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「サラエボ事件」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2013年1月}}
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{{Infobox 事件・事故
{{Infobox 事件・事故
| 名称 = サラエボ事件
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'''サラエボ事件'''(サラエボじけん、'''サラエヴォ事件'''、'''サライェヴォ事件''')は、[[1914年]][[6月28日]]に[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[皇]][[国王]]の継承者[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント]]とその妻ゾフィーが、[[サラエボ]](当時オーストリア領、現[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]領)を視察中、[[ボスニア]]出身の{{仮リンク|ボスニア系セルビア人|bs|Bosanski Srbi}}の青年[[ガヴリロ・プリンツィプ]]によって[[暗殺]]された事件。この事件きっかけとなって[[第一次世界大戦]]が開戦した。
'''サラエボ事件'''(サラエボじけん、'''サラエヴォ事件'''、'''サライェヴォ事件''')は、[[1914年]][[6月28日]]に[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[推定相続人|位継承者]]である[[オーストリア大公]][[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント]]とその妻[[ゾフィー・ホテク]]が、[[サラエボ]](当時オーストリア領、現[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]領)を訪問中、[[ボスニア]]出身の{{仮リンク|ボスニア系セルビア人|bs|Bosanski Srbi}}の青年[[ガヴリロ・プリンツィプ]]によって[[暗殺]]された事件。プリンツィプは、セルビア系秘密結社「[[黒手組]]」の一員{{仮リンク|ダニロ・イリッチ|en|Danilo Ilić}}によって組織された6人の暗殺者(5人のボスニア系セルビア人と1人の[[ボシュニャク人]])のうちの1人だった。暗殺者らの目的は{{仮リンク|青年ボスニア|en|Young Bosnia}}と呼ばれる革命運動と一致していた。この事件きっかけと[[オーストリア=ハンガリー帝国]]は[[セルビア王国_(近代)|セルビア王国]]に[[オーストリア最後通牒|最後通牒]]を突きつけ、[[第一次世界大戦]]の勃発につなた。


暗殺の実行犯と、暗殺を支援した地下ネットワークのメンバー、および暗殺を計画した[[セルビア軍]]関係者は逮捕されて裁判にかけられ、有罪判決を受けたのちに処罰された。 ボスニアで逮捕された者たちは1914年10月にサラエボで裁判にかけられた。その他の者たちは、1917年に暗殺とは無関係な罪状でセルビア当局によって起訴され、フランス支配下の[[テッサロニキ]]で裁判にかけられた。テッサロニキ裁判では3人のセルビア軍高官が処刑された。その中の1人であり、事件当時セルビア軍諜報部長だった[[ドラグーティン・ディミトリエビッチ]]は、自らがフランツ・フェルディナントの暗殺を指令したことを裁判中に告白した。
== 背景 ==
==背景==
ボスニア・ヘルツェゴビナは[[1878年]]の[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]でオーストリアが占領し、その後[[1908年]]には[[ボスニア・ヘルツェゴビナ併合|正式にオーストリア領に併合]]されていた。多くのボスニア住民、特にボスニアのセルビア人住民はこれに反発し、セルビアや他の[[南スラヴ人|南スラヴ]]諸国への統合を望んでいた。
[[File:Zofia_von_Hohenbergzmężem.JPG|thumb|200px|[[オーストリア大公]][[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント]]とその妻[[ゾフィー・ホテク]]]]
[[1878年]]締結の[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]により、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]は([[オスマン帝国]]に名目上の主権は残されたものの)ボスニアを占領し施政を行う権限を得た。同条約はさらに、[[セルビア公国 (近代)|セルビア公国]]が完全な主権国家としてオスマン帝国から独立することを承認していた。独立したセルビア公国では[[1882年]]にミラン・オブレノヴィチ4世がセルビア王[[ミラン1世 (セルビア王)|ミラン1世]]として即位し、[[セルビア王国_(近代)|セルビア王国]]が成立した。セルビアの王家である[[オブレノヴィッチ家]]はオーストリア=ハンガリーとの密接な関係を保ち、ベルリン条約によって定められた領土を統治することに満足していた。{{sfn|MacKenzie|1995|pp=9–10}}


1903年5月、[[ドラグーティン・ディミトリエビッチ]]率いる[[セルビア]]軍士官の一派がセルビア王宮を襲撃したことで、その状況は一変した。セルビア王[[アレクサンダル1世 (セルビア王)|アレクサンダル1世]]と王妃ドラガは繰り返し銃で撃たれ殺害された。一説には、その後「王と王妃の亡骸は服を脱がされ、残忍に切り刻まれた」と言われている{{sfn|MacKenzie|1995|p=22}}。襲撃者らは2人の死体を宮殿の窓から投げ捨て、王に忠実な勢力が反撃を試みる可能性を排除した{{sfn|MacKenzie|1995|pp=22–23}}。襲撃を計画した者たちは、[[カラジョルジェヴィチ家]]の[[ペータル1世 (セルビア王)|ペータル1世]]を新たなセルビア王に即位させた{{sfn|MacKenzie|1995|pp=23–24}}。
オーストリア当局はセルビアにとって重要な祝日である[[ルカニアのヴィトゥス|聖ヴィトゥス]]の日({{lang|sr|Vidovdan}})にあたる6月28日をフェルディナント大公のサラエヴォ訪問の当日に設定した。この日はまた、[[1389年]]にセルビアが[[オスマン帝国]]に敗北を喫した[[コソボの戦い]]の行われた日でもあったため、皇太子夫妻の訪問はセルビア人の神経を逆撫でする結果ともなった。


新しい王朝は以前よりもセルビア民族主義的かつ[[親露]]的であり、オーストリア=ハンガリー帝国との関係は悪化した{{sfn|MacKenzie|1995|pp=24–33}}。その後の10年間、セルビアは勢力の拡大に向かい、[[セルビア帝国|14世紀の帝国]]を徐々に再生しようとしたため、近隣諸国との間では数々の紛争が発生した。1906年に始まったオーストリア=ハンガリーとの[[関税]]戦争(一般に「[[豚戦争 (1906年)|豚戦争]]」と呼ばれる){{sfn|MacKenzie|1995|p=27}}、オーストリアによる[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]併合に抗議したことで引き起こされた1908-1909年の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ併合#ボスニア危機|ボスニア危機]]{{sfn|Albertini|2005|pp=291–292}}、そしてオスマン帝国からマケドニアとコソボを獲得し、ブルガリアを駆逐した1912-1913年の[[第一次バルカン戦争|第一次]]・[[第二次バルカン戦争]]がそのような紛争の例だった{{sfn|Albertini|2005|pp=364–480}}。
また、6月28日は大公夫妻の14回目の結婚記念日でもあった。大公の妃[[ゾフィー・ホテク|ゾフィー]]はボヘミアの[[伯爵]]家出身の皇族妃付女官であり、身分的には[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント]]とは全く釣り合っていない[[貴賤結婚]]であった。このため、[[ハプスブルク家]]は彼女を皇族の一員とは認めておらず、ゾフィーは公式な場に夫と「夫妻」として出席することも禁じられていた。しかし、この時には結婚記念日であり、また本国から遠く離れたボスニアへの視察ということもあって、夫妻が同伴することが特別に許可された。


セルビアの軍事的成功と、オーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナ併合に対する怒りは、セルビア国内外のセルビア民族主義者を勢いづかせた。特にオーストリア=ハンガリー帝国領に住むセルビア人は、帝国による統治に不満を募らせており、その民族主義的感情はセルビア系の「文化的」な団体によって扇動されていた{{sfn|MacKenzie|1995|pp=36–37}}{{sfn|Albertini|1953|pp=19–23}}。1914年までの5年間、[[クロアチア]]とボスニア・ヘルツェゴビナにおいて、単独犯の暗殺者(主にオーストリア=ハンガリー領内のセルビア人市民だった)がオーストリア=ハンガリー帝国官吏の暗殺を試み、失敗するという事件が多数発生していた{{sfn|Dedijer|1966|pp=236–270}}。
なお、オーストリア政府には事件前に[[黒手組]]に関する情報が届けられていたとされるが、当局の対応は極めて杜撰なもので、黒手組の動きを察知していたセルビア政府も、彼らを国境付近で逮捕する命令も出していたが、当の国境警備員が黒手組のメンバーだったために逮捕に失敗してしまった。
[[File:Gavrilo Princip, outside court.jpg|thumb|left|200px|[[ガヴリロ・プリンツィプ]]]]
1910年6月15日、{{仮リンク|ボグダーン・ツェラジッチ|en|Bogdan Žerajić}}は当時のボスニア・ヘルツェゴヴィナ総督{{ill2|マリヤン・ヴァレシャニン|en|Marijan Varešanin}}の暗殺を試みたが、失敗した。22歳のツェラジッチは、ヘルツェゴビナ出身の[[ザグレブ大学]]法学部の学生で、[[セルビア正教会|正教会]]を信仰するセルビア人であり、頻繁に[[ベオグラード]]を訪れていた{{sfn|Dedijer|1966|p=243}} (ヴァレシャニンには1910年後半にボスニアで農民の蜂起を鎮圧した過去があった){{sfn|Dedijer|1966|pp=203–204}}。ツェラジッチはヴァレシャニンに向けて5発の弾丸を発射した後、自らの頭部を撃って自殺しており、その行為は[[ガヴリロ・プリンツィプ]]のような未来の暗殺者にインスピレーションを与えた。プリンツィプはのちに、ツェラジッチが「私が最初に模範とした人物であり、私が17歳の時、彼の墓の前で何度も夜を過ごし、彼のことを考え、また惨めな現状を思い返した。そして墓の前で、私もいずれは暴力的な手段に訴えることを決めた」と語った{{sfn|Albertini|1953|p=50}}。


1913年、オーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]は大公フランツ・フェルディナントに対し、1914年6月に予定されているボスニアでの軍事演習を視察するよう命令した{{sfn|Dedijer|1966|p=285}}。大公とその妻ゾフィーは、演習の後に[[サラエボ]]を訪問し、そこに新設される国立博物館の開館に立ち会うことを計画した{{sfn|Dedijer|1966|p=9}}。大公夫妻の長男[[マクシミリアン・ホーエンベルク]]によると、ゾフィーが視察旅行に同行したのは夫の安全を危惧してのことだった{{sfn|Dedijer|1966|p=286}}。
== 暗殺グループメンバー ==
{{multiple image
| align = right
| direction = vertical
| width = 250
| image1 = FranzFerdinandCar.jpg
| alt1 =
| caption1 = 暗殺時にフランツ・フェルディナントが乗っていた[[グラーフ&シュティフト]]の「ドッペル・フェートン」。弾丸の穴は後部車輪上にある。(2003年の[[ウィーン軍事史博物館]]にて撮影)
| image2 = Sarajevo Lateinerbrücke 1.JPG
| caption2 = サラエボ事件が発生した「ラテン橋」
| alt2 =
| image3 = Gavrilo_Princip_captured_in_Sarajevo_1914.jpg
| caption3 = 逮捕されるプリンツィプ(写真)
| alt3 =
}}
計画決行後に自殺するための青酸が全員に配られた。


ゾフィーは貴族出身ではあったが王族出身ではなく、ハプスブルク家の[[推定相続人|皇位継承者]]である大公フランツ・フェルディナントとの結婚は[[貴賤結婚]]となった。 皇帝フランツ・ヨーゼフは、2人の間に生まれた子孫が皇位を継がないことを条件として結婚を承認していた。視察が予定されている6月28日は2人の14回目の結婚記念日であった。ゾフィーの置かれていた立場について、 歴史家[[A・J・P・テイラー]]は次のように述べている。
*{{仮リンク|ダニロ・イリイッチ|en|Danilo Ilić}}(爆弾運搬、プリンツィプの幼馴染、計画では監視役)
*{{仮リンク|ネデリュコ・チャブリノヴィッチ|en|Nedeljko Čabrinović}}(ボスニアの印刷工場で無政府スト決行で国外追放。結核末期。計画では手榴弾投擲)
*{{仮リンク|トリフコ・グラベジュ|en|Trifko Grabež}}(学生時代に教師に暴行で前科)
*{{仮リンク|クヴジェトコ・ポポヴィッチ|en|Cvjetko Popović}}(学生、イリイッチが誘う、計画では爆弾担当)
*{{仮リンク|ヴァソ・チュブリロヴィッチ|en|Vaso Čubrilović}}(学生、イリイッチが誘う、計画では爆弾担当)
*{{仮リンク|ムハメド・メフメドバシッチ|en|Muhamed Mehmedbašić}}(計画では先手役だったが行動せず)
*[[ガヴリロ・プリンツィプ]](計画ではしんがりの刺客)


