「コンスタンティヌス1世」の版間の差分
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| 全名 = ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス<br>(Gaius Flavius Valerius Constantinus) |
| 全名 = ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス<br>(Gaius Flavius Valerius Constantinus) |
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| 出生日 = |
| 出生日 = 270年頃、[[2月27日]] |
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| 生地 = [[モエシア]]属州ナイッスス<br />(現{{SRB}}、[[ニシュ]]) |
| 生地 = [[モエシア]]属州ナイッスス<br />(現{{SRB}}、[[ニシュ]]) |
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| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|272|2|27|337|5|22}} |
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|272|2|27|337|5|22}} |
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[[ファイル:Byzantinischer Mosaizist um 1000 002.jpg|200px|thumb|[[アヤソフィア]]のモザイク画:聖母子に[[コンスタンティノポリス]]の街を捧げるコンスタンティヌス1世(顔の部分を拡大)]] |
[[ファイル:Byzantinischer Mosaizist um 1000 002.jpg|200px|thumb|[[アヤソフィア]]のモザイク画:聖母子に[[コンスタンティノポリス]]の街を捧げるコンスタンティヌス1世(顔の部分を拡大)]] |
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'''ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス'''(<small>[[古典ラテン語]]</small>:{{Lang|la|'''Gaius Flavius Valerius Constantinus'''|ガーイウス・フラーウィウス・ウァレリウス・コーンスタンティーヌス}}、[[270年]]代前半の[[2月27日]] - [[337年]][[5月22日]])は、[[ローマ帝国]]の[[ローマ皇帝|皇帝]](在位:[[306年]] - 337年)。複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、[[ドミナートゥス|専制君主制]]を発展させたことから「[[大帝]]」と称される。 |
'''ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス'''(<small>[[古典ラテン語]]</small>:{{Lang|la|'''Gaius Flavius Valerius Constantinus'''|ガーイウス・フラーウィウス・ウァレリウス・コーンスタンティーヌス}}、[[270年]]代前半の[[2月27日]] - [[337年]][[5月22日]])は、[[ローマ帝国]]の[[ローマ皇帝|皇帝]](在位:[[306年]] - 337年)。複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、[[ドミナートゥス|専制君主制]]を発展させたことなどから「[[大帝]]」と称される。 |
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ローマ帝国の皇帝として初めて[[キリスト教]]を公認、その後の発展の政治的社会的基盤を用意したことから、[[正教会]]、[[東方諸教会]]、[[東方典礼カトリック教会]]では、[[聖人]]とされている。記憶日は、その母太后[[聖ヘレナ]]と共に6月3日。[[日本正教会]]では正式には「[[亜使徒]]聖大帝コンスタンティン」と呼称される。 |
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[[1950年]]に[[ギリシャ]]で発行された旧100[[ドラクマ]]紙幣に肖像が使用されていた。 |
[[1950年]]に[[ギリシャ]]で発行された旧100[[ドラクマ]]紙幣に肖像が使用されていた。 |
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== 概略 == |
== 概略 == |
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[[ディオクレティアヌス]]の時代に西の[[カエサル (称号)|副帝]]を務め、後に[[アウグストゥス (称号)|正帝]](在位305年-306年)となった[[コンスタンティウス・クロルス]]の子として生まれたコンスタンティヌス1世は、[[312年]]に帝国の西の正帝となり、ディオクレティアヌス退位後の内乱を収拾して[[324年]]に帝国を再統一した。 |
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[[330年]]には帝国東方の交易都市である[[ギリシア人]]の植民都市[[ビュザンティオン]](後の[[コンスタンティノポリス]]、現[[イスタンブール]])を建設した。統一された帝国の皇帝として、コンスタンティヌス1世は官僚制を整備し、[[属州]]における軍事指揮権と行政権を完全に分離するなどディオクレティアヌスが始めた専制君主制([[ドミナートゥス]])を強化した。経済・社会面では、[[ソリドゥス金貨]]を発行して通貨を安定させ、[[コロヌス]]の移動を禁止、身分を固定化することで農地からの収入安定を図った<ref>「古代ローマを知る事典」p118 長谷川岳男・樋脇博敏著 東京堂出版 2004年10月1日初版発行</ref>。内政面では、ディオクレティアヌス帝までずっと盛んになる一方だった[[エクィテス]](騎士)身分の重職への進出を停止し、かわりに形骸化しつつあった[[元老院 (ローマ)|元老院]]を拡充させ、騎士身分や地方有力者を多数元老院議員に任命するとともに、これまで騎士身分のための職だった官職を元老院身分にまで解放した。これにより、経済・政治的に一大勢力を築いてきた騎士身分は栄達の道を閉ざされ、これ以降歴史から姿を消していくこととなった<ref>『新・ローマ帝国衰亡史』p57 南川高志 岩波新書、2013.5 ISBN 4004314267</ref>。 |
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宗教政策の面では、帝国の統一を維持するため寛容な政策を採り、たびたび迫害されていたキリスト教に信教の自由を与えて公認した。彼がキリスト教を公認したことは、後年キリスト教がローマ帝国領であった[[地中海世界]]全域へ浸透するきっかけとなる一方、教義に対する皇帝の介入を受けることにもつながった。 |
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[[ディオクレティアヌス]]の時代に西の[[カエサル (称号)|副帝]]を務め、後に[[アウグストゥス (称号)|正帝]](在位305年 - 306年)となった[[コンスタンティウス・クロルス]]の子として生まれたコンスタンティヌスは、[[312年]]に帝国の西の正帝となり、ディオクレティアヌス退位後の内乱を収拾して[[324年]]に帝国を再統一した。 |
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コンスタンティヌス1世時代の軍事の特徴としては、[[プラエトリアニ]](近衛軍団)を解体して、コミタテンセス(野戦機動軍)と、辺境軍(辺境部隊、リミタネイ)とを明確に分離して設置したことがあげられる。辺境軍はその名の通り各地の辺境属州の国境に常駐して国境や地域の安全を守り、野戦軍はふだんは帝国の中心部に近い属州に常駐し、敵の大規模な侵入や外征などの際には主力となった。これは[[軍人皇帝時代]]より徐々に進められてきた政策であったが、ディオクレティアヌス時代にはこの戦略は修正され、辺境に従来の倍の兵を貼り付け国境で防衛する戦略に変わっていた。コンスタンティヌス1世は辺境の軍を分割して再び国境の辺境軍と機動軍である中央軍の体制に戻したうえで明確化し、この戦略はこの時代に確立された。<ref>エイドリアン・ゴールズワージー著、遠藤利国訳『図説古代ローマの戦い』東洋書林 2003年5月30日</ref>また、コンスタンティヌス1世はプラエトリアニの隊長であった近衛長官([[プラエフェクトゥス・プラエトリオ]])は称号は残したものの軍権を排除し文官職へ転換させた。 |
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[[330年]]には帝国東方の交易都市である[[ギリシア人]]の植民都市[[ビュザンティオン]](後の[[コンスタンティノポリス]]、現[[イスタンブール]])に遷都した。統一された帝国の皇帝として、コンスタンティヌスは官僚制を整備し、[[属州]]における軍事指揮権と行政権を完全に分離するなどディオクレティアヌスが始めた専制君主制([[ドミナートゥス]])を強化した。経済・社会面では、[[ソリドゥス金貨]]を発行して通貨を安定させ、[[コロヌス]]の移動を禁止、身分を固定化することで農地からの収入安定を図った<ref>「古代ローマを知る事典」p118 長谷川岳男・樋脇博敏著 東京堂出版 2004年10月1日初版発行</ref>。内政面では、ディオクレティアヌス帝までずっと盛んになる一方だった[[エクィテス]](騎士)身分の重職への進出を停止し、かわりに形骸化しつつあった[[元老院 (ローマ)|元老院]]を拡充させ、騎士身分や地方有力者を多数元老院議員に任命するとともに、これまで騎士身分のための職だった官職を元老院身分にまで解放した。これにより、経済・政治的に一大勢力を築いてきた騎士身分は栄達の道を閉ざされ、これ以降歴史から姿を消していくこととなった<ref>『新・ローマ帝国衰亡史』p57 南川高志 岩波新書、2013.5 ISBN 4004314267</ref>。 |
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コンスタンティヌス1世自身は、キリスト教徒が多い[[ビテュニア]]生まれの[[コンスタンティノポリスのヘレナ|ヘレナ]]を母として生まれたのでもともとキリスト教に好意的であったと言われる。一時期[[ミトラ教]]に傾倒したが、晩年にはキリスト教の[[洗礼]]を受けた。[[正教会]]ではキリスト教徒であった母とともに「[[亜使徒]]」の称号を付与されて尊崇された。また、コンスタンティヌス1世は[[325年]]にキリスト教の歴史で最初の公会議(全教会規模の会議)である[[第1ニカイア公会議]]を開かせ、この会議で[[アレクサンドリアのアタナシオス|アタナシウス派]]が正統とされ、[[アリウス派]]が異端とされた。 |
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宗教政策の面では、帝国の統一を維持するため寛容な政策を採り、[[ネロ]]以来禁止されていたキリスト教に信教の自由を与えて公認した。[[ミラノ勅令]]によって彼がキリスト教を公認したことは、後年キリスト教がローマ帝国領であった[[ヨーロッパ]]へ浸透するきっかけとなる一方、教義決定に皇帝の介入を受けることにもつながった。 |
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コンスタンティノープルを首都とした[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)では、彼と同じ名([[ギリシア語]]形:[[コンスタンティノス]])を持つ皇帝が多数即位した。東ローマ帝国はコンスタンティヌスが創始した専制君主制とキリスト教の信仰の上に成り立っていたため、その先駆者であるコンスタンティヌス1世を「最初のビザンツ皇帝」と呼ぶ{{誰範囲|date=2015年10月26日 (月) 16:25 (UTC)|[[歴史家]]もいる}}。 |
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コンスタンティヌス時代の軍事の特徴としては、[[プラエトリアニ]](親衛隊)を解体して、中央軍(野戦部隊、コミタテンセス)と、辺境軍(辺境部隊、リミタネイ)とを明確に分離して設置したことがあげられる。辺境軍はその名の通り各地の辺境属州の国境に常駐して国境や地域の安全を守り、野戦軍はふだんは帝国の中心部に近い属州に常駐し、敵の大規模な侵入や外征などの際には主力となった。これは[[軍人皇帝時代]]より徐々に進められてきた政策であったが、ディオクレティアヌス時代にはこの戦略は修正され、辺境に従来の倍の兵を貼り付け国境で防衛する戦略に変わっていた。コンスタンティヌス1世は辺境の軍を分割して再び国境の辺境軍と機動軍である中央軍の体制に戻したうえで明確化し、この戦略はこの時代に確立された。<ref>エイドリアン・ゴールズワージー著、遠藤利国訳『図説古代ローマの戦い』東洋書林 2003年5月30日</ref>また、プラエトリアニの隊長であった[[プラエフェクトゥス・プラエトリオ]]の称号は残ったものの軍事的要素を失い、以後は行政職の称号となった。 |
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コンスタンティヌス自身は、キリスト教徒が多い[[ビテュニア]]生まれの[[コンスタンティノポリスのヘレナ|ヘレナ]]を母として生まれたのでもともとキリスト教に好意的であったと言われる。一時期[[ミトラ教]]に傾倒したが、晩年にはキリスト教の[[洗礼]]を受けた。[[正教会]]ではキリスト教徒であった母とともに「[[亜使徒]]」の称号を付与されて尊崇された。また、コンスタンティヌス1世は[[325年]]にキリスト教の歴史で最初の公会議(全教会規模の会議)である[[第1ニカイア公会議]]を開かせ、この会議で[[アレクサンドリアのアタナシオス|アタナシウス派]]が正統とされ、[[アリウス派]]が異端とされた。 |
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コンスタンティノポリスを首都とした[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)では、彼と同じ名([[ギリシア語]]形:[[コンスタンティノス]])を持つ皇帝が多数即位した。東ローマ帝国はコンスタンティヌスが創始した専制君主制とキリスト教の信仰の上に成り立っていたため、その先駆者であるコンスタンティヌス1世を「最初のビザンツ皇帝」と呼ぶ{{誰範囲|date=2015年10月26日 (月) 16:25 (UTC)|[[歴史家]]もいる}}。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 出自 === |
=== 出自 === |
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コンスタンティヌス1世、即ちフラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌスは[[モエシア]]属州のナイッスス(現:[[セルビア]]の[[ニシュ]])に生まれた<ref name="ジョーンズ2008p15">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 15</ref><ref name="ランソン2012p14">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 14</ref>。誕生日は2月27日であるが、生年は明らかではなく現代の学者による推定は西暦270年から290年までの範囲に及ぶ<ref name="ジョーンズ2008p15"/><ref name="ランソン2012p14"/>。誕生日がわかるのは後世この日が祝日とされたためである<ref name="ジョーンズ2008p15"/>。主に[[アウレリウス・ウィクトル]]や[[エウセビオス]]が残した年齢と死亡年、在位期間の記録に基づいて計算すると270年代前半の生誕となり、これが「慎重な見解」であるとされる<ref name="ランソン2012p14"/>。しかし、その他の生年を導き出すことが可能な根拠もあり正確には不明である。コンスタンティヌス |
コンスタンティヌス1世、即ちフラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌスは[[モエシア]]属州のナイッスス(現:[[セルビア]]の[[ニシュ]])に生まれた<ref name="ジョーンズ2008p15">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 15</ref><ref name="ランソン2012p14">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 14</ref>。誕生日は2月27日であるが、生年は明らかではなく現代の学者による推定は西暦270年から290年までの範囲に及ぶ<ref name="ジョーンズ2008p15"/><ref name="ランソン2012p14"/>。誕生日がわかるのは後世この日が祝日とされたためである<ref name="ジョーンズ2008p15"/>。主に[[アウレリウス・ウィクトル]]や[[エウセビオス]]が残した年齢と死亡年、在位期間の記録に基づいて計算すると270年代前半の生誕となり、これが「慎重な見解」であるとされる<ref name="ランソン2012p14"/>。しかし、その他の生年を導き出すことが可能な根拠もあり正確には不明である。コンスタンティヌス自身が自分が生まれた正確な年を知らなかった可能性も十分にある<ref name="ジョーンズ2008p16">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 16</ref>。 |
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父親はローマの将軍[[コンスタンティウス・クロルス]]であり、母親はその最初の妻[[コンスタンティノポリスのヘレナ|ヘレナ]]である<ref name="ランソン2012p15">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 15</ref>。後にコンスタンティヌス1世は父コンスタンティウスを[[クラウディウス・ゴティクス]]帝(在位:268年-270年)と結び付けたが、これが真実である可能性はほとんど無い<ref name="ランソン2012p15"/>。貴族出身ともされるが恐らく |
父親はローマの将軍[[コンスタンティウス・クロルス]]であり、母親はその最初の妻[[コンスタンティノポリスのヘレナ|ヘレナ]]である<ref name="ランソン2012p15">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 15</ref>。後にコンスタンティヌス1世は父コンスタンティウスの出自を[[クラウディウス・ゴティクス]]帝(在位:268年-270年)と結び付けたが、これが真実である可能性はほとんど無い<ref name="ランソン2012p15"/>。コンスタンティウスはまた、貴族出身ともされるが恐らくは農民であり一兵卒から成り上がったものであろう<ref name="ジョーンズ2008p15"/>。[[ビテュニア]]の[[ドレパナ]](小アジア北西部)出身とも伝えられる母ヘレナが卑賎な身分の出身であったことは広く知られており、彼女は給仕婦であったとも<ref name="ジョーンズ2008p15"/>ナイッススの宿屋で働いていたとも言われる<ref name="ブルクハルト2003p401注釈44">[[#ブルクハルト 2003|ブルクハルト 2003]], p. 401, 注釈44番</ref>。彼女はコンスタンティウスが[[西ローマ帝国]]の皇帝[[マクシミアヌス]]の義娘であるフラウィア・マクシミアナ・テオドラと結婚する際、政略的な理由から離縁されたが、コンスタンティヌスは母ヘレナとの間に密接な関係を維持した<ref name="ランソン2012p16">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 16</ref>。コンスタンティウスとテオドラの間には6人の子供が生まれた。 |
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コンスタンティヌス |
コンスタンティヌスが生まれた当時、ローマ帝国は一般に[[3世紀の危機]]と呼ばれる政治・軍事的混乱の時代の終末期にあり、主に[[バルカン半島]]の農民(イリュリア人)などから成り上がった皇帝たち([[軍人皇帝]])が次々と即位していた<ref name="井上2015pp54_105">[[#井上 2015|井上 2015]], pp. 54-105</ref><ref name="木村1997pp411_417">[[#木村 1997|木村 1997]], pp. 411-417</ref><ref name="ルメルル2003pp8_10">[[#ルメルル 2003|ルメルル 2003]], pp. 8-10</ref>。父コンスタンティウスの出世もまたこの歴史的な経緯の中に位置付けられる<ref name="井上2015pp54_105"/>。この混乱はコンスタンティヌスが極若い頃に皇帝として即位した[[ディオクレティアヌス]]帝(在位:284年-305年)によって収拾され、彼は293年までに2名の正帝(アウグストゥス)と2名の副帝(カエサル)によって帝国を統治する四分統治([[テトラルキア]])体制を確立した<ref name="レミィ2010pp39_43">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], pp. 39-43</ref>。 |
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=== 皇帝 |
=== 皇帝即位前のキャリア === |
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[[ファイル:Constantine, York Minster.jpg|thumb|[[ヨーク]]にあるコンスタンティヌス1世の青銅像]] |
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テトラルキアにおいて2人いる副帝の片方に父コンスタンティウスが任命された。若きコンスタンティヌスは[[ニコメディア]]にある[[ディオクレティアヌス]]帝の宮廷に仕えた。[[305年]]、正帝ディオクレティアヌスと[[マクシミアヌス]]が揃って退位し、クロルスがマクシミアヌス帝から西方正帝位を引き継いだ。権力争いの結果、新しい副帝には、皇帝の嫡男(コンスタンティヌスやマクシミアヌスの子[[マクセンティウス]])ではなく、[[フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス]]と[[マクシミヌス・ダイア]]とが選ばれた。 |
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テトラルキア体制の成立と共に、西方の副帝にコンスタンティウス・クロルスが指名された(コンスタンティウス1世、副帝在位:293年-305年)<ref name="レミィ2010pp39_43"/>。この人事は西方の正帝[[マクシミアヌス]]よりも、東方の正帝でありテトラルキアの事実上の主催者であるディオクレティアヌスの意向によるところが大きかったと言われている<ref name="レミィ2010pp39_43"/>。副帝としてコンスタンティウスは目覚ましい活躍を見せ、皇帝を称していた[[カラウシウス]]から[[ブーローニュ]]を奪還し{{仮リンク|アッレクトゥス|en|Allectus}}支配下の[[ブリテン島]]も再征服した<ref name="井上2015p100">[[#井上 2015|井上 2015]], p. 100</ref>。 |
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父のコンスタンティウスが副帝として即位するとともに、コンスタンティヌスはディオクレティアヌスの下へと送られ、以降20年余りの間父親と会うことはなかった<ref name="ジョーンズ2008pp25_26">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 25-26</ref><ref name="ランソン2012pp16_17">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], pp. 16-17</ref>。この処置はコンスタンティウスの誠実な行動を保証するための人質としてのものであったであろう<ref name="ジョーンズ2008pp25_26"/><ref name="ランソン2012pp16_17"/>。各地の行政機関を監督するために、また外敵の侵入を退けるためにディオクレティアヌスは自分の担当区域を宮廷および軍隊と共に常に移動していた<ref name="ジョーンズ2008p28">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 28</ref>。ディオクレティアヌスがいつ、どこへ赴いたのかは、彼自身が発布した勅法の末尾書きの研究によって概ね明らかにされている<ref name="ジョーンズ2008p28"/>。 |
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その後、コンスタンティヌスはニコメディアを去って、[[ガリア]]にいるクロルスのもとに行った。ところが、クロルスは[[カレドニア]](現在の[[スコットランド]])の[[ピクト人]]に対する遠征の途中で病を発し、[[306年]][[7月25日]]にエボラクム(現[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]])で死去した。[[アレマン族]]の血を引くクロクス将軍をはじめとする軍団は、亡きクロルスを慕っており、息子コンスタンティヌスを新しい正帝とするとの宣告を直ちに発した。 |
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コンスタンティヌスはこのディオクレティアヌスの移動する宮廷に随伴して各地を移動した。恐らく292年末から293年初頭に[[シルミウム]](現:[[セルビア]]領[[スレムスカ・ミトロヴィツァ]])で合流した後、ディオクレティアヌスと共にバルカン半島各地の都市を回って293年6月末に再びシルミウムに戻り、その翌年には[[シンギドゥヌム]](現:セルビア領[[ベオグラード]])から[[ドナウ川]]沿いに[[黒海]]へと赴き、[[ビュザンティオン]]を経て皇帝のお気に入りの住処であった[[ニコメディア]]に行って越冬した<ref name="ジョーンズ2008pp28_29">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 28-29</ref>。295年5月に[[シュリア属州|シリア]]の[[ダマスカス]]に移動し、296年には{{仮リンク|ドミティウス・ドミティアヌス|en|Domitius Domitianus}}の反乱を鎮圧するためにエジプトに進軍し、8ヶ月の包囲の後[[アレクサンドリア]]を陥落させた<ref name="ジョーンズ2008pp28_29"/>。297年の夏、[[サーサーン朝]]の侵攻に対応するため再びシリアに移動し、副帝[[ガレリウス]]の活躍もあってサーサーン朝との間にそれまでで最も有利な講和を結ぶことに成功した<ref name="ジョーンズ2008pp28_29"/>。302年に再びディオクレティアヌスはエジプトに移動した<ref name="ジョーンズ2008pp28_29"/>。少なくともコンスタンティヌスはこの302年までには「既に幼少期を過ぎ青年期に入っていた」とされる<ref name="ジョーンズ2008pp28_29"/>。この間に彼は軍で実績を積み階級の階段を上っていた<ref name="ランソン2012p17">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 17</ref>。 |
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コンスタンティヌスは、東方正帝[[ガレリウス]]に対し、父の後を継ぎ西方正帝となったことを承認するように求めた。しかし、テトラルキア制度の元でのコンスタンティヌスによる皇位継承は適法ではなかった。前正帝クロルスは次に正帝となる副帝を指名しているのだから、コンスタンティヌスがいきなり正帝を名乗ることは305年に制定された皇位継承のルールを無視していることになる。このためガレリウスは、コンスタンティヌスが父の遺領をそのまま支配することは認めたものの、位は副帝として、西方正帝にはセウェルスを昇格させた。 |
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[[ファイル:Romuliana Galerius head.jpg|thumb|left|ガレリウスの頭像]] |
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=== 並立する皇帝の1人として(306年 - 311年) === |
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303年の即位20周年の儀式の際、東の正帝ディオクレティアヌスは退位の意思を明らかにした<ref name="レミィ2010p134">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], p. 134</ref>。彼は西の正帝マクシミアヌスにも同様に退位することを誓約させ、両正帝は305年に揃って退位した<ref name="レミィ2010p134"/>。5月1日にニコメディアとメディオラヌム(現:[[ミラノ]])で2皇帝の退位式典と即位式典が同時に行われ、新たな正帝としてコンスタンティウス・クロルスとガレリウスが即位した<ref name="レミィ2010p135">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], p. 135</ref>。コンスタンティヌスはコンスタンティウス・クロルスの息子という出自、またその実績から副帝への即位が予想されており、当初はディオクレティアヌスも実際に血統原理に基づいて将来後継者となるべき副帝にコンスタンティウスの息子コンスタンティヌスと、マクシミアヌスの息子[[マクセンティウス]]を任命しようとしたという記録もある([[ルキウス・カエキリウス・フィルミアヌス・ラクタンティウス|ラクタンティウス]])<ref name="レミィ2010p134"/><ref name="ランソン2012p18">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 18</ref><ref name="ジョーンズ2008p64">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 64</ref>。しかし実際には[[フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス]](セウェルス2世)と[[マクシミヌス・ダイア]]という二人のイリュリア人が副帝に選ばれ、コンスタンティヌスはガレリウスの下に留め置かれた<ref name="ランソン2012p19">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 19</ref>。ディオクレティアヌスはテトラルキア体制における複数の皇帝の皇位継承という難題を武力衝突を引き起こすことなく実施することに成功した<ref name="レミィ2010p136">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], p. 136</ref>。 |
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コンスタンティヌスの支配領域は[[ブリタンニア]]、[[ガリア]]、[[ゲルマニア]]、および[[ヒスパニア]]だった。そして彼は、重要な[[ライン川]]国境線を拠点に、ローマ軍団の中でも大軍を指揮した。ガリアはローマ帝国の中でも肥沃な地域だったが、[[3世紀の危機]]による被害が大きく、地域の多くは荒れ果て、都市は破壊されていた。このため、ガリアに駐在(主に[[トリーア]]に居住)した [[306年]]から[[316年]]にかけて、コンスタンティヌスは父と同じくライン川国境の守備とガリア属州の再建とに尽力した。 |
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その後、コンスタンティウス・クロルスがコンスタンティヌスを自分の下に呼び寄せた時、もう一人の正帝ガレリウスはこれを拒否した<ref name="レミィ2010p137">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], p. 137</ref>。恐らくこれはガレリウスが、コンスタンティヌスの名声と野心、更にはコンスタンティウスが持つ正帝位の「世襲」を警戒したためであろう<ref name="レミィ2010p137"/><ref name="ランソン2012p20">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 20</ref><ref name="ジョーンズ2008p65">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 65</ref>。ある伝承によればガレリウスはコンスタンティヌスの死を望み[[サルマタイ]]との戦いに派遣していたという<ref name="ランソン2012p20"/>。後にコンスタンティヌスの補佐役となるラクタンティウスの記録によれば、コンスタンティウスの度重なる要請に折れたガレリウスはある日コンスタンティヌスの出発を許可したが、その後に自分の決断を後悔しコンスタンティヌスを呼び戻すように命じた。しかしコンスタンティヌスは素早く出発しており、ガレリウスからの追撃を計略を用いて振り切って父の下へ到着したという<ref name="ジョーンズ2008p65"/>。 |
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コンスタンティヌスは、父が進めていたブリタンニアの攻略をすぐに取りやめ、ガリアに戻って[[フランク人]]の蜂起を鎮圧した。[[308年]]にも再びフランク人制圧のために遠征した。これにも勝利した後、ライン川の右岸に常設の要塞を築こうと考え、[[ケルン]]にてライン川を渡る橋を築いた。[[310年]]にも再び遠征したが、[[マクシミアヌス]]の反乱(下記参照)のために途中で中止となった。フランク人制圧にコンスタンティヌスが最後に遠征したのは、イタリアから帰還した[[313年]]で、このときも勝利を収めた。治世の安定を目的とするコンスタンティヌスは、短時間で目的を達成するためには厳しい手段も選んだ。反逆する部族に対して冷酷なまでの厳しい処罰を与えることも多く、軍事力を誇示するためにライン川国境の内側で敵を倒したり、競技場で囚人を虐殺したりすることもあった。結果的にはこの方法は成功し、コンスタンティヌスの残る治世の間、ライン川国境は比較的平穏だった。 |
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コンスタンティヌスは[[カレドニア]](現在の[[スコットランド]])の[[ピクト人]]討伐の場である[[ブリタンニア]]に進発するため、[[ブーローニュ]]にいたコンスタンティウスと合流した<ref name="ジョーンズ2008p65"/>。この遠征から戻った後、306年7月25日にエボラクム(現:[[ヨーク]])でコンスタンティウスは急死した<ref name="ジョーンズ2008p65"/>。ここでコンスタンティウスが持っていた正帝位の継承はガレリウスによって決定されるべきものであったが、ブリタニアの兵士たちは即座にコンスタンティヌスを新たな正帝(アウグストゥス)として歓呼した<ref name="ジョーンズ2008p66">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 66</ref>。この兵士たちによる皇帝への推戴が自然発生的なものであったのかどうかは不明であるが、複数の史料がコンスタンティヌスがその野心から帝位に昇り、兵士たちに働きかけたことを証言している<ref name="ランソン2012p20">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 20</ref>。 |
