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「エルンスト・テールマン」の版間の差分

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|人名 = エルンスト・テールマン
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|各国語表記 = Ernst Thälmann
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|出身校 = ハンブルクの小学校
|前職 = [[沖仲仕|港湾労働者]]、造船所労働者、倉庫労働者、蒸気船の[[火夫]]、馬車引き、陸軍軍人
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|職名 = [[File:Kommunistische Partei Deutschlands, Logo um 1920.svg|25px]] [[ドイツ共産党]]<br/>第7代議長 (第一議長)
|職名 = {{Flagicon|DEU1919}} [[国会 (ドイツ)|ドイツ国会議員]]
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|当選回数 = 6回
|職名2 = [[File:RFB Emblem - Roter Frontkaempfer Bund Logo 1.png|25px]] [[赤色戦線戦士同盟]]隊長
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|退任理由 = ドイツ共産党非合法化
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'''エルンスト・テールマン'''({{lang-de-short|Ernst Thälmann}}、[[1886年]][[4月16日]] - [[1944年]][[8月18日]])は、[[ヴァイマル共和政|ワイマール共和期]]の[[ドイツ]]の[[政治家]]。[[ドイツ共産党]] (KPD) の党首。テールマン率いるドイツ共産党は、[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチス党)およびその党首[[アドルフ・ヒトラー]]と激しく対立し、選挙や街頭で争っていた。ナチス政権の誕生後に[[ゲシュタポ]]によって逮捕され、後に[[ブーヘンヴァルト強制収容所]]へ送られて同地で殺害された。
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}}

{{基礎情報 軍人
|氏名 = エルンスト・テールマン
|各国語表記 = {{lang|de|Ernst Thälmann}}
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|画像説明 =
|渾名 =
|所属国 = [[File:Flag of Germany (1867–1918).svg|25px]] [[ドイツ帝国]]<br/>[[File:Flag of Germany (3-2 aspect ratio).svg|25px]] [[ヴァイマル共和国]]
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|軍歴 = [[1906年]] – [[1907年]]<br/>[[1915年]] – [[1918年]]<br/>[[1924年]] – [[1929年]]
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|除隊後 = 共産主義者、政治家
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|署名 =
}}

'''エルンスト・テールマン'''({{lang-de-short|Ernst Thälmann}}、[[1886年]][[4月16日]] - [[1944年]][[8月18日]])は、[[ヴァイマル共和政]]期の[[ドイツ]]の[[共産主義]]者、[[政治家]]。[[ドイツ共産党]]の[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]化を押し進め、党の独裁体制を完成させた。

== 概要 ==

小学校しか出ていない無学な労働者出身だが、[[ドイツ共産党]] (KPD)の左派として頭角を現す。[[ソビエト連邦]]の指導者[[ヨシフ・スターリン]]および[[コミンテルン]]の方針に忠実だったため、[[1925年]]に[[ルート・フィッシャー]]がスターリンの不興を買って失脚した後にスターリンの後援を受けてドイツ共産党の議長に就任した。党を[[スターリン主義]]化し、独裁的な党指導や個人崇拝を推し進めた。テールマン率いる共産党は、選挙や街頭闘争において[[ドイツ社会民主党]](SPD)や[[国家社会主義ドイツ労働者党]](NSDAP、ナチ党)と勢力を争ったが、[[1933年]]にナチ党が政権を掌握すると逮捕され、[[1944年]]に[[ブーヘンヴァルト強制収容所]]で殺害された。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== ドイツ帝国時代 ===
=== 共産党入党前 ===
[[1886年]][[4月16日]]に[[ドイツ帝国]][[帝国自由都市|自由都市]][[ハンブルク]]の雑貨商人ヨハネス・テールマン{{small|(Johannes Thälmann)}}とその妻マグダレーナ{{small|(Magdalena, 旧姓Kohpeiss)}}の息子として生まれる<ref name="LeMO">{{cite web |url=https://www.dhm.de/lemo/biografie/ernst-thaelmann|title=Ernst Thälmann 1886-1944|website=LeMO - Lebendiges Museum Online|access-date=2018年6月26日}}</ref>。
[[ファイル:Ernst-Thaelmann.jpg|left|thumb|150px|[[ワイマール]]市に立つテールマン像]]


[[1892年]]から[[1893年]]にかけて両親が[[横領罪]]で1年の[[懲役]]を食らったため、[[里親]]の下で過ごした<ref name="LeMO"/>。1893年から[[1900年]]までハンブルクの[[小学校]]{{small|(Volksschule)}}で学んだ後、家業を手伝うようになる<ref name="LeMO"/>。
[[ドイツ帝国]]の[[帝国自由都市|自由都市]][[ハンブルク]]の雑貨商人ヨハネス・テールマンの息子として生まれる。1900年にハンブルクの小学校を卒業したあと、父の家業を手伝うようになる。1904年からは貨物船の[[火夫]]として働いたが、彼は[[ドイツ社会民主党]]に所属していて当時から労働運動に熱心であったため、1913年にこの仕事を解雇された。1915年1月には[[第一次世界大戦]]によりドイツ帝国陸軍に徴兵された。1917年末にドイツ社会民主党から左翼が分離した[[ドイツ独立社会民主党]]に参加している。[[ドイツ革命]]の際には[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]にあった。この頃、靴屋の娘の{{仮リンク|ローザ・テールマン|label=ローザ・コッホ|de|Rosa Thälmann}}と出合い結婚、1919年には一人娘{{仮リンク|イルマ・テールマン |label=イルマ|de|Irma Thälmann}}が生まれている。


[[1902年]]から[[1903年]]にかけて{{仮リンク|シュレースヴィヒ=ホルシュタイン第9徒歩砲兵連隊|de|Schleswig-Holsteinisches Fußartillerie-Regiment Nr. 9}}に所属したが、[[思想]]的に怪しまれて解任された<ref name="LeMO"/>。
=== KPD入党 ===
ドイツの敗戦後、ドイツ独立社会民主党は[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[コミンテルン]]に参加するか否かでさらに党が分裂した。コミンテルン参加派は1920年12月に[[ドイツ共産党]] (KPD) に参加し、テールマンもこの流れに属した。合同党大会においてテールマンはすぐに党中央委員に選出されている。またハンブルク地区の委員長となった。1921年夏には[[モスクワ]]の第三回コミンテルン会議にドイツ共産党の代表で出席している。[[ウラジーミル・レーニン]]と会見を持った。共産党党首{{仮リンク|ハインリヒ・ブランドラー|de|Heinrich Brandler}}により党中央に配属された。1922年6月には右翼から手榴弾を投げつけられたが、生き残っている。1923年10月にはハンブルクで起きた労働者の一揆の組織化を支援した。しかし一揆は失敗し、テールマンはしばらく地下に潜った。レーニン死去の知らせを聞くと再度[[モスクワ]]を訪れ、[[ソ連共産党]]よりレーニンの棺を護衛する任務を与えられた。


1903年に[[ドイツ社会民主党]](SPD)に入党<ref name="LeMO"/>。[[1904年]]から[[1915年]]までハンブルクの[[沖仲仕|港湾労働者]]、[[造船所]]労働者、[[倉庫]]労働者、[[蒸気船]]の[[火夫]]、[[馬車]]引きなど職を転々として働き、ドイツ貿易・運輸・交通労働者中央労働組合{{small|(Zentralverbands der Handels-, Transport- und Verkehrsarbeiter Deutschlands)}}で活動した<ref name="LeMO"/>。[[1906年]]には[[秘密警察|政治警察]]からマークされた<ref name="LeMO"/>。[[1913年]]には[[ローザ・ルクセンブルク]]の[[ストライキ]]の呼びかけを支持した<ref name="LeMO"/>。
=== KPD議長 ===
[[ファイル:Ernst Thaelmann Berlin.JPEG|left|thumb|250px|東ドイツ政府が建てた、[[ベルリン]]の[[プレンツラウアー・ベルク]]にあるテールマン記念碑]]


[[第一次世界大戦]]中の[[1915年]]1月に[[ドイツ陸軍|陸軍]]の[[召集令状]]を受けたのを機に靴屋の娘{{仮リンク|ローザ・テールマン|label=ローザ・コッホ|de|Rosa Thälmann}}と結婚した。彼女との間に一人娘{{仮リンク|イルマ・テールマン |label=イルマ|de|Irma Thälmann}}を儲けている<ref name="LeMO"/>。1915年から[[1918年]]にかけて陸軍に[[従軍]]し、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]へ出征した<ref name="LeMO"/>。[[二級鉄十字章]]、{{仮リンク|ハンザ同盟十字章|de|Hanseatenkreuz}}、[[戦傷章]]などを受勲した<ref name="ETGL">Ernst Thälmann: ''Gekürzter Lebenslauf, aus dem Stegreif niedergelegt, stilistisch deshalb nicht ganz einwandfrei.'' 1935, In: Institut für Marxismus-Leninismus beim ZK der SED (Hrsg.): ''Ernst Thälmann: Briefe – Erinnerungen.'' Dietz Verlag, Berlin 1986.</ref>。
テールマンは共産党内で左派に属し、過激な武力革命を推進した。1924年2月19日の[[ハレ (ザーレ)|ハレ]]での第4回中央委員会においてテールマンは右派のブランドラー党中央執行部を激しく攻撃。中央委員会は全会一致で指導部の入れ替えを行うことを決議し、左派が党を牛耳った。テールマンは議長代理に就任した。5月には[[1924年5月ドイツ国会選挙|第二回国会議員選挙]]に出馬して[[国会 (ドイツ)|国会議員]]にも当選。また同年の夏にモスクワで行われた第5回コミンテルン大会ではコミンテルンの執行委員に選出されている。1925年2月にはドイツ共産党の私兵部隊「[[赤色戦線戦士同盟]]」の議長となった。さらに同年10月にドイツ共産党議長(党首)に就任し、同年末[[1925年ドイツ大統領選挙|ドイツ大統領選挙]]に出馬した。第一次世界大戦の総指揮を執った旧帝政軍人で保守主義者の[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]、[[ドイツ社会民主党|社民党]]や[[カトリック教会|カトリック]]などリベラル勢力の支持を受けた[[中央党 (ドイツ)|中央党]]の[[ヴィルヘルム・マルクス]]の両名と争ったが、選挙は事実上ヒンデンブルクとマルクスの[[一騎討ち]]となり、僅差でヒンデンブルクが勝利している。テールマンは6.97%の得票率しか得られず問題外の[[泡沫候補]]に終わった。


