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2019年10月1日 (火) 13:08時点における版

さいとう かずみ
斉藤 一美
プロフィール
出身地 日本の旗 日本 東京都渋谷区
生年月日 (1968-03-24) 1968年3月24日(56歳)
血液型 B型
最終学歴 早稲田大学 商学部
勤務局 文化放送
部署 放送事業局 制作部 アナウンス ルーム
活動期間 1990年 -
ジャンル スポーツ・情報系
配偶者
著名な家族 斉藤佑太(山形テレビアナウンサー)
公式サイト 公式プロフィール
出演番組・活動
出演中斉藤一美 ニュースワイドSAKIDORI!
出演経歴斉藤一美のとんカツワイド
FRIDAY SUPER COUNTDOWN 50
文化放送ライオンズナイター』実況

斉藤 一美(さいとう かずみ、1968年3月24日[1] - )は、文化放送の男性アナウンサー東京都渋谷区生まれの墨田区育ち[1]。墨田区立鐘淵中学校[2]早稲田実業学校[3] 高等部商業科、早稲田大学 商学部[1]。 息子に山形テレビアナウンサーの斉藤佑太がいる[4]

来歴

  • 1990年4月、文化放送にアナウンサーとして入社[5]
  • 1993年4月、平日帯 夜ワイド番組『斉藤一美のとんカツワイド』のパーソナリティを務めた。同年 4月にスポーツ アナウンサーとして、スポーツ部に転属することが決まっていたが、同年2月に『とんカツワイド』担当が決まったため、スポーツ部には3週間居ただけで、アナウンス部に戻された[6]
  • 1995年にはソニー・ミュージックレコーズから、元アイドルグループCoCo宮前真樹羽田惠理香とのユニット「サイコガルバノメーター[7]」名義で『USSO』[8]、アイドル グループ「ブカブカ」とのタイアップで「ブカブカ with KAZUMI SAITO」名義で『NA・N・DE?[9]、『NA・N・DE? REMIX』[10] をリリースした。また、栗山米菓から『USSO』『NA・N・DE?』をモチーフとした、せんべい「ウレセン」も発売されていた[11]
  • とんカツワイド終了後の1997年4月より、スポーツ部へ異動。スポーツ アナウンサーとして、プロ野球 実況、スポーツ実況を担当する。熱い一面を持ち、興奮し、絶叫したりすることがあった。[12]
  • 文化放送の平日帯 夕方ワイド番組『斉藤一美 ニュースワイドSAKIDORI!』のキャスターを務めることが2016年11月に発表され、『ダッシュ斉藤 中6日!』の番組終了を以て、スポーツ アナウンサーを退いた。