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[[テトラルキア]]の下での帝国内部の争いには、コンスタンティヌスはあまり関らなかった。[[307年]]、正帝マクシミアヌス(305年に退位したが、この頃政界に復帰していた)がコンスタンティヌスを訪ね、[[マクセンティウス]]帝と[[フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス|セウェルス]]帝および[[ガレリウス]]帝との争いでの助力を願った。コンスタンティヌスはマクシミアヌスの娘{{仮リンク|ファウスタ・フラウィア・マクシマ|en|Fausta|label=ファウスタ}}と結婚して同盟を結び、マクシミアヌスによって正帝への昇格を認められた。しかし、コンスタンティヌスはマクセンティウスの動きに何も干渉することはなかった。マクシミアヌスは、息子マクセンティウスを退位させることができないまま、308年にガリアに戻った。この年の暮れに[[カルヌントム]]で会合が開かれて、[[ディオクレティアヌス]]、ガレリウス、マクシミアヌスが会談した結果、マクシミアヌスは再び退位を余儀なくされ、コンスタンティヌスは副帝に戻されることになった。 |
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=== 西方におけるテトラルキアの破綻 === |
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[[309年]]、コンスタンティヌスがフランク人を制圧する遠征に赴いている間に、マクシミアヌスは義理の息子であるコンスタンティヌスに対して反乱を起こした。この反乱はすぐに鎮圧され、マクシミアヌスは落命した(殺されたか自殺に追い込まれたかは不明)。 |
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コンスタンティヌス1世はブリタンニアで推戴を受けた306年7月25日をその後の即位記念日として扱っていたが、ローマ帝国の公式文書においてはそうではなかった<ref name="ランソン2012p21"/>。コンスタンティヌス1世はガレリウスに自分の正帝(アウグストゥス)即位承認を要求したが、ガレリウスはこの[[僭称]]行為を認めなかった<ref name="ジョーンズ2008p67">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 67</ref>。しかし、コンスタンティヌス1世が現地の軍団を掌握している現状を鑑みて現状を追認するのが賢明であると判断し、コンスタンティヌス1世を副帝(カエサル)として承認した<ref name="ジョーンズ2008p67"/>。そしてそれまで副帝であったセウェルス2世を正帝とし、コンスタンティヌス1世はその下位であるとされた<ref name="ジョーンズ2008p67"/>。 |
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その3ヶ月後、セウェルス2世が[[イタリア]]と更にはローマ市において課税査定を行い近衛兵の解体を宣言すると、イタリアの軍団は反乱を起こし、退位したマクシミアヌスの息子[[マクセンティウス]]が皇帝に担ぎ上げられた<ref name="ジョーンズ2008p67"/>。彼はコンスタンティヌス1世と同じようにガレリウスの承認を求めたが、マクセンティウスに対してはガレリウスは頑として譲らず、セウェルス2世に対してマクセンティウス討伐の命令を出した<ref name="ジョーンズ2008p67"/>。正帝(アウグストゥス)を自称したマクセンティウスはイタリアを迅速に支配下に収め、更に[[アフリカ]]の属州も支配下に置き、また退位した父マクシミアヌスをもう一人の正帝として復位させる宣言を行った<ref name="ジョーンズ2008p68">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 68</ref><ref name="スカー1998p261">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 261</ref>。306年末か307年初頭にマクシミアヌスはコンスタンティヌス1世の支援を求めて[[ガリア]]へ向かった<ref name="ジョーンズ2008p68"/><ref name="ランソン2012p23">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 23</ref>。 |
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コンスタンティヌスもマクシミヌス・ダイアも、自分たちが副帝でリキニウスが正帝になったことを不満に思い、正帝を自称し振舞った。これを[[310年]]にガレリウスが追認したので、公式に4人の正帝が並立する事態となった。[[311年]]にガレリウスが死ぬと、テトラルキアの維持を図る権力者はいなくなったため、この制度は急速に瓦解していった。この後に続く権力争いでは、コンスタンティヌスはリキニウスと同盟を結び、マクシミヌス・ダイアは未だ公式には簒奪皇帝とみなされているマクセンティウスに接近した。 |
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[[ファイル:Maxentius02 pushkin.jpg|thumb|マクセンティウスの胸像]] |
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=== 唯一の皇帝になる(312年 - 324年) === |
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この老マクシミアヌスはかつて娘のテオドラをコンスタンティウス・クロルスに嫁がせていたため、コンスタンティヌス1世にとっては義理の祖父にあたる人物でもあった<ref name="ランソン2012p23"/>。当時コンスタンティヌス1世は、父が進めていたブリタンニアの攻略を取りやめ、ガリアに戻って「[[フランク人]]」を攻撃して打ち破り、[[ライン川]]に橋を架けて「フランク人」の一派[[ブルクテリ族]]の根拠地を荒らすなどの勝利を収めていた<ref name="ランソン2012p21">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 21</ref>。マクシミアヌスはコンスタンティヌス1世にも自分の娘{{仮リンク|ファウスタ・フラウィア・マクシマ|en|Fausta|label=フラウィア・マクシミア・ファウスタ}}との結婚を持ちかけ、正帝位を差し出した<ref name="ジョーンズ2008p68"/>。ファウスタはマクセンティウスの妹であり当時7歳であった。この時コンスタンティヌス1世は深刻な決断を迫られていたと見られる。コンスタンティヌス1世は疑問の余地のなく正統な、かつ最も上位の正帝であるガレリウスから正式に副帝の地位を承認されていた<ref name="ジョーンズ2008p68"/>。しかし同時にガレリウスの自分に対する心証が良好ではないことを自覚してもいた<ref name="ジョーンズ2008p68"/>。一方のマクシミアヌスとマクセンティウスは明らかに僭称者であったが、それでもマクシミアヌスもかつてはディオクレティアヌス帝によって認められていた正帝の地位にあった人物であり、その行動は成功しているようにも思われたためである<ref name="ジョーンズ2008p68"/>。結局コンスタンティヌス1世はマクシミアヌスの申し出にのり、307年3月31日にファウスタと結婚した<ref name="ジョーンズ2008p68"/>。彼には既に息子[[クリスプス]]を産んでいた妻{{仮リンク|ミネルウィナ|en|Minervina}}がいたが、既に死別していたか、あるいはかつて父コンスタンティウスが行ったのと同じように離縁したと考えられる<ref name="ランソン2012p23"/>{{refnest|group="注釈"|マクシミアヌスの娘ファウスタとコンスタンティヌス1世の結婚の事情を巡る時系列は各出典で微妙に異なるため以下に注記する。ブルクハルトはマクシミアヌスとマクセンティウスの反目はガレリウスとの戦いの前に始まっており、コンスタンティヌス1世の下へ赴き縁談を持ち込んだのはガレリウスに対抗すると共にマクセンティウスに対する優位を得るためであったともする<ref name="ブルクハルト2003p365">[[#ブルクハルト 2003|ブルクハルト 2003]], p. 365</ref>。また、ジョーンズはこの結婚を307年3月31日のことと断言しており、ガレリウスとマクセンティウスの戦いはその後であると描写する<ref name="ジョーンズ2008p68"/>。これはランソンも同様であるが、ただし彼の描写では3月31日というのはラテン語頌歌第6番が発表された日付である<ref name="ランソン2012p23"/>。以上の出典は事情の説明を多少異にするが、コンスタンティヌス1世とファウスタとの結婚の後ガレリウスとマクセンティウスの戦いが行われたという時系列は一致している。一方、レミィは9月にガレリウスがマクセンティウスに撃退された後、12月頃にマクシミアヌスとコンスタンティヌス1世が互いを正帝として承認し、コンスタンティヌス1世とファウスタが結婚したと説明する<ref name="レミィ2010p140">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], p. 140</ref>。スカーはファウスタとの結婚について、厳密な時系列には言及しない<ref name="スカー1998p262">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 262</ref>。}}。 |
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[[312年]]の初めの頃、コンスタンティヌスは軍勢を伴ってアルプスを超え、マクセンティウスを襲撃した。彼は[[トリノ]]と[[ヴェローナ]]で戦ってイタリア北部をすばやく征服し、ローマに兵を向けた。そして、[[ミルウィウス橋の戦い]]でマクセンティウスを破って西の正帝となり、[[西ローマ帝国]]全体の支配者となった。その後、彼は徐々に軍事力を強化し、テトラルキアで競合する他の皇帝たちに優位になっていった。 |
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このコンスタンティヌス1世の判断は当面において的中し、セウェルス2世はマクセンティウスに敗退して[[ラヴェンナ]]で降伏した<ref name="ジョーンズ2008p68"/><ref name="ランソン2012p24">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 24</ref>。その後ガレリウスが自らマクシミアヌスとマクセンティウス討伐に乗り出したが、この討伐も同じように失敗に終わり、ガレリウスはイタリアからの撤退に追い込まれた<ref name="ジョーンズ2008p69">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 69</ref><ref name="ランソン2012p24"/>。しかし、ガレリウスの脅威が去ると間もなくこの親子は権力を巡って反目するようになり、308年4月にはマクシミアヌスは軍に向かって息子マクセンティウスを非難する演説を行い、その地位を奪おうとした<ref name="ジョーンズ2008p69">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 69</ref><ref name="スカー1998p262"/>。しかし兵士たちはマクシミアヌスよりもマクセンティウスの方を支持し、マクシミアヌスはコンスタンティヌス1世の下へ逃亡を余儀なくされた<ref name="ジョーンズ2008p69"/>。コンスタンティヌス1世は今度は義父マクシミアヌスにつくか、既にイタリア・アフリカ・[[ヒスパニア]]を手中に収めていたマクセンティウスにつくかの決断を再び迫られ、マクシミアヌスに組することを決定した<ref name="ジョーンズ2008p69"/>。 |
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[[313年]]、彼は[[ミラノ]]でリキニウス帝と会談し、異母妹フラウィア・ユリア・コンスタンティアナをリキニウスに嫁がせて同盟を固めた。この会合において、2人の皇帝は連名でいわゆる[[ミラノ勅令]]を発し、帝国内で全ての宗教(特にキリスト教)を寛容すると公認した。ところがこの会談中に、リキニウスに敵対するマクシミヌス・ダイア帝が[[ボスポラス海峡]]を渡りリキニウス領土に侵攻したとの知らせが入り、会談は打ち切られた。戦地に向かったリキニウスは結局マクシミヌス・ダイアを破り、[[ローマ帝国]]東側の完全な支配を取り戻した。この後、2人になった皇帝コンスタンティヌスとリキニウスの関係は冷え込んでいき、[[314年]]か[[316年]]に争いが起こってコンスタンティヌスが勝利した。[[317年]]のマルディアの戦いにて両者は再び衝突し、その結果、コンスタンティヌスの息子[[クリスプス]]および[[コンスタンティヌス2世]]と、リキニウスの息子リキニアヌス([[リキニウス2世]])を副帝に据えることで両者は合意した。 |
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ここまでの経過で、ディオクレティアヌスが用意したテトラルキア体制はローマ帝国の東方では正帝ガレリウスと副帝マクシミヌス・ダイアによって維持されていたが、西方では全く形骸化しつつあった<ref name="レミィ2010p141">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], p. 141</ref>。西方に副帝は一人もいなかった一方で、コンスタンティヌス1世、マクシミアヌス、マクセンティウスという3人の自称正帝が並び立っており、308年には北アフリカでマクセンティウスに対する反乱指導者となった{{仮リンク|ルキウス・ドミティウス・アレクサンドロス|en|Domitius Alexander}}がこの列に加わった<ref name="レミィ2010p141"/>。コンスタンティヌス1世は同年の時点でガリアとブリタンニアを支配下に置いており、マクセンティウスはイタリアとシチリアを支配し、ドミティウス・アレクサンドロスが北アフリカを抑えていた<ref name="レミィ2010p141"/>。マクシミアヌスには根拠地が無かった<ref name="レミィ2010p141"/>。 |
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[[320年]]、リキニウス帝は全宗教を公認した313年のミラノ勅令を破り、キリスト教徒に迫害を加えた。これがやがて西のコンスタンティヌス帝との対決につながって内戦となり、その内戦は[[324年]]に最も激しくなった。古来から伝わる異教崇拝([[ペイガニズム]])の勢力を代表する[[ゴート族]]の傭兵がリキニウス帝を支えた。コンスタンティヌス帝と配下の[[フランク人]]はキリスト教を象徴する[[ラバルム]]の旗印の下に行軍した。かくして戦いは宗教戦争の様相を呈し、数では劣ったようだが熱意に勝るコンスタンティヌス軍が、324年の[[ハドリアノポリスの戦い (324年)|ハドリアノポリス]]、[[ヘレスポントスの海戦|ヘレスポントス海峡]]、クリュソポリスなどの戦いを制した。敗れたリキニウスは翌年に処刑され、コンスタンティヌスは全ローマ帝国で唯一の皇帝となった。 |
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=== マクシミアヌスとマクセンティウスの打倒 === |
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正式な正帝であるガレリウスはこの混乱を収拾するために308年11月11日、[[パンノニア]]の[[カルヌントゥム]]に隠棲していたディオクレティアヌスとかつて正規の西の正帝であったマクシミアヌスを招待し、会談の席を設けた<ref name="ランソン2012p24"/>。ディオクレティアヌスは自らが再び皇帝となることを拒み、変わりにマクシミアヌスに再度退位するよう促した<ref name="ジョーンズ2008p69"/><ref name="レミィ2010p142">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], p. 142</ref>。マクシミアヌスがこれを受け入れたことで、新たな四帝統治の枠組みの構築が模索された<ref name="レミィ2010p142"/>。この会談でマクシミアヌスは正帝の称号に対する主張を取り下げ、コンスタンティヌス1世はガレリウスの正式な副帝であるということが確認された。ガレリウスの強い主張によって、もう1人の正帝位には彼の親しい友人であった[[リキニウス|ウァレリウス・リキニアヌス・リキニウス ]]が就任することになった<ref name="ジョーンズ2008p69"/><ref name="レミィ2010p142"/><ref name="ランソン2012p24"/>。そしてマクセンティウスとアレクサンドロスは僭称者として全く無視された<ref name="ジョーンズ2008p70">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 70</ref><ref name="レミィ2010p142"/>。 |
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リキニウスの敗北が意味したものは、過去のローマの時代の終焉であり、東方がローマ帝国の中心となる時代の始まりでもあった。教育も富も文化財も、東に中心が移ることとなった。コンスタンティヌスは新たな拠点として最初は[[ブルガリア]]の[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]に注目して同地を「我がローマ」と呼んだが、後には[[シルミウム]]と[[テッサロニキ]]にも目を向け、最終的には[[ギリシャ]]の[[ビュザンティオン]]を「ノウァ・ローマ(新ローマ)」と名づけたという。ただし「新ローマ」という認識は都市建設当時には存在していなかったともいわれる<ref>井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社〈講談社学術文庫〉、2008年</ref>。この都市には首都ローマに倣って[[元老院 (ローマ)#コンスタンティノポリス元老院|元老院]]など幾つかの役所が設置されたが、[[プラエトル|法務官]]、[[クァエストル|財務官]]、[[護民官]]、首都長官など幾つかの重要な首都機能は設けられなかった。また元老院も首都ローマの元老院とは異なり、この都市の元老院の議員はクラリッシムス(称号)とは見なされなかった。 |
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しかし、副帝マクシミヌス・ダイアはリキニウスが自分を飛び越えて正帝に昇進したことに納得せず自らも正帝の称号を要求した。翌年には「正帝の息子」という称号を与えるという妥協案をガレリウスは示したが、これを受け入れることは無かった<ref name="ジョーンズ2008p70"/>。そしてコンスタンティヌス1世もまた、一度名乗った正帝から副帝への「降格」を拒否した<ref name="ジョーンズ2008p70"/><ref name="ランソン2012p24"/>。この会議の決定はコンスタンティヌス1世にとっては屈辱であり、自らの支配地にある造幣所で打刻される貨幣から正帝ガレリウスの名前を削って、自分の地位を譲るつもりがないことを示した<ref name="レミィ2010p143">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], p. 143</ref>。結局コンスタンティヌス1世とマクシミヌス・ダイアは要求を押し通すことに成功し、310年にはガレリウスは副帝を廃止し両者とも正帝であることを宣言した<ref name="レミィ2010p143"/><ref name="ジョーンズ2008p70"/>。 |
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この都市は[[聖十字架]]や[[モーゼ]]の鞭をはじめとするキリスト教の[[聖遺物]]に守護されていたと言われる。ローマの神々への崇拝も残るものの<ref group="注釈">[[エルミタージュ美術館]]に収蔵される[http://www.hermitagerooms.com/exhibitions/Byzantium/sardonyx.asp カメオ]にはコンスタンティヌスが新都市の運命の女神[[ティケ]]に戴冠されている図が描かれている。</ref>、旧来の神々を描いた図の多くはキリスト教の象徴主義の図に代えられたり、加筆されたりした。[[アプロディテ]]神殿が建てられるべき場所には、新しく聖使徒教会が建てられた。後世の人は、コンスタンティヌスはこの場所に導く啓示を受けて、彼だけが見える天使が案内したと伝えた。死後、彼が作り上げた新しい都は「[[コンスタンティノポリス]]」と呼ばれるようになった。[[325年]]には[[第1ニカイア公会議]]が小アジアの[[ニカイア]]で行われた。 |
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こうしてガレリウスから正式に正帝としての承認を得たコンスタンティヌス1世にとって、義父マクシミアヌスは最早内部の敵と化していた<ref name="ジョーンズ2008p70"/>。ディオクレティアヌスの意向に従って2度目の退位をした後もマクシミアヌスは旺盛な野心を維持し、コンスタンティヌス1世の権力を自らのものとする賭けに打って出た<ref name="ジョーンズ2008p70"/>。310年の春に「フランク人」(ブルクテリ族)討伐のためにコンスタンティヌス1世が出征に出ると、マクシミアヌスはコンスタンティヌス1世が戦死したと触れ回り、ガリア・ナルボネンシスの[[アルル]]で3度目の正帝即位を宣言するとともに各地の軍団に急使を送った<ref name="ジョーンズ2008p71">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 71</ref>。コロニア(現:[[ケルン]])でこの知らせを受けたコンスタンティヌス1世は強行軍で引き返し、マクシミアヌスが軍勢を集める前に攻撃を開始することに成功した<ref name="ジョーンズ2008p71"/>。マクシミアヌスはマッサリア([[マルセイユ]])に逃れたが、コンスタンティヌス1世はこれを追撃して310年の夏にはマクシミアヌスを死に追いやった<ref name="ジョーンズ2008p71"/><ref name="ランソン2012p25">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 25</ref>。 |
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=== 晩年まで(326年 - 337年) === |
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[[ファイル:Raphael Baptism Constantine.jpg|thumb|225px|コンスタンティヌスの洗礼;[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]の弟子の作]] |
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[[326年]]、前妻ミネルウィナの子である長男クリスプスがコンスタンティヌスの2度目の妻ファウスタと密通したとの密告を名目に、コンスタンティヌスはクリスプスを処刑した。数ヶ月後、この告発は虚偽で、その出所が明らかにファウスタであるとの名目でファウスタも処刑された。 |
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マクシミアヌスがコンスタンティヌス1世によって殺害されるとマクセンティウスは「突如再び親孝行な息子となり『父なる神帝マクシミアヌス』を称える貨幣を発行した<ref name="ジョーンズ2008p80">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 80</ref>。」(ジョーンズ)。更にマクセンティウスはマクシミアヌスがコンスタンティヌス1世の父コンスタンティウス・クロルスの義父でもあったことをも利用して、「義兄弟」である「神帝コンスタンティウス・クロルス」を称揚し、暗にその後継者としてコンスタンティヌス1世が支配するガリアとブリタンニアに対する正当な権利を主張した<ref name="ジョーンズ2008p80"/>。 |
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統一後も、コンスタンティヌスは外征を行い続けた。328年には[[ライン川]]にてアレマンニ族に勝利し、[[332年]]には[[ドナウ川]]で[[ゴート人]]に、334年にはサルマティア人と戦い、勝利を収めた。その後、[[337年]]にローマ最大の敵である[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシア]]討伐の軍を挙げたが、軍旅中に倒れ、コンスタンティノポリスからいくらも離れていない[[ニコメディア]]で亡くなった。 |
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311年にはガレリウスも死去し、312年夏までにはマクセンティウスがドミティウス・アレクサンドロスを打倒して北アフリカを奪回したため、残存する「正帝」たちはコンスタンティヌス1世、マクセンティウス、マクシミヌス・ダイア、リキニウスの4人となった<ref name="ジョーンズ2008p80"/><ref name="レミィ2010p143"/>。コンスタンティヌス1世はマクセンティウスに対抗するためにリキニウスとの同盟を模索し、異母姉妹コンスタンティアとリキニウスの婚約を進めた<ref name="ジョーンズ2008p80"/>。この動きに脅威を覚えたマクシミヌス・ダイアはマクセンティウスと同盟を結んだ<ref name="ジョーンズ2008p80"/>。間もなく、マクセンティウスはローマ市を含むイタリアの諸都市に設置されていたコンスタンティヌス1世の像や肖像画を破壊し、対決姿勢を鮮明にした<ref name="ジョーンズ2008p80"/>。後世の歴史家[[ゾシモス]]はこの時、コンスタンティヌス1世が[[ゲルマン人]]や[[ケルト人]]などを含め歩兵9万人、騎兵8,000騎を擁し、マクセンティウスは歩兵17万人、騎兵1万8千騎を集めたと記す<ref name="ジョーンズ2008p80"/><ref name="ランソン2012p26">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 26</ref>。しかし、現代の学者はこの数字は大幅に誇張されたものであると考えている<ref name="ジョーンズ2008p80"/><ref name="ランソン2012p26"/>。同じくゾシモスの記録によれば、マクセンティウスは[[ラエティア]](現:[[スイス]]南部)を攻略してコンスタンティヌス1世とリキニウスの勢力圏を分断しようとしたが、コンスタンティヌス1世は機先を制しアルプスを越えてイタリアに入った<ref name="ジョーンズ2008p81">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 81</ref><ref name="ランソン2012p26"/>。[[セグシオ]](現:[[スーザ]])を攻略したのを皮切りに、メディオラヌム(現:ミラノ)を味方につけ、タウリノルム(現:[[トリノ]])近郊、[[プレシャ]]、[[ヴェローナ]]など各地でマクセンティウスの軍勢を打ち破った<ref name="ジョーンズ2008p81"/><ref name="ランソン2012p26"/>。 |
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神学者[[ヒエロニムス]]が伝えるところによると、コンスタンティヌスは[[337年]]に亡くなる少し前に[[洗礼]]を受けた。当時の風習では、年を取るか死の間際になってから洗礼を受けるのが一般的だった<ref group="注釈">この時代には幼児の洗礼は未だ習慣化されていなかった(幼児洗礼は、初めは非常時のみ行われていた。この頃には幼児洗礼を受けるものも増えていたが、これはキリスト教徒として生きるという重みを持った選択というよりは、将来キリスト教にしたがう予定という意味合いだった)。自らの意思で洗礼を受ける成人は、神の贖罪により身を守るという信心をはっきりと宣誓した。聴衆に洗礼を促す聖職者と洗礼を放棄した者との板ばさみになったりして、様々な理由から、年をとるか死の間際になるかまで洗礼を待つ者もいた(Thomas M. Finn (1992), ''Early Christian Baptism and the Catechumenate: West and East Syria'' および Philip Rousseau (1999). "Baptism", in ''Late Antiquity: A Guide to the Post Classical World'', ed. Peter Brown)。</ref>。 |
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ヒエロニムスによると、コンスタンティヌスが洗礼を受けたのは、異端とされた[[アレイオス]]を信奉する[[アリウス派]]でありながらも司教の座を保っていたニコメディアのエウセビウスに説得されたためだった。 |
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やはりゾシモスの記録によれば、コンスタンティヌス1世の軍団がローマ市に迫ると、ローマの民衆は敗北を重ねるマクセンティウスを嘲笑し、平静を失ったマクセンティウスは宣託にすがった。そして彼は自分自身の即位記念日(10月28日)に吉兆があると知ってその日に戦うべく進軍した<ref name="ジョーンズ2008p82">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 82</ref>。こうして[[ティベレ川]]沿いで両者は戦い、コンスタンティヌス1世が完勝を収め、マクセンティウスを戦死させた<ref name="ジョーンズ2008p83">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 83</ref><ref name="ランソン2012p27">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 27</ref>。312年10月29日、コンスタンティヌス1世はローマに凱旋し、マクセンティウスの首を槍の穂先に刺して行進することで古い支配者が世を去ったことをローマ市民に知らしめた<ref name="ジョーンズ2008p83"/>。ローマ[[元老院 (ローマ)|元老院]]はコンスタンティヌス1世にマクシムス(偉大な/大帝)の称号を授けて称えた<ref name="ランソン2012p27"/>。コンスタンティヌス1世のローマ入場にまつわる一連の出来事は碑文の情報からも確認できる<ref name="ランソン2012p27"/>。 |
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改宗者であるにもかかわらず、彼は神格化された(これは、キリスト教に帰依した後の他の皇帝も同様である)。その遺体はコンスタンティノポリスに運ばれて聖使徒教会に埋葬された。 |
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=== 改宗 === |
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312年、コンスタンティヌス1世は何らかの形でキリスト教を受け入れた<ref name="ジョーンズ2008p84">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 84</ref>。この点に関しては衆目は一致しているが、しかしそれが単なる政治上の都合からきたものであったのか、宗教的信念によるものだったのか、単なる儀式的なものであったのか、またどの程度真剣なものであったのか、様々な点において議論が続いている<ref name="ジョーンズ2008p84"/><ref name="ヴェーヌ2010p70">[[#ヴェーヌ 2010|ヴェーヌ 2010]], p. 70</ref>。コンスタンティヌス1世の父コンスタンティウス・クロルスが治世中にキリスト教徒に対して寛大であったことから、既にコンスタンティウス・クロルスもキリスト教徒であったという説もある<ref name="ランソン2012p99">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 99</ref>。しかし、それを証明する証拠は皆無であり、少なくともコンスタンティヌス1世が当初からキリスト教徒ではなかったことは、ローマ古来の神々に対して彼が捧げた奉献や、コンスタンティヌス1世を称える演説家たちが彼をユピテル(ゼウス)になぞらえて褒めることが問題になっていないことによって明らかである<ref name="ランソン2012p99"/><ref name="ジョーンズ2008p85">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 85</ref>。 |
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少なくとも312年のローマ入場の後、コンスタンティヌス1世のキリスト教に対する姿勢ははっきりと寛大さ以上のものとなった<ref name="ジョーンズ2008p85"/>。312年末から313年初頭までのいずれかの時点でコンスタンティヌス1世が[[カルタゴ]][[司教]][[カエキリアヌス]]に当てた手紙の中で「アフリカ、ヌミディア、マウレタニアの全属州」において「合法的かつ至聖なる[[カトリック]]の宗教の奉仕者のうちの指定された者たち」に対して公的資金による補助の提供を決定したことが通知されている<ref name="ジョーンズ2008p86">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 86</ref>。 |
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313年2月、メディオラヌムでコンスタンティヌス1世とリキニウスが会談し、311年に約束されていたコンスタンティヌス1世の異母妹コンスタンティアとリキニウスの結婚が正式に執り行われた<ref name="ジョーンズ2008p88">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 88</ref><ref name="ランソン2012p29">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 29</ref>。この2人の皇帝は(当時まだマクシミヌス・ダイアの支配下にある)[[ビュテニア]]と[[パレスティナ]]の総督に対して[[セルディカ勅令]](311年にガレリウスが発布していたキリスト教徒迫害を停止させる寛容令)の履行を指示する通達を出した<ref name="ランソン2012p99"/>。これは(ランソンによれば不正確にも)『'''[[ミラノ勅令]]'''』と呼ばれており、後世本来持っていた以上の重要性を与えられることになる<ref name="ランソン2012p100">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 100</ref>。 |