{{Quote|(ゾフィーには、大公の)階級を共有することは絶対に許されなかった。……夫のような華やかさを共有することはできず、公の場では彼の横に座ることさえ許されていなかった。しかし、1つの抜け道が存在した。……彼が軍人として行動する場合に限り、その妻は同じ階級に属する者として振る舞うことができたのだ。それ故に、大公は1914年にボスニアで軍を視察することに決めたのだった。ボスニアの首都サラエボでは、大公とその妻は屋根のない馬車に隣同士座って移動することができた。……このようにして、愛のため、大公は死地に赴いたのである。{{sfn|Taylor|1963|p=13}}}}
== 暗殺 ==
事件の正確な経緯は明らかとなっていない。この節で示すのは、互いに矛盾する目撃者からの情報を集めたものである。


大公フランツ・フェルディナントは[[ドナウ連邦構想|連邦化構想]]の支持者であり、オーストリア=ハンガリー二重帝国内のスラブ人地域から第三の王国を形成し、二重帝国を三重帝国へと改編することに賛成していると見られていた{{sfn|Albertini|1953|pp=11–17}}。スラブ民族による第三の王国は、セルビア[[民族統一主義]]に対する防波堤となる可能性があり、そのためにセルビア民族統一主義者らは大公を脅威として認識していた{{sfn|Albertini|1953|pp=87–88}}。プリンツィプは裁判中、大公が計画していた改革の阻止が暗殺の動機の1つであると述べた{{sfn|Albertini|1953|p=49}}。
午前10時15分に4台の車からなる車列が1人目の暗殺犯{{仮リンク|ムハメド・メフメドバシッチ|en|Muhamed Mehmedbašić}}の前を通り過ぎた。彼は窓から大公を狙撃しようとしたが、引き金を引かなかった。10時頃、2人目の犯人{{仮リンク|ネデリュコ・チャブリノヴィッチ|en|Nedeljko Čabrinović}}が[[手榴弾]](または[[ダイナマイト]])を大公の乗る車に投げつけたが、爆発に時間差があって後続の車の12名が負傷した。車列はスピードを上げて市庁舎に向かった。車が市庁舎に着いた時の映像が残されており、運転手が車の後ろをチェックする様子が映っている。サラエボ事件当日の映像は、この後の大公らが市庁舎を出る時の映像とこれの2点のみである。


大公夫妻が暗殺された6月28日([[ユリウス暦]]における6月15日)は、セルビアでは[[ルカニアのヴィトゥス|聖ヴィトゥス]]の日({{lang|sr|Vidovdan}})と呼ばれる祝日であるのと同時に、[[1389年]]の[[コソボの戦い]]の記念日でもあり、コソボの戦いではオスマン帝国の[[スルタン]]がセルビア人によって暗殺される事件が起きていた<ref>{{cite book|author=Isabelle Dierauer|title=Disequilibrium, Polarization, and Crisis Model: An International Relations Theory Explaining Conflict|url=https://books.google.com/books?id=GCuDsecLWmYC|date=16 May 2013|publisher=University Press of America|isbn=978-0-7618-6106-5|page=88}}</ref>。
失敗したチャブリノヴィッチは毒を飲み川に身を投げたが、彼は水深が10cmしかない川から引きずり出された後、身柄を警官に拘束されるまで民衆から手ひどい暴行を受けた。爆発音を聞いて、残りの暗殺犯の数名が持ち場を離れた。
==暗殺==
[[File:Heeresgeschichtliches_Museum_Wien_Attentat_in_Sarajevo_Auto_201703.jpg|thumb|200px|大公フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺時に乗っていた1911年式[[グラーフ&シュティフト]] 28/32 PS(2017年に[[ウィーン軍事史博物館]]で撮影)]]
===6台の車列===
1914年6月28日の朝、大公フランツ・フェルディナントとその一行は列車に乗り、イリジャ・スパからサラエボまで移動した{{sfn|Dedijer|1966|p=9}}。ボスニア・ヘルツェゴビナ総督{{ill2|オスカル・ポティオレク|en|Oskar Potiorek}}は、サラエボ駅で一行を出迎えた。駅には6台の自動車が待っていた。手違いにより、先頭車両には特別警備の隊長と共に3人の地元警察官が乗り込んでしまい、隊長に同行するはずだった特別警備隊員らは取り残された{{sfn|Dedijer|1966|p=11}}。 2台目の車両にはサラエボの市長と警察署長が乗り込んだ。3台目の車両はオープンカーの[[グラーフ&シュティフト]] 28/32 PSで、屋根([[幌|ほろ]])は折りたたまれていた。この3台目の車には、大公夫妻とポティオレク、フランツ・フォン・ハラック伯爵の4人が乗り込んだ{{sfn|Dedijer|1966|p=11}}。予告されていたプログラムによれば、6台の自動車はまず最初に駐留軍の[[バラック|兵舎]]を訪れ、簡単な視察を済ませた後、午前10時00分に兵舎を出発し、アペル・キー(Appel Quay)と呼ばれる川沿いの道を通ってサラエボ市庁舎に向かうことになっていた{{sfn|Dedijer|1966|p=9; 12}}。


大公の訪問時、サラエボ市内の警備体制は限定的だった。当地の軍司令官ミハエル・フォン・アペルは、軍の兵士を一行の予定ルートに沿って配置することを提案していたが、そのような措置は(オーストリアに)忠実な市民の感情を害することになるとして却下された。結果として、一行の警護はサラエボ警察に委ねられており、訪問当日の日曜日には当直の警察官は約60人に過ぎなかった。<ref>{{cite book|first=Greg|last=King|pages=168–169|title=The Assassination of the Archduke|ISBN=978-1-4472-4521-6}}</ref>
市庁舎に到着していたフェルディナント大公は予定を変更し、爆発で怪我をした者を見舞いに病院へ向かうことにした。一方、食事を摂るためにプリンツィプが立ち寄った店の前の交差点で、病院へ向かう大公の車が道を誤り方向転換をした事で、プリンツィプはその車に大公が乗っている事に偶然気がついた。ちょうどサンドイッチを食べた後だった彼は[[拳銃|ピストル]]を取り出して、車に駆け寄って1発目を妊娠中の妃ゾフィーの腹部に、2発目を大公の首に撃ち込んだ。大公夫妻はボスニア総督官邸に送られたが、2人とも死亡した。
===爆弾による暗殺未遂===
[[File:Sarajevo-jiken.png|thumb|280px|right|サラエボ事件の経緯を4段階で示した図]]
[[File:El_Archiduque_a_través_de_Sarajevo.jpg|thumb|200px|right|暗殺当日、大公夫妻を乗せてサラエボ市内を走行中のオープンカー]]
6台の車列は[[ミリャツカ川]]沿いの通り(アペル・キー)に入り、1人目の暗殺者{{仮リンク|ムハメド・メフメドバシッチ|en|Muhamed Mehmedbašić}}の前を通過した。暗殺者グループを率いる{{仮リンク|ダニロ・イリッチ|en|Danilo Ilić}}は、メフメドバシッチを爆弾で武装させ、モスタール・カフェ(Mostar Cafe)に隣接する庭の前に立たせていたが{{sfn|Dedijer|1966|p=313}}、メフメドバシッチが行動を起こせないまま車列は通り過ぎた。イリッチは{{仮リンク|ヴァソ・チュブリロヴィッチ|en|Vaso Čubrilović}}にピストルと爆弾を持たせ、メフメドバシッチの隣に配置していたが、チュブリロヴィッチもまた何もできなかった。通りのさらに先には、爆弾を持った3人目の暗殺者{{仮リンク|ネデリュコ・チャブリノヴィッチ|en|Nedeljko Čabrinović}}が失敗した2人とは反対側(ミリャツカ川側)に配置されていた。


午前10時10分{{sfn|Dedijer|1966|p=12}}、大公夫妻を乗せた車が接近し、チャブリノヴィッチは爆弾を投げつけた。爆弾はオープンカーの折りたたまれていた[[幌]]に当たって跳ね返り、路上に落ちた{{sfn|Albertini|1953|p=35}}。爆弾は[[時限爆弾|時限起爆装置]]によって後続車の下で爆発し、車は破壊されて走行不能となり、16-20名が負傷した。この爆発は直径30cm、深さ170mmのクレーターを残した。{{sfn|Dedijer|1966|p=12}}{{sfn|Dedijer|1966|loc= Chapter XIV, footnote 21}}。チャブリノヴィッチは自決用の毒薬([[シアン化物]])を飲み込み、ミリャツカ川に身を投げたが、古く劣化していた毒薬は嘔吐を引き起こしただけで、暑く乾燥した夏のために川の水深はわずか13cmであり、自殺は未遂に終わった<ref>Malmberg, Ilkka: ''Tästä alkaa maailmansota''. ''[[Helsingin Sanomat]]'' monthly supplement, June 2014, pp. 60-65.</ref>。チャブリノヴィッチは警察によって川から引きずり出され、拘留される前に群衆から激しい暴行を受けた。
暗殺に成功したプリンツィプは最初は毒を仰いで、次にピストルで自殺を図ったが、拒否反応で毒を吐いてしまい、ピストルも奪われて自殺できなかった。


破壊された車両を置き去りにして、残った5台の車両はスピードを上げ、市庁舎に向かって走り去った。{{仮リンク|クヴジェトコ・ポポヴィッチ|en|Cvjetko Popović}}、[[ガヴリロ・プリンツィプ]]、{{仮リンク|トリフコ・グラベジュ|en|Trifko Grabež}}の3人は、スピードを上げた車列が目の前を高速で通過したため、行動を起こせなかった。{{sfn|Dedijer|1966|pp=318–320; 344}}
== その後 ==
当局の尋問の間、プリンツィプをはじめとする暗殺犯たちは黙秘を貫いていたが、{{仮リンク|ダニロ・イリイッチ|en|Danilo Ilić}}が自白し、武器がセルビア政府の支給品であったことを告白した。


===市庁舎での歓迎式===
=== 第一次世界大戦へ ===
[[File:Arciduca_Francesco_Ferdinando.jpg|thumb|200px|サラエボ市庁舎を出て車に戻ろうとする大公夫妻(暗殺の数分前に撮影)]]
オーストリア=ハンガリー帝国政府はセルビア政府を非難し、セルビアにとって受け入れがたい要求を含んだ[[オーストリア最後通牒|最後通牒]]を突きつけた。オーストリア政府はセルビアが48時間以内に無条件で全条件を受け入れなければ宣戦布告することを通告した。セルビア政府は二点のみを除いてこの要求を受諾した。
大公フランツ・フェルディナントを乗せた車は{{ill2|サラエヴォ市庁舎|en|Vijećnica|label=サラエボ市庁舎}}に到着し<ref>車が市庁舎に着いた時の映像が残されており、運転手が車の後ろをチェックする様子が映っている。サラエボ事件当日の映像は、この後の大公らが市庁舎を出る時の映像とこれの2点のみである。</ref>、大公は市庁舎内で予定されていた歓迎式に参加したが、彼は直前に遭遇した出来事によるストレスを隠せない様子だった{{sfn|Albertini|1953|pp=36–37}}。大公はフェヒム・クルチッチ市長による歓迎のスピーチを途中でさえぎると、「市長殿、私はここに来るやいなや爆弾を投げつけられたぞ。一体どうなっているんだ」と言って抗議した{{sfn|Albertini|1953|pp=36–37}}。その後、妻ゾフィーは大公の耳に何かささやいた。そしてしばらくして、大公は市長に「もう良い、話を続けなさい」と告げた{{sfn|Dedijer|1966|p=12}}。この時までに大公は落ち着きを取り戻しており、市長は無事にスピーチを終えた。続いて大公がスピーチを行う番となったが、彼のスピーチ原稿は爆弾で走行不能となった車両に積まれていたため、原稿が市庁舎に届けられるまでに時間がかかり、ようやく届いた原稿は負傷者の血で濡れていた。大公は用意された原稿に、当日の出来事についての発言をいくつか付け加え、サラエボの人々の歓迎には「暗殺の試みが失敗したことへの歓喜が表れている」として感謝の意を述べた{{sfn|Dedijer|1966|pp=13–14}}。


大公夫妻に同行していた者たちは、次に何をすべきかについて議論した。大公の侍従であるルメルスキルヒ男爵は、兵士らが市内に到着して警備の体制を整えるまで、大公夫妻は市庁舎を離れるべきではないと提案した。オスカル・ポティオレク総督は、演習から直接やって来る兵士はそのような任務にふさわしい[[礼装]]を着ていないとして、この提案を拒絶した<ref name="Buttar 282">{{cite book|first=Prit|last=Buttar|page=282|title=Collision of Empires|ISBN=978-1-78200-648-0}}</ref>。 ポティオレクは、「サラエボは暗殺者だらけとでもお思いですか?」と言って議論を終わらせた<ref name="Buttar 282"/>。
しかし、1914年[[7月28日]]オーストリアは無条件での受諾を求める事前の通告通りセルビアに対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発した。