人物

  • 子供の頃、最初になりたかった職業は外科医。祖母が手術したのにもかかわらず、亡くなったことで「どんな病気も治せる医者になりたい」と思い出したことからである。ただし、医者は大学など学んでいく過程で多額の資金が必要だと知ったことから挫折[6]し、朗読を褒められたり、人前で歌うことが好きだったことから、歌手俳優になりたいとも思うようになる。しかし、鏡を見て「こんな顔では…」と思ったことから、小学5年生の頃に諦めた[6]。その頃、アナウンサーとして、久米宏古舘伊知郎に憧れ、中学2年生の頃から『吉田照美のてるてるワイド』を聴き出したことから、吉田照美にも憧れるようになり、「アナウンサーなら、こんな顔でもなれる」と思い出したことから、アナウンサーを目指すようになる[6]
  • 高校時代はラグビーをやっていた[6]。助っ人として出た(ラグビー部の補欠は相撲部に駆り出される伝統であった)相撲の都大会で準優勝し、関東大会で2回戦まで進出した[5]
  • 大学進学後もアナウンス研究会などに所属することはせず、高校生時代から引き続き、ラグビーサークルに所属[6]。就職活動を始めるに当たり、アナウンスの勉強を全くしていなかったことに気付き、愕然とした[6]TBS日本テレビなどを受験したこともあったが落選[6]した。そんな中、文化放送アナウンス講習会のことを知り、参加。入社のきっかけを掴むようになる[6]
  • 大の埼玉西武ライオンズファンで知られ、文化放送に入社した理由は「『文化放送ライオンズナイター』を実況するため」と豪語する。元来、読売ジャイアンツのファンで[13]、文化放送入社後に鞍替えした。1999年4月7日の対日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)、松坂大輔の初登板試合でライオンズナイターでの実況デビューを果たしている。
  • かなりの泣き虫で、とんカツワイド最終回や、1998年に千葉ロッテマリーンズが18連敗を喫した時(黒木知宏オリックスプリアムに9回裏2死から同点本塁打を浴び、連敗阻止が消えた瞬間)・2002年8月16日の対大阪近鉄バファローズ戦で、西武ライオンズが3回表終了時点で0-9のビハインドを逆転して勝利しマジック34が点灯した時・2012年4月26日の対福岡ソフトバンクホークス戦で9回表2アウト満塁から米野智人が逆転満塁本塁打を打った時に号泣している。2006年に母校・早稲田実業が第88回全国高等学校野球選手権大会で優勝した際は現地取材を担当したが、その時も号泣している[14]。また、斉藤一美のS/N/A/Pでは「泣かせる話」を聴取者から募り、斉藤を大泣きさせるという企画があった。
  • とんカツワイドの最終回で番組の最初から最後まで、泣きっぱなしだったことについては「悔し涙だった」と話している。同番組に吉田照美をゲストに迎えた時、吉田から「チャンスの波は必ずやってくる。その波を掴められるかどうかで、その人の人生が決まる。だから、掴められるように頑張れ」と言われ、この言葉を踏まえ「(とんカツワイドの)最後の1年で喋り手として一段、ステップアップした感覚があり、ようやく波を掴むことが出来た。最初から、その波を掴んで、毎回が最終回のつもりで真面目に向き合った喋りをすることが出来たら、番組が長続きしたかも知れないのに」と思ったとの事。同番組の第1回目も泣いて始まったとも語った[6][13]
  • さまぁ〜ず大竹一樹とは小学校、中学校の同級生である[2]
  • 自称プロレスマニア。「うるわしの夜」で鬼嫁のイメージがついている北斗晶に「デンジャラスクイーン」と言われていた頃の話を聞いたり、蝶野正洋武藤敬司を独断で呼ぶなど同時間帯(午後6時代)ではあまりターゲットとしていない層の人を呼ぶなどしている。
  • ポケットモンスターシリーズ、ドラゴンクエストIXONE PIECEにはまっていることを公言している。また、ブログでは映画やテレビドラマ、小説などの感想もつづっている。

