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}}'''栗城 史多'''(くりき のぶかず、[[1982年]][[6月9日]] - [[2018年]][[5月21日]])は、[[日本]]の[[登山家]]<ref>[http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/2017859/full/ 栗城史多氏、エベレスト登頂断念 4度目山頂アタックも無念の下山(オリコンスタイル)]</ref>、[[起業家]]。株式会社たお代表取締役(個人事務所)。[[北海道]][[瀬棚郡]][[今金町]]出身<ref name="zanon">[[ザ・ノンフィクション]]・『山のバカヤロウ2登山家 栗城史多』、[[フジテレビジョン]]、2012年5月6日放送</ref>。[[北海道檜山北高等学校]]<ref>[http://www.econakoto.net/kuriki/article/186]{{deadlink|date=2018年5月}}</ref>、[[札幌国際大学]]人文社会学部社会学科卒業<ref>[http://www.siu.ac.jp/06shushoku/old/2141.html 卒業生(栗城史多)のインタビュー記事・2007年]、札幌国際大学、2011年3月10日閲覧。</ref>。[[よしもとクリエイティブ・エージェンシー]]と2011年9月から業務提携<ref>[http://career.oricon.co.jp/news/2001095/full/ 登山家・栗城史多氏が吉本と業務提携 3度目のエベレスト遠征へ 2011年08月25日]、オリコンランキング、2012年1月11日閲覧。</ref><ref>[http://yoshimotonews.laff.jp/news/2011/08/post-a4de.html エベレスト無酸素・単独登頂に挑戦する登山家・栗城史多さんがよしもとと業務提携!! 2011年8月25日]、よしもとニュースセンター、2012年1月11日閲覧。{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。
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「冒険の共有」をテーマに全国で講演活動を行いながら、年に1、2回[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ]]地域で高所登山を行っていた。[[エベレスト]]には単独無酸素登頂と頂上からの[[インターネット]]生中継<ref group="注">テレビ放送における世界初の[[エベレスト]]山頂衛星生中継は1988年5月5日に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[チョモランマ]]登山調査隊によって行なわれた。</ref>を目指し、2009年9月[[チベット]]側、2010年9月[[ネパール]]側から挑んだが、8,000mに達することが出来ず敗退<ref group="注">登山用語で、登頂をあきらめて引き返すこと。</ref>。2011年8月 - 10月に前年と同じネパール側から3度目の挑戦をしたがサウスコル7900mに達せず敗退。2012年10月に西稜ルートから4度目の挑戦も強風により敗退。この時に受傷した[[凍傷]]により、のちに両手指のうち9本を第二関節まで[[切断 (医学)|切断]]。2015年の5度目、2016年6度目、2017年7度目のエベレスト登山も敗退した。2018年5月に8度目となるエベレスト登山を敢行したが、途中で体調を崩して登頂を断念。下山中の同月21日にキャンプ3から下山中に滑落死した<ref name=”facebook0525”>{{Cite web|url=https://www.facebook.com/kurikiyama/photos/a.149227345109591.25719.144066982292294/1918435954855379/|title=栗城史多Facebook 5月25日|accessdate=2018-5-25}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASL5P56XSL5PUTQP019.html|title=登山家・栗城史多さん死去 8度目のエベレスト挑戦中|newspaper=朝日新聞|date=2018-05-21|agency=朝日新聞社|accessdate=2018-05-21}}</ref>。
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2018年6月11日 (月) 01:16時点における版

くりき のぶかず

栗城 史多
生誕 (1982-06-09) 1982年6月9日
北海道瀬棚郡今金町
死没 (2018-05-21) 2018年5月21日(35歳没)
ネパール エベレスト山麓 C2[1]
国籍 日本の旗 日本
出身校 札幌国際大学
肩書き 株式会社たお代表取締役
公式サイト kurikiyama.jp
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栗城 史多(くりき のぶかず、1982年6月9日 - 2018年5月21日)は、日本登山家[2]起業家。株式会社たお代表取締役(個人事務所)。北海道瀬棚郡今金町出身[3]北海道檜山北高等学校[4]札幌国際大学人文社会学部社会学科卒業[5]よしもとクリエイティブ・エージェンシーと2011年9月から業務提携[6][7]

