にある...」という彼の言葉は、産業技術に支えられた社会体制を打ち倒すには、暴力で屈服させることこそが唯一の道だという意味である<ref name="ef-interview" />。
{{Quotation|人は安易な生き方を選ぶ。車やテレビ、電気を手放すことに、抵抗感が薄い人などほとんどいない。私が思うに、産業主義的な体制を打倒する手段を操ったり計画することなどできはしない。それを取り除くための唯一の方法は、機能停止させたうえで破壊することだと思う...大きな問題は、人は革命が起こるとは考えてもいないということだ。正確にいうと、それが可能だということを信じていないのだ。[[エコアナキズム]]の運動が大きな成果を上げていることは私も認めるが、そこから先がない...。真の革命は改革とは距離をとるべきだ...。できるだけ多くの人が自然に親しめるように意識高い努力がされていればいいとは思う。ざっくり言えば、すべきことは自分たちが正しいと世間の大半に納得させたり説得することではなく、まずは体制が機能停止になるところまで社会に緊張感をもたらすことを目指すべきだ。人が反逆者に変わるだけの社会不安をつくりだすんだ。そうすれば話は、どうやってその状態まで緊張感を高めるのか?という問いに行きつく。|セオドア・カジンスキー}}


==犯行==
1994年12月10日には[[バーソン・マーステラ]]社の重役、1995年4月24日には木材業界のロビイスト団体代表をそれぞれ爆殺する。
1978年から1995年にかけて、カジンスキーは爆弾を郵送したり時に自ら運んで、爆破させた。爆弾は次第に洗練されていき、最終的に3人の命を奪い、23人を大小の怪我を負わせた。計16個の爆弾が彼のものだとされている。爆弾の仕組みは年ごとに違ったが、初期のいくつかを除いてすべてに「FC」というイニシャルがはいっていた。後にカジンスキーはこれが「フリーダム」('''F'''reedom '''Cl'''ub)のことだと説明している<ref name="freedomclub">{{cite web|url=http://www.wildism.org/lib/item/c2001d9d/#letter-to-san-francisco-examiner-1985|title=The Communiques of Freedom Club, § Letter to San Francisco Examiner|accessdate=August 8, 2015|website=Wildism.org|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150811020050/http://www.wildism.org/lib/item/c2001d9d/#letter-to-san-francisco-examiner-1985|archivedate=August 11, 2015|author1=Freedom Club|deadurl=yes|df=mdy-all}}</ref>。彼はあえて捜査を迷わせるための手がかりを装置に残す一方で、指紋がつくことのないようその扱い自体はきわめて慎重だった。一部の装置に残っていた指紋は、カジンスキーの出した手紙のものとは一致しなかった{{efn|As stated in the "Additional Findings" section of the FBI [[affidavit]], where a balanced listing of other uncorrelated evidence and contrary determinations also appeared, "203. Latent fingerprints attributable to devices mailed and/or placed by the UNABOM subject were compared to those found on the letters attributed to Theodore Kaczynski. According to the FBI Laboratory no forensic correlation exists between those samples."<ref name=Affidavit>{{cite web |url = http://www.courttv.com/archive/casefiles/unabomber/documents/affidavit.html |title = Affidavit of Assistant Special Agent in Charge |publisher = Court TV |accessdate = February 4, 2009 |deadurl = yes |archiveurl = https://web.archive.org/web/20081218190755/http://www.courttv.com/archive/casefiles/unabomber/documents/affidavit.html |archivedate = December 18, 2008 }}</ref>}}。


=== 初期の爆弾事件 ===
[[1995年]]、犯行声明文(産業社会とその未来)、いわゆる「ユナボマー・マニフェスト」を全国紙に載せることを条件に犯行を中止する。
[[ファイル:Unibomber_bomb.JPG|alt=木箱に入れられた爆弾と電線|サムネイル|FBIが再現したカジンスキーの爆弾の1つ(ワシントンD.C.の[[ニュージアム]]に展示されている)]]カジンスキーの最初の郵便爆弾は、[[ノースウェスタン大学]]で材料工学を研究する教授のバークレイ・クリストを狙ったものだった。1978年5月25日、差出人住所がクリストのものになっている小包が[[イリノイ大学シカゴ校]]の駐車場で発見された。郵便物はクリストに「返却」となっていたが、彼はそんな荷物を出しておらず、不審に思ってキャンパスの警察に連絡を入れた。警察官のテリー・メイカーが郵便を開封すると爆発が起こり、彼は左手を負傷した<ref name="chrono 1978">{{cite web|url=http://www.courttv.com/trials/unabomber/chronology/chron_7882.html|title=The Unabomber: A Chronology (1978–1982)|accessdate=July 5, 2008|publisher=Court TV|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080720061945/http://www.courttv.com/trials/unabomber/chronology/chron_7882.html|archivedate=July 20, 2008|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。
[[ニューヨーク・タイムズ]]と[[ワシントンポスト]]が掲載し、全米の反響を呼ぶ。しかしこの行為が仇となり、論調や使用語句が自分の兄に似ていると感じた実弟が[[FBI]]に通報、2,000人を越える容疑者リストの1人となった。当初、[[モンタナ州]]の山奥の電気もガスもない山小屋において年収1,000ドルで暮らす人間をマークする捜査員は僅かであった。しかし、ハーバード卒業時の論文の論調とマニフェストが酷似していることで捜査が進められ、翌年、100人の捜査員、米軍兵士に包囲され逮捕された。


中身は、木の箱にはいった直径{{convert|1|in|cm}}長さ{{convert|9|in|cm}}の鉄パイプで穴には無煙火薬が詰められていた。箱とパイプの両端の栓はいずれも木製で、手作りされたものだった。パイプ爆弾のほとんどは、市販で容易に手にはいる金属ねじで端に栓がされている。しかし、栓が木製だと中で生じる強烈な圧力に対する強度がなく、爆風がむしろ弱くなってしまう。起爆装置は単純である。ゴムバンドで引っ張られたくぎが、箱を開けると、6本のマッチの頭薬をたたくというものだ。それでマッチには火がつき、火薬が燃焼する。その後カジンスキーは、火薬にもっとうまく引火するように電池とワイヤ状の熱フィラメントを使っている<ref>{{cite news|title=Cabin's Inventory Provides Insight|date=April 16, 1996|author=Johnston, David|url=https://www.nytimes.com/1996/04/16/us/cabin-s-inventory-provides-insight.html|accessdate=July 6, 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170819150845/http://www.nytimes.com/1996/04/16/us/cabin-s-inventory-provides-insight.html|archivedate=August 19, 2017|work=The New York Times|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。
===裁判===
裁判では、弁護団を自ら解任し自己弁護を行おうとする態度などで審理が進まないと判断した検察官は、仮釈放なしの8回分の[[終身刑]]とする[[司法取引]]を提案した。そしてこの司法取引にカジンスキーが同意したためそのまま刑は確定となり、公判は一度も開かれなかった。そのため、カジンスキーの犯行動機は現在も不明である。また、攻撃の標的をどのように定めたかも多くは語られず不明である。
現在、[[コロラド州]]にある[[:en:ADX Florence|フローレンス刑務所]]で服役している。


カジンスキーは1978年5月の爆弾事件のためにイリノイ州に帰ってきており、フォームラバー工場で働く父と弟の手伝いのため、しばらくこの地に滞在していた。しかしこの年の8月に彼は弟によって仕事を首にされた。理由は、カジンスキーが短期間だけ交際していた女性の指導主事のことを侮辱するような詩を書いたことだった<ref>{{cite web|url=http://www.cbsnews.com/videos/ted-kaczynskis-family-50129994/|title=Ted Kaczynski's Family on 60 Minutes|accessdate=July 31, 2015|date=September 15, 1996|website=CBS News|df=mdy-all}}</ref><ref>{{cite web|url=https://usatoday30.usatoday.com/news/index/una45.htm|title=Kaczynski was fired '78 after allegedly harassing co-worker|accessdate=2016-7|last=Gortelmann|first=Josh|date=November 13, 1996|website=USA Today|publisher=|df=mdy-all}}</ref>。この女性の指導主事はカジンスキーのことを「頭がよくて、もの静か」だったと回想しているが、交際についてはほとんど記憶がなく、恋愛関係にあったことは一切ないとはっきり否定している<ref>{{cite web|url=https://www.nytimes.com/1996/04/19/us/woman-denies-romance-with-unabomber-suspect.html|title=Woman Denies Romance With Unabomber Suspect|accessdate=2015-5|last=Johnson|first=Dirk|date=April 19, 1996|website=The New York Times|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150526165057/http://www.nytimes.com/1996/04/19/us/woman-denies-romance-with-unabomber-suspect.html|archivedate=May 26, 2015|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。
FBIはこの事件で犯罪人類型に「Lone Wolf([[ローンウルフ_(テロ)|ローンウルフ]])」型を加えた。


=== FBIの捜査 ===
[[オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件]]の主犯、[[ティモシー・マクベイ]]を長期に渡り取材し、「{{仮リンク|アメリカン・テロリスト|en|American Terrorist}}」を著した[[ジャーナリスト]]の{{仮リンク|ダン・ハーベック|en|Dan Herbeck}}によると、カジンスキーは同じフローレンス刑務所に収監されているマクベイや共犯者の{{仮リンク|テリー・ニコルズ|en|Terry Nichols}}、[[世界貿易センター爆破事件]]を引き起こした[[ラムジ・ユセフ]]らと「爆破事件の犯人」という共通項から交友関係を持ち、"Bombers Row"と呼ばれる一団を形成していたという。カジンスキーとマクベイは[[自然]]や[[サバイバル]]について語り合う事を好み、マクベイが1999年に[[死刑]]執行の為に[[インディアナ州]]{{仮リンク|テレホート刑務所|en|United States Penitentiary, Terre Haute}}に移送された後も、カジンスキーは他のグループメンバーと交流を続けているという<ref>[http://edition.cnn.com/2007/US/law/12/17/court.archive.mcveigh4/index.html Terror on Trial: Life in Supermax's 'Bombers Row'] - [[CNN]]、December 31, 2007</ref>。
1978年の最初の爆弾事件に続き、航空会社の役員たちにも爆弾が送りつけられ、1979年にはシカゴからワシントンD.C.にフライトするアメリカン航空444便(ボーイング727)の貨物倉に爆弾が仕掛けられた。時限装置のタイミングがあわず爆発することはなかったが、煙が発生したため飛行機は緊急着陸を余儀なくされた。当局によれば、爆発していれば「飛行機を消し飛ばす」ほどの威力があった<ref name="chrono 1978" />。旅客機に爆弾を仕掛けることは連邦犯罪であるため、FBIが捜査に乗り出すとともに容疑者は大学・航空機爆弾犯(University and Airline Bomber)の頭文字からUNABOMと名付けられた。


カジンスキーはすべての爆弾に偽の手がかりを残し、信用できそうだと思わせるために見つけにくいよう仕込んでいた。最初の手がかりは常に爆弾のどこかに(たいていはパイプ端の栓の中だった)隠されたFCというイニシャルのはいった金属プレートだった<ref name="Affidavit" />。また別の手がかりは爆発しなかった爆弾に残されたメモで、「ウー、やったぜ!こうなるって言ったろ―RVより」("Wu—It works! I told you it would—RV")と書いてあった<ref name="tracking">{{cite news |title = Death in the Mail – Tracking a Killer: A special report.; Investigators Have Many Clues and Theories, but Still No Suspect in 15 Bombings |first1 = Ralph |last1 = Blumenthal |first2 = N. R. |last2 = Kleinfield |work = The New York Times |date = December 18, 1994 |url = https://www.nytimes.com/1994/12/18/nyregion/death-mail-tracking-killer-special-report-investigators-have-many-clues-theories.html |accessdate = February 4, 2009 |deadurl = no |archiveurl = https://web.archive.org/web/20170810092635/http://www.nytimes.com/1994/12/18/nyregion/death-mail-tracking-killer-special-report-investigators-have-many-clues-theories.html |archivedate = August 10, 2017 |df = mdy-all }}</ref>。箱を送るときに使われた[[ユージン・オニール]]の1ドル切手を手がかりにしていることもあった<ref>{{cite news|title=The end of anon: literary sleuthing from Shakespeare to Unabomber|date=August 16, 2001|url=http://books.guardian.co.uk/lrb/articles/0,6109,537856,00.html|accessdate=July 5, 2008|location=London|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080905005427/http://books.guardian.co.uk/lrb/articles/0%2C6109%2C537856%2C00.html|archivedate=September 5, 2008|work=[[The Guardian]]|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。スローン・ウィルソンの小説『氷の兄弟』(''Ice Brothers'')の本に爆弾が埋め込まれている時もある<ref name="chrono 1978" />。FBIは容疑者が自分の犯罪に自然、樹木、木々といったテーマを盛り込んでいると考えた。彼の爆弾にはよく木の枝や樹皮の一部が入っており、ターゲットにはパーシー・ウッドやリロイ・ウッド教授といった名前も見受けられたからである。犯罪ライターのロバート・グレイスミスは容疑者が「木に執着している」ことは「大きな要素だ」と述べた<ref>Graysmith, Robert Unabomber: A Desire to Kill (1997) Berkely Publishing {{ISBN|0-425-16725-9}}</ref>。
== 『産業社会とその未来』 ==
[[ジョン・ゼルザン]]や、[[ハーバート・マルクーゼ]]、[[マックス・ウェーバー]]、[[フレディ・パールマン]]、[[ジャック・エリュール]]などといった思想家の言葉が参照されている。


=== 後期の爆弾事件 ===
「現代文明の発展は人間性や生態系を破壊する」「[[産業革命]]は絶対悪であり、文明社会を発展させるために追求した技術の進化によって、それを創造した人類までもが支配されてしまう」と主張した上で、自然への回帰を促した。
最初に重傷を負ったのは1985年に被害にあったジョン・ハウザーだった。彼は院生であり同時にアメリカ空軍の大尉だったが、4本の指を失い、片方の目を失明した。この爆弾も、いつものように、木でできた手製の部品を組み合わせてつくられていた<ref>{{cite news|title=Kaczynski Beard May Confuse Witness|date=April 11, 1996|author=Claiborne, William|page=A11|work=The Washington Post}}</ref>。