エピソード

  • 『吉田照美のてるてるワイド』のリスナーだった頃に、同番組の金曜日のコーナー『ルミちゃん・ザ・ものまね』に電話出演し、プロレス ファンであったことから、藤波辰爾の息づかいとタイガー・ジェット・シンの息づかい、最後に水谷豊の息づかいという「三段落ち」で物真似を演じた。斉藤曰く「照美さんはプロレスにあまり詳しくなかったのか最初はウケが良くなかったが、水谷豊さんで笑ってくれた」とのこと[6]
  • レポーターとして、熱狂的な千葉ロッテマリーンズファンの陣取る外野スタンドで、多くの取材をしてきた関係から、マリーンズへの思い入れも強い。
  • ライオンズナイターでの実況デビュー前から『NACK5 SATURDAY&SUNDAY LIONS』の実況もしていた。
  • 2000年代後半、斉藤はほぼ月1回の割合で「ホームランナイター」での巨人戦を実況する事があったが、彼が実況した試合において、巨人が勝った事はあまりない。このため「斉藤一美が、巨人戦を実況すると、巨人は勝てない」と言われている。本人はブログで「ハッハッハ (☆▽☆ )片腹痛いわ!それは巨人ではないぞっ!西武ですって°・(ノД`)・°・」と否定している[15]
  • 『NACK5 SATURDAY&SUNDAY LIONS』を担当していた際は、ゲストに渡辺美里を迎えた時に、斉藤の野球実況で盛り上がったきっかけとして、渡辺美里の西武スタジアムライブに特別出演し、渡辺美里の楽曲(アルバム)の中でも実況をしている。文化放送が、2005年の西武スタジアムファイナルライブの特別番組を放送した時の聞き手も、斉藤だった。
  • 2006年8月、母校である早稲田実業学校が夏の甲子園で優勝した際、阪神甲子園球場にレポートに行き、母校の優勝に感動し号泣。その様子が『吉田照美のやる気MANMAN!』内で放送された。
  • Wikipediaの当項目(本人)もしくは、その担当番組の項目をチェックしていると思われる発言が、ブログや番組内でなされることがある[要出典]
  • プロ野球ファミスタオンラインの全国大会では、実況を行っている(ゲーム内に実況が収録されているのではなく、ゲーム画面を見ながら生実況を行う)。
  • 2010年に日本野球機構のwebサイトにおいて、「最高の試合」に2008年の日本シリーズ第7戦、「名場面・名勝負」に前述の松坂大輔デビュー戦の1回裏、片岡篤史を三振に取った瞬間を挙げている。どちらも実況を担当した試合である[16]
  • 2012年にスポーツアルバム中島裕之Ⅲにおいて埼玉西武ライオンズ中島裕之の2012年について寄稿した。
  • 実況アナウンサーとしての技量を買われ、台湾映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』では台湾全島大会の決勝戦ラジオ中継の実況アナウンサー役を務めた。[17]

現在の担当番組

過去の担当番組

ラジオCM

脚注

  1. ^ a b c 一美のはだかのオレ様
  2. ^ a b 斉藤一美twitter 2011年3月10日(2017年4月13日閲覧)
  3. ^ パーソナリティ紹介”. 斉藤一美 ラジオかぶりつき. 文化放送. 2017年4月13日閲覧。
  4. ^ 斉藤一美Twitter2019年4月7日(同日閲覧)
  5. ^ a b 月刊ラジオパラダイス 1990年6月号「全国新人アナウンサー特集’90」(p.16)
  6. ^ a b c d e f g h i j k ラジオライフ三才ブックス)2017年5月号「斉藤一美 DJ interview」(p.12 - 15)より。
  7. ^ 嘘発見器。ポリグラフの意
  8. ^ 品番 SRDL-3983
  9. ^ 品番 SRDL-4024
  10. ^ 品番 SRCL-3317
  11. ^ 一美のはだかのオレ様 本人ブログトップページ 出版物
  12. ^ そのことは本人も認めている。[1]
  13. ^ a b 斉藤一美(文化放送)/乙女やきゅう探訪”. プロ野球完全速報Plus (2015年2月13日). 2017年4月13日閲覧。
  14. ^ 一美のはだかのオレ様(「母校、悲願の№1!」2006年8月21日)より
  15. ^ 一美のはだかのオレ様 2008年10月27日 僕のせいではないのだけれど
  16. ^ テレビ・ラジオ局|報道関係者|「最高の試合」「名場面・名勝負」|2010年NPBスローガン「ここに、世界一がある。」スペシャル コンテンツ
  17. ^ 映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』公式サイト スペシャル トリビア前編2015年2月27日閲覧
  18. ^ ライオンズナイターは上記の理由により、ほぼ毎週1回、実況を担当していた。2008年以降はホームランナイターのチーフ プロデューサーとして、ホームランナイターの実況機会も多かったが、2011年度、2012年度は裏送りや予備カード、西武戦デーゲームのWeb実況が中心であった。2013年度より、ホームランナイターの実況機会が増加していた。
  19. ^ ライオンズナイターは2011年度のプロデューサーも担当。30周年記念として、様々な企画を立案した。

外部リンク