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1888年3月1日に最初の運営施設となる「{{仮リンク|イシス・ウラニア神殿|en|Isis-Urania Temple}}」が英国ロンドンに開かれた。続けて年内に[[サマセット州]]の[[ウェストン・スーパー・メア|ウェストン・スーパー・メア区]]に「[[オシリス]]神殿」が、[[ウェスト・ヨークシャー州|西ヨークシャー州]]の[[ブラッドフォード (イングランド)|ブラッドフォード市]]にも「[[ホルス]]神殿」が開設された。さらに主要団員の{{仮リンク|J・W・ブロディ=イネス|labe=ブロディ=イネス|en|John William Brodie-Innes}}が[[エディンバラ]]の地に「[[アメン]]・[[ラー]]神殿」を設立した。1892年にメイザースはロンドンを離れて[[パリ]]に移住し、そこで自身の「[[ハトホル|アハトル]]神殿」を立ち上げた。その後、アメリカ人参入者によって1900年までにいくつかの在米神殿が設立されたが{{sfn|江口|亀井|1983|pp=65-66}}、これに関して、メイザースは北米の参入者に対して金銭と引き替えに実力に見合わない高位階を授けていたのではないかという話がある{{sfn|キング|江口訳|1994|pp=134-135}}。そのうちの「[[トート]]・[[ヘルメース|ヘルメス]]神殿」は[[シカゴ]]に開かれた(この支部は後に{{仮リンク|ポール・フォスター・ケイス|en|Paul Foster Case}}を輩出する)。{{独自研究範囲|こちらはフランチャイズ的な組織であったようである|date=2019-05-27}}。 |
1888年3月1日に最初の運営施設となる「{{仮リンク|イシス・ウラニア神殿|en|Isis-Urania Temple}}」が英国ロンドンに開かれた。続けて年内に[[サマセット州]]の[[ウェストン・スーパー・メア|ウェストン・スーパー・メア区]]に「[[オシリス]]神殿」が、[[ウェスト・ヨークシャー州|西ヨークシャー州]]の[[ブラッドフォード (イングランド)|ブラッドフォード市]]にも「[[ホルス]]神殿」が開設された。さらに主要団員の{{仮リンク|J・W・ブロディ=イネス|labe=ブロディ=イネス|en|John William Brodie-Innes}}が[[エディンバラ]]の地に「[[アメン]]・[[ラー]]神殿」を設立した。1892年にメイザースはロンドンを離れて[[パリ]]に移住し、そこで自身の「[[ハトホル|アハトル]]神殿」を立ち上げた。その後、アメリカ人参入者によって1900年までにいくつかの在米神殿が設立されたが{{sfn|江口|亀井|1983|pp=65-66}}、これに関して、メイザースは北米の参入者に対して金銭と引き替えに実力に見合わない高位階を授けていたのではないかという話がある{{sfn|キング|江口訳|1994|pp=134-135}}。そのうちの「[[トート]]・[[ヘルメース|ヘルメス]]神殿」は[[シカゴ]]に開かれた(この支部は後に{{仮リンク|ポール・フォスター・ケイス|en|Paul Foster Case}}を輩出する)。{{独自研究範囲|こちらはフランチャイズ的な組織であったようである|date=2019-05-27}}。 |
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2019年5月29日 (水) 06:00時点における版
黄金の夜明け団の薔薇十字徽章 | |
略称 | GD |
---|---|
前身 | 英国薔薇十字協会 |
後継 | |
設立 | 1887 |
解散 | 1903 |
種類 | 秘密結社 |
本部 | ロンドン |
所在地 | |
首領 |
|
黄金の夜明け団(おうごんのよあけだん、The Hermetic Order of the Golden Dawn)は、19世紀末のイギリスで創設された西洋魔術結社である。黄金の暁会とも訳され、G.D.と略名される。現代西洋魔術の思想、教義、儀式、実践作法の源流になった近現代で最も著名な西洋隠秘学組織である。