1918年[[10月]]に帰国し、[[ドイツ革命]]の最中の11月に[[ドイツ独立社会民主党]](USPD)に入党している<ref name="LeMO"/>。独立社民党と所属労働組合内において頭角を現す{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=184}}。
しかしその後、[[世界大恐慌]]などによりドイツが社会的・経済的混乱にさらされると極端な右翼と左翼が国民の支持を集めるようになり、極右のナチス党と極左の共産党が大きく躍進することとなった。[[1930年ドイツ国会選挙|1930年の国会選挙]]ではナチスは18.3%の得票を得て一気に第二党となり、共産も13.1%の得票を得て社民とナチスに次ぐ第三党の地位を確立した。ナチス党の戦闘部隊「[[突撃隊]] (SA)」と共産党の戦闘部隊「赤色戦線戦士同盟 (RFB)」の殴り合いがあちこちの都市の街頭で発生するようになり、何百人もの死傷者が発生するようになった。しかしこのような乱闘騒ぎが増えたことも両党の党員数が急増したことを物語っている(一方この時期には労働争議など一定の分野でナチスと共産党に共闘関係が見られたが、ナチス・共産両党は社民党とは絶対に共闘関係を取ろうとしなかった)。


=== ドイツ共産党入党 ===
しかし、テールマン率いる共産党は[[財界]]や保守主義者など富裕層と明確に敵対したうえ、社民党など穏健左派勢力とも敵対していた。共産党は社民党を「[[社会ファシズム論|社会ファシズム]]」(これはコミンテルンの方針であった)と呼び、社民党は共産党を「浮浪者によって結成された軍国主義団体」と呼んでお互いに誹謗し合っていた。共産党は完全に孤立した状態となり、まとまった額の資金提供をしてくれるのは[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]ぐらいになっていた。一方ナチス党の方は財界をはじめ保守主義者と協力する余地が十分にあり、上流階級出身の[[ヘルマン・ゲーリング]]などの働きにより財界から多額の経済支援を取り付けることに成功した。この差が最初に物を言ったのは[[1932年ドイツ大統領選挙|1932年2月の大統領選挙]]であった。
[[1920年]]に独立社民党が[[コミンテルン]]に参加するか否かで分裂し、コミンテルン参加派は1920年12月に[[ドイツ共産党]] (KPD) と合流、テールマンもこの流れに属した。合同党大会においてテールマンは党中央委員に選出された{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=184}}。戦後もハンブルクで職を転々として暮らしていたテールマンは、ハンブルク地区委員長に就任している{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=184}}。


コミンテルンの[[暴力革命]]指令により党は[[1921年]][[3月]]に[[マンスフェルト]]を中心に武装蜂起を起こしたが、中央政府から派遣されてきた[[ヴァイマル共和国軍|軍]]に鎮圧されて失敗に終わった({{仮リンク|中央ドイツ3月闘争|label=3月闘争|de|Märzkämpfe in Mitteldeutschland}})。党指導部はこの3月闘争の失敗の弁明のため「学のないテールマン」を1921年6月から7月の第3回コミンテルン大会に代表として送った{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=184}}。この際に[[ウラジーミル・レーニン]]と初めて会見を持った。
=== 1932年大統領選挙 ===
[[ファイル:Ernst Thaelmann Werdau1.JPG|thumb|right|150px|{{仮リンク|ヴェルダウ|de|Werdau}}に立つエルンスト・テールマンの記念碑]]
この選挙では再選を目指すヒンデンブルクのほか、ナチス党のヒトラー、共産党のテールマン、[[鉄兜団、前線兵士同盟|鉄兜団]]の[[テオドール・ディスターベルク]]などが出馬した。共産党は「ヒンデンブルクへの投票はヒトラーへの投票と同じ。ヒトラーへの投票は戦争への投票と同じ。」をスローガンに掲げて選挙活動をおこなったが、テールマンの得票は13.24%と振るわなかった。一方のヒトラーは財界の支援で購入した[[飛行機]]を使った遊説などで国民に鮮烈にイメージを残し、また保守主義者の代表格ヒンデンブルクに対しても露骨な批判は避け、「ヒンデンブルクには敬意を。ヒトラーには票を。」をスローガンにして選挙戦を戦った。結果、ナチス党は共産党と大きく差をつける30.12%の得票を獲得し、現役大統領であるヒンデンブルクの得票も49.54%に抑えた。大統領になるには過半数の投票が必要であったのでヒンデンブルク、ヒトラー、テールマンの上位三名による決選投票が行われたが、この選挙でヒトラーはさらに36.77%に得票を伸ばしている。一方の共産党のテールマンは10.16%と一次選挙よりも得票を減らしている。この決選投票自体は53.05%の得票率を得たヒンデンブルクの勝利に終わったが、この選挙結果はナチス党が共産党に大きく差をつけ始めていたことを如実に物語っていた。


党内においてテールマンは[[ルート・フィッシャー]]や{{仮リンク|アルカディ・マズロー|de|Arkadi Maslow}}らと並ぶ左派の代表的人物であり、党議長{{仮リンク|ハインリヒ・ブランドラー|de|Heinrich Brandler}}の「統一戦線戦術」や「労働者政府」(社民党内や労働組合内の反指導部層と共闘して[[プロレタリア革命]]へ誘導する戦術)といった[[右翼|右派]]方針に反対していた。社民党は断固粉砕し、仮借なきプロレタリア革命を遂行すべきとする立場だった{{sfn|林健太郎|1963|p=113-114}}。
さらに[[1932年7月ドイツ国会選挙|同年7月に行われた国会選挙]]でも共産党が14.5%の得票率にとどまったのに対してナチスは37.4%の得票率で他党を圧倒し、社民党をも抜いて国会第1党となっている(共産党はナチスと社民党に次ぐ第三党)。続く[[1932年11月ドイツ国会選挙|11月の国会選挙]]では共産党の得票率は16.9%に上昇し、ナチスは得票率を33.1%に落とし、多少は差が縮まったものの、依然としてナチスが第1党の地位を保持し、共産党は社民党に次ぐ第三党に留まった。

ブランドラー指導部は「統一戦線戦術」を旨とする右派が多数を占めており、左派は排除されていたが、[[1923年]]5月にはブランドラー指導部とコミンテルンの協議の結果として、テールマンやフィッシャーら左派も指導部に入ることになった{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=31}}。

=== 1923年10月の武装蜂起計画をめぐって ===
1923年秋にコミンテルンが再び暴力革命方針へ転換、これを受けてブランドラー指導部は「統一戦線戦術」「労働者政府」の方針と組み合わせた武装蜂起計画を策定。その計画に基づき、1923年10月にザクセン州やテューリンゲン州の社民党左派政権に共産党員を入閣させたうえで、中部ドイツから革命軍事行動を起こす準備を開始した{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=174-176}}。

事態を危険視したベルリン政府は[[10月20日]]にも大統領緊急令によりザクセン政府の解任を宣言し、国防軍をザクセンへ出動させた。共産党はこれに対抗して[[ゼネラル・ストライキ|ゼネスト]]と[[武装闘争]]を決定したが、[[ケムニッツ]]の会議で社民党左派から武装蜂起の同意を得られなかったため、共産党も退却を決定するしかなくなった{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=174-175}}。ケムニッツ会議が行われている間、武装蜂起命令書を携えた伝令たちが会議室の前で決定を待っていたが、会議室から出てきたテールマンは独断で「行け!出発!順番に!」と指示して伝令たちを走らせた。これを知ったブランドラーは伝令たちを追いかけ、駅で引き留めたが、ハンブルクへの伝令だけは間に合わず、[[10月24日]]から[[10月26日|26日]]にかけてハンブルクで数百人の共産党員の武装蜂起が起きた。しかしこの蜂起は[[警察]]によってただちに鎮圧された{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=179}}。

その後、国防軍はさしたる抵抗にあうこともなく[[10月29日]]にザクセン首都[[ドレスデン]]へ入城し、[[10月30日]]にザクセン州政府を解体。数日後にはテューリンゲン州政府も同様の末路をたどった{{sfn|林健太郎|1963|p=114}}。共産党の蜂起計画は完全な失敗に終わった。

=== 左派指導部の幹部 ===
テールマンら左派はこの10月敗北の原因をブランドラー指導部の右派的方針に求めた。すなわちブランドラーが「統一戦線戦術」「労働者政府」の方針で社民党左派との共闘に固執して革命を裏切った結果であると批判した{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=181-183}}。