カリフォルニア州サクラメント在住でPCショップを経営する38歳のヒュー・スクラットンは、1985年に自分の店の駐車場に置かれた、釘と金属片の詰まった爆弾によって命を落とした。同じようなPCショップに対する攻撃は、1987年2月20日にユタ州のソルトレイクシティでも起こった。爆弾は木材のように偽装されており、駐車場からそれをどけようとしたゲイリー・ライトが怪我を負った。彼は爆発によって左腕の神経を損傷し、身体に200個以上もの金属片を浴びた{{efn|Kaczynski's brother, David—who would play a vital role in Kaczynski's capture by alerting federal authorities to the prospect of his brother's involvement in the Unabomber case—sought out and became friends with Wright after Kaczynski was detained in 1996. David Kaczynski and Wright have remained friends and occasionally speak together publicly about their relationship.<ref>{{cite news |url = http://www.cnn.com/2008/CRIME/06/06/unabomber.brother/index.html |title = Unabomber's brother, victim forge unique friendship |publisher = CNN |date = June 6, 2008 |author = Lavandera, Ed |accessdate = February 4, 2009 |deadurl = no |archiveurl = https://web.archive.org/web/20081217231220/http://www.cnn.com/2008/CRIME/06/06/unabomber.brother/index.html |archivedate = December 17, 2008 |df = mdy-all }}</ref>}}。
ただし、カジンスキーは逮捕後は一連の犯行を「個人的な復讐」と語っている。カジンスキーが、犯行声明で主張した思想を実現するための社会運動をせず、[[アーミッシュ]]のように同じ思想を持つ人々と共同体を形成して生活しようともせず、爆弾テロという行為に訴えた根本的な理由、本当の動機は、寡黙で社交性がなく惨めな生活を送っている自身の境遇の責任を社会に転嫁したかっただけであるという見解もある。


前回の事件から6年後の1993年、カジンスキはイエール大学で計算機科学を教えるディヴィッド・ゲランター教授の自宅に爆弾を郵送した。彼は重傷を負ったが、一命をとりとめている。同じ週に、カジンスキーは、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のチャールズ・エプスタインの自宅にも爆弾を送り付け、開封してしまったエプスタインの指を何本か吹き飛ばしている。このときカジンスキーはゲランターの兄弟である行動遺伝学者のジョエル・ゲランターを名指しにして「次はお前だ」という手紙を送った<ref>{{cite news|title=Mail Bomb Attack Leaves Yale Computer Scientist in Critical Condition|date=June 25, 1993|last=Shogren|first=Elizabeth|url=http://articles.latimes.com/1993-06-25/news/mn-7044_1_mail-bomb|accessdate=September 20, 2009|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110501080053/http://articles.latimes.com/1993-06-25/news/mn-7044_1_mail-bomb|archivedate=May 1, 2011|work=[[Los Angeles Times]]|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。[[マサチューセッツ工科大学]]の遺伝学者フィリップ・シャープもこの2年後に脅迫の手紙を受け取っている<ref name="chronology 1988">{{cite web|url=http://www.courttv.com/trials/unabomber/chronology/chron_8895.html|title=The Unabomber: A Chronology (1988–1995)|accessdate=February 4, 2009|publisher=Court TV|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090226014431/http://www.courttv.com/trials/unabomber/chronology/chron_8895.html|archivedate=February 26, 2009|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。
==脚注==

{{Reflist}}
1994年、広告代理店[[バーソン・マーステラ]]役員のトーマス・モーザーがニュージャージー州ノース・コードウェルの自宅に贈られた郵便爆弾を爆発させて死亡した。ニューヨークタイムズ紙に送った手紙の中でカジンスキーは「トーマス・モーザーを吹っ飛ばしたのは...エクソンが[[エクソンバルディーズ号原油流出事故|原油流出事故]]を起こした後にそのパブリックイメージを払拭するためバーソン・マーステラが手を貸したから」だが、さらに重要なのは「この会社が世間の関心を操る技術を磨くのを事業としているからだ」と述べた<ref>{{cite web|url=http://www.courttv.com/trials/unabomber/transcripts/012298.html|title=U.S. v. Kaczynski Trial Transcripts|accessdate=February 4, 2009|publisher=Court TV|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090312001957/http://www.courttv.com/trials/unabomber/transcripts/012298.html|archivedate=March 12, 2009|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。そして続く1995年には材木業界のロビー団体カリフォルニア森林組合の理事長だったギルバート・ブレント・マレーが殺されている。彼の命を奪った郵便爆弾は、当時すでに辞任していた元理事長のウィリアム・デニスン宛のものだった<ref name="chronology 1988" />。

=== 犠牲者の一覧 ===
カジンスキーの起こした爆弾事件の死傷者をまとめると下記の通りである。
{| class="wikitable sortable" style="font-size:90%; width:98%;"
! style="width:15%;" |日付
! style="width:35%;" |場所
! style="width:10%;" |犠牲者
! style="width:15%;" |職業
! style="width:50%;" |被害
|
|-
| data-sort-value="1978-05-25" |1978年5月25日
|イリノイ州:[[ノースウェスタン大学]]
|Terry Marker
|警察官
|軽度の裂傷および火傷
|
|-
| data-sort-value="1979-05-09" |1979年5月9日
|イリノイ州:ノースウェスタン大学
|John Harris
|大学院生
|軽度の裂傷および火傷
|-
| data-sort-value="1979-11-15" |1979年11月15日
|イリノイ州: アメリカン航空444便
(シカゴからワシントンD.C.のフライト中)
|12人の乗客
|
|煙吸入(命に別状なし)
|-
| data-sort-value="1980-06-10" |1980年6月10日
|イリノイ州:[[レイクフォレスト (イリノイ州)|レイクフォレスト]]
|Percy Wood
| style="white-space:nowrap;" |[[United Airlines|ユナイテッド航空]]社長
|重度の裂傷および身体と顔の火傷
|-
| data-sort-value="1981-10-08" |1981年10月8日
|ユタ州:[[ユタ大学]]
| style="white-space:nowrap;" |なし
|
|なし(爆弾処理をされたため)
|-
| data-sort-value="1982-05-05" |1982年5月5日
|テネシー州: [[ヴァンダービルト大学]]
|Janet Smith
|大学職員
|手に重度の火傷を追い、金属片で身体に怪我
|-
| data-sort-value="1982-07-02" |1982年7月2日
|カリフォルニア州: [[カリフォルニア大学バークレー校]]
|Diogenes Angelakos
|工学部教授
|重度の火傷、金属片で手と顔を怪我
|-
| data-sort-value="1985-05-15" |1985年5月15日
|カリフォルニア州: カリフォルニア大学バークレー校
|John Hauser
|大学院生
|右腕の指4本を失い、動脈を損傷
左目の一部失明
|-
| data-sort-value="1985-06-13" |1985年6月13日
|ワシントン州: [[オーバーン (ワシントン州)|オーバーン]]のボーイング社
|なし
|
|なし(爆弾処理をされたため)
|-
| data-sort-value="1985-11-15" |1985年11月15日
|ミシガン州: [[ミシガン大学]]
|[[James V. McConnell]]
----Nicklaus Suino
|心理学部教授
----研究助手
|一時的な難聴
----火傷、金属片による怪我
|-
| data-sort-value="1985-12-11" |1985年12月11日
|カリフォルニア州:[[サクラメント郡 (カリフォルニア州)|サクラメント]]
|Hugh Scrutton
|PCショップ経営者
|死亡 (1人目)
|-
| data-sort-value="1987-02-20" |1987年2月20日
|ユタ州: [[ソルトレイクシティ]]
|Gary Wright
|PCショップ経営者
|左腕に重度の神経損傷
|-
| data-sort-value="1993-06-22" |1993年6月22日
|カリフォルニア州: [[ティブロン (カリフォルニア州)|ティブロン]]
|[[Charles Epstein (geneticist)|Charles Epstein]]
|遺伝学者
|両鼓膜を損傷して難聴に
3本の指を失う
|-
| data-sort-value="1993-06-24" |1993年6月24日
|コネチカット州: [[イェール大学|イエール大学]]
|[[David Gelernter]]
| style="white-space:nowrap;" |計算機科学者
|重度の火傷、金属片による怪我
右目を損傷、右手を失う
|-
| data-sort-value="1994-12-10" |1994年12月10日
|ニュージャージー州: ノース・コードウェル
|Thomas J. Mosser
|[[バーソン・マーステラ|広告会社]]役員
|死亡 (2人目)
|-
| data-sort-value="1995-04-24" |1995年4月24日
|カリフォルニア州:[[サクラメント郡 (カリフォルニア州)|サクラメント]]
| style="white-space:nowrap;" |Gilbert Brent Murray
|材木業ロビイスト
|死亡 (3人目)
|-
! colspan="5" |出典:<ref>{{cite news|title=The Unabomber's Targets: An Interactive Map|url=http://www.cnn.com/SPECIALS/1997/unabomb/victims/|accessdate=February 4, 2009|publisher=CNN|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080613131220/http://www.cnn.com/SPECIALS/1997/unabomb/victims/|archivedate=June 13, 2008|year=1997}}</ref><ref>{{cite news|title=To Unabomb Victims, a Deeper Mystery|date=April 14, 1996|author1=Lardner, George|author2=Adams, Lorraine|url=https://www.washingtonpost.com/wp-srv/national/longterm/unabomber/bkgrdstories.victims.htm|accessdate=February 4, 2009|page=A01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110504021148/http://www.washingtonpost.com/wp-srv/national/longterm/unabomber/bkgrdstories.victims.htm|archivedate=May 4, 2011|work=The Washington Post|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>
|}
== ''産業社会とその未来'' ==
1995年にカジンスキーはマスコミ各社へ繰り返し手紙を送り、自分の目的のあらましを伝えるとともに、彼が書いた英語で35,000語の論文『産業社会とその未来』(FBIはこれをユナボマー・マニフェストと呼んだ<ref>Chase, Alston. ''A Mind for Murder: The Education of the Unabomber and the Origins of Modern Terrorism.'' W. W. Norton & Company, Incorporated. p. 84. {{ISBN|0-393-02002-9}}. Google Book Search. Retrieved May 19, 2011.</ref>)を大手新聞に一言一句たがわず掲載するよう要求した。さらに、もし要求を呑めば「テロ活動をやめる」とも語っていた<ref>{{cite web|url=http://articles.latimes.com/1995-06-30/news/mn-18891_1_los-angeles-international-airport|title=Unabomber Sends New Warnings|accessdate=2011-5|work=latimes|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110501080103/http://articles.latimes.com/1995-06-30/news/mn-18891_1_los-angeles-international-airport|archivedate=May 1, 2011|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.newsweek.com/delicate-dance-176482|title=A Delicate Dance|accessdate=2017-8|author=Staff writer(s)|date=April 21, 1996|website=Newsweek|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170812201910/http://www.newsweek.com/delicate-dance-176482|archivedate=August 12, 2017|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref><ref>{{cite news|title=Excerpts From Letter by 'Terrorist Group,' FC, Which Says It Sent Bombs|date=April 26, 1995|url=https://www.nytimes.com/1995/04/26/us/bombing-sacramento-letter-excerpts-letter-terrorist-group-fc-which-says-it-sent.html|accessdate=January 21, 2009|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170807022138/http://www.nytimes.com/1995/04/26/us/bombing-sacramento-letter-excerpts-letter-terrorist-group-fc-which-says-it-sent.html|archivedate=August 7, 2017|work=The New York Times|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。

この論文を活字化することに関しては議論もあったが、司法長官の[[ジャネット・レノ]]とFBI長官のルイス・フリーは、治安に関する懸念から、また論文の著者を知る読者が現れることを期待して賛成の立場であった。[[ペントハウス (雑誌)|ペントハウス]]の[[ボブ・グッチョーネ]]も論文の掲載に名乗りを上げたが、カジンスキーはペントハウスは他の媒体と比べて「社会的地位」が低いため、「もし原稿が出版されたとしても、殺人を意図した爆弾を1つ(1つだけだ)仕掛ける権利を留保する」と応じた<ref>{{cite news|title=Murderer's Manifesto|date=July 10, 1995|author=Elson, John|url=http://content.time.com/time/magazine/article/0,9171,983142,00.html|accessdate=February 4, 2009|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130925060232/http://content.time.com/time/magazine/article/0,9171,983142,00.html|archivedate=September 25, 2013|work=Time|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。結局、論文は1995年9月19日にニューヨークタイムズとワシントンポストの両紙に掲載された<ref>{{cite web|url=https://www.washingtonpost.com/wp-srv/national/longterm/unabomber/manifesto.decsn.htm|title=WashingtonPost.com: Unabomber Special Report|accessdate=2011-5|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110504021131/http://www.washingtonpost.com/wp-srv/national/longterm/unabomber/manifesto.decsn.htm|archivedate=May 4, 2011|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.washingtonpost.com/wp-srv/national/longterm/unabomber/manifesto.pubs.htm|title=WashingtonPost.com:|accessdate=2011-5|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110504021145/http://www.washingtonpost.com/wp-srv/national/longterm/unabomber/manifesto.pubs.htm|archivedate=May 4, 2011|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。

=== 書法 ===
全体を通じて、[[タイプライター]]で書かれており、[[イタリック体|イタリック]]はない。またカジンスキはー強調するため全ての言葉を大文字にしていた。一人称は常に「我々」("we")か「FC」("Freedom Club")だったが、カジンスキーに協力者がいたという証拠はない。学者のドナルド・フォスターがカジンスキーの弁護のために文章の分析を依頼されており、彼は、綴りやハイフンつなぎが変則的でありその他の言語的な特異性もあわせると、カジンスキーが著者であると結論づけられると証言した<ref name="Crain">{{cite journal|last=Crain|first=Caleb|year=1998|title=The Bard's fingerprints|url=http://linguafranca.mirror.theinfo.org/9807/crain.html|journal=Lingua Franca|pages=29–39|deadurl=no|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160624190030/http://linguafranca.mirror.theinfo.org/9807/crain.html|archivedate=June 24, 2016|df=mdy-all}}</ref>。