創設者のウィリアム・ロバート・ウッドマン、ウィリアム・ウィン・ウェストコット、マグレガー・メイザース[注 1]の三人はフリーメイソンであったが、それとは一線を画して団内の運営は男女平等に定められており、補職と待遇に性差による区別を付けなかったことが特筆されている。この団体は建前上三層構造とされ、第一層の「黄金の夜明け」団は一般団員用で基礎教義を学び、第二層の「ルビーの薔薇と金の十字架」団[注 2]は幹部団員専用で高度な実践を行い、第三層は秘密の首領が在籍する霊的団体とされた。この三層の総称として黄金の夜明け団と呼ばれる。
誕生までの経緯
黄金の夜明け団の創設は、英国フリーメイソンのオカルト系サロン[注 3]である英国薔薇十字協会の会員ウィリアム・ウィン・ウェストコットが、1887年8月に知人より60枚の暗号文書を譲り受けたことに端を発する。
以下はウェストコットの供述となるが、この一連の文書が16世紀の書物『ポリグラフィア』記載の暗号法で書かれている事に気付いた彼は、早速解読に取り掛かったという[要出典]。同年9月に全ての復号化に成功したウェストコットは、文書の中にドイツ在住のアンナ・シュプレンゲルという人物の住所を見つけ、同時に返信を望んでいる一文も確認した。アンナと書簡連絡を取るようになったウェストコットは、彼女を伝説の薔薇十字団の教義を継承する偉大な魔術師であると認め、秘密の首領と仰ぐようになった。かねてより独自のオカルト団体を作りたいと考えていたウェストコットは、アンナ嬢との手紙のやり取りの中でその意志を伝えると、彼女からドイツ「黄金の夜明け団」(独: die goldene Dämmerung)の公認する支部設立の許可を受け取った。その教義は暗号文書の記載内容に則ったものと定められた。ウェストコットはこの秘密の首領のお墨付きを元に、友人マグレガー・メイザースと年長のウィリアム・ロバート・ウッドマンを共同創立者にして、1888年3月1日に神殿(テンプル)と称する魔術結社の運営施設をロンドンに開いた。以上が黄金の夜明け団の公式的創立譚である[注 4]。
こうして発足した黄金の夜明け団は、ドイツ薔薇十字団の流れを汲むものとされた。ウェストコットが運営面を担当し、メイザースは教義面を担当した。冒頭の英国薔薇十字協会の会長でもあるウッドマンは権威付けのための名義貸しのようなものであった。この三人は同時にアデプトとなり団体の首領となった。英国薔薇十字協会はキリスト教神秘主義のさらに深遠を扱うキリスト教秘儀派のサロンであり[要出典]、在籍者はフリーメイソンに限られていた。黄金の夜明け団は事実上その分派であったが、一般人でも入団できたことから組織的な繋がりはなく、また教義上の系譜も否定された。
神殿の開設
1888年3月1日に最初の運営施設となる「イシス・ウラニア神殿」が英国ロンドンに開かれた。続けて年内にサマセット州のウェストン・スーパー・メア区に「オシリス神殿」が、西ヨークシャー州のブラッドフォード市にも「ホルス神殿」が開設された。さらに主要団員のJ・W・ブロディ=イネスがエディンバラの地に「アメン・ラー神殿」を設立した。1892年にメイザースはロンドンを離れてパリに移住し、そこで自身の「アハトル神殿」を立ち上げた。その後、アメリカ人参入者によって1900年までにいくつかの在米神殿が設立されたが[8]、これに関して、メイザースは北米の参入者に対して金銭と引き替えに実力に見合わない高位階を授けていたのではないかという話がある[9]。そのうちの「トート・ヘルメス神殿」はシカゴに開かれた(この支部は後にポール・フォスター・ケイスを輩出する)。こちらはフランチャイズ的な組織であったようである[独自研究?]。
フリーメイソン限定であった英国薔薇十字協会と異なり、ウェストコットの意向で黄金の夜明け団は一般人にも門戸が開かれていた。またメイソン系とは一線を画して団内を男女平等にし、補職と待遇に性差による区別を付けなかった。団員は主に紹介と推薦によって集められ、また大英博物館周辺などでこれはと思った人物を勧誘することもあった。その際はフリーメイソンと英国薔薇十字協会のブランドが利用され、さらに興味を引いた人間には薔薇十字団の名も持ち出された。こうして設立から2年の間に文化人、知識人、中産階級を中心にして100名以上が加入した。