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ただし、これらの点が指摘されてもなおコンスタンティヌス1世のキリスト教への改宗が行われたのかはっきりとはわからない。彼はコインに不敗太陽神({{仮リンク|ソル・インウィクトゥス|en|Sol Invictus|label=ソル}})の図像を残していたし、公的に宗教的な文言を用いる際にはキリスト教徒にも異教徒にも都合よく解釈可能な曖昧な表現を採用していた<ref name="ランソン2012p105">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 105</ref>。前述の通りジョーンズは312年にコンスタンティヌス1世がキリスト教を受け入れたことは間違いないと断言するが、ランソンは315年の段階でもまだ彼はキリスト教徒ではなく、彼の宗教はキリスト教とソル信仰が融合した初期段階のものであったとも推測できるとしている<ref name="ランソン2012pp105_106">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], pp. 105_106</ref>。これらの歴史家たちの間では、どのような思考・振る舞いをしていればキリスト教徒と見做しうるのか、という観点においても相違がある。 |
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=== リキニウスとの戦い === |
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==== 衝突と和平 ==== |
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[[ファイル:Licinius-Constantine.jpg|thumb|リキニウス(左)とコンスタンティヌス1世(右)]] |
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同じころ、マクシミヌス・ダイアはこの同盟の矛先が自分に向かうのを確信して[[ボスポラス海峡]]を渡り[[ビュザンティオン]]を攻略した<ref name="ジョーンズ2008p89">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 89</ref>。この報せを受けたリキニウスは会談を中断してただちにイタリアから[[バルカン半島|バルカン]]へ渡り、3万の軍勢でハドリアノポリス([[アドリアノープル]])へ向かうマクシミヌス・ダイア軍の前面を封鎖した<ref name="ジョーンズ2008p89"/>。間もなくリキニウスはマクシミヌス・ダイアを打ち破り、彼をアナトリアへと追い払い、更に追撃して自殺へと追い込んだ<ref name="ジョーンズ2008p90">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 90</ref>。一方のコンスタンティヌス1世は「フランク人」の侵攻に対処すべくアルプスを越えて北上し、これを撃退した<ref name="ジョーンズ2008p130">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 130</ref>。 |
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こうしてローマ帝国の西半がコンスタンティヌス1世の支配下に入り、東半がリキニウスの支配下に入った。だが、共通の敵を失った両正帝は間もなく対立を始めた。切っ掛けは新たに副帝(カエサル)として{{仮リンク|バッシアヌス (元老院議員)|label=バッシアヌス|en|Bassianus (senator)}}を任命するというコンスタンティヌス1世の提案であった。コンスタンティヌス1世は彼に自分の異母妹{{仮リンク|アナスタシア (コンスタンティヌス1世の妹)|label=アナスタシア|en|Anastasia (sister of Constantine I)}}を嫁がせていた<ref name="ジョーンズ2008p130"/>。この任免の詳細を巡って両者は対立し武力衝突に至った<ref name="ジョーンズ2008p130"/><ref name="スカー1998p269">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 269</ref>{{refnest|group="注釈"|バッシアヌスの副帝任命を巡る事情についても、出典間で細部が異なるため以下にまとめる。ジョーンズはコンスタンティヌス1世がリキニウスの警戒心を和らげるためにバッシアヌスを副帝として自分の支配地を分割することを提案したが、リキニウスは自分の臣下でバッシアヌスの兄弟であったセネキオを利用してバッシアヌスをコンスタンティヌス1世から離反させようとしたため両者は対立に至ったと描写する<ref name="ジョーンズ2008p130"/>。ランソンはリキニウスが自身の側近であったバッシアヌスを副帝としてイリュリアに配置したが、コンスタンティヌス1世はバッシアヌスが陰謀をたくらんだことを理由に排除し、イリュリアに侵攻する口実としたとする<ref name="ランソン2012p30">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 30</ref>。スカーはリキニウスとコンスタンティアの間に生まれた息子リキニウス2世が将来副帝に就くことを妨害するために、義弟だったバッシアヌスを副帝としてイタリアの支配権を与える提案をしたと描写する<ref name="スカー1998p269"/>。}}。 |
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コンスタンティヌス1世は314年の晩夏<ref name="ジョーンズ2008p130"/>、または316年の秋<ref name="ランソン2012p30"/><ref name="スカー1998p269"/>、リキニウスの領土への侵攻を開始し、10月8日に初戦となったイリュリアのキバラエ(現:[[クロアチア]]領[[ヴィンコヴツィ]]){{仮リンク|キバラエの戦い|label=戦い|en|Battle of Cibalae}}で数的不利を跳ね返してリキニウス軍を大敗させた<ref name="ジョーンズ2008p130"/>。リキニウスは[[ドナウ川]]を下って[[シルミウム]]へと逃れ、更に自軍をハドリアノポリスへと集結させた<ref name="ジョーンズ2008p131">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 131</ref>。その間、[[第2モエシア属州]]のドゥクス(''Dux'':公、将軍)でドナウ川下流域の軍を束ねていた{{仮リンク|ウァレリウス・ウァレンス|en|Valerius Valens}}を(恐らくその忠誠を繋ぎとめるために)正帝に任命した<ref name="ジョーンズ2008p131"/><ref name="スカー1998p269"/><ref name="ランソン2012p30"/>。そしてハドリアノポリス近郊で2度目の戦闘が行われた<ref name="スカー1998p269"/>。その勝敗は史料上はっきりしないが、この戦いの後、両者は和平条件を巡る交渉を行った<ref name="ジョーンズ2008p131"/>。だが、使節を通した交渉は失敗し戦闘が再開された<ref name="ジョーンズ2008p131"/>。2度目の戦闘が[[アルダ川]]流域で行われたが、衝突後に両軍は敵を見失い、コンスタンティヌス1世はリキニウスが東のビュザンティオンに退却したと見て進軍し、一方のリキニウスは北西のベロイアへ移動したために双方が後方連絡線を遮断された<ref name="ジョーンズ2008p131"/>。317年3月1日<ref name="スカー1998p269"/><ref name="ランソン2012p31">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 31</ref>、セルディカで再び和平交渉が行われ今度は和平合意が成立した<ref name="スカー1998p269"/><ref name="ランソン2012p31"/>(ジョーンズの採用する編年では和平は315年は成立したとされている<ref name="ジョーンズ2008p131"/>)。合意では領土的にはコンスタンティヌス1世が大幅な拡大に成功し、トラキアを除くバルカン半島のほぼ全域がコンスタンティヌス1世の支配下に入る事となった<ref name="ジョーンズ2008p131"/>。そしてウァレリウス・ウァレンスは廃位されて処刑され、コンスタンティヌス1世の長子[[クリスプス]](13歳前後)、ファウスタとの間の別の息子[[コンスタンティヌス2世|小コンスタンティヌス]](当時出生直後)、そしてリキニウス2世(1歳8か月)の3名を副帝とすることが定められた<ref name="ジョーンズ2008p132">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 132</ref><ref name="ランソン2012p31"/>{{refnest|group="注釈"|この3名の副帝即位は317年3月1日である。ただし、314年から戦争が始まったという時系列を採用しているジョーンズは315年には和平が成立し、コンスタンティヌス1世とリキニウスが同年の[[執政官]](コンスル)職を共に担当したとする。317年3月1日まで「不明な理由」によりこの3名の副帝即位が延期されたとする<ref name="ジョーンズ2008p132"/>。ランソン、スカーの採用する時系列では和平から即位までの間にこのような時間差は想定されていない。}}。以降、321年または323年までの6年間、この和平は維持された<ref name="ジョーンズ2008p132"/><ref name="スカー1998p269"/>。 |
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==== リキニウスの死 ==== |
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比較的長く続いた平和の後、コンスタンティヌス1世とリキニウスの関係は再び悪化した。その要因にはコンスタンティヌス1世が息子のクリスプスと小コンスタンティヌスをリキニウスと相談することなく(ジョーンズによれば321年に)執政官職(コンスル)に就けたこと<ref name="ジョーンズ2008p132"/>、その後もリキニウスの同意なしにコンスルの任命をし続け、リキニウスが自領内でコンスタンティヌス1世が任命したコンスルを無視したこと<ref name="ジョーンズ2008p132"/>、323年にコンスタンティヌス1世が第2モエシア属州に侵入した[[ゴート人]]を討伐するためにリキニウスの領土に侵入したこと<ref name="ジョーンズ2008p132"/><ref name="ランソン2012p32">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 32</ref>、キリスト教徒の庇護者として振る舞うコンスタンティヌス1世の姿を見たリキニウスが、自分の領内のキリスト教徒をスパイだと疑い始めたこと<ref name="スカー1998p269"/><ref name="ランソン2012p32/><ref name="ジョーンズ2008p133">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 133</ref>などが挙げられている。リキニウスはコンスタンティヌス1世よりもはっきりと[[一神教]]的な見解を持っていたようにも見受けられるが、古くからの神々を拒否することは無く、それらを偉大な[[ユーピテル|ユピテル神]]の別側面であるとみなしたと考えられる<ref name="ジョーンズ2008p133"/>。一方でコンスタンティヌス1世はキリスト教徒への庇護の傾斜を強め、320年にはコンスタンティヌス1世のコインに残されていた最後の異教の神、不敗太陽神({{仮リンク|ソル・インウィクトゥス|en|Sol Invictus|label=ソル}})の図像が姿を消した<ref name="ジョーンズ2008p134">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 134</ref>。コンスタンティヌス1世がキリスト教への傾倒を強めるほどに、リキニウスはキリスト教徒たちの礼拝がコンスタンティヌス1世のためのものであるという認識を強め、教会の活動への統制を強めていった<ref name="ジョーンズ2008p133"/>。324年には両者は再び武力衝突に至った<ref name="ジョーンズ2008p133"/>。彼らは自分が基盤を置く宗教組織へ協力を求めたとされている。コンスタンティヌス1世はキリスト教の[[司教]]たちを呼び寄せ、自軍の兵士たちに至高の神への祈りを強制し、リキニウスは祭司、占い師、魔術師をエジプトから呼び寄せ神々に犠牲を捧げたという<ref name="ジョーンズ2008p134">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 134</ref>。 |
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コンスタンティヌス1世とリキニウスはともに過去の内戦で動員されたよりもはるかに大きな兵力を擁していた{{refnest|group="注釈"|ジョーンズによればコンスタンティヌス1世はガリアとイリュリクムの兵力を中心とする練度の高い陸軍を120,000人、リキニウスは歩兵150,000人と[[フリュギア]]、[[カッパドキア]]から動員した騎兵15,000を集めたとされる<ref name="ジョーンズ2008p136">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 136</ref>。ただし海軍戦力はコンスタンティヌス1世が[[ガレー船]]200隻であったのに対し、リキニウスは350隻の艦隊を保持しており優勢であった<ref name="ジョーンズ2008p136"/>。ランソンは、コンスタンティヌス1世が騎兵10,000騎、歩兵120,000人と軍船200隻、輸送船2,000隻を持ち、リキニウスは165,000人の兵力を擁していたとするゾシモスの記録を紹介している<ref name="ランソン2012p32/>。ただし、ランソンは両軍の実数は確実にもっと少ないとしている<ref name="ランソン2012p32/>。}}。戦いはコンスタンティヌス1世の先制攻撃で始まり、彼は324年7月3日にハドリアノポリス(アドリアノープル)近郊に駐留していたリキニウス軍を攻撃した<ref name="ジョーンズ2008p136"/>。コンスタンティヌス1世自身が腿に負傷を追う激戦の末に彼は勝利を収め、リキニウスはビュザンティオンに退却した({{仮リンク|アドリアノープルの戦い (324年)|label=ハドリアノポリスの戦い|en|Battle of Adrianople (324)}}<ref name="ジョーンズ2008p137">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 137</ref><ref name="ランソン2012p32/>。 |
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リキニウスはビュザンティオンで{{仮リンク|諸局長官|en|Magister officiorum}}(''Magister officiorum''{{refnest|group="注釈"|name="諸局長官"|尚樹によればこの諸局長官(''Magister officiorum'')の設置はコンスタンティヌス1世によるものである<ref name="尚樹2005p45">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 45</ref>。しかし、ジョーンズはリキニウスの宮廷における諸局長官の地位に言及している<ref name="ジョーンズ2008p137"/>。}})の{{仮リンク|マルティニアヌス (皇帝)|label=セクストゥス・マルキウス・マルティニアヌス|en|Martinian (emperor)}}を共同皇帝に擁立した<ref name="ジョーンズ2008p137"/>。コンスタンティヌス1世はビュザンティオンを包囲したが、リキニウスは海上優位を活用して都市への補給を続けこれに耐えた<ref name="ジョーンズ2008p137"/>。しかしコンスタンティヌス1世は同時に息子のクリスプスが指揮する艦隊に攻撃を命じていた。そしてリキニウスの海軍司令官アバントゥスの失策も手伝ってクリスプスが大勝を収め([[ヘレスポントスの海戦]])、これによってビュザンティオンの維持を諦めたリキニウスはボスポラス海峡をわたって小アジアの[[クリュソポリス]](現:トルコ領[[ユスキュダル]]、イスタンブルの対岸)へと後退した。324年9月18日、クリュソポリスで最後の戦いが行われ、ここでもコンスタンティヌス1世が勝利を収めた<ref name="ジョーンズ2008p137"/>。敗北したリキニウスは更に[[ニコメディア]]に逃れたが、そこで包囲され妻コンスタンティアを兄であるコンスタンティヌス1世の下へ送り助命を嘆願させた<ref name="ジョーンズ2008p137"/><ref name="ランソン2012p33">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 33</ref>。コンスタンティヌス1世はリキニウスとマルティニアヌスが命を保つことを認め降伏させた後[[テッサロニキ]]に送ったが、しばらく後に処刑した<ref name="ジョーンズ2008p137"/><ref name="ランソン2012p33"/>。後世の史料はリキニウスが蛮族を集め再起を図ったためにコンスタンティヌス1世が彼を処刑したのだとするが、実際のところは確たる理由はなくコンスタンティヌス1世の警戒心によるものであろう<ref name="ジョーンズ2008p137"/>。少なくとも当時の人々にとってこの処刑が名誉ある行動ではなかったことは、コンスタンティヌス1世を称揚する教会史家[[エウセビオス]]がこの処刑を曖昧に書いていることなどから推測できる<ref name="ジョーンズ2008p138">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 138</ref>。 |
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=== 単独の皇帝として === |
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[[ファイル:Constance II Colosseo Rome Italy.jpg|thumb|コンスタンティウス2世像]] |
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324年という年はコンスタンティヌス1世にとって、またローマ帝国にとって大きな転換点となる年である<ref name="ランソン2012p33"/>。リキニウスの死によって、コンスタンティヌス1世はディオクレティアヌスによる帝権分割以来となる単独のローマ皇帝となった<ref name="ランソン2012p33"/>。彼は未だ7歳であった息子の[[コンスタンティウス2世]]を副帝に据え、新たな体制の構築に乗り出した<ref name="ランソン2012p33"/>。 |
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帝国の政治・経済・文化の重心が東方へ移っていたことから、324年中にはコンスタンティヌス1世はボスポラス海峡に面する要衝の都市ビュザンティオンに着目し、自らの名前を与えてコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、コンスタンティヌスの町)と改称することを決めた<ref name="ランソン2012p34">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 34</ref>。そして330年に(工事はまだ途中であったが)落成式が執り行われた<ref name="尚樹1999p27">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 27</ref>。また、ディオクレティアヌス以来続けられていた行政改革を引き継ぎ、中央政府組織を整備した<ref name="ランソン2012p31">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 31</ref>。[[元首制]]期の皇帝は個人的な友人・同僚たちの助言集団を持ったが、これは次第に公的なものとなり、3世紀の危機を経てディオクレティアヌスの時代には[[枢密院 (ローマ)|枢密院]](''consistorium''{{refnest|group="注釈"|name="consistorium"|原語名と和訳の対応は[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 156の索引に依った。ランソンは実際にはコンスタンティヌス1世の治世中はこの組織は顧問会(''consilium'')と呼ばれており、''consistorium''と呼ばれるようになるのはコンスタンティヌス1世死後であるとしている<ref name="ランソン2012p63">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 63</ref>。 本文中で枢密院としたのは尚樹の著作による。なお、''consistorium''の日本語訳は一定しない。尚樹は「枢密院」と訳すが、ランソンの著作を訳した大清水は「御前会議」の語をあてている。}})と呼ばれるようになった<ref name="尚樹1999p31">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 31</ref>。コンスタンティヌス1世はこの枢密院をより確固たる組織に仕立て上げ<ref name="尚樹2005p28">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 28</ref>、また、軍制改革を行い、この結果行政機関の文民部門と軍事部門の分離が進行した<ref name="ジョーンズ2008p218">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 218</ref>。財政面では純度の安定した[[ソリドゥス金貨]]を発行したことが特筆される<ref name="尚樹2005p34">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 34</ref>。従来からソリドゥスと呼ばれる金貨は発行されていたが、コンスタンティヌス1世は新たな基準でこれを発行した。この新貨幣は[[ノミスマ]]と呼ばれ、後に帝国の標準貨幣として流通することになる<ref name="尚樹2005p34"/><ref name="ジョーンズ2008pp221_222">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 221-222</ref>。 |
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宗教面ではキリスト教の教義上の分裂の収拾を試みた。コンスタンティヌス1世はかつての迫害によってキリスト教の教会が被った損失の回復を行い、教会の庇護者として振る舞っていたが、帝国内のキリスト教には教義の差異が生じており、[[復活祭]]の日付もバラバラであった<ref name="ランソン2012p34"/>。そして彼が皇帝となった時には、アレクサンドリア[[司教]][[アレクサンドロス (アレクサンドリア司教)|アレクサンドロス]]と[[司祭]][[アリウス]] |
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(アレイオス)との間の論争に端を発して、東方の属州全域の司教たちを巻き込んだ分裂が生じていた<ref name="ジョーンズ2008pp141_142">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 141-142</ref>。コンスタンティヌス1世はこれに介入し、教義の細部に拘泥せず和解するよう促した<ref name="ジョーンズ2008pp147_149">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 147-149</ref>。しかし、この[[アリウス派]]と反アリウス派の対立が容易に解決する段階にないことが明らかとなると、325年5月20日に[[ニカイア]](ニケア)に数百名の司教を招集し、'''[[第1ニカイア公会議|ニカイア公会議]]'''(第1回全教会会議)を開催した<ref name="尚樹1999p45">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 45</ref><ref name="ランソン2012p34"/><ref name="ジョーンズ2008p157">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 157</ref>。コンスタンティヌス1世自らも議論に加わり、妥協的な結論を出すことが探られたが、結局アリウス派の排除が決定されると共に、他の各司教に共通の信条([[ニカイア信条]])を受け入れるよう圧力が加えられ、それが結論とされた<ref name="尚樹1999pp45_46">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], pp. 45-46</ref>。同時にローマ、アレクサンドリア、アンティオキアの教会の首位性の確認や、群小異端の禁止などが行われた<ref name="尚樹1999pp45_46"/>。しかしその後もコンスタンティヌス1世はアリウス派との妥協を模索し、アリウスの教会への復帰を認めた<ref name="尚樹1999p47">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 47</ref>。 |
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==== クリスプス処刑とファウスタの変死 ==== |
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326年、コンスタンティヌス1世は妻ファウスタと息子のクリスプス(ファウスタの子ではない)を処刑した<ref name="ランソン2012p35">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 35</ref>。この謎の事件について知ることができることは限られている<ref name="ジョーンズ2008p236">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 236</ref>。偉大な皇帝の家庭内で発生したこの事件は同時代の著作家たちに注意深く無視されており、現代に残された記録は後世に書かれたゴシップのようなものばかりのためである<ref name="ジョーンズ2008p236"/>。はっきりしていることは、この年に十分その有能さ認められていた長子クリスプスが処刑され、その後間もなく皇后ファウスタが変死したことである(ある噂では浴場で窒息死したという)<ref name="ジョーンズ2008p236"/><ref name="ランソン2012p35"/>。 |
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残されたそうした噂の記録では、義理の息子クリスプスの人気に嫉妬したファウスタは、彼が自分との姦通を試みたとコンスタンティヌス1世に訴え出たためにクリスプスが処刑されたという<ref name="ランソン2012p35"/><ref name="ジョーンズ2008p236"/>。そしてこれに怒ったコンスタンティヌス1世の母ヘレナは、お気に入りの孫クリスプスの仇を討とうと、この醜聞で問題があったのはファウスタの方だとコンスタンティヌス1世に主張し、その結果としてファウスタも殺害されたのだという<ref name="ジョーンズ2008p236"/><ref name="ランソン2012p35"/>。また、ファウスタが官吏との間で姦通したという噂も残されている<ref name="ジョーンズ2008p236"/>。 |
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326年4月25日の勅法でコンスタンティヌス1世が姦通を告発する権利を夫に限るという手を加えていることや、あるいは[[ソレント]]の碑文からファウスタとクリスプスの名前が削り取られていることなどの状況証拠が存在するため、現代の学者はこうしたゴシップめいた情報の史実性を完全に否定できるわけでもない<ref name="ジョーンズ2008pp236_239">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 236-239</ref><ref name="ランソン2012p35"/>{{refnest|group="注釈"|クリスプスの罪を考える上で、ジョーンズは326年4月1日に[[アクィレリア]]で発布された少女の誘拐について定めた奇妙な勅令を論拠に、クリスプスが無名の少女を誘拐して関係を持った可能性を推測している。この勅令は誘拐された少女がそれを進んで受け入れた場合、愛人と同じく罪を追うべきであり、拒否した場合でも(叫んで助けを求めることができたはずなので)なお罪を追うと定められている。そして少女の両親がこれを黙認した場合にはその両親も追放刑に処されるべきとされている<ref name="ジョーンズ2008p237">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 237</ref>。更に仲介役を担った[[奴隷]]は[[鉛]]で口を封じられるべきであるともされている<ref name="ジョーンズ2008p237"/>。この勅令の具体的な内容、発布された日付、ヒステリックな調子から、ジョーンズはこれがクリスプスに関連して出されたものであり、クリスプスが無名の少女を誘拐し、彼女の両親がそれを妥協によって処理しようとした可能性を推測している<ref name="ジョーンズ2008p237"/>。クリスプスは既婚者であり、しかも同時期に妻帯者が妾を持つことを禁止する法律(或いはこの事件に関連して発布されたものである可能性もある)が出されていることから、これが事実とすればクリスプスの罪は単なる醜聞以上のものであった<ref name="ジョーンズ2008p238">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 238</ref>。}}。 |
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==== 対外遠征と死 ==== |
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[[ファイル:ConstantineEmpire.png|thumb|left|コンスタンティヌス1世死亡時のローマ帝国]] |
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330年代に入った頃、恐らくは側近である司教たちの影響を受けてコンスタンティヌス1世は宗教的な寛容さを失いつつあった<ref name="ランソン2012p36">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 36</ref>。また、既に複数の正帝のうちの1人であった頃から、軍におけるキリスト教の普及や教会への支援に熱心であったが、関心の多くが信仰に関する事柄に向けられるようになった晩年には宮廷のキリスト教化にも取り組んだ<ref name="ジョーンズ2008p214">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 214</ref>。官吏たちに対する演説をしばしば神の裁きについての話で締めくくり、数多くのキリスト教徒を新たに[[伯|コメス]](''Comes''、伯、総監)の身分に昇進させた<ref name="ジョーンズ2008p215">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 215</ref>。キリスト教信仰を告白することが皇帝の歓心を買う有効な手段であることは誰の目にも明らかとなり、いくつもの都市や村落がキリスト教への帰依を明らかにすることで皇帝からの恩寵を得た<ref name="ジョーンズ2008p215"/>。上流階級においても出世のために改宗する者が幾人も出てコンスタンティヌス1世のキリスト教徒に対する気前の良い分配の恩恵に預かった<ref name="ジョーンズ2008p215"/>。このような風潮については教会史家[[エウセビオス]]すら批判的な見解を述べている<ref name="ジョーンズ2008p215"/>。 |
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内政面においては333年に息子の[[コンスタンス1世]]を、335年に甥の{{仮リンク|ダルマティウス|en|Dalmatius}}を副帝に任命した<ref name="ランソン2012p36"/><ref name="尚樹1999p29">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 29</ref>。ミネルウィナとの間の息子で殺害されたクリスプスを除き、ファウスタとの間の息子[[コンスタンティヌス2世]]、[[コンスタンティウス2世]]、[[コンスタンス1世]]の3名が副帝となり、ダルマティウスを合わせて4人の副帝を擁する体制となった<ref name="ランソン2012p36"/><ref name="尚樹1999p29"/>。これは恐らく帝位継承の準備であったであろう<ref name="ランソン2012p36"/>。コンスタンティヌス2世がアジア・エジプトを、コンスタンティウス2世がガリアを、コンスタンス1世がイタリア・アフリカ・パンノニアを、ダルマティウスがトラキア・マケドニア・ダキア(ドナウ川流域)を、それぞれ分割して担当した<ref name="尚樹1999p29"/>。コンスタンティヌス1世が |
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このような処置をとったことは、結局のところ広大かつ複雑化したローマ帝国の統治が1人で担当可能なものでは無かったことを示している<ref name="尚樹1999p30">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 30</ref>。 |
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対外的には統一後もコンスタンティヌス1世は熱心に軍事遠征を繰り返していた。328年に息子コンスタンティウス2世と共に[[ライン川]]方面で[[アレマン人]]と戦って勝利を収め、332年にはドナウ川で[[ゴート人]]を降伏させた。334年にはダキア方面で[[サルマタイ]]を破った<ref name="スカー1998p275">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 275</ref>。東方では[[アルメニア王国|アルメニア]]王[[ティグラネス5世]]が[[サーサーン朝]]の[[シャープール2世]]によって廃立され同国が占領されたことをきっかけにサーサーン朝との関係が悪化した<ref name="尚樹1999p30"/>。アルメニアの親ローマ派がアルメニアをローマ帝国に献上することを申し出たことを受けて、コンスタンティヌス1世は甥の[[ハンニバリアヌス]]をアルメニア王とした。この処置は将来のローマ帝国とサーサーン朝の戦争の原因となったが、実際に戦端が開かれるのはコンスタンティヌス1世死後のこととなる<ref name="尚樹1999p30"/><ref name="ランソン2012p36"/>。コンスタンティヌス1世の統治最後の3年間はサーサーン朝への遠征の準備に費やされ、ペルシア人をキリスト教に転向させ、また彼が[[イエス・キリスト|キリスト]]と同じように[[ヨルダン川]]で[[洗礼]]を受ける計画が立てられた<ref name="スカー1998p276">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 276</ref>。しかし337年の復活祭の直後、コンスタンティヌス1世は体調を崩して倒れ、この計画を実行に移すことは不可能となった<ref name="スカー1998p278">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 278</ref>。神学者[[ヒエロニムス]]が伝えるところによると、死期を悟ったコンスタンティヌス1世は亡くなる少し前に[[洗礼]]を受けた。当時の風習では、年を取るか死の間際になってから洗礼を受けるのが一般的だった<ref group="注釈">この時代には幼児の洗礼は未だ習慣化されていなかった(幼児洗礼は、初めは非常時のみ行われていた。この頃には幼児洗礼を受けるものも増えていたが、これはキリスト教徒として生きるという重みを持った選択というよりは、将来キリスト教にしたがう予定という意味合いだった)。自らの意思で洗礼を受ける成人は、神の贖罪により身を守るという信心をはっきりと宣誓した。聴衆に洗礼を促す聖職者と洗礼を放棄した者との板ばさみになったりして、様々な理由から、年をとるか死の間際になるかまで洗礼を待つ者もいた(Thomas M. Finn (1992), ''Early Christian Baptism and the Catechumenate: West and East Syria'' および Philip Rousseau (1999). "Baptism", in ''Late Antiquity: A Guide to the Post Classical World'', ed. Peter Brown)。</ref>。そして同年の聖霊降臨祭の日(5月22日)にニコメディア近郊の[[アンキュロナ]]の離宮で死亡した<ref name="スカー1998p278"/>。 |