=== 要約 ===
『産業社会とその未来』はカジンスキーの次のような主張で始まる。「産業革命とその帰結は、人類に大きな災いをもたらしている''」''<ref name="UPI">{{cite web|url=http://www.upi.com/Archives/1995/09/19/Excerpts-from-Unabomber-document/4579811483200/|title=Excerpts from Unabomber document|accessdate=2017-8|author=Staff writer(s)|date=September 19, 1995|publisher=United Press International|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170812101002/http://www.upi.com/Archives/1995/09/19/Excerpts-from-Unabomber-document/4579811483200/|archivedate=August 12, 2017|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref><ref name="isf-intro">{{harvnb|Kaczynski|1995|p=1}}</ref>。

テクノロジーは社会を不安定にし、人生を満たされないものにしているだけでなく、〔人類に〕精神的苦痛を蔓延させた原因でもある<ref name="DN">{{cite web|url=http://www.deseretnews.com/article/482903/UNABOMBER--FROM-HIS-TINY-CABIN-TO-THE-LACK-OF-ELECTRICTY-AND-WATER-KACZYNSKIS-SIMPLE-LIFESTYLE-IN.html|title=From His Tiny Cabin To The Lack Of Electricty And Water, Kaczynski's Simple Lifestyle In Montana Mountains Coincided Well With His Anti-Technology Views|accessdate=2017-8|last=Adams|first=Brooke|date=April 11, 1996|website=Deseret News|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170812133958/http://www.deseretnews.com/article/482903/UNABOMBER--FROM-HIS-TINY-CABIN-TO-THE-LACK-OF-ELECTRICTY-AND-WATER-KACZYNSKIS-SIMPLE-LIFESTYLE-IN.html|archivedate=August 12, 2017|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。テクノロジーの進歩によって、ほとんどの人が「'''代理<!-- 強調原文 -->'''行動」〔とカジンスキーは言う〕に過ぎない無意味なものの追求に時間を費やすようになった。そのため人々は科学の研究や消費者主義的な娯楽、スポーツの応援など人工的な目標で競っている<ref name="DN" />。このままさらにテクノロジーが進歩すれば、人間が遺伝子工学で盛んに研究されて、人間が社会体制の要求に合わせて順応していくことが予測される(これではあべこべである)<ref name="DN" />。技術の発展は負の側面もあることはわかっていても避けられないがゆえに消極的に受け入れようなどという人もいるが<ref>{{cite web|url=https://www.wired.com/1998/04/the-unabombers-legacy-part-i/|title=THE UNABOMBER'S LEGACY, PART I|accessdate=2017-8|last=Katz|first=Jon|date=April 17, 1998|website=Wired|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170813224708/https://www.wired.com/1998/04/the-unabombers-legacy-part-i/|archivedate=August 13, 2017|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>、そうではない。技術の発展は止められる<ref name="DN" />。そして「野生」に帰ろう〔とカジンスキーは呼びかける〕<ref name="DN" />。

人間の自由が蝕まれていくのは、産業社会である以上は自然なことである。なぜなら「その体制が機能するためには、人間の行動は厳しく制限されなければならない」からだ。そこでは社会体制の改革なども不可能だ。「自由のために後世にまで残るほどの変化をもたらせば、社会体制が著しく混乱するということがわかっているからである」<ref name="KS306">{{cite news|title=Is There Method In His Madness?|magazine=The Nation|date=September 25, 1995|last=Sale|first=Kirkpatrick|page=306}}</ref>。しかし社会体制はまだ完全に「人類の行動をコントロール」できているわけではなく、「存続を脅かしかねない、種々の問題を克服しようと現時点では必死にもがいている」状態である。ここから「もし、短期間に人間の行為を十分にコントロールすることに成功したならば、体制は存続するであろう」と予測できる。さもなくば崩壊するが「次の数十年、すなわち40年から100年の間にこれらの問題は解決される可能性が高い」<ref name="KS306" />。産業社会に反旗を翻す人間のなすべきことは「社会にストレスと不安定さ」をもたらし「反テクノロジーというイデオロギー」のプロバガンダに努めることである。テクノロジーは「熱狂的な支持を集めんがために」自然に対する「理想的な反対物」を人々に与えるからだ。このようにして産業社会が一定以上に不安定になれば「テクノロジーに対する革命は可能になる」<ref>{{cite news|title=Is There Method In His Madness?|magazine=The Nation|date=September 25, 1995|last=Sale|first=Kirkpatrick|page=308}}</ref>。

〔論文のあちこちで、カジンスキーは運動としての左翼にも言及している〕。左翼は「主に社会主義者、全体主義者、『ポリティカル・コレクトネス』型、フェミニスト、ゲイ、障害者人権活動家、動物の権利の活動家など」と定義でき<ref name="NYROB">{{cite web|url=http://www.nybooks.com/articles/1998/04/23/varieties-of-madness/|title=Varieties of Madness|accessdate=2017-8|last=Didion|first=Joan|date=April 23, 1998|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170813223357/http://www.nybooks.com/articles/1998/04/23/varieties-of-madness/|archivedate=August 13, 2017|magazine=The New York Review of Books|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>、こうした左翼は主に「劣等感」と「過剰な社会化」<ref name="DN" />の二つに突き動かされているだけでなく、「我々の世界が持つ狂気がもっとも広い範囲で顕現した存在の1つ」である<ref name="NYROB" />。さらに「自然をあがめ、テクノロジーに反対する運動は、断固として反左翼的な立場をとらねばならず、左翼との共闘などありえない」。「左翼は、長年のあいだ野生や人間の自由、現代テクノロジーの排除とは相容れぬ運動であった」<ref name="UPI" />。一方で保守主義もまた「間抜け」であり「伝統的な価値観が毀損されていると駄々をこねながら、テクノロジーの進歩と経済発展は大好きである。社会におけるテクノロジーと経済に急激かつ劇的な変化を起こせば、社会のあらゆる面にも急激な変化がもたらされ、必然的に伝統的な価値観も破壊されてしまうということが彼らには永遠にわからないように思われる」<ref name="NYROB" />。

=== 受容 ===
アトランティック誌上で、オールストン・チェイスはこの文章が「1995年には天才の仕事か少なくとも深遠な思想だと真面目に歓迎する人が多くいて、作者はごく正常だと思われていた」<ref name="AtlanticChase">{{cite magazine|url=https://www.theatlantic.com/magazine/archive/2000/06/harvard-and-the-making-of-the-unabomber/378239/|title=Harvard and the Making of the Unabomber|last=Chase|first=Alston|magazine=The Atlantic|date=2000|accessdate=April 26, 2017|deadurl=no|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140821120634/https://www.theatlantic.com/magazine/archive/2000/06/harvard-and-the-making-of-the-unabomber/378239/|archivedate=August 21, 2014|df=mdy-all}}</ref>。一方でチェイス自身は「これを書いたのが天才とも狂人とも思われない。[…] 社会の発展に重ねたペシミズムと現代世界の拒絶は、アメリカでも特に最も高度な教育を受けた人のあいだで共有されていた考えだ」<ref name="AtlanticChase" />。UCLAの政治学者ジェームズ・Q・ウィルソンはこのマニフェストについてニューヨーカー誌に寄稿しており、『産業社会とその未来』が「慎重に理論づけられており、芸術的な書きっぷりの論文だ。...もしこれが狂人の仕事なら[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]や[[トマス・ペイン]]、[[カール・マルクス|マルクス]]など大勢の政治哲学者の書く文章はほとんど正気ではない」<ref>{{cite web|url=http://www.newyorker.com/news/news-desk/the-unabomber-returns|title=The Unabomber Returns|accessdate=2017-4|website=The New Yorker|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170428012228/http://www.newyorker.com/news/news-desk/the-unabomber-returns|archivedate=April 28, 2017|last1=Finnegan|first1=William|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。

=== 影響関係 ===
マニフェストを技術社会に対する批評としてみた場合、そこには[[ジョン・ゼルザン]]、[[ジャック・エリュール]](彼の『技術社会』はカジンスキーの1971年の原稿で言及されている<ref>{{cite web|url=https://www.wildwill.net/blog/2017/04/26/progress-versus-liberty-the-1971-essay/|title=Progress vs. Liberty (aka '1971 Essay')|accessdate=May 29, 2018|website=Wild Will Project|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180117100018/https://www.wildwill.net/blog/2017/04/26/progress-versus-liberty-the-1971-essay/|archivedate=January 17, 2018|last1=Kaczynski|first1=Ted|df=mdy-all}}</ref>)、[[レイチェル・カーソン]]、[[ルイス・マンフォード]]、[[エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハー|E・H・シューマッハー]]など技術と産業化を批判した当時の批評家の影響がみてとれる<ref name="unabomber's secret treatise">{{cite web|url=http://w2.eff.org/Censorship/Terrorism_militias/sale_unabomber.analysis|title=Unabomber's Secret Treatise|accessdate=April 23, 2009|author=Sale, Kirkpatrick|date=September 25, 1995|work=Nation|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090502000634/http://w2.eff.org/Censorship/Terrorism_militias/sale_unabomber.analysis|archivedate=May 2, 2009|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。「権力過程を混乱させる」という考えは、マンフォード、ポール・グッドマン、[[エリック・ホッファー]]などの、社会問題の主要因を有意義な仕事の少なさにみた社会批評家を連想させる<ref name="unabomber's secret treatise" />。通底するテーマは[[オルダス・ハクスリー]]の『[[すばらしい新世界]]』でも扱っているもので、カジンスキーはこの小説のことを論文のなかで言及している<ref>{{cite web|url=http://www.wildism.org/lib/item/2636fe09/#par170|title=Industrial Society and Its Future, § Human Suffering|accessdate=August 7, 2015|year=1995|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150810215709/http://www.wildism.org/lib/item/2636fe09/#par170|archivedate=August 10, 2015|last1=Kaczynski|first1=Ted|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。「過剰な社会化」と「代理行動」には[[ジークムント・フロイト|フロイト]]の『文化への不満』や彼の[[合理化 (心理学)|合理化]]や[[昇華 (心理学)|昇華]](この言葉は「代理行動」を説明するものとしてカジミンスキーの論文の中で3度使われている)の影響が指摘できる<ref>{{cite news|title=The Evolution of Despair|date=August 28, 1995|author=Wright, Robert|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,983355,00.html|accessdate=July 6, 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081205004231/http://www.time.com/time/magazine/article/0%2C9171%2C983355%2C00.html|archivedate=December 5, 2008|work=Time|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。

== 捜査 ==
[[ファイル:Unabomber-sketch.png|代替文=A pencil sketch of a man wearing a hood and sunglasses, with a mustache.|右|サムネイル|ユナボマー事件の容疑者として公開されていた似顔絵]]
この事件は当初、郵便監察局が捜査を担当しており、郵便爆弾に廃品が使われていることから捜査員は容疑者を「ジャンクヤード・ボマー」と呼んでいた<ref>{{cite book|last=Graysmith|first=Robert|title=Unabomber: A Desire to Kill|date=1997|publisher=Berkley Publishing Group|isbn=978-0-425-16725-0|page=74}}</ref>。その後FBIの所管となり、テリー・D・ターチーが進行中のユナボム(UNABOM)の捜査責任者になった<ref name=":0">{{Cite news|title=New Details Of Stakeout In Montana|date=1998-05-05|last=Taylor|first=Michael|url=https://www.sfgate.com/news/article/New-Details-Of-Stakeout-In-Montana-3006937.php|work=SFGate|access-date=2018-09-14|archive-url=https://web.archive.org/web/20180914203452/https://www.sfgate.com/news/article/New-Details-Of-Stakeout-In-Montana-3006937.php#|archive-date=September 14, 2018|dead-url=no|df=mdy-all}}</ref>。1979年にFBIが主導するタスクフォースはFBI、[[アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局]](ATF)、郵便監察局の職員からなる125名のエージェントで構成されていた<ref name=":0" />。その後このタスクフォースは常勤の捜査員が150名と増員されたが、回収された爆弾の部品に関する分析は進まず、事件の生存者からの聞き取りでも容疑者の特定につながる情報はほとんど得られなかった。犯人がつくる爆弾の主材料はほとんどどこにでも見つかるようなスクラップだった。後からわかったことだが、ターゲットは図書館の本を使って不規則に選ばれていた。

1980年に、主任捜査官ジョン・ダグラスはFBIの行動科学分析班のエージェントと捜査を行うなかで、正体不明の爆弾犯の心理学的なプロファイリングを行った。この時の分析によれば、犯人は平均以上の知性であり学界ともつながりがあるとされた。この犯人像は後にさらに洗練されて、[[ラッダイト運動|ネオ・ラッダイト]]的思想をもち自然科学の分野で学位を有する人間と推測された。しかしこの心理学をベースにしたプロファイリングは1983年に却下されてしまった。その代わりにFBIの分析班が着目したのは、回収された爆弾の破片にみられる物理的な特徴であった。この新しいプロファイリングによれば、犯人は[[ブルーカラー]]であり航空機のメカニックということになった<ref>{{cite web|url=http://www.newyorker.com/archive/1996/07/22/1996_07_22_026_TNY_CARDS_000375118|title=Don't Shoot|accessdate=February 4, 2009|author=Franks, Lucinda|date=July 22, 1996|work=The New Yorker|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081226231551/http://www.newyorker.com/archive/1996/07/22/1996_07_22_026_TNY_CARDS_000375118|archivedate=December 26, 2008|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。タスクフォースによって捜査情報の提供用に1-800から電話番号が始まるホットラインが設置され、ユナボマーの逮捕につながる有益な情報提供した人間には100万ドルの報奨金がついた<ref>{{cite news|title=Clue and $1&nbsp;million Reward in Case of the Serial Bomber|date=October 7, 1993|author=Labaton, Stephen|url=https://www.nytimes.com/1993/10/07/us/clue-and-1-million-reward-in-case-of-the-serial-bomber.html|accessdate=February 4, 2009|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170819150007/http://www.nytimes.com/1993/10/07/us/clue-and-1-million-reward-in-case-of-the-serial-bomber.html|archivedate=August 19, 2017|work=The New York Times|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。