隆盛そして軋轢
1890年秋の時点で黄金の夜明け団には、ヴィクトリア朝社会の様々な階層から参加した100名以上の団員が在籍していた。アイルランド革命家兼女優モード・ゴン、小説家のアーサー・マッケンやアルジャノン・ブラックウッド、詩人フィオナ・マクラウドことウィリアム・シャープ、物理学者ウィリアム・クルックス、コンスタンス・ワイルド(オスカー・ワイルド夫人)といった当時の著名な文化人や知識人も一時的にせよ名を連ねていた。かのコナン・ドイルも勧誘されたことがあった。特筆すべき団員としては女優のフロレンス・ファー、ノーベル賞詩人W・B・イェイツがおり、フリーメイソンや魔術に関する書籍を濫造していた隠秘学者A・E・ウェイト、後に魔術師として名を成すアレイスター・クロウリー、ウェイト版タロットを作画した画家として知られるパメラ・C・スミスも団員であった。
1891年、ウェストコットは秘密の首領であるアンナ嬢からの連絡が途絶えたと団内で公表した。これは独自のスタイルで今後の教義と活動の幅を広げようとする意思表示でもあった。同年末に高齢の首領ウッドマンが死去した。1892年にメイザースは妻のモイナとともにパリへ移住し、そこで新たな秘密の首領との接触に成功したと発表した。ウェストコットはやや驚いたようで、この辺から団内のぎくしゃくが始まったと見られている。ウェストコットは対立を回避し、以後の教義はメイザースが全面的に作成することになった。1897年頃、ウェストコットは黄金の夜明け団の役職を辞し[10]、団との関係を絶った[11]。その理由ははっきりしないが、ロンドン警察の検死官であったウェストコットは、団員の誰かが辻馬車内に置き忘れた団内文書から、勤務先の当局に魔術結社との繋がりを知られてしまい、それで黄金の夜明け団から手を引くことを余儀なくされたのだ、という説がある[11]。その結果、パリ在住のメイザースが実質的に唯一の首領になった。メイザースはロンドンのイシス・ウラニア神殿の運営をフロレンス・ファーにまかせてイギリス側の代表とした。しかし、ファーを始めとするロンドンの団員たちは、メイザースの日頃の言動と頻繁な会議欠席に不満を募らせて、彼のリーダーシップに疑問を抱くようになっていった。
1899年、イシス・ウラニア神殿は団内の問題児であったアレイスター・クロウリーのアデプト昇格を拒否した。これに反発したクロウリーはパリにいる首領メイザースを頼った。1900年1月16日にメイザースはロンドン側への当てつけも兼ねて、パリのアハトル神殿でクロウリーをアデプトに昇格させた。ロンドンに帰還したクロウリーは、ファーたちにメイザースの昇格決定に従うよう要求した。ファーは断固拒絶し、問題が収束するまでのイシス・ウラニア神殿の閉鎖とイギリス代表辞任の意思を表明した。パリのメイザースは、ファーたちの背後でウェストコットが糸を引いていると疑うようになり、彼の信用を落とせばロンドン側を切り崩せると考えて、秘密の首領アンナ嬢の書簡はウェストコットの捏造であったと暴露した。これによって団内全体が紛糾することになった。ファーたちはウェストコットの回答も得た上で事態収拾の会合を繰り返し開き、3月3日にメイザースに対して捏造とする証拠の提示を求めた。この予想外の反応に困惑したメイザースは拒否という態度を取った。調停は決裂し、23日にパリのメイザースはファーの解任指示を出したが、逆に29日のロンドンの会議で首領メイザースの追放が決定された。憤激したメイザースは愛弟子であるクロウリーをロンドンへ派遣し、イシス・ウラニア神殿の保管庫にある重要文書と儀式道具を押収させて運営不能にするという型破りの作戦に出た。これは保管庫の所在地からブライスロードの戦いと呼ばれたが、建物に押し入ったところで当然のごとく通報されて失敗した。
分裂
