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'''江副 浩正'''(えぞえ ひろまさ、[[1936年]]([[昭和]]11年)[[6月12日]] - [[2013年]]([[平成]]25年)[[2月8日]])は、[[株式会社リクルート]]の創業者として知られる[[日本]]の[[実業家]]{{Sfn|馬場|土屋|2017}}。[[東京大学]]が生んだ最大の[[ベンチャー]]起業家と評されるが{{Sfn|馬場|土屋|2017}}、「[[リクルート事件]]」の[[贈賄|贈賄側]]人物としても知られる{{Sfn|馬場|土屋|2017}}。また[[奨学金]]財団として江副育英会を創設し理事長を務めた{{Sfn|馬場|土屋|2017}}。 |
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[[甲南中学校・高等学校]]を経て、[[東京大学]][[教育学部]]教育心理学科卒業。在学中に[[リクルートホールディングス]]を創業し、[[大企業]]に成長させた<ref name="Zinmeip449">『日本の創業者 <small>近現代起業家人名事典</small>』449頁</ref>。[[1988年]]([[昭和]]63年)1月会長に就任、同年6月に「[[リクルート事件]]」報道が始まり、[[1989年]]([[平成]]元年)2月に[[逮捕]]<ref name="Zinmeip449" />。リクルート裁判は14年間、開廷数322回に及び、日本の裁判史上記録的な数字であった<ref name="Zinmeip449" />。[[2003年]]([[平成]]15年)3月、[[執行猶予]]付き[[有罪判決]]を受けた<ref name="Zinmeip449" />。 |
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その後、人材育成を支援する財団法人江副育英会(現:公益財団法人江副記念リクルート財団)や執筆業、[[慈善事業]]などを通じて活動していたが{{Sfn|馬場|土屋|2017}}<ref>{{Cite web |date=2006-06-05|url=http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20060602/103432/|title=日経ビジネス リポート 江副浩正氏が語るリクルートのすべて「私には能力がない。だから、社員のやる気を引き出した」|publisher=日経ビジネスオンライン|accessdate=2016-06-08}}</ref>、[[2013年]]([[平成]]25年)2月8日、[[東京都]]内で死去<ref>[http://www.asahi.com/obituaries/update/0209/TKY201302080462.html 江副浩正さん死去 リクルート創業者、未公開株事件も] 朝日新聞 2013年2月9日付記事</ref><ref>{{Cite web |date=2013-02-09|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0900D_Z00C13A2000000/|title=江副浩正氏が死去 リクルート創業者・未公開株事件|publisher=日本経済新聞|accessdate=2013-02-09}}</ref>。 |
その後、人材育成を支援する財団法人江副育英会(現:公益財団法人江副記念リクルート財団)や執筆業、[[慈善事業]]などを通じて活動していたが{{Sfn|馬場|土屋|2017}}<ref>{{Cite web |date=2006-06-05|url=http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20060602/103432/|title=日経ビジネス リポート 江副浩正氏が語るリクルートのすべて「私には能力がない。だから、社員のやる気を引き出した」|publisher=日経ビジネスオンライン|accessdate=2016-06-08}}</ref>、[[2013年]]([[平成]]25年)2月8日、[[東京都]]内で死去<ref>[http://www.asahi.com/obituaries/update/0209/TKY201302080462.html 江副浩正さん死去 リクルート創業者、未公開株事件も] 朝日新聞 2013年2月9日付記事</ref><ref>{{Cite web |date=2013-02-09|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0900D_Z00C13A2000000/|title=江副浩正氏が死去 リクルート創業者・未公開株事件|publisher=日本経済新聞|accessdate=2013-02-09}}</ref>。 |
