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{{基礎情報 皇族・貴族 |
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{{出典の明記|date=2019年1月}} |
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| 人名 = 貴人南氏 |
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'''貴人南氏'''(クィィンナムシ、きじんなんし、[[生没年不詳]])は、[[成宗 (朝鮮王)|成宗]]の後宮。 |
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| 各国語表記 = 귀인 남씨 |
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| 敬称 = |
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| お印 = <!-- 日本の皇族のみ --> |
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| 出生日 = 不詳 |
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| 死亡日 = 不詳 |
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| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = |
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| 子女 = なし |
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| 父親 = 南炘 |
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| 母親 = 全州李氏 |
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'''貴人 南氏'''(きじん なんし、クィイン ナムシ、生没年不詳)は[[李氏朝鮮]]第9代国王[[成宗 (朝鮮王)|成宗]]の[[後宮]]。本貫は[[宜寧南氏]]。[[承政院]]右承旨等を務めた南忻(なん きん、ナム・フン、{{lang|ko|남흔}}、[[1451年]] - [[1492年]]<ref>박익환 [http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Index?contents_id=E0012321 남흔(南忻)] {{ko icon}} 韓国民族文化大百科事典 2019.1.26 14:25 (UTC) 閲覧</ref>)の三女<ref name="inmulgo">[https://terms.naver.com/entry.nhn?docId=946023&mobile&cid=62132&categoryId=62132 남흔] {{ko icon}} 國朝人物考 2019.1.26 14:40 (UTC) 閲覧([[NAVER]]内)</ref>。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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南忻とその正室全州李氏との間に誕生。入内した時期は明らかではないが[[朝鮮王朝実録]]によると彼女の入内の後父南忻が承政院右承旨を拝し、その事が理由で論争が起きたとの記述がある<ref>「承政院右承旨南忻暴卒. 特賜米, 豆幷二十碩, 正布十五匹, 紙六十卷, 油席三及棺槨. 【史臣曰 忻本綺紈子弟, 放浪不檢, 嘗坐奸妻曾祖孝寧大君侍兒配外, 後其女選入爲淑儀, 及拜承旨., 物議紛然, 臺諫無駁之者. 時權景祐爲司諫, 與忻比隣, 鄭錫堅謂人曰 豈料景祐, 亦以酒食之私廢公義乎. 景祐聞之, 笑而受責 】」 [[朝鮮王朝実録]] 成宗実録268巻、成宗23年8月3日辛丑2回目</ref>。 |
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生年は不詳、本貫は宣寧。[[1480年]]~[[1490年]]の間に、[[淑儀]]として入宮。何年も経たずに、[[成宗 (朝鮮王)|成宗]]が崩御し、[[燕山君]]が即位するも、そのまま宮中に暮らす。 |
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入内後の1492年に父と、更にその3年後の1495年に夫成宗と相次いで死別。その後も[[貞顕王后|慈順大妃]]と共に宮中の移御所(離宮のひとつ)に暮らしたが[[燕山君]]に寵幸を受けた(特別に寵愛を受けた)との噂が宮中だけでなく外にも広まったという<ref>「成宗後宮南氏, 亦在大妃移御所, 頗見寵幸, 醜聲聞外.」朝鮮王朝実録 中宗実録1巻、中宗1年9月2日戊寅2回目</ref>。 |
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義理とは言えど、母に準ずる立場でありながら、[[燕山君]]と[[姦通]]した。 |
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燕山君日記中に南氏は淑儀であったという記録がある<ref>「人言, 『王烝成宗淑儀南氏, 恐醜聲聞外, 故有是敎』」朝鮮王朝実録 燕山君日記63巻、演算12年8月5日壬子2番目</ref>が、[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]治世下では'''南貴人'''の呼称で複数回記録されている<ref>「大妃遣南貴人, 致奠于殯殿.」朝鮮王朝実録 中宗実録21巻、中宗10年3月19日丙子2回目</ref><ref name="silrokjj59">「如南貴人, 傾邪側媚, 恩寵所在, 輒自附麗, 陰行指嗾, 助張聲勢, 豈可以久處宮掖, 以亂家政哉.」 朝鮮王朝実録 中宗実録59巻、中宗22年5月18日甲午2回目</ref>。1527(中宗22)年[[司憲府]]は南氏の行いがよくないという理由で上訴した<ref name="silrokjj59"/>が中宗はこれに対し、「貴人は大妃を尊敬していて自ら宮中に残っている、世論はこれを知って自ら行動をするだろう」との返答を行った<ref>「南貴人則先王後宮, 自有歸處, 然以侍奉慈殿, 故在此焉. 若有物論如此則必當自處也.」朝鮮王朝実録 中宗実録59巻、中宗22年5月18日甲午2回目</ref><ref>[https://terms.naver.com/entry.nhn?docId=1986995&cid=40942&categoryId=34439&mobile 귀인 남씨] {{ko icon}} 斗山百科(NAVER内)</ref>。 |