ブライスロードの事件で黄金の夜明け団の確執と亀裂は修復不可能となった。イシス・ウラニア神殿は主宰者フロレンス・ファーの多数派と、E・W・ベリッジを中心とするメイザース支持派に分裂した。この内紛を傍観する立場であったホルス神殿とオシリス神殿はそのままメイザースの下に残った。ブロディ=イネス主宰のアメン・ラー神殿はファー派に合流した。こうして1900年6月の時点で黄金の夜明け団は、メイザース派とファー派に二分されることになった。
その後のファー派では新たな内輪揉めが発生したので、収束のためにW・B・イェイツが新しく代表に就任したが、数々の衝突に嫌気が差したイェイツは1901年に退団した。同年にホロス夫妻の詐欺事件にメイザースが巻き込まれて黄金の夜明け団の名称がスキャンダラスに報道されてしまったために、社会的体面を重んじるファー派は「暁の星」と改称した。直後にファーは退団し「暁の星」はブロディ=イネスとR・フェルキンが代表になった。1903年になると従来の教義に否定的であったA・E・ウェイトの派閥が「暁の星」から離脱して、「聖黄金の夜明け団」と称する団体を組織した[12]。儀式魔術に反発しつつ在籍を続けたウェイトは、自分の団体作りのためにイシス・ウラニア神殿を利用していたことになるが、いわく付きとなった黄金の夜明け名義を採用しているので一定の思い入れはあったようである[独自研究?]。ウェイトの独立劇で「暁の星」は多くの団員を失った。1906年にメイザースは黄金の夜明け団の幕引きを決めて、パリのアハトル神殿を本部とする魔術結社「A∴O∴」に組織再編した[要出典]。同じ頃、ブロディ=イネスはフェルキンの方針に不満を覚えてエディンバラへ帰還し、1907年に自身主宰のアメン・ラー神殿とともに「暁の星」を離れて、メイザースと和解した後に「A∴O∴」派へ合流した。さらに団員を失った「暁の星」はフェルキンの下で数々の混乱を経ながら続いた。
以上の経緯で黄金の夜明け団は分裂し、「暁の星」、「A∴O∴」派、「聖黄金の夜明け団」という黄金の夜明け系の3つの分派が鼎立する事態となった[13]。こうして元祖「黄金の夜明け団」は終焉を迎え、最終的にその教義は様々な形で受け継がれながらも歴史の中に姿を消したのである。一方で分裂の引金を引いたアレイスター・クロウリーは結局、メイザースとも仲違いした末に飄然と世界放浪へ旅立って帰還後の1907年に「銀の星」を結成した。
教義概要
黄金の夜明け団の教義は、古今東西の隠秘学知識の綜合体とも言うべきものある。ユダヤの秘教哲学であるカバラを中心にして、神智学の流れを汲む東洋神秘思想、エジプト神話学、グリモワール、古典元素、タロット、占星術、ジオマンシー、錬金術、エノク語、タットワを含むインド密教などあらゆる知識が習合されていた。ただし、彼ら英国人にとって親しみ易いはずのキリスト教神秘主義はある程度意図的に避けられていたようで、これは同時に一つの方向性を示している。カバラに内包される生命の樹が団内の聖典的な象徴図表とされ、上述の各分野から引用される多種多様な知識は生命の樹の各要素に対照させる形で分類され整理された。その中にはこじつけ的な照応も散見されるが、あらゆる隠秘学および神秘思想分野から蒐集された知識群の比較的高度な体系化が黄金の夜明け団教義の最大の特徴であった。
上述の知識群は、創設者をはじめとするアデプトたちが言わば自由研究的に持ち寄って考察を加えた後に、教義の方向性に沿う形で再解釈され、必要に応じて団内のカリキュラムに組み込まれた。魔術の研鑽に必要とされる様々な知識は、アデプトによってテキスト化されて秘儀参入者たちに学ばれた。団内ではアデプト一人一人の独自研究が奨励されており、それぞれの研究成果は「飛翔する巻物」と題された団内文書の各巻に編集されてアデプトたちの間で相互に閲覧された。この自由な知識探究の気風は団内の教義を発展させる原動力となったが、他方で迷走の一因にもなった。
団員たちは秘儀参入時に団内で得た知識を口外しないことを誓約していたので、その教義内容が公にされることはなかった。しかし、後継団体の度重なる分裂と内輪揉めにより、知識そのものの喪失を危惧したイスラエル・リガルディーが関係文書を書籍にまとめて公開出版するという手段に踏み切ったことで、それまで謎に包まれていた黄金の夜明け団教義の大部分が一般に入手できるようになった。この英断または独断は魔術関係者の間で大きな賛否を巻き起こした。なお、リガルディーは1969年に自宅を魔術マニアに荒らされ数々の貴重なコレクションを盗まれるという憂き目に合っている。魔術関係者の中にはこれを天罰と見る者[誰?]もいた[14]。