折しも[[ソビエト連邦|ソ連]]ではレーニンの後継者を巡る[[政争|権力闘争]]の最中であり、[[トロイカ体制|トロイカ]](ジノヴィエフ、[[レフ・カーメネフ|カーメネフ]]、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]])と[[レフ・トロツキー|トロツキー]]及びその友人[[カール・ラデック]]の対立が起きていた。そのため両陣営間で10月敗北の責任の押し付け合いが発生し、最終的にはブランドラーとラデックに全責任があるとされた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=183}}。ブランドラーの党内の立場は地に落ち、1924年[[2月19日]]の[[ハレ (ザーレ)|ハレ]]での第4回中央委員会においてテールマンはブランドラーを激しく攻撃。中央委員会は全会一致で指導部の入れ替えを行うことを決議した{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=186}}。

代わってフィッシャーやマズローを議長とした左派指導部が発足した。テールマンも政治局入りを果たすとともに{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=193}}、党の副議長に就任した<ref name="LeMO"/>。同年5月には[[1924年5月ドイツ国会選挙|国会議員選挙]]に立候補して[[国会 (ドイツ)|国会議員]]に当選<ref name="LeMO"/>。また同年夏に[[モスクワ]]で行われた第5回コミンテルン大会でコミンテルンの執行委員に選出されている<ref name="LeMO"/>。1924年から[[1929年]]にかけては共産党の[[私兵]]部隊「[[赤色戦線戦士同盟]]」の議長も務めた<ref name="LeMO"/>。

1925年3月と4月に行われた[[1925年ドイツ大統領選挙|大統領選挙]]に出馬した。旧帝政軍人で[[保守]]主義者の[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]、[[ドイツ社会民主党|社民党]]や[[カトリック教会|カトリック]]など[[リベラル]]勢力の支持を受ける[[中央党 (ドイツ)|中央党]]の[[ヴィルヘルム・マルクス]]の両名と争ったが、選挙は事実上ヒンデンブルクとマルクスの[[一騎討ち]]となり、ヒンデンブルクが僅差で勝利している。テールマンは[[泡沫候補]]に終わった。ヒンデンブルクとマルクスの票差は僅差であったため、テールマンのせいでリベラル・左翼票が割れた面がある{{sfn|林健太郎|1963|p=123}}。

=== 共産党議長に就任 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 183-U0302-303, Berlin-Friedrichsfelde, Einweihung Gedenkstätte.jpg|250px|thumb|1926年に{{仮リンク|フリードリヒスフェルデ中央墓地|de|Zentralfriedhof Friedrichsfelde}}に建設された{{仮リンク|革命記念碑|de|Revolutionsdenkmal}}の前で演説するテールマン]]
左派の[[レフ・トロツキー|トロツキー]]との闘争から右旋回したスターリンの影響を受けてコミンテルンは、1925年に再び「統一戦線戦術」をとるべきことをドイツ共産党に命じた。フィッシャーやマズローはコミンテルン方針に従ったものの、スターリンから忠誠を疑われ、その圧力で1925年秋に失脚した{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=221}}。一方テールマンは、フィッシャーやマズローと手を切ってスターリンに絶対忠誠を誓う左派の派閥(親コミンテルン左派)のリーダーとなり、スターリンの後援を受けて、1925年10月に党議長に就任した{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=36/40/221}}。

議長就任から2、3年間のテールマンの党指導は、親コミンテルン左派を中心としつつ、[[エルンスト・マイヤー (政治家)|エルンスト・マイヤー]]ら調停派(中間派)も指導部に取り込んで、ブランドラーあるいはフィッシャーの「左右の行き過ぎ」を避けて中間的な路線を取り、反対派(特にフィッシャーら左派反対派や[[ヴェルナー・ショーレム|ショーレム]]ら極左反対派)を抑えこむものだった。この路線は[[1928年]]から1929年頃に極左路線へ転換するまで維持された。この中間路線はトロツキーとジノヴィエフに対する闘争で[[ニコライ・ブハーリン|ブハーリン]]ら右派の協力を得ながらも左派回帰の可能性も閉ざしていなかったスターリンの方針に並行するものだった{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=222}}。

=== ウィトルフ事件 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 183-Z0127-305, Berlin 1927, Reichstreffen RFB, Thälmann, Leow.jpg|thumb|250px|[[赤色戦線戦士同盟]]を率いて行進するテールマン(中央左)。中央右は{{仮リンク|ヴィリー・レオー|de|Willy Leow}}(1927年6月ベルリン)]]
1928年になるとスターリンの指示でコミンテルンは再び左旋回した{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=40}}。これは左派の政敵を片付けたスターリンが、続いてブハーリンら右派の政敵の排撃を開始し、[[ネップ]]の中止、[[五カ年計画]]の開始という左派コースを取り始めたためである{{sfn|林健太郎|1963|p=169-170}}。ブハーリンはジノヴィエフ解任後にコミンテルンの第一人者となっていたため、その影響はすぐにコミンテルンとその支部(各国の共産党)に波及した{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=239}}。

早くも1928年2月のコミンテルン執行委員会拡大総会でドイツ共産党とソ連共産党の間に秘密協定が結ばれ、その中で「右派共産主義者は主敵である」と宣告された。左旋回が公然化されたのは1928年7月から8月にかけての第6回コミンテルン世界大会だった。テールマンはそれに従って右派と調停派を計画的にポストから追放していった{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=40/240-241}}。

追いつめられた右派と調停派はテールマンに近いハンブルク地区党書記・中央委員{{仮リンク|ヨーン・ウィトルフ|de|John Wittorf}}が党の公金を横領し、テールマンがそれをもみ消した事件を中央委員会で取り上げることで反撃に打って出た。1928年9月25日と26日の中央委員会は調停派エーベルラインや右派{{仮リンク|エーリヒ・ハウゼン|de|Erich Hausen}}らの主導でテールマンに有罪判決を下し、テールマンの職務の停止を決議した{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=40/242}}。

しかしここでスターリンが介入し、テールマンを失脚させてはならぬとの指令が{{仮リンク|ヘルマン・レンメレ|de|Hermann Remmele}}を通じてドイツ共産党に下され、10月6日にはコミンテルン執行委員会幹部会もテールマン復権を決議している{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=40/242}}。中央委員の大多数は、このモスクワからの圧力に怯え、テールマンの職務停止を解除するとともに「右派と調停派はハンブルク事件を利用した」とする決議を出した。スターリンとテールマンは間髪入れず右派と調停派に対して殲滅的攻撃を開始し、右派と調停派はことごとく中央委員会から叩き出され、テールマン、レンメレ、{{仮リンク|ハインツ・ノイマン|de|Heinz Neumann (Politiker)}}の「三頭政治」が党を引き継いだ{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=40/243}}。
{{multiple image
|footer = ヘルマン・メンメレ(左)とハインツ・ノイマン(右)
|image1 = Hermann Remmele.jpg
|alt1 = ヘルマン・メンメレ|width1 = 140
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|alt2 = ハインツ・ノイマン|width2 = 150
}}

=== 右派粛清とテールマン独裁体制の確立 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 102-12940, Ernst Thälmann.jpg|thumb|1932年1月のテールマン]]
1928年から1929年にかけて粛清が吹き荒れ右派全員(ブランドラー、{{仮リンク|ベルタ・タールハイマー|de|Bertha Thalheimer}}、{{仮リンク|パウル・フレーリヒ|de|Paul Frölich}}、{{仮リンク|ヤコブ・ワルヒャー|de|Jacob Walcher}}、{{仮リンク|ハンス・ティテル|de|Hans Tittel}}、ハウゼンら)が党から除名され、調停派も解任された{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=40/243}}。これ以降もはやいかなる反対派も党内に存在することは許されなくなり、1929年6月の党大会までには党のスターリン主義化を完成させた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=41}}。組織された反対派が消されたことにより、党内抗争はなくなり、指導部の方針への逸脱は個々の除名、処分によって阻止されるようになった{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=50-51}}。ここにドイツ共産党はソ連共産党のスターリン体制をそのまま移植したテールマンの独裁政党となったのだった{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=41-43}}。

またソ連で盛んになりつつあったスターリン個人崇拝に倣ったテールマン個人崇拝も進んだ。この点において共産党は[[国家社会主義ドイツ労働者党]](NSDAP,ナチス)の総統[[アドルフ・ヒトラー]]にライバル意識を燃やしていた。ヒトラーに対してテールマンを「プロレタリアートの総統」として対抗させることができるし、させなければならぬと考えていた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=243}}。

=== 「社会ファシズム論」 ===
1928年の第6回コミンテルン世界会議が「[[社会ファシズム論]]」を強化させて社会民主主義を主敵と定める方針を採択すると、テールマン率いるドイツ共産党もドイツ社民党への闘争を強化した。この極左戦術で共産党の過激化が強まり、特に党の実力組織である赤色戦線戦士同盟は荒れ狂い、ナチスの[[突撃隊]](SA)や社民党の[[国旗団 (ドイツ社会民主党)|国旗団]]と武力衝突を起こす事が増えた{{sfn|モムゼン|2001|p=221}}。

