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「川喜田半泥子」の版間の差分

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== 前半生・財界人として ==
== 前半生・財界人として ==
[[大阪府]]生まれ。15代続く伊勢の豪商の家に生まれる。裕福な家庭で育ったが、祖父や父は半泥子の生後まもなく他界し、1歳で川喜田家16代当主となった。母は18歳であったため、その若さで未亡人となるのは不憫と実家に帰され、半泥子は祖母「政」の手によって育てられた。また筆頭分家の川喜田四郎兵衛からも教育を受け、三重県尋常中学(現在の[[三重県立津高等学校]])に入学、1900年(明治33年)東京専門学校(現在の早稲田大学に入学、[[1901年]](明治34年)23歳で四郎兵衛の長女・為賀と結婚している。
[[大阪府]]生まれ。15代続く伊勢の豪商の家に生まれる。裕福な家庭で育ったが、祖父や父は半泥子の生後まもなく他界し、1歳で川喜田家16代当主となった。母は18歳であったため、その若さで未亡人となるのは不憫と実家に帰され、半泥子は祖母「政」の手によって育てられた。また筆頭分家の川喜田四郎兵衛からも教育を受け、三重県尋常中学(現在の[[三重県立津高等学校]])に入学、1900年(明治33年)早稲田大学に入学、[[1901年]](明治34年)23歳で四郎兵衛の長女・為賀と結婚している。早稲田大学卒業


[[1903年]](明治36年)に[[百五銀行]]の取締役に就任。[[1919年]](大正8年)に第6代頭取となり、[[1945年]](昭和20年)2月まで頭取を務めた。頭取としては、「安全第一」をモットーに健全経営を行う一方で地元の中小銀行を買収・合併していき、[[1922年]]には吉田銀行、[[1925年]]には河芸銀行、[[1929年]]には一志銀行を買収し、[[1943年]]には勢南銀行を合併して規模を拡大していった<ref>[http://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/03-J-21.pdf 戦間期における地方銀行の有価証券投資]p11 粕谷誠 日本銀行金融研究所 2003年10月</ref>。1924年には津市中心部の丸之内に新本店を建設。[[1931年]]の[[金融恐慌]]においては自らの個人株を担保として[[日本銀行]]より現金を借り入れ、窓口に積み上げて現金が豊富にあることをアピールし、[[取り付け騒ぎ]]を乗り切った<ref>[http://www.hyakugo.co.jp/recruit/outline_t.html 百五銀行沿革(大正)]</ref>。こうして、彼の時代に百五銀行は[[三重県]]有数の金融機関に成長した。頭取以外にも、三重県財界の重鎮として、[[合同電気|三重合同電気]]社長や[[明治生命]]の監査役などいくつもの会社の要職を務めている<ref>[http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/catalogue/handeisi/mouri.htm 三重県立美術館/川喜田半泥子 年譜、毛利伊知郎編 川喜田半泥子展図録]</ref>。また、[[1909年]](明治42年)からは[[津市]]会議員、[[1910年]](明治43年)からは[[三重県議会|三重県会]]議員を務めた。
[[1903年]](明治36年)に[[百五銀行]]の取締役に就任。[[1919年]](大正8年)に第6代頭取となり、[[1945年]](昭和20年)2月まで頭取を務めた。頭取としては、「安全第一」をモットーに健全経営を行う一方で地元の中小銀行を買収・合併していき、[[1922年]]には吉田銀行、[[1925年]]には河芸銀行、[[1929年]]には一志銀行を買収し、[[1943年]]には勢南銀行を合併して規模を拡大していった<ref>[http://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/03-J-21.pdf 戦間期における地方銀行の有価証券投資]p11 粕谷誠 日本銀行金融研究所 2003年10月</ref>。1924年には津市中心部の丸之内に新本店を建設。[[1931年]]の[[金融恐慌]]においては自らの個人株を担保として[[日本銀行]]より現金を借り入れ、窓口に積み上げて現金が豊富にあることをアピールし、[[取り付け騒ぎ]]を乗り切った<ref>[http://www.hyakugo.co.jp/recruit/outline_t.html 百五銀行沿革(大正)]</ref>。こうして、彼の時代に百五銀行は[[三重県]]有数の金融機関に成長した。頭取以外にも、三重県財界の重鎮として、[[合同電気|三重合同電気]]社長や[[明治生命]]の監査役などいくつもの会社の要職を務めている<ref>[http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/catalogue/handeisi/mouri.htm 三重県立美術館/川喜田半泥子 年譜、毛利伊知郎編 川喜田半泥子展図録]</ref>。また、[[1909年]](明治42年)からは[[津市]]会議員、[[1910年]](明治43年)からは[[三重県議会|三重県会]]議員を務めた。