実践内容
黄金の夜明け団は儀式魔術を眼目にした団体であり、上述の教義知識はそのセレモニー(魔術儀式)の中で最大活用された。儀式魔術とは、舞台となる密室の設置から室内に細かく配置する大道具小道具の取り揃えおよび参加者それぞれの衣装と台詞と動作の一つ一つに特定の知識を伴うという特別な演劇を媒体にした秘教哲学の体現化芸術であった。儀式魔術の実践は団員の連帯感を高めると同時に、参加者たちの感性と知覚能力に一定の影響を及ぼすと信じられており定期的に履行された。
また、アストラル投射と称される夢見技法も持てはやされていた。黄金の夜明け団はこの夢見技法をマニュアル化しており、かなりの個人差はあったがそれなりの確率で白昼夢の世界に入り込むことができたようである。アストラル投射の手順とは、特定の象徴物を凝視しながら意識を集中し自分自身がその象徴の中に入り込むように想像力を強く働かせるというものであった。熟達するにつれて始めはむりやり想像していたイメージの実感が徐々に明確になり、ついには立体化した想像空間が意識の集中を離れて自動的に脳内で織りなされるようになる。それがアストラル旅行の出発点となった。スクライングとの違いは、より能動的に幻視された世界を動き回れることである。凝視する象徴物の組み合わせを変えることで、アストラル旅行の内容も様々に変化するという奥深さが多くのアデプトを虜にした。前述の生命の樹を中心にした象徴照応教義はこの時に最大活用された。ただし、情緒不安定を誘引するという副作用も指摘されており、多用は戒められていた。また、アストラル投射の中で時折得られる印象的な啓示や神託は、自我の肥大と過度の自己主張を引き起こす原因にもなって団体内に不和と軋轢を生じさせることもあった。
シンボル
黄金の夜明け団の儀式中に胸に装着されたデザインは、薔薇十字団、カバラ、メイザースによって教えられた色の象徴に基づいた紅い薔薇と黄金の十字架である。薔薇の22枚の花びらはそれぞれ異なる色で、ヘブライ文字の22文字の三母字。七複字。十二単字を表している。そして22本の小径にも対応している。薔薇の花びらの真ん中には死と霊的な復活を象徴する聖十字架がある。薔薇は十字架の上にあり、熟練者が心の中で金に変身しなければならない要素を象徴している。また五芒星は四元素に加えて本質を表している。
団員の位階
ウェストコットは黄金の夜明け団の位階を制定するに際し、英国薔薇十字協会の位階をほとんどそのまま持ち込んでいる。その最下位に「新参者」を新設し、最上位に「イプシシムス」(真の自己[15])を追加した。黄金の夜明け団の初位階である「新参者」とその上の4位階は暗号文書に依拠していたが、その4位階の名称は18世紀ドイツの黄金薔薇十字団のそれと一致していた[15]。英国薔薇十字協会の位階制度も黄金薔薇十字団の模倣であった[16]。魔術結社風のアレンジとして各位階を生命の樹の10のセフィラと22個の小径に対応させ、上昇=下降のペア階段値を付け加えた。「新参者」は生命の樹の枠外とした。入団者は「新参者」を出発点とし、それぞれの段階の昇格試験をクリアすることで上の位階へと進んだ。この黄金の夜明け団の位階制度は、後継魔術団体の手本とされて現代に到るまで踏襲され続けている。
11の位階は第一オーダー(外陣)、第二オーダー(内陣)、第三オーダーの三層に分割されており、それぞれ別グループに扱われて個別の団名を持った。黄金の夜明け団は建前上この三層構成とされた。外陣は一般団員用で、火・空気・水・土の四元素を学ぶ。ポータルは外陣と内陣の橋渡し段階であり、アデプト(達人)になる前の準備期間とされた。内陣に進むと晴れてアデプトとして認められた。内陣は幹部団員専用であった。当初は肉体を持ったままの魔術師が到達できるのは「アデプタス・マイナー(小達人)」位階までとされていたが、後継団体を含む後期になると幹部団員の中から特に根拠もなく「アデプタス・メイジャー(大達人)」昇格を宣言する者も現れるようになった。「アデプタス・イグゼンプタス(被免達人)」は創立者専用の名誉位階として用いられることが多い。第三オーダーはほとんど架空の存在であった。