1929年5月の{{仮リンク|血のメーデー事件 (1929年)|de|Blutmai|label=血のメーデー事件}}を機に社共対立は絶頂に達した。社民党政府は赤色戦線戦士同盟を非合法化したり、共産党集会を禁じたりするなど共産党への弾圧を強化し、共産党は「社会ファシズム論」にますます傾斜した<ref>{{harvnb|阿部良男|2001|p=154}}, {{harvnb|モムゼン|2001|p=221}}</ref>。1931年夏にナチ党がプロイセン州社民党政府打倒を狙って起こしたプロイセン州議会解散を求める国民請願運動には共産党も参加するなど、社民党に対する闘争の範囲内においては、ナチ党との共闘も厭わなくなっていった{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=269-270}}。

1929年から1930年にかけては社民党系労組中央組織{{仮リンク|ドイツ労働組合総同盟|de|Allgemeiner Deutscher Gewerkschaftsbund}}(ADGB)の分裂を促し、共産党系労組中央組織{{仮リンク|革命的労働組合反対派|de|Revolutionäre Gewerkschafts-Opposition}}(RGO)を結成させた{{sfn|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=263}}。

=== 選挙の躍進 ===
[[File:Stimmzettel zur Reichspräsidentenwahl 1932.jpg|180px|thumb|1932年大統領選挙の際の投票用紙。上から[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]、テールマン。]]
1929年の[[世界恐慌]]以降、大衆の急進化で共産党の人気は高まった。1930年9月14日の[[1930年ドイツ国会選挙|国会選挙]]では、共産党は社民党支持層の票を吸って得票を133万票増加させて13.1%の得票率を得て77議席(総議席577議席)を獲得し、社民党とナチ党に次ぐ第3党となった{{sfn|モムゼン|2001|p=287}}。

1932年春にはヒンデンブルクの大統領任期切れから[[1932年ドイツ大統領選挙|大統領選挙]]が行われた。1925年の時と同様に共産党からはテールマンが立候補した<ref>{{harvnb|林健太郎|1963|p=175-176}}, {{harvnb|モムゼン|2001|p=372}}</ref>。テールマンの他には再選を目指すヒンデンブルク、ナチ党のヒトラー、[[鉄兜団、前線兵士同盟|鉄兜団]]の[[テオドール・デュスターベルク]]などが出馬した。テールマンは「ヒンデンブルクへの投票はヒトラーへの投票と同じ。ヒトラーへの投票は戦争への投票と同じ(Wer Hindenburg wählt, wählt Hitler, wer Hitler wählt, wählt den Krieg)」を選挙スローガンにして選挙戦を戦ったが、3月13日の投開票の結果、ヒンデンブルク1865万票、ヒトラー1133万票、テールマン490万票、デュスターベルク255万票という結果に終わった。過半数に達した候補がなかったため、第2次投票が行われることとなった。第2次選挙にはヒンデンブルク、ヒトラー、テールマンの3人が立候補したが、4月10日の投開票の結果、ヒンデンブルク1939万票、ヒトラー1341万票、テールマン370万票という結果となりヒンデンブルクが大統領に当選した{{sfn|阿部良男|2001|p=193-194}}。

1932年7月31日の[[1932年7月ドイツ国会選挙|国会選挙]]では得票率14.3%へと得票を増やし、89議席(総議席608議席)を獲得、同年11月6日の[[1932年11月ドイツ国会選挙|国会選挙]]でも得票率16.8%に増やし、100議席(総議席584議席)を獲得し、ナチ党と社民党に次ぐ第3党の地位を維持し続けた<ref>{{harvnb|阿部良男|2001|p=200-201}}, {{harvnb|モムゼン|2001|p=415/437}}</ref>。とりわけナチ党も社民党も得票を減らして共産党だけが得票を伸ばした1932年11月6日の選挙は共産党を有頂天にさせ、党はこの成功を過大評価した{{sfn|モムゼン|2001|p=447}}。

=== ノイマンとレンメレの失脚 ===
1932年初頭には最高指導部(テールマン、ノイマン、レンメレ)の仲が険悪になっていた。そのためテールマンはノイマンの影響力が強い党中央委員会書記局を全く無視するようになり、秘書{{仮リンク|ヴェルナー・ヒルシュ|de|Werner Hirsch}}をはじめとする取り巻きたちの中に第二の書記局のようなものを作り、そこからノイマンやレンメレに対して陰謀を仕掛けるようになったという{{sfn|星乃治彦|2001|p=18-19}}。

3月13日の大統領選挙第一次投票でテールマンが惨敗した。これについて3月14日の書記局会議でノイマンが間接的にだがテールマンに批判的な総括文を提起したことで、テールマンとノイマンの対立が絶頂に達した。しかし4月10日の段階ではすでにノイマンとレンメレは解任されていたようである。2人によれば書記局の決議も議論もなしにテールマンの一存だけで役職を取り上げられたという{{sfn|星乃治彦|2001|p=21-25}}。

5月14日にはこの対立についてコミンテルン執行委員会の政治委員会協議がもたれ、17日に「最近の党最高指導部におけるレンメレとノイマン両同志の挙動は、断固として処罰される。というのもその挙動によって最高指導部の破壊の危険性を作り出し、党指導部の行動を麻痺させたからである。ノイマン同志は6ヶ月の期間 KPD以外の国際的活動に従事する。レンメレ同志は、テールマン同志との緊密に共同して積極的に党の最高指導部の中で活動しなければならない」とする決定が下された。この際に人事も決定されたが、ノイマン・グループを中枢部から遠ざけ、テールマンの取り巻きたちを重用する物だった{{sfn|星乃治彦|2001|p=25-26}}。

この決定にはスターリン自らが関与したといわれる。ノイマンは1927年12月に広東コミューン創設のために派遣されるなどスターリンの信任の厚い人物だったものの、スターリンにとってはテールマンの方が優先だったようである。歴史家{{仮リンク|クラウス・キンナー|de|Klaus Kinner}}によれば「スターリンは、若く勤勉で野心をもったノイマンよりもテールマンの方を、ソ連邦以外で最も重要なセクションにあって容易に自分が影響力を行使できる指導者だと見なしていた」という{{sfn|星乃治彦|2001|p=26}}。


=== 逮捕・死去 ===
=== 逮捕・死去 ===
1933年1月30日にナチ党党首[[アドルフ・ヒトラー]]が[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領から首相に任命された{{sfn|阿部良男|2001|p=213-216}}。2月1日に国会が解散されて選挙戦へ突入したが{{sfn|阿部良男|2001|p=213-216}}、2月4日には野党の行動を制限する「[[ドイツ民族保護のための大統領令]]」が発令され、2月初めには共産党は機関紙・集会の禁止、党地方局への捜査と押収、党職員の逮捕などで全く防衛的な立場に追いやられた{{sfn|モムゼン|2001|p=481/485}}。
[[File:Stamps of Germany (DDR) 1976, MiNr 2107.jpg|200px|thumb|[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]が発行したテールマンの切手]]
1933年1月、二度の国会選挙の結果によりヒンデンブルク大統領はアドルフ・ヒトラーを首相に任命することとなった。危機意識をもった共産党は社民党に反ナチス共闘を持ちかけるようになった。しかし社民党と共産党は先に述べた経緯で敵対関係にあったため、共闘は拒否された。そして2月には[[ドイツ国会議事堂放火事件]]が発生し、ナチス政権は{{仮リンク|オランダ共産党|de|Communistische Partij van Nederland}}員の[[マリヌス・ファン・デア・ルッベ]]が逮捕されたことを理由に「ドイツ共産党が放火の黒幕」と断定し、共産党を非合法政党とした。共産党の議席は再選挙を行わずそのまま議席ごと抹消され、ナチス党は国会の単独過半数を獲得した。[[プロイセン州]]内相となっていたヘルマン・ゲーリングはプロイセン州警察に自らが新設したばかりの政治警察[[ゲシュタポ]]に共産党員たちの逮捕を急がせた。テールマンも3月3日にゲシュタポにより逮捕された。テールマンには二人の国選[[弁護士]]がつけられたが、その二人の弁護士はいずれもナチス党員だった。それでもテールマンは法廷の場でヒトラーを告発しようとしたが、国会議事堂放火事件の裁判で[[ゲオルギ・ディミトロフ]]に反論を許して有罪にすることに失敗したばかりのナチス政権は、彼に反論の機会を与えないため、一向に裁判を始めようとはせず、テールマンを11年にもわたって独房で未決拘留し続けた。その間にも尋問と拷問だけは行われ、尻や顔や背中を鞭で打たれ、歯も4本折られた<ref>『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』94ページ</ref>。


さらに選挙期間中の2月27日に[[ドイツ国会議事堂放火事件|国会議事堂放火事件]]が発生し、オランダ共産党員[[マリヌス・ファン・デア・ルッベ]]が犯人として逮捕されると、プロイセン内相[[ヘルマン・ゲーリング]]は国際共産主義運動全体の陰謀と見做し、2月28日に制定された事実上の戒厳令「[[ドイツ国民と国家を保護するための大統領令]]」に基づき、共産党員4000人を逮捕、共産党の機能はほぼ完全に停止した<ref>{{harvnb|阿部良男|2001|p=220-221}}, {{harvnb|フレヒトハイム|ウェーバー|1980|p=280}}</ref>。追いつめられた共産党は、長年ライバル関係にある社民党に対し「ファシストの攻撃に対抗する行動の統一戦線」を求めたが、共産党は依然としてコミンテルン方針である「社会ファシズム論」の縛りを受けていたので共闘を求めながら罵倒を止めない矛盾した態度を取り続けた結果、社民党から拒絶された{{sfn|モムゼン|2001|p=485}}。[[3月5日]]の選挙の結果、共産党は81議席を獲得したが、直後の[[3月9日]]に共産党議員の議員資格が議席ごと抹消されたため、総議席が減少してナチ党が単独過半数を獲得した{{sfn|阿部良男|2001|p=222}}。
1944年8月には[[ブーヘンヴァルト強制収容所]]へ移送の上、[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊 (SS)]] 隊員により銃殺された。ナチスは元社民党の{{仮リンク|ルドルフ・ブライトシャイト|de|Rudolf Breitscheid}}と共に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]のブーヘンヴァルト空爆により死亡したと虚偽の発表をした。なお妻ローザと娘イルマは、テールマン殺害に先立ち逮捕され、[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]及びその付属収容所に送られたが、二人とも生きて終戦を迎えることができた。