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コンスタンティヌス1世の遺体は紫衣に包まれた金棺に納められてコンスタンティノープルに運ばれ、高官たちの礼拝を受けた後に諸使徒聖堂に安置された<ref name="スカー1998p278"/><ref name="尚樹1999p48">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 48</ref>。伝統的な異教的葬儀ではなくキリスト教の作法による葬儀が行われ、キリストの12人の使徒たちの石棺(遺体は安置されていないハリボテであったが)の中央に13番目としてコンスタンティヌス1世の棺が安置された<ref name="スカー1998p278"/>。これは彼のキリスト教信仰を明白に示すものであり、その業績とキリスト教公認とによって死後も「大帝」の贈り名とともに記憶され、また「使徒に等しき者」として列聖された<ref name="尚樹1999p48"/>。ローマ市は皇帝が埋葬地としてローマではなく新たな都コンスタンティノープルを選んだことに反発した。そしてコンスタンティヌス1世がキリスト教徒であることが周知であるにもかかわらず、ローマの元老院はそれまでの皇帝と同じように彼自身にローマの神々の一員たる名誉を与えた<ref name="スカー1998p279">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 279</ref>。 |
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=== 後継者 === |
=== 後継者 === |
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コンスタンティヌスの後 |
コンスタンティヌス1世の死後、激しい権力闘争が行われた。コンスタンティノープルの軍団はコンスタンティヌス1世の息子以外に皇帝たるべき人物はいないと主張して暴動を起こし、コンスタンティヌス1世の兄弟{{仮リンク|フラウィウス・ダルマティウス|en|Flavius Dalmatius}}とその息子である副帝ダルマティウスおよびアルメニア王ハンニバリアヌスを殺害した<ref name="尚樹1999p52">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 52</ref>。またコンスタンティヌス1世の別の兄弟[[ユリウス・コンスタンティウス]]も殺害され、他にオプタトゥス・オリエント近衛長官[[アブラビウス]]なども処刑された<ref name="尚樹1999p52"/>。3ヶ月にわたるこの混乱の空位期間の後、コンスタンティヌス1世とファウスタの間の息子、[[コンスタンティヌス2世]]、[[コンスタンティウス2世]]、[[コンスタンス1世]]が337年9月9日に揃って自らを正帝と宣言した<ref name="尚樹1999p52"/><ref name="スカー1998p282">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 282</ref>。 |
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後継者となった正帝3人はそれぞれ、コンスタンティヌス2世がブリタニア・ガリア・ヒスパニアの帝国西方を支配し、残りの2名はダルマティウスの支配地も分割してコンスタンティウス2世が[[トラキア]]・[[ポンティカ]]・アジア(アシアナ)、オリエンス(シリア・エジプト)を、コンスタンス1世が[[パンノニア]]・[[イタリア]]・[[アフリカ]]・[[ダキア]](ドナウ川流域)・[[マケドニア]]を支配することになった<ref name="尚樹1999p52"/>。一応コンスタンティヌス2世が帝国全土に対する権威を保有していたが、この体制は長続きしなかった<ref name="尚樹1999p52"/><ref name="スカー1998p282"/>。340年、コンスタンティヌス2世は自らの権威を愚弄したとして弟コンスタンス1世の支配するイタリアへ侵攻したが[[アクィレイア]]で敗北して死亡した<ref name="尚樹1999p53">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 53</ref><ref name="スカー1998p283">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 283</ref>。これによってコンスタンス1世がその遺領も掌中に収め、帝国全土の3分の2を支配するに至った<ref name="尚樹1999p53"/><ref name="スカー1998p283"/>。その後10年余りの詳細な経過は不明であるが、コンスタンス1世の支配地ではブリタニアやアフリカで紛争が絶えず、他方のコンスタンティウス2世もサーサーン朝との間に勃発した戦争に忙殺されていた<ref name="尚樹1999p53"/>。そして350年1月、皇帝領伯[[マルケリヌス]]と[[ゲルマン人]]の血を引く将軍[[マグネンティウス]]による陰謀によってコンスタンス1世が殺害され、マグネンティウスが皇帝を称した<ref name="尚樹1999p53"/>。同年3月1日にはイリュリクムでコンスタンス1世配下の歩兵軍司令官であった[[ヴェトラニオ]]も皇帝を称し、コンスタンティヌス1世の甥であった[[ネポティアヌス]]もローマ市を占領して皇帝を名乗った<ref name="尚樹1999p53"/>。 |
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しかし、コンスタンティヌス1世の死後、コンスタンティウスの支持者によって[[ダルマティウス]]と[[ハンニバリアヌス]]をはじめとする多くの血縁者が殺害された。ダルマティウスの統治区域のうちモエシアをコンスタンス1世に、トラキアをコンスタンティウス2世に再分配してふたたび3帝による統治が始まったものの、長兄のコンスタンティヌス2世はこの配分に不満を持ち、末弟のコンスタンス1世の領域へ[[340年]]に進攻したものの、アクィレイア近郊での戦いによってコンスタンティヌス2世は敗北し、命を落とした。しかしコンスタンス1世も[[マグネンティウス]]による反乱により死亡し、結局[[353年]]にコンスタンティウス2世がマグネンティウスを滅ぼして帝国を再統一するまで、コンスタンティヌス1世の死後15年にも及ぶ内戦が勃発することとなった。彼には2人の娘コンスタンティアーナ(307年以後から317年以前 - 354年)とヘレナがおり、ヘレナは[[ユリアヌス]]帝の妻となった。ヘレナがいくつか年上であったらしい。ヘレナはユリアヌスの子の死産を二度繰り返した後は健康が優れず、[[ガリア]]の地で360年に亡くなった(没年齢は不明)。この死産時の子供達以外にこの2人の間に子女は確認できない。コンスタンティアーナは初め、アルメニア王位を約束されていた副帝[[ハンニバリアヌス]]と結婚、337年に[[ハンニバリアヌス]]がコンスタンティウス2世に殺害された後は未亡人となってローマに居を移し、同母兄弟コンスタンス1世を殺害した[[マグネンティウス]]と連絡を取り合って接近した。動機は夫を殺されたこと、アルメニア王妃の地位を奪われたことであり、コンスタンティウス2世を憎悪していたのである。マグネンティウスと結婚すれば、帝国西方の支配者の妻となれるという計算もあったのかもしれない。マグネンティウスにとっても、コンスタンティヌス1世の実の娘を妻とするメリットを知っていた。この策略を阻止する為にコンスタンティウス2世は、351年にコンスタンティアーナはユリアヌスの異母兄であり、副帝に任命した[[コンスタンティウス・ガッルス]]と再婚させられた。コンスタンティアーナの方がいくつか年上であったらしい。一人娘アナスタシアを儲けたが、このアナスタシアの生涯については、両親が結婚した351年から父ガッルスが殺害される354年の間に生まれたということや結婚してその血筋が[[東ローマ帝国]][[皇帝]][[アナスタシウス1世]]とその弟妹(及び弟妹の子孫)に繋がったこと以外、知られていない(もしくはそれしか推測できない)。354年、ガッルスはコンスタンティウス2世からミラノへ招聘された。ガッルスは招聘が召喚であることが分かっており、コンスタンティウス2世の実の姉妹だからと、妻コンスタンティアーナを弁護役にし、先にミラノへ発たせた。しかし、コンスタンティアーナはシリアからイタリアへの長旅の途中で病に倒れ、病死した(没年齢は不明)。ガッルスも宦官エウセビウスの策略により[[ポーラ]]で処刑された。残されたユリアヌスも363年のペルシア戦役にて投槍を受け、陣中で死去。後継にはユリアヌスとは血縁が無い[[ヨウィアヌス]]が選ばれ、適当な男子が無かったコンスタンティヌス朝は断絶した。 |
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ネポティアヌスは間もなくマグネンティウスによって滅ぼされ、マグネンティウスとヴェトラニオは共にコンスタンティウス2世に正式な正帝としての承認を求めた<ref name="尚樹1999p53"/>。マグネンティウスは和解を演出するためにマルケリヌスを使者としてコンスタンティヌス1世の娘{{仮リンク|コンスタンティナ|en|Constantina}}との結婚、およびコンスタンティウス2世に自身の娘を嫁がせることを提案した<ref name="ギボン1996p143">[[#ギボン 1996|ギボン 1996]], p. 143</ref>。コンスタンティウス2世はマグネンティウスの地位を断固として認めず、またヴェトラニオは退位と引き換えに年金を得ることで合意し、皇帝を退いた<ref name="尚樹1999p53"/><ref name="スカー1998p283"/>。コンスタンティウス2世は甥の[[コンスタンティウス・ガッルス]]を副帝にして東方を任せ、マグネンティウスも兄弟の[[デケンティウス]]を副帝にしてガリア統治を委任し、両者は互いにバルカン半島へと進軍した<ref name="尚樹1999p53"/><ref name="スカー1998p283"/>。351年9月28日、[[ムルサの戦い]]でコンスタンティウス2世が勝利を収めた<ref name="尚樹1999p53"/><ref name="スカー1998p283"/>。マグネンティウスはイタリアを経てガリアへ引いたが、353年の夏、[[モンス=セレウクスの戦い]]で敗れコンスタンティウス2世が帝国を再統一した<ref name="尚樹1999p53"/><ref name="スカー1998p283"/>。 |
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その後、コンスタンティヌス朝の血統自体は存続。ヨウィアヌスの後を継いだ[[ウァレンティニアヌス1世]]の後妻ユスティナは、ユストゥスという男性とガッルスの同母姉妹(ユリアヌスの異母姉妹)の娘でマグネンティウスの妻だった女性であり、ウァレンティニアヌス1世との間に、[[ウァレンティニアヌス2世]]、グラタ、ユスタ、ガッラの1男3女を儲け、ガッラは[[テオドシウス1世]]の後妻となり、グラティアヌス、[[ガッラ・プラキディア]]、ヨハネスの2男1女の母となった。この内、ガッラ・プラキディアのみが子孫を残し、その血筋は少なくとも6世紀の終わりまで、コンスタンティノープルのローマ貴族であり続けた。一方、コンスタンティウス2世の一人娘で、その死後に生まれたコンスタンティアは皇統の連続性と継続性を示す為にウァレンティニアヌス1世の長男でウァレンティニアヌス2世の異母兄[[グラティアヌス]]と結婚。男子を儲けたが、この男子の消息は不明である。 |
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==== その他の子孫 ==== |
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== コンスタンティヌス1世とキリスト教 == |
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コンスタンティヌス1世には2人の娘がいた。一人は先述の{{仮リンク|コンスタンティナ|en|Constantina}}(307年以後から317年以前 - 354年)であり、もう一人は[[ユリアヌス]]帝の妻となったヘレナである。ヘレナはユリアヌスの子の死産を二度繰り返した後は健康が優れず、[[ガリア]]の地で360年に亡くなった(没年齢は不明)。この死産時の子供達以外にこの2人の間に子女は確認できない。コンスタンティナは初め、アルメニア王位を約束されていた副帝[[ハンニバリアヌス]]と結婚、337年に[[ハンニバリアヌス]]がコンスタンティウス2世に殺害された後は未亡人となってローマに居を移し、同母兄弟コンスタンス1世を殺害した[[マグネンティウス]]と連絡を取り合って接近した。動機は夫を殺されたこと、アルメニア王妃の地位を奪われたことであり、コンスタンティウス2世を憎悪していた。マグネンティウスと結婚すれば、帝国西方の支配者の妻となれるという計算もあったのかもしれない。マグネンティウスにとっても、コンスタンティヌス1世の実の娘を妻とするメリットを知っていた。この策略を阻止する為にコンスタンティウス2世は、351年にコンスタンティナはユリアヌスの異母兄であり、副帝に任命した[[コンスタンティウス・ガッルス]]と再婚させられた。一人娘アナスタシアを儲けたが、このアナスタシアの生涯については、両親が結婚した351年から父ガッルスが殺害される354年の間に生まれたということや結婚してその血筋が[[東ローマ帝国]][[皇帝]][[アナスタシウス1世]]とその弟妹(及び弟妹の子孫)に繋がったこと以外、知られていない(もしくはそれしか推測できない)。354年、ガッルスはコンスタンティウス2世からミラノへ招聘された。ガッルスは招聘が召喚であることを分かっており、コンスタンティウス2世の実の姉妹だからと、妻コンスタンティアーナを弁護役にし、先にミラノへ発たせた。しかし、コンスタンティアーナはシリアからイタリアへの長旅の途中で病に倒れ、病死した(没年齢は不明)。ガッルスも宦官エウセビウスの策略により[[ポーラ]]で処刑された。残されたユリアヌスも363年のペルシア戦役にて投槍を受け、陣中で死去。後継にはユリアヌスとは血縁が無い[[ヨウィアヌス]]が選ばれ、適当な男子が無かったコンスタンティヌス朝は断絶した{{要出典|date=2019年3月}}。 |
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コンスタンティヌス1世は、初めての[[キリスト教徒]]皇帝として有名である。それ以前のローマ帝国では、[[ネロ]]帝(54年 - 68年)のキリスト教徒迫害に始まり、[[ディオクレティアヌス]]帝(284年 - 305年)の迫害まで、何度かキリスト教が迫害を受ける時期があった。そんな一部の時期を除くほとんどの間、キリスト教徒であることは黙認されていたが、発覚した場合は改宗を迫られ拒絶した者は処刑された。 |
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その後、コンスタンティヌス朝の血統自体は存続。ヨウィアヌスの後を継いだ[[ウァレンティニアヌス1世]]の後妻ユスティナは、ユストゥスという男性とガッルスの同母姉妹(ユリアヌスの異母姉妹)の娘でマグネンティウスの妻だった女性であり、ウァレンティニアヌス1世との間に、[[ウァレンティニアヌス2世]]、グラタ、ユスタ、ガッラの1男3女を儲け、ガッラは[[テオドシウス1世]]の後妻となり、グラティアヌス、[[ガッラ・プラキディア]]、ヨハネスの2男1女の母となった。この内、ガッラ・プラキディアのみが子孫を残し、その血筋は少なくとも6世紀の終わりまで、コンスタンティノープルのローマ貴族であり続けた。一方、コンスタンティウス2世の一人娘で、その死後に生まれたコンスタンティアは皇統の連続性と継続性を示す為にウァレンティニアヌス1世の長男でウァレンティニアヌス2世の異母兄[[グラティアヌス]]と結婚。男子を儲けたが、この男子の消息は不明である{{要出典|date=2019年3月}}。 |
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5世紀の歴史家{{仮リンク|ソゾメノス|en|Sozomen}}によると、コンスタンティヌスはガリアまたはブリタンニアの辺りに駐在している間、現地で広まっていたキリスト教の洗礼を受けたという。ただし、洗礼の時期については、当時の風習に従い死の直前だったという説もある。コンスタンティヌスは自らキリスト教を信仰しただけではなく、宮殿でもキリスト教を広めようとした。コンスタンティヌスがキリスト教を広めた理由について、哲学者[[バートランド・ラッセル]]を始めとする多くの歴史家は、キリスト教の持つ組織力に目をつけたためだと指摘している。 |
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== 統治 == |
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伝説によると、コンスタンティヌスが改宗したのは、神の予兆を見たためと伝えられる。伝説では、コンスタンティヌスは、312年のミルウィウス橋の戦いに向かう行軍中に太陽の前に逆十字<ref group="注釈">シンボリスム的解釈では、十字(架)が太陽の象徴であるのに対し、逆さ十字(架)は金星(明けの明星)の象徴である。</ref>とギリシア文字 Χ と Ρ(ギリシア語で「キリスト」の先頭2文字)が浮かび、並んで「この印と共にあれば勝てる」というギリシア語が浮かんでいるのを見た。この伝説は[[ラクタンティウス]]などいくつかの資料で詳しく伝えられているが、4-5世紀頃の文献に多く現れる神の予兆や魔法などの話のひとつである。ちなみに、この後のローマ軍団兵の盾にはそれを模った紋章が描かれたという。 |
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=== 建設活動 === |
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==== コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)建設 ==== |
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324年、彼はボスポラス海峡に面する要衝の都市ビュザンティオン(ビュザンティウム)に自らの名前を与えコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、コンスタンティヌスの町)と改称した<ref name="ランソン2012p34">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 34</ref>。この都市は海陸が交叉する地理上の要衝であり、ドナウ川の国境とアジアの国境の双方へ睨みを利かせる拠点として優れていたことに加え、ローマ帝国の政治・経済・文化の重心が東方へと移っていたことがこの選択に繋がった<ref name="尚樹1999p27">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 27</ref>。母なる都市ローマを模して7つの丘が定められ14区が接地され、元老院や聖堂、広場([[フォルム]])、[[宮殿]]やその他の公共施設が建設された<ref name="尚樹1999p27"/>。工事の完了を待たず、330年5月11日には落成式が執り行われた<ref name="尚樹1999p27"/>。 |
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コンスタンティノープル建設はコンスタンティヌス1世の政策の中でも後世の歴史に最も大きな影響を残したものの1つであるが、現代から見れば奇妙なことに同時代の記録者たちはコンスタンティノープルの建設にほとんど注意を払っていない<ref name="ジョーンズ2008p226">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 226</ref>。この都市は「新たなるローマ」として建設されたと後世の記録は伝えるが、このような認識は建設当時には無かったとも言われている<ref name="井上2008p42">[[#井上 2008|井上 2008]], p. 42</ref>。これは当時属州の都市に皇帝が名前を付けることはあり触れたことであったためであろう<ref name="ジョーンズ2008p226"/>。皇帝が都市に自分の名前を与えるのは、初代[[アウグストゥス]]の頃から繰り返されてきたことであり、ローマ帝国の領内は皇帝の名を与えられた都市がひしめいていた<ref name="ジョーンズ2008p226"/>。また、ローマ帝国の重心が東に移っていることも周知のことで、コンスタンティヌス1世の姿勢は特に特殊なものではなく、既にディオクレティアヌスやガレリウスといった上位の正帝がニコメディアを中心に、東方に拠点を構えて滞在し続ける状況は何十年も継続していた<ref name="ジョーンズ2008p226"/>。当時ローマは首都長官の管理下に置かれ、公式にも、また感情の上でも、帝国の人々にとって首都であったが、行政の中心としての役割を果たさなくなって久しく、実質的な行政府は前線で外敵と(そしてしばしば内戦を)戦う皇帝たちに付随して移動していた<ref name="ジョーンズ2008p226"/>。皇帝がローマ市に立ち寄ることは滅多になく、平時にはそれぞれの任地の都市に建設した宮殿に居住しており、コンスタンティヌス1世も西の正帝であった頃は[[トリーア]]に住み、イリュリクムを平定した後には[[ソフィア (ブルガリア)|セルディカ]](現:ブルガリア領ソフィア)を「我がローマ」と言ったと伝えられる<ref name="ジョーンズ2008p226"/>。 |
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上記のようにコンスタンティヌス1世が実際にコンスタンティノープルを「新たなローマ」として建設したのかは定かではないが、しかし一般的な都市よりは特別な存在に仕立て上げられたことも事実であった<ref name="ジョーンズ2008p227">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 227</ref>。新都市建設にあたっては惜しみない費用がかけられ、建築部材や装飾用の美術品を求めて各地の異教の神殿から略奪が行われた<ref name="ジョーンズ2008p227"/>。その市域は既存のビュザンティオンの3.5倍にも拡張され、都市を囲う城壁や宮殿も用意された<ref name="ランソン2012p122">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 122</ref><ref name="芳賀ら2017pp486_488">[[#芳賀ら 2017|芳賀ら 2017]], pp. 486-488</ref>。ローマ市よりは明確に格下であったにせよ、一般的な属州都市よりは高い法的地位が与えられ、ビュザンティオンの[[都市参事会]]を改組して[[元老院]]が置かれた<ref name="ジョーンズ2008p227"/>。ローマの元老院議員は爵位としてクラーリッシムスだったのに対しコンスタンティノープルの元老院は格下のクラールスとされた<ref name="ジョーンズ2008p227"/><ref name="尚樹1999p36">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 36</ref>。両都市の位置付けが法的に対等となるのはコンスタンティウス2世の治世である<ref name="尚樹1999p36"/>。 |
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コンスタンティヌス1世自身が真実この都市をどのように位置づけていたかを窺い知ることができる史料はほとんど残されていない。「神の命令によって」行動した結果であるとしている勅法は存在するが、これは単に敬虔さを示す修辞としての要素が強いであろう<ref name="ジョーンズ2008p228">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 228</ref>。異教に汚されることのない、聖別されたキリスト教の都市として神に捧げられたものであったとする見解もあるが<ref name="ジョーンズ2008p228"/>、コンスタンティノープルにおいて[[テュケー]](幸運)や不敗太陽神({{仮リンク|ソル・インウィクトゥス|en|Sol Invictus|label=ソル}})崇拝などの伝統的要素が完全に排除されたわけでもなかった<ref name="ランソン2012p124">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 124</ref>。ただし、実際がどうであれ、後世成立する[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)が1453年に[[オスマン帝国]]に征服されるまで、この都市を舞台にして「ローマ帝国」は継続した。そしてこの都市は[[正教会]]の総本山でありキリスト教世界の中心の一つとして機能した。 |
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==== ローマ ==== |
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[[ファイル:Arch of Constantine at Night (Rome).jpg|thumb|コンスタンティヌス1世の凱旋門]] |
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ローマ皇帝として、コンスタンティヌス1世は真の首都ローマでも活発な建設活動を行った。ローマ市に入場した後、当然のことながら彼は自身の皇帝としての威光を建造物で示そうとした。315年には[[コンスタンティヌスの凱旋門]]が建設された<ref name="青柳1992p389">[[#青柳 1992|青柳 1992]], p. 389</ref><ref name="芳賀ら2017pp481_485">[[#芳賀ら 2017|芳賀ら 2017]], pp. 481-485</ref>。[[セプティミウス・セウェルス凱旋門]]を模したこの凱旋門はローマ世界最大の凱旋門であり、過去の建造物から転用された浮彫彫刻で装飾された<ref name="青柳1992p389"/>。まずマクセンティウスを破ってローマに入場した後、マクセンティウスが建造を始め、ほぼ完成していたバシリカを[[マクセンティウスのバシリカ|コンスタンティヌスのバシリカ]]と改名して集会や謁見に用いた<ref name="青柳1992p390">[[#青柳 1992|青柳 1992]], p. 390</ref><ref name="芳賀ら2017pp481_485"/>。 |
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これ以外にも、ローマでキリスト教建築を大々的に設置した。コンスタンティヌス1世が首都で本格的に新しく建設した最初の建物は[[サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂|救世主のバシリカ]]と呼ばれる大聖堂である<ref name="青柳1992p391">[[#青柳 1992|青柳 1992]], p. 391</ref>。これはかつて[[ラテラヌス家]]が所有していた大邸宅の跡地に建てられたもので、312年から建設が始められローマの大司教座教会堂とされ、現在のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の前身となった<ref name="青柳1992p391"/>。また、母ヘレナがエルサレムで取得した聖遺物を奉納するためにヘレナの邸宅であったパラティウム・セッソリアヌムを改築して聖堂とした。これは現在の[[サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂]]の前身となっている<ref name="青柳1992p391"/>。上記はローマの城壁内に建造されたものであるが、城壁外にもバシリカ・アポストロルム(使徒聖堂、現:{{仮リンク|サン・セバスチアーノ教会|en|San Sebastiano fuori le mura}})、[[サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂]]、サン・ペトリ・イン・ウァティカノ([[サン・ピエトロ大聖堂]])などを建造した<ref name="青柳1992p392">[[#青柳 1992|青柳 1992]], p. 392</ref>。 |
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こうしたキリスト教建築は城壁外の、郊外の地でより活発に行われた。帝国の首都ローマは異教の牙城で、伝統的祭祀の中心であり、それ故に少なくとも入城当初のコンスタンティヌス1世は伝統的なユピテル神への配慮を見せていた。このため、新たなキリスト教建築はローマ市民の反応を見ながら進められ、また目立たない場所での実施が中心になったためである<ref name="青柳1992p393">[[#青柳 1992|青柳 1992]], p. 393</ref>。郊外が選ばれたもう一つの理由には、ローマ市の中心部は既に数世紀に渡る建築活動で建設された公共建造物がひしめいており、必要な用地を容易に確保できなかったことがある<ref name="青柳1992p395">[[#青柳 1992|青柳 1992]], p. 395</ref>。既存の建造物の転用には様々な困難があり、また市民の反発を受ける可能性も無視できなかった<ref name="青柳1992p395"/>。これらのことが、新たな都市コンスタンティノープルへの「遷都」を決定付けた理由の1つであるという見解もある<ref name="青柳1992p396">[[#青柳 1992|青柳 1992]], p. 396</ref>。 |
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==== トリーア ==== |
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[[ファイル:Trier Kaiserthermen BW 1.JPG|thumb|コンスタンティヌス1世によって建造された[[トリーア]]の公衆浴場([[テルマエ]])]] |
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306年に副帝に即位して以来、西方の皇帝としてコンスタンティヌス1世が拠点としていた[[トリーア]]では、お膝元として大規模な整備が行われた<ref name="ランソン2012p117">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 117</ref>。皇帝や皇后、息子クリスプスの住居や、浴場、円形闘技場、大掛かりなバシリカも建造され、バシリカにはお湯を流して温める床暖房も供えられていた<ref name="ランソン2012p117"/>。コンスタンティヌス1世の宮殿[[アウラ・パラティナ]]は、後に[[フランク王国]]の[[カール1世]](大帝)が[[アーヘン]]の宮殿を建造する際の参考にされたとも言われる。<ref name="加藤益田2016pp197_201">[[#加藤, 益田 2016|加藤, 益田 2016]], pp. 197-201</ref>。トリーア近郊には夏用の[[ウィラ]]も建造された<ref name="ランソン2012p117"/> |
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==== その他の都市 ==== |
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複数の町がコンスタンティヌス1世によって再建され、彼やその家族の名を与えられたと伝わる。そのような都市には現在の[[フランス]]にある[[オータン]](フラウィア・アエドゥオルム)、現在の[[アルジェリア]]にある[[キルタ]](コンスタンティナ、現:[[コンスタンティーヌ]])などがある<ref name="ランソン2012pp117_121">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], pp. 117-121</ref>。また、コンスタンティヌス1世は323年から324年にかけて現在のギリシアにある[[テッサロニキ]]に滞在した際、この町を非常に気に入り、巨大な教会や港湾、浴場など数多くの建物を建てたという<ref name="ランソン2012pp117_121"/>。 |
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=== 内政 === |
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コンスタンティヌス1世は多岐にわたる制度改革を実施した<ref name="尚樹1999p30">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 30</ref>。一連の改革によって構築された政府機構は後の[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)の政府の原型となり、「初期ビザンツの中央政府組織はほぼ彼の時代に形造られた」(尚樹啓太郎)とも評される<ref name="尚樹1999p30"/>。一連の改革はディオクレティアヌスが行っていた帝国の再編を継承したものでもあり、また軍事部門の再編と行政の再編を通じて国政を組織化し分担することで帝国の統一を維持しようとしたものであった<ref name="尚樹1999p31">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 31</ref>。 |
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==== 官職の整備 ==== |
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ディオクレティアヌス時代に整備された中央政府の組織はコンスタンティヌス1世治下で更に発展・整備された。宮廷には皇帝の飲食・衣装・ベッドメイクなど家政部門を担う'''寝室'''(''Cubiculum'')があったが、コンスタンティヌス1世時代にはそれを統括する宮内長官(''Praepositus Sacri Cubiculi'')とその補佐役である執事長(''Castrensis sacri palatii'')が置かれてこの組織を管理した<ref name="ランソン2012pp62_63">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], pp. 62-63</ref>。 |