大公フランツ・フェルディナントとゾフィーは予定していた計画を諦め、爆弾による負傷者を見舞うためサラエボ病院を訪れることを決めた。午前10時45分、大公夫妻は市庁舎を出て車列に戻り、再び3台目の車に乗り込んだ{{sfn|Dedijer|1966|p=15}}。街の中心部を避けるため、ポティオレク総督は大公の車の予定されていた運転ルートを変更し、病院までアペル・キーをまっすぐ進ませることに決めていた。しかし、運転手{{ill2|レオポルト・ローチャ|en|Leopold Lojka}}<ref>{{cite news|author= |url=http://content.time.com/time/magazine/article/0,9171,722283,00.html |title=Time Magazine Milestones (as Leopold Lojka) |publisher=Time.com |date=1926-08-09 |accessdate=2010-08-03}}</ref>はアペル・キーからフランツ・ヨーゼフ通りに向け右折した。これは、ポティオレクの補佐官エリック・フォン・メリッツィが入院中であり、運転ルートの変更についてローチャに伝えることができなかったためだった<ref>{{cite web|url=https://archive.org/stream/sarajevothestory010489mbp/sarajevothestory010489mbp_djvu.txt |title=Full text of "Sarajevo The Story of a Political Murder" |publisher=Archive.org |date= |accessdate=2013-10-28}}</ref>。
=== 暗殺犯のその後 ===
===大公夫妻の射殺===
[[image:Gavrilloprincip.jpg|thumb|220px|[[テレジーン]]の刑務所独房でのプリンツィプ]]
[[File:Gavrilo_Princip_captured_in_Sarajevo_1914.jpg|thumb|200px|right|暗殺直後の現場の様子{{sfn|Butcher|2014|loc=p. 277; この写真はプリンツィプ逮捕の模様を写したものとされることが多いが、現代の歴史家は、連行されているのは現場に偶然居合わせたフェルディナント・ベーア(Ferdinand Behr)という人物であると考えている}}]]
暗殺犯たちは、逃走したメフメトバシッチ、成年であったために[[1915年]]に[[絞首刑]]となったイリイッチを除いて、[[懲役|懲役刑]]を課せられた。終身刑のプリンツィプ([[1918年]])、懲役刑のチャブリノヴィッチ([[1916年]])とグラベジュ(1918年)は獄中で[[結核]]のために死亡している。メフメトバシッチは第一次世界大戦後に帰国して服役した後[[1919年]]に出所、[[1943年]]にサラエボで[[ウスタシャ]]により殺害されている。ポポヴィッチとチュブリロヴィッチは終戦直後の1918年に出所。ポポヴィッチは[[サラエボ博物館]]の[[学芸員]]を勤め、[[1980年]]に死去。サラエボ事件当事者最後の生き残りとなったチュブリロヴィッチは[[ベオグラード大学]]教授、[[ユーゴスラビア]]森林相を勤め、[[1990年]]に死去した。
[[File:Gabrillo Princip's pistol (3444725633).jpg|thumb|180px|プリンツィプが大公フランツ・フェルディナントを殺害したピストル([[FN ブローニングM1910|FNモデルM1910]])]]
爆弾による暗殺が失敗したのを知ったプリンツィプは、大公を帰路で暗殺するにはどの位置にいるべきかを考え、最終的には[[ラテン橋]]の近くにある食料品店(シラーズ・[[デリカテッセン]])の前で待機することに決めた{{sfn|Owings|1984|pp=67-8}}。その頃、市庁舎を出発した車列の1台目と2台目が唐突に右折してアペル・キーを離れ、わき道に入っていった{{sfn|MacMillan|2013|pp=517-518}}。大公が乗る3台目の車の運転手が、前の2台のルートを追って右折しようとした時、同乗していたポティオレク総督は運転手に向かって叫び、道を間違えたから停車するよう指示した{{sfn|MacMillan|2013|p=518}}。運転手がブレーキを踏み、車が停止した場所にはプリンツィプが立っていた{{sfn|MacMillan|2013|p=518}}。プリンツィプは自動車の[[ランボード|踏み板]]に登ると、フランツ・フェルディナントとゾフィーを至近距離から射撃した{{sfn|MacMillan|2013|p=518}}。歴史家ルイジ・アルベルティーニによれば、「最初の弾丸は大公の[[頸静脈]]を傷つけ、2発目の弾丸は女公爵の腹部に致命傷を与えた」という{{sfn|Albertini|1953|p=36}}。プリンツィプは自らを撃って自殺しようとしたが、直ちに群衆によって取り押さえられ、逮捕された{{sfn|MacMillan|2013|p=518}}。プリンツィプはのちに裁判の判決に際して、自分はゾフィーの殺害を意図しておらず、彼女が受けた弾丸はポティオレク総督に向けて放ったものだったと述べた{{sfn|Dedijer|1966|p=346}}。
[[File:Uniform_worn_by_Ferdinand_when_he_was_assassinated_in_Sarajevo.jpg|thumb|left|140px|暗殺時に大公が着用していた軍服]]
ゾフィーは撃たれた直後に意識を失い、フランツ・フェルディナントの膝の上に倒れこんだ{{sfn|MacMillan|2013|p=518}}。大公もまた、治療のため総督公邸に連れて行かれる間に意識不明の状態となった{{sfn|MacMillan|2013|p=518}}。フォン・ハラック伯爵の報告によれば、大公の最後の言葉は「ゾフィー、ゾフィー!死んでは駄目だ。子供たちのために生きてくれ」というものだった。その後、怪我についての伯爵の質問に答えて、大公は6-7回「大したことはない」という言葉を発し{{sfn|Albertini|1953|pp=37–38}}、その後には長い[[死前喘鳴]]が続いた。 ゾフィーは総督公邸に到着した時点で死亡しているのが確認された。大公フランツ・フェルディナントはその10分後に死亡した{{sfn|Albertini|1953|p=38}}。


===葬儀===
第一次世界大戦後から[[ユーゴスラビア]]の崩壊までプリンツィプはセルビアの愛国者として賞揚された。暗殺現場付近の橋はプリンツィプ橋と名づけられたが、現在は元の[[ラテン橋]]という名称に戻されている。
大公夫妻の遺体は[[フィリブス・ウニティス (戦艦)|戦艦フィリブス・ウニティス]]で[[トリエステ]]まで運ばれ、その後は特別列車でウィーンへと運ばれた<ref name=funeral>{{cite news |title=The Funeral of the Archduke |url=https://archive.org/stream/independen79v80newy#page/n64/mode/1up |newspaper=The Independent |location=New York |date=Jul 13, 1914|page=59 |accessdate=August 9, 2013}}</ref>。多くの外国の王族が葬儀への出席を希望したが、オーストリア政府はそれを断り、葬儀に参列したのはオーストリア皇室のメンバーのみとなった<ref name=funeral/>、ゾフィーは[[カプツィーナー納骨堂]]に入ることを許されなかったため、夫妻は大公の生前の希望通り{{仮リンク|アルトシュテッテン城|de|Schloss Artstetten}}に埋葬された<ref name=funeral/>。
===その後===
[[File:1914-06-29_-_Aftermath_of_attacks_against_Serbs_in_Sarajevo_-_Street_photo_5.jpg|thumb|right|200px|暗殺の翌日(6月29日)にサラエボで発生した反セルビア暴動後の様子]]
最終的に、サラエボ事件の暗殺者は全員が逮捕された{{sfn|Albertini|1953|p=45}}。オーストリア=ハンガリー帝国内で逮捕された暗殺者たちは、彼らをサラエボに潜入させ、また武器を密輸するなど暗殺を支援した地下ネットワークのメンバーと共に裁判にかけられた。メフメドバシッチはモンテネグロで逮捕されたが、拘留中にセルビアへ逃げることを許され、その後セルビア軍の外人部隊に加入した<ref>''Documents Diplomatiques Francais III Serie 1911–14,3'', X Doc. 537</ref>。1917年、セルビア亡命政府はメフメドバシッチを暗殺と無関係の虚偽の罪状で投獄した。([[#テッサロニキ裁判(1917年春)]]参照)


暗殺の数時間後から、サラエボ市内やオーストリア=ハンガリーの他の地域で反セルビア暴動が発生し、暴動は軍が治安回復に動くまで収束しなかった{{sfn|Albertini|1953|pp=120-1}}。暗殺当日の夜、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]や[[クロアチア]]ではセルビア系住民に対する虐殺も行われた<ref>{{cite book|title=Reports Service: Southeast Europe series|url=https://books.google.com/books?id=QGtWAAAAMAAJ|accessdate=7 December 2013|year=1964|publisher=American Universities Field Staff.|page=44|quote=... the assassination was followed by officially encouraged anti-Serb riots in Sarajevo and elsewhere and a country-wide pogrom of Serbs throughout Bosnia-Herzegovina and Croatia.}}</ref><ref name="ProhićBalić1976">{{cite book|author1=Kasim Prohić|author2=Sulejman Balić|title=Sarajevo|url=https://books.google.com/books?id=QVdpAAAAMAAJ|accessdate=7 December 2013|year=1976|publisher=Tourist Association|page=1898|quote= Immediately after the assassination of 28th June, 1914, veritable pogroms were organised against the Serbs on the...}}</ref>{{sfn|Johnson|2007|p=27}}。それらの暴力行為は当時のボスニア・ヘルツェゴビナ総督{{ill2|オスカル・ポティオレク|en|Oskar Potiorek}}によって組織され、また扇動されていた<ref name="Novak1971">{{cite book|last=Novak|first=Viktor|authorlink=Viktor Novak|title=Istoriski časopis|url=https://books.google.com/books?id=To9pAAAAMAAJ|accessdate=7 December 2013|year=1971|page=481|quote=Не само да Поћорек није спречио по- громе против Срба после сарајевског атентата већ их је и организовао и под- стицао.}}</ref>。サラエボ市の警察は暴動を抑制するための努力を何もしなかった{{sfn|Mitrović|2007|p=18}}。小説家[[イヴォ・アンドリッチ]]は、サラエボの反セルビア暴動を「憎しみに満ちたサラエボの熱狂」と表現した{{sfn|Gioseffi|1993|p=246}}。サラエボ市では暴動初日に2人のセルビア人が殺害され、破壊または略奪されたセルビア人所有の住宅、店舗、学校、施設(銀行、ホテル、印刷所など)は合計で約1000軒にのぼった{{sfn|Donia|2006|p=125}}。
====サラエボ事件100周年====
==実行犯の逮捕と裁判==
===サラエボ裁判(1914年10月)===
オーストリア=ハンガリー当局は、暗殺の実行犯(モンテネグロを経由しセルビアに逃亡したメフメドバシッチを除く全員)<ref>''Documents Diplomatiques Francais III Serie 1911–14,3'', X Doc. 537. This document notes that the diplomatic cable was forwarded to the Secret Service of the National Security Department to investigate the matter of the January 1914 irredentist planning meeting in France but the Secret Service did not report back.</ref>および暗殺計画を援助した者たちを逮捕・起訴した。起訴状における最上級の罪状は、[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]官吏が関与した[[大逆]]の共謀というものだった。単なる殺人の共謀とは異なり、大逆の共謀では死刑が宣告される可能性があった。裁判は1914年10月12日から10月23日にかけてサラエボで行われ、10月28日に判決が言い渡された。
==== 暗殺実行犯 ====
[[File:Proces w Sarajewie s.jpg|thumb|250px|サラエボ裁判の様子(最前列に座る5人は左から: グラベジュ、チャブリノヴィッチ、プリンツィプ、イリッチ、ジョヴァノヴィッチ)]]
*{{仮リンク|ダニロ・イリッチ|en|Danilo Ilić}}(セルビア軍士官[[ドラグーティン・ディミトリエビッチ]]が率いる[[民族統一主義]]テロ組織「[[黒手組]]」のサラエボ地区指導者であり、大公フランツ・フェルディナントを殺害するための暗殺実行グループを組織・統率した。ボスニア系セルビア人であり教師や銀行員として働いた経験があった)
*{{仮リンク|ムハメド・メフメドバシッチ|en|Muhamed Mehmedbašić}}(「黒手組」の一員。没落した[[ボシュニャク人]]貴族の息子であり大工として働いていた)
*{{仮リンク|クヴジェトコ・ポポヴィッチ|en|Cvjetko Popović}}(イリッチにより暗殺実行グループに加えられた未成年のボスニア系セルビア人)
*{{仮リンク|ヴァソ・チュブリロヴィッチ|en|Vaso Čubrilović}}(イリッチにより暗殺実行グループに加えられた未成年のボスニア系セルビア人)
*[[ガヴリロ・プリンツィプ]](ベオグラードに住む未成年のボスニア系セルビア人。裁判では、大公のサラエボ訪問を知り、グラベジュ、チャブリノヴィッチと共に自主的にイリッチの暗殺計画に加わったと主張した)
*{{仮リンク|ネデリュコ・チャブリノヴィッチ|en|Nedeljko Čabrinović}}(ベオグラードに住む未成年のボスニア系セルビア人。裁判では、他の2人と共に自主的にイリッチの暗殺計画に加わったと主張した)
*{{仮リンク|トリフコ・グラベジュ|en|Trifko Grabež}}(ベオグラードに住む未成年のボスニア系セルビア人。裁判では、他の2人と共に自主的にイリッチの暗殺計画に加わったと主張した)