「冒険の共有」をテーマに全国で講演活動を行いながら、年に1、2回ヒマラヤ地域で高所登山を行っていた。エベレストには単独無酸素登頂と頂上からのインターネット生中継[注 1]を目指し、2009年9月チベット側、2010年9月ネパール側から挑んだが、8,000mに達することが出来ず敗退[注 2]。2011年8月 - 10月に前年と同じネパール側から3度目の挑戦をしたがサウスコル7900mに達せず敗退。2012年10月に西稜ルートから4度目の挑戦も強風により敗退。この時に受傷した凍傷により、のちに両手指のうち9本を第二関節まで切断。2015年の5度目、2016年6度目、2017年7度目のエベレスト登山も敗退した。2018年5月に8度目となるエベレスト登山を敢行したが、途中で体調を崩して登頂を断念。下山中の同月21日にキャンプ3から下山中に滑落死した[8][9]

経歴

「元ニート」 「元引きこもり」 を自称しているが[10]、これはあくまでキャラクター作りのための設定であり、実際にはそのどちらでもない[11][12]。「元ニート」を名乗るようになったきっかけは、栗城の全国デビューとなる企画に、『電波少年』で知られる日本テレビプロデューサーの土屋敏男が「ニートのアルピニスト、初めてのヒマラヤ」というタイトルをつけたためである[13]