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旧来からの枢密院(''Consistorium''<ref group="注釈" name="consistorium"/>)では書記官長の役割が強化され、上級役職者や軍司令官への将軍への命令は書記官長から出されるようになった<ref name="尚樹1999p31"/>。文武官の長は伯(総監、''Comes'')の地位を与えられそのメンバーとなった<ref name="ランソン2012p63"/>。この組織が重要方針の策定や役人の任命を担った<ref name="ランソン2012p63"/>。 |
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また、3世紀の危機の間に大きな権威を持つようになっていた近衛長官(''Praefectus praetorio''、正帝1名に対し2名が置かれた)の地位にも変更が加えられた。この役職は制度的には元来軍事面における皇帝の私的な使用人に過ぎなかったが、この頃までに司法や徴税、経済などの分野まで統括するようになり、皇帝に次ぐ権威・権力を保持し、皇帝不在時にはその代理のような役割を果たすようにもなっていた<ref name="豊田1994p60">[[#豊田 1994|豊田 1994]], p. 60</ref><ref name="レミィ2010p62">[[#レミィ 2010|レミィ 2010]], p. 62</ref><ref name="尚樹1999pp31_32">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], pp. 31-32</ref>。それだけにこの地位にある者の役割は重要であり、皇帝にとっては常に警戒を要する存在であった<ref name="豊田1994p60"/>。コンスタンティヌス1世は新たに軍事長官(''magister militum'')を設置し、職務内容を主として地方における徴税・司法・行政・郵便・経済などの分野に限って文官化を目論んだ<ref name="豊田1994p62">[[#豊田 1994|豊田 1994]], p. 62</ref><ref name="尚樹1999pp31_32"/>。 |
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枢密院の構成員となる高官職としては次のような役職が置かれた。コンスタンティヌス1世はディオクレティアヌス時代に置かれていた貨幣管理長官(''Rationaris summarum''{{refnest|group="注釈"|大清水の訳では財産管理官<ref name="ランソン2012p64">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 64</ref>。}})を{{仮リンク|恩賜伯|en|Comes sacrarum largitionum}}(''Comes sacrarum largitionum''{{refnest|group="注釈"|大清水の訳では帝室財務総監<ref name="ランソン2012p64"/>。}})に、皇帝領長官(''Rationaris rei privatae''{{refnest|group="注釈"|大清水の訳では帝室財産管理官<ref name="ランソン2012p64"/>。}})を皇帝領伯(''Comes rei privatae''{{refnest|group="注釈"|大清水の訳からは帝室財産総監となる<ref name="ランソン2012p64"/>。}})に改称し、収入や支出、皇帝の財産を管理させた<ref name="ランソン2012p64"/>。コンスタンティヌス1世はこの財務管理職の他にも各行政部門の長を設置し、更に各官庁を{{仮リンク|諸局長官|en|Magister officiorum}}(''Magister officiorum''{{refnest|group="注釈"|大清水の訳では官房長官<ref name="ランソン2012p64"/>。}}<ref name="諸局長官" group="注釈"/>)に統括させた。この役職はそのほかに、帝国の東半部では部隊の指揮権や要塞の管理など軍事的な役割を担うようにもなっている<ref name="尚樹1999pp31_32"/><ref name="ランソン2012p64"/>。これは強大化し過ぎた近衛長官へ対抗させるための処置でもあった<ref name="尚樹1999pp31_32"/>。 |
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==== 軍制改革 ==== |
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コンスタンティヌス1世は帝国の軍事組織に様々な改変を行った。ディオクレティアヌス時代にはローマ帝国の国境防衛は、国境に常駐する駐屯軍を主軸とし、皇帝が指揮する野戦軍は少数の連隊だけで構成され、必要に応じて国境から引き揚げた部隊を組み込んで補強するという体制がとられていたが、コンスタンティヌス1世は外敵の攻撃に柔軟に対応するべくこの国境の部隊を削減し国内の都市に駐屯させることでコミタテンセス(''Comitatenses''、野戦機動軍)と呼ばれる大規模な常備野戦軍を組織し<ref name="ジョーンズ2008p218">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 218</ref><ref name="尚樹1999p35">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 35</ref>、その指揮官として歩兵軍司令官(''Magister peditum'')と騎兵軍司令官(''Magister equitum'')という地位が作られた<ref name="ジョーンズ2008p218"/><ref name="尚樹1999p35"/><ref name="ブルクハルト2003p477">[[#ブルクハルト 2003|ブルクハルト 2003]], p. 477</ref>。そしてこの軍は河川監視軍(''Ripenses'')や辺境防衛軍(''Limitanei'')と名付けられた国境軍よりも上位の存在とされた<ref name="ジョーンズ2008p218"/>。この国境軍の指揮体系もディオクレティアヌス以来の再編を引継ぎ、国境全体を複数の方面に分けて各々を公(''Dux''、方面軍司令官)の管轄とする体制を完成させた<ref name="ジョーンズ2008p218"/>{{refnest|group="注釈"|コンスタンティヌス1世がこのような新たな戦略に基づいて軍団を再編したことは従来より通説となっている。しかしランソンは、この新たな編成は混乱していた階級秩序を正し、野戦機動軍、河川監視軍、アラレスやコホルタレスといった最下層の軍、という3段階のヒエラルキーを軍に確立することを主眼とした規定上の改革であり、地理的・戦略的な要素は無かったと主張している<ref name="ランソン2012pp74_75">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], pp. 74-75</ref>。}}。 |
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また、コンスタンティヌス1世は312年にローマを占領した後、アウグストゥス以来精鋭部隊として組織されていた[[プラエトリアニ|近衛軍団]](''praetorianae'')-近衛歩兵隊と{{仮リンク|エクィティス・シンギュラレス・アウグスティ|label=近衛騎兵隊|en|Equites singulares Augusti}}(''Equites singulares'')-を解体し、新たにスコラ隊(''Score Paratinae''、近衛軍{{refnest|group="注釈"|大清水の訳では宮廷警護隊<ref name="ランソン2012p73">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 73</ref>。}})を置いた<ref name="ジョーンズ2008p220">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 220</ref>。この部隊はその後、諸局長官の指揮下に置かれ、精鋭部隊として、また政治的支配の手段としてコンスタンティヌス1世の支配に貢献した<ref name="尚樹1999p35"/>。これとは別にドメスティクス伯(''Comes domesticorum'')によって率いられる皇帝護衛担当の親衛隊(''Domesticus'')もあった<ref name="尚樹1999p35"/><ref name="尚樹2005pp29,31,48">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], pp. 29, 31, 48</ref>。この部隊は特別の任務につき、その構成員は将来の士官候補生のような存在となった<ref name="尚樹1999p35"/>。 |
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この一連の改革の進展によって近衛長官(''Praefectus praetorio'')の軍事的性質は大きく削減され、その職務は文民行政や新兵の徴収などに限られて行くことになり<ref name="ジョーンズ2008p218"/>、また例外は残るものの文官と武官が分離された<ref name="尚樹1999p35"/>。 |
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そして、後世から見て重要な影響を与えたかもしれないコンスタンティヌス1世の軍事上の処置に[[ゲルマン人]]を始めとした「蛮族」の大規模な徴兵がある。既に306年に父親から引き継いだ野戦軍をマクセンティウスとの戦いに十分な規模にするために蛮族の捕虜を組み込んでいた<ref name="ランソン2012p72">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 72</ref>。こうした処置はコンスタンティヌス1世が初めてだったわけではないが、彼のゲルマン人の動員は過去のものよりも大規模なものであった<ref name="ランソン2012p72"/><ref name="ジョーンズ2008p220"/>。スコラ隊もゲルマン人の兵たちを中心に構成されており、ゲルマン人を軍司令官として、更には執政官([[コンスル]])として任命することもした<ref name="ジョーンズ2008p220"/>。こうした処置はローマ帝国を蛮族で汚したものとして、後の皇帝[[ユリアヌス]]や異教徒の歴史家[[ゾシモス]]らから非難されている<ref name="ランソン2012p72"/><ref name="ジョーンズ2008p220"/>。ただし、少なくともコンスタンティヌス1世の時代には新たに軍団に導入されたゲルマン人たちはローマの指揮官に、またはゲルマン人であったとしてもその部族と特別の関係を有していない指揮官によって統率されており、当時においてローマ帝国に重大な問題は引き起こさなかった<ref name="ジョーンズ2008p220"/>。ゲルマン人の軍事力の利用がローマ帝国の統一にとって実際的な問題となるのは、彼らが「部族丸ごと」[[フォエデラティ|同盟軍]](''Foederati'')として組み込まれるようになってからである<ref name="ジョーンズ2008p220"/>。 |
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==== 経済・財政 ==== |
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[[ファイル:Constantinus.JPG|thumb|コンスタンティヌス1世のコイン。]] |
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経済におけるコンスタンティヌス1世の特筆すべき事業は[[ソリドゥス金貨]]の発行であった<ref name="尚樹1999p34">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 34</ref>。ソリドゥスと呼ばれる金貨はディオクレティアヌス時代には既に発行されていたが、コンスタンティヌス1世は新たな標準規格でこれを発行し、信用度の高い共通通貨として確立した<ref name="尚樹1999p34"/>。初の発行はまだ統一する前の309年にトリーアで発行したもので、その後支配領域の拡大と共に各地で発行するようになった<ref name="尚樹1999p34"/><ref name="ジョーンズ2008p221">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 221</ref>。これはギリシア語で[[ノミスマ]]と呼ばれ、更にソリドゥスの2分の1であるセミシス、3分の1であるトレセミシスがあった<ref name="尚樹1999p34"/>。 |
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信用度の高い貨幣の流通はローマ経済に重大な影響を与え、また後世の税制の改革にも繋がった。徴税や軍団への支給は当時なお物納・現物支給を主としていたが、貨幣の流通とともにコンスタンティヌス1世は新たな{{仮リンク|コッラティオ・ルストラリス|en|Collatio lustralis}}(''Collatio lustralis''、5年税{{refnest|group="注釈"|ランソン、およびスカーの解説では会計年度(4年ごと、''lustrum'')ごとに徴収されたとなっている。また、制定したのはリキニウスである可能性もあるという<ref name="ランソン2012p81">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 81</ref><ref name="スカー1998p274">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 274</ref>。本文では尚樹、およびジョーンズの著書を訳した戸田が5年税という訳語を用いていることから、それに従った。}})を導入した<ref name="尚樹1999p34"/><ref name="ランソン2012p81"/>。これは商人や金融業者(実質的には農民以外の全ての人々を含む)に5年毎に金貨(後に銀貨も加えられた)による納税を定めたもので、これはローマ帝国の財政が5世紀以降金貨によって運営されるようになるその端緒となり、後世には軍団への支給や臨時の恩典の支出にも金貨が用いられるようになっていった<ref name="尚樹1999p34"/><ref name="ジョーンズ2008pp221_222"/>。コンスタンティヌス1世に端を発するローマ帝国のノミスマは[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)時代の1030年代まで高純度を保ち続け、最も信頼される標準貨幣として地中海世界で使用され続けることになる<ref name="尚樹1999p34"/><ref name="ブウサール1973p52">[[#ブウサール 1972 |ブウサール 1972]], p. 52</ref>。 |
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財政面ではコンスタンティヌス1世は多額の支出を厭わなかった。『{{仮リンク|皇帝伝要約|en|Epitome de Caesaribus}}(''Epitome de Caesaribus'')』では、彼の治世最後の3分の1は「浪費の時代」と描写されており<ref name="ランソン2012p83">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 83</ref>、[[20世紀]]の学者ジョーンズは「過剰に気前が良かった」と評している<ref name="ジョーンズ2008p222">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 222</ref>。治世前半、統一前にはコンスタンティヌスス1世の課税は寛容であるとも言えるものであったが<ref name="ランソン2012p80">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 80</ref>、上述のソリドゥス金貨の発行の他、コンスタンティノープルの建設、教会堂の建設、コンスタンティノープル市民へのパンの配給、恩典としての年金や皇帝領の贈与などが盛んに行われ、この結果として財政は短期間のうちに逼迫した<ref name="ジョーンズ2008p222"/>。そのため、後半には半ば略奪に近いものを含めた過酷な徴税が行われた<ref name="ランソン2012p80"/><ref name="ジョーンズ2008p222"/>。コンスタンティヌス1世の大事業を支えるための財源は当初は打倒したリキニウスが貯めこんでいた財貨であった<ref name="ランソン2012p82">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 82</ref>。短期間にそれを使い果たした後は、出費を賄うための財源は第一には異教の神殿からの没収、第二には新たな課税であった<ref name="ジョーンズ2008p222"/>。前述の5年税の制定もこの流れの中から出てきたものであり、314年から318年の間に定められた<ref name="ジョーンズ2008p222"/><ref name="ランソン2012p81"/>。また、325年頃には[[元老院]]議員に対して地所の保有量に基づく金納の税金(土地税)を定め<ref name="ジョーンズ2008p222"/><ref name="ランソン2012p80"/>、さらに各地の都市が集めていた地方税を国庫に編入した可能性もある<ref name="ジョーンズ2008p222"/>。こうした増税は当然のことながら評判は悪く、税額の公正さを維持することも困難であった<ref name="ジョーンズ2008p223">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 223</ref><ref name="ランソン2012p82"/>。とりわけ5年税は、5年毎に一度に課税されたために、資産的余裕が無い人々にとって納税の年は「恐るべき年」となった<ref name="ジョーンズ2008p223"/>。 |
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==== 立法・社会 ==== |
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コンスタンティヌス1世はその治世の間に、特に西方の支配者となった治世半ばの314年から319年頃を中心に数多くの法律を定めた<ref name="ランソン2012p88">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 88</ref>。法律の運用を強化するためにその運用原則、国法、[[勅令]]、[[勅答]](請願に対する返答)、[[覚書]]といった法的文書の効力や優先順位が定められた<ref name="ランソン2012p89">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 89</ref>。 |
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裁判を健全性の維持のために、密告や中傷の禁止、手続き期限の厳密化が定められ<ref name="ランソン2012p89"/>、属州総督の裁定で収まらない時は皇帝への上訴審をすべきことも通達された<ref name="ランソン2012p89"/>。役人の腐敗については厳罰をもってあたり、多くの罪状に死刑が適用された<ref name="ランソン2012p89"/><ref name="ジョーンズ2008p223"/>。これは常態化していた役人への付け届けの習慣を改めようとしたコンスタンティヌス1世の方針と関係していた。当時、訴訟を起こす場合にはまず官吏への贈り物が必要であり、コンスタンティヌス1世はこうした慣習を激しく非難して改めようとした<ref name="ジョーンズ2008p223"/>。そして属州総督たちに対して、それぞれの任地でこうした慣行を放置するならば同様の刑罰を与えるという脅しをも加えた<ref name="ジョーンズ2008p224">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 224</ref>。しかし、こうした汚職対策が大きな成功を収めることはなかった<ref name="ジョーンズ2008p223"/>。こうした官吏の服務規程や収賄に関する規定のほか、郵便、ソリドゥス金貨の偽造・私鋳の禁止、家族・相続関連の規定、退役兵の特権や一時金の支給、身分など国家・社会全般にわたって様々な法が定められている<ref name="ランソン2012pp91_92">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], pp. 91-92</ref><ref name="ジョーンズ2008p224"/>。 |
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コンスタンティヌス1世はキリスト教を重視したが、一連の立法に対するキリスト教の影響を明確にそれと断定すること困難である。しかし、中には恐らくコンスタンティヌス1世の信仰に影響された内容を含むものも散見される<ref name="ランソン2012p96">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 96</ref><ref name="ジョーンズ2008p224"/>。はっきりとキリスト教の影響と見做せるものの1つには死刑の際の十字架刑の廃止が挙げられる<ref name="ランソン2012p96"/>。同じくキリスト教と関係するであろうものに古代ローマにおいて伝統的娯楽であった[[剣闘士]]競技の禁止規定(325年)があり、これによって従来闘技場送りにされていた犯罪者たちは代わりに鉱山送りにされるようになった(ただし帝国の西方では剣闘士競技が実際に終了するのは100年あまりも後のことである)<ref name="ジョーンズ2008p225">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 225</ref>。また、[[結婚]]・[[家族]]の神聖性を重視する規定も恐らくキリスト教的価値観から現れたものであろう。コンスタンティヌス1世のは離婚の規定を厳格化し、重大な犯罪や売春などの嫌疑によらない限り離婚が許可されなくなった<ref name="ジョーンズ2008p225"/>。他方ではイタリアやアフリカにおいて、貧しい両親が子供を売却することのないように公金から補助を与えることも命じられている。これもまた、同時代のキリスト教会の類例から影響を受けたものであると考えられる<ref name="ジョーンズ2008p225"/>。女性の「慎ましさ」を保護する法も定められ、いかなる契約においても夫が妻の代理人であるべきことを定める法律や、資産の差し押さえの際に財産の代わりに女性を連れ去ることを厳罰をもって禁止する法律も残されている<ref name="ジョーンズ2008p226">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 226</ref>。コンスタンティヌス1世の家族を重視する姿勢を明確に示すもう1つの法律は皇帝御料地が複数の賃借人によって分割された際の奴隷の家族離散を禁止する法律である<ref name="ジョーンズ2008p226"/>。ただしこれはコンスタンティヌス1世が奴隷制に対して何らかの否定的見解を持っていたことを示すものではない。彼が定めた他の法律において奴隷や[[コロヌス]](小作農)に対する規定は過酷であり、主人による拷問の末に奴隷が死んだとしても罪とはされなかったし、奴隷・コロヌスの逃亡や反抗についても厳罰が加えられた<ref name="ジョーンズ2008p226"/>。 |
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== キリスト教 == |
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=== 改宗 === |
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コンスタンティヌス1世は、初めての[[キリスト教徒]]ローマ皇帝として有名である。それ以前のローマ帝国では、[[ネロ]]帝(54年-68年)のキリスト教徒迫害に始まり<ref name="松本2009p32">[[#松本 2009|松本 2009]], p. 32</ref>{{refnest|group="注釈"|ただし、ネロ帝によるキリスト教徒への弾圧はキリスト教の信奉者それ自体を理由にしたものではなく、キリスト教への弾圧というよりは、政治的な理由によるものであった<ref name="松本2009p32"/>。}}、[[ディオクレティアヌス]]帝(284年-305年)の[[大迫害]]まで<ref name="松本2009pp82_84">[[#松本 2009|松本 2009]], pp. 82-84</ref>、何度かキリスト教が迫害を受ける時期があった。そんな一部の時期を除くほとんどの間、キリスト教徒であることは黙認されていたが、発覚した場合は改宗を迫られ拒絶した者は処刑された。 |
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しかし、ローマの正帝の一人として実力を持っていたコンスタンティヌス1世は312年(と、言われる)頃に何らかの形でキリスト教を受け入れた<ref name="ジョーンズ2008p84">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 84</ref>伝説によると、コンスタンティヌスが改宗したのは、神の予兆を見たためと伝えられる。コンスタンティヌスは、312年にマクセンティウス軍と戦うためにミルウィウス橋に向かう行軍中に太陽の前に逆十字<ref group="注釈">シンボリスム的解釈では、十字(架)が太陽の象徴であるのに対し、逆さ十字(架)は金星(明けの明星)の象徴である。</ref>とギリシア文字 Χ と Ρ(ギリシア語で「キリスト」の先頭2文字)が浮かび、並んで「この印と共にあれば勝てる」というギリシア語が浮かんでいるのを見た<ref name="ヴェーヌ2010pp7_8">[[#ヴェーヌ 2010|ヴェーヌ 2010]], pp. 7-8</ref>。この伝説は[[ラクタンティウス]]などいくつかの資料で詳しく伝えられているが、4-5世紀頃の文献に多く現れる神の予兆や魔法などの話のひとつである。この後のローマ軍団兵の盾にはそれを模った紋章が描かれたという。 |
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当時キリスト教はローマ帝国の領内に強固に根付きつつあったが、キリスト教徒ローマ皇帝の登場-コンスタンティヌス1世の改宗-はその当然の帰結として現れたわけではない{{refnest|group="注釈"|[[ピーター・ブラウン]]などはコンスタンティヌス1世の改宗はその頃までにキリスト教がローマの支配階級にとって重要な宗教になっていたためであると描写している<ref name="ブラウン2016p76">[[#ブラウン 2016|ブラウン 2016]], p. 76</ref>。しかし、日本の学者[[豊田浩志]]は、当時の史料において元老院身分の中に登場するキリスト教徒を抽出し、支配階層のキリスト教への改宗が4世紀、コンスタンティヌス1世の時代以降もなお限定的であったことを具体的な数値と共に示しており、またヴェーヌおよびジョーンズの解説も豊田のそれと整合的であるため<ref name="ヴェーヌ2010p2">[[#ヴェーヌ 2010|ヴェーヌ 2010]], p. 2</ref><ref name="ジョーンズ2008p84"/>、本文の説明はこの見解に従う<ref name="豊田1994pp89_92">[[#豊田 1994|豊田 1994]], pp. 89-92</ref>。}}。コンスタンティヌス1世の改宗の時点で、ローマ帝国内のキリスト教徒比率は多く見積もっても10パーセント程度でしかなかったと見られているし<ref name="ヴェーヌ2010p2"/>、また[[A.H.M.ジョーンズ|ジョーンズ]]によれば<ref group="注釈">[[豊田浩志]]の紹介・要約による。</ref>、キリスト教徒は都市部に偏在しており、主要な支持基盤は下層・中産階級を構成する手工業者や書記。小売商、商人、下級都市参事会員などであったという<ref name="豊田1994pp85_86">[[#豊田 1994|豊田 1994]], pp. 85-86</ref>。 |
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==== 改宗についての諸見解 ==== |
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コンスタンティヌス1世の改宗が312年、またはその頃に行われたということについては一般的に受け入れられている<ref name="ジョーンズ2008p84"/><ref name="ヴェーヌ2010p70"/>。しかしその動機、つまりは有効利用可能な組織を動員するための政治的動機から来る形式に過ぎないものであったのか、宗教的な真剣さを持ったものだったのか、といったことについてははっきりわかることは何もない<ref name="ジョーンズ2008p84"/><ref name="ヴェーヌ2010p70"/>。少なくとも彼は当初は自分の宗教的姿勢に曖昧さを維持し続け、公的な文章においてはキリスト教徒もその他の宗教者も都合よく解釈可能な表現を用いることを常としていた<ref name="ランソン2012p105"/>{{refnest|group="注釈"|ヴェーヌはコンスタンティヌス1世の改宗についてその内心を知ることは不可能であり、それを推し量ることは無意味であると言う。彼によればその動機とは「心理学者たちが語るところの、あの開くことのできない『ブラックボックス』(もしくは、もしひとが信者なら、『助力の恩恵〔神の超自然の助け〕』)のうちに見いだされるものなのだ。宗教的な感情を覚えるとはひとつの情動であり、ある存在、ある神が実在するというむき出しの事実を信じることは説明不可能なままにとどまる表象行為なのである。」という<ref name="ヴェーヌ2010p70"/>。}}。 |
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動機を推測する上ではっきり言えることは、キリスト教が当時既に取るに足らないほど小さな宗教ではなく、ローマの知的階級の考察の対象になるほどには大きく、関心を持たれる思想となっていたことである<ref name="ランソン2012pp18,19_20">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], pp. 18, 19-20</ref>。また、現代の歴史家の中にはヴェーヌのように、当時のキリスト教が異教に対して精神性・哲学・倫理などの面で優越性を備えていたと考える人物もいる<ref name="ランソン2012pp18,19_20"/>。しかし一方で、前述の通りその数は多数派と呼ぶには程遠く、信者の多くは中産階級以下の人々であり政治的・社会的に無力であった<ref name="ジョーンズ2008p84"/>。上流階級たる元老院身分、騎士身分(''equites'')、都市参事会員層の信徒は極めて少数であり、元老院身分におけるキリスト教の勢力は3世紀後半ですらほとんど皆無であったし<ref name="豊田1994pp88_89">[[#豊田 1994|豊田 1994]], pp. 88-89</ref><ref name="ジョーンズ2008p84"/>、とりわけ軍隊はその大半が非キリスト教徒であり、属州の前線に近い都市を含めて東方由来の[[密儀宗教]]、[[ミトラス教]]が流行していた<ref name="ジョーンズ2008p84"/><ref name="小川1993pp189,222_227">[[#小川 1993|小川 1993]], pp. 189, 222-227</ref>。コンスタンティヌス1世が最後まで配慮を続けた異教の神、不敗太陽神({{仮リンク|ソル・インウィクトゥス|en|Sol Invictus|label=ソル}})はミトラス教の神[[ミトラス]](ミトラ)の神性を表す称号の1つである<ref name="小川1993p219">[[#小川 1993|小川 1993]], p. 219</ref>。 |
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また、コンスタンティヌス1世は312年以前から明確にキリスト教に対して好意的であったが、一方でこの時期に彼がキリスト教徒であったと証言する古代の著作家は存在せず、コンスタンティヌス1世に向けて歓呼の声をあげる人々は、彼を[[ユピテル]]を始めとしたローマの神々に擬することを躊躇していない<ref name="ジョーンズ2008p85"/>。古代の歴史家においても例えば、異教徒ゾシモスとキリスト教徒エウセビオスの記録はそれぞれに矛盾があり、これらが政治的動機と宗教的動機についての近現代の学者たちの様々な見解の元となった<ref name="尚樹2005p42">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 42</ref>。 |
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[[ヤーコプ・ブルクハルト]]は「野心と権勢欲が一刻の平穏の時も与えないような天才的人間においては、キリスト教と異教、意識的信仰と不信仰ということは全然問題になりえない。このような人間はじつにその本質において無宗教なのである」と述べ、コンスタンティヌス1世のキリスト教に対する姿勢の政治的動機を強調する<ref name="ブルクハルト2003p409">[[#ブルクハルト 2003|ブルクハルト 2003]], p. 409</ref><ref name="尚樹2005p42"/>。他方、ジョーンズはコンスタンティヌス1世が当時キリスト教が保持していた政治力の乏しさから「キリスト教徒の好意など得る価値はほとんどなく、そしてそれを得たければ、単に彼らに寛容であることによってえられたはずである」と評し<ref name="ジョーンズ2008p84"/>、ヴェーヌはコンスタンティヌス1世がキリスト教という前衛的な新しい宗教に惹かれ、また君主の宗教として「豪奢を誇示」するのに相応しいと感じたことは十分あり得ることとしている<ref name="ヴェーヌ2010pp71_74">[[#ヴェーヌ 2010|ヴェーヌ 2010]], p. 71-74</ref>。そして「コンスタンティヌスをただ計算高い政治家としか見ない歴史家はさして深く事態を見きわめられないだろう」と述べ、社会的・経済的な要素を重視する現代的観点から判断すべきではないとする<ref name="ヴェーヌ2010pp71_74"/>。 |
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いずれにせよ重要な事実は、コンスタンティヌス1世の改宗以降、ほとんど全てのローマ皇帝がキリスト教徒であったことであり、コンスタンティヌス1世のキリスト教改宗は歴史上最も重大な事件の1つであった。ヴェーヌは「もしコンスタンティヌスがいなかったなら、キリスト教はひとつの前衛的宗派にとどまっていたことだろう」と評する<ref name="ヴェーヌ2010p4">[[#ヴェーヌ 2010|ヴェーヌ 2010]], p. 4</ref>。 |
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=== 後世における影響 === |
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のちに「[[コンスタンティヌスの寄進状]]」という文書が偽造され、ヨーロッパ史に影響を及ぼした。 |
のちに「[[コンスタンティヌスの寄進状]]」という文書が偽造され、ヨーロッパ史に影響を及ぼした。 |
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「ノウァ・ローマ」と名づけられた後のコンスタンティノポリスも美しい都ではあったが、戦乱後のローマにはそのような華美な都を建設するだけの財力はなかったので、そこに設置された彫刻などの多くはローマ市や各地にあったものを撤去して移送しただけのものであった。また、コンスタンティヌス1世は農民が生まれた土地から離れてはならないと定めることによって都市部への人口の流入を防ぎ、財政収益の安定を図った。これは後世の[[封建制]]の始まりとも言えるが、皇帝の権威を高めるためにキリスト教と結びつき華麗な式典を行った一方で、農村では重税に喘ぐ農民たちの姿があった。さらに、豪華な宮廷などの東方化に伴い[[宦官]]もはびこるようになる。 |