テールマン自身は[[3月3日]]にベルリンの自宅で[[逮捕]]されている{{sfn|阿部良男|2001|p=221}}。1933年から1937年にかけて{{仮リンク|モアビット刑務所|de|Justizvollzugsanstalt Moabit}}に拘留された<ref name="LeMO"/>。容赦のない尋問を受け、尻や顔や背中を[[カバ]]の皮の鞭で打たれ、歯も4本折られた{{sfn|バトラー|2006|p=94}}。1935年には刑事裁判待ちの拘留から保護拘禁に切り替えられた<ref name="LeMO"/>。

収監中、テールマンは自分の処遇についての詳細な描写を密かに文書にして持ち出すことに成功した。"ズボンを脱ぐように命じられ、二人の男に首の後ろをつかまれ、踏み台に挟まれた。制服を着たゲシュタポの将校がカバの皮の鞭を手に、私の臀部を一定のストロークで叩いた。痛みで気が狂いそうになった私は、何度も大声で叫んだ。それからしばらく口をふさがれ、顔と胸と背中を鞭で殴られた。それから私は倒れ、床に転がり、常に顔を伏せ、彼らの質問には何も答えなくなった。"

1937年から1943年にかけては{{仮リンク|裁判所刑務所 (ハノーヴァー)|label=ハノーヴァー裁判所刑務所|de|Gerichtsgefängnis (Hannover)}}に収監され、ついで1943年から1944年にかけては{{仮リンク|バウツェン刑務所|de|Justizvollzugsanstalt Bautzen}}に収監された<ref name="LeMO" />。

あれほどスターリンに忠誠を尽くしてきたにもかかわらず、[[1939年]]8月に[[独ソ不可侵条約]]が締結されるやスターリンから見捨てられた。ソ連共産党は1939年の国際青少年日に際して「テールマン同志万歳」の予定になっていたスローガンをナチス政権に配慮して除去し、急遽「スターリン同志の指導によるソビエト連邦の偉大な外交政策万歳」に変更した<ref>"Slogans of Youth Show Soviet Shift". The New York Times.</ref>。またテールマンの妻ローザは独ソ不可侵条約締結後、ソ連大使館に夫の釈放のための仲裁を懇願しているが、スターリンからは無視された<ref name="LeMO"/>。

1944年8月には[[ブーヘンヴァルト強制収容所]]へ移送の上、[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊 (SS)]] 隊員により銃殺された。ナチスは元社民党の{{仮リンク|ルドルフ・ブライトシャイト|de|Rudolf Breitscheid}}と共に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]のブーヘンヴァルト空爆により死亡したと虚偽の発表をした<ref>Reiner Orth: ''Walter Hummelsheim und der Widerstand gegen den Nationalsozialismus.'' In: Landkreis Bernkastel-Wittlich: ''Kreisjahrbuch Bernkastel-Wittlich für das Jahr 2011.'' 2010, p. 336.</ref>。なお妻ローザと娘イルマは、テールマン殺害に先立ち逮捕され、[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]及びその付属収容所に送られたが<ref name="LeMO"/>、二人とも生きて終戦を迎えることができた。

== 人物 ==
素朴な人柄で大衆には人気があったがナチスや国家人民党などの保守・右翼と並んでワイマール体制に否定的であり、無条件でスターリンに盲従するだけの人物{{sfn|林健太郎|1963|p=169}}であったため、存命中より左派からも批判されていた。テールマンに近かった[[クララ・ツェトキン]]でさえも彼の指導下における党の内情を「小派閥に固まり陰謀をめぐらせ互いに敵対する」と評し、テールマンを「無学で理論的に訓練されず、自己弁護する性格で自制心に欠いている。批判的ですらない自己欺瞞と妄想にとりつかれている」<ref>{{Cite web |url=http://www.rosaluxemburgstiftung.de/fileadmin/rls_uploads/pdfs/Manuskripte_76.pdf |title=Ulla Plener"Clara Zetkin in ihrer Zeit – Neue Fakten, Erkenntnisse, Wertungen." |accessdate=2022年3月26 日}}</ref>と批判している。歴史家{{仮リンク|クラウス・キンナー|de|Klaus Kinner}}もスターリンがテールマンをドイツ共産党党首にしたのは簡単に操り人形にできる存在だったためとしている{{sfn|星乃治彦|2001|p=26}}。


== 顕彰 ==
== 顕彰 ==
戦後、ドイツ共産党の後身[[ドイツ社会主義統一党]]が支配する[[社会主義国]]・[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]が成立するとナチスの犠牲となった共産主義の闘士」<ref>伸井太一『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』社会評論社、2009年 P146</ref>であるテールマンは顕彰されるようになり、東ドイツ政府によりブーヘンヴァルトの火葬場の壁に記念額が設置された<ref>[http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GSln=Th%E4lmann&GSfn=Ernst&GSbyrel=all&GSdyrel=all&GSob=n&GRid=22376&df=all& Ernst Thälmann]、[[Find a Grave]]、2014年4月26日閲覧</ref>。また[[ピオネール]]の名称も{{仮リンク|エルンスト・テールマン・ピオネール|de|Pionierorganisation Ernst Thälmann}}と命名されたほか、[[国家人民軍地上軍]]の{{仮リンク|エルンスト・テールマン陸軍士官学校|de|Offiziershochschule der Landstreitkräfte Ernst Thälmann}}、[[ドイツ人民警察]]のエルンスト・テールマン警察学校、[[エルンスト・テールマン車両及び猟銃工場|人民公社エルンスト・テールマン車両及び猟銃工場]]など様々な施設の名称に彼の名が冠されていた。1972年、[[キューバ]]の指導者[[フィデル・カストロ]]は、キューバの無人島の一つを[[エルンスト・テールマン島]]に改称した。
戦後、ドイツ共産党の後身[[ドイツ社会主義統一党]]が支配する[[社会主義国]]・[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]が成立すると、東ドイツや[[東側諸国]]ではテールマンは「ナチスの犠牲となった共産主義の闘士」として顕彰されるようになった<ref>伸井太一『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』社会評論社、2009年 P146</ref>東ドイツ政府によりブーヘンヴァルトの火葬場の壁に記念額が設置された<ref>[https://www.findagrave.com/memorial/22376/ernst-th%25e4lmann Ernst Thälmann]、[[Find a Grave]]、2014年4月26日閲覧</ref>。また[[ピオネール]]の名称も{{仮リンク|エルンスト・テールマン・ピオネール|de|Pionierorganisation Ernst Thälmann}}と命名されたほか、[[国家人民軍地上軍]]の{{仮リンク|エルンスト・テールマン陸軍士官学校|de|Offiziershochschule der Landstreitkräfte Ernst Thälmann}}、[[ドイツ人民警察]]のエルンスト・テールマン警察学校、[[エルンスト・テールマン車両及び猟銃工場|人民公社エルンスト・テールマン車両及び猟銃工場]]など様々な施設の名称に彼の名が冠されていた。1972年、[[キューバ]]の指導者[[フィデル・カストロ]]は、キューバの無人島の一つを[[エルンスト・テールマン島]]に改称した。


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== 参考文献 ==
ファイル:Ernst Thaelmann Werdau1.JPG | 旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]政府により{{仮リンク|ヴェルダウ|de|Werdau}}に立てられたエルンスト・テールマンの記念碑
*[[オシップ・フレヒトハイム]]著、[[足利末男]]訳、『ヴァイマル共和国時代のドイツ共産党』、1972年、[[東邦出版]]
*ルパート・バトラー著、田口未和訳『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』、2006年、[[原書房]]。ISBN 978-4562039760


File:Ernst-Thälmann-Denkmal Weimar 2.JPG | [[ヴァイマル]]のブーヘンヴァルト広場にあるテールマンの銅像

File:Bundesarchiv Bild 183-71968-0001, Halle, Marktplatz, Thälmann-Denkmal.jpg | [[ハレ (ザーレ)|ハレ]]にあるテールマンの銅像

File:Bundesarchiv Bild 183-1986-0414-405, Berlin, Ernst-Thälmann-Denkmal.jpg | 旧東ドイツ政府により[[ベルリン]]の[[プレンツラウアー・ベルク]]に建てられたテールマン記念碑

File:Thälmann-Medaille,Bereit zur Verteidigung der Heimat.jpg | 1951年に東ドイツの[[自由ドイツ青年団]]で制定された{{仮リンク|テールマン・メダル|de|Thälmann-Medaille}}。


File:Ho-Chi-Minh-City Vietnam Ernst-Thälmann-High-School-01.jpg | [[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]・[[ホーチミン市]]にあるエルンスト・テールマン高校([[ベトナム語]]:trường thpt ernst thälmann)
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group=注釈|1}}
=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{reflist|30em}}
<references />

== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=阿部良男|year=2001|title=ヒトラー全記録 <small>20645日の軌跡</small>|publisher=[[柏書房]]|isbn=978-4760120581|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|date=2001年|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=秦郁彦|editor-link=秦郁彦|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|first=ルパート|last=バトラー|translator=[[田口未和]]|year=2006|title=ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語|publisher=原書房|isbn=978-4562039760|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=林健太郎|authorlink=林健太郎 (歴史学者)|year=1963|title=ワイマル共和国 :ヒトラーを出現させたもの|publisher=[[中公新書]]|isbn=978-4121000279|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=[[星乃治彦]] |date=2001-03 |title=ヴァイマル末期ドイツ共産党の党内事情 : 「ノイマン・グループ」の評価をめぐって |url=http://rp-kumakendai.pu-kumamoto.ac.jp/dspace/handle/123456789/1258 |journal=文学部紀要 |volume=7 |issue=2 |pages=1-28 |CRID=1050282812725279616 |ISSN=13411241 |publisher=熊本県立大学文学部 |ref=harv}}
*{{Cite book|和書|first=O.K.|last=フレヒトハイム|first2=H|last2=ウェーバー|translator=[[高田爾郎]]|year=1980|title=ワイマル共和国期のドイツ共産党 追補新版|publisher=ぺりかん社|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|first=ハンス|last=モムゼン|translator=[[関口宏道]]|year=2001|title=ヴァイマール共和国史―民主主義の崩壊とナチスの台頭|publisher=[[水声社]]|isbn=978-4891764494|ref=harv}}

== 外部リンク ==
* {{commonscat-inline|Ernst Thälmann|エルンスト・テールマン}}


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エルンスト・テールマン
Ernst Thälmann
1932年
生年月日 1886年4月16日
出生地 ドイツの旗 ドイツ国
自由ハンザ都市ハンブルク
没年月日 (1944-08-18) 1944年8月18日(58歳没)
死没地 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
テューリンゲン州
ブーヘンヴァルト強制収容所
出身校 ハンブルクの小学校
前職 港湾労働者、造船所労働者、倉庫労働者、蒸気船の火夫、馬車引き、陸軍軍人
所属政党 ドイツ社会民主党
ドイツ独立社会民主党
ドイツ共産党
称号 二級鉄十字章ハンザ同盟十字章ドイツ語版戦傷章
配偶者 ローザ・テールマンドイツ語版
親族 イルマ・テールマンドイツ語版(娘)

ドイツ共産党
第7代議長 (第一議長)
在任期間 1925年8月20日 - 1933年3月3日[1]

在任期間 1924年 - 1929年
共産党第一議長 エルンスト・テールマン

選挙区 第34区(ハンブルク)
当選回数 7回[注釈 1]
在任期間 1924年5月4日 - 1933年3月9日
国会議長 パウル・レーベ
ヘルマン・ゲーリング
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エルンスト・テールマン
Ernst Thälmann
所属組織 ドイツ帝国陸軍
赤色戦線戦士同盟 [注釈 2]
軍歴 1906年1907年
1915年1918年
1924年1929年
最終階級 兵 (Mannschaften) [注釈 3]
赤色戦線戦士同盟隊長
除隊後 共産主義者、政治家
テンプレートを表示

エルンスト・テールマン: Ernst Thälmann1886年4月16日 - 1944年8月18日)は、ヴァイマル共和政期のドイツ共産主義者、政治家ドイツ共産党スターリン化を押し進め、党の独裁体制を完成させた。

概要

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小学校しか出ていない無学な労働者出身だが、ドイツ共産党 (KPD)の左派として頭角を現す。ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンおよびコミンテルンの方針に忠実だったため、1925年ルート・フィッシャーがスターリンの不興を買って失脚した後にスターリンの後援を受けてドイツ共産党の議長に就任した。党をスターリン主義化し、独裁的な党指導や個人崇拝を推し進めた。テールマン率いる共産党は、選挙や街頭闘争においてドイツ社会民主党(SPD)や国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)と勢力を争ったが、1933年にナチ党が政権を掌握すると逮捕され、1944年ブーヘンヴァルト強制収容所で殺害された。

経歴

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共産党入党前

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1886年4月16日ドイツ帝国自由都市ハンブルクの雑貨商人ヨハネス・テールマン(Johannes Thälmann)とその妻マグダレーナ(Magdalena, 旧姓Kohpeiss)の息子として生まれる[2]

1892年から1893年にかけて両親が横領罪で1年の懲役を食らったため、里親の下で過ごした[2]。1893年から1900年までハンブルクの小学校(Volksschule)で学んだ後、家業を手伝うようになる[2]

1902年から1903年にかけてシュレースヴィヒ=ホルシュタイン第9徒歩砲兵連隊ドイツ語版に所属したが、思想的に怪しまれて解任された[2]

1903年にドイツ社会民主党(SPD)に入党[2]1904年から1915年までハンブルクの港湾労働者造船所労働者、倉庫労働者、蒸気船火夫馬車引きなど職を転々として働き、ドイツ貿易・運輸・交通労働者中央労働組合(Zentralverbands der Handels-, Transport- und Verkehrsarbeiter Deutschlands)で活動した[2]1906年には政治警察からマークされた[2]1913年にはローザ・ルクセンブルクストライキの呼びかけを支持した[2]

第一次世界大戦中の1915年1月に陸軍召集令状を受けたのを機に靴屋の娘ローザ・コッホドイツ語版と結婚した。彼女との間に一人娘イルマドイツ語版を儲けている[2]。1915年から1918年にかけて陸軍に従軍し、西部戦線へ出征した[2]二級鉄十字章ハンザ同盟十字章ドイツ語版戦傷章などを受勲した[3]

1918年10月に帰国し、ドイツ革命の最中の11月にドイツ独立社会民主党(USPD)に入党している[2]。独立社民党と所属労働組合内において頭角を現す[4]

ドイツ共産党入党

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1920年に独立社民党がコミンテルンに参加するか否かで分裂し、コミンテルン参加派は1920年12月にドイツ共産党 (KPD) と合流、テールマンもこの流れに属した。合同党大会においてテールマンは党中央委員に選出された[4]。戦後もハンブルクで職を転々として暮らしていたテールマンは、ハンブルク地区委員長に就任している[4]

コミンテルンの暴力革命指令により党は1921年3月マンスフェルトを中心に武装蜂起を起こしたが、中央政府から派遣されてきたに鎮圧されて失敗に終わった(3月闘争ドイツ語版)。党指導部はこの3月闘争の失敗の弁明のため「学のないテールマン」を1921年6月から7月の第3回コミンテルン大会に代表として送った[4]。この際にウラジーミル・レーニンと初めて会見を持った。

党内においてテールマンはルート・フィッシャーアルカディ・マズロードイツ語版らと並ぶ左派の代表的人物であり、党議長ハインリヒ・ブランドラードイツ語版の「統一戦線戦術」や「労働者政府」(社民党内や労働組合内の反指導部層と共闘してプロレタリア革命へ誘導する戦術)といった右派方針に反対していた。社民党は断固粉砕し、仮借なきプロレタリア革命を遂行すべきとする立場だった[5]

ブランドラー指導部は「統一戦線戦術」を旨とする右派が多数を占めており、左派は排除されていたが、1923年5月にはブランドラー指導部とコミンテルンの協議の結果として、テールマンやフィッシャーら左派も指導部に入ることになった[6]

1923年10月の武装蜂起計画をめぐって

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1923年秋にコミンテルンが再び暴力革命方針へ転換、これを受けてブランドラー指導部は「統一戦線戦術」「労働者政府」の方針と組み合わせた武装蜂起計画を策定。その計画に基づき、1923年10月にザクセン州やテューリンゲン州の社民党左派政権に共産党員を入閣させたうえで、中部ドイツから革命軍事行動を起こす準備を開始した[7]

事態を危険視したベルリン政府は10月20日にも大統領緊急令によりザクセン政府の解任を宣言し、国防軍をザクセンへ出動させた。共産党はこれに対抗してゼネスト武装闘争を決定したが、ケムニッツの会議で社民党左派から武装蜂起の同意を得られなかったため、共産党も退却を決定するしかなくなった[8]。ケムニッツ会議が行われている間、武装蜂起命令書を携えた伝令たちが会議室の前で決定を待っていたが、会議室から出てきたテールマンは独断で「行け!出発!順番に!」と指示して伝令たちを走らせた。これを知ったブランドラーは伝令たちを追いかけ、駅で引き留めたが、ハンブルクへの伝令だけは間に合わず、10月24日から26日にかけてハンブルクで数百人の共産党員の武装蜂起が起きた。しかしこの蜂起は警察によってただちに鎮圧された[9]

その後、国防軍はさしたる抵抗にあうこともなく10月29日にザクセン首都ドレスデンへ入城し、10月30日にザクセン州政府を解体。数日後にはテューリンゲン州政府も同様の末路をたどった[10]。共産党の蜂起計画は完全な失敗に終わった。

左派指導部の幹部

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テールマンら左派はこの10月敗北の原因をブランドラー指導部の右派的方針に求めた。すなわちブランドラーが「統一戦線戦術」「労働者政府」の方針で社民党左派との共闘に固執して革命を裏切った結果であると批判した[11]

