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== 略歴 ==
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[[1948年]]([[昭和]]23年)、兵庫県[[川辺郡]][[六瀬村]](現在の[[猪名川町]])柏原の[[農家]]に、5人兄弟の末子として生まれる。[[兵庫県立伊丹高等学校]]を経て[[立命館大学]]の夜学に進学、[[三和銀行]](現[[三菱UFJ銀行]]の前身行)に勤務。その傍ら[[日本民主青年同盟]]の活動を経て、日本共産党に入党。筆坂自身と同じ銀行員という経歴を持つ[[作家]]の[[小林多喜二]]を尊敬していたことも、日本共産党の活動に尽力していく要因となった。立命館大学は中退


三和銀行を25歳で退職し<ref>[http://www.jcp.or.jp/tokusyu/senkyo/hirei9uttae/fudesaka.html 筆坂秀世訴え] 日本共産党</ref>、日本共産党国会議員[[秘書]]となる。旧[[中選挙区]]東京一区候補、政策宣伝委員会責任者を経て、[[1995年]]([[平成]]7年)に[[参議院比例区|比例区]]より参議院議員初当選。政策委員長となり、[[日本共産党中央委員会書記局長|書記局長]][[市田忠義]]の[[病気]]により書記局長代行を兼務した。「日本共産党のナンバー4」と目されたこともあった。
三和銀行を25歳で退職し<ref>[http://www.jcp.or.jp/tokusyu/senkyo/hirei9uttae/fudesaka.html 筆坂秀世訴え] 日本共産党</ref>、日本共産党国会議員[[秘書]]となる。旧[[中選挙区]]東京一区候補、政策宣伝委員会責任者を経て、[[1995年]]([[平成]]7年)に[[参議院比例区|比例区]]より参議院議員初当選。政策委員長となり、[[日本共産党中央委員会書記局長|書記局長]][[市田忠義]]の[[病気]]により書記局長代行を兼務した。「日本共産党のナンバー4」と目されたこともあった。

2018年6月4日 (月) 06:39時点における版

筆坂 秀世
ふでさか ひでよ
生年月日 (1948-02-28) 1948年2月28日(76歳)
出生地 兵庫県川辺郡猪名川町
出身校 立命館大学中退
所属政党 日本共産党

選挙区 比例区
当選回数 2回
在任期間 1995年7月23日 - 2003年6月27日[1]
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筆坂 秀世(ふでさか ひでよ、男性、1948年2月28日 - )は、日本政治家政治評論家。元参議院議員(2期)、元日本共産党中央委員会常任幹部会委員、同党政策委員長。現在は離党し政治家としての活動からは身を引いている。離党後、北海道根室市納沙布岬にあるNPO法人望郷の塔(旧・納沙布岬平和の塔)の理事長を務めた。

略歴

銀行員から政治家へ

1948年昭和23年)、兵庫県川辺郡六瀬村(現在の猪名川町)柏原の農家に、5人兄弟の末子として生まれる。兵庫県立伊丹高等学校を経て立命館大学の夜学に進学、三和銀行(現三菱UFJ銀行の前身行)に勤務。その傍ら日本民主青年同盟の活動を経て、日本共産党に入党。筆坂自身と同じ銀行員という経歴を持つ作家小林多喜二を尊敬していたことも、日本共産党の活動に尽力していく要因となった。立命館大学は中退。

三和銀行を25歳で退職し[2]、日本共産党国会議員秘書となる。旧中選挙区東京一区候補、政策宣伝委員会責任者を経て、1995年平成7年)に比例区より参議院議員初当選。政策委員長となり、書記局長市田忠義病気により書記局長代行を兼務した。「日本共産党のナンバー4」と目されたこともあった。

筆坂事件から離党まで

参議院議員2期目の任期途中の2003年6月、セクシャルハラスメントを疑われたことをきっかけとして議員辞職。中央委員罷免、常任幹部会委員・幹部会委員など党の要職も解任された。ただし、刑事事件化していないこともあり、真相は不明となっている。