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大学在学中に[[東京大学新聞社|財団法人東京大学新聞社]]で企業向けの営業を覚えた江副は、[[リクルートホールディングス]]の前身である株式会社大学広告を設立{{Sfn|馬場|土屋|2017}}。起業時には、東京大学新聞編集部の先輩である[[森稔]]が経営する賃貸ビル「第2[[森ビル]]」の屋上に仮設事務所を借りて事業を行った{{Sfn|馬場|土屋|2017}}<ref name="nikkei20120313">森ビル会長森氏死去・粘りの交渉で超大型案件 『日本経済新聞』 平成24年3月13日朝刊 企業3面</ref>。大学広告は大学新卒者向けの「企業への招待」(リクルートブックの前身)を発行し、[[求人広告]]という業界の地位を大きく向上させた。 |
大学在学中に[[東京大学新聞社|財団法人東京大学新聞社]]で企業向けの営業を覚えた江副は、[[リクルートホールディングス|リクルート]]の前身である株式会社大学広告を設立{{Sfn|馬場|土屋|2017}}。起業時には、東京大学新聞編集部の先輩である[[森稔]]が経営する賃貸ビル「第2[[森ビル]]」の屋上に仮設事務所を借りて事業を行った{{Sfn|馬場|土屋|2017}}<ref name="nikkei20120313">森ビル会長森氏死去・粘りの交渉で超大型案件 『日本経済新聞』 平成24年3月13日朝刊 企業3面</ref>。大学広告は大学新卒者向けの「企業への招待」(リクルートブックの前身)を発行し、[[求人広告]]という業界の地位を大きく向上させた。 |
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2019年9月13日 (金) 15:49時点における版
えぞえ ひろまさ 江副 浩正 | |
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生誕 |
1936年6月12日![]() |
死没 |
2013年2月8日(76歳没)![]() |
出身校 | 東京大学教育学部 |
職業 | 実業家 |
配偶者 | 離婚歴あり |
江副 浩正(えぞえ ひろまさ、1936年(昭和11年)6月12日 - 2013年(平成25年)2月8日)は、株式会社リクルートの創業者として知られる日本の実業家[1]。東京大学が生んだ最大のベンチャー起業家と評されるが[1]、「リクルート事件」の贈賄側人物としても知られる[1]。また奨学金財団として江副育英会を創設し理事長を務めた[1]。
甲南中学校・高等学校を経て、東京大学教育学部教育心理学科卒業。在学中にリクルートを創業し、大企業に成長させた[2]。1988年(昭和63年)1月会長に就任、同年6月に「リクルート事件」報道が始まり、1989年(平成元年)2月に逮捕[2]。リクルート裁判は14年間、開廷数322回に及び、日本の裁判史上記録的な数字であった[2]。2003年(平成15年)3月、執行猶予付き有罪判決を受けた[2]。
その後、人材育成を支援する財団法人江副育英会(現:公益財団法人江副記念リクルート財団)や執筆業、慈善事業などを通じて活動していたが[1][3]、2013年(平成25年)2月8日、東京都内で死去[4][5]。
経歴
生い立ち
1936年(昭和11年)6月、江副良之、マス子の長男として母親の郷里の愛媛県越智郡波方村(現在の今治市)に生まれた[6]。父・良之は教師。良之の最初の赴任校、今治実科高等女学校の教え子が浩正の実母マス子(旧姓菊川)である[7]。
江副一家はその後、大阪市天王寺区上本町八丁目に移ったが、戦災によってこの家を失い、豊中市末広通二の二の借家に移転した[8]。
学生時代
豊中市立克明小学校から甲南中学・高校に進学。
当時、甲南に通う生徒は、高級住宅地の芦屋、御影に邸宅を構える資産家の子弟か、中流以上の家庭の子弟が大半で、数学教師の息子にすぎない江副のような生徒は、きわめて少数派の部類に属していた[9]。