折しもソ連ではレーニンの後継者を巡る権力闘争の最中であり、トロイカ(ジノヴィエフ、カーメネフスターリン)とトロツキー及びその友人カール・ラデックの対立が起きていた。そのため両陣営間で10月敗北の責任の押し付け合いが発生し、最終的にはブランドラーとラデックに全責任があるとされた[12]。ブランドラーの党内の立場は地に落ち、1924年2月19日ハレでの第4回中央委員会においてテールマンはブランドラーを激しく攻撃。中央委員会は全会一致で指導部の入れ替えを行うことを決議した[13]

代わってフィッシャーやマズローを議長とした左派指導部が発足した。テールマンも政治局入りを果たすとともに[14]、党の副議長に就任した[2]。同年5月には国会議員選挙に立候補して国会議員に当選[2]。また同年夏にモスクワで行われた第5回コミンテルン大会でコミンテルンの執行委員に選出されている[2]。1924年から1929年にかけては共産党の私兵部隊「赤色戦線戦士同盟」の議長も務めた[2]

1925年3月と4月に行われた大統領選挙に出馬した。旧帝政軍人で保守主義者のパウル・フォン・ヒンデンブルク社民党カトリックなどリベラル勢力の支持を受ける中央党ヴィルヘルム・マルクスの両名と争ったが、選挙は事実上ヒンデンブルクとマルクスの一騎討ちとなり、ヒンデンブルクが僅差で勝利している。テールマンは泡沫候補に終わった。ヒンデンブルクとマルクスの票差は僅差であったため、テールマンのせいでリベラル・左翼票が割れた面がある[15]

共産党議長に就任

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1926年にフリードリヒスフェルデ中央墓地ドイツ語版に建設された革命記念碑ドイツ語版の前で演説するテールマン

左派のトロツキーとの闘争から右旋回したスターリンの影響を受けてコミンテルンは、1925年に再び「統一戦線戦術」をとるべきことをドイツ共産党に命じた。フィッシャーやマズローはコミンテルン方針に従ったものの、スターリンから忠誠を疑われ、その圧力で1925年秋に失脚した[16]。一方テールマンは、フィッシャーやマズローと手を切ってスターリンに絶対忠誠を誓う左派の派閥(親コミンテルン左派)のリーダーとなり、スターリンの後援を受けて、1925年10月に党議長に就任した[17]

議長就任から2、3年間のテールマンの党指導は、親コミンテルン左派を中心としつつ、エルンスト・マイヤーら調停派(中間派)も指導部に取り込んで、ブランドラーあるいはフィッシャーの「左右の行き過ぎ」を避けて中間的な路線を取り、反対派(特にフィッシャーら左派反対派やショーレムら極左反対派)を抑えこむものだった。この路線は1928年から1929年頃に極左路線へ転換するまで維持された。この中間路線はトロツキーとジノヴィエフに対する闘争でブハーリンら右派の協力を得ながらも左派回帰の可能性も閉ざしていなかったスターリンの方針に並行するものだった[18]

ウィトルフ事件

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赤色戦線戦士同盟を率いて行進するテールマン(中央左)。中央右はヴィリー・レオードイツ語版(1927年6月ベルリン)

1928年になるとスターリンの指示でコミンテルンは再び左旋回した[19]。これは左派の政敵を片付けたスターリンが、続いてブハーリンら右派の政敵の排撃を開始し、ネップの中止、五カ年計画の開始という左派コースを取り始めたためである[20]。ブハーリンはジノヴィエフ解任後にコミンテルンの第一人者となっていたため、その影響はすぐにコミンテルンとその支部(各国の共産党)に波及した[21]

早くも1928年2月のコミンテルン執行委員会拡大総会でドイツ共産党とソ連共産党の間に秘密協定が結ばれ、その中で「右派共産主義者は主敵である」と宣告された。左旋回が公然化されたのは1928年7月から8月にかけての第6回コミンテルン世界大会だった。テールマンはそれに従って右派と調停派を計画的にポストから追放していった[22]

追いつめられた右派と調停派はテールマンに近いハンブルク地区党書記・中央委員ヨーン・ウィトルフドイツ語版が党の公金を横領し、テールマンがそれをもみ消した事件を中央委員会で取り上げることで反撃に打って出た。1928年9月25日と26日の中央委員会は調停派エーベルラインや右派エーリヒ・ハウゼンドイツ語版らの主導でテールマンに有罪判決を下し、テールマンの職務の停止を決議した[23]

しかしここでスターリンが介入し、テールマンを失脚させてはならぬとの指令がヘルマン・レンメレドイツ語版を通じてドイツ共産党に下され、10月6日にはコミンテルン執行委員会幹部会もテールマン復権を決議している[23]。中央委員の大多数は、このモスクワからの圧力に怯え、テールマンの職務停止を解除するとともに「右派と調停派はハンブルク事件を利用した」とする決議を出した。スターリンとテールマンは間髪入れず右派と調停派に対して殲滅的攻撃を開始し、右派と調停派はことごとく中央委員会から叩き出され、テールマン、レンメレ、ハインツ・ノイマンドイツ語版の「三頭政治」が党を引き継いだ[24]

ヘルマン・メンメレ
ハインツ・ノイマン
ヘルマン・メンメレ(左)とハインツ・ノイマン(右)

右派粛清とテールマン独裁体制の確立

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1932年1月のテールマン

1928年から1929年にかけて粛清が吹き荒れ右派全員(ブランドラー、ベルタ・タールハイマードイツ語版パウル・フレーリヒドイツ語版ヤコブ・ワルヒャードイツ語版ハンス・ティテルドイツ語版、ハウゼンら)が党から除名され、調停派も解任された[24]。これ以降もはやいかなる反対派も党内に存在することは許されなくなり、1929年6月の党大会までには党のスターリン主義化を完成させた[25]。組織された反対派が消されたことにより、党内抗争はなくなり、指導部の方針への逸脱は個々の除名、処分によって阻止されるようになった[26]。ここにドイツ共産党はソ連共産党のスターリン体制をそのまま移植したテールマンの独裁政党となったのだった[27]

またソ連で盛んになりつつあったスターリン個人崇拝に倣ったテールマン個人崇拝も進んだ。この点において共産党は国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチス)の総統アドルフ・ヒトラーにライバル意識を燃やしていた。ヒトラーに対してテールマンを「プロレタリアートの総統」として対抗させることができるし、させなければならぬと考えていた[28]

「社会ファシズム論」

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1928年の第6回コミンテルン世界会議が「社会ファシズム論」を強化させて社会民主主義を主敵と定める方針を採択すると、テールマン率いるドイツ共産党もドイツ社民党への闘争を強化した。この極左戦術で共産党の過激化が強まり、特に党の実力組織である赤色戦線戦士同盟は荒れ狂い、ナチスの突撃隊(SA)や社民党の国旗団と武力衝突を起こす事が増えた[29]

1929年5月の血のメーデー事件ドイツ語版を機に社共対立は絶頂に達した。社民党政府は赤色戦線戦士同盟を非合法化したり、共産党集会を禁じたりするなど共産党への弾圧を強化し、共産党は「社会ファシズム論」にますます傾斜した[30]。1931年夏にナチ党がプロイセン州社民党政府打倒を狙って起こしたプロイセン州議会解散を求める国民請願運動には共産党も参加するなど、社民党に対する闘争の範囲内においては、ナチ党との共闘も厭わなくなっていった[31]

1929年から1930年にかけては社民党系労組中央組織ドイツ労働組合総同盟ドイツ語版(ADGB)の分裂を促し、共産党系労組中央組織革命的労働組合反対派ドイツ語版(RGO)を結成させた[32]

選挙の躍進

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1932年大統領選挙の際の投票用紙。上からヒンデンブルクヒトラー、テールマン。

1929年の世界恐慌以降、大衆の急進化で共産党の人気は高まった。1930年9月14日の国会選挙では、共産党は社民党支持層の票を吸って得票を133万票増加させて13.1%の得票率を得て77議席(総議席577議席)を獲得し、社民党とナチ党に次ぐ第3党となった[33]

1932年春にはヒンデンブルクの大統領任期切れから大統領選挙が行われた。1925年の時と同様に共産党からはテールマンが立候補した[34]。テールマンの他には再選を目指すヒンデンブルク、ナチ党のヒトラー、鉄兜団テオドール・デュスターベルクなどが出馬した。テールマンは「ヒンデンブルクへの投票はヒトラーへの投票と同じ。ヒトラーへの投票は戦争への投票と同じ(Wer Hindenburg wählt, wählt Hitler, wer Hitler wählt, wählt den Krieg)」を選挙スローガンにして選挙戦を戦ったが、3月13日の投開票の結果、ヒンデンブルク1865万票、ヒトラー1133万票、テールマン490万票、デュスターベルク255万票という結果に終わった。過半数に達した候補がなかったため、第2次投票が行われることとなった。第2次選挙にはヒンデンブルク、ヒトラー、テールマンの3人が立候補したが、4月10日の投開票の結果、ヒンデンブルク1939万票、ヒトラー1341万票、テールマン370万票という結果となりヒンデンブルクが大統領に当選した[35]

1932年7月31日の国会選挙では得票率14.3%へと得票を増やし、89議席(総議席608議席)を獲得、同年11月6日の国会選挙でも得票率16.8%に増やし、100議席(総議席584議席)を獲得し、ナチ党と社民党に次ぐ第3党の地位を維持し続けた[36]。とりわけナチ党も社民党も得票を減らして共産党だけが得票を伸ばした1932年11月6日の選挙は共産党を有頂天にさせ、党はこの成功を過大評価した[37]