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[[1506年]]、[[中宗反正]]により、[[燕山君]]が廃位、[[流罪]]されても、[[中宗 (朝鮮王)]]の母、[[貞顕王后]]と緊密な関係を維持しながら、宮中で暮らした。以後、[[貴人]]となった。 |
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== 家系 == |
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[[1527年]]、[[司憲府]]から南氏を出宮させるべき、との、[[上訴]]が挙がるが、中宗は「善処するよう」と、保護するような命令をした。しかし、その後の生涯は不明。 |
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* 父: 南忻 |
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* 母: 全州李氏 |
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** 兄弟: 南調元 |
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** 兄弟: 南應元 |
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** 兄弟: 南燮元 |
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** 姉: 尹承世室 |
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** 姉: 金祥室<ref name="inmulgo"/> |
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* 夫: 成宗 |
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** 子女なし |
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== 脚注 == |
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* 父 - 南忻(ナム・フン) |
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* 母 - [[全州金氏]]、[[孝寧大君]]([[太宗 (朝鮮王)]]の次男)の曾孫 |
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== 演じた人物 == |
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* [[サイムダン、色の日記]]([[SBS (韓国)]]、[[2017年]]、演:[[キム・ヘスク]]) |
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{{デフォルトソート:きしん なんし}} |
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[[Category:生没年不詳]] |
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[[Category:李氏朝鮮の後宮]] |
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[[Category:宜寧南氏]] |
2019年1月26日 (土) 15:58時点における版
貴人南氏 귀인 남씨 | |
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出生 |
不詳 |
死去 |
不詳 |
配偶者 | 成宗 |
子女 | なし |
父親 | 南炘 |
母親 | 全州李氏 |
貴人 南氏(きじん なんし、クィイン ナムシ、生没年不詳)は李氏朝鮮第9代国王成宗の後宮。本貫は宜寧南氏。承政院右承旨等を務めた南忻(なん きん、ナム・フン、남흔、1451年 - 1492年[1])の三女[2]。
生涯
南忻とその正室全州李氏との間に誕生。入内した時期は明らかではないが朝鮮王朝実録によると彼女の入内の後父南忻が承政院右承旨を拝し、その事が理由で論争が起きたとの記述がある[3]。
入内後の1492年に父と、更にその3年後の1495年に夫成宗と相次いで死別。その後も慈順大妃と共に宮中の移御所(離宮のひとつ)に暮らしたが燕山君に寵幸を受けた(特別に寵愛を受けた)との噂が宮中だけでなく外にも広まったという[4]。
燕山君日記中に南氏は淑儀であったという記録がある[5]が、中宗治世下では南貴人の呼称で複数回記録されている[6][7]。1527(中宗22)年司憲府は南氏の行いがよくないという理由で上訴した[7]が中宗はこれに対し、「貴人は大妃を尊敬していて自ら宮中に残っている、世論はこれを知って自ら行動をするだろう」との返答を行った[8][9]。
家系
- 父: 南忻
- 母: 全州李氏
- 兄弟: 南調元
- 兄弟: 南應元
- 兄弟: 南燮元
- 姉: 尹承世室
- 姉: 金祥室[2]
- 夫: 成宗
- 子女なし
脚注
- ^ 박익환 남흔(南忻) 韓国民族文化大百科事典 2019.1.26 14:25 (UTC) 閲覧
- ^ a b 남흔 國朝人物考 2019.1.26 14:40 (UTC) 閲覧(NAVER内)
- ^ 「承政院右承旨南忻暴卒. 特賜米, 豆幷二十碩, 正布十五匹, 紙六十卷, 油席三及棺槨. 【史臣曰 忻本綺紈子弟, 放浪不檢, 嘗坐奸妻曾祖孝寧大君侍兒配外, 後其女選入爲淑儀, 及拜承旨., 物議紛然, 臺諫無駁之者. 時權景祐爲司諫, 與忻比隣, 鄭錫堅謂人曰 豈料景祐, 亦以酒食之私廢公義乎. 景祐聞之, 笑而受責 】」 朝鮮王朝実録 成宗実録268巻、成宗23年8月3日辛丑2回目
- ^ 「成宗後宮南氏, 亦在大妃移御所, 頗見寵幸, 醜聲聞外.」朝鮮王朝実録 中宗実録1巻、中宗1年9月2日戊寅2回目
- ^ 「人言, 『王烝成宗淑儀南氏, 恐醜聲聞外, 故有是敎』」朝鮮王朝実録 燕山君日記63巻、演算12年8月5日壬子2番目
- ^ 「大妃遣南貴人, 致奠于殯殿.」朝鮮王朝実録 中宗実録21巻、中宗10年3月19日丙子2回目
- ^ a b 「如南貴人, 傾邪側媚, 恩寵所在, 輒自附麗, 陰行指嗾, 助張聲勢, 豈可以久處宮掖, 以亂家政哉.」 朝鮮王朝実録 中宗実録59巻、中宗22年5月18日甲午2回目
- ^ 「南貴人則先王後宮, 自有歸處, 然以侍奉慈殿, 故在此焉. 若有物論如此則必當自處也.」朝鮮王朝実録 中宗実録59巻、中宗22年5月18日甲午2回目
- ^ 귀인 남씨 斗山百科(NAVER内)