『産業社会とその未来』が新聞に掲載される以前から、テッド・カジンスキーの弟であるデイヴィッドは、テッドがユナボマーである可能性について真偽を確かめるよう妻からしつこく言われていた<ref name="Whistleblowers">{{cite news|title=Programme 9: 9th September 2007|date=September 9, 2007|author=Kaczynski, David|url=http://www.rte.ie/radio1/whistleblowers/1160076.html|accessdate=February 4, 2009|publisher=[[RTÉ Radio 1]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071013215553/http://rte.ie/radio1/whistleblowers/1160076.html|archivedate=October 13, 2007}}</ref>。デイヴィッドは初めのうちこそ取り合わなかったが、1995年9月のマニフェストが新聞に掲載されてから1週間後にやっとその文章を読み、兄との類似について真面目に考えるようになった。彼は家にある古い手紙の山のなかを探して、テッドが1970年代に書いた手紙を見つけた。兄がテクノロジーの濫用に対する反論を綴って新聞社に送ったものだったが、そこで使われている言葉遣いはあのマニフェストによく似ていた<ref>{{cite news|title=On the Suspect's Trail: the Investigation; Long and Twisting Trail Led To Unabom Suspect's Arrest|date=April 5, 1996|author=Johnston, David|url=https://www.nytimes.com/1996/04/05/us/suspect-s-trail-investigation-long-twisting-trail-led-unabom-suspect-s-arrest.html|accessdate=July 4, 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170810092553/http://www.nytimes.com/1996/04/05/us/suspect-s-trail-investigation-long-twisting-trail-led-unabom-suspect-s-arrest.html|archivedate=August 10, 2017|work=The New York Times|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。

FBIはマニフェストの公開前に記者会見を開いて、あらためて世間にユナボマーの特定につながる情報の提供を求めた。捜査では犯人は爆弾事件を初めて起こしたシカゴ周辺の出身だという説が有力になっていた。そしてソルトレイクシティで働いていたかもしくは何らかの地縁があって、1990年代にはサンフランシスコ・ベイエリアで何か手がかりを残しているはずだった。こうした地理情報を知り、新聞に全文が掲載される前の抜粋を読んだデイヴィッドの妻は、早くマニフェストを読むようにと促した<ref>{{cite news|title=Tapestry of Links in the Unabom Inquiry|date=April 7, 1996|author=Perez-Pena, Richard|url=https://www.nytimes.com/1996/04/07/us/tapestry-of-links-in-the-unabom-inquiry.html|accessdate=July 5, 2008|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170810092748/http://www.nytimes.com/1996/04/07/us/tapestry-of-links-in-the-unabom-inquiry.html|archivedate=August 10, 2017|work=The New York Times|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref><ref>{{cite news|title=FBI Gives Reward to Unabomber's Brother|newspaper=The Washington Post|date=August 21, 1998|author=Claiborne, William|url=https://www.washingtonpost.com/wp-srv/national/longterm/unabomber/trialstory.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110504021134/http://www.washingtonpost.com/wp-srv/national/longterm/unabomber/trialstory.htm|archivedate=May 4, 2011|access-date=February 2, 2011|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。

=== マニフェストの公開 ===
マニフェストが新聞に掲載され、ユナボマーの身元特定につながる情報に100万ドルの報奨金がつけられたため、一日に千件を超える電話がFBI設置のホットラインに寄せられる日々が何か月も続いた。ユナボマーから送られたとされる手紙もタスクフォースには大量に届き、警察は際限なく集まる容疑者の手がかりの検討に追われた。その一方で、カジンスキーの弟デイヴィッドはシカゴの私立探偵スーザン・スワンソンに依頼し、兄の行動について慎重に調査を進めていた<ref>{{cite news|last=Kovaleski|first=Serge F.|url=https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1997/01/20/kaczynski-letters-reveal-tormented-mind/7ce02aae-dbfc-4ac1-bf2c-d19980d9acec/|title=Kaczynski Letters Reveal Tormented Mind|work=[[The Washington Post]]|date=January 20, 1997|accessdate=December 28, 2017|deadurl=no|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180115184511/https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1997/01/20/kaczynski-letters-reveal-tormented-mind/7ce02aae-dbfc-4ac1-bf2c-d19980d9acec/|archivedate=January 15, 2018|df=mdy-all}}</ref>。ディヴィッドは後にスワンソンが集めた証拠のとりまとめと、FBIへの情報提供をワシントンD.C.の弁護士トニー・ビシェーリエに依頼している。FBIが関心を持つ可能性は薄いだろうと踏んでいたのである。彼が恐れていたのは、FBIに抵抗した{{仮リンク|ルビー・リッジ|en|Ruby Ridge}}や{{仮リンク|ウェーコ・シージ|en|Waco Siege}}のような末路を兄が迎えることで、FBIが兄と接触しようとすればそこに暴力がともないかねないと感じて、兄を守ろうとしたのだった<ref name="pain">{{cite news|accessdate=July 5, 2008|url=https://www.nytimes.com/1996/04/10/us/in-unabom-case-pain-for-suspect-s-family.html|title=In Unabom Case, Pain for Suspect's Family|work=The New York Times|first=Pam|last=Belluck|date=April 10, 1996|deadurl=no|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170810092506/http://www.nytimes.com/1996/04/10/us/in-unabom-case-pain-for-suspect-s-family.html|archivedate=August 10, 2017|df=mdy-all}}</ref>。

1996年初め、元FBIの人質交渉人で犯罪プロファイラーのクリントン・R・ヴァン・ザントにビシェーリエと協力関係にある捜査官が接触している。ビシェーリエは捜査官を介して、デイヴィドが兄から受け取った、手書きの手紙をタイプライターで清書した原稿とカジンスキーのマニフェストとの比較を依頼した。ヴァン・ザントの最初の分析では、書いたのが同一人物である可能性は60パーセントよりは上というところだった。マニフェストは公になって半年は経っていたということもある。ヴァン・ザントが指揮した二度目の分析チームは、その可能性はもっと高いと判断した。そのためビシェーリエは君の依頼人はすぐにでもFBIと連絡をとったほうがいいと薦められた<ref name="pain" />。

1996年2月、ビシェーリエはテッド・カジンスキーが1971年に書いた論文のコピーをFBIのモリー・フィンに提供した<ref name=":0" />。フィンはさらにこの論文をサンフランシスコに本文を置くタスクフォースにまわしている。本部では捜査員のジョエル・モスとキャスリーン・パケットもこの論文に目を通したが<ref name=":0" />、一読して文章に類似性を見出したのはFBIの犯罪プロファイラー、ジェームズ・R・フィッツジェラルドだった<ref name="spotlight">{{cite news|accessdate=10 September 2018|url=http://www.fbinaa.org/FBINAA/Associate/Historian%20JF.aspx|title=Historian Spotlight - James Fitzgerald|work=The FBI National Academy Associates Inc.|first=Pat|last=Davis|date=January–February 2017|deadurl=no|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180222213710/http://www.fbinaa.org/FBINAA/Associate/Historian%20JF.aspx#|archivedate=February 22, 2018|df=mdy-all}}</ref><ref name="npr-profiler">{{cite news|accessdate=10 September 2018|url=https://www.npr.org/templates/transcript/transcript.php?storyId=545122205&t=1536617392507|title=FBI Profiler Says Linguistic Work Was Pivotal In Capture Of Unabomber|work=National Public Radio, Inc.|first=Dave|last=Davies|date=22 August 2017|deadurl=no|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180910222629/https://www.npr.org/templates/transcript/transcript.php?storyId=545122205&t=1536617392507|archivedate=10 September 2018|df=mdy-all}}</ref>。言語解析にかけると、論文とマニフェストの著者はほぼ間違いなく同じという結果もでた。爆弾事件とカジンスキーの来歴から垣間見える事実とも総合したうえで、この分析結果を根拠に捜査全体の責任者であるテリー・ターチーは逮捕令状にサインを行った<ref name=":0" />。

デイヴィッド・カジンスキーは匿名のままでいることを希望していたが、すぐにFBIに特定され、数日のうちにワシントンD.Cで弁護士立ち会いのもと妻といっしょにFBIの捜査員から聞き取りを受けた。事情聴取が何度か行われ、その時にデイヴィッドは兄が書いた手紙を当時の封筒とともに提出している。これによってFBIは切手の消印からテッドの行動を時系列にそって以前より詳しく把握できるようになった。デイヴィッドは行動分析に関する特別捜査官のキャスリーン・パケットと互いに尊敬しあう信頼関係を築き、カジンスキーが住む小屋に対する捜査令状が執行されるまでのほぼ2ヵ月で、ワシントンD.C.だけでなくテキサス州、シカゴ、[[スケネクタディ (ニューヨーク州)]] と場所を変えて面談を繰り返した<ref>{{cite news|accessdate=July 6, 2008|url=https://www.nytimes.com/1998/05/05/us/17-year-search-an-emotional-discovery-and-terror-ends.html|title=17-Year Search, an Emotional Discovery and Terror Ends|work=The New York Times|date=May 5, 1998|author=Johnston, David|deadurl=no|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170819190143/http://www.nytimes.com/1998/05/05/us/17-year-search-an-emotional-discovery-and-terror-ends.html|archivedate=August 19, 2017|df=mdy-all}}</ref>。

デイヴィッドもかつては兄を尊敬し、手本にもしていたが、サバイバル生活のような暮らしにはついていけなかった<ref name="dubner-death">{{cite web|url=http://stephenjdubner.com/journalism/101899.html|title=I Don't Want To Live Long. I Would Rather Get The Death Penalty Than Spend The Rest of My Life in Prison|accessdate=February 4, 2009|author=Dubner, Stephen J.|date=October 18, 1999|work=Time|archiveurl=https://web.archive.org/web/20021204180406/http://www.stephenjdubner.com/journalism/101899.html|archivedate=December 4, 2002|deadurl=no|df=mdy-all}}</ref>。FBIには匿名を条件に捜査へ協力しており、兄に誰が情報提供したのかわからないようにするという約束も得ていたのに、彼の身元は1996年4月初頭に[[CBS News]]にリークされてしまった。CBSのニュースキャスター、[[ダン・ラザー]]から確認の電話を受けたFBI主任捜査員のルイス・フリーは、[[CBSイブニングニュース|Cイブニングニュース]]で公開するまで24時間待つように要望している。FBIは捜査令状を急ぎ、モンタナ州の連邦裁判所からようやく許可をとった。FBIは内部リークについても調査を行ったが、、リーク元については特定することができなかった<ref name="dubner-death" />。

テッド・カジンスキーをマニフェストの作者とすることについてFBI内部も一枚岩ではなかった。捜査令状の許可にあたっては、マニフェストは別の人間が書いたものだと考えている専門家も多い、との留保があった<ref name="Affidavit" />。

=== 逮捕 ===
FBIの捜査員は1996年4月3日にカジンスキーを逮捕した。小屋にいた彼は、頭がぼさぼさの姿で見つかった。小屋を調べると、貯め込まれた爆弾の部品のほか、爆弾製造の実験作業などについて40,000語あまりが記された手書きの日記、ユナボマーの犯罪についての解説書、それからあとは郵送するだけの生きた爆弾も1つ見つかった。このとき『産業社会とその未来』をタイプしたオリジナルと思われる原稿も見つかっている<ref>{{cite news|url=http://edition.cnn.com/EVENTS/1996/year.in.review/topten/unabomb/unabomb.index.html|title=Unabomber suspect is caught, ending eight-year man-hunt|publisher=CNN|year=1996|accessdate=January 25, 2009|deadurl=no|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081008015428/http://edition.cnn.com/EVENTS/1996/year.in.review/topten/unabomb/unabomb.index.html|archivedate=October 8, 2008|df=mdy-all}}</ref>。この時で、ユナボマーはFBIの歴史において最も捜査に予算がかかった容疑者になっていた<ref>{{cite news|url=http://edition.cnn.com/SPECIALS/1997/unabomb/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060618112917/http://edition.cnn.com/SPECIALS/1997/unabomb/|archivedate=June 18, 2006|title=The Unabomb Trial|publisher=CNN|year=1997|accessdate=February 4, 2009}}</ref><ref>{{cite web|url=https://usatoday30.usatoday.com/news/index/una12.htm|title=FBI Profile: Suspect is educated and isolated|accessdate=2019-1|last=Howlett|first=Debbie|date=November 13, 1996|website=USA Today|publisher=|quote=The 17-year search for the bomber has been the longest and costliest investigation in FBI history.|df=mdy-all}}</ref>。

身柄の確保後に、カジンスキーを[[ゾディアック事件]]の犯人とする説が持ち上がった。その関連性が疑われたのは、カジンスキーが1967年から1969年までサンフランシスコ・ベイエリアに住んでいたという事実があったからであり、両者ともに高い知能を持ち、爆弾と導線に関心を持っていた。さらにどちらも、新聞社に自分の作品を掲載するように要求する手紙を送っており、それを呑まないのであれば凶行を継続するという脅しをかけていた。しかしすべての殺人事件について当時カジンスキーがどこにいたかを検証することは不可能であり、ゾディアック事件の犯人が銃とナイフを使って殺人事件を起こしていたこともカジンスキーとは違う点だった。そのため、捜査においてはそれ以上追求されることはなかった。1986年に『ゾディアック』という本を書いているロバート・グレイスミスは、類似点は「魅力的」だが純粋に偶然の一致だと述べている<ref>{{cite news|url=http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/1996/05/14/MN44704.DTL&type=printable|title=Kaczynski, Zodiac Killer – the Same Guy?|last1=Fagan|first1=Kevin|last2=Wallace|first2=Bill|date=May 14, 1996|work=San Francisco Chronicle|accessdate=December 5, 2009|deadurl=no|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110429204619/http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=%2Fc%2Fa%2F1996%2F05%2F14%2FMN44704.DTL&type=printable|archivedate=April 29, 2011|df=mdy-all}}</ref>。