==== サラエボ裁判の経過 ====
死刑となる可能性がある成年の被告らは裁判中、自らの暗殺への関与は不本意だったと主張した。セルビア民族主義組織{{仮リンク|ナロードナ・オドブラナ|en|Narodna Odbrana}}の一員であり、武器輸送の調整役を務めた{{仮リンク|ヴェリコ・チュブリロヴィッチ|en|Veljko Čubrilović}}もそのような被告の一例であった。チュブリロヴィッチは、プリンツィプの背後には残虐な革命組織が存在したため、彼に従わなければ自分の住居は破壊され、家族は殺害されることになると恐れていたと述べた。なぜ法による保護を求めず、法によって裁かれる危険を犯したのかについて尋ねられた際に、チュブリロヴィッチは「私にとっては暴力の方が法律よりも恐ろしかった」と述べた{{sfn|Owings|1984|p=170}}。

セルビア王国の官吏が暗殺に関与したという告発に対して、ベオグラードから計画に参加した3人(プリンツィプ、チャブリノヴィッチ、グラベジュ)は裁判中、大公暗殺の責任は自分たち自身にあると主張し続け、セルビア当局が追求されるのを避けようとした{{sfn|Albertini|1953|pp=50-1}}。その目的のために、3人は裁判前の供述とは異なる法廷証言を行った{{sfn|Albertini|1953|pp=50-1}}。詰問を受けたプリンツィプは、「私は[[ユーゴスラヴ主義]]者であり、すべての南スラブ人が統一されることを望んでいる。それがどんな形の国家になろうとも、オーストリアから自由である限りはどうでもよい」と述べた{{sfn|Owings|1984|p=56}}。その後、その望みをどのように実現しようとしているのかを尋ねられると、「テロによってだ」と回答した{{sfn|Owings|1984|p=56}}。一方でチャブリノヴィッチは、自らをオーストリア大公暗殺に駆り立てた政治思想はセルビア国内の党派から学んだものだったと証言した{{sfn|Albertini|1953|p=50}}。裁判では、セルビア当局が潔白であるとする被告らの主張は信用されなかった{{sfn|Albertini|1953|p=68}}。判決は、「本法廷は、証拠により証明されたものとして、ナロードナ・オドブラナならびにセルビア王国軍[[諜報]]部の双方が、共同でこのような凶行に及んだと見なす」と述べた{{sfn|Albertini|1953|p=68}}。

被告人に下された判決は以下の通りであった:{{sfn|Owings|1984|pp=527–530}}
::{| class="wikitable"
|-
! 被告人名
! 判決
|-
| [[ガヴリロ・プリンツィプ]]
| 懲役20年
|-
| {{仮リンク|ネデリュコ・チャブリノヴィッチ|en|Nedjelko Čabrinović}}
| 懲役20年
|-
| {{仮リンク|トリフコ・グラベジュ|en|Trifko Grabež}}
| 懲役20年
|-
| {{仮リンク|ヴァソ・チュブリロヴィッチ|en|Vaso Čubrilović}}
| 懲役16年
|-
| {{仮リンク|ツヴィエトコ・ポポヴィッチ|en|Cvjetko Popović}}
| 懲役13年
|-
| ラザル・ジュキッチ
| 懲役10年
|-
| {{仮リンク|ダニロ・イリッチ|en|Danilo Ilić}}
| 絞首刑 (1915年2月3日執行)
|-
| {{仮リンク|ヴェリコ・チュブリロヴィッチ|en|Veljko Čubrilović}}
| 絞首刑 (1915年2月3日執行)
|-
| ネジョ・ケロヴィッチ
| 絞首刑(のちに皇帝フランツ・ヨーゼフ1世によって懲役20年に減刑)
|-
| {{仮リンク|ミハイロ・ジョヴァノヴィッチ|en|Mihajlo Jovanović}}
| 絞首刑 (1915年2月3日執行)
|-
| ヤコブ・ミロヴィッチ
| 絞首刑(のちに皇帝フランツ・ヨーゼフ1世によって終身刑に減刑)
|-
| ミタル・ケロヴィッチ
| 終身刑
|-
| イヴォ・クラニツェヴィッチ
| 懲役10年
|-
| ブランコ・ザゴラック
| 懲役3年
|-
| マルコ・ペリン
| 懲役3年
|-
| スヴィヤン・スティエパノヴィッチ
| 懲役7年
|-
| その他の被告人9名
| 無罪
|}

裁判中、チャブリノヴィッチは暗殺に参加したことに対する後悔を表明した。 判決が下された後、チャブリノヴィッチは孤児となった大公夫妻の3人の子供たちから、その罪を許す旨の手紙を受け取った{{sfn|Dedijer|1966|pp=345–346}}。懲役20年を言い渡されたチャブリノヴィッチとプリンツィプは、その後[[結核]]によって刑務所内で死亡した。オーストリア=ハンガリー法の下での懲役20年は、事件当時未成年(20歳未満)であった被告に対する最も重い刑罰だったが、プリンツィプの実際の生年月日については多少の疑いが存在したため、裁判では彼の年齢に関する議論が行われ、最終的にプリンツィプは暗殺時に20歳未満であったとの結論が下された{{sfn|Dedijer|1966|p=343}}。

===テッサロニキ裁判(1917年春)===
[[File:Dragutin-Dimitrijevic_Apis_Trial.jpg|thumb|[[テッサロニキ]]で裁判にかけられる[[黒手組]]指導者[[ドラグーティン・ディミトリエビッチ|ディミトリエビッチ]]]]
1917年の初め、オーストリア=ハンガリーとフランスの間で秘密裏に和平交渉が行われた。それと並行して、オーストリア=ハンガリーとセルビアの間でも和平交渉が行われていたという情況証拠が存在する{{sfn|MacKenzie|1995|p=53}}。オーストリア皇帝カール1世は、[[テッサロニキ]]に亡命中のセルビア政府にセルビアの領地を返還するにあたっての主な条件を提示し、セルビア政府は、以後セルビアからオーストリア=ハンガリー帝国に対する政治的扇動がもたらされることはないと保証すべきであると要求した{{sfn|MacKenzie|1995|p=72}}。

和平交渉のしばらく前から、セルビア王国の摂政[[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|アレクサンダル]]と彼に忠実な士官らは、[[ドラグーティン・ディミトリエビッチ|ディミトリエビッチ]]を中心とする党派をアレクサンダルに対する脅威とみなしており、その排除を画策していた{{sfn|MacKenzie|1995|pp=56–64}}。オーストリア=ハンガリー帝国からの要求は、ディミトリエビッチ排除の動きにさらなる勢いを与えた。1917年3月15日、ディミトリエビッチと彼に忠実な士官らは、サラエボ事件とは無関係のさまざまな虚偽の罪状で起訴され、裁判にかけられた(1953年にセルビア最高裁で再審理が行われ、全員の潔白が証明された){{sfn|MacKenzie|1995|p=2}}。1917年5月23日、ディミトリエビッチと8人の同僚(計9人)に死刑が宣告された。他の2人には懲役15年が宣告された。被告の1人は裁判中に死亡し、彼への起訴は取り下げられた。その後、セルビア高等裁判所は2人の死刑判決を取り消し、さらにアレクサンダルが4人の死刑を減刑したため、最終的に死刑となったのは3人のみだった{{sfn|MacKenzie|1995|pp=344–347}}。事件当時にセルビア軍諜報部長だったディミトリエビッチは、自らが大公フランツ・フェルディナントの殺害を指示したことを裁判中に告白した{{sfn|Dedijer|1966|p=398}}。裁判中、計4人の被告がサラエボ事件への関与を告白しており、彼らへの最終的な以下の通りであった{{sfn|MacKenzie|1995|pp=329; 344–347}}。
[[File:Salonika Trial, after verdict.jpg|thumb|200px|テッサロニキ裁判の被告人(左端がディミトリエビッチ)]]
{| class="wikitable"
|-
! 被告人名
! 判決
|-
| [[ドラグーティン・ディミトリエビッチ]]
| 銃殺刑 (1917年6月26日執行)
|-
| {{仮リンク|リュボミル・ヴロビッチ|en|Ljuba Vulović}}
| 銃殺刑 (1917年6月26日執行)
|-
| {{仮リンク|ラデ・マロバビッチ|en|Rade Malobabić}}
| 銃殺刑 (1917年6月26日執行)
|-
| {{仮リンク|ムハメド・メフメドバシッチ|en|Muhamed Mehmedbašić}}
| 懲役15年 (のちに減刑され1919年に釈放)
|}
セルビアの首相{{仮リンク|ニコラ・パシッチ|en|Nikola Pašić}}は、ロンドンに居る使節に宛てた書簡の中で、ディミトリエビッチらへの死刑執行を正当化して、「ディミトリエビッチは、他のあらゆる罪に加えて、フランツ・フェルディナントの殺害を命令したのは自分であると認めたのだ。今や、誰にも刑の執行を延期することはできまい」と述べた{{sfn|MacKenzie|1995|p=392}}。

3人の死刑囚が処刑場まで車で連れて行かれた際、ディミトリエビッチは運転手に向かって次のように述べた。「はっきりさせておくが、私が今日、セルビアの銃弾によって殺されるのは、サラエボの一件を指示したというただそれだけが理由なのだ」{{sfn|Albertini|1953|pp=80–81}}

==結果==
{{further|第一次世界大戦の原因}}
[[File:Headline_of_the_New_York_Times_June-29-1914.jpg|thumb|250px|暗殺事件を伝える『[[ニューヨーク・タイムズ]]』]]
[[File:Serbien muss sterbien.jpg|thumb|250px|"セルビア死すべし!" (''Serbien muss sterb[i]en!''; 韻を踏むよう[[wikt:sterben|sterben]]の本来のスペルに[i]が加えられている)<br>オーストリアがセルビア人を成敗する様子を描いた1914年のプロパガンダ戯画]]
オーストリア=ハンガリー帝国の後継者とその妻の暗殺は、ヨーロッパ中の王室に大きな衝撃を与え、当初はオーストリアの境遇に多くの同情が集まった。他方、ウィーンの一般市民は大きな反応を示さず、暗殺事件の夜にもまるで何事もなかったかのように音楽に耳を傾け、ワインを楽しんでいた。<ref name="history">{{cite web|url=http://www.history.com/this-day-in-history/european-powers-maintain-focus-despite-killings-in-sarajevo|title=European powers maintain focus despite killings in Sarajevo&nbsp;— History.com This Day in History|date=30 June 1914|publisher=History.com|accessdate=26 December 2013}}</ref>{{sfn |Willmott |2003 |p=26}}事件発生から2日以内に、オーストリア=ハンガリー帝国と[[ドイツ帝国]]はセルビア王国に対し、大公の暗殺について調査を実施するべきであると勧告したが、セルビア外務省の事務局長スラヴコ・グルイッチは「この問題はセルビア政府とは無関係であり、これまでの所いかなる措置も実施されていない」と回答した{{sfn|Albertini|1953|p=273}}。この回答の後、ベオグラードのオーストリア代理大使とグルイッチの間では怒りを帯びたやりとりが交わされた{{sfn|Albertini|1953|p=273}}。

サラエボ事件の刑事捜査を済ませ、有事の際に同盟国ドイツから軍事支援が受けられることを確認したオーストリア=ハンガリー政府は、セルビア政府に対して正式な通告を行った。この通告は、ボスニア・ヘルツェゴビナに関する[[列強]]の決定を尊重し、オーストリア=ハンガリーとの善隣関係を維持することはセルビアの義務だとした上で、10カ条の具体的要求をセルビアに突きつけるものであり、要求には、オーストリア=ハンガリー帝国の破壊を提唱するプロパガンダの出版を禁止すること・そのようなプロパガンダの背後に存在する者たちをセルビア軍から排除すること・サラエボの暗殺計画に関与した者たちをセルビア国内で逮捕すること・セルビアからオーストリア=ハンガリーへの武器および爆発物の密輸を阻止することなどが含まれていた。{{sfn|Albertini|1953|pp=285–289}}

のちに「[[オーストリア最後通牒|7月の最後通牒]]」として知られるようになるこの通告は、セルビアが48時間以内にすべての要求を受け入れなかった場合、オーストリア=ハンガリーはセルビアに派遣していた大使を本国に呼び戻すことになると警告していた。ロシアから支援を約束する旨の電報を受け取ったセルビアは、[[動員]]を開始するのと同時に、最後通牒への回答を出し、第8条(武器密輸を取り締まる措置および暗殺者を手助けしたセルビア国境警備隊員らへの処罰を要求)と第10条(措置の実施状況をセルビア側が逐一オーストリア=ハンガリーに報告することを要求)を完全に受け入れることを伝え、第1条から第7条および第9条の要求に関しては、部分的に受け入れ、一方では巧妙に誤魔化して対応し、また一方では丁重に拒否した。この回答を受け取ったオーストリア=ハンガリーは、セルビアによる返答の瑕疵を公表すると、セルビアとの外交関係を断絶した。{{sfn|Albertini|1953|p=373}}