党中央は筆坂本人に対して弁明の機会を与えなかったため、処分はさまざまな臆測を呼ぶこととなる。後に筆坂は、『週刊新潮』や新潮新書の著書『日本共産党』の中でこの件について語っている。

「秘書と女性の三人でカラオケボックスに行き、その女性の同意を得てチークダンスを踊ったことやデュエットで腰に手をまわした。」 「女性は楽しんでいるようだったので何故セクハラという訴えになったかよく分からない。」

(本人説明の要旨)

党の処分ははじめ「警告」にとどめることが決まっていたが、中央委員会総会で問題にするとの匿名ファクスに慌てた上級幹部らが覆し、議員辞職・党役職解任に至った[3]と主張する。

その後、中央委員会政策委員会に勤務員として復帰。機関誌前衛』に「反省文」(後に本人は「反省文を書かざるを得なくなり下手に出た」との論調を取っている)とともに経済に関する論文を掲載するも2005年7月に日本共産党を離党した。

共産党側は、「この際に筆坂は反党的言動は取らない旨を党に対し行った」、「不破哲三に『なぜマスコミに自分の離党を伝えたのか。プライバシー侵害だ』と批判する電話をかけた」と主張している[4]

見解を書籍で発表

「セクハラ事件」や党内事情について、自身の見解を論述した『日本共産党』を出版。事件については、結局は党内の派閥抗争であり、自分がそれに敗れただけだという見解を示している。その他、自身が在籍した当時の党内事情についての具体的な記述や党名・路線・政策の変更、民主党への譲歩などの提言がなされている。これに対し不破哲三を始め党幹部は反論文[5]を発表し、事実誤認が著しいと激しく批判した。筆坂の出演するテレビ番組に対しても「筆坂のみを一方的に出演させた」として抗議を申し入れた[6]

右傾化

著書『日本共産党』では「党への愛着」が残っているような記述も見えたが、2006年(平成18年)6月には、保守オピニオン誌『正論』に寄稿し日本共産党の体質を批判、財界団体からも講師として呼ばれるなど、反共産党の主張を繰り返している。参議院選挙を控えた2007年5月、村上正邦平野貞夫と共に『参議院なんかいらない』を出版した。

その後、NPO法人望郷の塔を設立し、いわゆる北方領土返還運動にも関与する。

2007年には『私たち、日本共産党の味方です。』という書籍を出し、8年後の2015年には『日本共産党と中韓 左から右へ大転換してわかったこと』を出版している。

著書

単著

共著

寄稿

  • 「国財界の根深い対米従属と憲法改悪路線の淵源をえぐる」(前衛2005年2月号 No.787、日本共産党中央委員会理論政治誌「前衛」)
  • 「財界は日本をどう変えようとしているのか―財界戦略の背景とねらいをさぐる」(前衛2004年12月号 No.785。日本共産党中央委員会理論政治誌、前衛)
  • 筆坂秀世「特別手記 日本共産党への「弔辞」」『週刊新潮』50(37)(通号2515)、新潮社、44 - 48ページ、2005年。
  • 筆坂秀世・有田芳生「赤い共産党の黒い内幕(下)北朝鮮拉致問題で犯した「罪」」『週刊朝日』111(23) (通号 4749)、朝日新聞社、129 - 131ページ、2006年。
  • 筆坂秀世・有田芳生「2人の料理人を抱える不破議長の生活、会議で口を閉ざす志位委員長… 赤い共産党の黒い内幕(上) 」『週刊朝日』111(22) (通号 4748)、朝日新聞社、22〜 - 5ページ、2006年。
  • 筆坂秀世・佐藤優「(特別対談)度し難きかな、共産党と外務省:その共通性を斬る(上)」『月刊正論』7月号(通号412)、産經新聞社、54 - 69ページ、2006年。

出演

脚注

参考文献

  • 筆坂秀世『日本共産党』新潮社新潮新書〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4106101649 

関連項目

外部リンク

日本共産党常任幹部会委員の発言

(すべてしんぶん赤旗より)

論評・解説