捜査の初期段階では、最終的な容疑者とはかけ離れた犯人像をもとにユナボマーを追いかけていた。『産業社会とその未来』では「我々」や「我々の」という言葉が一貫して使われていたたことを分析したり、1993年には爆弾の1つに残されていたメモにあった名前を根拠に「ネイサン」というファーストネームの人間を捜査対象にしていたこともある<ref name="tracking2">{{cite news|title=Death in the Mail – Tracking a Killer: A special report.; Investigators Have Many Clues and Theories, but Still No Suspect in 15 Bombings|first1=Ralph|last1=Blumenthal|first2=N. R.|last2=Kleinfield|work=The New York Times|date=December 18, 1994|url=https://www.nytimes.com/1994/12/18/nyregion/death-mail-tracking-killer-special-report-investigators-have-many-clues-theories.html|accessdate=February 4, 2009|deadurl=no|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170810092635/http://www.nytimes.com/1994/12/18/nyregion/death-mail-tracking-killer-special-report-investigators-have-many-clues-theories.html|archivedate=August 10, 2017|df=mdy-all}}</ref>。事件が公開されると、当局は犯人がカジンスキー以外にもいるという説を否定するようになった<ref name="Whistleblowers" />。

==裁判==
裁判では、弁護団を自ら解任し自己弁護を行おうとする態度などで審理が進まないと判断した検察官は、仮釈放なしの8回分の[[終身刑]]とする[[司法取引]]を提案した。そしてこの司法取引にカジンスキーが同意したためそのまま刑は確定となり、公判は一度も開かれなかった。そのため、カジンスキーの犯行動機は現在も不明である。また、攻撃の標的をどのように定めたかも多くは語られず不明である。現在、[[コロラド州]]にある[[:en:ADX Florence|フローレンス刑務所]]で服役している。

FBIはこの事件で犯罪人類型に「Lone Wolf([[ローンウルフ_(テロ)|ローンウルフ]])」型を加えた。

[[オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件]]の主犯、[[ティモシー・マクベイ]]を長期に渡り取材し、「{{仮リンク|アメリカン・テロリスト|en|American Terrorist}}」を著した[[ジャーナリスト]]の{{仮リンク|ダン・ハーベック|en|Dan Herbeck}}によると、カジンスキーは同じフローレンス刑務所に収監されているマクベイや共犯者の{{仮リンク|テリー・ニコルズ|en|Terry Nichols}}、[[世界貿易センター爆破事件]]を引き起こした[[ラムジ・ユセフ]]らと「爆破事件の犯人」という共通項から交友関係を持ち、"Bombers Row"と呼ばれる一団を形成していたという。カジンスキーとマクベイは[[自然]]や[[サバイバル]]について語り合う事を好み、マクベイが1999年に[[死刑]]執行の為に[[インディアナ州]]{{仮リンク|テレホート刑務所|en|United States Penitentiary, Terre Haute}}に移送された後も、カジンスキーは他のグループメンバーと交流を続けているという<ref>[http://edition.cnn.com/2007/US/law/12/17/court.archive.mcveigh4/index.html Terror on Trial: Life in Supermax's 'Bombers Row'] - [[CNN]]、December 31, 2007</ref>。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[ハーバード大学の人物一覧]]
* [[ハーバード大学の人物一覧]]


== 参考文献 ==
==脚注==
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist|2}}

== カジンスキーの数学論文 ==
{{refbegin|indent=yes}}
* {{cite journal|last=Kaczynski|first=T.J.|date=June–July 1964|title=Another Proof of Wedderburn's Theorem|journal=[[American Mathematical Monthly]]|volume=71|issue=6|pages=652–653|doi=10.2307/2312328|jstor=2312328}} A proof of [[Wedderburn's little theorem]] in [[abstract algebra]]
* {{cite journal|last=Kaczynski|first=T.J.|date=June–July 1964|title=Advanced Problem 5210|journal=American Mathematical Monthly|volume=71|issue=6|pages=689|doi=10.2307/2312349|jstor=2312349|author-mask=2}} A challenge problem in abstract algebra
* {{cite journal|last=Kaczynski|first=T.J.|date=June–July 1965|title=Distributivity and (−1)x = −x (Advanced Problem 5210, with Solution by Bilyeu, R.G.)|journal=American Mathematical Monthly|volume=72|issue=6|pages=677–678|doi=10.2307/2313887|jstor=2313887|author-mask=2}} Reprint and solution to "Advanced Problem 5210" (above)
* {{cite journal|last=Kaczynski|first=T.J.|date=July 1965|title=Boundary Functions for Functions Defined in a Disk.|url=http://www.iumj.indiana.edu/IUMJ/FULLTEXT/1965/14/14039|journal=[[Journal of Mathematics and Mechanics]]|volume=14|issue=4|pages=589–612|author-mask=2}}
* {{cite journal|last=Kaczynski|first=T.J.|date=November 1966|title=On a Boundary Property of Continuous Functions|url=http://projecteuclid.org/download/pdf_1/euclid.mmj/1031732782|journal=[[Michigan Mathematical Journal]]|volume=13|issue=3|pages=313–320|author-mask=2}}
* {{cite thesis|author-mask=2|url=http://search.proquest.com/docview/288225414|title=Boundary Functions (fragment)|first=T.J.|last=Kaczynski|type=PhD|publisher=University of Michigan|date=1967}} Kaczynski's doctoral dissertation. Complete dissertation [https://dissexpress.proquest.com/dxweb/results.html?QryTxt=&By=&Title=&pubnum=6717790 ''available for purchase''] from [[ProQuest]], with publication number 6717790.
* {{cite journal|last=Kaczynski|first=T.J.|date=March–April 1968|title=Note on a Problem of Alan Sutcliffe|journal=[[Mathematics Magazine]]|volume=41|issue=2|pages=84–86|bibcode=1975MathM..48...12G|doi=10.2307/2689056|jstor=2689056|author-mask=2}} A brief paper in [[number theory]] concerning the [[Numerical digit|digits]] of numbers
* {{cite journal|last=Kaczynski|first=T.J.|date=March 1969|title=Boundary Functions for Bounded Harmonic Functions|url=http://www.ams.org/journals/tran/1969-137-00/S0002-9947-1969-0236393-5/S0002-9947-1969-0236393-5.pdf|journal=[[Transactions of the American Mathematical Society]]|volume=137|pages=203–209|author-mask=2|deadurl=no|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170116001149/http://www.ams.org/journals/tran/1969-137-00/S0002-9947-1969-0236393-5/S0002-9947-1969-0236393-5.pdf|archivedate=January 16, 2017|df=mdy-all}}
* {{cite journal|last=Kaczynski|first=T.J.|date=July 1969|title=Boundary Functions and Sets of Curvilinear Convergence for Continuous Functions|url=http://www.ams.org/journals/tran/1969-141-00/S0002-9947-1969-0243078-8/S0002-9947-1969-0243078-8.pdf|journal=Transactions of the American Mathematical Society|volume=141|pages=107–125|author-mask=2|deadurl=no|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170812205557/http://www.ams.org/journals/tran/1969-141-00/S0002-9947-1969-0243078-8/S0002-9947-1969-0243078-8.pdf|archivedate=August 12, 2017|df=mdy-all}}
* {{cite journal|last=Kaczynski|first=T.J.|date=November 1969|title=The Set of Curvilinear Convergence of a Continuous Function Defined in the Interior of a Cube|url=http://www.ams.org/journals/proc/1969-023-02/S0002-9939-1969-0248339-X/S0002-9939-1969-0248339-X.pdf|journal=[[Proceedings of the American Mathematical Society]]|volume=23|issue=2|pages=323–327|author-mask=2|deadurl=no|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170802123408/http://www.ams.org/journals/proc/1969-023-02/S0002-9939-1969-0248339-X/S0002-9939-1969-0248339-X.pdf|archivedate=August 2, 2017|df=mdy-all}}
* {{cite journal|last=Kaczynski|first=T.J.|date=January–February 1971|title=Problem 787|journal=Mathematics Magazine|volume=44|issue=1|pages=41|bibcode=1975MathM..48...12G|doi=10.2307/2688865|jstor=2688865|author-mask=2}} A challenge problem in [[geometry]]
* {{cite journal|last=Kaczynski|first=T.J.|date=November–December 1971|title=A Match Stick Problem (Problem 787, with Solutions by Gibbs, R.A. and Breisch, R.L.)|journal=Mathematics Magazine|volume=44|issue=5|pages=294–296|bibcode=1975MathM..48...12G|doi=10.2307/2688646|jstor=2688646|author-mask=2}} Reprint and solutions to "Problem 787" (above)
{{refend}}

== 読書案内 ==
* 『Handled with care: the true story of the FBI's 18 year search for the serial killer unabomber』マーク・セラシーニ著 ランダムハウス刊
* 『Handled with care: the true story of the FBI's 18 year search for the serial killer unabomber』マーク・セラシーニ著 ランダムハウス刊
* 『MAD GENIUS : The Odyssey, Pursuit, and Capture of the Unabomber Suspect』Lance Morrow、Nancy Gibbs、Richard Lacayo、Jill Smolowe 共著 Grand Central Publishing 刊 ISBN 978-0446604598
* 『MAD GENIUS : The Odyssey, Pursuit, and Capture of the Unabomber Suspect』Lance Morrow、Nancy Gibbs、Richard Lacayo、Jill Smolowe 共著 Grand Central Publishing 刊 ISBN 978-0446604598
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://editions-hache.com/essais/pdf/kaczynski2.pdf Industrial Society and Its Future (1995)] (PDF) - 産業社会とその未来(犯行声明)<!--削除済み
* [http://editions-hache.com/essais/pdf/kaczynski2.pdf Industrial Society and Its Future (1995)] (PDF) - 産業社会とその未来(犯行声明)
* [http://en.wikisource.org/wiki/Unnamed_Essay_%281971%29 Wikisource>English>産業社会とその未来(カジンスキーの論文)]-->
* [http://openjurist.org/239/f3d/1108 Open Jurist>239 F. 3d 1108 - United States of America v. Theodore John Kaczynski ]
* [http://openjurist.org/239/f3d/1108 Open Jurist>239 F. 3d 1108 - United States of America v. Theodore John Kaczynski ]
* [http://openjurist.org/262/f3d/1034 Open Jurist>262 F. 3d 1034 - United States of America v. Theodore John Kaczynski ]
* [http://openjurist.org/262/f3d/1034 Open Jurist>262 F. 3d 1034 - United States of America v. Theodore John Kaczynski ]

2019年1月31日 (木) 13:35時点における版

セオドア・ジョン・カジンスキー
Theodore John Kaczynski
逮捕時のカジンスキー(1996年)
生誕 (1942-05-22) 1942年5月22日(82歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国イリノイ州
エバーグリーンパーク
現況 服役中
別名 ユナボマー
職業 数学者
罪名 爆弾の運搬、郵送及び使用、殺人
刑罰 仮釈放なしの8回分の終身刑
有罪判決 殺人罪
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セオドア・ジョン・カジンスキー(Theodore John Kaczynski、1942年5月22日 - )はアメリカ数学者でありテロリスト、アナーキズムに関する著作もある[1][2][3]。数学に関しては神童であったが[4]、1969年に大学のキャリアを捨てて、自給自足に近い原始的な生活をしていた。FBIのコードネームからユナボマーとも呼ばれる。

1978年5月から1995年にかけて、全米各地で現代科学技術に関わりのある人々をターゲットにした連続爆弾事件を起こして3人を死亡させ、23人に重軽傷を負わせた。彼は革命を開始するつもりであり、工業化を批判するとともに原始的な生活の復活を目指すアナーキズムを称揚した現代社会批判も行っている[5]

1971年からカジンスキーはモンタナ州リンカーン郡近郊の人里離れた小屋に移り住んでいる。電気水道とは無縁の隠遁生活を始める一方で、サバイバル技術を磨き、自給自足を実現しようとした。しかし小屋の周囲にあった原野が破壊されるのを目の当たりにしたカジンスキーは、自然の中で暮らすだけではだめだという考えにいたり、1978年に爆弾事件を起こし始める。1995年にはニューヨーク・タイムズに手紙を送り、もし同紙かワシントン・ポストが自分の論文『産業社会とその未来』を掲載するのであれば「テロ活動をやめる」ことを約束した。この論文のなかで、爆弾事件が極端な行動であることは認めつつ、大規模な集団化を前提とする現代科学技術に人間の自由と尊厳が蝕まれていることを知らしめるためには必要だったという主張を行った。

カジンスキーはFBIの歴史において最も捜査に予算と時間のかかった容疑者でもある。彼の正体が明らかになるまで、FBIはこの事件を「大学・航空機爆弾犯」の頭字語であるユナボム(UNABOM University and Airline Bomber)というコードネームで呼んでおり、次第にメディアはカジンスキーのことをユナボマーと呼ぶようになった。FBIと司法長官ジャネット・レノの後押しで『産業社会とその未来』が活字化されたことをきっかけに、弟のデイヴィッド・カジンスキーがその文体の特徴に気づいて通報を行い、カジンスキーの逮捕にいたった。

1996年の逮捕以降、カジンスキーは公選弁護人の解任を求めていたが認められなかった。彼は自分のことを正気だと考えていたが、弁護士は死刑を回避するために、被告人の精神錯乱を主張していたからである。1998年には司法取引が成立し、彼がすべての罪を認めることと引き換えに、仮釈放なしの終身刑が言い渡された。