  • 1982年6月9日 - 北海道瀬棚郡今金町に生まれる。
  • 2002年年末 - 中山峠から小樽市銭函まで、1週間程度の雪山(標高1,000m前後)の年越し縦走を行った。
  • 2004年5月21日 - マッキンリー登頂に向けて日本から出発。初の海外旅行
  • 2005年1月 - アコンカグア南米最高峰 6,959m)登頂。
  • 2006年10月 - カルステンツ・ピラミッドオセアニア最高峰 4,884m)登頂。
  • 2007年5月 - チョ・オユー(世界第6位高峰 8,201m)登頂。7,700m地点からスキー滑降した。
  • 2008年10月 - マナスル(世界第8位高峰 8,163m)に「無酸素」「単独」登頂したと主張するが、ヒマラヤン・データベース日本山岳会の双方から登頂を認定されていない[14][15]
  • 2009年5月 - ダウラギリ(世界第7位高峰 8,167m)登頂。インターネット生中継を行う。
    • 9月 - チョモランマ・北稜北壁メスナールート(世界最高峰 8,848m)登頂を目指したが、グレートクーロワールに達せず、体力の限界により7,950mで敗退。
  • 2010年5月 - アンナプルナ(世界第10位高峰 8,091m)登頂を目指したが、7700mで敗退。
    • 8月末から - 2度目の挑戦となるエベレスト・南東稜ノーマルルート登頂を目指したが、C4サウスコル7,900mに達することができず7,750mで敗退。この挑戦では栗城隊のシェルパが1人死亡している[16]
    • 12月 -登山とインターネットを結んだ功績が評価され、ファウスト大賞を受賞[3]
  • 2011年5月 - シシャパンマ(世界第14位高峰 8,013m)の登頂を目指したが体調不良により敗退。南西壁から7600m地点まで[17]
    • 8月末から - 3度目の挑戦となるエベレスト・南東稜ノーマルルート登頂を目指したが敗退。7800m地点で食料などを埋め、一度ベースキャンプに戻り体調を整えて頂上アタックを目指したが、埋めておいた食料をキバシガラスに荒らされたため登頂を断念したと発表した[3]。このアタック開始の際には事前に予定していたC3でのキャンプ設営、馴化のための宿泊をしておらず、大きくルートを外れた雪の斜面に荷物をデポしていた[18]。この挑戦では同行スタッフであるフリーカメラマンの木野広明が死亡している[19]。死亡原因はくも膜下出血であった[3]
  • 2012年5月 - シシャパンマ登頂を目指したが、7000m地点到達前に進行が不可能になり敗退。下山中に滑落して負傷し、救助に向かったシェルパと共に下山したと発表した[20] [21]。なお、序盤の荷上げの際にガレ場で転倒し膝を故障[22]、一旦アタックステージに入りながらロープを取りにベースキャンプに戻り[23]数日浪費するなどの失態を連発。スケジュールが逼迫する中で6000m以上の高度で宿泊する高地順応作業も行わず、当初予定していたC1(6700m地点)、C2(7500m地点)などの中間キャンプの設営も行わないまま深夜の最終アタックに出ていた[24]
    • 8月末から - 4度目の挑戦となるエベレスト・西稜ルートで登頂を目指したが7700mで敗退[25][26]。C2(6400m)地点で人差し指が凍傷に罹患していたにも拘らず登山を続行[27]。当初予定していた地点より500m低い7500m地点のC4から最終アタックに出たものの強風のため撤退。凍傷が悪化しC4からの下山が不可能になったため救助を要請し、シェルパによりC2まで下ろされた後、ヘリコプターでカトマンズの病院に搬送された[25][26]
  • 2013年11月から2014年1月にかけて、2012年に受傷した凍傷のため両手指9本を切断。[注 3]
  • 2014年7月24日 - ブロード・ピーク(世界第12位高峰 8,047m)登頂。
  • 2015年8月末から - 5度目のエベレスト登山に挑み、南東稜ノーマルルートからの登頂を目指したが、サウスコル付近で敗退[28]
  • 2016年5月 - アンナプルナ、6300mで敗退。
    • 9月より6度目のエベレスト登山。9月2日にベースキャンプに入り、「北側(中国)のグレート・クーロワールをアドバンス・ベースキャンプ(通称ABC)から氷河を登りつめ、傾斜の緩い壁に入り、そこからダイレクトに山頂を目指す」[29]としていたが7400mで敗退。敗退に際しては「秋は風と雪が多く条件が難しいので、次回は雪が少ない厳冬期を考えている。」「持参したGPSは7500m以上だとズレが大きく、また重量軽減の理由もあり途中から使用を中止した。」[30]と語った。
  • 2017年春 - 中国側からエベレスト北壁に挑むとしていたが、遠征後半にネパール側に移動するなどルートを二転三転し、最終的に5月29日にネパール側ノーマルルートの6800m付近まで登った直後に断念した。
  • 2018年5月21日 - 8度目のエベレスト単独登山中に体調を崩し標高7400m付近より下山。キャンプ2付近にいた撮影隊がルートを登って捜索したところ、死亡している栗城の遺体を発見した。35歳没。同行したシェルパ4人が確認した[31]。同日、株式会社たおは栗城が遺体で発見されたことを発表した[32]。同日にAbemaTVでの登山生放送を予定していた[33]矢先での遭難だった。

登山活動について

「単独無酸素」という表現について

栗城はその登山活動において「日本人初となる世界七大陸最高峰の単独無酸素登頂に挑戦している」との文言をマスコミ向けに使用していた[12]

世界七大陸最高峰において、通常酸素ボンベを使用する必要があるとされるのは標高8000メートルを越えるエベレストのみであり、その他の六大陸の最高峰においては元々、酸素ボンベを必要としていない[34]。 栗城は結局エベレストの登頂には成功しなかった。なお、日本人の無酸素でのエベレスト登頂は1983年の川村晴一らによって達成されて以降、2010年までに7名が成功している他、世界的には初の無酸素登頂が成された1978年から1995年までに延べ70名の登山者によって達成されている(下山中の死亡者を含む)。

また、登山における「単独登頂」については明確な定義が無く、登山者間の相互評価に任されている現状にあるが、過去の著名な登山家たちは、単独登頂の評価を得るため、自らの行動に厳密なルールを課している。1995年5月13日にエベレスト無酸素・単独登頂に成功したイギリス人女性のアリソン・ハーグリーブスAlison Hargreaves)は、固定ロープを使用しないことは勿論、他の隊から勧められた紅茶すら断っている。栗城は自らを単独登山者(ソロ・アルピニストと呼称)としているが、エベレスト以前に成功した他の六大陸最高峰登頂の段階から他者の設置した固定ロープを使用している[35]他、プロフィール記載の実績のほとんどが他の登山客で溢れ必然的に先行者が雪を踏み固めたトレースを辿ることとなるハイシーズンのノーマルルートで為されたものである(マッキンリーでの植村直己の遭難は条件が大きく異なる厳冬期である)。更に栗城は、登山に際して現地人ガイド添付が義務付けられているキリマンジャロにおいても単独登頂を達成した、としている。