階層 | 位階名(慣用) | 位階名(和訳) | 原語 | 数字記号 | セフィラ | 意味 | 四元素 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
第一団 「黄金の夜明け」団 (外陣) |
ニオファイト | 新参者 | Neophyte (ニーオファイト) | 0°=0□ | |||
ジェレーター | 熱心者 | Zerator (ゼラトル) | 1°=10□ | マルクト | 王国 | 地 | |
セオリカス | 理論者 | Theoricus (テオリクス) | 2°=9□ | イェソド | 基礎 | 風 | |
プラクティカス | 実践者 | Practicus (プラクティクス) | 3°=8□ | ホド | 栄光 | 水 | |
フィロソファス | 哲学者 | Philosophus (フィロソフス) | 4°=7□ | ネツァク | 勝利 | 火 | |
ポータル・グレード | 予科門 | ||||||
第ニ団 「ルビーの薔薇と金の十字架」団 (内陣) |
アデプタス・マイナー | 小達人 | Adeptus Minor (アデプトゥス・ミノル) | 5°=6□ | ティファレト | 美 | |
アデプタス・メイジャー | 大達人 | Adeptus Major (アデプトゥス・マヨル) | 6°=5□ | ゲブラー | 峻厳 | ||
アデプタス・イグゼンプタス | 被免達人 | Adeptus Exemptus (アデプトゥス・エクセンプトゥス) | 7°=4□ | ケセド | 慈悲 | ||
第三団 (秘密の首領たち) |
マジスター・テンプリ | 神殿の首領 | Magister Templi (マギステル・テンプリ) | 8°=3□ | ビナー | 理解 | |
メイガス | 魔術師 | Magus (マグス) | 9°=2□ | コクマー | 知恵 | ||
イプシシマス | Ipsissimus (イプシシムス)[注 5] | 10°=1□ | ケテル | 王冠 |
在籍した人物
- ウィリアム・バトラー・イェイツ - 1923年度ノーベル文学賞
- アーサー・エドワード・ウェイト
- アレイスター・クロウリー
- パメラ・コールマン・スミス - 画家
- アルジャーノン・ブラックウッド - 小説家
- アーサー・マッケン - 小説家
- ジョン・ウィリアム・ブロディ=イネス - 弁護士、小説家
- フレデリック・リー・ガードナー
- モード・ゴン - 女優、女性運動家
- フロレンス・ファー - 女優
- ロバート・ウィリアム・フェルキン - 医師
- アンナ・ド・ブレモン - ジャーナリスト
- エドワード・ウィリアム・ベリッジ - 医師、ホメオパシスト
- アラン・ベネット - 英国仏教協会創立者
- アニー・ホーニマン - 資産家、演劇の支援活動に従事
- モイナ・メイザース - アンリ・ベルクソンの妹、マグレガー・メイザースの妻
在籍が取り沙汰される人物
- ウィリアム・シャープ - 文芸ジャーナリスト
- グスタフ・マイリンク - 小説家
登場する作品
- アレイスター・クロウリー - 学園都市統括理事長。元世界最高最強の魔術師にして現世界最高の科学者。アニメ版の担当声優は関俊彦。
- 黄金夜明 - マグレガー・メイザース率いる勢力で、ウェストコット、ミナ=メイザース、ベネット、べリッジ、ホーニマン、イネス、フェルキン、ウェイト、ファー、ガードナーが登場する。
関連文献
- 『ロンドンを旅する60章』 (42章「魔都」ロンドン 執筆担当太田直也) 2012年、明石書店、ISBN 978-4-7503-3603-9
脚注
注釈
- ^ 江口之隆は「マサース」、ヘイズ中村は「マザース」、吉村正和は「マザーズ」とカナ表記している。