江副は勉強でもスポーツでも飛び抜けたところはなく、同級生の間に印象らしい印象を残していない[10]。
江副以外は医大を目指す受験生ばかりで、東大受験を有利に運ぶため英語より受験生が少なく、問題も易しかったドイツ語を選択した[1]。このような行動をする生徒は異例中の異例だった。江副の東京大学合格は甲南の同級生たちの間でしばし話題となった[10]。
起業
大学在学中に財団法人東京大学新聞社で企業向けの営業を覚えた江副は、リクルートの前身である株式会社大学広告を設立[1]。起業時には、東京大学新聞編集部の先輩である森稔が経営する賃貸ビル「第2森ビル」の屋上に仮設事務所を借りて事業を行った[1][11]。大学広告は大学新卒者向けの「企業への招待」(リクルートブックの前身)を発行し、求人広告という業界の地位を大きく向上させた。
リクルートの創業10周年記念には、返済不要の奨学金制度、リクルートスカラシップを創設した[1]。
情報誌以外への進出
その後、不動産、旅行、転職情報などに進出した。営農事業のリクルートファーム(鹿児島県、後に岩手県)[1]、 リゾート施設の安比総合開発株式会社(安比高原スキー場)[1]、 住宅デベロッパーの環境開発株式会社(後のリクルートコスモス)[1]などを設立している。
東京の一等地の不動産に建物を建てるほどリクルートを成長をさせたが、新興企業であることで既存の大企業からは距離を置いて見られ、財界では孤立していた。財界でリクルートを注目させるべく政界を初めとして様々な業界との交流を深めようとしたが、それがリクルート事件のきっかけとなった。
リクルート事件
1988年(昭和63年)、いわゆる「リクルート事件」が発覚、国会での証人喚問に召喚された。同年、リクルート会長を退任。1989年(平成元年)2月に贈賄容疑で逮捕され、贈賄罪で起訴。担当検事からは「壁を向いて立っていろ」等の屈辱的な取り調べを受ける[1][12]。
リクルート事件における東京地裁での公判回数は322回であり、東京地裁での公判回数としては歴代1位である。検察側が提出した江副の供述調書に対して弁護側がことごとく違法性を主張することなどを始め、検察・弁護双方が争点が大きくなり、市販の解説書を読めば分かることまで証人尋問を求めるなど、公判が紛糾したためである。判決では大小53に上る争点について書かれた。
2003年(平成15年)に東京地裁にて懲役3年執行猶予5年の有罪判決を受け、被告人・検察とも控訴せず同判決は確定。
また、リクルート事件発覚後の1988年(昭和63年)8月には、自宅玄関に一発の銃弾が打ち込まれ、後の犯行声明によって当時一連の右翼テロ事件(赤報隊事件)の一つと判明した。
晩年
1992年(平成4年)、ダイエー(現・イオン)はリクルート株の約10%を取得して傘下に収め、同株を売却した江副は約400億円の売却益を得られたとされた[13]。その多くは江副の個人債務の返済に消えている[1]。
1971年(昭和46年)にヴィンチェンツォ・ベッリーニの『ノルマ』を観て以来のオペラ愛好家でもあり、2001年(平成13年)からオペラの興行団体「株式会社ラ ヴォーチェ」の代表を務める他[1]、新国立劇場東京オペラシティの支援に尽力している。
リクルート事件に関しては長らく心の傷を引きずり、その多くを語ることはなかったが、2009年(平成21年)の手記『リクルート事件・江副浩正の真実』で初めて当時の心情を縷述した。
2013年(平成25年)2月8日に東京都内で死去、享年76。
エピソード
- 江副のスキーの腕前はプロ級であり、安比高原スキー場(岩手県)を1981年(昭和56年)に開業したのもリクルートである[1][14][15]。リクルート社顧問デザイナーの亀倉雄策も筋金入りのスキーヤーであり、安比高原開発時には亀倉があらゆるデザインを一手に引き受けた[1]。
- ピーター・ドラッカーの著書『想像する経営者』に感銘を受けた江副は『リクルートの経営理念とモットー十章』を作成し、その中でも代表的な言葉である「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」を印字した青いプレートを、社員全員の机に置いて回った[1]。
家族・親族
江副家
- 父・良之(教員)