「ノウァ・ローマ」と名づけられた後のコンスタンティノポリスも美しい都ではあったが、戦乱後のローマにはそのような華美な都を建設するだけの財力はなかったので、そこに設置された彫刻などの多くはローマ市や各地にあったものを撤去して移送しただけのものであった。また、コンスタンティヌス1世は農民が生まれた土地から離れてはならないと定めることによって都市部への人口の流入を防ぎ、財政収益の安定を図った。これは後世の[[封建制]]の始まりとも言えるが、皇帝の権威を高めるためにキリスト教と結びつき華麗な式典を行った一方で、農村では重税に喘ぐ農民たちの姿があった。さらに、豪華な宮廷などの東方化に伴い[[宦官]]もはびこるようになる。 |
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またコンスタンティヌス1世がキリスト教に帰依した |
またコンスタンティヌス1世がキリスト教に帰依したことも政略にキリスト教を利用しようとした側面が非常に大きい。西ローマを治めるコンスタンティヌス1世がキリスト教に対して寛容な政策をとることで、ライバルのリキニウスとキリスト教徒との折り合いを悪くすることが目的であったといわれる。また、「[[カエサルのものはカエサルに]]」という言葉に示されるように、定められた現世の運命を受け入れることを是とするキリスト教の教義は相次ぐ内乱によって弱体化した皇帝の権威を強化するのに非常に適していた。キリスト教は東洋における[[儒教]]のような役割を果たしたとされる。 |
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コンスタンティヌス1世は[[第1ニ |
コンスタンティヌス1世は[[第1ニケーア公会議]]で[[アレクサンドリアのアタナシオス|アタナシウス派]]と[[アリウス派]]のどちらを正当とするかの論争に決着を付けたが、彼自身はそれらの教義の違いを明確には理解しておらず、判断の基準となったのはそれぞれの支持者の数だけであったという。 |
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ローマ皇帝でありながらローマを軽視したコンスタンティヌス1世に少なからず反感を抱く者も多く、キリスト教徒でありながら神格化されたのも、それに対する市民のささやかな反抗であったとも言われる。 |
ローマ皇帝でありながらローマを軽視したコンスタンティヌス1世に少なからず反感を抱く者も多く、キリスト教徒でありながら神格化されたのも、それに対する市民のささやかな反抗であったとも言われる。 |
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== 年譜 == |
== 年譜 == |
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* [[ |
* [[270年]]年頃 - 誕生。当時、父コンスタンティウス・クロルスはまだ士官であった。 |
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* [[292年]] - 宮廷に送られ、ディオクレティアヌスや後に東の正帝となった[[ガレリウス]](在位:[[305年]] - [[311年]])に従軍する。 |
* [[292年]] - 宮廷に送られ、ディオクレティアヌスや後に東の正帝となった[[ガレリウス]](在位:[[305年]] - [[311年]])に従軍する。 |
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* [[306年]] - ガレリウスの下から、西の正帝でブリタンニア滞在中の父クロルス(在位:[[305年]] - [[306年]])のところへ向ったが、クロルスが死去。ガレリウスの部下[[フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス|セウェルス]]が西の正帝となり、コンスタンティヌスは副帝となった。 |
* [[306年]] - ガレリウスの下から、西の正帝でブリタンニア滞在中の父クロルス(在位:[[305年]] - [[306年]])のところへ向ったが、クロルスが死去。ガレリウスの部下[[フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス|セウェルス]]が西の正帝となり、コンスタンティヌスは副帝となった。 |
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=== 出典 === |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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=== 日本語文献 === |
=== 日本語文献 === |
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* 『[[エウセビオス]] コンスタンティヌスの生涯』 秦剛平訳、[[京都大学学術出版会]]〈西洋古典叢書〉、2004年 |
* 『[[エウセビオス]] コンスタンティヌスの生涯』 秦剛平訳、[[京都大学学術出版会]]〈西洋古典叢書〉、2004年 |
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* {{Cite book |和書 |author=[[青柳正規]] |title=皇帝たちの都ローマ |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公文庫]] 1100 |date=1992-10 |isbn=978-4-12-101100-8 |ref=青柳 1992}} |
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* 『[[ガレノス]] 自然の機能について』 [[内山勝利]]編、種山恭子訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、1998年 |
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* [[大澤武男]] 『コンスタンティヌス ユーロの夜明け』 [[講談社]]、2006年 |
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* {{Cite book |和書 |author=[[井上浩一]] |title=生き残った帝国ビザンティン |publisher=[[講談社]] |series=講談社学術文庫 |date=2008-3 |isbn=978-4-06-159866-9 |ref=井上 2008}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[井上文則]] |title=軍人皇帝のローマ |publisher=[[講談社]] |series=講談社選書メチエ |date=2015-5 |isbn=978-4-06-258602-3 |ref=井上 2015}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[小川英雄]] |title=ミトラス教研究 |publisher=[[リトン]] |date=1993-2 |isbn=978-4-947668-05-9 |ref=小川 1993 }} |
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* {{Cite book |和書|author=[[加藤磨珠枝]]| author2=[[益田朋幸]]|title=中世1 キリスト教美術の誕生とビザンティン世界 |date=2016-12 |publisher=[[中央公論新社]] |isbn=978-4-12-403592-6 |series=西洋美術の歴史 | ref=加藤, 益田 2016}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[木村凌二]] |chapter=11 地中海手国の変貌 |title=ギリシアとローマ |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |pages=411-435 |series=世界の歴史 5 |date=1997-10 |isbn=978-4-12-403405-9 |ref=木村 1997 }} |
* {{Cite book |和書 |author=[[木村凌二]] |chapter=11 地中海手国の変貌 |title=ギリシアとローマ |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |pages=411-435 |series=世界の歴史 5 |date=1997-10 |isbn=978-4-12-403405-9 |ref=木村 1997 }} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[ |
* {{Cite book |和書 |author=[[尚樹啓太郎]] |title=ビザンツ帝国史 |publisher=[[東海大学|東海大学出版会]] |date=1999-2 |isbn=978-4-486-01431-7 |ref=尚樹 1999 }} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[尚樹啓太郎]] |title=ビザンツ帝国の政治制度 |publisher=[[東海大学|東海大学出版会]] |date=2005-5 |isbn=978-4-486-01667-0 |ref=尚樹 2005 }}(主に役職の原語名の確認に使用) |
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* {{Cite book |和書 |author=[[豊田浩志]] |title=キリスト教の興隆とローマ帝国 |publisher=[[南窓社]] |series=キリスト教歴史双書 10 |date=1994-2 |isbn=978-4-8165-0130-2 |ref=豊田 1994}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[芳賀京子]] |author2=[[芳賀満]]|title=古代1 ギリシアとローマ、美の曙光 |date=2017-1 |publisher=[[中央公論新社]] |isbn=978-4-12-403591-9 |series=西洋美術の歴史 | ref=芳賀ら 2017}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[松本宣郎]] |title=キリスト教の歴史(I)|publisher=[[山川出版社]]|series=宗教の世界史|date=2009-8 |isbn=978-4-634-43138-6 |ref=松本 2009}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[ジャック・ブウサール]] |translator=[[井上泰男]] |title=シャルルマーニュの時代|date=1973-8 |publisher=[[平凡社]] |series=世界大学選書 |isbn= |ref=ブウサール 1973}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[ヤーコプ・ブルクハルト]] |translator=[[新井靖一]] |title=コンスタンティヌス大帝の時代 衰微する古典世界からキリスト教中世へ |publisher=[[筑摩書房]] |date=2003-3 |isbn=978-4-480-84714-0 |ref=ブルクハルト 2003}} |
* {{Cite book |和書 |author=[[ヤーコプ・ブルクハルト]] |translator=[[新井靖一]] |title=コンスタンティヌス大帝の時代 衰微する古典世界からキリスト教中世へ |publisher=[[筑摩書房]] |date=2003-3 |isbn=978-4-480-84714-0 |ref=ブルクハルト 2003}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[エドワード・ギボン]] |translator=[[中野好夫]] |title=ローマ帝国衰亡史 3 |publisher=[[筑摩書房]] |date=1996-2 |isbn=978-4-480-08263-3 |ref=ギボン 1996 }} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[A.H.M.ジョーンズ]] |translator=[[戸田聡]] |title=ヨーロッパの改宗 コンスタンティヌス〈大帝〉の生涯 |publisher=[[教文館]] |date=2008-12 |isbn=978-4-7642-7284-2 |ref=ジョーンズ 2008}} |
* {{Cite book |和書 |author=[[A.H.M.ジョーンズ]] |translator=[[戸田聡]] |title=ヨーロッパの改宗 コンスタンティヌス〈大帝〉の生涯 |publisher=[[教文館]] |date=2008-12 |isbn=978-4-7642-7284-2 |ref=ジョーンズ 2008}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[クリス・スカー]] |translator=[[青柳正規]] |title=ローマ皇帝歴代誌 |publisher=[[創元社]] |date=1998-11 |isbn=978-4-422-21511-2 |ref=スカー 1998}} |
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* ポール・ヴェーヌ 『私たちの世界がキリスト教になったとき-コンスタンティヌスという男』 [[西永良成]]ほか訳、[[岩波書店]]、2010年 |
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* [[大澤武男]] 『コンスタンティヌス ユーロの夜明け』 [[講談社]]、2006年 |
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* {{Cite book |和書 |author=[[ベルトラン・ランソン]] |translator=[[大清水裕]] |title=コンスタンティヌス その生涯と治世 |publisher=[[白水社]] |series=文庫クセジュ 967 |date=2012-3 |isbn=978-4-560-50967-8 |ref=ランソン 2012}} |
* {{Cite book |和書 |author=[[ベルトラン・ランソン]] |translator=[[大清水裕]] |title=コンスタンティヌス その生涯と治世 |publisher=[[白水社]] |series=文庫クセジュ 967 |date=2012-3 |isbn=978-4-560-50967-8 |ref=ランソン 2012}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[ベルナール・レミィ]] |translator=[[大清水裕]] |title=ディオクレティアヌスと四帝統治 |publisher=[[白水社]] |series=[[文庫クセジュ]] 948 |date=2010-7 |isbn=978-4-560-50948-7 |ref=レミィ 2010 }} |
* {{Cite book |和書 |author=[[ベルナール・レミィ]] |translator=[[大清水裕]] |title=ディオクレティアヌスと四帝統治 |publisher=[[白水社]] |series=[[文庫クセジュ]] 948 |date=2010-7 |isbn=978-4-560-50948-7 |ref=レミィ 2010 }} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[ポール・ルメルル]] |translator=[[西村六郎]] |title=ビザンツ帝国史 |publisher=[[白水社]] |series=文庫クセジュ 870 |date=2003-12 |isbn=978-4-560-05870-1 |ref=ルメルル 2003}} |
* {{Cite book |和書 |author=[[ポール・ルメルル]] |translator=[[西村六郎]] |title=ビザンツ帝国史 |publisher=[[白水社]] |series=文庫クセジュ 870 |date=2003-12 |isbn=978-4-560-05870-1 |ref=ルメルル 2003}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[ポール・ヴェーヌ]] |translator=[[西永良成]] |translator2=[[渡名吉庸哲]] |title=「私たちの世界」がキリスト教になったとき コンスタンティヌスという男 |publisher=[[岩波書店]] |date=2010-9 |isbn=978-4-00-025774-9 |ref=ヴェーヌ 2010 }} |
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* E.R.ドッズ 『ギリシァ人と非理性』 岩田靖夫・水野一訳、[[みすず書房]]、初版1972年、復刊2007年ほか |
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* E.R.ドッズ 『不安の時代における[[異教]]とキリスト教』 井谷嘉男訳、[[日本基督教団]]出版局、1981年 |
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* [[ピーター・ブラウン |
* {{Cite book |和書 |author=[[ピーター・ブラウン]] |translator=[[宮島直機]] |title=古代末期の世界 ローマ帝国はなぜキリスト教化したか? 改訂新版|publisher=[[刀水書房]] |series= 刀水歴史全書 58|date=2016-6 |isbn=978-4-88708-354-7 |ref=ブラウン 2016 }} |
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* ピーター・ブラウン 『古代末期の形成』 足立広明訳、[[慶應義塾大学出版会]]、2006年 |
* ピーター・ブラウン 『古代末期の形成』 足立広明訳、[[慶應義塾大学出版会]]、2006年 |
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* ピーター・ブラウン 『古代から中世へ』 [[後藤篤子]]編訳、[[山川出版社]]〈YAMAKAWA LECTURES〉、2006年 |
* ピーター・ブラウン 『古代から中世へ』 [[後藤篤子]]編訳、[[山川出版社]]〈YAMAKAWA LECTURES〉、2006年 |
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== 外部リンク == |
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2019年3月31日 (日) 12:40時点における版
コンスタンティヌス1世 Constantinus I | |
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ローマ皇帝 | |
コンスタンティヌス1世の頭像(カピトリーノ美術館所蔵) | |
在位 |
306年7月25日 - 312年10月29日(西方副帝) 312年10月29日 - 324年9月19日(西方正帝) 324年9月19日 - 337年5月22日(全ローマの皇帝) |
全名 |
ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス (Gaius Flavius Valerius Constantinus) |
出生 |
270年頃、2月27日 モエシア属州ナイッスス (現 セルビア、ニシュ) |
死去 |
337年5月22日(65歳没) ニコメディア (現 トルコ、イズミット) |
配偶者 | ミネルウィナ |
ファウスタ(マクシミアヌスの娘) | |
子女 |
クリスプス コンスタンティヌス2世 コンスタンティウス2世 コンスタンス1世 コンスタンティナ(ハンニバリアヌス妃のちガッルス妃) ヘレナ(ユリアヌス妃) ファウスタ |
王朝 | コンスタンティヌス朝 |
父親 | コンスタンティウス・クロルス |
母親 | ヘレナ |
ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス(古典ラテン語:Gaius Flavius Valerius Constantinus ガーイウス・フラーウィウス・ウァレリウス・コーンスタンティーヌス、270年代前半の2月27日 - 337年5月22日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:306年 - 337年)。複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、専制君主制を発展させたことなどから「大帝」と称される。
ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を公認、その後の発展の政治的社会的基盤を用意したことから、正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会では、聖人とされている。記憶日は、その母太后聖ヘレナと共に6月3日。日本正教会では正式には「亜使徒聖大帝コンスタンティン」と呼称される。
1950年にギリシャで発行された旧100ドラクマ紙幣に肖像が使用されていた。
概略
ディオクレティアヌスの時代に西の副帝を務め、後に正帝(在位305年-306年)となったコンスタンティウス・クロルスの子として生まれたコンスタンティヌス1世は、312年に帝国の西の正帝となり、ディオクレティアヌス退位後の内乱を収拾して324年に帝国を再統一した。
330年には帝国東方の交易都市であるギリシア人の植民都市ビュザンティオン(後のコンスタンティノポリス、現イスタンブール)を建設した。統一された帝国の皇帝として、コンスタンティヌス1世は官僚制を整備し、属州における軍事指揮権と行政権を完全に分離するなどディオクレティアヌスが始めた専制君主制(ドミナートゥス)を強化した。経済・社会面では、ソリドゥス金貨を発行して通貨を安定させ、コロヌスの移動を禁止、身分を固定化することで農地からの収入安定を図った[1]。内政面では、ディオクレティアヌス帝までずっと盛んになる一方だったエクィテス(騎士)身分の重職への進出を停止し、かわりに形骸化しつつあった元老院を拡充させ、騎士身分や地方有力者を多数元老院議員に任命するとともに、これまで騎士身分のための職だった官職を元老院身分にまで解放した。これにより、経済・政治的に一大勢力を築いてきた騎士身分は栄達の道を閉ざされ、これ以降歴史から姿を消していくこととなった[2]。
宗教政策の面では、帝国の統一を維持するため寛容な政策を採り、たびたび迫害されていたキリスト教に信教の自由を与えて公認した。彼がキリスト教を公認したことは、後年キリスト教がローマ帝国領であった地中海世界全域へ浸透するきっかけとなる一方、教義に対する皇帝の介入を受けることにもつながった。
コンスタンティヌス1世時代の軍事の特徴としては、プラエトリアニ(近衛軍団)を解体して、コミタテンセス(野戦機動軍)と、辺境軍(辺境部隊、リミタネイ)とを明確に分離して設置したことがあげられる。辺境軍はその名の通り各地の辺境属州の国境に常駐して国境や地域の安全を守り、野戦軍はふだんは帝国の中心部に近い属州に常駐し、敵の大規模な侵入や外征などの際には主力となった。これは軍人皇帝時代より徐々に進められてきた政策であったが、ディオクレティアヌス時代にはこの戦略は修正され、辺境に従来の倍の兵を貼り付け国境で防衛する戦略に変わっていた。コンスタンティヌス1世は辺境の軍を分割して再び国境の辺境軍と機動軍である中央軍の体制に戻したうえで明確化し、この戦略はこの時代に確立された。[3]また、コンスタンティヌス1世はプラエトリアニの隊長であった近衛長官(プラエフェクトゥス・プラエトリオ)は称号は残したものの軍権を排除し文官職へ転換させた。
コンスタンティヌス1世自身は、キリスト教徒が多いビテュニア生まれのヘレナを母として生まれたのでもともとキリスト教に好意的であったと言われる。一時期ミトラ教に傾倒したが、晩年にはキリスト教の洗礼を受けた。正教会ではキリスト教徒であった母とともに「亜使徒」の称号を付与されて尊崇された。また、コンスタンティヌス1世は325年にキリスト教の歴史で最初の公会議(全教会規模の会議)である第1ニカイア公会議を開かせ、この会議でアタナシウス派が正統とされ、アリウス派が異端とされた。
コンスタンティノープルを首都とした東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では、彼と同じ名(ギリシア語形:コンスタンティノス)を持つ皇帝が多数即位した。東ローマ帝国はコンスタンティヌスが創始した専制君主制とキリスト教の信仰の上に成り立っていたため、その先駆者であるコンスタンティヌス1世を「最初のビザンツ皇帝」と呼ぶ歴史家もいる[誰?]。
生涯
出自
コンスタンティヌス1世、即ちフラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌスはモエシア属州のナイッスス(現:セルビアのニシュ)に生まれた[4][5]。誕生日は2月27日であるが、生年は明らかではなく現代の学者による推定は西暦270年から290年までの範囲に及ぶ[4][5]。誕生日がわかるのは後世この日が祝日とされたためである[4]。主にアウレリウス・ウィクトルやエウセビオスが残した年齢と死亡年、在位期間の記録に基づいて計算すると270年代前半の生誕となり、これが「慎重な見解」であるとされる[5]。しかし、その他の生年を導き出すことが可能な根拠もあり正確には不明である。コンスタンティヌス自身が自分が生まれた正確な年を知らなかった可能性も十分にある[6]。
父親はローマの将軍コンスタンティウス・クロルスであり、母親はその最初の妻ヘレナである[7]。後にコンスタンティヌス1世は父コンスタンティウスの出自をクラウディウス・ゴティクス帝(在位:268年-270年)と結び付けたが、これが真実である可能性はほとんど無い[7]。コンスタンティウスはまた、貴族出身ともされるが恐らくは農民であり一兵卒から成り上がったものであろう[4]。ビテュニアのドレパナ(小アジア北西部)出身とも伝えられる母ヘレナが卑賎な身分の出身であったことは広く知られており、彼女は給仕婦であったとも[4]ナイッススの宿屋で働いていたとも言われる[8]。彼女はコンスタンティウスが西ローマ帝国の皇帝マクシミアヌスの義娘であるフラウィア・マクシミアナ・テオドラと結婚する際、政略的な理由から離縁されたが、コンスタンティヌスは母ヘレナとの間に密接な関係を維持した[9]。コンスタンティウスとテオドラの間には6人の子供が生まれた。
コンスタンティヌスが生まれた当時、ローマ帝国は一般に3世紀の危機と呼ばれる政治・軍事的混乱の時代の終末期にあり、主にバルカン半島の農民(イリュリア人)などから成り上がった皇帝たち(軍人皇帝)が次々と即位していた[10][11][12]。父コンスタンティウスの出世もまたこの歴史的な経緯の中に位置付けられる[10]。この混乱はコンスタンティヌスが極若い頃に皇帝として即位したディオクレティアヌス帝(在位:284年-305年)によって収拾され、彼は293年までに2名の正帝(アウグストゥス)と2名の副帝(カエサル)によって帝国を統治する四分統治(テトラルキア)体制を確立した[13]。
皇帝即位前のキャリア
テトラルキア体制の成立と共に、西方の副帝にコンスタンティウス・クロルスが指名された(コンスタンティウス1世、副帝在位:293年-305年)[13]。この人事は西方の正帝マクシミアヌスよりも、東方の正帝でありテトラルキアの事実上の主催者であるディオクレティアヌスの意向によるところが大きかったと言われている[13]。副帝としてコンスタンティウスは目覚ましい活躍を見せ、皇帝を称していたカラウシウスからブーローニュを奪還しアッレクトゥス支配下のブリテン島も再征服した[14]。
父のコンスタンティウスが副帝として即位するとともに、コンスタンティヌスはディオクレティアヌスの下へと送られ、以降20年余りの間父親と会うことはなかった[15][16]。この処置はコンスタンティウスの誠実な行動を保証するための人質としてのものであったであろう[15][16]。各地の行政機関を監督するために、また外敵の侵入を退けるためにディオクレティアヌスは自分の担当区域を宮廷および軍隊と共に常に移動していた[17]。ディオクレティアヌスがいつ、どこへ赴いたのかは、彼自身が発布した勅法の末尾書きの研究によって概ね明らかにされている[17]。
コンスタンティヌスはこのディオクレティアヌスの移動する宮廷に随伴して各地を移動した。恐らく292年末から293年初頭にシルミウム(現:セルビア領スレムスカ・ミトロヴィツァ)で合流した後、ディオクレティアヌスと共にバルカン半島各地の都市を回って293年6月末に再びシルミウムに戻り、その翌年にはシンギドゥヌム(現:セルビア領ベオグラード)からドナウ川沿いに黒海へと赴き、ビュザンティオンを経て皇帝のお気に入りの住処であったニコメディアに行って越冬した[18]。295年5月にシリアのダマスカスに移動し、296年にはドミティウス・ドミティアヌスの反乱を鎮圧するためにエジプトに進軍し、8ヶ月の包囲の後アレクサンドリアを陥落させた[18]。297年の夏、サーサーン朝の侵攻に対応するため再びシリアに移動し、副帝ガレリウスの活躍もあってサーサーン朝との間にそれまでで最も有利な講和を結ぶことに成功した[18]。302年に再びディオクレティアヌスはエジプトに移動した[18]。少なくともコンスタンティヌスはこの302年までには「既に幼少期を過ぎ青年期に入っていた」とされる[18]。この間に彼は軍で実績を積み階級の階段を上っていた[19]。
303年の即位20周年の儀式の際、東の正帝ディオクレティアヌスは退位の意思を明らかにした[20]。彼は西の正帝マクシミアヌスにも同様に退位することを誓約させ、両正帝は305年に揃って退位した[20]。5月1日にニコメディアとメディオラヌム(現:ミラノ)で2皇帝の退位式典と即位式典が同時に行われ、新たな正帝としてコンスタンティウス・クロルスとガレリウスが即位した[21]。コンスタンティヌスはコンスタンティウス・クロルスの息子という出自、またその実績から副帝への即位が予想されており、当初はディオクレティアヌスも実際に血統原理に基づいて将来後継者となるべき副帝にコンスタンティウスの息子コンスタンティヌスと、マクシミアヌスの息子マクセンティウスを任命しようとしたという記録もある(ラクタンティウス)[20][22][23]。しかし実際にはフラウィウス・ウァレリウス・セウェルス(セウェルス2世)とマクシミヌス・ダイアという二人のイリュリア人が副帝に選ばれ、コンスタンティヌスはガレリウスの下に留め置かれた[24]。ディオクレティアヌスはテトラルキア体制における複数の皇帝の皇位継承という難題を武力衝突を引き起こすことなく実施することに成功した[25]。
その後、コンスタンティウス・クロルスがコンスタンティヌスを自分の下に呼び寄せた時、もう一人の正帝ガレリウスはこれを拒否した[26]。恐らくこれはガレリウスが、コンスタンティヌスの名声と野心、更にはコンスタンティウスが持つ正帝位の「世襲」を警戒したためであろう[26][27][28]。ある伝承によればガレリウスはコンスタンティヌスの死を望みサルマタイとの戦いに派遣していたという[27]。後にコンスタンティヌスの補佐役となるラクタンティウスの記録によれば、コンスタンティウスの度重なる要請に折れたガレリウスはある日コンスタンティヌスの出発を許可したが、その後に自分の決断を後悔しコンスタンティヌスを呼び戻すように命じた。しかしコンスタンティヌスは素早く出発しており、ガレリウスからの追撃を計略を用いて振り切って父の下へ到着したという[28]。
コンスタンティヌスはカレドニア(現在のスコットランド)のピクト人討伐の場であるブリタンニアに進発するため、ブーローニュにいたコンスタンティウスと合流した[28]。この遠征から戻った後、306年7月25日にエボラクム(現:ヨーク)でコンスタンティウスは急死した[28]。ここでコンスタンティウスが持っていた正帝位の継承はガレリウスによって決定されるべきものであったが、ブリタニアの兵士たちは即座にコンスタンティヌスを新たな正帝(アウグストゥス)として歓呼した[29]。この兵士たちによる皇帝への推戴が自然発生的なものであったのかどうかは不明であるが、複数の史料がコンスタンティヌスがその野心から帝位に昇り、兵士たちに働きかけたことを証言している[27]。
西方におけるテトラルキアの破綻
コンスタンティヌス1世はブリタンニアで推戴を受けた306年7月25日をその後の即位記念日として扱っていたが、ローマ帝国の公式文書においてはそうではなかった[30]。コンスタンティヌス1世はガレリウスに自分の正帝(アウグストゥス)即位承認を要求したが、ガレリウスはこの僭称行為を認めなかった[31]。しかし、コンスタンティヌス1世が現地の軍団を掌握している現状を鑑みて現状を追認するのが賢明であると判断し、コンスタンティヌス1世を副帝(カエサル)として承認した[31]。そしてそれまで副帝であったセウェルス2世を正帝とし、コンスタンティヌス1世はその下位であるとされた[31]。
その3ヶ月後、セウェルス2世がイタリアと更にはローマ市において課税査定を行い近衛兵の解体を宣言すると、イタリアの軍団は反乱を起こし、退位したマクシミアヌスの息子マクセンティウスが皇帝に担ぎ上げられた[31]。彼はコンスタンティヌス1世と同じようにガレリウスの承認を求めたが、マクセンティウスに対してはガレリウスは頑として譲らず、セウェルス2世に対してマクセンティウス討伐の命令を出した[31]。正帝(アウグストゥス)を自称したマクセンティウスはイタリアを迅速に支配下に収め、更にアフリカの属州も支配下に置き、また退位した父マクシミアヌスをもう一人の正帝として復位させる宣言を行った[32][33]。306年末か307年初頭にマクシミアヌスはコンスタンティヌス1世の支援を求めてガリアへ向かった[32][34]。
この老マクシミアヌスはかつて娘のテオドラをコンスタンティウス・クロルスに嫁がせていたため、コンスタンティヌス1世にとっては義理の祖父にあたる人物でもあった[34]。当時コンスタンティヌス1世は、父が進めていたブリタンニアの攻略を取りやめ、ガリアに戻って「フランク人」を攻撃して打ち破り、ライン川に橋を架けて「フランク人」の一派ブルクテリ族の根拠地を荒らすなどの勝利を収めていた[30]。マクシミアヌスはコンスタンティヌス1世にも自分の娘フラウィア・マクシミア・ファウスタとの結婚を持ちかけ、正帝位を差し出した[32]。ファウスタはマクセンティウスの妹であり当時7歳であった。この時コンスタンティヌス1世は深刻な決断を迫られていたと見られる。コンスタンティヌス1世は疑問の余地のなく正統な、かつ最も上位の正帝であるガレリウスから正式に副帝の地位を承認されていた[32]。しかし同時にガレリウスの自分に対する心証が良好ではないことを自覚してもいた[32]。一方のマクシミアヌスとマクセンティウスは明らかに僭称者であったが、それでもマクシミアヌスもかつてはディオクレティアヌス帝によって認められていた正帝の地位にあった人物であり、その行動は成功しているようにも思われたためである[32]。結局コンスタンティヌス1世はマクシミアヌスの申し出にのり、307年3月31日にファウスタと結婚した[32]。彼には既に息子クリスプスを産んでいた妻ミネルウィナがいたが、既に死別していたか、あるいはかつて父コンスタンティウスが行ったのと同じように離縁したと考えられる[34][注釈 1]。
このコンスタンティヌス1世の判断は当面において的中し、セウェルス2世はマクセンティウスに敗退してラヴェンナで降伏した[32][38]。その後ガレリウスが自らマクシミアヌスとマクセンティウス討伐に乗り出したが、この討伐も同じように失敗に終わり、ガレリウスはイタリアからの撤退に追い込まれた[39][38]。しかし、ガレリウスの脅威が去ると間もなくこの親子は権力を巡って反目するようになり、308年4月にはマクシミアヌスは軍に向かって息子マクセンティウスを非難する演説を行い、その地位を奪おうとした[39][37]。しかし兵士たちはマクシミアヌスよりもマクセンティウスの方を支持し、マクシミアヌスはコンスタンティヌス1世の下へ逃亡を余儀なくされた[39]。コンスタンティヌス1世は今度は義父マクシミアヌスにつくか、既にイタリア・アフリカ・ヒスパニアを手中に収めていたマクセンティウスにつくかの決断を再び迫られ、マクシミアヌスに組することを決定した[39]。