登山の専門誌『山と渓谷』は、2012年3月号で栗城の「単独無酸素」を「その言葉に値しない」と否定した。

2012年5月に日本人初となる8,000m峰全14座に登頂した竹内洋岳は、2008年に自らの公式ブログにて、「単独無酸素」の表現を用いながら栗城が紹介されているクライミングウェアの広告に対し、「彼(栗城)自身の目標に向かう姿は素晴らしい」としながらも、「なぜ彼は『単独』『無酸素』という言葉をこうも安易に使ってしまうのだろうか?(中略)恐らく、この栗城さん自身は『単独』とか『無酸素』とかの意味をそこまで深くは考えていなかったのかもね。(中略)たぶん、彼の周りにいる大人がなにか『美味しい都合』で、いろいろ脚色したんじゃないかな? よくわからない一般の人々を、だまそうとしてるみたいな広告…」と評している[36]

単独について (アルパインスタイルと極地法)

一般的に登山界で言われる「単独登頂」とは、登山の行程の全てを一人で行い、初登頂者のベースキャンプを基準にしてベースキャンプより上で他者からのサポートを一切受けず、あらかじめ設営されたキャンプ、固定ロープ、ハシゴ等も使わずに登ること(アルパインスタイル)を指す[注 4]。栗城の言う「単独」登頂とは、ベースキャンプから自らの荷物を全て背負い登頂することのみを指すため[注 5]アルピニズムの見地から評価される「単独登頂」とは異なる。栗城は他の登山隊が設置した固定ロープ等を使って登頂している。またヒマラヤ登山の際には、栗城隊と呼ぶ大規模なサポート隊を編成し[37]シェルパが固定ロープ設置などのルート工作やキャンプ設営を行い、無線により気象情報や行動計画などのサポートを受けて登っている(極地法と呼ばれる)。なお栗城は、キリマンジャロエベレストなどで過去に数回、自力下山が困難になり、シェルパやポーターに救助されている[38][39][40][41]。2015年のエベレストに際しては、ヒマラヤにおける栗城のサポートを行っているボチボチトレック社のティカ・ラム・グルンは「C2まで6人のサポートが随伴した」と発言している[42]

また最後のエベレストへの単独無酸素アタックとなった2018年5月、本人の死亡を伝えるThe Himalayan Timesの速報[43]において、シェルパ4人が同行していた旨が記載されている。

無酸素について

「酸素ボンベ」を使用しないで登ることを、高所登山の世界では単に「無酸素」と呼ぶ[44]。 栗城の登山では、1つ下のキャンプにシェルパのサポート隊が酸素ボンベを用意して待機しており、いざというときは酸素ボンベを持って救助に行ける体制になっている。栗城は2010年のエベレストで7900mのサウスコルに到達できず撤退。下山途中にインターネットによる生中継で「前日に体調が悪かったため、シェルパがC3に上げた酸素を吸った」と公言[45]。生中継中にも酸素ボンベを使用した[45]

なお、一般的に登山界で使われる意味での「単独無酸素」では、ラインホルト・メスナーなどが知られている。

登山以外の活動について

「冒険の共有」を実現するための活動について

栗城の著書『一歩を越える勇気』で、「わらしべ登山家は毎日、各界で活躍する人たちに会いに行っている。」と記している。わらしべとはわらしべ長者を意味する。通常、エベレスト登頂のためには、入山料、渡航費用、シェルパを含むスタッフなどの多くの費用が必要となる。このため、金なし・コネなしの若い登山家が登頂を実現するためには、スポンサーの資金協力が必須となる。登山活動以外に、日本全国で講演活動を行い登山活動資金を集めていた。また、自ら多くの企業のトップの人たちと面談を行い、協力のための営業活動を行っていた。2010年のエベレスト挑戦の際には、複数のスポンサー協力を実現している。