ノイマンとレンメレの失脚

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1932年初頭には最高指導部(テールマン、ノイマン、レンメレ)の仲が険悪になっていた。そのためテールマンはノイマンの影響力が強い党中央委員会書記局を全く無視するようになり、秘書ヴェルナー・ヒルシュドイツ語版をはじめとする取り巻きたちの中に第二の書記局のようなものを作り、そこからノイマンやレンメレに対して陰謀を仕掛けるようになったという[38]

3月13日の大統領選挙第一次投票でテールマンが惨敗した。これについて3月14日の書記局会議でノイマンが間接的にだがテールマンに批判的な総括文を提起したことで、テールマンとノイマンの対立が絶頂に達した。しかし4月10日の段階ではすでにノイマンとレンメレは解任されていたようである。2人によれば書記局の決議も議論もなしにテールマンの一存だけで役職を取り上げられたという[39]

5月14日にはこの対立についてコミンテルン執行委員会の政治委員会協議がもたれ、17日に「最近の党最高指導部におけるレンメレとノイマン両同志の挙動は、断固として処罰される。というのもその挙動によって最高指導部の破壊の危険性を作り出し、党指導部の行動を麻痺させたからである。ノイマン同志は6ヶ月の期間 KPD以外の国際的活動に従事する。レンメレ同志は、テールマン同志との緊密に共同して積極的に党の最高指導部の中で活動しなければならない」とする決定が下された。この際に人事も決定されたが、ノイマン・グループを中枢部から遠ざけ、テールマンの取り巻きたちを重用する物だった[40]

この決定にはスターリン自らが関与したといわれる。ノイマンは1927年12月に広東コミューン創設のために派遣されるなどスターリンの信任の厚い人物だったものの、スターリンにとってはテールマンの方が優先だったようである。歴史家クラウス・キンナードイツ語版によれば「スターリンは、若く勤勉で野心をもったノイマンよりもテールマンの方を、ソ連邦以外で最も重要なセクションにあって容易に自分が影響力を行使できる指導者だと見なしていた」という[41]

逮捕・死去

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1933年1月30日にナチ党党首アドルフ・ヒトラーパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領から首相に任命された[42]。2月1日に国会が解散されて選挙戦へ突入したが[42]、2月4日には野党の行動を制限する「ドイツ民族保護のための大統領令」が発令され、2月初めには共産党は機関紙・集会の禁止、党地方局への捜査と押収、党職員の逮捕などで全く防衛的な立場に追いやられた[43]

さらに選挙期間中の2月27日に国会議事堂放火事件が発生し、オランダ共産党員マリヌス・ファン・デア・ルッベが犯人として逮捕されると、プロイセン内相ヘルマン・ゲーリングは国際共産主義運動全体の陰謀と見做し、2月28日に制定された事実上の戒厳令「ドイツ国民と国家を保護するための大統領令」に基づき、共産党員4000人を逮捕、共産党の機能はほぼ完全に停止した[44]。追いつめられた共産党は、長年ライバル関係にある社民党に対し「ファシストの攻撃に対抗する行動の統一戦線」を求めたが、共産党は依然としてコミンテルン方針である「社会ファシズム論」の縛りを受けていたので共闘を求めながら罵倒を止めない矛盾した態度を取り続けた結果、社民党から拒絶された[45]3月5日の選挙の結果、共産党は81議席を獲得したが、直後の3月9日に共産党議員の議員資格が議席ごと抹消されたため、総議席が減少してナチ党が単独過半数を獲得した[46]

テールマン自身は3月3日にベルリンの自宅で逮捕されている[47]。1933年から1937年にかけてモアビット刑務所ドイツ語版に拘留された[2]。容赦のない尋問を受け、尻や顔や背中をカバの皮の鞭で打たれ、歯も4本折られた[48]。1935年には刑事裁判待ちの拘留から保護拘禁に切り替えられた[2]

収監中、テールマンは自分の処遇についての詳細な描写を密かに文書にして持ち出すことに成功した。"ズボンを脱ぐように命じられ、二人の男に首の後ろをつかまれ、踏み台に挟まれた。制服を着たゲシュタポの将校がカバの皮の鞭を手に、私の臀部を一定のストロークで叩いた。痛みで気が狂いそうになった私は、何度も大声で叫んだ。それからしばらく口をふさがれ、顔と胸と背中を鞭で殴られた。それから私は倒れ、床に転がり、常に顔を伏せ、彼らの質問には何も答えなくなった。"

1937年から1943年にかけてはハノーヴァー裁判所刑務所ドイツ語版に収監され、ついで1943年から1944年にかけてはバウツェン刑務所ドイツ語版に収監された[2]

あれほどスターリンに忠誠を尽くしてきたにもかかわらず、1939年8月に独ソ不可侵条約が締結されるやスターリンから見捨てられた。ソ連共産党は1939年の国際青少年日に際して「テールマン同志万歳」の予定になっていたスローガンをナチス政権に配慮して除去し、急遽「スターリン同志の指導によるソビエト連邦の偉大な外交政策万歳」に変更した[49]。またテールマンの妻ローザは独ソ不可侵条約締結後、ソ連大使館に夫の釈放のための仲裁を懇願しているが、スターリンからは無視された[2]

1944年8月にはブーヘンヴァルト強制収容所へ移送の上、親衛隊 (SS) 隊員により銃殺された。ナチスは元社民党のルドルフ・ブライトシャイトドイツ語版と共に連合軍のブーヘンヴァルト空爆により死亡したと虚偽の発表をした[50]。なお妻ローザと娘イルマは、テールマン殺害に先立ち逮捕され、ラーフェンスブリュック強制収容所及びその付属収容所に送られたが[2]、二人とも生きて終戦を迎えることができた。

人物

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素朴な人柄で大衆には人気があったがナチスや国家人民党などの保守・右翼と並んでワイマール体制に否定的であり、無条件でスターリンに盲従するだけの人物[51]であったため、存命中より左派からも批判されていた。テールマンに近かったクララ・ツェトキンでさえも彼の指導下における党の内情を「小派閥に固まり陰謀をめぐらせ互いに敵対する」と評し、テールマンを「無学で理論的に訓練されず、自己弁護する性格で自制心に欠いている。批判的ですらない自己欺瞞と妄想にとりつかれている」[52]と批判している。歴史家クラウス・キンナードイツ語版もスターリンがテールマンをドイツ共産党党首にしたのは簡単に操り人形にできる存在だったためとしている[41]

顕彰

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戦後、ドイツ共産党の後身ドイツ社会主義統一党が支配する社会主義国東ドイツが成立すると、東ドイツや東側諸国ではテールマンは「ナチスの犠牲となった共産主義の闘士」として顕彰されるようになった[53]。東ドイツ政府によりブーヘンヴァルトの火葬場の壁に記念額が設置された[54]。またピオネールの名称もエルンスト・テールマン・ピオネールドイツ語版と命名されたほか、国家人民軍地上軍エルンスト・テールマン陸軍士官学校ドイツ語版ドイツ人民警察のエルンスト・テールマン警察学校、人民公社エルンスト・テールマン車両及び猟銃工場など様々な施設の名称に彼の名が冠されていた。1972年、キューバの指導者フィデル・カストロは、キューバの無人島の一つをエルンスト・テールマン島に改称した。

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 秦郁彦編 2001, p. 366.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t Ernst Thälmann 1886-1944”. LeMO - Lebendiges Museum Online. 2018年6月26日閲覧。
  3. ^ Ernst Thälmann: Gekürzter Lebenslauf, aus dem Stegreif niedergelegt, stilistisch deshalb nicht ganz einwandfrei. 1935, In: Institut für Marxismus-Leninismus beim ZK der SED (Hrsg.): Ernst Thälmann: Briefe – Erinnerungen. Dietz Verlag, Berlin 1986.
  4. ^ a b c d フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 184.
  5. ^ 林健太郎 1963, p. 113-114.
  6. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 31.
  7. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 174-176.
  8. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 174-175.
  9. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 179.
  10. ^ 林健太郎 1963, p. 114.
  11. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 181-183.
  12. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 183.
  13. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 186.
  14. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 193.
  15. ^ 林健太郎 1963, p. 123.
  16. ^ フレヒトハイム & ウェーバー 1980, p. 221.
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参考文献

[編集]
  • 阿部良男『ヒトラー全記録 20645日の軌跡柏書房、2001年。ISBN 978-4760120581 
  • 秦郁彦 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220 
  • バトラー, ルパート 著、田口未和 訳『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』原書房、2006年。ISBN 978-4562039760 
  • 林健太郎『ワイマル共和国 :ヒトラーを出現させたもの』中公新書、1963年。ISBN 978-4121000279 
  • 星乃治彦ヴァイマル末期ドイツ共産党の党内事情 : 「ノイマン・グループ」の評価をめぐって」『文学部紀要』第7巻第2号、熊本県立大学文学部、2001年3月、1-28頁、CRID 1050282812725279616ISSN 13411241 
  • フレヒトハイム, O.K.、ウェーバー, H 著、高田爾郎 訳『ワイマル共和国期のドイツ共産党 追補新版』ぺりかん社、1980年。 
  • モムゼン, ハンス 著、関口宏道 訳『ヴァイマール共和国史―民主主義の崩壊とナチスの台頭』水声社、2001年。ISBN 978-4891764494 

外部リンク

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党職
先代
ルート・フィッシャー
アルカディ・マズロードイツ語版
ドイツ共産党議長
1925年 - 1933年
次代
ヨーン・シェーアドイツ語版