ここまでの経過で、ディオクレティアヌスが用意したテトラルキア体制はローマ帝国の東方では正帝ガレリウスと副帝マクシミヌス・ダイアによって維持されていたが、西方では全く形骸化しつつあった[40]。西方に副帝は一人もいなかった一方で、コンスタンティヌス1世、マクシミアヌス、マクセンティウスという3人の自称正帝が並び立っており、308年には北アフリカでマクセンティウスに対する反乱指導者となったルキウス・ドミティウス・アレクサンドロスがこの列に加わった[40]。コンスタンティヌス1世は同年の時点でガリアとブリタンニアを支配下に置いており、マクセンティウスはイタリアとシチリアを支配し、ドミティウス・アレクサンドロスが北アフリカを抑えていた[40]。マクシミアヌスには根拠地が無かった[40]。
マクシミアヌスとマクセンティウスの打倒
正式な正帝であるガレリウスはこの混乱を収拾するために308年11月11日、パンノニアのカルヌントゥムに隠棲していたディオクレティアヌスとかつて正規の西の正帝であったマクシミアヌスを招待し、会談の席を設けた[38]。ディオクレティアヌスは自らが再び皇帝となることを拒み、変わりにマクシミアヌスに再度退位するよう促した[39][41]。マクシミアヌスがこれを受け入れたことで、新たな四帝統治の枠組みの構築が模索された[41]。この会談でマクシミアヌスは正帝の称号に対する主張を取り下げ、コンスタンティヌス1世はガレリウスの正式な副帝であるということが確認された。ガレリウスの強い主張によって、もう1人の正帝位には彼の親しい友人であったウァレリウス・リキニアヌス・リキニウス が就任することになった[39][41][38]。そしてマクセンティウスとアレクサンドロスは僭称者として全く無視された[42][41]。
しかし、副帝マクシミヌス・ダイアはリキニウスが自分を飛び越えて正帝に昇進したことに納得せず自らも正帝の称号を要求した。翌年には「正帝の息子」という称号を与えるという妥協案をガレリウスは示したが、これを受け入れることは無かった[42]。そしてコンスタンティヌス1世もまた、一度名乗った正帝から副帝への「降格」を拒否した[42][38]。この会議の決定はコンスタンティヌス1世にとっては屈辱であり、自らの支配地にある造幣所で打刻される貨幣から正帝ガレリウスの名前を削って、自分の地位を譲るつもりがないことを示した[43]。結局コンスタンティヌス1世とマクシミヌス・ダイアは要求を押し通すことに成功し、310年にはガレリウスは副帝を廃止し両者とも正帝であることを宣言した[43][42]。
こうしてガレリウスから正式に正帝としての承認を得たコンスタンティヌス1世にとって、義父マクシミアヌスは最早内部の敵と化していた[42]。ディオクレティアヌスの意向に従って2度目の退位をした後もマクシミアヌスは旺盛な野心を維持し、コンスタンティヌス1世の権力を自らのものとする賭けに打って出た[42]。310年の春に「フランク人」(ブルクテリ族)討伐のためにコンスタンティヌス1世が出征に出ると、マクシミアヌスはコンスタンティヌス1世が戦死したと触れ回り、ガリア・ナルボネンシスのアルルで3度目の正帝即位を宣言するとともに各地の軍団に急使を送った[44]。コロニア(現:ケルン)でこの知らせを受けたコンスタンティヌス1世は強行軍で引き返し、マクシミアヌスが軍勢を集める前に攻撃を開始することに成功した[44]。マクシミアヌスはマッサリア(マルセイユ)に逃れたが、コンスタンティヌス1世はこれを追撃して310年の夏にはマクシミアヌスを死に追いやった[44][45]。
マクシミアヌスがコンスタンティヌス1世によって殺害されるとマクセンティウスは「突如再び親孝行な息子となり『父なる神帝マクシミアヌス』を称える貨幣を発行した[46]。」(ジョーンズ)。更にマクセンティウスはマクシミアヌスがコンスタンティヌス1世の父コンスタンティウス・クロルスの義父でもあったことをも利用して、「義兄弟」である「神帝コンスタンティウス・クロルス」を称揚し、暗にその後継者としてコンスタンティヌス1世が支配するガリアとブリタンニアに対する正当な権利を主張した[46]。
311年にはガレリウスも死去し、312年夏までにはマクセンティウスがドミティウス・アレクサンドロスを打倒して北アフリカを奪回したため、残存する「正帝」たちはコンスタンティヌス1世、マクセンティウス、マクシミヌス・ダイア、リキニウスの4人となった[46][43]。コンスタンティヌス1世はマクセンティウスに対抗するためにリキニウスとの同盟を模索し、異母姉妹コンスタンティアとリキニウスの婚約を進めた[46]。この動きに脅威を覚えたマクシミヌス・ダイアはマクセンティウスと同盟を結んだ[46]。間もなく、マクセンティウスはローマ市を含むイタリアの諸都市に設置されていたコンスタンティヌス1世の像や肖像画を破壊し、対決姿勢を鮮明にした[46]。後世の歴史家ゾシモスはこの時、コンスタンティヌス1世がゲルマン人やケルト人などを含め歩兵9万人、騎兵8,000騎を擁し、マクセンティウスは歩兵17万人、騎兵1万8千騎を集めたと記す[46][47]。しかし、現代の学者はこの数字は大幅に誇張されたものであると考えている[46][47]。同じくゾシモスの記録によれば、マクセンティウスはラエティア(現:スイス南部)を攻略してコンスタンティヌス1世とリキニウスの勢力圏を分断しようとしたが、コンスタンティヌス1世は機先を制しアルプスを越えてイタリアに入った[48][47]。セグシオ(現:スーザ)を攻略したのを皮切りに、メディオラヌム(現:ミラノ)を味方につけ、タウリノルム(現:トリノ)近郊、プレシャ、ヴェローナなど各地でマクセンティウスの軍勢を打ち破った[48][47]。
やはりゾシモスの記録によれば、コンスタンティヌス1世の軍団がローマ市に迫ると、ローマの民衆は敗北を重ねるマクセンティウスを嘲笑し、平静を失ったマクセンティウスは宣託にすがった。そして彼は自分自身の即位記念日(10月28日)に吉兆があると知ってその日に戦うべく進軍した[49]。こうしてティベレ川沿いで両者は戦い、コンスタンティヌス1世が完勝を収め、マクセンティウスを戦死させた[50][51]。312年10月29日、コンスタンティヌス1世はローマに凱旋し、マクセンティウスの首を槍の穂先に刺して行進することで古い支配者が世を去ったことをローマ市民に知らしめた[50]。ローマ元老院はコンスタンティヌス1世にマクシムス(偉大な/大帝)の称号を授けて称えた[51]。コンスタンティヌス1世のローマ入場にまつわる一連の出来事は碑文の情報からも確認できる[51]。
改宗
312年、コンスタンティヌス1世は何らかの形でキリスト教を受け入れた[52]。この点に関しては衆目は一致しているが、しかしそれが単なる政治上の都合からきたものであったのか、宗教的信念によるものだったのか、単なる儀式的なものであったのか、またどの程度真剣なものであったのか、様々な点において議論が続いている[52][53]。コンスタンティヌス1世の父コンスタンティウス・クロルスが治世中にキリスト教徒に対して寛大であったことから、既にコンスタンティウス・クロルスもキリスト教徒であったという説もある[54]。しかし、それを証明する証拠は皆無であり、少なくともコンスタンティヌス1世が当初からキリスト教徒ではなかったことは、ローマ古来の神々に対して彼が捧げた奉献や、コンスタンティヌス1世を称える演説家たちが彼をユピテル(ゼウス)になぞらえて褒めることが問題になっていないことによって明らかである[54][55]。
少なくとも312年のローマ入場の後、コンスタンティヌス1世のキリスト教に対する姿勢ははっきりと寛大さ以上のものとなった[55]。312年末から313年初頭までのいずれかの時点でコンスタンティヌス1世がカルタゴ司教カエキリアヌスに当てた手紙の中で「アフリカ、ヌミディア、マウレタニアの全属州」において「合法的かつ至聖なるカトリックの宗教の奉仕者のうちの指定された者たち」に対して公的資金による補助の提供を決定したことが通知されている[56]。
313年2月、メディオラヌムでコンスタンティヌス1世とリキニウスが会談し、311年に約束されていたコンスタンティヌス1世の異母妹コンスタンティアとリキニウスの結婚が正式に執り行われた[57][58]。この2人の皇帝は(当時まだマクシミヌス・ダイアの支配下にある)ビュテニアとパレスティナの総督に対してセルディカ勅令(311年にガレリウスが発布していたキリスト教徒迫害を停止させる寛容令)の履行を指示する通達を出した[54]。これは(ランソンによれば不正確にも)『ミラノ勅令』と呼ばれており、後世本来持っていた以上の重要性を与えられることになる[59]。
ただし、これらの点が指摘されてもなおコンスタンティヌス1世のキリスト教への改宗が行われたのかはっきりとはわからない。彼はコインに不敗太陽神(ソル)の図像を残していたし、公的に宗教的な文言を用いる際にはキリスト教徒にも異教徒にも都合よく解釈可能な曖昧な表現を採用していた[60]。前述の通りジョーンズは312年にコンスタンティヌス1世がキリスト教を受け入れたことは間違いないと断言するが、ランソンは315年の段階でもまだ彼はキリスト教徒ではなく、彼の宗教はキリスト教とソル信仰が融合した初期段階のものであったとも推測できるとしている[61]。これらの歴史家たちの間では、どのような思考・振る舞いをしていればキリスト教徒と見做しうるのか、という観点においても相違がある。
リキニウスとの戦い
衝突と和平
同じころ、マクシミヌス・ダイアはこの同盟の矛先が自分に向かうのを確信してボスポラス海峡を渡りビュザンティオンを攻略した[62]。この報せを受けたリキニウスは会談を中断してただちにイタリアからバルカンへ渡り、3万の軍勢でハドリアノポリス(アドリアノープル)へ向かうマクシミヌス・ダイア軍の前面を封鎖した[62]。間もなくリキニウスはマクシミヌス・ダイアを打ち破り、彼をアナトリアへと追い払い、更に追撃して自殺へと追い込んだ[63]。一方のコンスタンティヌス1世は「フランク人」の侵攻に対処すべくアルプスを越えて北上し、これを撃退した[64]。
こうしてローマ帝国の西半がコンスタンティヌス1世の支配下に入り、東半がリキニウスの支配下に入った。だが、共通の敵を失った両正帝は間もなく対立を始めた。切っ掛けは新たに副帝(カエサル)としてバッシアヌスを任命するというコンスタンティヌス1世の提案であった。コンスタンティヌス1世は彼に自分の異母妹アナスタシアを嫁がせていた[64]。この任免の詳細を巡って両者は対立し武力衝突に至った[64][65][注釈 2]。
コンスタンティヌス1世は314年の晩夏[64]、または316年の秋[66][65]、リキニウスの領土への侵攻を開始し、10月8日に初戦となったイリュリアのキバラエ(現:クロアチア領ヴィンコヴツィ)戦いで数的不利を跳ね返してリキニウス軍を大敗させた[64]。リキニウスはドナウ川を下ってシルミウムへと逃れ、更に自軍をハドリアノポリスへと集結させた[67]。その間、第2モエシア属州のドゥクス(Dux:公、将軍)でドナウ川下流域の軍を束ねていたウァレリウス・ウァレンスを(恐らくその忠誠を繋ぎとめるために)正帝に任命した[67][65][66]。そしてハドリアノポリス近郊で2度目の戦闘が行われた[65]。その勝敗は史料上はっきりしないが、この戦いの後、両者は和平条件を巡る交渉を行った[67]。だが、使節を通した交渉は失敗し戦闘が再開された[67]。2度目の戦闘がアルダ川流域で行われたが、衝突後に両軍は敵を見失い、コンスタンティヌス1世はリキニウスが東のビュザンティオンに退却したと見て進軍し、一方のリキニウスは北西のベロイアへ移動したために双方が後方連絡線を遮断された[67]。317年3月1日[65][68]、セルディカで再び和平交渉が行われ今度は和平合意が成立した[65][68](ジョーンズの採用する編年では和平は315年は成立したとされている[67])。合意では領土的にはコンスタンティヌス1世が大幅な拡大に成功し、トラキアを除くバルカン半島のほぼ全域がコンスタンティヌス1世の支配下に入る事となった[67]。そしてウァレリウス・ウァレンスは廃位されて処刑され、コンスタンティヌス1世の長子クリスプス(13歳前後)、ファウスタとの間の別の息子小コンスタンティヌス(当時出生直後)、そしてリキニウス2世(1歳8か月)の3名を副帝とすることが定められた[69][68][注釈 3]。以降、321年または323年までの6年間、この和平は維持された[69][65]。
リキニウスの死
比較的長く続いた平和の後、コンスタンティヌス1世とリキニウスの関係は再び悪化した。その要因にはコンスタンティヌス1世が息子のクリスプスと小コンスタンティヌスをリキニウスと相談することなく(ジョーンズによれば321年に)執政官職(コンスル)に就けたこと[69]、その後もリキニウスの同意なしにコンスルの任命をし続け、リキニウスが自領内でコンスタンティヌス1世が任命したコンスルを無視したこと[69]、323年にコンスタンティヌス1世が第2モエシア属州に侵入したゴート人を討伐するためにリキニウスの領土に侵入したこと[69][70]、キリスト教徒の庇護者として振る舞うコンスタンティヌス1世の姿を見たリキニウスが、自分の領内のキリスト教徒をスパイだと疑い始めたこと[65][70][71]などが挙げられている。リキニウスはコンスタンティヌス1世よりもはっきりと一神教的な見解を持っていたようにも見受けられるが、古くからの神々を拒否することは無く、それらを偉大なユピテル神の別側面であるとみなしたと考えられる[71]。一方でコンスタンティヌス1世はキリスト教徒への庇護の傾斜を強め、320年にはコンスタンティヌス1世のコインに残されていた最後の異教の神、不敗太陽神(ソル)の図像が姿を消した[72]。コンスタンティヌス1世がキリスト教への傾倒を強めるほどに、リキニウスはキリスト教徒たちの礼拝がコンスタンティヌス1世のためのものであるという認識を強め、教会の活動への統制を強めていった[71]。324年には両者は再び武力衝突に至った[71]。彼らは自分が基盤を置く宗教組織へ協力を求めたとされている。コンスタンティヌス1世はキリスト教の司教たちを呼び寄せ、自軍の兵士たちに至高の神への祈りを強制し、リキニウスは祭司、占い師、魔術師をエジプトから呼び寄せ神々に犠牲を捧げたという[72]。
コンスタンティヌス1世とリキニウスはともに過去の内戦で動員されたよりもはるかに大きな兵力を擁していた[注釈 4]。戦いはコンスタンティヌス1世の先制攻撃で始まり、彼は324年7月3日にハドリアノポリス(アドリアノープル)近郊に駐留していたリキニウス軍を攻撃した[73]。コンスタンティヌス1世自身が腿に負傷を追う激戦の末に彼は勝利を収め、リキニウスはビュザンティオンに退却した(ハドリアノポリスの戦い[74][70]。
リキニウスはビュザンティオンで諸局長官(Magister officiorum[注釈 5])のセクストゥス・マルキウス・マルティニアヌスを共同皇帝に擁立した[74]。コンスタンティヌス1世はビュザンティオンを包囲したが、リキニウスは海上優位を活用して都市への補給を続けこれに耐えた[74]。しかしコンスタンティヌス1世は同時に息子のクリスプスが指揮する艦隊に攻撃を命じていた。そしてリキニウスの海軍司令官アバントゥスの失策も手伝ってクリスプスが大勝を収め(ヘレスポントスの海戦)、これによってビュザンティオンの維持を諦めたリキニウスはボスポラス海峡をわたって小アジアのクリュソポリス(現:トルコ領ユスキュダル、イスタンブルの対岸)へと後退した。324年9月18日、クリュソポリスで最後の戦いが行われ、ここでもコンスタンティヌス1世が勝利を収めた[74]。敗北したリキニウスは更にニコメディアに逃れたが、そこで包囲され妻コンスタンティアを兄であるコンスタンティヌス1世の下へ送り助命を嘆願させた[74][76]。コンスタンティヌス1世はリキニウスとマルティニアヌスが命を保つことを認め降伏させた後テッサロニキに送ったが、しばらく後に処刑した[74][76]。後世の史料はリキニウスが蛮族を集め再起を図ったためにコンスタンティヌス1世が彼を処刑したのだとするが、実際のところは確たる理由はなくコンスタンティヌス1世の警戒心によるものであろう[74]。少なくとも当時の人々にとってこの処刑が名誉ある行動ではなかったことは、コンスタンティヌス1世を称揚する教会史家エウセビオスがこの処刑を曖昧に書いていることなどから推測できる[77]。
単独の皇帝として
324年という年はコンスタンティヌス1世にとって、またローマ帝国にとって大きな転換点となる年である[76]。リキニウスの死によって、コンスタンティヌス1世はディオクレティアヌスによる帝権分割以来となる単独のローマ皇帝となった[76]。彼は未だ7歳であった息子のコンスタンティウス2世を副帝に据え、新たな体制の構築に乗り出した[76]。
帝国の政治・経済・文化の重心が東方へ移っていたことから、324年中にはコンスタンティヌス1世はボスポラス海峡に面する要衝の都市ビュザンティオンに着目し、自らの名前を与えてコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、コンスタンティヌスの町)と改称することを決めた[78]。そして330年に(工事はまだ途中であったが)落成式が執り行われた[79]。また、ディオクレティアヌス以来続けられていた行政改革を引き継ぎ、中央政府組織を整備した[68]。元首制期の皇帝は個人的な友人・同僚たちの助言集団を持ったが、これは次第に公的なものとなり、3世紀の危機を経てディオクレティアヌスの時代には枢密院(consistorium[注釈 6])と呼ばれるようになった[81]。コンスタンティヌス1世はこの枢密院をより確固たる組織に仕立て上げ[82]、また、軍制改革を行い、この結果行政機関の文民部門と軍事部門の分離が進行した[83]。財政面では純度の安定したソリドゥス金貨を発行したことが特筆される[84]。従来からソリドゥスと呼ばれる金貨は発行されていたが、コンスタンティヌス1世は新たな基準でこれを発行した。この新貨幣はノミスマと呼ばれ、後に帝国の標準貨幣として流通することになる[84][85]。
宗教面ではキリスト教の教義上の分裂の収拾を試みた。コンスタンティヌス1世はかつての迫害によってキリスト教の教会が被った損失の回復を行い、教会の庇護者として振る舞っていたが、帝国内のキリスト教には教義の差異が生じており、復活祭の日付もバラバラであった[78]。そして彼が皇帝となった時には、アレクサンドリア司教アレクサンドロスと司祭アリウス (アレイオス)との間の論争に端を発して、東方の属州全域の司教たちを巻き込んだ分裂が生じていた[86]。コンスタンティヌス1世はこれに介入し、教義の細部に拘泥せず和解するよう促した[87]。しかし、このアリウス派と反アリウス派の対立が容易に解決する段階にないことが明らかとなると、325年5月20日にニカイア(ニケア)に数百名の司教を招集し、ニカイア公会議(第1回全教会会議)を開催した[88][78][89]。コンスタンティヌス1世自らも議論に加わり、妥協的な結論を出すことが探られたが、結局アリウス派の排除が決定されると共に、他の各司教に共通の信条(ニカイア信条)を受け入れるよう圧力が加えられ、それが結論とされた[90]。同時にローマ、アレクサンドリア、アンティオキアの教会の首位性の確認や、群小異端の禁止などが行われた[90]。しかしその後もコンスタンティヌス1世はアリウス派との妥協を模索し、アリウスの教会への復帰を認めた[91]。
クリスプス処刑とファウスタの変死
326年、コンスタンティヌス1世は妻ファウスタと息子のクリスプス(ファウスタの子ではない)を処刑した[92]。この謎の事件について知ることができることは限られている[93]。偉大な皇帝の家庭内で発生したこの事件は同時代の著作家たちに注意深く無視されており、現代に残された記録は後世に書かれたゴシップのようなものばかりのためである[93]。はっきりしていることは、この年に十分その有能さ認められていた長子クリスプスが処刑され、その後間もなく皇后ファウスタが変死したことである(ある噂では浴場で窒息死したという)[93][92]。
残されたそうした噂の記録では、義理の息子クリスプスの人気に嫉妬したファウスタは、彼が自分との姦通を試みたとコンスタンティヌス1世に訴え出たためにクリスプスが処刑されたという[92][93]。そしてこれに怒ったコンスタンティヌス1世の母ヘレナは、お気に入りの孫クリスプスの仇を討とうと、この醜聞で問題があったのはファウスタの方だとコンスタンティヌス1世に主張し、その結果としてファウスタも殺害されたのだという[93][92]。また、ファウスタが官吏との間で姦通したという噂も残されている[93]。
326年4月25日の勅法でコンスタンティヌス1世が姦通を告発する権利を夫に限るという手を加えていることや、あるいはソレントの碑文からファウスタとクリスプスの名前が削り取られていることなどの状況証拠が存在するため、現代の学者はこうしたゴシップめいた情報の史実性を完全に否定できるわけでもない[94][92][注釈 7]。
対外遠征と死
330年代に入った頃、恐らくは側近である司教たちの影響を受けてコンスタンティヌス1世は宗教的な寛容さを失いつつあった[97]。また、既に複数の正帝のうちの1人であった頃から、軍におけるキリスト教の普及や教会への支援に熱心であったが、関心の多くが信仰に関する事柄に向けられるようになった晩年には宮廷のキリスト教化にも取り組んだ[98]。官吏たちに対する演説をしばしば神の裁きについての話で締めくくり、数多くのキリスト教徒を新たにコメス(Comes、伯、総監)の身分に昇進させた[99]。キリスト教信仰を告白することが皇帝の歓心を買う有効な手段であることは誰の目にも明らかとなり、いくつもの都市や村落がキリスト教への帰依を明らかにすることで皇帝からの恩寵を得た[99]。上流階級においても出世のために改宗する者が幾人も出てコンスタンティヌス1世のキリスト教徒に対する気前の良い分配の恩恵に預かった[99]。このような風潮については教会史家エウセビオスすら批判的な見解を述べている[99]。
内政面においては333年に息子のコンスタンス1世を、335年に甥のダルマティウスを副帝に任命した[97][100]。ミネルウィナとの間の息子で殺害されたクリスプスを除き、ファウスタとの間の息子コンスタンティヌス2世、コンスタンティウス2世、コンスタンス1世の3名が副帝となり、ダルマティウスを合わせて4人の副帝を擁する体制となった[97][100]。これは恐らく帝位継承の準備であったであろう[97]。コンスタンティヌス2世がアジア・エジプトを、コンスタンティウス2世がガリアを、コンスタンス1世がイタリア・アフリカ・パンノニアを、ダルマティウスがトラキア・マケドニア・ダキア(ドナウ川流域)を、それぞれ分割して担当した[100]。コンスタンティヌス1世が このような処置をとったことは、結局のところ広大かつ複雑化したローマ帝国の統治が1人で担当可能なものでは無かったことを示している[101]。
対外的には統一後もコンスタンティヌス1世は熱心に軍事遠征を繰り返していた。328年に息子コンスタンティウス2世と共にライン川方面でアレマン人と戦って勝利を収め、332年にはドナウ川でゴート人を降伏させた。334年にはダキア方面でサルマタイを破った[102]。東方ではアルメニア王ティグラネス5世がサーサーン朝のシャープール2世によって廃立され同国が占領されたことをきっかけにサーサーン朝との関係が悪化した[101]。アルメニアの親ローマ派がアルメニアをローマ帝国に献上することを申し出たことを受けて、コンスタンティヌス1世は甥のハンニバリアヌスをアルメニア王とした。この処置は将来のローマ帝国とサーサーン朝の戦争の原因となったが、実際に戦端が開かれるのはコンスタンティヌス1世死後のこととなる[101][97]。コンスタンティヌス1世の統治最後の3年間はサーサーン朝への遠征の準備に費やされ、ペルシア人をキリスト教に転向させ、また彼がキリストと同じようにヨルダン川で洗礼を受ける計画が立てられた[103]。しかし337年の復活祭の直後、コンスタンティヌス1世は体調を崩して倒れ、この計画を実行に移すことは不可能となった[104]。神学者ヒエロニムスが伝えるところによると、死期を悟ったコンスタンティヌス1世は亡くなる少し前に洗礼を受けた。当時の風習では、年を取るか死の間際になってから洗礼を受けるのが一般的だった[注釈 8]。そして同年の聖霊降臨祭の日(5月22日)にニコメディア近郊のアンキュロナの離宮で死亡した[104]。
コンスタンティヌス1世の遺体は紫衣に包まれた金棺に納められてコンスタンティノープルに運ばれ、高官たちの礼拝を受けた後に諸使徒聖堂に安置された[104][105]。伝統的な異教的葬儀ではなくキリスト教の作法による葬儀が行われ、キリストの12人の使徒たちの石棺(遺体は安置されていないハリボテであったが)の中央に13番目としてコンスタンティヌス1世の棺が安置された[104]。これは彼のキリスト教信仰を明白に示すものであり、その業績とキリスト教公認とによって死後も「大帝」の贈り名とともに記憶され、また「使徒に等しき者」として列聖された[105]。ローマ市は皇帝が埋葬地としてローマではなく新たな都コンスタンティノープルを選んだことに反発した。そしてコンスタンティヌス1世がキリスト教徒であることが周知であるにもかかわらず、ローマの元老院はそれまでの皇帝と同じように彼自身にローマの神々の一員たる名誉を与えた[106]。
後継者
コンスタンティヌス1世の死後、激しい権力闘争が行われた。コンスタンティノープルの軍団はコンスタンティヌス1世の息子以外に皇帝たるべき人物はいないと主張して暴動を起こし、コンスタンティヌス1世の兄弟フラウィウス・ダルマティウスとその息子である副帝ダルマティウスおよびアルメニア王ハンニバリアヌスを殺害した[107]。またコンスタンティヌス1世の別の兄弟ユリウス・コンスタンティウスも殺害され、他にオプタトゥス・オリエント近衛長官アブラビウスなども処刑された[107]。3ヶ月にわたるこの混乱の空位期間の後、コンスタンティヌス1世とファウスタの間の息子、コンスタンティヌス2世、コンスタンティウス2世、コンスタンス1世が337年9月9日に揃って自らを正帝と宣言した[107][108]。
後継者となった正帝3人はそれぞれ、コンスタンティヌス2世がブリタニア・ガリア・ヒスパニアの帝国西方を支配し、残りの2名はダルマティウスの支配地も分割してコンスタンティウス2世がトラキア・ポンティカ・アジア(アシアナ)、オリエンス(シリア・エジプト)を、コンスタンス1世がパンノニア・イタリア・アフリカ・ダキア(ドナウ川流域)・マケドニアを支配することになった[107]。一応コンスタンティヌス2世が帝国全土に対する権威を保有していたが、この体制は長続きしなかった[107][108]。340年、コンスタンティヌス2世は自らの権威を愚弄したとして弟コンスタンス1世の支配するイタリアへ侵攻したがアクィレイアで敗北して死亡した[109][110]。これによってコンスタンス1世がその遺領も掌中に収め、帝国全土の3分の2を支配するに至った[109][110]。その後10年余りの詳細な経過は不明であるが、コンスタンス1世の支配地ではブリタニアやアフリカで紛争が絶えず、他方のコンスタンティウス2世もサーサーン朝との間に勃発した戦争に忙殺されていた[109]。そして350年1月、皇帝領伯マルケリヌスとゲルマン人の血を引く将軍マグネンティウスによる陰謀によってコンスタンス1世が殺害され、マグネンティウスが皇帝を称した[109]。同年3月1日にはイリュリクムでコンスタンス1世配下の歩兵軍司令官であったヴェトラニオも皇帝を称し、コンスタンティヌス1世の甥であったネポティアヌスもローマ市を占領して皇帝を名乗った[109]。
ネポティアヌスは間もなくマグネンティウスによって滅ぼされ、マグネンティウスとヴェトラニオは共にコンスタンティウス2世に正式な正帝としての承認を求めた[109]。マグネンティウスは和解を演出するためにマルケリヌスを使者としてコンスタンティヌス1世の娘コンスタンティナとの結婚、およびコンスタンティウス2世に自身の娘を嫁がせることを提案した[111]。コンスタンティウス2世はマグネンティウスの地位を断固として認めず、またヴェトラニオは退位と引き換えに年金を得ることで合意し、皇帝を退いた[109][110]。コンスタンティウス2世は甥のコンスタンティウス・ガッルスを副帝にして東方を任せ、マグネンティウスも兄弟のデケンティウスを副帝にしてガリア統治を委任し、両者は互いにバルカン半島へと進軍した[109][110]。351年9月28日、ムルサの戦いでコンスタンティウス2世が勝利を収めた[109][110]。マグネンティウスはイタリアを経てガリアへ引いたが、353年の夏、モンス=セレウクスの戦いで敗れコンスタンティウス2世が帝国を再統一した[109][110]。
その他の子孫
コンスタンティヌス1世には2人の娘がいた。一人は先述のコンスタンティナ(307年以後から317年以前 - 354年)であり、もう一人はユリアヌス帝の妻となったヘレナである。ヘレナはユリアヌスの子の死産を二度繰り返した後は健康が優れず、ガリアの地で360年に亡くなった(没年齢は不明)。この死産時の子供達以外にこの2人の間に子女は確認できない。コンスタンティナは初め、アルメニア王位を約束されていた副帝ハンニバリアヌスと結婚、337年にハンニバリアヌスがコンスタンティウス2世に殺害された後は未亡人となってローマに居を移し、同母兄弟コンスタンス1世を殺害したマグネンティウスと連絡を取り合って接近した。動機は夫を殺されたこと、アルメニア王妃の地位を奪われたことであり、コンスタンティウス2世を憎悪していた。マグネンティウスと結婚すれば、帝国西方の支配者の妻となれるという計算もあったのかもしれない。マグネンティウスにとっても、コンスタンティヌス1世の実の娘を妻とするメリットを知っていた。この策略を阻止する為にコンスタンティウス2世は、351年にコンスタンティナはユリアヌスの異母兄であり、副帝に任命したコンスタンティウス・ガッルスと再婚させられた。一人娘アナスタシアを儲けたが、このアナスタシアの生涯については、両親が結婚した351年から父ガッルスが殺害される354年の間に生まれたということや結婚してその血筋が東ローマ帝国皇帝アナスタシウス1世とその弟妹(及び弟妹の子孫)に繋がったこと以外、知られていない(もしくはそれしか推測できない)。354年、ガッルスはコンスタンティウス2世からミラノへ招聘された。ガッルスは招聘が召喚であることを分かっており、コンスタンティウス2世の実の姉妹だからと、妻コンスタンティアーナを弁護役にし、先にミラノへ発たせた。しかし、コンスタンティアーナはシリアからイタリアへの長旅の途中で病に倒れ、病死した(没年齢は不明)。ガッルスも宦官エウセビウスの策略によりポーラで処刑された。残されたユリアヌスも363年のペルシア戦役にて投槍を受け、陣中で死去。後継にはユリアヌスとは血縁が無いヨウィアヌスが選ばれ、適当な男子が無かったコンスタンティヌス朝は断絶した[要出典]。
その後、コンスタンティヌス朝の血統自体は存続。ヨウィアヌスの後を継いだウァレンティニアヌス1世の後妻ユスティナは、ユストゥスという男性とガッルスの同母姉妹(ユリアヌスの異母姉妹)の娘でマグネンティウスの妻だった女性であり、ウァレンティニアヌス1世との間に、ウァレンティニアヌス2世、グラタ、ユスタ、ガッラの1男3女を儲け、ガッラはテオドシウス1世の後妻となり、グラティアヌス、ガッラ・プラキディア、ヨハネスの2男1女の母となった。この内、ガッラ・プラキディアのみが子孫を残し、その血筋は少なくとも6世紀の終わりまで、コンスタンティノープルのローマ貴族であり続けた。一方、コンスタンティウス2世の一人娘で、その死後に生まれたコンスタンティアは皇統の連続性と継続性を示す為にウァレンティニアヌス1世の長男でウァレンティニアヌス2世の異母兄グラティアヌスと結婚。男子を儲けたが、この男子の消息は不明である[要出典]。
統治
建設活動
コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)建設
324年、彼はボスポラス海峡に面する要衝の都市ビュザンティオン(ビュザンティウム)に自らの名前を与えコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、コンスタンティヌスの町)と改称した[78]。この都市は海陸が交叉する地理上の要衝であり、ドナウ川の国境とアジアの国境の双方へ睨みを利かせる拠点として優れていたことに加え、ローマ帝国の政治・経済・文化の重心が東方へと移っていたことがこの選択に繋がった[79]。母なる都市ローマを模して7つの丘が定められ14区が接地され、元老院や聖堂、広場(フォルム)、宮殿やその他の公共施設が建設された[79]。工事の完了を待たず、330年5月11日には落成式が執り行われた[79]。
コンスタンティノープル建設はコンスタンティヌス1世の政策の中でも後世の歴史に最も大きな影響を残したものの1つであるが、現代から見れば奇妙なことに同時代の記録者たちはコンスタンティノープルの建設にほとんど注意を払っていない[112]。この都市は「新たなるローマ」として建設されたと後世の記録は伝えるが、このような認識は建設当時には無かったとも言われている[113]。これは当時属州の都市に皇帝が名前を付けることはあり触れたことであったためであろう[112]。皇帝が都市に自分の名前を与えるのは、初代アウグストゥスの頃から繰り返されてきたことであり、ローマ帝国の領内は皇帝の名を与えられた都市がひしめいていた[112]。また、ローマ帝国の重心が東に移っていることも周知のことで、コンスタンティヌス1世の姿勢は特に特殊なものではなく、既にディオクレティアヌスやガレリウスといった上位の正帝がニコメディアを中心に、東方に拠点を構えて滞在し続ける状況は何十年も継続していた[112]。当時ローマは首都長官の管理下に置かれ、公式にも、また感情の上でも、帝国の人々にとって首都であったが、行政の中心としての役割を果たさなくなって久しく、実質的な行政府は前線で外敵と(そしてしばしば内戦を)戦う皇帝たちに付随して移動していた[112]。皇帝がローマ市に立ち寄ることは滅多になく、平時にはそれぞれの任地の都市に建設した宮殿に居住しており、コンスタンティヌス1世も西の正帝であった頃はトリーアに住み、イリュリクムを平定した後にはセルディカ(現:ブルガリア領ソフィア)を「我がローマ」と言ったと伝えられる[112]。
上記のようにコンスタンティヌス1世が実際にコンスタンティノープルを「新たなローマ」として建設したのかは定かではないが、しかし一般的な都市よりは特別な存在に仕立て上げられたことも事実であった[114]。新都市建設にあたっては惜しみない費用がかけられ、建築部材や装飾用の美術品を求めて各地の異教の神殿から略奪が行われた[114]。その市域は既存のビュザンティオンの3.5倍にも拡張され、都市を囲う城壁や宮殿も用意された[115][116]。ローマ市よりは明確に格下であったにせよ、一般的な属州都市よりは高い法的地位が与えられ、ビュザンティオンの都市参事会を改組して元老院が置かれた[114]。ローマの元老院議員は爵位としてクラーリッシムスだったのに対しコンスタンティノープルの元老院は格下のクラールスとされた[114][117]。両都市の位置付けが法的に対等となるのはコンスタンティウス2世の治世である[117]。
コンスタンティヌス1世自身が真実この都市をどのように位置づけていたかを窺い知ることができる史料はほとんど残されていない。「神の命令によって」行動した結果であるとしている勅法は存在するが、これは単に敬虔さを示す修辞としての要素が強いであろう[118]。異教に汚されることのない、聖別されたキリスト教の都市として神に捧げられたものであったとする見解もあるが[118]、コンスタンティノープルにおいてテュケー(幸運)や不敗太陽神(ソル)崇拝などの伝統的要素が完全に排除されたわけでもなかった[119]。ただし、実際がどうであれ、後世成立する東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が1453年にオスマン帝国に征服されるまで、この都市を舞台にして「ローマ帝国」は継続した。そしてこの都市は正教会の総本山でありキリスト教世界の中心の一つとして機能した。
ローマ
ローマ皇帝として、コンスタンティヌス1世は真の首都ローマでも活発な建設活動を行った。ローマ市に入場した後、当然のことながら彼は自身の皇帝としての威光を建造物で示そうとした。315年にはコンスタンティヌスの凱旋門が建設された[120][121]。セプティミウス・セウェルス凱旋門を模したこの凱旋門はローマ世界最大の凱旋門であり、過去の建造物から転用された浮彫彫刻で装飾された[120]。まずマクセンティウスを破ってローマに入場した後、マクセンティウスが建造を始め、ほぼ完成していたバシリカをコンスタンティヌスのバシリカと改名して集会や謁見に用いた[122][121]。
これ以外にも、ローマでキリスト教建築を大々的に設置した。コンスタンティヌス1世が首都で本格的に新しく建設した最初の建物は救世主のバシリカと呼ばれる大聖堂である[123]。これはかつてラテラヌス家が所有していた大邸宅の跡地に建てられたもので、312年から建設が始められローマの大司教座教会堂とされ、現在のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の前身となった[123]。また、母ヘレナがエルサレムで取得した聖遺物を奉納するためにヘレナの邸宅であったパラティウム・セッソリアヌムを改築して聖堂とした。これは現在のサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂の前身となっている[123]。上記はローマの城壁内に建造されたものであるが、城壁外にもバシリカ・アポストロルム(使徒聖堂、現:サン・セバスチアーノ教会)、サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂、サン・ペトリ・イン・ウァティカノ(サン・ピエトロ大聖堂)などを建造した[124]。