栗城のいう「冒険の共有」は、挑戦における失敗挫折の共有を意味し、それを共有することで「否定」という壁に向かっている人や、見えない山を登るすべての人の支えとなるとともに、人生という山登りを楽しめる人を増すことだという。栗城がこうした考えを持つにいたった背景には、大学3年時にマッキンリー単独登頂を目指した際に、周囲から起こったのは、応援ではなく否定の声ばかりであったため、一人で山にいる時よりも深い孤独感にさいなまれた経験が影響していたと自述している。このとき、唯一肯定的な言葉をかけたのは、栗城の父で、出発直前の空港で、電話で一言「信じてるよ」という言葉をかけられたことで一歩踏み出すことができ、今の自分がいると公式ウェブサイトで語っていた[46]

講演活動について

「冒険の共有を」テーマに一年の半分ほど全国で講演活動を行っていた。講演スタイルは栗城単独と他者とのコラボによる講演会に分けられる。単独開催では小中学校、高校、各種団体企業から招かれての講演と栗城の熱烈な個人ファンが組織した実行委員会主催などが多かった。他者とのコラボでは山崎拓巳、中村文昭、てんつくマン(軌保博光)、大嶋啓介、等と共演をしていた。主催は共演各氏の熱烈な支持者が組織した実行委員会が多く、(株)日本成功学会が母体の3%の会なども主催、後援していた。

出演

テレビ

著書

音楽

脚注

注釈

  1. ^ テレビ放送における世界初のエベレスト山頂衛星生中継は1988年5月5日に日本テレビチョモランマ登山調査隊によって行なわれた。
  2. ^ 登山用語で、登頂をあきらめて引き返すこと。
  3. ^ 自身のFacebookで「凍傷で9本の指を失ってからの…」とある。栗城史多Facebook
  4. ^ より正確には、単独登山は通常、登山装備をもたないポーターや荷揚げのヤクがそれ以上登って来られない、または進入を許可されていない地点から始まる。例えばヒマラヤのチベット側から登る山では、前進ベースキャンプ(ABC)まで誰でも登れるトレッキング水準のなだらかな斜面が続いていることがあり、ABCまでサポートを受けても単独と認められることがある(チョモランマやチョ・オユーなど)。
  5. ^ 出典は栗城のブログおよび公開されている動画
  6. ^ [1][リンク切れ]刊行記念サイン会場では栗城が7500m以上で感じている重量(地上3倍の重さ≒約60kg)を体感出来るとして約60kgのザックが展示された。
  7. ^ ヒップホップユニットCLIFF EDGEの3rdフルアルバムの初回限定盤DISC2-DVDに収録された『NO LIMIT 〜勇気をキミに〜』が、ソロアルピニスト“栗城史多”応援ソングとしてタイアップした。