2018年12月19日 (水) 07:40時点における版

石水博物館。半泥子の作品を所蔵し公開している

川喜田 半泥子(かわきた はんでいし、1878年(明治11年)11月6日[1] - 1963年(昭和38年)10月26日[2])は、日本の陶芸家実業家政治家。「東の魯山人、西の半泥子」、「昭和の光悦」などと称される。本名は久太夫政令(きゅうだゆうまさのり)、幼名は「善太郎」。号は「半泥子」の他に、「無茶法師」「其飯(そのまま)」等。

前半生・財界人として

大阪府生まれ。15代続く伊勢の豪商の家に生まれる。裕福な家庭で育ったが、祖父や父は半泥子の生後まもなく他界し、1歳で川喜田家16代当主となった。母は18歳であったため、その若さで未亡人となるのは不憫と実家に帰され、半泥子は祖母「政」の手によって育てられた。また筆頭分家の川喜田四郎兵衛からも教育を受け、三重県尋常中学(現在の三重県立津高等学校)に入学、1900年(明治33年)、早稲田大学に入学、1901年(明治34年)23歳で四郎兵衛の長女・為賀と結婚している。早稲田大学卒業。

1903年(明治36年)に百五銀行の取締役に就任。1919年(大正8年)に第6代頭取となり、1945年(昭和20年)2月まで頭取を務めた。頭取としては、「安全第一」をモットーに健全経営を行う一方で地元の中小銀行を買収・合併していき、1922年には吉田銀行、1925年には河芸銀行、1929年には一志銀行を買収し、1943年には勢南銀行を合併して規模を拡大していった[3]。1924年には津市中心部の丸之内に新本店を建設。1931年金融恐慌においては自らの個人株を担保として日本銀行より現金を借り入れ、窓口に積み上げて現金が豊富にあることをアピールし、取り付け騒ぎを乗り切った[4]。こうして、彼の時代に百五銀行は三重県有数の金融機関に成長した。頭取以外にも、三重県財界の重鎮として、三重合同電気社長や明治生命の監査役などいくつもの会社の要職を務めている[5]。また、1909年(明治42年)からは津市会議員、1910年(明治43年)からは三重県会議員を務めた。

芸術・文化活動

陶芸は趣味で、50歳を過ぎてから本格的に自ら作陶するようになった。1933年には千歳山の自宅に窯を開き、本格的に作陶を開始した。主に抹茶茶碗を製作した。作風は自由奔放で破格と評される。陶芸のほかに、書や画もよくしたが、あくまでも趣味としての立場を貫き、生涯にほとんど売ることはなく、出来上がった作品は友人知人に分け与えた。

豊富な財力で、1930年(昭和5年)に「財団法人石水会館」を設立し、同名の文化施設を津市中心部の丸の内に建設して文化事業を支援した。文化施設は1945年に戦災により焼失したが、財団法人はその後も文化活動を行った。同年、自宅のある津市南部の千歳山に川喜田家の所蔵品収蔵庫として千歳文庫を建設した。また、1942年(昭和17年)「からひね会」をつくり、後に人間国宝となる陶芸家の荒川豊蔵金重陶陽三輪休雪を支援した。戦後、千歳山の自宅が進駐軍に接収されたため郊外の広永へと移転し、自宅にあった窯もこの地に移した。1945年に百五銀行の頭取から会長に退き、1950年には相談役となった。1955年には再び千歳山に住まいを移した。

死後、「石水会館」を母体として1980年「石水博物館」が設立され、川喜田家に所蔵されていた半泥子の作品を公開していた。石水博物館はその後、2011年に千歳山に新築移転している。

専修寺玉保院の境内には地理学者の稲垣定穀の墓碑や陶芸家・川喜田半泥子がある。川喜田家の墓所の右側2つ目が半泥子ので、仙鶴院と刻まれている。半泥子の遺志で祖母と妻と供に1つのに入る[6]

親族

脚注

参考文献

  • 朝日新聞 2009年(平成21年)11月11日記事
  • 千早耿一郎『おれはろくろのまわるまま ―評伝 川喜田半泥子―』日本経済新聞社、1988年6月29日。ISBN 4-532-09463-1 

外部リンク