- ^ 原語はラテン語で「Ordo Rosae Ruberae et Aureae Crucis (R. R. et A. C.)」。「紅い薔薇と黄金の十字」の意。澁澤龍彦は「紅薔薇黄金十字」と翻訳[1]。
- ^ 英国薔薇十字協会はメイソン系薔薇十字団体のひとつである[2]。メイソンのみで構成された団体ではあるが、フリーメイソン組織ではなく[3]、メイソンリーに付属する秘教研究会のような存在であった(黄金の夜明け団とは異なり、魔術は研究対象ではなかった)[4]。
- ^ この創立譚はあくまで神話である。前述の暗号文書がウェストコットの偽造でないことは確実であるが、その入手経路について現代の研究者はウェストコットの主張を必ずしも額面通りに受けとっていない[5]。そして、その後に起ったシュプレンゲルとの文通はウェストコットの捏造であろうと考えられている[6][7]。
- ^ 「真の自己」を指す造語[15]。
出典
- ^ キング & 澁澤訳 1978, p. 90.
- ^ キング & 江口訳 1994, p. 31.
- ^ 吉村 2013, pp. 52.
- ^ 吉村 2013, pp. 62–63.
- ^ 吉村 2013, pp. 63–64.
- ^ 吉村 2013, p. 65.
- ^ Goodrick-Clarke 2008, p. 197.
- ^ 江口 & 亀井 1983, pp. 65–66.
- ^ キング & 江口訳 1994, pp. 134–135.
- ^ 江口 & 亀井 1983, pp. 75–76.
- ^ a b キング & 江口訳 1994, p. 55.
- ^ 江口 & 亀井 1983, pp. 91–93.
- ^ 江口 & 亀井 1983, pp. 93–94.
- ^ リガルディー編 & 江口訳 1993, 訳者解説.
- ^ a b c 吉村 2013, p. 67.
- ^ 吉村 2013, p. 73.
参考文献
- フランシス・キング『魔術 もう一つのヨーロッパ精神史』澁澤龍彦訳、平凡社、1978年。
- 江口之隆、亀井勝行『黄金の夜明け』国書刊行会、1983年。
- イスラエル・リガルディー編『黄金の夜明け魔術全書(上)』江口之隆訳、国書刊行会、1993年。
- イスラエル・リガルディー編『黄金の夜明け魔術全書(下)』江口之隆訳、国書刊行会、1993年。
- フランシス・キング『英国魔術結社の興亡』江口之隆訳、国書刊行会、1994年。
- 吉村正和『図説 近代魔術』河出書房新社、2013年。
- Gilbert, R. A. (1997). The Golden Dawn Scrapbook. Samuel Weiser
- Goodrick-Clarke, Nicholas (2008). The Wstern Esoteric Traditions. Oxford University Press
関連項目
外部リンク
- リガルディと「黄金の夜明け」
- 黄金の夜明け団ANIMA MYSTICA
- HermeticismKheper
- The Golden Dawn FAQ (original from 1990s Usenet groups)
- The Golden Dawn Library Project
- Golden Dawn entries in Llewellyn Encyclopedia
- Golden Dawn Tradition, by co-founder Dr. W. Wynn Westcott
- Photocopies and the translation of the original Cipher Manuscripts
- Lots of GD material on display in Yeats exhibition including Ritual Notebooks.
- The Golden Dawn Roll Call
- Golden Dawn - DMOZ
- Hermetic Order of the Golden Dawn: Biographies of Members