その翌日、セルビア軍の予備兵を輸送していた蒸気船が{{仮リンク|コヴィン|en|Kovin}}付近にて[[ドナウ川]]のオーストリア=ハンガリー帝国領に入ったため、オーストリア=ハンガリー軍の兵士が警告を与える目的で空中に発砲するという事件が起きた{{sfn|Albertini|1953|pp=461–462; 465}}。当初、この出来事の情報は不正確であり、皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]には事件が「かなりの軍事衝突」であると誤って報告された{{sfn|Albertini|1953|p=460}}<ref name=Wien>Manfried, Rauchensteiner. ''The First World War and the End of the Habsburg Monarchy, 1914-1918'', [https://books.google.com/books?id=ZEpLBAAAQBAJ&pg=PA127&lpg=PA127 p. 27] ([[Böhlau Verlag]], Vienna, 2014).</ref>。1914年7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に宣戦布告し、(すでに動員を開始していた)セルビアに対する部分動員を行った。7月29日、ロシアはセルビアを支援すべくオーストリア=ハンガリーに対する部分動員を行い、翌7月30日には総動員を命じた{{sfn|Tuchman|2009|p=85}}。ロシアの総動員に反応したドイツは総動員を行ってロシアに宣戦布告し、[[第一次世界大戦]]の勃発につながった。

==現代における評価==
[[File:Location of Sarajevo Assassination 賽拉耶佛暗殺處 - panoramio.jpg|thumb|現在の暗殺現場には[[セルビア・クロアチア語]]と英語の両方で書かれた銘板が設置されている<ref name="Sarajevo: the crossroads of history">{{cite|title = Sarajevo: the crossroads of history|url = https://www.ft.com/content/293938b2-afcd-11e3-9cd1-00144feab7de|publisher = Financial Times|author = Simon Kuper|date = 21 March 2014|accessdate = 1 February 2018}}</ref>]]
{{quote|100年前にガヴリロ・プリンツィプが放った銃弾は、ヨーロッパに向けて発砲されたものではなく、自由を得るための発砲であり、外国による支配からの解放を目指すセルビア人の闘いの先駆けとなった。| [[スルプスカ共和国]]大統領{{仮リンク|ミロラド・ドディク|en|Milorad Dodik|en}}<ref name="Remembering World War I in the Conflict's Flash Point"/>}}

{{quote|彼(プリンツィプ)の行為がもたらした影響は、ボスニアにとって非常に悪いものだった。 ボスニアは[[ユーゴスラビア]]となって消滅し、ボスニアに住む[[ムスリム人]]の存在は1968年まで認められることはなかった。彼ら([[オーストリア=ハンガリー帝国]])は[[ユーゴスラビア王国]]や[[ユーゴスラビア共産主義者同盟]]に比べれば、はるかに優れた支配者と言えた。 歴史的な記録を見れば、オーストリア=ハンガリーが法による支配のような概念をいかに重視していたかがわかるだろう。我々は1918年に非常に多くのものを失った。|フェドザト・フォルト([[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦]]系通信社の論説委員)- プリンツィプはオーストリア=ハンガリーという占領者からボスニアを解放する手助けをしたいう主張に対して<ref name="Gavrilo Princip: Bosnian Serbs remember an assassin"/>}}

暗殺者の1人であった{{仮リンク|ヴァソ・チュブリロヴィッチ|en|Vaso Čubrilović}}は後にサラエボ事件を振り返って、「私たちは美しい世界を破壊した。それは大戦の勃発によって永遠に失われた」と語った{{sfn|Sugar|1999|p=70}}。

[[旧ユーゴスラビア]]の多くの国で<ref name="Gavrilo Princip: hero or villain?">{{cite|title = Gavrilo Princip: hero or villain?|url = https://www.theguardian.com/world/2014/may/06/gavrilo-princip-hero-villain-first-world-war-balkan-history|publisher = The Guardian|date = 6 May 2014|accessdate = 1 February 2018}}</ref>、ボシュニャク系およびクロアチア系住民の大部分は、プリンツィプは[[テロリスト]]であり、またセルビア民族主義者であると見なしている<ref name="Gavrilo Princip: Bosnian Serbs remember an assassin"/>。サラエボ事件の100周年記念行事は[[欧州連合]]によって企画され、{{ill2|サラエヴォ市庁舎|en|Vijećnica}}で[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]によるコンサートが行われた<ref name="Gavrilo Princip: Bosnian Serbs remember an assassin"/>。記念行事にはオーストリア大統領の[[ハインツ・フィッシャー]]が主賓として招かれた<ref name="Sarajevo recalls the gunshot that sent the world to war">{{cite|title = Sarajevo recalls the gunshot that sent the world to war|url = https://www.reuters.com/article/us-ww1-anniversary-bosnia/sarajevo-recalls-the-gunshot-that-sent-the-world-to-war-idUSKBN0F307C20140628|publisher = Reuters|author = Matt Robinson, Maja Zuvela|date = 28 June 2014|accessdate = 30 January 2018}}</ref>。

他方、セルビア民族主義者の要人らはこの記念行事をボイコットし、一切の参加を取りやめた<ref name="Remembering World War I in the Conflict's Flash Point">{{cite|title = Remembering World War I in the Conflict's Flash Point|url = https://www.nytimes.com/2014/06/30/arts/music/the-vienna-philharmonic-recalls-world-war-i-in-sarajevo.html|publisher = The New York Times|author = John F. Burns|date = 29 June 2014|accessdate = 29 January 2018}}</ref>。[[スルプスカ共和国]]に属する[[イストチノ・サラエヴォ|東サラエボ]]では、サラエボ事件の100周年を記念してプリンツィプの銅像が建てられた<ref name="Gavrilo Princip: Bosnian Serbs remember an assassin">{{cite|title = Gavrilo Princip: Bosnian Serbs remember an assassin|url = https://www.bbc.com/news/world-europe-28033613|publisher = BBC News|date = 28 June 2014|accessdate = 23 January 2018}}</ref>。その後2015年6月には、[[セルビア]]の首都[[ベオグラード]]にもプリンツィプの銅像が建てられた<ref name="Serbia: Belgrade's monument to Franz Ferdinand assassin">{{cite|title = Serbia: Belgrade's monument to Franz Ferdinand assassin|url = https://www.bbc.com/news/blogs-news-from-elsewhere-33048005|publisher = BBC News|date = 8 June 2015|accessdate = 23 January 2018}}</ref>。セルビアの歴史教科書は、セルビアまたはプリンツィプが第一次世界大戦のきっかけとなったことを否定しており<ref name="Gavrilo Princip: hero or villain?"/>、開戦の責任は[[中央同盟国]]にあるとしている<ref name="Serbia, WWI, and the question of guilt">{{cite|title = Serbia, WWI, and the question of guilt|url = http://www.dw.com/en/serbia-wwi-and-the-question-of-guilt/a-17550497|publisher = Deutsche Welle|author = Nemanja Rujević|date = 28 July 2014|accessdate = 1 February 2018}}</ref>。スルプスカ共和国大統領ミロラド・ディドクは、ボスニアは「いまだ分裂状態にある」と認めた上で、プリンツィプは「自由の戦士」であり、オーストリア=ハンガリーは「占領者」であったと主張した<ref name="WWI centennial event without Serbs">{{cite|title = WWI centennial event without Serbs|url = http://www.dw.com/en/wwi-centennial-event-without-serbs/a-17743319|publisher = Deutsche Welle|date = 28 June 2014|accessdate = 1 February 2018}}</ref>。

プリンツィプが使用した銃と、大公フランツ・フェルディナントが乗っていた車、血に染まった大公の軍服、そして大公が死亡した[[シェーズ・ロング]]は、オーストリアの[[ウィーン軍事史博物館]]に常設展示されている。プリンツィプによって発射された弾丸は、「第一次世界大戦を始めた弾丸」とも呼ばれ<ref>{{cite news|author= |url=http://content.time.com/time/magazine/article/0,9171,711968-5,00.html |title=Show Business: THE ROAD |publisher=TIME |date=1960-11-14 |accessdate=2010-08-03}}</ref>、[[チェコ]]の[[ベネショフ]]にある{{ill2|コノピシュチェ城|en|Konopiště}}内の博物館に展示されている。事件のすぐ後に暗殺現場に建てられ、サラエボがユーゴスラビアとなった1918年に破壊された記念碑に含まれていた大公夫妻をかたどった銅のメダルは、サラエヴォにあるボスニア・ヘルツェコビナ国立美術館で現在保存されている<ref name="Reconstruction of Medallions of Sarajevo Monument of Ferdinand and Sophie in Final Phase">{{cite|title = Reconstruction of Medallions of Sarajevo Monument of Ferdinand and Sophie in Final Phase|url = http://www.sarajevotimes.com/reconstruction-medallions-sarajevo-monument-ferdinand-sophie-final-phase/|publisher = Sarajevo Times|date = 8 April 2014|accessdate = 1 February 2018}}</ref>。
===サラエボ事件100周年===
現在[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の首都であるサラエボでは、2014年6月28日、平和を願う記念行事が開かれたが、セルビア人を犯罪者扱いする文言があるとして、隣国セルビアの首脳が出席を拒否する事態となった。ボスニア・ヘルツェゴビナ国内には、プリンツィプをテロリストと見なす意見と、英雄と見なす意見の両方が存在する。前日27日に行われたプリンツィプの銅像の序幕式では拍手が巻き起こり、プリンツィプのTシャツを着た見物人などが銅像を一目見ようと集まった<ref>{{Cite news |title=テロリストか英雄か サラエボ事件100年で暗殺者の銅像 |newspaper=CNN co jp |date=2014-06-30 |author= |url=http://www.cnn.co.jp/world/35050136.html |accessdate=2014-07-14}}</ref><ref>{{Cite news |title=「サラエボ事件」あす100年 セルビア、オーストリア 歴史認識で対立 |newspaper=東京新聞 |date=2014-06-27 |author= |url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2014062702000126.html |accessdate=2014-07-14}}</ref>。
現在[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の首都であるサラエボでは、2014年6月28日、平和を願う記念行事が開かれたが、セルビア人を犯罪者扱いする文言があるとして、隣国セルビアの首脳が出席を拒否する事態となった。ボスニア・ヘルツェゴビナ国内には、プリンツィプをテロリストと見なす意見と、英雄と見なす意見の両方が存在する。前日27日に行われたプリンツィプの銅像の序幕式では拍手が巻き起こり、プリンツィプのTシャツを着た見物人などが銅像を一目見ようと集まった<ref>{{Cite news |title=テロリストか英雄か サラエボ事件100年で暗殺者の銅像 |newspaper=CNN co jp |date=2014-06-30 |author= |url=http://www.cnn.co.jp/world/35050136.html |accessdate=2014-07-14}}</ref><ref>{{Cite news |title=「サラエボ事件」あす100年 セルビア、オーストリア 歴史認識で対立 |newspaper=東京新聞 |date=2014-06-27 |author= |url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2014062702000126.html |accessdate=2014-07-14}}</ref>。


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# 2枚目の銘板は、1945年4月6日にサラエボを解放したパルチザン部隊は、1945年5月7日に「この場所からのガヴリロ・プリンツィプの発砲は、反専制の人民的抗議と我等諸人民の長年にわたる自由への希求を表現している。」と刻記された新しい記念銘板を現場の石壁にはめ込んでいる。
# 2枚目の銘板は、1945年4月6日にサラエボを解放したパルチザン部隊は、1945年5月7日に「この場所からのガヴリロ・プリンツィプの発砲は、反専制の人民的抗議と我等諸人民の長年にわたる自由への希求を表現している。」と刻記された新しい記念銘板を現場の石壁にはめ込んでいる。
# 1992年3月1日に独立後、45年に設置された2枚目の銘板は、撤去されている。2004年に「1914年6月28日、この場所からガヴリロ・プリンツィプは、オーストリー・ハンガリー皇太子フランツ・フェルデナントと妻ソフィアを殺害した。」との内容が刻記された3枚目の銘板が設置されている。
# 1992年3月1日に独立後、45年に設置された2枚目の銘板は、撤去されている。2004年に「1914年6月28日、この場所からガヴリロ・プリンツィプは、オーストリー・ハンガリー皇太子フランツ・フェルデナントと妻ソフィアを殺害した。」との内容が刻記された3枚目の銘板が設置されている。