- 1903年(明治36年)7月佐賀市赤松町で生まれた[7]。1923年(大正12年)佐賀中学から同校の物理の助手を経て九州帝国大学に併設された第八臨時教員養成所に進んだ[7]。同所を卒業後今治実科高等女学校(現今治明徳高等学校)教諭として以後52年間にわたる教員生活のスタートを切った[7]。最初の赴任校今治実科高等女学校の教え子が浩正の実母マス子(旧姓菊川)である[7]。良之は長野県立飯山中学、大阪府立茨木中学、桃山中学、北野中学、大阪市立第七商業学校、大谷女子高校と人並み以上に職場をかえた[7]。かつての上司によれば良之がよく職場をかえたのは彼の狷介な性格によるところが大だったという[7]。1981年(昭和56年)6月5日、77歳の生涯を閉じる[7]。
- 母・マス子(旧姓菊川)
- 今治実科高等女学校の卒業時、総代で答辞を読んだマス子は、大阪の大丸デパートに勤めていたが、そこで偶然、母校の教師だった良之と再会をしたことが結婚のきっかけとなった[16]。愛媛の実家で浩正を生んだマス子はその後良之に言われるまま夫の故郷の佐賀市赤松町で過ごした[16]。マス子が3歳になる浩正を連れて大阪に帰ったのは1940年(昭和15年)春のことだった[16]。だがマス子は夫良之の許に身を寄せたわけではなかった[16]。当時良之はダンサーと同棲まがいの生活を始めていた[16]。マス子は仕方なく製鉄会社に勤める兄の家に身を寄せる他なかった[16]。マス子が大阪に戻ったことを知った良之は妹をよこして浩正だけを天王寺の家に連れ帰るという暴挙に出た[17]。マス子は一方的に離縁を申し渡された[17]。
著書
- 『リクルートのDNA 起業家精神とは何か』 角川書店、2007年3月 ISBN 978-4-04-710087-9
- 『かもめが翔んだ日』朝日新聞社、2003年10月 ISBN 978-4021000812
- 『不動産は値下がりする! 「見極める目」が求められる時代』 中央公論新社、2007年8月 ISBN 978-4-12-150252-0
- 『リクルート事件・江副浩正の真実』中央公論新社、2009年10月
評伝
- 馬場マコト; 土屋洋『江副浩正』日経BP、2017年12月。ISBN 978-4822258689。
- 佐野眞一『あぶく銭師たちよ!―昭和虚人伝』筑摩書房、1999年。ISBN 978-4480034458。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 馬場 & 土屋 2017.
- ^ a b c d 『日本の創業者 近現代起業家人名事典』449頁
- ^ “日経ビジネス リポート 江副浩正氏が語るリクルートのすべて「私には能力がない。だから、社員のやる気を引き出した」”. 日経ビジネスオンライン (2006年6月5日). 2016年6月8日閲覧。
- ^ 江副浩正さん死去 リクルート創業者、未公開株事件も 朝日新聞 2013年2月9日付記事
- ^ “江副浩正氏が死去 リクルート創業者・未公開株事件”. 日本経済新聞 (2013年2月9日). 2013年2月9日閲覧。
- ^ 佐野眞一『あぶく銭師たちよ!―昭和虚人伝』10頁によれば「戸籍上の出生地は、大阪市天王寺区上之宮町∞番地である。夫婦の間には女の子が生まれていたが、生後半年で肺炎にかかって死亡していた」という。
- ^ a b c d e f g h 佐野眞一 1999, p. 12.
- ^ 佐野眞一 1999, p. 11.
- ^ 佐野眞一 1999, p. 18.
- ^ a b 佐野眞一 1999, p. 19.
- ^ 森ビル会長森氏死去・粘りの交渉で超大型案件 『日本経済新聞』 平成24年3月13日朝刊 企業3面
- ^ 江副はのちに担当検事を自身が主催するオペラに招待した(馬場 & 土屋 2017)
- ^ “リクルートHD上位株主に故・江副氏、約506万株を保有 150億円超”. zakzak (2014年10月7日). 2016年9月1日閲覧。
- ^ “江副さん、安比に顕彰碑 スキー場近く”. 読売新聞. (2014年6月3日)
- ^ “「安比」築いた青年社員”. 読売新聞. (2015年2月13日). オリジナルの2016年12月時点におけるアーカイブ。 2016年9月4日閲覧。
- ^ a b c d e f 佐野眞一 1999, p. 15.
- ^ a b 佐野眞一 1999, p. 16.
- ^ 佐野眞一 1999, p. 37.
外部リンク
ビジネス | ||
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先代 |
リクルート社長 初代 : 1963年 - 1988年 |
次代 位田尚隆 |