出典

  1. ^ Nobukazu Kuriki has been found dead at Camp II on Mt EverestThe Himalayan Times
  2. ^ 栗城史多氏、エベレスト登頂断念 4度目山頂アタックも無念の下山(オリコンスタイル)
  3. ^ a b c d ザ・ノンフィクション・『山のバカヤロウ2登山家 栗城史多』、フジテレビジョン、2012年5月6日放送
  4. ^ [2][リンク切れ]
  5. ^ 卒業生(栗城史多)のインタビュー記事・2007年、札幌国際大学、2011年3月10日閲覧。
  6. ^ 登山家・栗城史多氏が吉本と業務提携 3度目のエベレスト遠征へ 2011年08月25日、オリコンランキング、2012年1月11日閲覧。
  7. ^ エベレスト無酸素・単独登頂に挑戦する登山家・栗城史多さんがよしもとと業務提携!! 2011年8月25日、よしもとニュースセンター、2012年1月11日閲覧。[リンク切れ]
  8. ^ 栗城史多Facebook 5月25日”. 2018年5月25日閲覧。
  9. ^ “登山家・栗城史多さん死去 8度目のエベレスト挑戦中”. 朝日新聞. 朝日新聞社. (2018年5月21日). https://www.asahi.com/articles/ASL5P56XSL5PUTQP019.html 2018年5月21日閲覧。 
  10. ^ 栗城史多公式サイト プロフィール 2011年8月11日閲覧。
  11. ^ 著書『一歩を越える勇気』 実際には高校卒業後に1年間のフリーター生活をしている。
  12. ^ a b AERA2007年10月1日増大号 朝日新聞、2011年1月27日閲覧。
  13. ^ 栗城史多のインタビュー記事 ファウストA.G.、2011年8月11日閲覧。
  14. ^ Autumn 2008 Manaslu continued、HimarayanDatabase ** indicates fore-summit only[3]
  15. ^ Japanese 8000m Climbers List(pdf文書) 日本山岳会公式サイトからのリンクは[4]の右欄の「8000m峰登頂者リスト」。
  16. ^ 栗城史多オフィシャルブログ 2010-08-26 (ウェブ魚拓)2012年5月14日閲覧。
  17. ^ 「EVEREST SHARE」プロフィール
  18. ^ 公式サイト News
  19. ^ “エベレスト登頂控える登山家・栗城史多さんの同行カメラマンが死亡”. oricon. (2011年9月16日). http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/2001878/full/ 2012年5月6日閲覧。 
  20. ^ シシャパンマ南西壁遠征情報(本人の公式サイト)
  21. ^ 無事に下山いたしました(本人の公式サイト)
  22. ^ 栗城史多5月16日のツイート
  23. ^ 栗城史多5月28日のツイート
  24. ^ 栗城史多Facebookシシャパンマ南西壁遠征情報
  25. ^ a b 山と渓谷』2012年12月号 P139
  26. ^ a b ROCK & SNOW』No,058 P50
  27. ^ 『ノーリミット 終わらない挑戦』(NHK)2012年12月23日放送
  28. ^ 理性と出発 栗城史多 公式ブログ、2016年1月4日閲覧。
  29. ^ ルート発表! 栗城史多 公式ブログ、2016年10月16日閲覧。
  30. ^ 栗城史多Facebook動画、2016年10月16日閲覧
  31. ^ BREAKING: Japanese climber Nobukazu Kuriki found dead on Mt EverestThe Himalayan Times
  32. ^ “指を9本失った登山家・栗城史多さん死去 35歳 8度目エベレスト挑戦も下山途中に”. スポニチアネックス. スポーツニッポン新聞社. (2018年5月21日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/05/21/kiji/20180521s00041000232000c.html 2018年5月21日閲覧。 
  33. ^ “指を9本失った登山家・栗城史多さん死去 35歳 8度目エベレスト挑戦も下山途中に”. スポニチアネックス. スポーツニッポン新聞社. (2018年5月21日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/05/21/kiji/20180521s00041000232000c.html 2018年5月21日閲覧。 
  34. ^ 高山病と高所順化 パタゴニア(南米トレッキング情報)、2011年1月7日閲覧。
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  43. ^ Kuriki along with four Sherpa guides had headed to the higher camps to make the final summit push on Mt Everest.The Himalayan Times
  44. ^ 8,000m級での無酸素登頂は危険で、山頂付近の高所はデスゾーンと呼ばれている。
  45. ^ a b 生中継された動画 栗城史多USTREAM公式アカウント、発言は1:14:20から。酸素ボンベ使用は1:17:00頃から。2011年6月7日閲覧。
  46. ^ 登山家 栗城史多 Official site「否定という壁への挑戦」”. 2018年5月23日閲覧。
  47. ^ NHKアーカイブス保存番組詳細「7サミット 極限への挑戦」
  48. ^ バース・デイの過去のオンエア(2010年1月25日) TBSテレビ、2011年1月6日閲覧。
  49. ^ バース・デイの過去のオンエア(2010年2月1日)(TBSテレビ、2011年1月6日閲覧。
  50. ^ このテレビ番組で、『エベレストに単独無酸素で登頂する様子を世界中に生中継するプロジェクト』のプレゼンテーションを行ったが、採用には至らなかった。
  51. ^ ノーリミット 終わらない挑戦 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス

関連項目

外部リンク