==その他==
==その他==
=== 都市伝説 ===
=== 都市伝説 ===
大公夫妻の乗っていた自動車については、「事件後に複数の所有者の手に渡り、みな悲惨な最期を遂げた」という[[都市伝説]]が語られることがあり、「最終的に博物館に所蔵されていたが、第二次世界大戦中に爆撃を受けて失われた」と続く場合もある<ref>オカルトライターとして知られた[[佐藤有文]]の著書『怪奇ミステリー』(学習研究社、1973年)や『ミステリーゾーンを発見した』(KKベストセラーズ・ワニ文庫、1986年)にこうした記述が見られる。</ref>。
大公夫妻の乗っていた自動車については、「事件後に複数の所有者の手に渡り、みな悲惨な最期を遂げた」という[[都市伝説]]が語られることがあり、「最終的に博物館に所蔵されていたが、第二次世界大戦中に爆撃を受けて失われた」と続く場合もある<ref>オカルトライターとして知られた[[佐藤有文]]の著書『怪奇ミステリー』(学習研究社、1973年)や『ミステリーゾーンを発見した』(KKベストセラーズ・ワニ文庫、1986年)にこうした記述が見られる。</ref>(前述の通り、実際には自動車は現存している)

実際の車両は[[ウィーン軍事史博物館]]に保存展示されている。


== 脚注・出典 ==
==出典==
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==参考文献==
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* {{cite book|ref={{harvid|Albertini|2005}}
|last=Albertini|first=Luigi|authorlink=Luigi Albertini|title=Origins of the War of 1914|volume=I|publisher=Enigma Books|location=New York|year=2005|isbn=1-929631-31-6}}
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==関連書籍==
* {{Cite book|ref=harv|last=Bataković|first=Dušan T.|title=The Serbs of Bosnia & Herzegovina: History and Politics|url=https://books.google.com/books?id=k3xpAAAAMAAJ|date=1996|publisher=Dialogue Association}}
* Fay, Sidney Bradshaw: ''Origins of the Great War''. New York 1928
* Ponting, Clive. ''Thirteen Days'', Chatto & Windus, London, 2002.
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* Treusch, Wolf Sören. ''Erzherzog Franz Ferdinand und seine Gemahlin werden in Sarajevo ermordet'', DLF, Berlin, 2004
{{Commons category|Sarajevo assassination}}
==外部リンク==
* [http://maps.omniatlas.com/europe/19140628/ Map of Europe] at the time of the assassination of Franz Ferdinand at omniatlas.com
* [http://www.europeanfilmgateway.eu/node/33/franz%20ferdinand%20efg1914/multilingual:1/showOnly:video Newsreels about Franz Ferdinand's assassination at www.europeanfilmgateway.eu]
* [https://libcom.org/history/did-teenage-anarchists-trigger-world-war-one-what-was-politics-assassins-franz-ferdinand Prison Interview with Gavrilo Princip after the Assassination]
== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Sarajevo assassination}}
*[[バルカン政治家]]
*[[バルカン政治家]]
*[[ボスニア・ヘルツェゴビナ併合]] - [[豚戦争 (1906年)]]
*[[ボスニア・ヘルツェゴビナ併合]] - [[豚戦争 (1906年)]]
*[[FN ブローニングM1910]] - プリンツィプが使用した拳銃。
*[[FN ブローニングM1910]] - プリンツィプが使用した拳銃。
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2019年3月26日 (火) 13:17時点における版

サラエボ事件
暗殺場面を描いた新聞挿絵, 1914年7月12日付(La Domenica del Corriere地図
場所 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国 サラエボ
座標
北緯43度51分28.5秒 東経18度25分43.5秒 / 北緯43.857917度 東経18.428750度 / 43.857917; 18.428750座標: 北緯43度51分28.5秒 東経18度25分43.5秒 / 北緯43.857917度 東経18.428750度 / 43.857917; 18.428750
標的 フランツ・フェルディナント
日付 1914年6月28日
概要 オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者暗殺事件。
武器 ピストル
死亡者 フランツ・フェルディナント
ゾフィー・ホテク
犯人 ガヴリロ・プリンツィプ
ダニロ・イリッチ他多数
容疑 大逆罪
対処 懲役20年 : プリンツィプ他3名
絞首刑:イリッチ他2名
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サラエボ事件(サラエボじけん、サラエヴォ事件サライェヴォ事件)は、1914年6月28日オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者であるオーストリア大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテクが、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を訪問中、ボスニア出身のボスニア系セルビア人ボスニア語版の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。プリンツィプは、セルビア系秘密結社「黒手組」の一員ダニロ・イリッチによって組織された6人の暗殺者(5人のボスニア系セルビア人と1人のボシュニャク人)のうちの1人だった。暗殺者らの目的は青年ボスニア英語版と呼ばれる革命運動と一致していた。この事件をきっかけとしてオーストリア=ハンガリー帝国セルビア王国最後通牒を突きつけ、第一次世界大戦の勃発につながった。

暗殺の実行犯と、暗殺を支援した地下ネットワークのメンバー、および暗殺を計画したセルビア軍関係者は逮捕されて裁判にかけられ、有罪判決を受けたのちに処罰された。 ボスニアで逮捕された者たちは1914年10月にサラエボで裁判にかけられた。その他の者たちは、1917年に暗殺とは無関係な罪状でセルビア当局によって起訴され、フランス支配下のテッサロニキで裁判にかけられた。テッサロニキ裁判では3人のセルビア軍高官が処刑された。その中の1人であり、事件当時セルビア軍諜報部長だったドラグーティン・ディミトリエビッチは、自らがフランツ・フェルディナントの暗殺を指令したことを裁判中に告白した。

背景

オーストリア大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテク

1878年締結のベルリン条約により、オーストリア=ハンガリー帝国は(オスマン帝国に名目上の主権は残されたものの)ボスニアを占領し施政を行う権限を得た。同条約はさらに、セルビア公国が完全な主権国家としてオスマン帝国から独立することを承認していた。独立したセルビア公国では1882年にミラン・オブレノヴィチ4世がセルビア王ミラン1世として即位し、セルビア王国が成立した。セルビアの王家であるオブレノヴィッチ家はオーストリア=ハンガリーとの密接な関係を保ち、ベルリン条約によって定められた領土を統治することに満足していた。[1]

1903年5月、ドラグーティン・ディミトリエビッチ率いるセルビア軍士官の一派がセルビア王宮を襲撃したことで、その状況は一変した。セルビア王アレクサンダル1世と王妃ドラガは繰り返し銃で撃たれ殺害された。一説には、その後「王と王妃の亡骸は服を脱がされ、残忍に切り刻まれた」と言われている[2]。襲撃者らは2人の死体を宮殿の窓から投げ捨て、王に忠実な勢力が反撃を試みる可能性を排除した[3]。襲撃を計画した者たちは、カラジョルジェヴィチ家ペータル1世を新たなセルビア王に即位させた[4]

新しい王朝は以前よりもセルビア民族主義的かつ親露的であり、オーストリア=ハンガリー帝国との関係は悪化した[5]。その後の10年間、セルビアは勢力の拡大に向かい、14世紀の帝国を徐々に再生しようとしたため、近隣諸国との間では数々の紛争が発生した。1906年に始まったオーストリア=ハンガリーとの関税戦争(一般に「豚戦争」と呼ばれる)[6]、オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合に抗議したことで引き起こされた1908-1909年のボスニア危機[7]、そしてオスマン帝国からマケドニアとコソボを獲得し、ブルガリアを駆逐した1912-1913年の第一次第二次バルカン戦争がそのような紛争の例だった[8]

セルビアの軍事的成功と、オーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナ併合に対する怒りは、セルビア国内外のセルビア民族主義者を勢いづかせた。特にオーストリア=ハンガリー帝国領に住むセルビア人は、帝国による統治に不満を募らせており、その民族主義的感情はセルビア系の「文化的」な団体によって扇動されていた[9][10]。1914年までの5年間、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナにおいて、単独犯の暗殺者(主にオーストリア=ハンガリー領内のセルビア人市民だった)がオーストリア=ハンガリー帝国官吏の暗殺を試み、失敗するという事件が多数発生していた[11]

ガヴリロ・プリンツィプ

1910年6月15日、ボグダーン・ツェラジッチ英語版は当時のボスニア・ヘルツェゴヴィナ総督マリヤン・ヴァレシャニン英語版の暗殺を試みたが、失敗した。22歳のツェラジッチは、ヘルツェゴビナ出身のザグレブ大学法学部の学生で、正教会を信仰するセルビア人であり、頻繁にベオグラードを訪れていた[12] (ヴァレシャニンには1910年後半にボスニアで農民の蜂起を鎮圧した過去があった)[13]。ツェラジッチはヴァレシャニンに向けて5発の弾丸を発射した後、自らの頭部を撃って自殺しており、その行為はガヴリロ・プリンツィプのような未来の暗殺者にインスピレーションを与えた。プリンツィプはのちに、ツェラジッチが「私が最初に模範とした人物であり、私が17歳の時、彼の墓の前で何度も夜を過ごし、彼のことを考え、また惨めな現状を思い返した。そして墓の前で、私もいずれは暴力的な手段に訴えることを決めた」と語った[14]

1913年、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は大公フランツ・フェルディナントに対し、1914年6月に予定されているボスニアでの軍事演習を視察するよう命令した[15]。大公とその妻ゾフィーは、演習の後にサラエボを訪問し、そこに新設される国立博物館の開館に立ち会うことを計画した[16]。大公夫妻の長男マクシミリアン・ホーエンベルクによると、ゾフィーが視察旅行に同行したのは夫の安全を危惧してのことだった[17]

ゾフィーは貴族出身ではあったが王族出身ではなく、ハプスブルク家の皇位継承者である大公フランツ・フェルディナントとの結婚は貴賤結婚となった。 皇帝フランツ・ヨーゼフは、2人の間に生まれた子孫が皇位を継がないことを条件として結婚を承認していた。視察が予定されている6月28日は2人の14回目の結婚記念日であった。ゾフィーの置かれていた立場について、 歴史家A・J・P・テイラーは次のように述べている。

(ゾフィーには、大公の)階級を共有することは絶対に許されなかった。……夫のような華やかさを共有することはできず、公の場では彼の横に座ることさえ許されていなかった。しかし、1つの抜け道が存在した。……彼が軍人として行動する場合に限り、その妻は同じ階級に属する者として振る舞うことができたのだ。それ故に、大公は1914年にボスニアで軍を視察することに決めたのだった。ボスニアの首都サラエボでは、大公とその妻は屋根のない馬車に隣同士座って移動することができた。……このようにして、愛のため、大公は死地に赴いたのである。[18]

大公フランツ・フェルディナントは連邦化構想の支持者であり、オーストリア=ハンガリー二重帝国内のスラブ人地域から第三の王国を形成し、二重帝国を三重帝国へと改編することに賛成していると見られていた[19]。スラブ民族による第三の王国は、セルビア民族統一主義に対する防波堤となる可能性があり、そのためにセルビア民族統一主義者らは大公を脅威として認識していた[20]。プリンツィプは裁判中、大公が計画していた改革の阻止が暗殺の動機の1つであると述べた[21]

大公夫妻が暗殺された6月28日(ユリウス暦における6月15日)は、セルビアでは聖ヴィトゥスの日(Vidovdan)と呼ばれる祝日であるのと同時に、1389年コソボの戦いの記念日でもあり、コソボの戦いではオスマン帝国のスルタンがセルビア人によって暗殺される事件が起きていた[22]

暗殺

大公フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺時に乗っていた1911年式グラーフ&シュティフト 28/32 PS(2017年にウィーン軍事史博物館で撮影)

6台の車列

1914年6月28日の朝、大公フランツ・フェルディナントとその一行は列車に乗り、イリジャ・スパからサラエボまで移動した[16]。ボスニア・ヘルツェゴビナ総督オスカル・ポティオレク英語版は、サラエボ駅で一行を出迎えた。駅には6台の自動車が待っていた。手違いにより、先頭車両には特別警備の隊長と共に3人の地元警察官が乗り込んでしまい、隊長に同行するはずだった特別警備隊員らは取り残された[23]。 2台目の車両にはサラエボの市長と警察署長が乗り込んだ。3台目の車両はオープンカーのグラーフ&シュティフト 28/32 PSで、屋根(ほろ)は折りたたまれていた。この3台目の車には、大公夫妻とポティオレク、フランツ・フォン・ハラック伯爵の4人が乗り込んだ[23]。予告されていたプログラムによれば、6台の自動車はまず最初に駐留軍の兵舎を訪れ、簡単な視察を済ませた後、午前10時00分に兵舎を出発し、アペル・キー(Appel Quay)と呼ばれる川沿いの道を通ってサラエボ市庁舎に向かうことになっていた[24]

大公の訪問時、サラエボ市内の警備体制は限定的だった。当地の軍司令官ミハエル・フォン・アペルは、軍の兵士を一行の予定ルートに沿って配置することを提案していたが、そのような措置は(オーストリアに)忠実な市民の感情を害することになるとして却下された。結果として、一行の警護はサラエボ警察に委ねられており、訪問当日の日曜日には当直の警察官は約60人に過ぎなかった。[25]