こうしたキリスト教建築は城壁外の、郊外の地でより活発に行われた。帝国の首都ローマは異教の牙城で、伝統的祭祀の中心であり、それ故に少なくとも入城当初のコンスタンティヌス1世は伝統的なユピテル神への配慮を見せていた。このため、新たなキリスト教建築はローマ市民の反応を見ながら進められ、また目立たない場所での実施が中心になったためである[125]。郊外が選ばれたもう一つの理由には、ローマ市の中心部は既に数世紀に渡る建築活動で建設された公共建造物がひしめいており、必要な用地を容易に確保できなかったことがある[126]。既存の建造物の転用には様々な困難があり、また市民の反発を受ける可能性も無視できなかった[126]。これらのことが、新たな都市コンスタンティノープルへの「遷都」を決定付けた理由の1つであるという見解もある[127]。
トリーア
306年に副帝に即位して以来、西方の皇帝としてコンスタンティヌス1世が拠点としていたトリーアでは、お膝元として大規模な整備が行われた[128]。皇帝や皇后、息子クリスプスの住居や、浴場、円形闘技場、大掛かりなバシリカも建造され、バシリカにはお湯を流して温める床暖房も供えられていた[128]。コンスタンティヌス1世の宮殿アウラ・パラティナは、後にフランク王国のカール1世(大帝)がアーヘンの宮殿を建造する際の参考にされたとも言われる。[129]。トリーア近郊には夏用のウィラも建造された[128]
その他の都市
複数の町がコンスタンティヌス1世によって再建され、彼やその家族の名を与えられたと伝わる。そのような都市には現在のフランスにあるオータン(フラウィア・アエドゥオルム)、現在のアルジェリアにあるキルタ(コンスタンティナ、現:コンスタンティーヌ)などがある[130]。また、コンスタンティヌス1世は323年から324年にかけて現在のギリシアにあるテッサロニキに滞在した際、この町を非常に気に入り、巨大な教会や港湾、浴場など数多くの建物を建てたという[130]。
内政
コンスタンティヌス1世は多岐にわたる制度改革を実施した[101]。一連の改革によって構築された政府機構は後の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の政府の原型となり、「初期ビザンツの中央政府組織はほぼ彼の時代に形造られた」(尚樹啓太郎)とも評される[101]。一連の改革はディオクレティアヌスが行っていた帝国の再編を継承したものでもあり、また軍事部門の再編と行政の再編を通じて国政を組織化し分担することで帝国の統一を維持しようとしたものであった[81]。
官職の整備
ディオクレティアヌス時代に整備された中央政府の組織はコンスタンティヌス1世治下で更に発展・整備された。宮廷には皇帝の飲食・衣装・ベッドメイクなど家政部門を担う寝室(Cubiculum)があったが、コンスタンティヌス1世時代にはそれを統括する宮内長官(Praepositus Sacri Cubiculi)とその補佐役である執事長(Castrensis sacri palatii)が置かれてこの組織を管理した[131]。
旧来からの枢密院(Consistorium[注釈 6])では書記官長の役割が強化され、上級役職者や軍司令官への将軍への命令は書記官長から出されるようになった[81]。文武官の長は伯(総監、Comes)の地位を与えられそのメンバーとなった[80]。この組織が重要方針の策定や役人の任命を担った[80]。
また、3世紀の危機の間に大きな権威を持つようになっていた近衛長官(Praefectus praetorio、正帝1名に対し2名が置かれた)の地位にも変更が加えられた。この役職は制度的には元来軍事面における皇帝の私的な使用人に過ぎなかったが、この頃までに司法や徴税、経済などの分野まで統括するようになり、皇帝に次ぐ権威・権力を保持し、皇帝不在時にはその代理のような役割を果たすようにもなっていた[132][133][134]。それだけにこの地位にある者の役割は重要であり、皇帝にとっては常に警戒を要する存在であった[132]。コンスタンティヌス1世は新たに軍事長官(magister militum)を設置し、職務内容を主として地方における徴税・司法・行政・郵便・経済などの分野に限って文官化を目論んだ[135][134]。
枢密院の構成員となる高官職としては次のような役職が置かれた。コンスタンティヌス1世はディオクレティアヌス時代に置かれていた貨幣管理長官(Rationaris summarum[注釈 9])を恩賜伯(Comes sacrarum largitionum[注釈 10])に、皇帝領長官(Rationaris rei privatae[注釈 11])を皇帝領伯(Comes rei privatae[注釈 12])に改称し、収入や支出、皇帝の財産を管理させた[136]。コンスタンティヌス1世はこの財務管理職の他にも各行政部門の長を設置し、更に各官庁を諸局長官(Magister officiorum[注釈 13][注釈 5])に統括させた。この役職はそのほかに、帝国の東半部では部隊の指揮権や要塞の管理など軍事的な役割を担うようにもなっている[134][136]。これは強大化し過ぎた近衛長官へ対抗させるための処置でもあった[134]。
軍制改革
コンスタンティヌス1世は帝国の軍事組織に様々な改変を行った。ディオクレティアヌス時代にはローマ帝国の国境防衛は、国境に常駐する駐屯軍を主軸とし、皇帝が指揮する野戦軍は少数の連隊だけで構成され、必要に応じて国境から引き揚げた部隊を組み込んで補強するという体制がとられていたが、コンスタンティヌス1世は外敵の攻撃に柔軟に対応するべくこの国境の部隊を削減し国内の都市に駐屯させることでコミタテンセス(Comitatenses、野戦機動軍)と呼ばれる大規模な常備野戦軍を組織し[83][137]、その指揮官として歩兵軍司令官(Magister peditum)と騎兵軍司令官(Magister equitum)という地位が作られた[83][137][138]。そしてこの軍は河川監視軍(Ripenses)や辺境防衛軍(Limitanei)と名付けられた国境軍よりも上位の存在とされた[83]。この国境軍の指揮体系もディオクレティアヌス以来の再編を引継ぎ、国境全体を複数の方面に分けて各々を公(Dux、方面軍司令官)の管轄とする体制を完成させた[83][注釈 14]。
また、コンスタンティヌス1世は312年にローマを占領した後、アウグストゥス以来精鋭部隊として組織されていた近衛軍団(praetorianae)-近衛歩兵隊と近衛騎兵隊(Equites singulares)-を解体し、新たにスコラ隊(Score Paratinae、近衛軍[注釈 15])を置いた[141]。この部隊はその後、諸局長官の指揮下に置かれ、精鋭部隊として、また政治的支配の手段としてコンスタンティヌス1世の支配に貢献した[137]。これとは別にドメスティクス伯(Comes domesticorum)によって率いられる皇帝護衛担当の親衛隊(Domesticus)もあった[137][142]。この部隊は特別の任務につき、その構成員は将来の士官候補生のような存在となった[137]。
この一連の改革の進展によって近衛長官(Praefectus praetorio)の軍事的性質は大きく削減され、その職務は文民行政や新兵の徴収などに限られて行くことになり[83]、また例外は残るものの文官と武官が分離された[137]。
そして、後世から見て重要な影響を与えたかもしれないコンスタンティヌス1世の軍事上の処置にゲルマン人を始めとした「蛮族」の大規模な徴兵がある。既に306年に父親から引き継いだ野戦軍をマクセンティウスとの戦いに十分な規模にするために蛮族の捕虜を組み込んでいた[143]。こうした処置はコンスタンティヌス1世が初めてだったわけではないが、彼のゲルマン人の動員は過去のものよりも大規模なものであった[143][141]。スコラ隊もゲルマン人の兵たちを中心に構成されており、ゲルマン人を軍司令官として、更には執政官(コンスル)として任命することもした[141]。こうした処置はローマ帝国を蛮族で汚したものとして、後の皇帝ユリアヌスや異教徒の歴史家ゾシモスらから非難されている[143][141]。ただし、少なくともコンスタンティヌス1世の時代には新たに軍団に導入されたゲルマン人たちはローマの指揮官に、またはゲルマン人であったとしてもその部族と特別の関係を有していない指揮官によって統率されており、当時においてローマ帝国に重大な問題は引き起こさなかった[141]。ゲルマン人の軍事力の利用がローマ帝国の統一にとって実際的な問題となるのは、彼らが「部族丸ごと」同盟軍(Foederati)として組み込まれるようになってからである[141]。
経済・財政
経済におけるコンスタンティヌス1世の特筆すべき事業はソリドゥス金貨の発行であった[144]。ソリドゥスと呼ばれる金貨はディオクレティアヌス時代には既に発行されていたが、コンスタンティヌス1世は新たな標準規格でこれを発行し、信用度の高い共通通貨として確立した[144]。初の発行はまだ統一する前の309年にトリーアで発行したもので、その後支配領域の拡大と共に各地で発行するようになった[144][145]。これはギリシア語でノミスマと呼ばれ、更にソリドゥスの2分の1であるセミシス、3分の1であるトレセミシスがあった[144]。
信用度の高い貨幣の流通はローマ経済に重大な影響を与え、また後世の税制の改革にも繋がった。徴税や軍団への支給は当時なお物納・現物支給を主としていたが、貨幣の流通とともにコンスタンティヌス1世は新たなコッラティオ・ルストラリス(Collatio lustralis、5年税[注釈 16])を導入した[144][146]。これは商人や金融業者(実質的には農民以外の全ての人々を含む)に5年毎に金貨(後に銀貨も加えられた)による納税を定めたもので、これはローマ帝国の財政が5世紀以降金貨によって運営されるようになるその端緒となり、後世には軍団への支給や臨時の恩典の支出にも金貨が用いられるようになっていった[144][85]。コンスタンティヌス1世に端を発するローマ帝国のノミスマは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)時代の1030年代まで高純度を保ち続け、最も信頼される標準貨幣として地中海世界で使用され続けることになる[144][148]。
財政面ではコンスタンティヌス1世は多額の支出を厭わなかった。『皇帝伝要約(Epitome de Caesaribus)』では、彼の治世最後の3分の1は「浪費の時代」と描写されており[149]、20世紀の学者ジョーンズは「過剰に気前が良かった」と評している[150]。治世前半、統一前にはコンスタンティヌスス1世の課税は寛容であるとも言えるものであったが[151]、上述のソリドゥス金貨の発行の他、コンスタンティノープルの建設、教会堂の建設、コンスタンティノープル市民へのパンの配給、恩典としての年金や皇帝領の贈与などが盛んに行われ、この結果として財政は短期間のうちに逼迫した[150]。そのため、後半には半ば略奪に近いものを含めた過酷な徴税が行われた[151][150]。コンスタンティヌス1世の大事業を支えるための財源は当初は打倒したリキニウスが貯めこんでいた財貨であった[152]。短期間にそれを使い果たした後は、出費を賄うための財源は第一には異教の神殿からの没収、第二には新たな課税であった[150]。前述の5年税の制定もこの流れの中から出てきたものであり、314年から318年の間に定められた[150][146]。また、325年頃には元老院議員に対して地所の保有量に基づく金納の税金(土地税)を定め[150][151]、さらに各地の都市が集めていた地方税を国庫に編入した可能性もある[150]。こうした増税は当然のことながら評判は悪く、税額の公正さを維持することも困難であった[153][152]。とりわけ5年税は、5年毎に一度に課税されたために、資産的余裕が無い人々にとって納税の年は「恐るべき年」となった[153]。
立法・社会
コンスタンティヌス1世はその治世の間に、特に西方の支配者となった治世半ばの314年から319年頃を中心に数多くの法律を定めた[154]。法律の運用を強化するためにその運用原則、国法、勅令、勅答(請願に対する返答)、覚書といった法的文書の効力や優先順位が定められた[155]。
裁判を健全性の維持のために、密告や中傷の禁止、手続き期限の厳密化が定められ[155]、属州総督の裁定で収まらない時は皇帝への上訴審をすべきことも通達された[155]。役人の腐敗については厳罰をもってあたり、多くの罪状に死刑が適用された[155][153]。これは常態化していた役人への付け届けの習慣を改めようとしたコンスタンティヌス1世の方針と関係していた。当時、訴訟を起こす場合にはまず官吏への贈り物が必要であり、コンスタンティヌス1世はこうした慣習を激しく非難して改めようとした[153]。そして属州総督たちに対して、それぞれの任地でこうした慣行を放置するならば同様の刑罰を与えるという脅しをも加えた[156]。しかし、こうした汚職対策が大きな成功を収めることはなかった[153]。こうした官吏の服務規程や収賄に関する規定のほか、郵便、ソリドゥス金貨の偽造・私鋳の禁止、家族・相続関連の規定、退役兵の特権や一時金の支給、身分など国家・社会全般にわたって様々な法が定められている[157][156]。
コンスタンティヌス1世はキリスト教を重視したが、一連の立法に対するキリスト教の影響を明確にそれと断定すること困難である。しかし、中には恐らくコンスタンティヌス1世の信仰に影響された内容を含むものも散見される[158][156]。はっきりとキリスト教の影響と見做せるものの1つには死刑の際の十字架刑の廃止が挙げられる[158]。同じくキリスト教と関係するであろうものに古代ローマにおいて伝統的娯楽であった剣闘士競技の禁止規定(325年)があり、これによって従来闘技場送りにされていた犯罪者たちは代わりに鉱山送りにされるようになった(ただし帝国の西方では剣闘士競技が実際に終了するのは100年あまりも後のことである)[159]。また、結婚・家族の神聖性を重視する規定も恐らくキリスト教的価値観から現れたものであろう。コンスタンティヌス1世のは離婚の規定を厳格化し、重大な犯罪や売春などの嫌疑によらない限り離婚が許可されなくなった[159]。他方ではイタリアやアフリカにおいて、貧しい両親が子供を売却することのないように公金から補助を与えることも命じられている。これもまた、同時代のキリスト教会の類例から影響を受けたものであると考えられる[159]。女性の「慎ましさ」を保護する法も定められ、いかなる契約においても夫が妻の代理人であるべきことを定める法律や、資産の差し押さえの際に財産の代わりに女性を連れ去ることを厳罰をもって禁止する法律も残されている[112]。コンスタンティヌス1世の家族を重視する姿勢を明確に示すもう1つの法律は皇帝御料地が複数の賃借人によって分割された際の奴隷の家族離散を禁止する法律である[112]。ただしこれはコンスタンティヌス1世が奴隷制に対して何らかの否定的見解を持っていたことを示すものではない。彼が定めた他の法律において奴隷やコロヌス(小作農)に対する規定は過酷であり、主人による拷問の末に奴隷が死んだとしても罪とはされなかったし、奴隷・コロヌスの逃亡や反抗についても厳罰が加えられた[112]。
キリスト教
改宗
コンスタンティヌス1世は、初めてのキリスト教徒ローマ皇帝として有名である。それ以前のローマ帝国では、ネロ帝(54年-68年)のキリスト教徒迫害に始まり[160][注釈 17]、ディオクレティアヌス帝(284年-305年)の大迫害まで[161]、何度かキリスト教が迫害を受ける時期があった。そんな一部の時期を除くほとんどの間、キリスト教徒であることは黙認されていたが、発覚した場合は改宗を迫られ拒絶した者は処刑された。
しかし、ローマの正帝の一人として実力を持っていたコンスタンティヌス1世は312年(と、言われる)頃に何らかの形でキリスト教を受け入れた[52]伝説によると、コンスタンティヌスが改宗したのは、神の予兆を見たためと伝えられる。コンスタンティヌスは、312年にマクセンティウス軍と戦うためにミルウィウス橋に向かう行軍中に太陽の前に逆十字[注釈 18]とギリシア文字 Χ と Ρ(ギリシア語で「キリスト」の先頭2文字)が浮かび、並んで「この印と共にあれば勝てる」というギリシア語が浮かんでいるのを見た[162]。この伝説はラクタンティウスなどいくつかの資料で詳しく伝えられているが、4-5世紀頃の文献に多く現れる神の予兆や魔法などの話のひとつである。この後のローマ軍団兵の盾にはそれを模った紋章が描かれたという。
当時キリスト教はローマ帝国の領内に強固に根付きつつあったが、キリスト教徒ローマ皇帝の登場-コンスタンティヌス1世の改宗-はその当然の帰結として現れたわけではない[注釈 19]。コンスタンティヌス1世の改宗の時点で、ローマ帝国内のキリスト教徒比率は多く見積もっても10パーセント程度でしかなかったと見られているし[164]、またジョーンズによれば[注釈 20]、キリスト教徒は都市部に偏在しており、主要な支持基盤は下層・中産階級を構成する手工業者や書記。小売商、商人、下級都市参事会員などであったという[166]。
改宗についての諸見解
コンスタンティヌス1世の改宗が312年、またはその頃に行われたということについては一般的に受け入れられている[52][53]。しかしその動機、つまりは有効利用可能な組織を動員するための政治的動機から来る形式に過ぎないものであったのか、宗教的な真剣さを持ったものだったのか、といったことについてははっきりわかることは何もない[52][53]。少なくとも彼は当初は自分の宗教的姿勢に曖昧さを維持し続け、公的な文章においてはキリスト教徒もその他の宗教者も都合よく解釈可能な表現を用いることを常としていた[60][注釈 21]。
動機を推測する上ではっきり言えることは、キリスト教が当時既に取るに足らないほど小さな宗教ではなく、ローマの知的階級の考察の対象になるほどには大きく、関心を持たれる思想となっていたことである[167]。また、現代の歴史家の中にはヴェーヌのように、当時のキリスト教が異教に対して精神性・哲学・倫理などの面で優越性を備えていたと考える人物もいる[167]。しかし一方で、前述の通りその数は多数派と呼ぶには程遠く、信者の多くは中産階級以下の人々であり政治的・社会的に無力であった[52]。上流階級たる元老院身分、騎士身分(equites)、都市参事会員層の信徒は極めて少数であり、元老院身分におけるキリスト教の勢力は3世紀後半ですらほとんど皆無であったし[168][52]、とりわけ軍隊はその大半が非キリスト教徒であり、属州の前線に近い都市を含めて東方由来の密儀宗教、ミトラス教が流行していた[52][169]。コンスタンティヌス1世が最後まで配慮を続けた異教の神、不敗太陽神(ソル)はミトラス教の神ミトラス(ミトラ)の神性を表す称号の1つである[170]。
また、コンスタンティヌス1世は312年以前から明確にキリスト教に対して好意的であったが、一方でこの時期に彼がキリスト教徒であったと証言する古代の著作家は存在せず、コンスタンティヌス1世に向けて歓呼の声をあげる人々は、彼をユピテルを始めとしたローマの神々に擬することを躊躇していない[55]。古代の歴史家においても例えば、異教徒ゾシモスとキリスト教徒エウセビオスの記録はそれぞれに矛盾があり、これらが政治的動機と宗教的動機についての近現代の学者たちの様々な見解の元となった[171]。
ヤーコプ・ブルクハルトは「野心と権勢欲が一刻の平穏の時も与えないような天才的人間においては、キリスト教と異教、意識的信仰と不信仰ということは全然問題になりえない。このような人間はじつにその本質において無宗教なのである」と述べ、コンスタンティヌス1世のキリスト教に対する姿勢の政治的動機を強調する[172][171]。他方、ジョーンズはコンスタンティヌス1世が当時キリスト教が保持していた政治力の乏しさから「キリスト教徒の好意など得る価値はほとんどなく、そしてそれを得たければ、単に彼らに寛容であることによってえられたはずである」と評し[52]、ヴェーヌはコンスタンティヌス1世がキリスト教という前衛的な新しい宗教に惹かれ、また君主の宗教として「豪奢を誇示」するのに相応しいと感じたことは十分あり得ることとしている[173]。そして「コンスタンティヌスをただ計算高い政治家としか見ない歴史家はさして深く事態を見きわめられないだろう」と述べ、社会的・経済的な要素を重視する現代的観点から判断すべきではないとする[173]。
いずれにせよ重要な事実は、コンスタンティヌス1世の改宗以降、ほとんど全てのローマ皇帝がキリスト教徒であったことであり、コンスタンティヌス1世のキリスト教改宗は歴史上最も重大な事件の1つであった。ヴェーヌは「もしコンスタンティヌスがいなかったなら、キリスト教はひとつの前衛的宗派にとどまっていたことだろう」と評する[174]。
後世における影響
のちに「コンスタンティヌスの寄進状」という文書が偽造され、ヨーロッパ史に影響を及ぼした。
なお、コンスタンティヌス1世を正教会は「亜使徒聖大帝コンスタンティン」として記憶する事は冒頭に述べた通りであるが、日本正教会の宇都宮ハリストス正教会の会堂は「亜使徒聖大帝コンスタンティン及び聖大后エレナ会堂」であり、コンステンティヌス1世と母太后ヘレナを記憶している[175]。
コンスタンティヌス1世の功罪
名君として称揚されることの多いコンスタンティヌス1世ではあるが、それらは多分に後世のキリスト教的史観による。例えば降伏したリキニウスとその息子リキニウス2世や、リキニウスとの戦いの中で優れた才覚を示し、兵士たちに絶大な人気のあった長男クリスプスをローマ再統一後に突如幽閉して殺したことなどは、エウセビオスなど古代のほとんどのキリスト教歴史学者からは無視される傾向にある。
「ノウァ・ローマ」と名づけられた後のコンスタンティノポリスも美しい都ではあったが、戦乱後のローマにはそのような華美な都を建設するだけの財力はなかったので、そこに設置された彫刻などの多くはローマ市や各地にあったものを撤去して移送しただけのものであった。また、コンスタンティヌス1世は農民が生まれた土地から離れてはならないと定めることによって都市部への人口の流入を防ぎ、財政収益の安定を図った。これは後世の封建制の始まりとも言えるが、皇帝の権威を高めるためにキリスト教と結びつき華麗な式典を行った一方で、農村では重税に喘ぐ農民たちの姿があった。さらに、豪華な宮廷などの東方化に伴い宦官もはびこるようになる。
またコンスタンティヌス1世がキリスト教に帰依したことも政略にキリスト教を利用しようとした側面が非常に大きい。西ローマを治めるコンスタンティヌス1世がキリスト教に対して寛容な政策をとることで、ライバルのリキニウスとキリスト教徒との折り合いを悪くすることが目的であったといわれる。また、「カエサルのものはカエサルに」という言葉に示されるように、定められた現世の運命を受け入れることを是とするキリスト教の教義は相次ぐ内乱によって弱体化した皇帝の権威を強化するのに非常に適していた。キリスト教は東洋における儒教のような役割を果たしたとされる。
コンスタンティヌス1世は第1ニケーア公会議でアタナシウス派とアリウス派のどちらを正当とするかの論争に決着を付けたが、彼自身はそれらの教義の違いを明確には理解しておらず、判断の基準となったのはそれぞれの支持者の数だけであったという。
ローマ皇帝でありながらローマを軽視したコンスタンティヌス1世に少なからず反感を抱く者も多く、キリスト教徒でありながら神格化されたのも、それに対する市民のささやかな反抗であったとも言われる。
年譜
- 270年年頃 - 誕生。当時、父コンスタンティウス・クロルスはまだ士官であった。
- 292年 - 宮廷に送られ、ディオクレティアヌスや後に東の正帝となったガレリウス(在位:305年 - 311年)に従軍する。
- 306年 - ガレリウスの下から、西の正帝でブリタンニア滞在中の父クロルス(在位:305年 - 306年)のところへ向ったが、クロルスが死去。ガレリウスの部下セウェルスが西の正帝となり、コンスタンティヌスは副帝となった。
- 312年 - イタリア・北アフリカを制圧していた簒奪皇帝マクセンティウスをミルウィウス橋の戦いで破りローマへ入城、西方の正帝となる。
- 313年 - ミラノ勅令を発布し、キリスト教を公認。
- 324年 - 東方の正帝リキニウスを破り、全ローマ帝国の単独皇帝となる。
- 325年 - キリスト教徒間の教義論争を解決するために初の公会議である第1ニカイア公会議を開催、アリウス派を異端と決定し、皇帝がキリスト教の教義決定に介入する嚆矢となった。
- 330年 - ローマからバルカン半島のビュザンティオンに遷都し、「ノウァ・ローマ(新ローマ)」と改称。
- 337年 - 小アジアのニコメディアで洗礼を受け、その直後に死去。
史料
コンスタンティヌス1世の時代についての史料は現在かなりの量が残されている[176][177]。ただし、これらには後世付加された伝説に彩られていたり、キリスト教的・反キリスト教的な潤色と脚色が加えられたりしているものが多数含まれ、一貫性と信頼性に欠けるために取り扱いには細心の注意が必要である[177]。
4世紀のローマ皇帝についての主たる情報源はアンミアヌス・マルケリヌスの『歴史(Res Gestae)』[注釈 22]であるが、これはコンスタンティヌス1世の時代を取り扱った巻が散逸し現存していない[177]。比較的同時代に近い情報源は、4世紀半ばのアウレリウス・ウィクトルやエウトロピウスの著作、4世紀末の著者不明の『皇帝伝要約(Epitome de Caesaribus)』、5世紀末のゾシモスらの残した作品などである[177]。異教徒であるゾシモスはコンスタンティヌス1世に対する敵意を露わにしている[178]。またその他のギリシア人作家の作品の中からも断片的な情報を拾い集めることが可能である[177]。
教会史家たちは多くの記録を残しており、エウセビオスは『コンスタンティヌスの生涯(Vita Constantini)』をコンスタンティヌス1世の死の直後に著述した。ただしこの著作については長らく真贋が論争されている[177][179]。他にヒエロニムスの『年代記』やアクィレイアのルフィヌス、フィロストルギオス、キュジコスのゲラシオス、キュロスのテオドレトス、コンスタンティノープルのソクラテス、ソゾメノスらが記した『教会史』の記録がコンスタンティヌス1世への言及を残している[177][178]。彼ら教会史家は参照した典拠から長文の引用を行う習慣を発達させており、このおかげでコンスタンティヌス1世時代の文書が保存されている[176]。この他、神学者アウグスティヌスも多数の引用を残している[178]。307年から321年の間の頌歌や、『テオドシウス法典』、コインのような考古学的遺物、コンスタンティヌス1世像などからも情報が得られる[177]。
脚注
注釈
- ^ マクシミアヌスの娘ファウスタとコンスタンティヌス1世の結婚の事情を巡る時系列は各出典で微妙に異なるため以下に注記する。ブルクハルトはマクシミアヌスとマクセンティウスの反目はガレリウスとの戦いの前に始まっており、コンスタンティヌス1世の下へ赴き縁談を持ち込んだのはガレリウスに対抗すると共にマクセンティウスに対する優位を得るためであったともする[35]。また、ジョーンズはこの結婚を307年3月31日のことと断言しており、ガレリウスとマクセンティウスの戦いはその後であると描写する[32]。これはランソンも同様であるが、ただし彼の描写では3月31日というのはラテン語頌歌第6番が発表された日付である[34]。以上の出典は事情の説明を多少異にするが、コンスタンティヌス1世とファウスタとの結婚の後ガレリウスとマクセンティウスの戦いが行われたという時系列は一致している。一方、レミィは9月にガレリウスがマクセンティウスに撃退された後、12月頃にマクシミアヌスとコンスタンティヌス1世が互いを正帝として承認し、コンスタンティヌス1世とファウスタが結婚したと説明する[36]。スカーはファウスタとの結婚について、厳密な時系列には言及しない[37]。
- ^ バッシアヌスの副帝任命を巡る事情についても、出典間で細部が異なるため以下にまとめる。ジョーンズはコンスタンティヌス1世がリキニウスの警戒心を和らげるためにバッシアヌスを副帝として自分の支配地を分割することを提案したが、リキニウスは自分の臣下でバッシアヌスの兄弟であったセネキオを利用してバッシアヌスをコンスタンティヌス1世から離反させようとしたため両者は対立に至ったと描写する[64]。ランソンはリキニウスが自身の側近であったバッシアヌスを副帝としてイリュリアに配置したが、コンスタンティヌス1世はバッシアヌスが陰謀をたくらんだことを理由に排除し、イリュリアに侵攻する口実としたとする[66]。スカーはリキニウスとコンスタンティアの間に生まれた息子リキニウス2世が将来副帝に就くことを妨害するために、義弟だったバッシアヌスを副帝としてイタリアの支配権を与える提案をしたと描写する[65]。
- ^ この3名の副帝即位は317年3月1日である。ただし、314年から戦争が始まったという時系列を採用しているジョーンズは315年には和平が成立し、コンスタンティヌス1世とリキニウスが同年の執政官(コンスル)職を共に担当したとする。317年3月1日まで「不明な理由」によりこの3名の副帝即位が延期されたとする[69]。ランソン、スカーの採用する時系列では和平から即位までの間にこのような時間差は想定されていない。
- ^ ジョーンズによればコンスタンティヌス1世はガリアとイリュリクムの兵力を中心とする練度の高い陸軍を120,000人、リキニウスは歩兵150,000人とフリュギア、カッパドキアから動員した騎兵15,000を集めたとされる[73]。ただし海軍戦力はコンスタンティヌス1世がガレー船200隻であったのに対し、リキニウスは350隻の艦隊を保持しており優勢であった[73]。ランソンは、コンスタンティヌス1世が騎兵10,000騎、歩兵120,000人と軍船200隻、輸送船2,000隻を持ち、リキニウスは165,000人の兵力を擁していたとするゾシモスの記録を紹介している[70]。ただし、ランソンは両軍の実数は確実にもっと少ないとしている[70]。
- ^ a b 尚樹によればこの諸局長官(Magister officiorum)の設置はコンスタンティヌス1世によるものである[75]。しかし、ジョーンズはリキニウスの宮廷における諸局長官の地位に言及している[74]。
- ^ a b 原語名と和訳の対応は尚樹 2005, p. 156の索引に依った。ランソンは実際にはコンスタンティヌス1世の治世中はこの組織は顧問会(consilium)と呼ばれており、consistoriumと呼ばれるようになるのはコンスタンティヌス1世死後であるとしている[80]。 本文中で枢密院としたのは尚樹の著作による。なお、consistoriumの日本語訳は一定しない。尚樹は「枢密院」と訳すが、ランソンの著作を訳した大清水は「御前会議」の語をあてている。
- ^ クリスプスの罪を考える上で、ジョーンズは326年4月1日にアクィレリアで発布された少女の誘拐について定めた奇妙な勅令を論拠に、クリスプスが無名の少女を誘拐して関係を持った可能性を推測している。この勅令は誘拐された少女がそれを進んで受け入れた場合、愛人と同じく罪を追うべきであり、拒否した場合でも(叫んで助けを求めることができたはずなので)なお罪を追うと定められている。そして少女の両親がこれを黙認した場合にはその両親も追放刑に処されるべきとされている[95]。更に仲介役を担った奴隷は鉛で口を封じられるべきであるともされている[95]。この勅令の具体的な内容、発布された日付、ヒステリックな調子から、ジョーンズはこれがクリスプスに関連して出されたものであり、クリスプスが無名の少女を誘拐し、彼女の両親がそれを妥協によって処理しようとした可能性を推測している[95]。クリスプスは既婚者であり、しかも同時期に妻帯者が妾を持つことを禁止する法律(或いはこの事件に関連して発布されたものである可能性もある)が出されていることから、これが事実とすればクリスプスの罪は単なる醜聞以上のものであった[96]。
- ^ この時代には幼児の洗礼は未だ習慣化されていなかった(幼児洗礼は、初めは非常時のみ行われていた。この頃には幼児洗礼を受けるものも増えていたが、これはキリスト教徒として生きるという重みを持った選択というよりは、将来キリスト教にしたがう予定という意味合いだった)。自らの意思で洗礼を受ける成人は、神の贖罪により身を守るという信心をはっきりと宣誓した。聴衆に洗礼を促す聖職者と洗礼を放棄した者との板ばさみになったりして、様々な理由から、年をとるか死の間際になるかまで洗礼を待つ者もいた(Thomas M. Finn (1992), Early Christian Baptism and the Catechumenate: West and East Syria および Philip Rousseau (1999). "Baptism", in Late Antiquity: A Guide to the Post Classical World, ed. Peter Brown)。
- ^ 大清水の訳では財産管理官[136]。
- ^ 大清水の訳では帝室財務総監[136]。
- ^ 大清水の訳では帝室財産管理官[136]。
- ^ 大清水の訳からは帝室財産総監となる[136]。
- ^ 大清水の訳では官房長官[136]。
- ^ コンスタンティヌス1世がこのような新たな戦略に基づいて軍団を再編したことは従来より通説となっている。しかしランソンは、この新たな編成は混乱していた階級秩序を正し、野戦機動軍、河川監視軍、アラレスやコホルタレスといった最下層の軍、という3段階のヒエラルキーを軍に確立することを主眼とした規定上の改革であり、地理的・戦略的な要素は無かったと主張している[139]。
- ^ 大清水の訳では宮廷警護隊[140]。
- ^ ランソン、およびスカーの解説では会計年度(4年ごと、lustrum)ごとに徴収されたとなっている。また、制定したのはリキニウスである可能性もあるという[146][147]。本文では尚樹、およびジョーンズの著書を訳した戸田が5年税という訳語を用いていることから、それに従った。
- ^ ただし、ネロ帝によるキリスト教徒への弾圧はキリスト教の信奉者それ自体を理由にしたものではなく、キリスト教への弾圧というよりは、政治的な理由によるものであった[160]。
- ^ シンボリスム的解釈では、十字(架)が太陽の象徴であるのに対し、逆さ十字(架)は金星(明けの明星)の象徴である。
- ^ ピーター・ブラウンなどはコンスタンティヌス1世の改宗はその頃までにキリスト教がローマの支配階級にとって重要な宗教になっていたためであると描写している[163]。しかし、日本の学者豊田浩志は、当時の史料において元老院身分の中に登場するキリスト教徒を抽出し、支配階層のキリスト教への改宗が4世紀、コンスタンティヌス1世の時代以降もなお限定的であったことを具体的な数値と共に示しており、またヴェーヌおよびジョーンズの解説も豊田のそれと整合的であるため[164][52]、本文の説明はこの見解に従う[165]。
- ^ 豊田浩志の紹介・要約による。
- ^ ヴェーヌはコンスタンティヌス1世の改宗についてその内心を知ることは不可能であり、それを推し量ることは無意味であると言う。彼によればその動機とは「心理学者たちが語るところの、あの開くことのできない『ブラックボックス』(もしくは、もしひとが信者なら、『助力の恩恵〔神の超自然の助け〕』)のうちに見いだされるものなのだ。宗教的な感情を覚えるとはひとつの情動であり、ある存在、ある神が実在するというむき出しの事実を信じることは説明不可能なままにとどまる表象行為なのである。」という[53]。
- ^ 和訳タイトル:『ローマ帝政の歴史』
出典
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関連項目
参考文献
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- ベルナール・レミィ 著、大清水裕 訳『ディオクレティアヌスと四帝統治』白水社〈文庫クセジュ 948〉、2010年7月。ISBN 978-4-560-50948-7。
- ポール・ルメルル 著、西村六郎 訳『ビザンツ帝国史』白水社〈文庫クセジュ 870〉、2003年12月。ISBN 978-4-560-05870-1。
- ポール・ヴェーヌ 著、西永良成 訳『「私たちの世界」がキリスト教になったとき コンスタンティヌスという男』岩波書店、2010年9月。ISBN 978-4-00-025774-9。
- E.R.ドッズ 『ギリシァ人と非理性』 岩田靖夫・水野一訳、みすず書房、初版1972年、復刊2007年ほか
- E.R.ドッズ 『不安の時代における異教とキリスト教』 井谷嘉男訳、日本基督教団出版局、1981年
- ピーター・ブラウン 著、宮島直機 訳『古代末期の世界 ローマ帝国はなぜキリスト教化したか? 改訂新版』刀水書房〈刀水歴史全書 58〉、2016年6月。ISBN 978-4-88708-354-7。
- ピーター・ブラウン 『古代末期の形成』 足立広明訳、慶應義塾大学出版会、2006年
- ピーター・ブラウン 『古代から中世へ』 後藤篤子編訳、山川出版社〈YAMAKAWA LECTURES〉、2006年
外部リンク
- 英語版ウィキクォートに本記事に関連した引用句集があります:Constantine the Great
- 英語版ウィキソースにはConstantine著の原文があります。
- ウィキメディア・コモンズには、コンスタンティヌス1世に関するメディアがあります。
- Constantine Iに関連する著作物 - インターネットアーカイブ
先代 フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス |
ローマ西方副帝 306年 - 312年 |
次代 なし |
先代 マクセンティウス |
ローマ西方正帝 312年 - 324年 |
次代 コンスタンティヌス朝へ |
先代 リキニウス(東方正帝) |
ローマ皇帝 324年 - 337年 |
次代 コンスタンティウス2世 コンスタンティヌス2世 コンスタンス1世 |