生い立ち

少年時代

セオドア・ジョン・カジンスキーは1942年3月22日、イリノイ州シカゴポーランド系の移民2世として生まれる。いわゆる労働者階級の家で、母はワンダ・テレサ(旧姓ドンベック)、父はセオドア・リチャード・カジンスキーといった[6]。両親は弟のデイヴィッドに、テッドが幼かったときの悲劇を語ったことがある。テッドはひどい蕁麻疹にかかって病院の隔離室に入れられ、ほとんど面会謝絶になって「感情らしいものをみせることがほとんどないときが何か月も続いた」という[7]。また、蕁麻疹の診断をする医者たちが幼いテッドを押さえつけている1枚の写真を本人に見せたときはひどく嫌悪を示した。母によればカジンスキーはケージに入れられていたりして身動きのとれない動物にシンパシーをみせることがあり、おそらくそれは病院で隔離室に入れられていた経験から来ているものだった[8]。1年生から4年生までカジンスキーはシカゴのシャーマン小学校に通い、教師からは「健康」「順応性あり」と評価された[9]。1952年、弟のデイヴィッドが生まれてから3年後に、家族はイリノイ州エヴァーグリーン・パーク英語版に引っ越し、テッドはエヴァーグリーン・パーク・スクールに転校した。彼は知能テストでIQ167を記録したため[10]、6年生は飛び級となった。カジンスキーは後にこれが大きな出来事だったと語っている。彼は同級生といるときは社交的でみんなのリーダーでさえあったのに、飛び級をしてからは年上の子と馴染めず、いじめも受けたという[11]。エヴァーグリーン・パークの近隣住民は後にカジンスキー家が「公共心のある人たち」であったと表現していて、ある人は彼の両親が「全てを犠牲にして子供たちを育てていた」とも語っている[7]。テッドもデイヴィッドも聡明な子であったが、テッドはずば抜けて優秀だった。近所の1人は「あれぐらい頭がいい人はいままで見たことがない」と言う[12]。一方で別の人はテッドが「絶対に単独行動をしたがる」子で「遊ぶことをせず、早々と老人になったような」子供であったと証言している[7]

母親が回想するテッドは恥ずかしがり屋の子供であり、遊び場に無理やり連れて行っても馴染もうとしなかった[13]。あるとき息子が社会に順応して成長していけるのかと不安に思った母親は、ブルーノ・ベッテルハイムが校長を務める自閉症の子供のための学校に息子を入れるのを検討したが、ベッテルハイムがまともに説明することなく冷たく教える姿を見て、その考えは捨てた[14]。1990年に、末期がんと診断されたテッドの父親は、22口径ライフルで自分を撃ち抜いて自殺した。報道に反して、父は精神衛生上の問題を抱えていたわけではなかった。彼はがんを患った末に死ぬのは自分だけでなく家族にとっても苦痛にすぎるだろうと考えたのだった。自ら命を絶つまでの数日間、家族と過ごす彼はとても穏やかで優しく、後から考えれば別れの挨拶の代わりであった[15]

高校時代

カジンスキーはエヴァーグリーン・パーク・コミュニティ高校に入学し、そこでも学業優秀であった。マーチングバンドに参加してトロンボーンを演奏し、数学や生物学、コイン研究、ドイツ語などのクラブ活動をしたが、クラスではよそもの扱いであった[16][17]。1996年にかつてのクラスメイトが当時の印象を語っている。「あいつは本当に人間というか、人格のある個人としては扱われていなかった..。言ってみれば、歩く脳みそと思われていたんだよ、ずっと」[7]。この時期に、カジンスキーは数学に特に関心を持つようになり、一日に何時間も勉強をして高度な問題を解いていた。同時に、「かばん少年」と呼ばれていた、科学と数学が好きな生徒同士でかたまるようになった。このあだ名は、彼らが書類かばんを好んで持ち歩いたことからつけられたものだった[17]。メンバーの1人がカジンスキーのことを回想して「彼は学校で一番頭がよかった...知り合いになるまでは本当に物静かでシャイだった。でも一度知り合いになれば、とにかく話好きだった」と語っている[7]。学業に関しては、高校時代は常に同級生から頭一つ抜けていた。数学は上級クラスに入れられたが、すぐにすべての教材を終わらせてしまっている。高校3年生を飛び級し、サマースクール英語版に参加して15歳で高校を卒業した。彼は学校に5人だけいたナショナル・メリット・スカラシップの最終候補者の1人であり、ハーバード大学に進学するように勧められて[16]、1958年には奨学金を利用して16歳でハーバードに入学する[18]。クラスメイトは後に、このころのカジンスキーがまだ精神的に未熟であったと言っている。「周りが彼を捕まえて、準備ができる前にハーバードに送り込んだんだ...運転免許さえ持っていなかったのに」[7]

大学時代

ハーバードの初年度は、大学そばのプレスコットストリート8番地に住んでいた。ここは、最も若くて早熟な新入生が、こじんまりと少人数で暮らすために考えられたエリアだった。残りの3年間は学生寮のエリオットハウス英語版で生活した。同じ寮に住んでいた人間は、彼が人と関わることを避けていて「帰ってくると寮の中を駆け抜けて、自分の部屋に入ったなりドアをばたんと閉める」様子を覚えていた。別の人間はカジンスキーが寡黙でこそあったが、天才と言われていたことには間違いがないと言う。いわく「これはただの一意見だけど、テッドは優秀なやつだった」。さらに別の学生はカジンスキーがこれまでの証言から連想するほど人間嫌いというわけではなかったという。この発言をしたのは、エリオットハウスで当時カジンスキーと食事をしたことのある人間で、彼のことは「とても静かだったけど、人柄は悪くなかった...議論にも加わったし、とびきり愛想がいいというわけじゃなかったけど、友好的だったのは間違いない」[19]。カジンスキーは1962年にハーバードを卒業し、数学の学位を取得した[20][21] 。GPAは3.12だった[22]

心理学の実験

カジンスキーは大学2年生の時に、ある心理学の実験に被験者として参加していた。それはハーバード大学の心理学者ヘンリー・マレーが指導していた研究で、作家のオールストン・チェイスの表現を借りれば「あえて残酷になる心理実験」であった。被験者は、自分の個人的なテーマを同級生とディベートしたり、いま考えている事、やりたい事を小論文にして詳しく書くように言われる。この小論文は匿名の弁護士にまわされ、続くパートでこの弁護士が敵役にまわって、被験者を侮辱するのである。「激烈で、草の根も生えないほど、人格的な欠点をあげつらう」攻撃が、論文に書かれた内容を武器に使って行われ、その間の被験者の反応が電極によってモニターされた。このときの様子は録画され、怒ったり逆上する姿が被験者の前で繰り返し再生された[23]。この実験は3年間続いたが、その間は週に一度誰かがカジンスキーを言葉でけなしたり辱めた[24][25]。カジンスキーがこの実験に参加した時間は200時間に及ぶ。

カジンスキーの弁護人は、彼が社会に向けた敵意の原因をこのマレーの実験で駆使されたマインドコントロールに求めている[26]。マレーの実験がCIAMKウルトラ計画の一環であったことについては、複数の資料がある[27][28][29]。この実験がカジンスキーの犯行の動機につながったという意見を持っているのも作家のチェースだけではない[30][31][32][33]

数学者として

カリフォルニア大学バークレー校の助教だった頃のカジンスキー

1962年にカジンスキーはミシガン大学の大学院に入学し、修士(1964年)と博士(1967年)を修了した。ミシガン大学は大学院進学の第一候補ではなかったが、カリフォルニア大学バークレイ校シカゴ大学も受験して合格こそしたものの、教員ポストや資金援助は得られなかったのである。それに対してミシガン大学からは年に2,310ドルの助成金(2018年の20,000ドル弱に相当)と教員ポストのオファーがあったのだった[22]

ミシガン大学では、複素解析(特に幾何学的関数論)を専攻した。彼の知性と情熱は、教授たちに強い印象を残した。「彼は並大抵の人間じゃなかった。ほかの院生とはまるでちがっていた。自分の研究にとにかく没頭していたんだ。数学における真理の発見に打ち込んでいたよ」とピーター・デューレン教授は言う。「賢いというだけでは足りない」ともう一人のミシガン大学の数学者ジョージ・ピラニアンも言っている[34]。ミシガン時代に、カジンスキーは18の履修科目で5つのB、12のAをとっている。しかし2006年に彼は「ミシガン大学での思い出は楽しいものではなかった...単位を(物理学以外は)取れただけでなく、Aがありすぎたのが問題だ。ミシガンではどれだけ基準が低いのか、哀れもいいところだ」と語っている[22]

1967年に提出されたカジンスキーの学位請求論文『Boundary Functions[35]はサムナー・B・マイヤーズ賞を受賞している。これはミシガン大学で一年に提出された最も優れた数学の博士論文に送られるものだった[36]。指導教官だったアレン・シールズは「今まで見てきた中でも一番素晴らしかった」といい[22]、審査委員の一人だったマクスウェル・リードは「アメリカでも理解できたり褒めたりできるのは多分10人かそこらだと思う」と語っている[34][36]。彼はこの論文をもとに2本の雑誌論文を書き、ミシガン大学を去るまでさらに3本を雑誌掲載している[35][37]

1967年の後半、25歳のカジンスキーはカリフォルニア大学バークレイ校で、開学以来最年少の数学の助教授となった。彼はこの大学で学部生を相手に幾何学や微積分を教えていた[38]。学生による授業評価だけをみれば、彼は好かれていたとは言えない。教え方が不親切であるというが学生の印象で、教科書に書いてあることから一歩も出ずに授業をしたり質問があっても答えなかったという[36]。1969年6月30日にカジンスキーは何の説明もなくこの学校を退職している[39]。当時に数学科の学部長だったJ・W・アディソンは「突然で思いもよらない」辞職だったと語っている[40][41]

1996年、バークレイ校の副学長だったカルヴィン・C・ムーアは、カジンスキーの「印象的な」博士論文と雑誌論文を振り返り、「もっと出世して、今ごろ学部の上層部の一員になっていたかもしれない」と述べている[42]。一方で1996年のロサンゼルス・タイムズに掲載された記事によると、この新聞の取材を受けた数学者は「彼が仕事をした分野は実は今すでに存在しない。彼が仕事をしていた1960年代にはすでにほとんどの理論の証明を終えていたんだから」という。ただし数学者のドナルド・ラングは「もし数学者のままだったら多分何か別の研究対象に移っていただろう」とも言っている[39]

モンタナ州での生活

The interior of a wooden cabin
カジンスキーの使っていた小屋(ワシントンD.C.のニュージアム

カジンスキーはバークレイ校を辞めて、イリノイ州ロンバードの両親のもとで暮らしていたが、2年後の1971年には人をさけてモンタナ州リンカーン郡の郊外に小屋を建て、ほとんど金を使わず、電気も水道もない質素な暮らし英語版を始めた[43]。単発的な仕事をしたり、家族からいくらかの資金援助は得てはいた[7]

彼のそもそもの目標は自給自足であったため、基本的には独力で生活をした。獲物の追い方、食べられる植物の見分け方、有機農業のやり方、弓きり式による火おこし、そういった原始的な技術を自ら鍛えた[44]。街へ行くときは古い自転車を使っていて、地元の図書館のボランティアの話では、古典作品を原書で読む姿をよく見かけたという。リンカーン郡の住人は後に、彼のようなライフスタイルはこのあたりではそれほど珍しくもなかったと語った[45]

カジンスキーが暮らす小屋の周囲の原野は不動産開発と工業化によって破壊され、自然に囲まれて平和に暮らすのはもはや不可能だと彼は考えた[44]。それに対抗するために、彼は1975年から周辺の工事現場で破壊工作をはじめるとともに[46]ジャック・エリュールなどの本を読み、社会学や政治哲学を独学で学び始める。

逮捕後のインタビューで、彼は気に入りの場所を散策していたときに受けた衝撃を思い出している[44]

平坦でない起伏のある土地で、縁まで行けばそこから崖のように急角度の斜面になっているのがわかるし、滝まで流れ落ちている。私の小屋から歩いて2日はかかる所なんだ。1983年の夏までは、散歩をするならそこ、というような場所だった。その年の夏は私の小屋の周りには人が多すぎて、私にはある程度の平穏が必要だと痛感したよ。あの高台に戻っていつもの場所に行ったら、あの人間たちがちょうどそこの真ん中を通るように道路を建設しているのに気が付いたんだ...。私がどれだけ取り乱したか想像もつかないことだろうね。その時から心に決めたんだ。これ以上自然の中に生きる技術を身に着けるよりも、体制そのものに仕返しをする仕事をするのが先だ、と。つまり、復讐だ。 — セオドア・カジンスキー

1999年のインタビューでは、社会改革の行く末についても期待を持てなくなった自分を語っている。「人間は低きに流れる傾向にある...」という彼の言葉は、産業技術に支えられた社会体制を打ち倒すには、暴力で屈服させることこそが唯一の道だという意味である[44]

人は安易な生き方を選ぶ。車やテレビ、電気を手放すことに、抵抗感が薄い人などほとんどいない。私が思うに、産業主義的な体制を打倒する手段を操ったり計画することなどできはしない。それを取り除くための唯一の方法は、機能停止させたうえで破壊することだと思う...大きな問題は、人は革命が起こるとは考えてもいないということだ。正確にいうと、それが可能だということを信じていないのだ。エコアナキズムの運動が大きな成果を上げていることは私も認めるが、そこから先がない...。真の革命は改革とは距離をとるべきだ...。できるだけ多くの人が自然に親しめるように意識高い努力がされていればいいとは思う。ざっくり言えば、すべきことは自分たちが正しいと世間の大半に納得させたり説得することではなく、まずは体制が機能停止になるところまで社会に緊張感をもたらすことを目指すべきだ。人が反逆者に変わるだけの社会不安をつくりだすんだ。そうすれば話は、どうやってその状態まで緊張感を高めるのか?という問いに行きつく。 — セオドア・カジンスキー