爆弾による暗殺未遂

サラエボ事件の経緯を4段階で示した図
暗殺当日、大公夫妻を乗せてサラエボ市内を走行中のオープンカー

6台の車列はミリャツカ川沿いの通り(アペル・キー)に入り、1人目の暗殺者ムハメド・メフメドバシッチ英語版の前を通過した。暗殺者グループを率いるダニロ・イリッチは、メフメドバシッチを爆弾で武装させ、モスタール・カフェ(Mostar Cafe)に隣接する庭の前に立たせていたが[26]、メフメドバシッチが行動を起こせないまま車列は通り過ぎた。イリッチはヴァソ・チュブリロヴィッチ英語版にピストルと爆弾を持たせ、メフメドバシッチの隣に配置していたが、チュブリロヴィッチもまた何もできなかった。通りのさらに先には、爆弾を持った3人目の暗殺者ネデリュコ・チャブリノヴィッチ英語版が失敗した2人とは反対側(ミリャツカ川側)に配置されていた。

午前10時10分[27]、大公夫妻を乗せた車が接近し、チャブリノヴィッチは爆弾を投げつけた。爆弾はオープンカーの折りたたまれていたに当たって跳ね返り、路上に落ちた[28]。爆弾は時限起爆装置によって後続車の下で爆発し、車は破壊されて走行不能となり、16-20名が負傷した。この爆発は直径30cm、深さ170mmのクレーターを残した。[27][29]。チャブリノヴィッチは自決用の毒薬(シアン化物)を飲み込み、ミリャツカ川に身を投げたが、古く劣化していた毒薬は嘔吐を引き起こしただけで、暑く乾燥した夏のために川の水深はわずか13cmであり、自殺は未遂に終わった[30]。チャブリノヴィッチは警察によって川から引きずり出され、拘留される前に群衆から激しい暴行を受けた。

破壊された車両を置き去りにして、残った5台の車両はスピードを上げ、市庁舎に向かって走り去った。クヴジェトコ・ポポヴィッチ英語版ガヴリロ・プリンツィプトリフコ・グラベジュの3人は、スピードを上げた車列が目の前を高速で通過したため、行動を起こせなかった。[31]

市庁舎での歓迎式

サラエボ市庁舎を出て車に戻ろうとする大公夫妻(暗殺の数分前に撮影)

大公フランツ・フェルディナントを乗せた車はサラエボ市庁舎英語版に到着し[32]、大公は市庁舎内で予定されていた歓迎式に参加したが、彼は直前に遭遇した出来事によるストレスを隠せない様子だった[33]。大公はフェヒム・クルチッチ市長による歓迎のスピーチを途中でさえぎると、「市長殿、私はここに来るやいなや爆弾を投げつけられたぞ。一体どうなっているんだ」と言って抗議した[33]。その後、妻ゾフィーは大公の耳に何かささやいた。そしてしばらくして、大公は市長に「もう良い、話を続けなさい」と告げた[27]。この時までに大公は落ち着きを取り戻しており、市長は無事にスピーチを終えた。続いて大公がスピーチを行う番となったが、彼のスピーチ原稿は爆弾で走行不能となった車両に積まれていたため、原稿が市庁舎に届けられるまでに時間がかかり、ようやく届いた原稿は負傷者の血で濡れていた。大公は用意された原稿に、当日の出来事についての発言をいくつか付け加え、サラエボの人々の歓迎には「暗殺の試みが失敗したことへの歓喜が表れている」として感謝の意を述べた[34]

大公夫妻に同行していた者たちは、次に何をすべきかについて議論した。大公の侍従であるルメルスキルヒ男爵は、兵士らが市内に到着して警備の体制を整えるまで、大公夫妻は市庁舎を離れるべきではないと提案した。オスカル・ポティオレク総督は、演習から直接やって来る兵士はそのような任務にふさわしい礼装を着ていないとして、この提案を拒絶した[35]。 ポティオレクは、「サラエボは暗殺者だらけとでもお思いですか?」と言って議論を終わらせた[35]

大公フランツ・フェルディナントとゾフィーは予定していた計画を諦め、爆弾による負傷者を見舞うためサラエボ病院を訪れることを決めた。午前10時45分、大公夫妻は市庁舎を出て車列に戻り、再び3台目の車に乗り込んだ[36]。街の中心部を避けるため、ポティオレク総督は大公の車の予定されていた運転ルートを変更し、病院までアペル・キーをまっすぐ進ませることに決めていた。しかし、運転手レオポルト・ローチャ英語版[37]はアペル・キーからフランツ・ヨーゼフ通りに向け右折した。これは、ポティオレクの補佐官エリック・フォン・メリッツィが入院中であり、運転ルートの変更についてローチャに伝えることができなかったためだった[38]

大公夫妻の射殺

暗殺直後の現場の様子[39]
プリンツィプが大公フランツ・フェルディナントを殺害したピストル(FNモデルM1910

爆弾による暗殺が失敗したのを知ったプリンツィプは、大公を帰路で暗殺するにはどの位置にいるべきかを考え、最終的にはラテン橋の近くにある食料品店(シラーズ・デリカテッセン)の前で待機することに決めた[40]。その頃、市庁舎を出発した車列の1台目と2台目が唐突に右折してアペル・キーを離れ、わき道に入っていった[41]。大公が乗る3台目の車の運転手が、前の2台のルートを追って右折しようとした時、同乗していたポティオレク総督は運転手に向かって叫び、道を間違えたから停車するよう指示した[42]。運転手がブレーキを踏み、車が停止した場所にはプリンツィプが立っていた[42]。プリンツィプは自動車の踏み板に登ると、フランツ・フェルディナントとゾフィーを至近距離から射撃した[42]。歴史家ルイジ・アルベルティーニによれば、「最初の弾丸は大公の頸静脈を傷つけ、2発目の弾丸は女公爵の腹部に致命傷を与えた」という[43]。プリンツィプは自らを撃って自殺しようとしたが、直ちに群衆によって取り押さえられ、逮捕された[42]。プリンツィプはのちに裁判の判決に際して、自分はゾフィーの殺害を意図しておらず、彼女が受けた弾丸はポティオレク総督に向けて放ったものだったと述べた[44]

暗殺時に大公が着用していた軍服

ゾフィーは撃たれた直後に意識を失い、フランツ・フェルディナントの膝の上に倒れこんだ[42]。大公もまた、治療のため総督公邸に連れて行かれる間に意識不明の状態となった[42]。フォン・ハラック伯爵の報告によれば、大公の最後の言葉は「ゾフィー、ゾフィー!死んでは駄目だ。子供たちのために生きてくれ」というものだった。その後、怪我についての伯爵の質問に答えて、大公は6-7回「大したことはない」という言葉を発し[45]、その後には長い死前喘鳴が続いた。 ゾフィーは総督公邸に到着した時点で死亡しているのが確認された。大公フランツ・フェルディナントはその10分後に死亡した[46]

葬儀

大公夫妻の遺体は戦艦フィリブス・ウニティストリエステまで運ばれ、その後は特別列車でウィーンへと運ばれた[47]。多くの外国の王族が葬儀への出席を希望したが、オーストリア政府はそれを断り、葬儀に参列したのはオーストリア皇室のメンバーのみとなった[47]、ゾフィーはカプツィーナー納骨堂に入ることを許されなかったため、夫妻は大公の生前の希望通りアルトシュテッテン城ドイツ語版に埋葬された[47]

その後

暗殺の翌日(6月29日)にサラエボで発生した反セルビア暴動後の様子

最終的に、サラエボ事件の暗殺者は全員が逮捕された[48]。オーストリア=ハンガリー帝国内で逮捕された暗殺者たちは、彼らをサラエボに潜入させ、また武器を密輸するなど暗殺を支援した地下ネットワークのメンバーと共に裁判にかけられた。メフメドバシッチはモンテネグロで逮捕されたが、拘留中にセルビアへ逃げることを許され、その後セルビア軍の外人部隊に加入した[49]。1917年、セルビア亡命政府はメフメドバシッチを暗殺と無関係の虚偽の罪状で投獄した。(#テッサロニキ裁判(1917年春)参照)

暗殺の数時間後から、サラエボ市内やオーストリア=ハンガリーの他の地域で反セルビア暴動が発生し、暴動は軍が治安回復に動くまで収束しなかった[50]。暗殺当日の夜、ボスニア・ヘルツェゴビナクロアチアではセルビア系住民に対する虐殺も行われた[51][52][53]。それらの暴力行為は当時のボスニア・ヘルツェゴビナ総督オスカル・ポティオレク英語版によって組織され、また扇動されていた[54]。サラエボ市の警察は暴動を抑制するための努力を何もしなかった[55]。小説家イヴォ・アンドリッチは、サラエボの反セルビア暴動を「憎しみに満ちたサラエボの熱狂」と表現した[56]。サラエボ市では暴動初日に2人のセルビア人が殺害され、破壊または略奪されたセルビア人所有の住宅、店舗、学校、施設(銀行、ホテル、印刷所など)は合計で約1000軒にのぼった[57]

実行犯の逮捕と裁判

サラエボ裁判(1914年10月)

オーストリア=ハンガリー当局は、暗殺の実行犯(モンテネグロを経由しセルビアに逃亡したメフメドバシッチを除く全員)[58]および暗殺計画を援助した者たちを逮捕・起訴した。起訴状における最上級の罪状は、セルビア王国官吏が関与した大逆の共謀というものだった。単なる殺人の共謀とは異なり、大逆の共謀では死刑が宣告される可能性があった。裁判は1914年10月12日から10月23日にかけてサラエボで行われ、10月28日に判決が言い渡された。

暗殺実行犯

サラエボ裁判の様子(最前列に座る5人は左から: グラベジュ、チャブリノヴィッチ、プリンツィプ、イリッチ、ジョヴァノヴィッチ)

サラエボ裁判の経過

死刑となる可能性がある成年の被告らは裁判中、自らの暗殺への関与は不本意だったと主張した。セルビア民族主義組織ナロードナ・オドブラナ英語版の一員であり、武器輸送の調整役を務めたヴェリコ・チュブリロヴィッチ英語版もそのような被告の一例であった。チュブリロヴィッチは、プリンツィプの背後には残虐な革命組織が存在したため、彼に従わなければ自分の住居は破壊され、家族は殺害されることになると恐れていたと述べた。なぜ法による保護を求めず、法によって裁かれる危険を犯したのかについて尋ねられた際に、チュブリロヴィッチは「私にとっては暴力の方が法律よりも恐ろしかった」と述べた[59]

セルビア王国の官吏が暗殺に関与したという告発に対して、ベオグラードから計画に参加した3人(プリンツィプ、チャブリノヴィッチ、グラベジュ)は裁判中、大公暗殺の責任は自分たち自身にあると主張し続け、セルビア当局が追求されるのを避けようとした[60]。その目的のために、3人は裁判前の供述とは異なる法廷証言を行った[60]。詰問を受けたプリンツィプは、「私はユーゴスラヴ主義者であり、すべての南スラブ人が統一されることを望んでいる。それがどんな形の国家になろうとも、オーストリアから自由である限りはどうでもよい」と述べた[61]。その後、その望みをどのように実現しようとしているのかを尋ねられると、「テロによってだ」と回答した[61]。一方でチャブリノヴィッチは、自らをオーストリア大公暗殺に駆り立てた政治思想はセルビア国内の党派から学んだものだったと証言した[14]。裁判では、セルビア当局が潔白であるとする被告らの主張は信用されなかった[62]。判決は、「本法廷は、証拠により証明されたものとして、ナロードナ・オドブラナならびにセルビア王国軍諜報部の双方が、共同でこのような凶行に及んだと見なす」と述べた[62]

被告人に下された判決は以下の通りであった:[63]

被告人名 判決
ガヴリロ・プリンツィプ 懲役20年
ネデリュコ・チャブリノヴィッチ英語版 懲役20年
トリフコ・グラベジュ 懲役20年
ヴァソ・チュブリロヴィッチ英語版 懲役16年
ツヴィエトコ・ポポヴィッチ英語版 懲役13年
ラザル・ジュキッチ 懲役10年
ダニロ・イリッチ 絞首刑 (1915年2月3日執行)
ヴェリコ・チュブリロヴィッチ英語版 絞首刑 (1915年2月3日執行)
ネジョ・ケロヴィッチ 絞首刑(のちに皇帝フランツ・ヨーゼフ1世によって懲役20年に減刑)
ミハイロ・ジョヴァノヴィッチ英語版 絞首刑 (1915年2月3日執行)
ヤコブ・ミロヴィッチ 絞首刑(のちに皇帝フランツ・ヨーゼフ1世によって終身刑に減刑)
ミタル・ケロヴィッチ 終身刑
イヴォ・クラニツェヴィッチ 懲役10年
ブランコ・ザゴラック 懲役3年
マルコ・ペリン 懲役3年
スヴィヤン・スティエパノヴィッチ 懲役7年
その他の被告人9名 無罪

裁判中、チャブリノヴィッチは暗殺に参加したことに対する後悔を表明した。 判決が下された後、チャブリノヴィッチは孤児となった大公夫妻の3人の子供たちから、その罪を許す旨の手紙を受け取った[64]。懲役20年を言い渡されたチャブリノヴィッチとプリンツィプは、その後結核によって刑務所内で死亡した。オーストリア=ハンガリー法の下での懲役20年は、事件当時未成年(20歳未満)であった被告に対する最も重い刑罰だったが、プリンツィプの実際の生年月日については多少の疑いが存在したため、裁判では彼の年齢に関する議論が行われ、最終的にプリンツィプは暗殺時に20歳未満であったとの結論が下された[65]

テッサロニキ裁判(1917年春)

テッサロニキで裁判にかけられる黒手組指導者ディミトリエビッチ

1917年の初め、オーストリア=ハンガリーとフランスの間で秘密裏に和平交渉が行われた。それと並行して、オーストリア=ハンガリーとセルビアの間でも和平交渉が行われていたという情況証拠が存在する[66]。オーストリア皇帝カール1世は、テッサロニキに亡命中のセルビア政府にセルビアの領地を返還するにあたっての主な条件を提示し、セルビア政府は、以後セルビアからオーストリア=ハンガリー帝国に対する政治的扇動がもたらされることはないと保証すべきであると要求した[67]

和平交渉のしばらく前から、セルビア王国の摂政アレクサンダルと彼に忠実な士官らは、ディミトリエビッチを中心とする党派をアレクサンダルに対する脅威とみなしており、その排除を画策していた[68]。オーストリア=ハンガリー帝国からの要求は、ディミトリエビッチ排除の動きにさらなる勢いを与えた。1917年3月15日、ディミトリエビッチと彼に忠実な士官らは、サラエボ事件とは無関係のさまざまな虚偽の罪状で起訴され、裁判にかけられた(1953年にセルビア最高裁で再審理が行われ、全員の潔白が証明された)[69]。1917年5月23日、ディミトリエビッチと8人の同僚(計9人)に死刑が宣告された。他の2人には懲役15年が宣告された。被告の1人は裁判中に死亡し、彼への起訴は取り下げられた。その後、セルビア高等裁判所は2人の死刑判決を取り消し、さらにアレクサンダルが4人の死刑を減刑したため、最終的に死刑となったのは3人のみだった[70]。事件当時にセルビア軍諜報部長だったディミトリエビッチは、自らが大公フランツ・フェルディナントの殺害を指示したことを裁判中に告白した[71]。裁判中、計4人の被告がサラエボ事件への関与を告白しており、彼らへの最終的な以下の通りであった[72]

テッサロニキ裁判の被告人(左端がディミトリエビッチ)
被告人名 判決
ドラグーティン・ディミトリエビッチ 銃殺刑 (1917年6月26日執行)
リュボミル・ヴロビッチ英語版 銃殺刑 (1917年6月26日執行)
ラデ・マロバビッチ英語版 銃殺刑 (1917年6月26日執行)
ムハメド・メフメドバシッチ英語版 懲役15年 (のちに減刑され1919年に釈放)

セルビアの首相ニコラ・パシッチ英語版は、ロンドンに居る使節に宛てた書簡の中で、ディミトリエビッチらへの死刑執行を正当化して、「ディミトリエビッチは、他のあらゆる罪に加えて、フランツ・フェルディナントの殺害を命令したのは自分であると認めたのだ。今や、誰にも刑の執行を延期することはできまい」と述べた[73]

3人の死刑囚が処刑場まで車で連れて行かれた際、ディミトリエビッチは運転手に向かって次のように述べた。「はっきりさせておくが、私が今日、セルビアの銃弾によって殺されるのは、サラエボの一件を指示したというただそれだけが理由なのだ」[74]

結果

暗殺事件を伝える『ニューヨーク・タイムズ
"セルビア死すべし!" (Serbien muss sterb[i]en!; 韻を踏むようsterbenの本来のスペルに[i]が加えられている)
オーストリアがセルビア人を成敗する様子を描いた1914年のプロパガンダ戯画

オーストリア=ハンガリー帝国の後継者とその妻の暗殺は、ヨーロッパ中の王室に大きな衝撃を与え、当初はオーストリアの境遇に多くの同情が集まった。他方、ウィーンの一般市民は大きな反応を示さず、暗殺事件の夜にもまるで何事もなかったかのように音楽に耳を傾け、ワインを楽しんでいた。[75][76]事件発生から2日以内に、オーストリア=ハンガリー帝国とドイツ帝国はセルビア王国に対し、大公の暗殺について調査を実施するべきであると勧告したが、セルビア外務省の事務局長スラヴコ・グルイッチは「この問題はセルビア政府とは無関係であり、これまでの所いかなる措置も実施されていない」と回答した[77]。この回答の後、ベオグラードのオーストリア代理大使とグルイッチの間では怒りを帯びたやりとりが交わされた[77]

サラエボ事件の刑事捜査を済ませ、有事の際に同盟国ドイツから軍事支援が受けられることを確認したオーストリア=ハンガリー政府は、セルビア政府に対して正式な通告を行った。この通告は、ボスニア・ヘルツェゴビナに関する列強の決定を尊重し、オーストリア=ハンガリーとの善隣関係を維持することはセルビアの義務だとした上で、10カ条の具体的要求をセルビアに突きつけるものであり、要求には、オーストリア=ハンガリー帝国の破壊を提唱するプロパガンダの出版を禁止すること・そのようなプロパガンダの背後に存在する者たちをセルビア軍から排除すること・サラエボの暗殺計画に関与した者たちをセルビア国内で逮捕すること・セルビアからオーストリア=ハンガリーへの武器および爆発物の密輸を阻止することなどが含まれていた。[78]

のちに「7月の最後通牒」として知られるようになるこの通告は、セルビアが48時間以内にすべての要求を受け入れなかった場合、オーストリア=ハンガリーはセルビアに派遣していた大使を本国に呼び戻すことになると警告していた。ロシアから支援を約束する旨の電報を受け取ったセルビアは、動員を開始するのと同時に、最後通牒への回答を出し、第8条(武器密輸を取り締まる措置および暗殺者を手助けしたセルビア国境警備隊員らへの処罰を要求)と第10条(措置の実施状況をセルビア側が逐一オーストリア=ハンガリーに報告することを要求)を完全に受け入れることを伝え、第1条から第7条および第9条の要求に関しては、部分的に受け入れ、一方では巧妙に誤魔化して対応し、また一方では丁重に拒否した。この回答を受け取ったオーストリア=ハンガリーは、セルビアによる返答の瑕疵を公表すると、セルビアとの外交関係を断絶した。[79]

その翌日、セルビア軍の予備兵を輸送していた蒸気船がコヴィン英語版付近にてドナウ川のオーストリア=ハンガリー帝国領に入ったため、オーストリア=ハンガリー軍の兵士が警告を与える目的で空中に発砲するという事件が起きた[80]。当初、この出来事の情報は不正確であり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世には事件が「かなりの軍事衝突」であると誤って報告された[81][82]。1914年7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に宣戦布告し、(すでに動員を開始していた)セルビアに対する部分動員を行った。7月29日、ロシアはセルビアを支援すべくオーストリア=ハンガリーに対する部分動員を行い、翌7月30日には総動員を命じた[83]。ロシアの総動員に反応したドイツは総動員を行ってロシアに宣戦布告し、第一次世界大戦の勃発につながった。

現代における評価

現在の暗殺現場にはセルビア・クロアチア語と英語の両方で書かれた銘板が設置されている[84]
100年前にガヴリロ・プリンツィプが放った銃弾は、ヨーロッパに向けて発砲されたものではなく、自由を得るための発砲であり、外国による支配からの解放を目指すセルビア人の闘いの先駆けとなった。
彼(プリンツィプ)の行為がもたらした影響は、ボスニアにとって非常に悪いものだった。 ボスニアはユーゴスラビアとなって消滅し、ボスニアに住むムスリム人の存在は1968年まで認められることはなかった。彼ら(オーストリア=ハンガリー帝国)はユーゴスラビア王国ユーゴスラビア共産主義者同盟に比べれば、はるかに優れた支配者と言えた。 歴史的な記録を見れば、オーストリア=ハンガリーが法による支配のような概念をいかに重視していたかがわかるだろう。我々は1918年に非常に多くのものを失った。
フェドザト・フォルト(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦系通信社の論説委員)- プリンツィプはオーストリア=ハンガリーという占領者からボスニアを解放する手助けをしたいう主張に対して[86]

暗殺者の1人であったヴァソ・チュブリロヴィッチ英語版は後にサラエボ事件を振り返って、「私たちは美しい世界を破壊した。それは大戦の勃発によって永遠に失われた」と語った[87]

旧ユーゴスラビアの多くの国で[88]、ボシュニャク系およびクロアチア系住民の大部分は、プリンツィプはテロリストであり、またセルビア民族主義者であると見なしている[86]。サラエボ事件の100周年記念行事は欧州連合によって企画され、サラエヴォ市庁舎英語版ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるコンサートが行われた[86]。記念行事にはオーストリア大統領のハインツ・フィッシャーが主賓として招かれた[89]

他方、セルビア民族主義者の要人らはこの記念行事をボイコットし、一切の参加を取りやめた[85]スルプスカ共和国に属する東サラエボでは、サラエボ事件の100周年を記念してプリンツィプの銅像が建てられた[86]。その後2015年6月には、セルビアの首都ベオグラードにもプリンツィプの銅像が建てられた[90]。セルビアの歴史教科書は、セルビアまたはプリンツィプが第一次世界大戦のきっかけとなったことを否定しており[88]、開戦の責任は中央同盟国にあるとしている[91]。スルプスカ共和国大統領ミロラド・ディドクは、ボスニアは「いまだ分裂状態にある」と認めた上で、プリンツィプは「自由の戦士」であり、オーストリア=ハンガリーは「占領者」であったと主張した[92]

プリンツィプが使用した銃と、大公フランツ・フェルディナントが乗っていた車、血に染まった大公の軍服、そして大公が死亡したシェーズ・ロングは、オーストリアのウィーン軍事史博物館に常設展示されている。プリンツィプによって発射された弾丸は、「第一次世界大戦を始めた弾丸」とも呼ばれ[93]チェコベネショフにあるコノピシュチェ城内の博物館に展示されている。事件のすぐ後に暗殺現場に建てられ、サラエボがユーゴスラビアとなった1918年に破壊された記念碑に含まれていた大公夫妻をかたどった銅のメダルは、サラエヴォにあるボスニア・ヘルツェコビナ国立美術館で現在保存されている[94]

サラエボ事件100周年

現在ボスニア・ヘルツェゴビナの首都であるサラエボでは、2014年6月28日、平和を願う記念行事が開かれたが、セルビア人を犯罪者扱いする文言があるとして、隣国セルビアの首脳が出席を拒否する事態となった。ボスニア・ヘルツェゴビナ国内には、プリンツィプをテロリストと見なす意見と、英雄と見なす意見の両方が存在する。前日27日に行われたプリンツィプの銅像の序幕式では拍手が巻き起こり、プリンツィプのTシャツを着た見物人などが銅像を一目見ようと集まった[95][96]

銘板内容の変遷

セルビアの週刊誌『ヴレーメ』(2013年10月31日号)によると以下の内容の変遷を辿っている[97]

  1. 1枚目の銘板は、1930年2月2日に設置された。その大理石記念銘板の碑文内容は、「この歴史的場所で、ガヴリロ・プリンツィプは、1914年6月15日[98](28日)、聖ヴィトゥスの日に自由をもたらす。」と刻記され設置された。この内容に周辺国等は反発したが、ユーゴスラヴィア王国政府は「暗殺者の友人たちと家族等が私的に作って設置したものである」と釈明した。なおこの碑文は、1941年4月20日のアドルフ・ヒトラーの52歳誕生日に誕生日プレゼントとして特別に持参されて送られている。
  2. 2枚目の銘板は、1945年4月6日にサラエボを解放したパルチザン部隊は、1945年5月7日に「この場所からのガヴリロ・プリンツィプの発砲は、反専制の人民的抗議と我等諸人民の長年にわたる自由への希求を表現している。」と刻記された新しい記念銘板を現場の石壁にはめ込んでいる。
  3. 1992年3月1日に独立後、45年に設置された2枚目の銘板は、撤去されている。2004年に「1914年6月28日、この場所からガヴリロ・プリンツィプは、オーストリー・ハンガリー皇太子フランツ・フェルデナントと妻ソフィアを殺害した。」との内容が刻記された3枚目の銘板が設置されている。

その他

都市伝説

大公夫妻の乗っていた自動車については、「事件後に複数の所有者の手に渡り、みな悲惨な最期を遂げた」という都市伝説が語られることがあり、「最終的に博物館に所蔵されていたが、第二次世界大戦中に爆撃を受けて失われた」と続く場合もある[99](前述の通り、実際には自動車は現存している)。

出典

  1. ^ MacKenzie 1995, pp. 9–10.
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  99. ^ オカルトライターとして知られた佐藤有文の著書『怪奇ミステリー』(学習研究社、1973年)や『ミステリーゾーンを発見した』(KKベストセラーズ・ワニ文庫、1986年)にこうした記述が見られる。

参考文献

関連書籍

外部リンク

関連項目