犯行

1978年から1995年にかけて、カジンスキーは爆弾を郵送したり時に自ら運んで、爆破させた。爆弾は次第に洗練されていき、最終的に3人の命を奪い、23人を大小の怪我を負わせた。計16個の爆弾が彼のものだとされている。爆弾の仕組みは年ごとに違ったが、初期のいくつかを除いてすべてに「FC」というイニシャルがはいっていた。後にカジンスキーはこれが「フリーダム」(Freedom Club)のことだと説明している[47]。彼はあえて捜査を迷わせるための手がかりを装置に残す一方で、指紋がつくことのないようその扱い自体はきわめて慎重だった。一部の装置に残っていた指紋は、カジンスキーの出した手紙のものとは一致しなかった[注釈 1]

初期の爆弾事件

木箱に入れられた爆弾と電線
FBIが再現したカジンスキーの爆弾の1つ(ワシントンD.C.のニュージアムに展示されている)

カジンスキーの最初の郵便爆弾は、ノースウェスタン大学で材料工学を研究する教授のバークレイ・クリストを狙ったものだった。1978年5月25日、差出人住所がクリストのものになっている小包がイリノイ大学シカゴ校の駐車場で発見された。郵便物はクリストに「返却」となっていたが、彼はそんな荷物を出しておらず、不審に思ってキャンパスの警察に連絡を入れた。警察官のテリー・メイカーが郵便を開封すると爆発が起こり、彼は左手を負傷した[49]

中身は、木の箱にはいった直径1インチ (2.5 cm)長さ9インチ (23 cm)の鉄パイプで穴には無煙火薬が詰められていた。箱とパイプの両端の栓はいずれも木製で、手作りされたものだった。パイプ爆弾のほとんどは、市販で容易に手にはいる金属ねじで端に栓がされている。しかし、栓が木製だと中で生じる強烈な圧力に対する強度がなく、爆風がむしろ弱くなってしまう。起爆装置は単純である。ゴムバンドで引っ張られたくぎが、箱を開けると、6本のマッチの頭薬をたたくというものだ。それでマッチには火がつき、火薬が燃焼する。その後カジンスキーは、火薬にもっとうまく引火するように電池とワイヤ状の熱フィラメントを使っている[50]

カジンスキーは1978年5月の爆弾事件のためにイリノイ州に帰ってきており、フォームラバー工場で働く父と弟の手伝いのため、しばらくこの地に滞在していた。しかしこの年の8月に彼は弟によって仕事を首にされた。理由は、カジンスキーが短期間だけ交際していた女性の指導主事のことを侮辱するような詩を書いたことだった[51][52]。この女性の指導主事はカジンスキーのことを「頭がよくて、もの静か」だったと回想しているが、交際についてはほとんど記憶がなく、恋愛関係にあったことは一切ないとはっきり否定している[53]

FBIの捜査

1978年の最初の爆弾事件に続き、航空会社の役員たちにも爆弾が送りつけられ、1979年にはシカゴからワシントンD.C.にフライトするアメリカン航空444便(ボーイング727)の貨物倉に爆弾が仕掛けられた。時限装置のタイミングがあわず爆発することはなかったが、煙が発生したため飛行機は緊急着陸を余儀なくされた。当局によれば、爆発していれば「飛行機を消し飛ばす」ほどの威力があった[49]。旅客機に爆弾を仕掛けることは連邦犯罪であるため、FBIが捜査に乗り出すとともに容疑者は大学・航空機爆弾犯(University and Airline Bomber)の頭文字からUNABOMと名付けられた。

カジンスキーはすべての爆弾に偽の手がかりを残し、信用できそうだと思わせるために見つけにくいよう仕込んでいた。最初の手がかりは常に爆弾のどこかに(たいていはパイプ端の栓の中だった)隠されたFCというイニシャルのはいった金属プレートだった[48]。また別の手がかりは爆発しなかった爆弾に残されたメモで、「ウー、やったぜ!こうなるって言ったろ―RVより」("Wu—It works! I told you it would—RV")と書いてあった[54]。箱を送るときに使われたユージン・オニールの1ドル切手を手がかりにしていることもあった[55]。スローン・ウィルソンの小説『氷の兄弟』(Ice Brothers)の本に爆弾が埋め込まれている時もある[49]。FBIは容疑者が自分の犯罪に自然、樹木、木々といったテーマを盛り込んでいると考えた。彼の爆弾にはよく木の枝や樹皮の一部が入っており、ターゲットにはパーシー・ウッドやリロイ・ウッド教授といった名前も見受けられたからである。犯罪ライターのロバート・グレイスミスは容疑者が「木に執着している」ことは「大きな要素だ」と述べた[56]

後期の爆弾事件

最初に重傷を負ったのは1985年に被害にあったジョン・ハウザーだった。彼は院生であり同時にアメリカ空軍の大尉だったが、4本の指を失い、片方の目を失明した。この爆弾も、いつものように、木でできた手製の部品を組み合わせてつくられていた[57]

カリフォルニア州サクラメント在住でPCショップを経営する38歳のヒュー・スクラットンは、1985年に自分の店の駐車場に置かれた、釘と金属片の詰まった爆弾によって命を落とした。同じようなPCショップに対する攻撃は、1987年2月20日にユタ州のソルトレイクシティでも起こった。爆弾は木材のように偽装されており、駐車場からそれをどけようとしたゲイリー・ライトが怪我を負った。彼は爆発によって左腕の神経を損傷し、身体に200個以上もの金属片を浴びた[注釈 2]

前回の事件から6年後の1993年、カジンスキはイエール大学で計算機科学を教えるディヴィッド・ゲランター教授の自宅に爆弾を郵送した。彼は重傷を負ったが、一命をとりとめている。同じ週に、カジンスキーは、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のチャールズ・エプスタインの自宅にも爆弾を送り付け、開封してしまったエプスタインの指を何本か吹き飛ばしている。このときカジンスキーはゲランターの兄弟である行動遺伝学者のジョエル・ゲランターを名指しにして「次はお前だ」という手紙を送った[59]マサチューセッツ工科大学の遺伝学者フィリップ・シャープもこの2年後に脅迫の手紙を受け取っている[60]

1994年、広告代理店バーソン・マーステラ役員のトーマス・モーザーがニュージャージー州ノース・コードウェルの自宅に贈られた郵便爆弾を爆発させて死亡した。ニューヨークタイムズ紙に送った手紙の中でカジンスキーは「トーマス・モーザーを吹っ飛ばしたのは...エクソンが原油流出事故を起こした後にそのパブリックイメージを払拭するためバーソン・マーステラが手を貸したから」だが、さらに重要なのは「この会社が世間の関心を操る技術を磨くのを事業としているからだ」と述べた[61]。そして続く1995年には材木業界のロビー団体カリフォルニア森林組合の理事長だったギルバート・ブレント・マレーが殺されている。彼の命を奪った郵便爆弾は、当時すでに辞任していた元理事長のウィリアム・デニスン宛のものだった[60]

犠牲者の一覧

カジンスキーの起こした爆弾事件の死傷者をまとめると下記の通りである。

日付 場所 犠牲者 職業 被害
1978年5月25日 イリノイ州:ノースウェスタン大学 Terry Marker 警察官 軽度の裂傷および火傷
1979年5月9日 イリノイ州:ノースウェスタン大学 John Harris 大学院生 軽度の裂傷および火傷
1979年11月15日 イリノイ州: アメリカン航空444便

(シカゴからワシントンD.C.のフライト中)

12人の乗客 煙吸入(命に別状なし)
1980年6月10日 イリノイ州:レイクフォレスト Percy Wood ユナイテッド航空社長 重度の裂傷および身体と顔の火傷
1981年10月8日 ユタ州:ユタ大学 なし なし(爆弾処理をされたため)
1982年5月5日 テネシー州: ヴァンダービルト大学 Janet Smith 大学職員 手に重度の火傷を追い、金属片で身体に怪我
1982年7月2日 カリフォルニア州: カリフォルニア大学バークレー校 Diogenes Angelakos 工学部教授 重度の火傷、金属片で手と顔を怪我
1985年5月15日 カリフォルニア州: カリフォルニア大学バークレー校 John Hauser 大学院生 右腕の指4本を失い、動脈を損傷

左目の一部失明

1985年6月13日 ワシントン州: オーバーンのボーイング社 なし なし(爆弾処理をされたため)
1985年11月15日 ミシガン州: ミシガン大学 James V. McConnell
Nicklaus Suino
心理学部教授
研究助手
一時的な難聴
火傷、金属片による怪我
1985年12月11日 カリフォルニア州:サクラメント Hugh Scrutton PCショップ経営者 死亡 (1人目)
1987年2月20日 ユタ州: ソルトレイクシティ Gary Wright PCショップ経営者 左腕に重度の神経損傷
1993年6月22日 カリフォルニア州: ティブロン Charles Epstein 遺伝学者 両鼓膜を損傷して難聴に

3本の指を失う

1993年6月24日 コネチカット州: イエール大学 David Gelernter 計算機科学者 重度の火傷、金属片による怪我

右目を損傷、右手を失う

1994年12月10日 ニュージャージー州: ノース・コードウェル Thomas J. Mosser 広告会社役員 死亡 (2人目)
1995年4月24日 カリフォルニア州:サクラメント Gilbert Brent Murray 材木業ロビイスト 死亡 (3人目)
出典:[62][63]

産業社会とその未来

1995年にカジンスキーはマスコミ各社へ繰り返し手紙を送り、自分の目的のあらましを伝えるとともに、彼が書いた英語で35,000語の論文『産業社会とその未来』(FBIはこれをユナボマー・マニフェストと呼んだ[64])を大手新聞に一言一句たがわず掲載するよう要求した。さらに、もし要求を呑めば「テロ活動をやめる」とも語っていた[65][66][67]

この論文を活字化することに関しては議論もあったが、司法長官のジャネット・レノとFBI長官のルイス・フリーは、治安に関する懸念から、また論文の著者を知る読者が現れることを期待して賛成の立場であった。ペントハウスボブ・グッチョーネも論文の掲載に名乗りを上げたが、カジンスキーはペントハウスは他の媒体と比べて「社会的地位」が低いため、「もし原稿が出版されたとしても、殺人を意図した爆弾を1つ(1つだけだ)仕掛ける権利を留保する」と応じた[68]。結局、論文は1995年9月19日にニューヨークタイムズとワシントンポストの両紙に掲載された[69][70]

書法

全体を通じて、タイプライターで書かれており、イタリックはない。またカジンスキはー強調するため全ての言葉を大文字にしていた。一人称は常に「我々」("we")か「FC」("Freedom Club")だったが、カジンスキーに協力者がいたという証拠はない。学者のドナルド・フォスターがカジンスキーの弁護のために文章の分析を依頼されており、彼は、綴りやハイフンつなぎが変則的でありその他の言語的な特異性もあわせると、カジンスキーが著者であると結論づけられると証言した[71]

要約

『産業社会とその未来』はカジンスキーの次のような主張で始まる。「産業革命とその帰結は、人類に大きな災いをもたらしている[72][73]

テクノロジーは社会を不安定にし、人生を満たされないものにしているだけでなく、〔人類に〕精神的苦痛を蔓延させた原因でもある[74]。テクノロジーの進歩によって、ほとんどの人が「代理行動」〔とカジンスキーは言う〕に過ぎない無意味なものの追求に時間を費やすようになった。そのため人々は科学の研究や消費者主義的な娯楽、スポーツの応援など人工的な目標で競っている[74]。このままさらにテクノロジーが進歩すれば、人間が遺伝子工学で盛んに研究されて、人間が社会体制の要求に合わせて順応していくことが予測される(これではあべこべである)[74]。技術の発展は負の側面もあることはわかっていても避けられないがゆえに消極的に受け入れようなどという人もいるが[75]、そうではない。技術の発展は止められる[74]。そして「野生」に帰ろう〔とカジンスキーは呼びかける〕[74]

人間の自由が蝕まれていくのは、産業社会である以上は自然なことである。なぜなら「その体制が機能するためには、人間の行動は厳しく制限されなければならない」からだ。そこでは社会体制の改革なども不可能だ。「自由のために後世にまで残るほどの変化をもたらせば、社会体制が著しく混乱するということがわかっているからである」[76]。しかし社会体制はまだ完全に「人類の行動をコントロール」できているわけではなく、「存続を脅かしかねない、種々の問題を克服しようと現時点では必死にもがいている」状態である。ここから「もし、短期間に人間の行為を十分にコントロールすることに成功したならば、体制は存続するであろう」と予測できる。さもなくば崩壊するが「次の数十年、すなわち40年から100年の間にこれらの問題は解決される可能性が高い」[76]。産業社会に反旗を翻す人間のなすべきことは「社会にストレスと不安定さ」をもたらし「反テクノロジーというイデオロギー」のプロバガンダに努めることである。テクノロジーは「熱狂的な支持を集めんがために」自然に対する「理想的な反対物」を人々に与えるからだ。このようにして産業社会が一定以上に不安定になれば「テクノロジーに対する革命は可能になる」[77]

〔論文のあちこちで、カジンスキーは運動としての左翼にも言及している〕。左翼は「主に社会主義者、全体主義者、『ポリティカル・コレクトネス』型、フェミニスト、ゲイ、障害者人権活動家、動物の権利の活動家など」と定義でき[78]、こうした左翼は主に「劣等感」と「過剰な社会化」[74]の二つに突き動かされているだけでなく、「我々の世界が持つ狂気がもっとも広い範囲で顕現した存在の1つ」である[78]。さらに「自然をあがめ、テクノロジーに反対する運動は、断固として反左翼的な立場をとらねばならず、左翼との共闘などありえない」。「左翼は、長年のあいだ野生や人間の自由、現代テクノロジーの排除とは相容れぬ運動であった」[72]。一方で保守主義もまた「間抜け」であり「伝統的な価値観が毀損されていると駄々をこねながら、テクノロジーの進歩と経済発展は大好きである。社会におけるテクノロジーと経済に急激かつ劇的な変化を起こせば、社会のあらゆる面にも急激な変化がもたらされ、必然的に伝統的な価値観も破壊されてしまうということが彼らには永遠にわからないように思われる」[78]

受容

アトランティック誌上で、オールストン・チェイスはこの文章が「1995年には天才の仕事か少なくとも深遠な思想だと真面目に歓迎する人が多くいて、作者はごく正常だと思われていた」[79]。一方でチェイス自身は「これを書いたのが天才とも狂人とも思われない。[…] 社会の発展に重ねたペシミズムと現代世界の拒絶は、アメリカでも特に最も高度な教育を受けた人のあいだで共有されていた考えだ」[79]。UCLAの政治学者ジェームズ・Q・ウィルソンはこのマニフェストについてニューヨーカー誌に寄稿しており、『産業社会とその未来』が「慎重に理論づけられており、芸術的な書きっぷりの論文だ。...もしこれが狂人の仕事ならルソートマス・ペインマルクスなど大勢の政治哲学者の書く文章はほとんど正気ではない」[80]

影響関係

マニフェストを技術社会に対する批評としてみた場合、そこにはジョン・ゼルザンジャック・エリュール(彼の『技術社会』はカジンスキーの1971年の原稿で言及されている[81])、レイチェル・カーソンルイス・マンフォードE・H・シューマッハーなど技術と産業化を批判した当時の批評家の影響がみてとれる[82]。「権力過程を混乱させる」という考えは、マンフォード、ポール・グッドマン、エリック・ホッファーなどの、社会問題の主要因を有意義な仕事の少なさにみた社会批評家を連想させる[82]。通底するテーマはオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』でも扱っているもので、カジンスキーはこの小説のことを論文のなかで言及している[83]。「過剰な社会化」と「代理行動」にはフロイトの『文化への不満』や彼の合理化昇華(この言葉は「代理行動」を説明するものとしてカジミンスキーの論文の中で3度使われている)の影響が指摘できる[84]

捜査

A pencil sketch of a man wearing a hood and sunglasses, with a mustache.
ユナボマー事件の容疑者として公開されていた似顔絵

この事件は当初、郵便監察局が捜査を担当しており、郵便爆弾に廃品が使われていることから捜査員は容疑者を「ジャンクヤード・ボマー」と呼んでいた[85]。その後FBIの所管となり、テリー・D・ターチーが進行中のユナボム(UNABOM)の捜査責任者になった[86]。1979年にFBIが主導するタスクフォースはFBI、アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局(ATF)、郵便監察局の職員からなる125名のエージェントで構成されていた[86]。その後このタスクフォースは常勤の捜査員が150名と増員されたが、回収された爆弾の部品に関する分析は進まず、事件の生存者からの聞き取りでも容疑者の特定につながる情報はほとんど得られなかった。犯人がつくる爆弾の主材料はほとんどどこにでも見つかるようなスクラップだった。後からわかったことだが、ターゲットは図書館の本を使って不規則に選ばれていた。

1980年に、主任捜査官ジョン・ダグラスはFBIの行動科学分析班のエージェントと捜査を行うなかで、正体不明の爆弾犯の心理学的なプロファイリングを行った。この時の分析によれば、犯人は平均以上の知性であり学界ともつながりがあるとされた。この犯人像は後にさらに洗練されて、ネオ・ラッダイト的思想をもち自然科学の分野で学位を有する人間と推測された。しかしこの心理学をベースにしたプロファイリングは1983年に却下されてしまった。その代わりにFBIの分析班が着目したのは、回収された爆弾の破片にみられる物理的な特徴であった。この新しいプロファイリングによれば、犯人はブルーカラーであり航空機のメカニックということになった[87]。タスクフォースによって捜査情報の提供用に1-800から電話番号が始まるホットラインが設置され、ユナボマーの逮捕につながる有益な情報提供した人間には100万ドルの報奨金がついた[88]

『産業社会とその未来』が新聞に掲載される以前から、テッド・カジンスキーの弟であるデイヴィッドは、テッドがユナボマーである可能性について真偽を確かめるよう妻からしつこく言われていた[89]。デイヴィッドは初めのうちこそ取り合わなかったが、1995年9月のマニフェストが新聞に掲載されてから1週間後にやっとその文章を読み、兄との類似について真面目に考えるようになった。彼は家にある古い手紙の山のなかを探して、テッドが1970年代に書いた手紙を見つけた。兄がテクノロジーの濫用に対する反論を綴って新聞社に送ったものだったが、そこで使われている言葉遣いはあのマニフェストによく似ていた[90]

FBIはマニフェストの公開前に記者会見を開いて、あらためて世間にユナボマーの特定につながる情報の提供を求めた。捜査では犯人は爆弾事件を初めて起こしたシカゴ周辺の出身だという説が有力になっていた。そしてソルトレイクシティで働いていたかもしくは何らかの地縁があって、1990年代にはサンフランシスコ・ベイエリアで何か手がかりを残しているはずだった。こうした地理情報を知り、新聞に全文が掲載される前の抜粋を読んだデイヴィッドの妻は、早くマニフェストを読むようにと促した[91][92]

マニフェストの公開

マニフェストが新聞に掲載され、ユナボマーの身元特定につながる情報に100万ドルの報奨金がつけられたため、一日に千件を超える電話がFBI設置のホットラインに寄せられる日々が何か月も続いた。ユナボマーから送られたとされる手紙もタスクフォースには大量に届き、警察は際限なく集まる容疑者の手がかりの検討に追われた。その一方で、カジンスキーの弟デイヴィッドはシカゴの私立探偵スーザン・スワンソンに依頼し、兄の行動について慎重に調査を進めていた[93]。ディヴィッドは後にスワンソンが集めた証拠のとりまとめと、FBIへの情報提供をワシントンD.C.の弁護士トニー・ビシェーリエに依頼している。FBIが関心を持つ可能性は薄いだろうと踏んでいたのである。彼が恐れていたのは、FBIに抵抗したルビー・リッジ英語版ウェーコ・シージ英語版のような末路を兄が迎えることで、FBIが兄と接触しようとすればそこに暴力がともないかねないと感じて、兄を守ろうとしたのだった[94]

1996年初め、元FBIの人質交渉人で犯罪プロファイラーのクリントン・R・ヴァン・ザントにビシェーリエと協力関係にある捜査官が接触している。ビシェーリエは捜査官を介して、デイヴィドが兄から受け取った、手書きの手紙をタイプライターで清書した原稿とカジンスキーのマニフェストとの比較を依頼した。ヴァン・ザントの最初の分析では、書いたのが同一人物である可能性は60パーセントよりは上というところだった。マニフェストは公になって半年は経っていたということもある。ヴァン・ザントが指揮した二度目の分析チームは、その可能性はもっと高いと判断した。そのためビシェーリエは君の依頼人はすぐにでもFBIと連絡をとったほうがいいと薦められた[94]

1996年2月、ビシェーリエはテッド・カジンスキーが1971年に書いた論文のコピーをFBIのモリー・フィンに提供した[86]。フィンはさらにこの論文をサンフランシスコに本文を置くタスクフォースにまわしている。本部では捜査員のジョエル・モスとキャスリーン・パケットもこの論文に目を通したが[86]、一読して文章に類似性を見出したのはFBIの犯罪プロファイラー、ジェームズ・R・フィッツジェラルドだった[95][96]。言語解析にかけると、論文とマニフェストの著者はほぼ間違いなく同じという結果もでた。爆弾事件とカジンスキーの来歴から垣間見える事実とも総合したうえで、この分析結果を根拠に捜査全体の責任者であるテリー・ターチーは逮捕令状にサインを行った[86]

デイヴィッド・カジンスキーは匿名のままでいることを希望していたが、すぐにFBIに特定され、数日のうちにワシントンD.Cで弁護士立ち会いのもと妻といっしょにFBIの捜査員から聞き取りを受けた。事情聴取が何度か行われ、その時にデイヴィッドは兄が書いた手紙を当時の封筒とともに提出している。これによってFBIは切手の消印からテッドの行動を時系列にそって以前より詳しく把握できるようになった。デイヴィッドは行動分析に関する特別捜査官のキャスリーン・パケットと互いに尊敬しあう信頼関係を築き、カジンスキーが住む小屋に対する捜査令状が執行されるまでのほぼ2ヵ月で、ワシントンD.C.だけでなくテキサス州、シカゴ、スケネクタディ (ニューヨーク州) と場所を変えて面談を繰り返した[97]

デイヴィッドもかつては兄を尊敬し、手本にもしていたが、サバイバル生活のような暮らしにはついていけなかった[98]。FBIには匿名を条件に捜査へ協力しており、兄に誰が情報提供したのかわからないようにするという約束も得ていたのに、彼の身元は1996年4月初頭にCBS Newsにリークされてしまった。CBSのニュースキャスター、ダン・ラザーから確認の電話を受けたFBI主任捜査員のルイス・フリーは、Cイブニングニュースで公開するまで24時間待つように要望している。FBIは捜査令状を急ぎ、モンタナ州の連邦裁判所からようやく許可をとった。FBIは内部リークについても調査を行ったが、、リーク元については特定することができなかった[98]

テッド・カジンスキーをマニフェストの作者とすることについてFBI内部も一枚岩ではなかった。捜査令状の許可にあたっては、マニフェストは別の人間が書いたものだと考えている専門家も多い、との留保があった[48]

逮捕

FBIの捜査員は1996年4月3日にカジンスキーを逮捕した。小屋にいた彼は、頭がぼさぼさの姿で見つかった。小屋を調べると、貯め込まれた爆弾の部品のほか、爆弾製造の実験作業などについて40,000語あまりが記された手書きの日記、ユナボマーの犯罪についての解説書、それからあとは郵送するだけの生きた爆弾も1つ見つかった。このとき『産業社会とその未来』をタイプしたオリジナルと思われる原稿も見つかっている[99]。この時で、ユナボマーはFBIの歴史において最も捜査に予算がかかった容疑者になっていた[100][101]

身柄の確保後に、カジンスキーをゾディアック事件の犯人とする説が持ち上がった。その関連性が疑われたのは、カジンスキーが1967年から1969年までサンフランシスコ・ベイエリアに住んでいたという事実があったからであり、両者ともに高い知能を持ち、爆弾と導線に関心を持っていた。さらにどちらも、新聞社に自分の作品を掲載するように要求する手紙を送っており、それを呑まないのであれば凶行を継続するという脅しをかけていた。しかしすべての殺人事件について当時カジンスキーがどこにいたかを検証することは不可能であり、ゾディアック事件の犯人が銃とナイフを使って殺人事件を起こしていたこともカジンスキーとは違う点だった。そのため、捜査においてはそれ以上追求されることはなかった。1986年に『ゾディアック』という本を書いているロバート・グレイスミスは、類似点は「魅力的」だが純粋に偶然の一致だと述べている[102]

捜査の初期段階では、最終的な容疑者とはかけ離れた犯人像をもとにユナボマーを追いかけていた。『産業社会とその未来』では「我々」や「我々の」という言葉が一貫して使われていたたことを分析したり、1993年には爆弾の1つに残されていたメモにあった名前を根拠に「ネイサン」というファーストネームの人間を捜査対象にしていたこともある[103]。事件が公開されると、当局は犯人がカジンスキー以外にもいるという説を否定するようになった[89]

裁判

裁判では、弁護団を自ら解任し自己弁護を行おうとする態度などで審理が進まないと判断した検察官は、仮釈放なしの8回分の終身刑とする司法取引を提案した。そしてこの司法取引にカジンスキーが同意したためそのまま刑は確定となり、公判は一度も開かれなかった。そのため、カジンスキーの犯行動機は現在も不明である。また、攻撃の標的をどのように定めたかも多くは語られず不明である。現在、コロラド州にあるフローレンス刑務所で服役している。

FBIはこの事件で犯罪人類型に「Lone Wolf(ローンウルフ)」型を加えた。

オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の主犯、ティモシー・マクベイを長期に渡り取材し、「アメリカン・テロリスト英語版」を著したジャーナリストダン・ハーベック英語版によると、カジンスキーは同じフローレンス刑務所に収監されているマクベイや共犯者のテリー・ニコルズ英語版世界貿易センター爆破事件を引き起こしたラムジ・ユセフらと「爆破事件の犯人」という共通項から交友関係を持ち、"Bombers Row"と呼ばれる一団を形成していたという。カジンスキーとマクベイは自然サバイバルについて語り合う事を好み、マクベイが1999年に死刑執行の為にインディアナ州テレホート刑務所英語版に移送された後も、カジンスキーは他のグループメンバーと交流を続けているという[104]

関連項目

脚注

  1. ^ As stated in the "Additional Findings" section of the FBI affidavit, where a balanced listing of other uncorrelated evidence and contrary determinations also appeared, "203. Latent fingerprints attributable to devices mailed and/or placed by the UNABOM subject were compared to those found on the letters attributed to Theodore Kaczynski. According to the FBI Laboratory no forensic correlation exists between those samples."[48]
  2. ^ Kaczynski's brother, David—who would play a vital role in Kaczynski's capture by alerting federal authorities to the prospect of his brother's involvement in the Unabomber case—sought out and became friends with Wright after Kaczynski was detained in 1996. David Kaczynski and Wright have remained friends and occasionally speak together publicly about their relationship.[58]

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カジンスキーの数学論文

読書案内

  • 『Handled with care: the true story of the FBI's 18 year search for the serial killer unabomber』マーク・セラシーニ著 ランダムハウス刊
  • 『MAD GENIUS : The Odyssey, Pursuit, and Capture of the Unabomber Suspect』Lance Morrow、Nancy Gibbs、Richard Lacayo、Jill Smolowe 共著 Grand Central Publishing 刊 ISBN 978-0446604598
  • 『Unabomber: a desire to kill』ロバート・グレイスミス著 National Book Network刊
  • 『葬られた歴史の真相』ナショナルジオグラフィックチャンネル
  • 『ユナボマー 爆弾魔の狂気』Lance Morrow、Nancy Gibbs、Richard Lacayo、Jill Smolowe 共著 ベストセラーズ刊 ISBN 978-4584182598

外部リンク